雨は降らず、しかし快晴とも言えない曇り空。重く広がる雲に陽光が遮られ、肌寒さが包む。
京都府京都市、京都レース場。
三つの冠を争う最後の場は、膨れ上がる熱気と纏わりつく寒気が混ざり合い、肌にへばりつくような怖気が渦巻いていた。
それは歴戦の強者であるマルゼンスキーやミスターシービー達でさえ経験した事の無い異様さ。まだジュニア級を走り始めたばかりであるリトルココンとビターグラッセは、一応はあるはずの温かさを感じられないまま小さく震えていた。
「……はー……」
「ココンちゃん、寒いなら手袋貸すよ?」
「…いえ、大丈夫です……」
「リトルココン、受け取った方が良いと思う。…なんか今日の寒さ違う感じがあるし」
吐く息の白さにビターグラッセが眉を下げる。空気の凍て付きに明らかな異質さを感じ取っていた。その言葉に押され、リトルココンは少し迷った後、おずおずと渡された手袋を受け取る。
横目で見ていたシリウスシンボリにカツラギエースが呟いた。
「恐ろしく冷えるだけにしては、周りの空気もぴりぴりしてんな……あたしが走った時はこんなじゃなかったと思うんだけど……」
「二年連続、しかも無敗の三冠最終戦。ついでに言やライバル同士の対決の最後でもある。そりゃあピリつくのも仕方ねえ」
「だとしてもここまで空気が重いのは初めてだよ、いやまあ、アタシの時と比べたらって感じだけど」
「シービーちゃんの菊花賞はもっと明るい感じだったものね。私のクラシックの時だってもっとざわざわしてたし……周りの顔も暗いし、これじゃあなんだか……」
マルゼンスキーが言外に押し留めた言葉に、誰となく思わず視線を逸らす。
ただ空気が重いというには、周囲の観客の声すらぼそぼそとくぐもり、表情の大半から笑顔が見られない。これが連続の三冠による期待からくるものだというには、含まれた緊張はあまりにも負の重さを持ち過ぎている。
声を発する事を避ける、息を詰め押し殺す、身動ぎから音がする事さえ怖がる。メインレースまではまだ一時間以上あるというのに、それまでの時間が何事もなく過ぎ去ってくれと言わんばかりの沈黙は、やはり原因となる要素の強さに起因しているのだろう。
「例年通りのクラシック、ってわけには行かないみたいね」
集団の中から声が一つ。合わせて掻き分けるように現れたのは四人家族。
これまでのG1で応援の声を上げていた少女達が並んでいる事に気付いた者も少なかったが、学園、そしてスタートワンを通して知り合うカツラギエースは誰か直ぐに気付き頭を下げた。
「お久しぶりです」
「久しぶりエースちゃん。そっちの子達はスターちゃんの知り合い? はじめまして」
「あ、これはどうもご丁寧に」
「初めまして。俺達も観戦に来た口でね……あ、感謝祭の時の子も居るね。久しぶり」
「ああ、久しぶりだな」
「もっとしっかり返事しなさいよ……」
互いに面識が薄い者同士で会釈をしていると、姉妹がマルゼンスキーとミスターシービーを見て目を輝かせる。
「まるぜんすきー!」
「みすたーしーびー!」
「ん?」
「あら、そっちの二人は私達の事知ってるのね?」
黒鹿毛と青鹿毛の二人がそれぞれ名前を呼んだ方に近付く。人込みの為僅かに身体を屈めるだけだったが、それだけでも嬉しかったのかどちらも満面の笑顔を浮かべている。
「ほら二人とも、初めてあった人には?」
「「はじめまして!」」
重苦しい空気が続くパドックでそれに気付かないかのように姉妹がぺこりと頭を下げる。その元気さは挨拶をされたミスターシービー達だけでなく、その声を聞いただけの者達にも気を紛らわすものとなったらしく、僅かにだが空気が弛緩する。
「ふふ、はじめまして。二人も応援に来たの?」
「うん!」
「ほし姉のおうえんに来たの!」
「ほし姉って……」
「スタートワンの事だな」
以前の関わりからカツラギエースが小さく呟く。その声は努めて絞られたものだったが、自然周囲の視線が集団に集まった。緩んだ筈の場に再び緊張が現れ、皆思わず目を向ける。
「……名前言っただけでこれか」
「扱いが違うね、明らかに」
直にメインレース出走者のパドック登場となる。今回の本命と対抗となっている二人も裏手に待機している筈だ。ここで待っている者達の大半は、皇帝の三冠制覇を阻止する可能性が最も高い一人の存在を著しく疎ましいものとして認識している事が反応から分かる。それはやはり、先の神戸新聞杯の影響が大きいだろう。
「あの日レース見に行った子は皆暗い顔してたもんね」
「アタシも観に行けたら良かったんだけどな」
「スワちゃんのトレーナーさんに止められちゃいましたしね……多分、これのせいなんだろうけど……」
