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スマートフォンから視線を外し、溜息を一つ。気を切り替えテントを出る。
テントの向こう側には一面の銀世界が広がっている。防寒着からすり抜け入ってくる寒気に身震いしつつ、トレーナーは自分が離れて直ぐテントの奥で丸まった少女に声を掛ける。
「起きろ。トレーニングだ」
「…………。」
寝起きとは思えないほどに深い隈を付ける瞳が開く。一月以上真面な睡眠がとれなくなったスタートワンは、ここ最近は喋る事も少なくなった。風邪は収まったが、寒さから来る風邪に似た症状は弱まる様子を見せない。ただでさえ消耗の激しい体力を僅かでも温存するため発声はボイストレーニングやウイニングライブの練習時以外では避ける様にお互い注意をするようになった。
山でキャンプをしながらレースに向け特訓をするようになったのが合宿が終わって直ぐ。神戸新聞杯こそ勝ったものの、菊花賞に向けた調整は今一つ安定していない。
「ウォーミングアップが終わったらキャンプ周り二周。それから筋トレだ」
「……。」
こくりと頷き、スタートワンはストレッチを始める。ここ暫く俯き気味なせいか、少し離れただけで小さな体が更に小さく見える。元々能動的に人と関わる事は少なかったが、今の姿は寧ろ周りの人間を拒絶しているようでさえあった。
ざくり、ざくりと雪を踏みしめ、少しずつ足の動きが早まる。山と山の境、比較的低地だが標高のあるここは数十年前に切り開かれ、そして時代と共に廃棄されたキャンプ地の一つ。学園の生徒が過去にここで特訓をしたという記録が残っている程度で、殆ど山の廃墟といってもいい場所となっている。
今のスタートワンに必要なのは単純なトレーニングでは無く、元々の課題であったトップスピード維持のためのスタミナとそこまで一度に加速するためのパワー。なによりそれを精神的な負荷を弱めた状態で行うという事。
その全てが整うこの場所は学園と比べると少しならば走る事も可能だが、精々が小学校の校庭のような小規模の距離しか稼げないため圧倒的に運動の差が出る。しかし人目を気にせず鍛えられ、何より体力が落ちただけでなく気力も尽きているスタートワンの調整にはうってつけの場所だった。
ウマ娘としてではなく人間のジョギングと変わらない速度でゆっくりとキャンプの周りを回る赤い少女。普段と違い自らの足元をじっと見つめ、周囲を気にする様子も無い。眠たげに目を擦ったかと思うと、ぱらぱらと光る粒が目元から零れ落ちる。
トレーナーは飯盒に水を注ぎ用意しておいたカセットコンロに火を入れる。傍にフェイスタオルを二つ用意した。
睡眠時間は短い方、という彼女の言葉を信じるなら元々日付が変わる直前に寝て未明より前には目を覚ますという生活を続けられる程度には短いようだが、それでも今の状態はその数分の一の時間しか取れていない。慢性的な不眠の中でも重いものになるだろう。
スタートワンとしてもこの短さはかなり応えるようで、先の涙など目の乾燥や倦怠感、空腹をはじめとする感覚の麻痺など今までとは違う問題を論えばキリがない。風邪の収まりと入れ替わるように出始めたこれらは、もはや菊花賞までの調整の中で完治は難しい程となっている。
周囲に発生させる冷気も止める術はなく、夏合宿の頃以上に制御が困難となっていた。避難所兼練習場として選んだこの山を雪山に変えたのは、冬が近づいているのだとしても残暑の残るこの時期ではスタートワンの存在が決して切り離せないところにあると考えざるを得ない。
「……ぐずっ……。」
「タオルだ、拭け」
「……。」
寒さで鼻は赤くなり、涙は零れる度に凍っていく。
顔をぐしゃぐしゃにしながら戻ってきたスタートワンに沸かした熱湯に浸したタオルを渡し、顔を拭かせる。その熱さに顔を強張らせる彼女は、それでも文句を言わず顔を拭った。気泡が湧き出るような熱湯に浸したタオルなど簡単に持てるようなものではない。トレーナーも耐熱手袋を用意して絞らねば火傷をするほどの温度だ。けれど今の動く氷像のようなスタートワンに生半可な温度のものを渡せば、たちまちに凍り付いて使い物にならなくなる。顔を綺麗にするために顔をずたずたにするような事は出来ない故の選択だった。拭いて肌が見えたそばから乾いたタオルで拭き整えていく。
