「悪くはありません。少なくとも、このレースくらいは問題ないでしょう」
「どれだけ使う」
「そう、ですね…。まあ、今のところは一つで良いでしょう」
「…増やす気か?」
「必ずではありません。もしも想定を超えてきたのなら、です」
「……。そうか」
「寧ろ少し楽しみですよ。私を選んでまで挑戦しようという気概。好ましい方です」
「ならいい。好きにしてこい」
「分かりました。……ところで、チームの子達は?」
「一人残らず観戦拒否だ。態々見物してまで普段の地獄見たくねえってよ」
「……。今度の『ウマ追い』は全員参加としましょうか」
「それが原因だろ」
漏れたのは自分の声なのか、それともトウカイテイオーなのか。
どう繋がっているのかも分からない骨の指が引き金にかけられたのを見た瞬間。霧散した姿の先に既に開かれたゲートがあった。
理解と動きが追い付かないまま、ゲートを飛び出した赤い尾とジャージの後ろ姿が視界の中心へと移動。そしてそのまま離れていく。
「――――ッ、っな!?」
出遅れた。
状況を理解し動き出すのはトウカイテイオーの方が早かったらしい。足を踏みしめ前進を開始したナイスネイチャの視界の端で、僅かにそこから前の位置に走り出す姿が見えた。
『なっ、なんと言う事でしょう!? 二人揃っての出遅れ! スタートワンが圧倒的に距離を離して先頭に立ちました!』
観客席から聞こえる大きなどよめき。実況の声からしても、自分達が致命的なまでの遅れを取っている事が分かる。
何が起こったのか分からない。整理している時間も無い。既に始まったレースの中で、ナイスネイチャはそれでも冷静になろうと頭を回す。
先頭を走るのはスタートワン、遅れて凡そ五バ身をトウカイテイオー、更に一バ身程後ろを自身が走っている。出遅れを補おうとしたのかやや速度が出ていたトウカイテイオーも、少しして冷静になったのか足を緩める。それぞれの位置関係は結局殆ど変わらないまま、改めてレースが始まった。
まだ序盤である事を考えれば決して焦る事は無いのだが、ここでもスタートワンという不可解な存在が思考を乱す。
「話と、違うじゃん……?!」
思わず漏れる困惑。先頭を行くスタートワンの足は一切乱れていない。中盤にも差し掛かっていないのは確かだ。しかしそれ以上に理解が追い付かない。
彼女の走法は追い込み、それも一度先頭に立ってから落ちてくる特殊な走りの筈だ。前につける事は余程の例外を除けばまず無い。今回のレースも当然、自身の最も得意な展開を優先すると思っていた。
『速い速い、スタートワンがドンドンと速度を上げていく! 最早大逃げの体勢だぞ!?』
『彼女がここまでスタミナを気にせず走るのは珍しいですね。何か意図があるのか、それともこの速度でも勝算があるという事なのでしょうか』
『トウカイテイオーも追う! ナイスネイチャも追う! しかし上がる上がる、スタートワンが更に上がっていく!』
「なに、あれ…!?」
スタミナの温存をしなければ中距離以上を走れない。そういう話だった筈だ。どうしても前で走らなければならない時も、基本は温存を意識して走る。その筈。
ならば、今目の前で起こっている事はなんだ。あれでは逃げも良い所、大逃げどころか、昔言われた「テレビウマ」と同じだ。勝つ事を考えていない諦めの走り。『死神』程のウマ娘が何故そんな事を。
疑問はトウカイテイオーも感じているのだろう。加速を続けるスタートワンを追いながらも、その足に力が入りきっていない。このまま追っていいのかという不安がそれ以上の加速を避けさせているようだった。
しかし距離を離されるという事はそのまま逃げ切られる可能性に繋がる。追いたく無かろうとも、追わなければならない。
少しずつ状況がスタートワンの思い通りになりつつあるのを認識しながら、それを打開する方法が無い。
ナイスネイチャの困惑を嘲笑うかのように、状況は更に乱れていく。
