G2神戸新聞杯当日、未明。
ライトの明かりだけが輝く雨の中。場内では警備員や一部のURA職員が場内を忙しなく移動し、それ以外は無音が残る時間。
辛うじて光源に照らされた駐車場の端に車が止まり、二つの影が降りる。小さな影と大きな影。奇妙な事に小さな影はレインコートを着ているにも関わらず、その更に上から大きな影の持つ傘に守られていた。まるで雨粒が一滴でもかからないように、一滴でもかかる事が致命的であるかのように。
守られるままに一歩を踏み出す度、その足が通るアスファルトからぱきぱきと白い膜が貼り、踏まれては砕ける。白い湯気は冷気を伴い、やがて雨に紛れて溶けていく。ゆっくりと、そして真っすぐ迷う事なく、二つの影はレース場へと歩いていく。
車の中にはいくつもの氷の粒が、今も溶ける事無く座席の上に転がっている。
阪神レース場は前日から続く雨で芝がぬかるんでいた。午後を過ぎても降り止む様子は無く、この様子では全てのレースが終わった後も雨は続くだろう。
レインコートとちらほらと見える傘の並ぶパドック。これからの出走者を待つステージ裏で、重い空気が場を包んでいた。
残っていた残暑を消し去る雨が降っている事だけではない。一人、また一人とパドックへ顔を出す中、通路の隅で蹲り静かに頭を抱えるウマ娘に嫌でも視線が向かう為だ。
「……何をしてるの、貴女」
「っ…………。ぅ……、ぁ」
声がかかり、ウマ娘はびくりと肩を震わせる。珍しく手袋を外しているその手を下ろし、ほんの僅かに顔を上げ、見知った顔がそこにある事に気付いて小さく声を漏らした。
声をかけたのは皐月賞からスタートワンと関わりの増えたウマ娘、三人の内斜行で処分を受けた少女だ。
「な、んで……こ、こ」
「なんでって……。前哨戦をここに選んだからよ。他の二人はそれぞれ違うレースに行ったみたいだけど、私は貴女と一足先に勝負しに来たわけ」
「…………そ、ぅ、です……」
「…。不調とは聞いてたけど、ここまでとはね」
「……ごめ、なさ、ぃ……」
「言わなくてもいいわよ。辛いなら落ち着いてしゃがんでなさい」
スタートワンの不調は既にニュースとして公に広まっている。このレースに置いても、そして先に繋がる菊花賞においても、今年はその存在無しに語れない程だ、知らないわけがない。
その上で、この場に集まったウマ娘やスタッフの胸の裡に呟かれた言葉は概ね三つ。「なぜこれで出ようとしたのか」「まだ休養するべき状態じゃないか」そして「これは勝ちは無いな」。
目の下の隈は深く、肌艶も良くない。辛うじて整えただろう筈の髪も既に乱れが出ている。最低限の体裁さえ整っていないようだ。調子の悪そうな顔で眉を顰めている普段のスタートワンと比べ、蒼白い顔に苦渋の表情を滲ませ、カタカタと肩を震わせ会話を交わす今のそれを見て走れると思う方がおかしい。こんなコンディションのまま出走を決めたトレーナーの判断を疑わずにはいられない。
疑惑の視線が幾つも向けられている事に渋い顔をしつつ、少女はスタートワンに問いかける。
「そんな状態で、何で出てきたのよ? 貴女のトレーナーは止めなかったの?」
「……とめ、ました。でも、でないと」
「…貴女が無理を通したのね。そんな状態で勝てると思ったの」
「ごめん、なさい。でも、かたないと」
「勝たないとって…、それで勝てるなら苦労しないわよ。貴女だって分かってるでしょう?」
「はしらないと、勝てない、から……」
譫言のように繰り返される返答。それまで見てきた彼女との違和感が強まった。いつもならば勝つのは自分だと言わんばかりの自信ありげな発言が出ている筈。それが今は、まるで何かに操られるかのように勝たなければと呟く。
それは勝つ事への集中と言うよりも、周囲を度外視した妄執にさえ見える。
「っ……。見くびられたものね。私だってダービーの頃よりずっと力を付けてきたのよ、少なくとも、このレースで貴女に負けるつもりは無いわ」
「でも、勝たないと」
