G1目指して頑張ります   作:あかし/さんさい

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明けましたおめでとうございます


69 後退は出来ない

 トレーナーはもう何度となるか分からない息を漏らす。

 芳しくない。調子は悪い。……どころではない。このままでは今後のレースはおろか、当面の目標である菊花賞すら出走の可能性はゼロだ。

 

 二人で部屋に籠りきりに近い状態のまま、少しでも改善の兆しが見えないかと模索を続けた結果出せる結論は一つ。このままなら見送りが最優先の選択という事実。

 

「……どうする……どうすればいい……?」

 

 呟いた言葉が部屋に掻き消える。その答えは誰でもない、トレーナーという身分を背負う己が出さなければならない事は理解している。理解したうえで、出せる言葉はそれだけだった。

 

 

 パソコンに記した数字に目を通す。毎日平均を大幅に下回る数字達。

 1℃。最後につけられたそれが、今のスタートワンの体温だった。

 

 体温の低下が始まってから一月を過ぎ、今の体温に到達してから一週間。それまでほぼ右肩下がりだった数字が、完全に動きを止めた。

 日々の計測でこれ以上の低下がなくなった事は喜ばしい事だったが、無限に続くマイナスの目盛りの通過がようやく止まっただけであり、そこからプラスに転じようという気配は一つたりとも見られない。たった1という数字が、限りなくゼロに等しい状態を作り続けていた。

 

 ただの風邪ならある程度の処方薬と静養で完治も出来ただろう。しかしそれで治る保証の無い現状、出来る事はその場凌ぎが限界。

 

 初日から何日かは部屋を出る事もあったスタートワンも、昨日からはベッドを出る事すらなくなった。

 シンボリルドルフ達は会う度に様子を気にしているが、風邪の上場所がトレーナー用の宿泊所という事もあり部屋に入らないように言いつけている。……それ以前の問題であるという事も、そこにはあるのだが。

 

 パソコンを閉じ、トレーナーはちらと壁掛けの時計に目を送る。長針は七、短針は一。窓の外が暗闇の中にある事を考えれば、スタートワンでなくともウマ娘の大半は眠りに落ちているべき時間だ。

 椅子から立ち上がり、隣の寝室の扉の前に立つ。中から僅かに漏れ出す冷気にドアノブが白く霜を張っていた。

 

「スタートワン。開けるぞ」

 

 返事を聞くよりも早く開く。明かりは付けたまま明るくなっている。

 冷気が一段と強くなり、隣り合う部屋の窓を白く変えた。室内に一歩踏み込むだけで足先に冷たさが伝う。

 

 布団に包まったまま、光に照らされる横顔。半開きの瞳と目が合った。

 

「まだ起きてるのか」

「…………ごめんなさい」

「謝るな」

 

 近付かずとも分かる。真っ赤に充血した目と泣き腫らした頬。手袋は涙を拭い続け氷が出来ており、瞳を傷つけかねないため脱いだまま枕の横に置かれている。腫れが目立つが、隈も深い。

 

「飲み物は要るか」

「……おゆ」

「飲めないなら無理はするな」

「…………」

 

 きわめて小さな頷きを認め、トレーナーは部屋の扉を開けたまま準備してある水筒の一つを取る。蓋を開くと中から湯気が漏れだした。

 再び寝室に戻る。

 

「起きれるか」

「…………」

 

 のそりと、鈍重な動作。普段からは想像も出来ないほどに背を曲げ、俯き気味な顔でトレーナーを見上げる。

 揺れる灰色の瞳が、顔を見つめる程に潤んでいく。

 

「早く飲め」

「………………はい…」

 

 水筒を見せ、強引に視線を切らせる。スタートワンは受け取ろうと手を伸ばすが、到底持てるとは思えない手の震えにトレーナーはそばに座り、ゆっくりと口元に持っていく。

 

「熱いなら言え。持っても構わん」

 

 一応の促しを行うが、水筒に触れると振動が伝わってくる。更にその表面を這い始めた霜を見て、スタートワン自身が手を離してしまった。

 

「…………飲ませるぞ」

「……。ん……」

 

 火傷にならないよう慎重に、しかし湯が冷めてしまわないように手早く。

 いつかの冬のレースを思い出しながら、あの時と同じようにスタートワンは喉を一度動かしたきり、口を離し首を振る。

 蓋を締める間に、腕に冷たい感覚が走る。凍て付いた一粒の氷。

 

「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい……」

 

 ぽつり、ぽつりと漏れ出す謝罪は、項垂れたまま弱々しくトレーナーの腕を抱きしめる少女の言葉。

 ここまで沈み込んだ姿を、この一年半トレーナーは見たことが無い。自分で解決して調子を整える彼女からは想像も出来ないほどに、今のスタートワンの精神は擦り切れていた。仮に段階式で気分を表すなら、一番下に新しい段を作らなければならないだろう。

 