再び、熱が身体を襲う。感じる箇所は背中。
『EXECUTE→Don't Stop RUN』
居る。真後ろを追ってくる。
「――ッ、これ、が…!?」
足が早まる。緩めなければという意識を追い立てる炎が強引に押し潰している。反射的な本能が理性の指示を無視していく。
バックストレッチを進む。見て分かるほどに三人揃って呼吸が荒くなり始めていた。しかし一人として足を緩める事は無い。ただただ、これから迎える破滅に必死になって抗っていた。
領域とは、極めて少数のウマ娘がレースの中で発現させる特異な力。桁違いの能力を発揮する事を可能とする特別な者達だけが使える切り札。
使えるだけでウマ娘としては最高峰と言っても良い才能の一つ。しかし彼女の持つそれは唯一と言って良い程に他の領域と逸脱し。スタートワンが走りを拒まれると言われる理由。その最たるものと言われていた。
あのシンボリルドルフをして「出来るなら使わせたくない」とまで言わしめる暴威の象徴。間近に受けてみて分かる、その真意。
彼女が走っているのは前方、にも関わらず領域の権現はつかず離れずただ後ろ。それぞれを追っている。銃口を揺らし、真っ直ぐ後頭部を狙おうとしているのを嫌でも脳裏に刻まれる。
脈打つ心臓の音が足音を、歓声を塗り潰す。熱に焦がされる身体の、内側が凍り付いていく。耳にこびりつく荒い息、奥歯の擦れ合いは、髑髏のものか己のものか。
“さあ逃げろ、やれ逃げろ。逃げ切れなければどうなるか、それをお前は知っているだろう”
聞こえる筈の無い笑いがせりたてる。足を緩め息を入れなければならない。分かっているのに、足が止められない。止めるという判断が働かない。
「止まればどうなるか」。領域が語るその
「こんなの、どうすれば……!」
残る距離が半分を切った。前方のスタートワンの動きが明らかに鈍ってきている。しかしそれはナイスネイチャもトウカイテイオーも同じ。全員が一律に、目前に迫る限界に対しただ手をこまねいていた。開いていた距離も縮まる事は無く、どころかスタートワンとトウカイテイオーの間だけで七バ身はある。
炎の幻覚は今も続いている。どれだけの間背が焦がされているのか最早分からない。
…………それでも、活路は無いわけではない。
領域にはいくつかの制限がある。その一つに『長時間の使用は出来ない』というものがある。高い集中状態を維持しなければならない領域は、使用する程にその維持が難しくなる。十秒以上保てば御の字、学園の最高峰たちでさえ切り所を間違えれば勝利は不可能だとさえ断言する諸刃。それが領域だ。
スタート時点からの発動を鑑みれば、使用時間は既に30秒以上。それだけでも絶句する程の長さだが、逆に言えば何時集中が途切れてもおかしくはない。
足は相変わらず動き続ける。加速出来る限界を迎え速度は落ちてきたが、同時に炎の勢いも落ち、頭を回す余裕が出来てきた。間違いなくスタートワンの集中が途切れてきている証拠だ。後は彼女の領域が閉じるのをじっと耐えるだけ。勝機は消えていないのだ。
ナイスネイチャは耐える。
残る距離が1000を切る。
領域は消えない。
耐える。
残り900を過ぎた。
領域は消えない。
耐える。
800。
消えない。
耐える。
700。
消えない。
残り3ハロンに差し掛かる。
領域が……消えない。
「なんで……!?」
落ち着きつつあったナイスネイチャの思考が再び乱れる。始まったのは序盤も序盤。それから既に一分さえ通過した。
一分だ。1000メートルを走るまでの間、スタートワンは全く領域を緩めていない。それだけの間維持をしながら、彼女はひたすらに逃げ続けている。
領域の知識が浅くても分かる。保つ筈が無い。それもこれだけの距離。この逃げ続ける状態。異常なまでの集中力、そして類稀なスタミナと逃げきれるだけのスピードでもない限りは。
そこで気付く。
何かおかしい? 勘違いをしている?