「そんな様で出て来て勝つつもりなのね。このレース、後悔させてあげる」
「こうかい…………、まけ、る?」
「ええ。この私が、必ず貴女に、かって……」
言い終わらぬうちに、ゆらりと蹲っていたスタートワンの体が起き上がる。俯きかけたその顔がゆっくりと持ち上がり、乱れたままの前髪に顔を半ば隠したまま、瞳だけが少女を射抜いた。
「勝つ…勝つ……私が……勝たないと……」
以前、それこそ一月前までの姿では考えられない、取り憑かれたかのような姿に思わず怯む。視線を切らぬまま、スタートワンがゆっくりと近づいてくる。焦点が合っていない、瞳孔の開き切った瞳。ふらふらと体を揺らしながら、一歩、一歩と目の前に歩いてくる。
「きっかしょう…に、でないと……。かたない、と……。きっかしょう……かつ……」
「ぅ……、あ」
「いっちゃく……とる、とらないと……かたないと、だから……」
あと一歩でぶつかるというその瞬間、スタートワンを呼ぶ声がかかる。パドックへの誘導の声だ。
それを聞いた途端スタートワンの体が止まる。そして視線が切れ、かつ、かつ、そう呟きながら、緩慢な動きのままパドックへと歩いていった。
その一連を見ていた当事者の少女も、周囲も、スタッフさえ言葉を発せなかった。まるで幽霊に取りつかれた様を見たかのような異様な光景が、沈黙を越えた寒々しさを齎す。
かたかたと震える己の手を抑えながら、去っていったスタートワンの方を少女は見つめる。
取り憑かれたのではなく、あれは
パドックの俄かな拍手の音が遠くなる。背を凍らせる冷気が通路に漂う。
ぱきりという小さな音が響いた。床に転がった氷を誰かが踏んだのか、欠片が転がる。
雨は更に強まる。重バ場としても特に酷い土砂降りの中、一部の芝にはぬかるみどころか水たまりさえ出来ていた。
それでも一度始まったからにはすべてのレースが終わるまでは止まらない。メインレースは始まる。
『雨の中始まりました本日の阪神レース場。雨脚も衰えぬままメインレース神戸新聞杯の発走時刻となりました』
『ぬかるみに足を取られれば転倒の危険もあります。全員完走を、安全に目指してほしいものです』
実況と解説の声が雨音に紛れながらも聞こえてくる。ゲートへと一人、また一人と進んでいく。
最後に残る一人が、俯いたままゆっくりと歩みを始めた。
『最後の出走者、スタートワンがゲートに入ります』
『パドックでも幾つか言及がありましたが、不調を押しての出走はやはり心配が勝りますね……無事に完走出来ると良いのですが』
『これまでの実績を考慮して一番人気にこそ押されていますが、二番、三番人気との差は極めて僅か。果たして今回の出走が吉と出るのか凶と出るのか注目の選手です』
スタートワンがゲートの中まで進み、そして扉が閉められる。
レース開始までの僅かな間で、俯いていたその顔が持ち上がった。
燃え盛る炎の銃口が視界の中心に見えたのは、恐らく同時のタイミングだろう。
『……!?』
『うわっ!?』
「ひぃっ!」
「きゃああああ!!」
実況と解説の悲鳴が場内に響き、同時に客席からも叫喚が上がる。己の見たものを信じられないと多くの者が混乱に喘ぐ。
そんな声の中を突き抜けるかのように、ゲートから全てのウマ娘が走り出した。今だ状況を掴み切れていない実況がそれに気付き、カメラを振り回して何かを避けようとするカメラマンに声を掛け、走る様子を映すように促す。
『なんだったんだ……あ、し、失礼しました! ただいま映像が乱れてしまいました! レースは既に始まっています! 現在一番手は……な、なんということでしょう!? スタートワンを除いて全員がハイペースの逃げ! まるでゴールを目指しているのではなく我先に逃げているかのようです!』
それはスタートワンを鬼にして始まった鬼ごっこに見えた。影を踏まれ、越えられたら終わりの逃走劇。たった一人を置き去りに、残る全員が前方で詰め合う。
