シンボリルドルフは嘆息する。
スタートワンが部屋を変えてから既に一週間。
悪化著しい彼女の現状、自分がどうアプローチして改善の手伝いをすればいいか、それがあまりにも不明だった。
スタートワン。
三冠ウマ娘の称号を戴冠せんと邁進するシンボリルドルフと同じクラシック期を走る、対抗する者達の嚆矢と目されるウマ娘。数多の不利を物ともせず突き進む並外れた根性の持ち主。
……その筈のウマ娘。
「……スタートワン」
一週間前に見た二人が目に焼き付いて離れない。
目の前で苦しむ姿、献身のままに身を凍て付かせる姿。
その全てを、ただ棒立ちで見つめていた己の姿。
「…………私は何をしているんだ……」
合宿の共同部屋、今はシンボリルドルフしかいない部屋の中で、床に寝転がり天井を見つめる。普段ならば絶対にしない、見せる事も無い身を放り投げた様。
この一週間全く練習に身が入らなかった。厳密には夏の途中から集中が途切れる事は間々あったが、それが決定的になったのが一週間前だった。
『トレーニングは組んでおく。菊花賞までに治せ』
『…………!?』
ようやく落ち着いたスタートワンに、トレーナーが耳打ちする言葉。それはシンボリルドルフにも聞こえた。
自分の耳を疑うほどの衝撃。今に至って尚、トレーナーは菊花賞を諦めていなかった。
『っ、ま、待て! 菊花賞を走る!? その状態でか!?』
『風邪は治すに決まってんだろ』
『そうじゃない! その身体で、その精神状態で走らせるというのか!?』
『どうするかはコイツが決める。最後に確認はする。少なくとも、今日までに決めた方針は菊花賞出走だ。目的が決まってる以上、俺は準備をする』
思考を疑わざるを得ない程に冷徹な判断。
猶予こそまだ二月以上。しかし二月と少ししかない。原因と解決法の分からない風邪を治し、精神を癒し、練習を整え出走させる。羅列した事実のみを並べてもそれがどれほどの難しさかシンボリルドルフにさえ計り切れない。
それによる負担はトレーナーは勿論、スタートワンに対しても桁違いのものだ。もっと長期の休養を取って然るべき状況である事は明白だというのに。
『……そもそも、お前は一応だろうが対立陣営。お前に有利になる事をこの場で、俺が言うと思うか?』
『それ、は』
『現状のコイツの方針が出走だ。それを止めたいなら、俺に言うのは門違いだろ』
それも事実だった。もしスタートワンが出なければ、結果がどうなるとしてもシンボリルドルフには有利に働いてしまう。例え友人だろうとも、その事実は揺らがない。
トレーナーの言葉に否を言うことそのものが、シンボリルドルフによる自軍の為の手引きだと思われても仕方がないのだ。
『…………っ……』
それでも、せめて。何か一言だけでも。そう考えては口を開き、そして噤むシンボリルドルフ。
言われたことは紛れもない事実。それでも止めなければいけないのだ。ここから万全の状態に戻るというならまだしも、今この場で走る意志を見せられた以上、それに是ということは出来ない。
何故なら、シンボリルドルフは彼女の友達で、ライバルなのだから。
何も言い返せないまま立往生するだけの態度が目についたのか、トレーナーが小さく嘆息する。
『…………シンボリルドルフ。お前の気持ちも分からんでもない。俺だって止める事くらい考えた』
『……』
『俺が何を言っても、最後にどうするかはスタートワンが決める。決めたのは出走だ。だから俺は準備をする。それだけだ』
『……本当に、それでいいのか…?』
『知らん。今の状況から先の話は判断出来ねえ。俺に出来るのはこれだけだ……いいな?』
そこで言葉が止まる。スタートワンが再び顔を上げ、小さく口を開いた。
『…………はし、る』
『……行くか』
『…………』
頷く力が、明らかに違う。瞳の色が変わり、この瞬間だけスタートワンの元気が戻ってきたかのようだ。