領域を開いたのはゲートが開く直前。まるで猫だましのように二人を惑わせた。そこから一分以上継続しての発動。……思い出せば、彼女はこれをゲートが開く直前に使っていた。それから二度目の炎が燃え盛るまで、明らかに時間的な間が存在している。一度の使用では無い。二度。
スタートワンは、二度領域を使用している。しかもそれは、一瞬だけの使用と現在までの使用。その長さが全く違う。
領域が使えないナイスネイチャにも、幾つか知っている事はある。
使用者は極めて限られる事。発動には一定の条件がある事。使用時間は決して長くない事。一度のレースに二度は使えない事。
彼女は異なる状況で二回領域を開き、その長短を変えている。使用限界は――――最短で一分以上。
熱されるままに凍えるナイスネイチャの背を不快な衝撃が這う。
自在。スタートワンの領域は、時間、環境、条件その他一切の制限を受けない。使いたい時に使い、閉じたい時に閉じる。
ゴール板を越えるまでの間自分達を恐怖で足止めする事も不可能ではないという、彼女からの脅し同然の行為だった。
無理ゲーじゃんこんなの!!
そう叫ぶ事すら呼吸の乱れた現状では出来ず。ナイスネイチャは極限の疲労でもつれかける足を必死になって動かす。
何故スタートワンがあれほどまでの大逃げを行ったのかようやく理解した。前残りすればスタミナの事など考える必要が無くなる事と……そこまでに自分達を完全に削り切れる算段があったから。
事実、既にナイスネイチャの体力は限界直前の所に居た。最終コーナーもようやくという程の距離、残り3ハロンを切った所で遅く気付いてしまった。この状態では勝つ事はおろか完走する事さえも危険な賭け。だというのに、速度を落とすという選択を身体が拒み続ける。
恐怖への麻痺。必要以上の酸素の消費と判断力を奪われ続けた事が重なる。身体は既に限界だと過剰なまでに警鐘を鳴らし続けているというのに、それに合わせるための行動を脳がうまく処理出来ない。
あまりに長過ぎた思考と行動の不一致が、最終直線も間近という状況で尚己に牙を剥く。
「……っ、…。」
ああ、これはもう無理かな。
痛みさえ伴う程酷使された足の感覚に、ナイスネイチャは未だ動く理性で結論を出す。全速力を維持したまま既に1マイル相当を走っている。そこで終わるのならまだしも、残る距離はまだ2ハロンより遥か先。足を止められない以上、心を埋めていく惰性と共に速度を落とし領域の範囲を離れるのが賢明な判断だ。
勝つなんて可能性は、考えるだけ無駄なもの。そう繰り返しながら、ナイスネイチャはコースからゆっくりと外れ
「――まだまだぁッ!!」
「っ!!」
「……。ふふっ」
掠れかけ、それでも絞りだした声が諦めと共にあった足を再び加速させる。
声の主はトウカイテイオー。自分と同じく限界を迎え緩やかに速度を落としていた筈の彼女は、下を向き苦痛に歪めていた顔を振り上げながら、今まで以上の速度を出してスタートワンを追っていた。
「無敗の三冠ッ! 取るには、ここで負けて終われないんだッ!」
「……。ッ」
叫びと共に、更に加速。トウカイテイオーが少しずつ差を詰めていく。それはスタートワンの緩やかな減速と共に、見る間にその間を減らしていく。不規則な足の運びが、少しずつ形を変えていく。
彼女の見せる得意な走り。彼女にだけ出来る最強の走り。
「勝つっ、究極、無敵の――」
そして、遂に開く。
“ほらっ、見てよこの高さ! ここまで来たんだよ、すごいでしょ!
上の雲? そんなもの、こうやって…っ、トランポリーンっ! ボクの方がもっと上だもんね! 空なんて低い低い!
凄いでしょ、カッコいいでしょ!? 会長みたいでしょ!?
にししっ♪ そうだよ、ボクは何処までも行くんだ!
