短くても向こう数話は続くかと
ベッドで寝る様に促してから三十分程して部屋に客が来た。
扉向こうから聞こえた声でその主を知り開くと、立っているのはシンボリルドルフ。どこかそわそわした様子の彼女は、ドアが開くと同時に視線をトレーナーに合わせる。
『なんか用か』
『スタートワンの様子を確認しにきたんだ。今は大丈夫だろうか?』
『丁度寝かせた所だ。悪いが今日は帰れ』
『……そうか、すまないな』
『……いや、ちょっと待て』
寂しそうに部屋の前から去ろうとするシンボリルドルフに思わず声をかける。夕方は過ぎているがまだ午後、この後の予定は開けたので、時間は十分にある。
『どうかしたか?』
『……時間はあるか? 合宿中の様子を聞かせろ』
『そのくらいなら問題はないが……。合宿期間の事なら、君の方が知っているんじゃないのか? 私と一緒に居た時間など部屋に居る時間くらいのものだが……』
『それで構わん。というより、そっちを聞きたい』
『ふむ…、分かった。少しお邪魔しよう』
部屋に招き、シンボリルドルフを備え付けのソファに座らせ自身は机と備え付けの椅子に座る。やや離れた互いの距離から、ちらと同じ方向に視線が向かった。初めにトレーナーがそちらへ目をやり、追うように向かい合う彼女が見る。
無音の隣部屋が気になるのか眉を曇らせるシンボリルドルフに切り出す。
『この一月、様子はどうだった』
『……主観になるが、大きく様子が変わる事は無かったと思う』
『食欲、返答速度、練習の動き、そういう全部をお前から見てもか』
『……ああ、他の皆もそうした違和感は感じていなかったんじゃないだろうか』
少なくとも、第三者からも明確な違和感はなかったという事になる。接触時間的な問題から見ても、風邪気味だったスタートワンと長期に渡って接していた八人が身体に一切の問題を抱えていないというのは明らかにおかしい。
体温の低下に対するあらゆる処置も意味をなさなかった。更に当のスタートワンが自身の問題よりも出走を優先している始末。能動的にどうにかできる、とは考えていないのだろう。
根本の原因はスタートワン、それも、本人にも解決の困難な何かだと考えるのが一番可能性がある。
出来る事の少なさに溜息を吐くと、今度はシンボリルドルフから質問が来た。
『スタートワンは、治るのか?』
『……治るかは分からん』
『…菊花賞には間に合うのか?』
『もう一度言う。分からん』
『…………?』
意味を理解しかねているらしい。少し無言の時間が過ぎた後、まさかと疑うように彼女がこちらを見つめる。
『…………そこまでのものなのか?』
『合宿中も見たろ。判断する方法がアイツの自己申請しかない以上、その可能性も十分ある』
『…………風邪ではない、と……。そんなこと、スタートワンは一度も……』
肩を落とし視線を床に向けるシンボリルドルフ。普段の様子からは遠く離れた落胆する姿は、隣の部屋で眠る自身の担当が見れば驚きを見せるか、あるいは困惑を見せるか。
『何とか、直す手立ては』
『あったらもうやってる。医者にも行ってるし、保健医にも繰り返し説明はした』
『……我々に出来る事は』
『今までで十分だ。それ以上はアイツが断って話にならんぞ』
『…。どうにか』
『なるように今考えてる所だ。』
その答えは今も出ていない。スタートワンの状態が一向に良くならない以上、出来るのは対処療法のみだ。
沈黙が流れ、シンボリルドルフが再び呟く。
『一月、だったな』
『ああ』
『おかしくなったのは、水着を選びに行った外出の時か?』
『……昨日のあれがとどめだったんだろうが、一番可能性があるのはそこだ』
『ならば、私が』
『シンボリルドルフ。それ以上言ったら俺がアイツの代わりにキレるぞ』
遮る。睨めつける気迫は今睨まれる側方が余程強烈だろうが、それでも相応の威圧は出来ていたのか彼女は僅かに表情を強張らせる。
『アイツの調子は俺の問題だ。お前がああだこうだ言うな』
『…………すまない』
再び、大きく肩を落とす。自らの言おうとしたことを思い直し、踏み込み過ぎたと思ったらしい。
外出の発案はシンボリルドルフだけで決めたものではない。しかしシンボリルドルフが関わっていないというわけでもない。それは事実だ。
だが幾ら級友といえ。幾ら事情を知るといえ。解決のため動くべきはトレーナーであり、しないという事はトレーナーの役目を放棄したに等しい。
『入れ込み過ぎじゃねえのか?』
『…………そう、見えるか?』
『お前がそこまで気にしてどうする。仮にもライバル陣営だろ』
『……、ライバルだからこそだ』
僅かに視線を上げるシンボリルドルフと目が合う。窓の外から漏れる光に照らされる鋭い瞳が、ただ眩しいというだけには見えない。
『……今年の初め。年明けの時に。少し家に戻っていたんだ』
『…………』