……だというのに、それ以上に顔が違う。レースの話を聞いてから、ようやく戻ってきていた血の気が急激に引いていく。気力が戻っているというのに、まるで生気を感じられない。
まるでトレーナーの言葉を聞いた瞬間、スタートワンの顔をした誰かに変わったかのように。
『シンボリルドルフ。お前は何時も通り合宿に行け。コイツの調子が戻ったら合宿への参加も戻す。それまでは他の奴らにもこの事は言うな』
『…………。』
『分かったな』
それから一週間。状況はぴたりと変化を失った。
以前よりも騒がしさに欠けたまま練習を続け、スタートワン達は部屋に籠ったまま一向に様子が知れない。
ただ一人、シンボリルドルフだけが状況をほんの少し知ったまま、その事を口止めされていた。
本来ならば今日もトレーニングの筈だったが、トレーナーから休息を言い渡されていた。練習に身が入らないだけでなく、昨日の生徒会業務中も普段より集中出来ないことを自覚し早めの業務切り上げを進言する事になった。
「……、はあ…」
ただの
ほぼ半日行方不明だったところで唐突に帰ってきたスタートワンの、死人のような白い顔。辛うじて動く事で生きている事が判断できるような姿。
対処法が分からない、どうなるか分からない。
だというのにあの日、真っ青な顔で走るといったスタートワンの目は、これまで以上のレースへの意欲に溢れていた。
今はそんなことを言えるような、精神でも肉体でもない筈だというのに。
「お門違いなど……分かっている……」
蒸した部屋の中、シンボリルドルフは口を衝いて出た自らの言葉にまた溜息を吐く。
何も出来ないと知りながら、何かをしようと気持ちだけを急かしている。
何も出来ずとも、何か力になりたい。そう思っては足踏みを繰り返す。口止めされてなお。
不意に無音の部屋で音が響いた。メッセージを伝えるそれにシンボリルドルフは出所に手を伸ばし起き上がる。
「トレーナー君…?」
己の担当トレーナーを示す文字に画面をスライドし電話に出る。
『ルドルフ、今時間はあるかな?』
「大丈夫だが……どうしたんだ? 今日は休みと……」
『うん、それなんだけど……。少し話をしたくてね』
「……話?」
『ああ。良かったら、この後来て欲しいんだ。場所は教えるよ』
「分かったが…」
それから場所と時間を聞き、シンボリルドルフは部屋を出る。服装はなんでもいいとのことだったため、ジャージでもよかったが休息日という事で切り替えのために私服を着る事にした。
指定された場所は合宿所から離れた浜辺の先。波が高くなり、テトラブロックの並ぶ小さな波止場だった。
強い日差しの中、それでも服を着崩さずに海を見つめる彼はシンボリルドルフに気付くと、振り向くと共に無言で視線を横へ向ける。歩かないかと促しているようだ。
頷き、隣を歩く。漣の音が風と共に鳴り、ぬるい空気に涼しさを感じさせる。今だ酷暑変わらぬ中、そういえばあの日も彼女と砂浜を歩いたな。と考えた。
あの日のスタートワンも、やはり寒そうに体を震えさせていた。自分が凍えている事すら気付かずに、視線を下ろしてようやく体を掻き抱いていた。
そこまで考えた時、トレーナーが呟く。
「ルドルフ」
「……。なんだ?」
「アイツから言われたよ。『スタートワンとシンボリルドルフは暫く会わない方が良い』って」
「…………。そうか」
状況を鑑みるに、その提案は間違っていない。シンボリルドルフ以外も含め、今の彼女に必要以上の接触は危険だ。そのうえ菊花賞の事で少し揉めもした。思えば入学以来、スタートワンとは殆どの時間を共有した仲といえ……ここで一度距離を置くのも決して悪い事では……。
「…………」
「ルドルフ?」
「……いや、いい。大丈夫だ」
分かっている。出来る事は無い。だからこれはあくまできわめて個人的な感情だ。
「ルドルフ」
「大丈夫、すまないなトレーナー君」
「菊花賞はスタートワンに勝って欲しい?」