最後方、既に10バ身以上の差を付けられて走る赤い髪の少女は俯いたまま、まるで悠然と、欠片程の焦りも見せる事無く邁進する。幾ら序盤と言えどここまで距離を離されているにも関わらず、気楽に走っているようにさえ見える。
眼前に見える筈の光景が、既にこれが競い合いとしての姿を完全に失っている事に何の感慨も持っていないかのようだった。
ウマ娘達の中に自分が今何のためにこのレースを始めたのか、正確に思い出せる者は居なかった。
そんな些事より、今大事なのはどこまで走れば自分が生き残れるかという事だった。
がちり、がちりと軋む骨の音。銃口を揺らし、狙う事を楽しむかのようにけたけたと笑う。炎で形作られたその姿の奥に、確かな物質が存在する。
襲い来る炎が幻覚である事は皆十分に理解していた。一部は以前にも同じものを受けていたからだ。しかしそれを凌ぐ術が無い。背を焼く熱の痛みに幻だという確信さえ揺らぐ。根本的に、何かが違う。
雨に濡れ冷えている体が恐怖に燃やされている。少しでもこの熱さから逃れようと、その熱源から遠ざかろうと足を限界まで早める。
もがけば藻掻く程に息が詰まる。全身に溜まる熱と痛みが、麻痺を伴いながら激痛へと変わっていく。スタートワンとの問答からその違和感に気付いていた彼女もまた、けれど解決策も無いままに逃げていた。否、領域を出せば多少その熱を遮ってはくれるだろう。それを盾に強引に突破を試みれば、それは解決になる可能性もある。
あくまで、それが出来ればの話だが。
「あは」
耳の傍で声が漏れた。聞き間違える筈の無い声。周りを走る者達も同じものを聞いたらしくその表情が強張っている。
まだ距離は離れている。雨と走る風の音。聞こえる筈がない。
「あは」
が、聞こえる。耳に貼り付く。
その息遣いが、足音が、近づいてくる。鮨詰めの列が乱れ始め、瓦解する。本来のペースを見失い使い続けた体力は、雨による芝のぬかるみ、寒気と炎による体の強張り、更には詰め合いながら走っていた事により桁違いのペースで消費させられていた。後ろに控えたたった一人を除き、全員が息を切らしていた。
「あはっ」
咄嗟に視界を後ろへ向ける。
体に叩きつける雨さえ
あれに近付かれてはいけない。追いつかれてはいけない。追い抜かれれば最後、その者に、
“次”はなくなるだろう。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……!」
「あは……あと、ちょっと」
「ヒッ、ひぃ、はっ……!?」
声がついに本物となり、呼吸と足が大きく乱れる。その一瞬を逃さず、赤い影が擦り抜けた。
「ぁ」
「ひとり……あはは」
緊張が解けたように減速するのを見向きもせず、彼女は次の獲物に狙いを定める。獲物が必死の形相で足を速める。まだゴールが遠い。追いついた。
「ふたり」
おかしい。あれだけの距離を離されていたというのに、追いつく速度が速過ぎる。こちらが同じ足で地を踏む間に、彼女の足は二度地を踏んでいる。
「さんにん、よにん……! あはっ……はは…!」
また抜かされた。そして速度が一気に落ちる。後ろでもたつく者達は、最早惰性で走っているような状態だった。
しかし炎だけは加速する。侵食によって体の殆どを黒く染めながら、尚も一切の速度を緩めず。
その表情も既に炭化し見る事が出来ない。しかし分かる。脳髄を焼き溶かすような熱を伴って、来る。
引き攣った口元で笑みを無理矢理に作り出し、見開いた瞳で最後の標的を追うその姿が。
もう残っているのは自分だけだった。残る距離はおおよそ100メートルを切っていた。残る100メートルで、追い抜かれていないのは一人だった。
距離は1バ身あるかどうか。スピードに殆ど差はないがスタミナの尽きかけている自分と、元々の体力が少ない上に出走前から憔悴した彼女とでは有利不利も分からない。残されている時間も無い以上、逃げ切るために手段は選べない。
勝たなければならないのだ。なんとしても。ここでの敗北は菊花賞への椅子を失うだけではない。より大きな何かを失いかねない。
「これで、決めるッ!」