『そこで、ホープフルステークスでの勝利の祝福と…スタートワンについての話があった』
『話?』
『スタートワンに勝たずして、お前の理想は遂げられない……そう言われたよ』
シンボリ家からの警戒の促し。それはつまり、シンボリ家さえもスタートワンは脅威になりうると見られていたという事だ。
『それが理由か』
『………それ以前に。私は約束したんだ。共に菊花賞に出て、最後の冠を競い合おうと』
『…………』
『彼女と競う最後のクラシック。彼女と共に絶対に走れる最後のレース。……走りたいんだ。走って、決着をつけたい』
シンボリルドルフの三冠阻止を狙う者は、決して少ないわけではない。あくまで筆頭にスタートワンが居るというだけだ。
しかし、スタートワンとシンボリルドルフは友人である。友人と同じレースで勝負するという事が必ずしも良いものになるとは言えないが、表面上だけでも、二人の関係は良いものとして見えていた。
『スタートワンの勝利への執念は凄まじい。私でも、気を緩めれば間違いなく抜かされるだろう。……そんな彼女が、レースに出られるかどうかなんだ』
椅子に座るまま組んだ腕。肘を膝につけ、絡んだ指が額に当たる。
肺から吐き出される空気は、あまりにも重く部屋に沈んだ。
『…………君なら。スタートワンのトレーナーである君なら。わかるだろう、スタートワンのクラシックへのおもいが』
『……………………』
『君がどれだけ歯痒いか、私には分からない。……それでも、何も出来なくとも。何かせずにはいられないんだ』
それは恐らく、シンボリルドルフの年相応の姿なのかもしれない。
マルゼンスキーやミスターシービーのように自立できる者でも、シリウスシンボリのように深く馴染んだ者でも無い。ハッピーミーク達のような学園で関わる友人達とも違う距離。
スタートワンだけが作り出した距離が、シンボリルドルフの関心を強く引き付けている。
『……執念があるなら、アイツは勝手に自分で立ち直る。俺に出来るとすれば、その時を待つことだけだ』
『…それで、大丈夫なのか……?』
『大丈夫なわきゃねーだろ。俺から何をしたとしても、結果はアイツしか選べねえ。待つしかねえんだよ』
スタートワンは一度決めた道を絶対に変えない。ある程度の紆余は問わないが、最終的な結論を変える事はまず無い。
この合宿に来るまでの全ては、シンボリルドルフへの勝利という最終的な目標の為だ。これを達成できる道を作らない限り、スタートワンは何があったとしても首を縦に振る事はないだろう。
『……そうか。君は強いな…そこまで、スタートワンを信じている』
『…………。はっ、どうだろうな……』
『……?』
思わず鼻で笑う。怪訝そうな視線には答えなかった。
厳密には答えられなかった。
隣の部屋からどんと低い音が響いたからだ。
向かい合ったままだった視線が、互いに疑問を返す。
今の音はなんだ。
余程大きなものが床に落ちたのか、音は大きかった。
それこそ人が一人、床に転げ落ちれば同じ大きさになるだろう。
隣から二度目の音は無い。無音だった。隣り合う二人が居る部屋さえ沈黙に包まれる。
数分に匹敵する程の数秒が過ぎ、トレーナーは立ち上がる。
『……スタートワン?』
扉越しでも聞こえるように問う。返事はない。
再び視線が交じる。
『スタートワン、何かあったのか?』
シンボリルドルフが問うた。返事はない。
別の部屋からのものだろうか。そう思考が飛ぶが、今この施設を利用しているのは学園の関係者のみ。それも本来この部屋は来賓などに使う部屋。今暫く近くの部屋は使われていない。
動く。扉の前で、再び声をかける。
『スタートワン。何があった』
返事はない。
しかし分かる、明らかな異変。少し遅れて隣に移動したシンボリルドルフが気付く。
『……氷……?』
扉を包むかのように張った霜が、氷の粒のような塊になっている。
スタートワンが眠りに言ってからまだ1時間も経過していない。仮に1時間経過していたとしても、ここまでの大きさを作るとなると扉を閉じてから更に長く開かないようにしなければならないだろう。
そもそも、ここは冷凍庫でも何でもない。
『開けるぞ』
有無を言わさず、ドアノブに手をかけるトレーナー。指先に走る冷たさは氷を握ったかのような錯覚を覚えさせる。案の定、凍り付いているのが開きが遅い。
ぱきぱきという音と共に、扉が少しずつ動き出した。シンボリルドルフも手伝い、更に勢いが付く。
『スタート…………っ』
『これは……?!』
足元を這うように冷気が溢れ出す。真冬かと錯覚する程の寒さ。
その冷たさに怯むよりも早く、二人は毛布と共に床に伏せる塊を見つけた。
頭を抱え、這い蹲り身体を丸める赤い髪の少女。何度も掻き毟ったのか、散らばった髪も見える。
僅かにだが、ぼそぼそと何かを呻いていた。
『すたっ』
シンボリルドルフが声をかけると共に近づくより早く、トレーナーはスタートワン目掛け足を踏み出す。