 今のスタートワンはトレーナーによる寝かしつけが無いと真面に眠りにつけず、眠れたとしても殆どの場合で一時間しないうちに目を覚ましてしまうような有様だった。大粒の涙を零し真っ青な顔で飛び起きる姿は、普段の冷静さがまるで嘘だったかのように弱々しくい。事実、ウマ娘としてあるまじきレベルでスタートワンの力は弱まっており、年相応の少女と変わらない力しかトレーナーの腕にはかかっていない。

 魘され、泣きじゃくり、謝罪して、自分を貶め否定する。それがこの一週間のスタートワンの様子だった。

 

 致命的だったのは、最初のタイミングでその場に居なかったことだろう。

 あの日、シンボリルドルフと話をしていたあの時。壁一つ隔てた先で彼女はここまで衰弱してしまう程に精神を病んだ。

 …あるいは、一人でここまで思いつめ。もとからあった傷口を動けなくなるほどに抉ったのかもしれない。

 

 

 あの日、意図せず耳に入った言葉の数々。

 己の存在自体を真正面から否定する強烈なまでの負の感情。トレーナーの前でもほぼ見せる事の無かったそれらは、彼女自身が語っていた領域によるものだろう。

 

 感謝祭前、女神像の前で蹲る姿を見つけてからの夜。シンボリルドルフ達が一度保健室を離れた際に耳打ちした言葉。

 

『スタートワンは一家離散している。彼女自身の意図しない結果によって、強制的に』

 

 追及する中で見せた、きわめて短い時間の砕けた口調。

 微細な表情の変化は普段から接している者でなければ耳や尾でしか判断出来ないほどの鉄面皮。

 シンボリルドルフとのクラシック路線を走る事以外に殆ど見せる事のない欲。

 

 領域を基点に、家族が離れ、周囲に危害を加え、自分の感情すら満足に表に出せない。それが周りに見える場所にあってはいけない。すべてが自分のせいじゃないと分かっていても、生じた負い目はスタートワンを苛んだだろう。

 そこに加わる事故と怪我、自由に動かせる体も、好きな服を着る楽しみも――少女らしい姿さえも奪われた。

 醜聞、視線、反応。彼女の周囲に対する過剰なまでの意識はこの両者が重なっている。

 

 決して多くが分かるわけではないが、いうなればスタートワンは心身共に長期間の抑圧を受け続けている状態だ。どちらか一方でも耐えるのは非常に難しい事を十余年と数年。彼女の本来持っていた気質を変容させるに十分なものだった事は間違いない。

 

 物静かで前に出る事を好まないように思えて、実際は饒舌で目立つこと自体は嫌という程ではない。人付き合いを避けているようで一度近くに来た者はまず受け入れる。自意識過剰なようで周囲に鈍感な様子を見せる事もある。口調も作ったものであると自身で言っており、表情は変わらずとも感情に合わせて耳と尾は動いている。自分からあれこれという事が少ないだけで好みには傾向もある。

 

 表面的に見えるものの大半は、彼女が一人で生きる中で培ったものなのだろう。その上で消しきれない本質はスタートワンにもある。

 

 ただ、そうした感情の全てを彼女は自身の意志で強く拒んでいる。

 それは領域の暴走を抑制するためのものではあるだろうが、何よりもスタートワンが己の地が出る事を恐れている。

 

「いい加減寝てろ」

「……、…………」

 

 頭を撫でながらそう呟くと、小さな身動ぎが返ってくる。

 撫でれば撫でるほどに、涙は止まらず流れ続ける。僅かにトレーナーへ向け上げられた顔。泣き腫らし充血した目が僅かな灯りに照らされ揺らぐ。

 

 彼女の自宅で繰り返した領域の調整の時も、同じように潤んだ光を見せる事はあった。

 衰弱しながらも、それでも一縷の希望を掴むべく輝いていたあの瞳。

 

「……ごめ、」

「喋んな……寝ろ」

 

 単なる現象。涙で潤み、照らされるだけ。あの時と変わらない。

 変わらない筈のその瞳は、今鈍く、そして澱んで揺らいでいる。

 

 見間違いでなければならない。場所の違い、照明の違い、体勢の違い。その程度の事が生み出した些細な変化。そうでなければ。

 でなければ、彼女は。

 

 

 ゆっくりと瞼が落ち、スタートワンの動きがより鈍くなる。

 

「…………とれ……」

 

 そう呟いて、そして完全に瞳が落ちた。これから彼女はまた短い眠りを経て、そしてまた飛び起きるだろう。

 暖色の電灯だけが、ただ腹立たしい程に、あたたかそうに部屋を照らしている。

 

 

 短い休みの時間。水筒の湯でタオルを熱しながら、スタートワンや己に貼りつく氷を融かしはがしつつ、トレーナーは極限まで頭を回す。

 分からない。スタートワンに関する情報の中に空いた幾つもの穴が、正確な予測を困難に変えていく。

 

 夏の間に調整に戻れる前提でいるのはやめた方が良い。それ以前に身体の鈍りを抑える事も必要。夏が終われば学業もある。休学届を出し調整に念を入れれば現状が続いても融通は効くだろうが、決戦の日はまだ何十日も先の事。その間に来る夜もまた数十以上。今この状況でそこまで辿りつくには、あまりにも時間がかかり過ぎる。

 

 仮に目標を越えたとして、その先はどうなる? この終わらない冷気と恐怖は止まる? 根本的な解決法は無いのか? そもそも原因は? 何故こうなった? 姉妹の家族にどう説明する? なら本来の家族には? その家族は何処に居る? 