余裕はもう完全に無い。今以外に使える状況も全て失った。その上で、今使う事が絶好の瞬間。この場で切れる最強の手札。渾身の領域で、最後を詰め切る。
己が為の世界。舞い踊り、そして歓声と共に輝くこの舞台に上がった。全てはこの燃え凍えるレースを終わらせようと。
その舞台の端から炎が上がり、そして瞬く間に焼け落ちた領域が閉じられたのは、まだ距離が半分以上残っている地点だった。
「――――――は」
そこにあるのは燃え盛る自分以外の領域と、泥と雨だらけの視界。
今開いたばかりの世界は、完全に出し切った気力と共に消え去っている。
理解が出来ない。違う、理解を拒んでしまう。
押し負けた。元々大きな差がある事は知っていた。皐月賞でも、ダービーでもその力に飲まれた。
その分を取り返すため、夏も、この一月も使ってきた。実力も上げた。一瞬だろうと拮抗させ、脅威的なその力に負けないだけの強さを手に入れた。つもりだった。
ならば、この結果は。
熱気と冷気の綯い交ぜとなった領域にも、その足にも追いつかれる、この結果は。
あと一歩、近づけば勝てるゴール板、その真横を通り抜ける彼女は。
「さいご」
『ご……ゴッ、ゴールッ……! 強雨とぬかるみ、アクシデントと逃走、混迷を極めた神戸新聞杯を勝利したのは、なんと不調に加え最後方からのスタートとなったスタートワン! 情け容赦無い死神の
呼吸も鼓動も聞こえない。耳鳴りさえ遠く、歓声が聞こえる事も無い。観客さえ、その光景を疑っているようだった。
掲示板にはクビの文字。共に三着以下に大差をつけていた。
しかし、ほんの僅かに、決定的な開きをもってして、炭の塊は誰よりも前を行った。この重賞の舞台、次の栄冠を目指し鍛え続け、調整し、集まった全員が。
鍛える事も、調整さえ満足に出来ていない、最もこのレースを勝つ可能性の低い者に負けた。
疲労と敗北感を受けながら、少女は膝を付く事も出来ずに勝者を見る。見ていたのは彼女だけでなく、スタートワンを除く全員、観客や実況席の者達さえも一点に視線を向けていた。
黒い人型となっていたスタートワンは、いつの間にか元の姿に戻っていた。足元の芝が凍り付き、冷気が身体から立ち上っている。炎はもう見えなくなっていた。
微動だにしなかったその肩が、ぴくりと揺れる。
「…………かっ、た」
俯いたその顔が上がり、首だけが掲示板を向いた。
「……かった。勝った」
無表情に戻った口元が、ぐにゃりと歪む。
「あは……かったぁ……」
口だけが弧を描き、瞳に光は無い。光ではない。瞳が無い。誰かが呻いた声さえ耳に聞こえる程の無音。痙攣するようにぴくぴくと、その体が笑みに震える。
何も写さない黒の眼球から、黒く滲んだ氷の粒が転がり落ちる。
「あは、あは……かった、勝ったぁ……」
今ここに、死神は成った。己の存在を削り続け、勝利の為だけに全てを使い尽くした少女は、皇帝の首を切り落とし、その肉体が
これが何時最期を迎えるかは誰にも分からない。どれだけその時がすぐに来ようとも、死神は最後の冠、菊の舞台にだけは必ず現れるだろう。もしも菊花賞が終わって尚その身が動き続けた時、次に狙われるのは皇帝なのか、それとも新しい標的なのか。
「あは…………ぁは……は」
小刻みに笑いを漏らしていたスタートワンから、笑みが消える。
顔が再び俯き、瞳も戻っていた。
「……かつ、れーすに、かたないと……はしらないと……」
出走前の怯える表情が戻り、まるでレース自体が無かったかのように不安げに視線を迷わせる。
「かたないと……きっかしょう、はしる……きっかしょう……」
ふらふらと頭を揺らし、周囲の様子に気付かないまま呟き続けるスタートワンが歩く。己が今勝ち取った勝利にすら興味を失い、二着へ下した少女の横を通り過ぎる。
誰も喋らない、動きもしない。沈黙と怖気に包まれたレース場で、少女は震える己の手を見つめた。
神戸新聞杯を走った者の大半が学園を去る事が大々的に取り上げられたのは、それから遠くない日の事だった。