雲を越えて、虹だってもっと下で! 掲げた指は三本でっ!
そして、何時か会長だって!
『究極テイオーステップ』
だってボクは、最強無敵のテイオー様だもんねっ!”
「テイオーステップでぇえええ!!」
追る。途切れかけていた筈の歩みが加速する。
ナイスネイチャだけを置いて、トウカイテイオーがスタートワンへと肉薄。それに呼応するようにスタートワンも減速が止まり、抜かれまいと速度を上げる。
足を止めようとしていたのはただ一人。離されていくただ一人。二人は限界を迎えて尚、勝機を微塵も捨てていなかった。
「――――……ッ、」
離されていく距離以上の、差。それをナイスネイチャは痛感する。
心構えが違う。覚悟が違う。本気さが違う。
どんな言葉であっても足りない。ただ、自分だけがこの模擬レースを諦めようとしたことだけが事実。
それが
勝てない者の、決定的な心の弱さ。
「…………ふざっ、けんな……!」
それが何なんだ、と心が呟く。それまでの努力は嘘じゃない。
それで負けるか、と心が言い出す。負けた悔しさは消えてない。
そこで終わるか、と心が叫ぶ。勝ちたい気持ちは尽きてない!
なけなしの力を無理矢理引き出す。
この後動けなくなるとか、そういう不安も全て忘れる。
ただ思う。
今は、全力で――
「だったら、アタシも!」
――勝利する姿を見せたい!
「!? ネイチャ!?」
「…。」
“あー、恥ずかしっ
でも、こういう時くらい
『アタシもたまには、ね?』”
「勝っ……つッ!!」
残る力が著しく膨れ上がっていく感覚。背を焼く炎が掻き消える。
感じていた限界を超え、閉じかかっていた視界が嘘のように開いていくのを感じる。
ナイスネイチャは理解した。これが領域。これが、自分の世界。
驚きつつも、冷静に足を運ぶ。吟味は後ですればいい。勝機は、今この瞬間のみ。
「テイオーッ! スタートワンッ! 待てぇええ!!」
「……っ、ははっ! 勝つのは、ボクだッ!!」
追い上げる。近付いていく。それぞれの距離が横並びに変わり始める。
絶望的なまでの差は、残る1ハロンだけでも十分間に合う程に狭くなっていた。もう恐怖など効かない。後はこの力で、前を目指すだけ。
アタマ差程にまで近づいたトウカイテイオーとナイスネイチャの視線が重なる。
言葉ではなく、その目が語る。
ボクが勝つ!
絶対倒す!
視線が途切れ、そして同じ方向へ向かう。
残る一人。ここまで状況を掻き回した人物へ。
後ろの様子は見えずとも、感じ取るものがあったのだろう。スタートワンが僅かに顔を後ろへ向けようとする。
そこまでの境に、ナイスネイチャは少しだけ違う事を考えていた。
勝てないと思っていた。少なくとも、今じゃあ絶対に。だから勝算が低くなった時、諦めようとした。
でも、今は勝つ事だけを考えて走っている。負ける事しか考えていなかった時とは違う。あと少しで、勝つ事だって不可能じゃない。
キラキラしたあの舞台に、自分だって立てる。
あと少し。あと少しだけ頑張れば。
そうすれば。そうすれば目指すものへ、“『きっと』……!”