 常々持ち続けていた小さな違和感。それがトレーナーの中で少しずつ明確な形を持ち始めていた。

 

 スタートワンはまず嘘を吐かないが、そもそも真実を語らない事も多い。必要な事は必ず共有するが、そう判断するまでに非常に時間をかける事もある。

 領域の取得の経緯は話したが、その詳細は言わなかった。家族の事も同様。

 入学前の生活も明確に言葉にする事は無く、領域を扱うにあたってどうやって経験を積んだのかも不明。その両方とも、必要な場合でないとスタートワンが判断した場合今後も言わなかった可能性が高い。

 

 表へと出てくる情報の殆どは、常に精査され、削ぎ落されたものだ。それ自体は決して問題ではない。

 今回スタートワンが完全に動けなくなった理由。それがまだはっきりと分からないことが、その操作の結果の可能性が拭えない事が最も問題だった。

 

 

 名前。怯えるスタートワンが呟いたその言葉が鍵になっている事は間違いない。だが情報が少ない。……あまりに、少ない。

 夢の中で彼女は何を見、何を聞き、何故ああなっていたのか。それは語りたがらない過去の事なのか、あるいは神隠しの間に見たものなのか……精神に大きなダメージを与えるほどの悪夢なのか。語らないその部分に、現状を打破する可能性がある。そう思えてならない。

 

 だが知る術がない。知るための方法が個人の選択に依存する以上、今のままで原因を探る事は極めて困難だ。

 出来る事はこれ以上の悪化を食い止める事のみ。打破するために、少しでも時間を稼ぐ事だけ。

 

「……ぅ、……」

「…………」

 

 深く溜息を吐きながら、閉じた瞳から今も涙の筋を作り続けるその頭を撫でる。

 この一週間、ひたすらに泣き続けたスタートワンは、それでも一度として何があったかを語らなかった。これほどまでに憔悴しながら、精神を擦り減らして、それでも口を閉ざして耐えていた。何があったのか言うように問いただしても、首を縦に振る事さえなかった。

 

 言えないのか、言わないのか。それがどちらであったとしても、彼女は間違いなく、トレーナーに話すという選択を取らずにいる。それは彼女にとって、トレーナーという存在が全てを話していいという存在に成り得ていないという事だ。これまで語った事さえ、状況による後押しが無くても聞けたと言い切れない。言ってはならないという理由があるのだとしても、「言えない」と、そうはっきり断言された事も無い。

 

 なにより。事ここに至って、体が震えない。

 これまでの調整であれば指先が触れるだけで芯から凍り付くような寒気と熱気を感じたものだが、今この凍て付いた部屋の中に居て、彼女から発せられる冷気以外のものを感じ取れない。領域の存在が、彼女から漏れ出るような感覚が薄い。

 

 この状態にあって。

 なりふり構っていられるほど余裕の無い状況にあって。

 彼女は、自分の力が齎す影響を必死になって抑え込んでいる。

 目の前に今まで一緒に領域の調整をしてきた相手が居るというのに。

 

 この一年半を通して、彼女は未だ心を開き切っていない。関係の構築が不完全なまま、二年目の最も大事な時さえ終わろうとしている。

 指導者と教え子という立場でありながら、互いの関係は仲の良い隣人や学校の友人とほぼ同じ位置に居た。

 本来ならば、そこを一歩、いや二歩、三歩と先んじていなければならない自分が。家族の居ない彼女に、家族と同じ位置にまで並んで気を許せる相手にならなければいけない自分が。

 

 ぎりと噛み締める音を誤魔化すように、ちらと視線を壁に向ける。時計の長針が頂点を向き、短針が二を指す。また一つ時間が過ぎていた。

 菊花賞に出られるかは分からない。出た後、どうなるかも分からない。学園を去るだけで済めば最高でさえあるだろう。怪我をして後遺症が残れば、あるいは領域が完全に制御出来なくなれば、あるいは。

 

 どこまで、どうなるか。それをトレーナーとして、制御出来るのか。

 出来る事はしてきた。策はなくもない。賭けるしかない。無い、が。

 

 これから日が昇るまで、彼女は何度悲鳴を上げ、苦しむだろう。

 朝までの時間は、あまりに遠い。




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