夏合宿の残りが一週間に迫った。
スタートワンの顔を見なくなってから、週末も数度越えた。見る事はおろか、合宿所に戻ったとも、合宿を中断したという話さえ聞かない。
彼女は今も尚、トレーナーと共に籠っているようだった。
ハッピーミークは今日の夜も、静かに部屋の窓際から外を眺めていた。
残り少ない合宿の夜、頼りない明かりに照らされる道と、静かな波の音がする月明りの海。窓からの景色は、うだるような熱の残る夜でさえ涼し気に思わせる。
団扇を片手に寝息の聞こえる部屋の中をちらと見ると、不意に起き上がる姿が視界に入った。起きた人物はハッピーミークに気付き「あら、まだ起きてたの?」と微笑む。
「……おはよう、マルゼンスキーさん」
「ええ、おはよう……って日付変わったばっかりじゃない。まだまだ夜よ?」
「…一応?」
「一応って……まあ、起きちゃったのは確かだけど……」
マルゼンスキーはそう言いながら、足元の寝ている同室を起こさぬように静かに窓際まで移動する。
ちらと起こした者はいないかと確認して、それからハッピーミークに向き直ったマルゼンスキーは、普段と変わらぬどこかぼんやりとしたその顔に眉を下げる。
「スタートワンちゃんの事?」
「…………ん…」
「…気になっちゃうわよね」
「……」
小さな頷きと共に、ハッピーミークは膝を抱えると顔を埋める。こうして夜中、こそりと一人窓辺に座る姿をマルゼンスキーはもう何度も見ている。それがスタートワンの居なくなった日から始まった事も知っている。
目元だけを少し出したハッピーミークは、外の景色を見たままさらに続けた。
「合宿、もう一緒じゃないし、終わってからも戻らないって……」
「……、あの子のトレーナーからの連絡よね」
「レースの為の休学……」
一人に出来ない。シンボリルドルフのトレーナーのスマートフォンを経由し画面越しに答えた彼は、そのまま菊花賞までの方針を語った。
菊花賞までに一戦するが、少なくとも衆目に出るのはそのくらい。それ以外は離れた場所で本番に集中するため休学する。
つまり、スタートワンの状況はトレーナーから話さない限り不明なまま。合宿が終わって何処へ行く、離れた場所で何をする、どのレースに出ようと戻ってくる、そうした一切が分からなくなる。
LANEの既読がつかなくなって久しい今、二人の様子を知る事は非常に難しくなるということだった。
「大丈夫かな、とは思ってたけど…風邪を拗らせたまま会えなくなるなんてね」
「前からずっと、調子、わるいみたいだったし…」
「合宿前からちょっと変ではあったけど、それにしたって様子がおかしいって話で収まるものでは無かったものね」
「……シンボリルドルフさんも、暫くは集中するって」
「そうね…スタートワンちゃんと走るためにかなり本気で調整するって言ってたし」
菊花賞に向け本腰を入れる。そう宣言したシンボリルドルフは、普段より声に力が入っていた。入れ込んでいる、とさえ言えただろう。
ルーティンを崩さぬよう最終週末である今回も生徒会の仕事をしに学園に戻っている彼女は、結局スタートワンに会いに行ったあの日何が起こったかを語ってくれていない。
『なんで言えねえんだよ? いくら何でも唐突すぎんだろあの感じ』
『アタシにも、事情言えないの?』
『……ああ。言えない。これは彼女のトレーナーとの約束なんだ』
ミスターシービーやカツラギエースに詰め寄られてなお言葉を濁した様子には、トレーナーからの口止めだけとは思えない、言外の『これ以上は不可侵』という意思が見て取れた。
「ルドルフも、なーんか秘密があるっぽいし……気になっちゃうわね」
「……ん…、」
「二人で私達に内緒話なんてずるいわよね?」
「……。……ん……」
「……。それだけじゃない?」
おどけた言葉に頷きを返すまでに溜め込まれた間は、マルゼンスキーでなくとも気付く。
「……初めてあった時から、ずっと調子が悪そうだった」
「…………。」
「レースに出る時も、ずっと気分、良くなさそうだったし…、泊りに行っても、ずっと私達、気にしてた」
そこでハッピーミークが顔を上げ、マルゼンスキーを見つめる。
その薄い表情でも、マルゼンスキーには確かに確信をもっている事が分かった。
同じことを思っているよね、と。
「…スタートワンちゃんと初めて会ったのは、去年の入学式の当日だったの。寮の子は新入生の案内で準備もあるけど、私は寮じゃないから、どうしても暇が多くてね。案内とかが免除されてるクラシックの子達の練習を見に行こうとして、そこで見つけたの」