その思考の終わる瞬間。
スタートワンが此方へと振り向いた瞬間。
不機嫌な表情が取れた、柔らかい笑みの口許が少しだけ動く。
「――特別、ですよ」
聞こえたかどうかも分からないそれと共に、スタートワンを中心に溢れ出した炎が巨大な円を描く。
視界を覆い尽くす程の火炎の渦。前進している間にも二人が飲み込まれ、自分の姿さえ分からなくなる。響くのは誰のものかも分からない蹄鉄の音のみ。
それでもゴールを目指し、歩みを進め――
『勝ったのはスタートワン! 皇帝以外に宿敵はいらない! 大逃げの博打さえ策の一つ、死神の標的は変わらない!』
――ようやく視界が晴れた頃には、掲示板に全ての結果が表示されていた。
一着は……スタートワン。そこから半バ身程にトウカイテイオー。そこからもう一バ身遅れてナイスネイチャ。
酷く見慣れたその数字が、今日も彼女を指していた。
「……っ!? っはっ、はっ、はっ……!」
その結果に喜ぶ事も悲しむ事も出来ないままに、ナイスネイチャはその場に崩れ落ちた。辛うじて伸ばせた手が芝への衝突を避け、蹲るだけに留める。
全身に広がる痛みと、視界を歪めるチカチカとした火花。呼吸をしている筈なのに酸素が足りないと脳が再び警鐘を鳴らし始める。
こりゃ数分は動けないな。こんなになってまで走るつもりなんかなかったのに。その結論に思わずナイスネイチャは笑う。
らしくない程の本気、恥ずかしい程の全力。分かっていた筈の結果を、それでも覆そうとした。結果は変わらなかった。展開の不利、諦めた速度の緩み。負けるには十分過ぎる幾つもの要素が、忌々しささえ覚える数字を導き出していた。
こっぱずかしい事したなあ。何時もならばそう言いたくなる筈なのに、今はただ、動けない程の疲労が心地よかった。
ごろりと遅い動作で身体を転がし、芝の上に寝転がる。雲一つない快晴。トウカイテイオーが突っ切ったあの空が、最後に見たスタートワンの炎を思わせる陽光が、ナイスネイチャを包んでいる。
「だいじょぶネイチャ? 息してる?」
「…あ、テイオー」
何時までそうしていたのか。ふと視界の中にトウカイテイオーが映り込む。起き上がろうと身体を動かすと、先とは違い鈍さも幾分か取れていた。互いに肩で息をする状態は変わらないが、回復が早いのか既に動く事に然程の支障を感じない状態だ。
「アタシは大丈夫、そっちは?」
「ボクも。おつかれだね」
「そりゃもう、あんなに走ると思ってなかったですもん」
「確かに」と笑うトウカイテイオー。彼女も自身の予想以上に体力を使っていたらしい。だらだらと流れる額の汗を拭う姿は、ナイスネイチャにも劣らない疲労の跡が見て取れる。
「してやられちゃったね」
「うん。初手から領域は反則じゃない?」
「いや、分かってて対策してなかったのはアタシらだし。…とはいえ、びっくりしたけども」
「ボク、まさかあのタイミングで切って負けると思わなかったよ」
「それ言ったらアタシなんて初めてだったのに普通に負けたんですけど。ああいうの初回なら勝つ奴じゃないの?」
「どうなんだろ。漫画とかならそうなりそうだけど」
そこでふと言葉が止まる。どちらが、と言う理由は無い。
それ以上の声と騒ぎが近くから聞こえてきたためだ。
「呼吸は?」
「出来てるが浅過ぎる。取り敢えずマスク!」
「担架あるな、持ってきてくれ!」
「スタートワン、聞こえてるな? 体温上げろ。このままだと間違われる」
俄かに集まり出した人の大半は医療班とみて分かる服装。中心にトレーナーらしき人物が見える。
遠巻きに見る事しか出来なかったが、それでもナイスネイチャの目には自身のトレーナーに抱えられたスタートワンの姿が見えた。
真っ白だった。灰の中赤い髪が乱れ、僅かな燃え残りを包んでいるようにさえ見えた。
気道を確保した状態で酸素マスクを当てられたスタートワンは、ぼんやりとした表情で空を眺めていた。いや、或いは目を開く事以外に出来る事が無いのかもしれない。