踏み込んだ瞬間、目の前に立つ髑髏。燃え盛る全身から周囲を燃やし尽くすのではないかという熱波を生み出しながら二人を縫い留める。
原因が誰かは分かる。だが普段のそれとの違和感は簡単に分かった。
銃を持っていない。スタートワンを焦がしてもいない。ただじっとトレーナーを見つめ立っている。
一度は立ち止ったトレーナーは、すぐさま一歩を踏み出す。眼前に迫る髑髏に吐き捨てた。
『仕事の邪魔をするな』
所詮は幻覚だ。答えるわけがない。偽物の炎を突き抜けると、簡単に霧散した。スタートワンに向かう。
視界から消え去る直前、髑髏が何か言いたげに顎の骨を動かしたが、何か考える暇は無かった。
抱えた腕を走る氷の冷たさに悪化を悟り一瞬動揺するが、それよりも聞こえた小さな声に意識を持っていかれた。
『いや、いや、ごめんなさい、いや、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、いや、ごめんなさい、ごめんなさい…………』
『――――』
焦点の合わない、引き攣った顔で何度も何度も繰り返す。小さく掠れたその声はシンボリルドルフにも聞こえたらしい。
絶句する彼女を尻目に、トレーナーは努めて声を落ち着かせながらスタートワンに声をかけようと、
目が、合った。
『――――ッ!!?』
『!? 危ないッとれ……な……?』
その瞬間、目を見開いたスタートワンが身を捩り暴れ出す。錯乱したウマ娘など危険どころの話ではない。シンボリルドルフが咄嗟にトレーナーを庇おうとするが、途中で動きを止める。スタートワンの身体に力が殆ど入っていない。
というよりも。そもそも殆ど真面に動けていない。反射的にトレーナーを押しのけようとした途端、彼女は更にびくりと肩を震わせ、身体を丸めると共に耳を塞ぐ。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……』
延々と繰り返される謝罪。そこから続けて出てきた言葉を、トレーナーは意識的に聞かないようにした。
スタートワンから漏れ出すあまりの量の自己否定を聞いていてはこちらが保たないと判断した事と……何よりも最初に聞こえた言葉の方が大事だった。
『なまえ……』
耳を抑え縮こまるスタートワン。その頭に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、再びびくりと大きく身体が跳ねた。
『ひゅっ』
『…………』
その喉から漏れた音にすぐさま手を離す。恐怖なのか、振り上げた顔が二度目の視線の交差に繋がる。暴れ出す可能性もあったがスタートワンは動かない。だた凝視するまま、身体を硬直させていた。
数秒互いに動きを止めた後、ゆっくりとトレーナーは手を伸ばす。視線が目から手に動いた。
手が近づく程にその顔は強張り、目が潤む。指先が髪に触れる寸前まで来た時、溢れる間に凍り付いた涙が粒となって転がり落ちる。
『…………ゃ、とれ』
『スタートワン』
『――――――――』
ぴたりと完全に動きが止まった。
その瞬間、トレーナーはスタートワンの頭に手を乗せ優しく撫でる。悴むほどの冷気に指先がすぐに鈍り始めるが、それでも撫でるのを止めない。
一度、二度、三度。
触れる程に、往復する程にその表情は緩み、強張りが剥がれていく。揺れ続けたその視線がトレーナーへと焦点を合わせていく。
『スタートワン』
『………………』
『スタートワン、聞こえるな』
『………………、ぁ、ぃ』
細く掠れた小さな、それでも確かな肯定。
『いいか、お前が何を思おうが何をしようが構わん』
『…………』
『だが忘れんな。お前の担当は俺だ。お前は俺の担当だ。いいな』
『………………』
『スタートワン。俺の名前を言え』
小さく息を飲む音。灰色の瞳に溜まる涙が再び零れる。
数拍の間を置いて、辛うじて聞こえる声が呟いた。これまで、その口から呼ばれたことの殆ど無い名前。
『…………覚えてんじゃねえか』
『…………わすれて、ない……』
『じゃあ忘れんな。お前もな』
『……………………は、い』
その言葉を聞いて、今度はぽろぽろと涙が溢れ出す。冷気が少し収まったのか、青い指に熱の痛みが通う。
ただ見る事しか出来なかったシンボリルドルフが、絞り出すように問うた。
『…………スタートワンは』
『とりあえずは、落ち着いた。多分な』
スタートワンは何度も何度もトレーナーを呼ぶ。今にも消え入りそうな声で、まるで確かめるかのように。
その度に返事をし、スタートワンの名を呼ぶ。事務的に、けれど一度も手間を惜しまずに。
部屋の寒さは変わらない。風邪はまだ引き始めたばかりだ。
何から手を付ければいいのか、それはトレーナーにも分からない。
進捗が地獄と化しているためまだ暫く遅れが発生すると思います
恐ろしく手が進まねえ!!!!