咄嗟に顔を下に向けた。彼を突き刺すような視線は、一瞬だけ目が交差した事から伝わってしまったことだけは分かる。
向かい合う事で僅かに開いた空間。彼の足元だけが見える。顔を見られない。
「三冠まであと一つ。それを取ってようやく始まりだ。クラシックの三つは、一度しか走れない」
「…………」
「俺から見たスタートワンでしかないが。君に勝利を渡されるような真似をされたら、彼女は喜ばないし、怒りを見せる事もない」
「………………。」
「悲しむだろう。何よりも、君に阿るような真似をさせた自分自身に」
事実だろう。これまでスタートワン自身が口にしてきた啖呵、そしてこれまでの三戦。それを経てシンボリルドルフにもスタートワンの勝負への姿勢は少なからず見えた。
彼女の努力の、その一部を。シンボリルドルフは目の前で見てきた。
勝ってほしいと思う事は、彼女の友人として持ってはいけないなどというものではない。
報われてくれと願う思いと、努力は報われるべきだという考えは同じものではない。結果が出なくとも努力するのであって、努力したから必ず結果が出るわけではない。
スタートワンの努力が報われるためには、シンボリルドルフの全力を越えなければならない。そこに優しさはあってはならないのだ。例え思いやる心があったとしても。
「アイツからも話があったよ。君が心配し過ぎていないかって」
「……私は、そこまで心配しているように見えるか?」
「俺からはかなり。学園に来てから仲良くなった中で一番の相手だから、どうしても気になってしまうんだろう?」
「…………」
頷くことも出来ない。周囲からそう見られるほどに入れ込んでいるようで、どこか後ろめたいような、恥ずかしいような気持ちだった。
「スタートワンは必ず出てくる。俺たちはそれを信じるしかない」
「……ああ」
「君が全力でないと、彼女の努力はどうなるんだ? 最後の一戦の為に身を押してやってきた彼女に、勝たせたいから手を抜くというのかい?」
まったくもってその通りだ。
「……すまない」
「謝る事じゃあない。俺はこういう時の為に居るんだ」
「……?」
言葉の意味が掴めず僅かに眉を顰める。共に歩むトレーナーとしての役目が、今である意味とは。
「これはあくまで経験からくるものもだけど」そう前置くまでの時間に無意識に向いた視線が、彼の瞳と再び重なる。柔らかく、それでいて鋭い光が灯っている。
「菊花賞。迷っていい。悩んでいい。でも、躊躇ってはいけない。君も彼女も、それをしては、きっとずっと後悔する。それはこれからの為だとか、優しさとかそういうのは全部無視して考えないとだめだ。じゃないと、残り続ける」
「……」
「足を止めないで。全力で、勝ってこい。心残りなんて何一つ無くなるくらい。全力で走るんだ」
問う事は一つ。
「……いいんだな?」
トゥインクル・シリーズにおいて、シンボリルドルフがレースに出走したのは都度五回。スタートワンとの出走は三回。
本気を出す事はあった。全力で走った事もあった。勝利に満足する程の走りも、息が切れる程の走りもあった。
その全てが一度に混ざり合う事だけは未だなかった。
それはシンボリルドルフがコントロールしてきた己の本能を曝け出すという事だ。学園に入学以来誰にも見せる事の無かった、完全な自己。
最後になるかもしれない一度の為に、それを再び蘇らせる。
これまでの振る舞いすら捨て去るに等しい行為は、賭けと言ってもいい。
返答はない。
灯る光だけが、今もシンボリルドルフを見つめている。
「…………分かった。今回はそれに従うよ」
「そっか。なら良かった」
柔らかな笑みに、シンボリルドルフは口の端のみの笑みを返す。
心境は決して笑える程では無かったが、少なくとも、今出来る事が一つ出来た。そのことだけは、安堵を覚えさせた。
熱い海風は強く、波の音もまた激しい。
照らされた互いの影が、地面に濃い境界線を作り出したまま少しずつ伸びていく。
「…………菊花賞が、待ち遠しいな」