日も傾き始めたころから、じっと練習するウマ娘たちの姿を眺める姿が目に入った。
遠方から入学する生徒をはじめとして、学園に在籍する者の大半は寮で生活を行う。一人暮らしをする生徒も居ないわけではないが、圧倒的に少数派だ。故に寮の説明が行われているであろう時間に学園内を出歩いている生徒の存在が、自身と同じである事はマルゼンスキーにも見当がついた。
焦燥するかのように眉に皺を寄せ、青い顔で眼下の風景を眺める少女の姿を、なぜそこまで追い詰められているのだろうと思った事は今でも記憶に新しい。それが彼女の普段からの様子である事を知ったのはそれから少ししてからだったが、それでも当時はフェンスに置かれた手袋越しの手が微かに震えて見え、声をかけずにいられなかった。本当に身体が震えていた事だけは、その後触れた肩ですぐに気付いたのだが。
あの時の選択は。言葉は。いまでも間違っていなかったと思っている。
「出来る事はしてきたつもりだったけど……。風邪を拗らせただけじゃ、ないんでしょうね」
「…………」
会話を交わし、身体に触れ、思いを伝え、共に走る。時には発破をかける事もあった。その度に彼女の表情は和らぎ、薄くとも浮かぶ笑みも増えていた。
感謝祭前に起こった三女神の噴水での事も、一度は乗り越えたと思っていた。
明確に調子が崩れ始めたのは、やはりダービー前後だろうか。
冷静を装っていたが、明らかに焦るような表情が多くなった事は皆が気付いていた。彼女のトレーナーからシンボリルドルフを除いて直々に様子を見ていて欲しいという注意喚起もあった。ミスターシービーなどはこそこそと一人で風呂に入る彼女についていく事もあったが、その度にさらりと受け流されているようだった。
風邪を拗らせたと言うのも、実際にはその発言のもっと前からの時点でそうだっただろう。合宿前のバスで季節を間違えたのかという程の厚着をしていた事も、身体から漏れ出す冷気も。風邪を引かない方がおかしく、風邪を引いたという言葉が嘘にしか聞こえない上で、彼女が過保護になる事を嫌がるために干渉は最低限になっていた。
それでも。
自分たちも、当然トレーナーも、出来る限りの干渉はしていたはずで。
した結果がこれだ。
「……信用、無かったのかな……」
ぽつりと零れたハッピーミークの思いは、部屋の中に沈んでいく。体勢を変えぬまま、窓の先を見るその瞳に薄暗い街灯の反射が潤む。
小さく、一つずつ漏れ出す言葉は、ハッピーミークの抱えた不満と不安。
シンボリルドルフを経由して合同のトレーニングを行ったあの日。ハッピーミークがスタートワンに抱いた印象は「体調不良っぽい子」だった。
度々走るうちにその印象は多少薄れこそしたが、連続して走れない様子から完全に消える事は無かった。同時に彼女について知れば知るほどに、聞けば聞く程に新しい表現が加わる。
適性外でも頑張る子。
適性外でも強い子。
思ったより毒舌な時のある子。
頑固になった時は大変な子。
怒る時はちょっと怖い子。
体中傷だらけの痛そうな子。
周りを良く見てる子。
周りを困らせないようにびくびくしてる子。
痛い、辛いって言えない子。
誰かが見てないとだめな子。
楽しそうな声で、苦しそうに走る子。
ハッピーミークがスタートワン自身から聞いた話は殆ど無い。
体の傷跡の事も、呼吸が苦しくなる事も、家族の事も。
ホープフルステークスで聞いた領域の本当の状態も、結局後で彼女のトレーナーを経由した。
殆ど、まともに語ってくれたことは無かった。
仮にも同級生。同期で、共に練習も勉強も、同じ部屋で宿泊もして、合宿以前でも同じ釜の飯を食う生活を送ってきた。
家族でも無ければ、教師と生徒でも、上司と部下でもない。同じチームのメンバーでも無いし、同じレースを走った事も無い。クラスさえ別だ。
それでも、ハッピーミークとスタートワンは友達だ。
友達として、不安があるなら聞きたくて、悩みがあるなら支えたくて。
何かが怖いなら、それを和らげたい。
そう思う事さえ、彼女には重荷だったのだろうか。
どこまで行っても語らない。どこまで聞いても頷かない。彼女の語った「プライド」は、彼女をどれほどの強さで縛っているのだろう。それさえも、遠巻きに立たされたままのハッピーミークには推測出来ない。
衰弱したままベッドに伏せるスタートワンを、何を聞いても胡乱に返すスタートワンを、自分の身より周りの誰かを優先したがるスタートワンを。
そんな困った友達を支えたいと思うこと自体が、邪魔だったのだろうか。