「出来た。続きだ」
小さな頷き。タオルを返すと共に彼女は今日のメニューをこなしていく。耐熱手袋を外し返されたタオルを素手で触れば、既に熱が殆ど消え凍り始めていた。
領域と呼ぶ事しか出来ない。初めてその詳細を語った際の発言が過る。
黙々とトレーニングを続ける姿を見つめながら、トレーナーは思考を回す。
前走は勝った。勝ってしまった。
本来の実力が出せたなら思う事はない。本来とはかけ離れたものが出てきた所為で考える事は膨れ上がった。
これまでにスタートワンが語った考え、そして現状に至ってを考える限り、やはり
溜め込んだエネルギーはそれを封じようとしても漏れ出す。その発散の方法として領域を作り出した。だが使い方が違うからこそ発生する無駄は発散される場所を求め再びスタートワンに戻ってくる。三女神によって溜め込まれたエネルギーは、領域という形で発散するには限りなく無駄が多いのだ。
これまではその無駄が戻ってきても何とか出来る程度にはスタートワンも耐えきれていた。しかし十数年に渡って蓄積され続けたエネルギーはスタートワンの中で燻り、ついに合宿前冷気と言う形で溢れ出し、遂には決壊した……考えられる流れはやはりこれが近い。あの日見たものを聞く事も出来れば考える余地は増えるのだが、今はより根本的な問題の解消に意識を向ける。
トレーナーとして行うべきは二つ。原因の解明と対処だ。スタートワンが使っているこの不可解な力は何なのか? それはどのように使う事でスタートワンを苦しめないものになるのか? この二つの問題を早期解決する事が重要である、ということまでは比較的早期に考え付いた。
しかし。ここからの問題は途端に難解なものになる。そもそもとしてこの原因となっている力が何なのかが全く分からない。彼女の推測に曰く力の根源は「恐怖」。恐れる心の生み出した力だとの事だが、ではそれは何なのか? そこが分からない。
何故それがこれ程までに強力な力を発生させているのだろう。それが出来るのなら、人間の恨みの感情でも同等のエネルギーは発生するのではないだろうか。オカルトと呼ばれるものについても片手間に調べてみたが所詮眉唾と呼ばれる程度の、ここまではっきりとした現象が見て取れるようなものは無かった。
恐怖という感情が恨みや妬みのような、いわばマイナスの感情によって形成されているとしたら、熱エネルギーや運動エネルギーといった単純な科学的なものであるとは到底考えられない。ウマ娘というだけでそこには非化学な現象が存在し、更にスタートワンは三女神直々にその身を弄られたウマ娘。何が起こっているかを人間の基準で測ることは困難を極める。
対処法、本来の使い方ともなれば想像すら及ばない。神隠しから帰ってきた際の対処したという発言と領域の使用を考えればレース以外の環境、特にオカルト的な要素を含む事に使うのが最適なのかもしれない。お祓いや霊能者のような立ち位置となるだろう。しかしそれでも冷気は発生している以上、完全な制御が出来ている可能性は少ない。スタートワンに直接的な影響を与えない、という基準を正しいとしたなら、これを正しいとは言えない。
……考えれば考える程に、この双方の問題を解決することはトレーナー一人では不可能と結論が付く。というより、一人で解決するには出来る事が無さ過ぎる。スタートワンのトレーナーでありながら、シンボリルドルフに干渉するなと言っておきながら。当の自身が何も出来ないまま一人の少女が沈んでいく様を見ている事しか出来ない。
全てを解決出来るとするなら、それは結局全ての始まりを作り出した神の所業に任せるしかないのだろう。それはつまりスタートワンをあの女神像の前に近付けるという事になるのだが。