ただでさえ白い肌が真っ白になっている。呼吸をしているのか怪しい程の浅い胸の上下。マスクには白い息の跡も無い。
身体は微動だにせず、握られた手を握り返す事もしない。辛うじて耳だけがトレーナーの呟きに合わせて少しだけ揺れていた。
その耳へ口を寄せる彼の言葉が聞こえる。
「この大バカ。今度のレースは棄権だ」
「……、……」
「良いわけあるか。今度は病院で大目玉だぞ」
「……」
「嫌がるくらいなら逃げなんてするな。金輪際、二度とな」
この状況下でそこまで罵倒出来るのか。そう思わざるを得ない程に辛辣な言葉。それを周囲が特に何も言わないのは彼の言葉が妥当過ぎで、この光景さえ繰り返されたものだからなのかもしれない。
隣まで移動してきたトウカイテイオーが、半信半疑に問いかける。
「ボク達、負けたん…だよね」
「そのはず、なんだけど」
これは模擬レースだ。G1でも、重賞どころか未勝利戦ですらない。本気で走る事は出来ても、本来ならば必要以上の無理をしてまで勝利を欲する必要性が無い勝負。
それに勝つ為だけに。クラシック級にようやく入ったばかりの新参二人に先着する為だけに彼女は今動く事さえ儘ならない。
敗者が起き上がり、勝者が倒れ伏す。そんな状況。
これが勝者の姿なのか? そう疑ってしまう程に、疲弊したというだけでは説明がつかない程に。スタートワンは満身創痍だった。
「ナイスネイチャ! トウカイテイオー! こっちに来い!」
不意な怒鳴り声に思わず肩が震えた。怒っているわけではないのだろうが、その声の大きさに驚きが隠せなかった。
唐突だったが、スタートワンのトレーナーに呼び掛けられた。顔を上げた彼が此方へと険しい目を向ける。
隣と顔を見合し、そしておずおずと二人で移動する。周囲の医療班は一瞬だけ困ったように視線を交わしていたが、仕方ないと諦めた様子で道を空ける。
二、三歩あれば触れられる距離まで来たところで、再びトレーナーがスタートワンの耳へ口を寄せた。
「来たぞ」
その言葉を受け、スタートワンの顔へ見る間に朱が差す。起き上がろうとするのはトレーナーに遮られていたが、それでも顔だけは上から少し横へと変わった。何とか動かしたのか、腕が持ち上がりそして額に当たる。
燃える炭、そして鉄錆のような臭いが鼻腔で微かに流れた。
「ふふ、おみごろ、れう。そのはひい、みさええ、もらい、まいあ」
ボソボソとした囁き。支えられながら、スタートワンがか細い声で笑う。酸素マスク越しでも分かる程に呂律が回っておらず、此方を見ている筈の白い目がぼんやりとしている。
……いや、レース前のそれとは違う、見られているという感覚が明らかなほどナイスネイチャには無かった。不機嫌そうな眉の皺が、今は視界を整えようと無理矢理寄せられたものになっている事に気付く。同じような表情を、親の店に来る常連がしているところを見た事がある。髪を巻き込みながら額を抑える指先に強い力が込められているのが分かった。
焦点も合わず、起き上がれず、喋る事さえ儘ならない。マスクが覆い隠す直前に見えた、口の端の赤い腫れ。もしかすると、自分の声も上手く聞き取れていないのかも知れない。
本格化が過ぎた、中距離の大逃げ。ニュースで取り上げられたことすらある、競技者として
けれども。憔悴し切って尚、焦点も合わないままで尚。彼女の目は、段々と輝きを取り戻す。
「ろう、れひあ。いい、けーえん、れひ、まいあ?」
一瞬だけ、目が合った。勘違いかも知れないが、ナイスネイチャはそう感じた。
同じように感じたのか、彼女の口の端が僅かに上がる。
「また、はひうと、い。よんれ、くあはい、ね。すおい、おちかあ、ぞえ、ひまう」
「……その時はまた棄権するからな」
「もう。らえ、れふよ」
額を抑えていたスタートワンの手が窘める様にトレーナーの頬を僅かに撫でる。直後にそこから力が抜け、だらりと垂れた。すうと目を瞑り、スタートワンが動かなくなる。胸の上下はある。眠ってしまったのか、あるいはこれ以上の疲労を避けるため話すのを止めたのだろう。