「……ミークちゃんも、心配よね。ああまで皆にあれこれ言われるスタートワンちゃんが、大体の事を誤魔化しちゃうのは」
「……、」
「あの子も、そうしたくて誤魔化してるわけじゃない。それは、ミークちゃんも気付いてると思うの」
決して大きな動きではないが、ハッピーミークの首が僅かに上下する。
スタートワンは自分に不利な事は誤魔化しもするし嘘を吐く事もある。かといってスタートワン自身嘘や誤魔化しを好んでするような様子は見せたことが無い。むしろ、説明するとなった時は非常に言葉に悩んでいるような素振りさえ見せた。誤魔化す事を極力避けつつ、どこまで言えばいいのかに細心の注意を払っていた。
言わないというより、言えない。口止めをされたのか、或いはそれに匹敵する何かをされたのか。そんな風にさえ見える姿。
だからこそ、誰もスタートワンから強行して聞き出そうとまではしなかった。
「皆も気を付けてたし、私もそれなりに気を付けてたつもり。あの子も気付いていたんでしょうけどね」
「……それでも、言わなかった」
「ええ。それでもスタートワンちゃんは言わなかった。強情な子よね。シービーちゃんも結構困ってたみたい」
自分のスタンスを崩してまでやたらちょっかいをかけるのも、自由である事を好むミスターシービーから見ると自ら枷を嵌め閉じこもるような彼女の姿は納得がいかなかったのだろう。マルゼンスキーの同期であるこの合宿メンバーの一人も、事情を汲んで協力しているようだった。
「そんな二人でも口を開かなかったならもう筋金入り。戻ってきたとしても、これまでみたいに関わっても意味はないんでしょうね」
「…………。」
「それはミークちゃんが頑張った事が無駄だったっていう事には、繋がらないと思うわ。スタートワンちゃんの為に頑張ったんだもの。それは私だって感謝してる」
スタートワン自身があまり重い空気を好まないためか、彼女自ら空気を変えようと工夫する事は多かった。ハッピーミークもそれに同調する事もあったし、同じように自ら動く事もあった。一人で完全に変えるというのは難しかったが、それでもハッピーミークの頑張りは皆が気付いていた。
「……これまでと同じじゃあ無理なら、これから違う方法で何とかしていくしかないかも」
「……違う方法……?」
僅かに顔を上げたハッピーミークに、にやりと笑みを見せるマルゼンスキー。まるで悪戯でも思いついたかのような。そんな表情。
「これからスタートワンちゃんが戻ってきた時の為に、私達が出来る事。それはきっと、私達が今までしてこなかった事だと思うの」
食事はした、話し合いもした、練習を共にし、共に眠る事もあった。
今この中で、スタートワンに誰もした事が無い何か。
ハッピーミークは言葉の意図が読めず少し考え、疑問を抱えたまま問いかける様に呟く。
「…………一緒に、走ってない……?」
「ええ、そうね。私達は一度も、スタートワンちゃんとレースに出たことは無い」
それをしたのは、今ここに居ないもう一人。
スタートワンが執着する彼女のみだ。
「今すぐに、は難しいでしょうね。だから何時か。何時かのその時を待つしかない」
「……何時かって、いつ?」
「それも分からない。その時がずっと来ないままになるかもしれない。私達に出来るのは、待つことだけよ」
最早無責任でさえある。投げやりで行き当たりばったりな言葉。
しかし異を唱える声は無い。大半が眠っているからでも、耳を揺らして盗み聞くのに集中しているからでもない。
ならばどうする。その答えを誰も出せないからだ。
「ミークちゃんは、待てそう?」
「…………わからない」
「ふふっ、それはそうよね。待てないなら、走っちゃいましょ?」
「……走る?」
「あの子が見て思わず元気を出しちゃうくらい、元気が出過ぎて飛び出しちゃうくらい。私達が走る姿を見せてあげるの」
走りたいという本能を。
あるいは、このまま終わっていいのかという熱さを。
もしかすると、寂しいという寒さを。
そのどれかが原動力になれば。元気を取り戻し、顔を出して、レースに出て、そして帰ってくる。
かも知れない。
それが結果につながるかは、分からない。
それでも、走れば何かが変わる、かも知れない。
出来そうな事はそのくらいだ。
なら、それをやればいい。
「………………」
「どうかしら? やってみる?」
「…………、ん……」
「ふふっ、頑張りましょうねミークちゃん。ほら、今日は私と一緒に寝ましょ? いっぱいぎゅーってしてあげる」