もっと知識があれば、人手を借りられれば、三女神の事を調べていれば、せめて今回の事が菊花賞の後なら、いや、せめて合宿が終わってから、あの皐月賞の事が無ければ、そもそもあの噴水での事さえ無ければ、あの時目を離さなければ、もっと早く関係を築けていれば。もっとうまく心を開かせていれば。
打開策を考えようとすればするほどに間の悪さへ意識を持っていかれる。この一年半、まるで示し合わせたかのように嫌なタイミングで不利な事が起こっているような錯覚さえ覚えた。悪い思考の溝に嵌っている自覚はあるが、かといって解決するには何もかもが足りな過ぎる。あの姉妹家族もニュースを見て一度連絡を送ってきたが、対応しているという返事を送る事しか出来なかった。家族に会わせる選択も考えたがそもそも人に合わせる事自体慎重でなければならない今、それをして悪化する可能性もゼロではない。以前のシリウスシンボリから来た連絡、そして今回のもので場所に気付かれた可能性を考えるだけで頭が痛くなる程だ。もっと積極的に会わせるべきだったと判断の遅れに眉間を揉む。
ぎりぎりと歯が軋む音を気付かれなかっただろうかと、無意識にトレーナーはスタートワンへ目を向ける。表情に出ていたのだろうか、スタートワンはすぐさま気付きびくりと身を震わせた。視線を逸らしながら彼女は動きを止め、俯いたまま歩いてくる。
「と、れー、な。」
「……なんだ」
「ご、めん、なさ。ごめん、なさい」
びくびくと体を震わせながら、今にも泣き出しそうな表情で頭を下げる。
「……お前が謝ってどうする」
「で、も。とれーな、さん。おこっ、てる。わたし、の、せい、で…」
表情の機微に鈍い様子を見せる事のあったスタートワンだが、負の感情に関しては人一倍に敏感なところはあった。それを加味しても、最早自罰的なまでの思考の歪みは前以上に酷くなっている。
「ごめんなさい、おこらせて、ごめんなさい」
それ以外の方法を知らないかのように、何度も、何度も頭を下げる。
己から漏れ出す恐怖に蓋をしながら、保健室の時とは違い、素の状態と仮面の状態が入り乱れている。今の自分が何を言っているのか、それがどういう意味なのか、もう正確に判断出来なくなっているのだろう。
謝り続けるその肩を掴み、無理矢理頭を上げさせる。困惑と動揺で引き攣ったその頬を引っ張る。
「ぇぅ……?」
「休憩だ。テントに戻るぞ」
「ぇ、お」
「戻るぞ」
びくりと三度体が震え、そして半泣きのまま頷く。大して凄んだわけでもないというのに、この程度の威圧では眉一つ動かさなかった彼女の姿は見る影もない。
スタートワンを先にして二人でテントの中に入る。
入って早々、へたりこんだスタートワンに言い渡す。
「肌の確認をする。脱げ」
「……ぇ、」
「昨日ちゃんと確認してなかっただろ。忘れてたの思い出したから見てただけだ」
「ぁ…。ぁ、い……わか、った」
誤魔化し半分、事実半分。昨日は久しぶりにそれなりの練習が出来たこともあり、疲労でスタートワンが早く眠ってしまい時間をかけた確認が出来なかった。スタートワンもそのことを思い出し納得したのか、若干震える指で手袋を取り、ゆっくりと肌を晒していく。
もぞもぞとインナーを脱ぎ捨て、下着のみとなったスタートワン。寒そうに体をぶるりと震えさせたので、彼女が脱いだ上着をその足にかけ、テントの入り口を締める。
「……ど、ぞ」
後ろ髪を手前へ垂らし、スタートワンは背を見せる。触れる一瞬、押し殺した呻きが漏れた。
皐月賞以降、病院での定期診察によって火傷の一部は改善した部分もある。背や手首、腹の辺りに新しく傷の無い肌が出来た部分も無いわけではない。
それでも、その体の殆どには今も赤黒い痕が残っている。治った部分の肌さえ、元々の肌と色に僅かな違いが生まれ、どうしても違和感が出てしまっていた。
「痛みは無いな」
「…………。」
やや長考はあるが頷き。
不均等な肌の厚さは神経を過敏にさせる。患部は乾燥など些細な環境の変化で痒みや痛みを引き起こす。関節部の引き攣れは動きを阻害する上痛みを伴う事もある。
全身に至るこれらの痕は、それでも火事の中で人を抱えて動き回ったとしては医師を驚愕させる程に回復し、その動きを最低限阻害するだけに押し留めた。奇跡と呼んでも良かった。