トレーナーが彼女を抱いたまま立ち上がる。ボンベを片手にした状態でのお姫様抱っこ。隣のトウカイテイオーが「すごっ…」と感嘆する。
「レースは終わりだ。コイツは連れていく。お前らも休んどけ」
「え、あ、うん」
「お、お疲れ様でした…?」
返事も聞かずに踵を返す彼に医療班の何人かが追随ずる。ナイスネイチャは困惑を隠せないまま頭を下げた。仮にもレース勝者にも関わらず、ファンサービスも無しで撤収。容体を考えれば仕方も無い事だが、些か納得がしきれない部分もあった。
そんな気持ちを切り替えなければならなくなったのは、隣のトウカイテイオーが「あ、トレーナー!」と叫んだことだ。
スタートワンのトレーナーとすれ違うようにして、トウカイテイオーと自分のトレーナーが此方へ歩いてくる。二人はすれ違う直前、向かい合った彼へ大きく頭を下げた。
「「今回はありがとうございました!」」
「……。どっちも結果出せなかったらブッ飛ばすぞ」
「肝に銘じ、精進します」
「結果を出します、絶対に」
そこで会話が終わり、ナイスネイチャのトレーナーが彼女の前まで来る。少し見上げた先の彼は真剣な眼差しの後、優しく笑みを浮かべる。
「お疲れ様、ネイチャ。はいタオル。飲み物とかは後で持ってこよう」
「……ん。ありがと」
「どうだった?」
渡されたタオルで汗を拭きながら、レースの感想を問うトレーナーからナイスネイチャは少しだけ視線を逸らした。トウカイテイオーの方を見て、元気そうに飛び跳ねる彼女とそれを笑いながら見守るトレーナーに、元気だなと思いつつその体力の回復速度に驚かされる。自分はまだ息を落ちつかせたばかり、スタートワンに至っては今運ばれていった。
これから成熟していく、既に完成形の実力。それにどこまで追い縋れるのか。
「トレーナーさん」
「うん?」
「多分。多分だけど、アタシ、このレースで領域が出た」
「! 本当か」
「うん。……その上で、負けた。テイオーの領域にも、スタートワン先輩にも」
使いどころを失敗したのは間違い無い。初めての領域と言う分、その精度も恐らく両者より劣っていた。
ただ、それ以上に。「勝つ事」への貪欲さが足りていなかった。
勝利の為なら自分の命さえ脅かすスタートワン。
それを受けて尚闘志を弱らせなかったトウカイテイオー。
その違いが、今回の敗北を招いた。
「テイオーはさ。ここからもっと強くなるんだよね」
「…そう、だな。」
「勝てるのかな。アタシ。今回も結局、三着だったし」
「……大変だとは、思う。」
事実だ。彼女の輝きを知ったその時から、ずっと分かっている。
それでも、トレーナーは「なら」と続ける。
「その分此方も強くなればいいだけだ。ネイチャが勝つその時まで幾らでも支えるさ、君のトレーナーなんだから」
「……トレーナーさん」
「頑張っていこう。ネイチャ」
「……はい」
道は険しい。今回のレースを通じて、ナイスネイチャはよりそれを実感した。
それでも目指す。目指したい。その気持ちも、より強くなった。
きっとその先に、見たいものがあるから。
以前の話でナイスネイチャは菊花賞で領域を発動したと言っていますが、独自解釈として「星2以前の固有スキルは星3以降の固有スキルの未完成版」「星3相当の固有スキルを発動してやっと領域を発動したと言える」という風に考えています。言ってみれば今回の領域は「あとちょっとで完成しなかった領域の成り損ない」という感じです。でないと性能の差に説明がつけられないので。モブちゃん達が使う領域も大体これの前か同じくらいのものとなっています。
別に今回の話で「そういえば今領域使っていいんだっけ…?」となったわけではありません。ありませんったらありません。
なんか日刊ランキング11位まで行ってました。読んでくださる皆さんに感謝を。
唐突過ぎてポカンとしてますが、評価や感想がちょっと増えてて嬉しいです。
もうちょい上までめりこめー^^