用意したポーチの中から肌の保湿を促すケアクリームを取り出す。
深爪と言っていい程にしっかり爪が切られているのを確認した後指先で掬い取り、軽く手の中で広げる。
「塗っていくぞ」
「…、」
まずは範囲の広い背。それから痕の酷い手や腕、首、それから細かい部分。部位や状態に合わせて使うものを変えながら、指の腹や手のひら、なだらかな部分で塗り広げ少しでも状態の緩和を図る。
後遺症が残る事は分かっていたらしい。それが競技者としての未来をほぼ削り取る事も。それでも治療を最低限にしたのは治療にかかる費用が問題だった。
一人で暮らす彼女に収入など望むべくも無く、残された資産などで何とか誤魔化していたらしい。ウマ娘の居る家庭は裕福な家である事が多いため、元々の彼女の家族もそれなりに成長するまでの額は残していったという。
姉妹家族と会ってからも出費には気を付け、そして援助は断り続けた。食事を受けたなら食事を返し、貰い物があれば同じものを贈り、資金的な援助を申し出れば徹底して拒んだ。負担をかけたくないと言ってはいたが、本心はそれ以外にもあるのだろう。
その中での入院はただでさえ収入の無い中非常に手痛い出費、傷跡を無くせるほどの完治ともなれば学園入学の前後に必要な分にも手を付けなければいけなくなる。結局、後遺症に苦しむ事が分かっていても今の生活を守るため彼女は入院を終えた。その間でも姉妹家族には一銭も払わせなかった。
退院直後から成長によって着られなくなった衣服の替えを用意し、見た目が成長した事でアルバイトへの応募もしやすくなり、入学までの生活にも余裕が出た。とはいえ治療に回せるだけの額を賄うとなるとレース賞金のような大きな数字が動くものでなければいけないため、結局後回しにし続けていたらしい。
「痛みは無いな」
「……。」
首は縦に動く。
共に同じ家で眠るようになってからも、こうして処置に手を貸すようになってからも。彼女にその傷の痛みを問うた時、痛いと訴えた事は一度たりとも無かった。最初のケアの際爪を短く切っていなかったために皮膚を突いてしまった時も、塗りが悪かったのか疼きでしきりに体を捩っていた時も、あまりに多く貼り付いた氷を取るのに手間取り皮膚を僅かに剝がしてしまった時も。細心の注意を払って尚簡単に傷付くその体で、涙を堪えながらスタートワンは痛みを伝えない。反射的に、或いはふざけて痛いという事はあれど、本当に痛みを覚えた時彼女は口を閉ざし、閉ざしたことを謝った。
今日もやはり、小さな痛みや怯えに震えながら嘘を吐く。
苛立ちが顔や指に出ないよう心を無にする。小さく細い肩から首の付け根を優しく、撫でる様にクリームを塗る。
「菊花賞まで二週間を切った。現状を言うぞ」
「……」
此方の思考を誤魔化す為、目前のレースを話題にする。
「出走権は確保した。その上で辞退は出来る。今走って勝つならそれはまぐれだ」
今の状態で勝つ事などシンボリルドルフでも困難を極めるだろう。スタートワンがやるならばそれは無謀だ。
「どうする」
「…。でま、す」
首は縦に動かない。ことレースの事だけ彼女は強情になる。
去年末はまだ融通が聞いた節はあったが、最近は菊花賞までのクラシックレースは絶対に出ると言って聞かなかった。合宿時よりも状況を鑑みて難しいと判断しているトレーナーの言葉を聞く様子は見られない。
神戸新聞杯に出るという話をした時も同じだったが、今はその頑とした態度に言い知れぬものを抱く。
「今のそれで勝つつもりか?」
「で、も。でないと」
「神戸新聞杯とは話も違う。掲示板に入るとも思えん」
「……、はしる。はし、ら、ないと。かたない、と」
「……結果はもう見えてる。それでもか」
背を向いたままのその顔が、僅かに上がる。正面を見ている筈の顔は、こちらからは見えない。
あの姿を見て尚、走らせていいのか。もう何度になるか分からない疑問が過る。
だがもう止まれない。スタートワンは止まらない。全てが終わるまで、足を止めることは無い。
「走る。勝たないと」