これまでであれば誰か一人は応援に行く流れだったが、神戸新聞杯では応援に向かう者は居なかった。厳密にはあの日スタートワンのクラスメイトを含む何人かは最寄り駅まで来ていたが、そのタイミングでスタートワンのトレーナーから『会わせられないし直接でも見せられない』とストップをかけられていた。理由を問うても後でわかるの一点張り、結局指示に従い後に映像としてその走りを見て来させなかった理由を知った。
今回も同じように『応援に来るなら遠くで画面越しにしろ』と警告されている。その上で全員がレース場まで足を運んだ。全てはこれまでの戦いの終わりを見るために。そして戦う事を選んだ二人に少しでも声を掛け鼓舞出来ればという思いだった。
「……あれこれ言ってる間に、来たみたいだぞ」
ステージにウマ娘が現れる。菊花賞に出走する一人だ。
その表情は見て分かる程に固く、入れ込んでいるような、集中出来ていないような状態だ。
そこからパドックに次々と現れる出走者、大半はこれまでの皐月賞、日本ダービーにも挑んだ者達だ。
彼女達を見るシリウスシンボリが睨むようにステージを見る。
「覇気がねえ。負けに来たみてえな顔だ」
「皆表情が暗いな……シリウスの言い方じゃねえが、勝ちを確信してるような感じが無いのは同感だ」
「……この場合、原因はどっちなんだろうね」
「どっちって、どういうことです?」
「……セントライト記念か、神戸新聞杯?」
ハッピーミークの呟きにミスターシービーが頷く。現地での観戦が出来なかった後者の凄惨さを、前者もある意味では同じように含んでいた。
それは紙一重の違いであり、結局は同じ力による制圧。人数に差はあれど、その力に恐れ慄きレースを降りた者が居るのも事実なのだ。
「どっちが勝っても、結果は圧倒的になるかもね」
「ほし姉なら勝つよ!」
「ぜったい勝つ!」
「…そうね、勝ってくれるのを私達は願うわ」
「俺達はそれを信じるだけだからね」
姉妹達家族の言葉に迷いは無かった。
「……うん、どっちが勝つとしても、私達はちゃんと応援しないと!」
「だね……にしても、次の出走者遅いね」
「言われたら確かに。なにかあったのかな」
ふと呟かれた疑問から、皆がパドックに人が現れない事に気付く。現状最後の出走者がパドックを離れてから数分が経過しており、周りの観客もどうしたのかと怪訝な顔を浮かべている。
特に放送が無い事から何かあったわけではない事は分かるが、そうだとしても時間がかかっている。
「出走者で出てないのって誰だっけ」
「ええと、一、二、三、四……」
「……スタートワンとルドルフの二人だ」
シリウスシンボリの言葉に一瞬の沈黙。残る二人、つまり本命とされる二人。
どちらが先に現れるのか。
「……居る」
誰が言ったかもわからないその言葉に、皆がパドックを見つめる。
何時からそこに居たのか、何故立っているのに誰も気付かなかったのか。
顔を俯かせ、猫背で立つウマ娘。存在感の薄さは、風景の一部として認識してしまいそうなまでに希薄だった。
力なく、立っているというよりも糸によって吊り下げられる人形のような無機物性。枝垂れかかる赤い髪は何処か黒ずみ、まるで地へ向け揺らめく炎のような不気味さがある。呼吸をしている様子も、僅かな身動ぎさえも無い。立っているという事以外に、生きているという確信が持てない。立ち込める冷気もその存在の違和感を強めている。
その顔が不意に上がり、目が現れる。
「――――か、た、な、きゃ」
決して近い距離ではない全員の、その耳元で聞こえた独り言。
滑るように脳の内へ入り込んだその声に、一人として動く事が無いように身を強張らせる。
『パドックに来ましたスタートワン、現在二番人気。前走神戸新聞杯では二度目の重賞勝利を飾りました。今回通算四度目のG1挑戦――』
説明をする放送の声さえも遠く聞こえる程の、凍り付くような緊張。何処を見るでもない灰色の虹彩は視界の全てを凝視するように、しかしもう動く事が無い濁った水晶体のように正面を向いている。
窶れ骨ばった体は、鍛える事で到達するものではない病的な衰弱を如実に表していた。元々の白い肌が潤いをも失い、全身の痕の赤黒さを強調する。乾燥が激しいのか、一部に入る罅に酷く黒い赤が見えた。
「かたなきゃ…かたなきゃ…」
半開きの口がもごもごと動く。乾ききった唇の端に小さな罅割れが見える。血の臭いが漂う錯覚に、胃を痙攣させる者も居る。
誰もが早く終われと願いながらも、誰となく無言を貫く。気付かれてはいけない。認識されてはいけない。視界に収められてはいけない。
あれはもう動いていてはいけないものだからだ。レースに魅入られ、身を滅ぼした者の成れの果て。あれが再び己の名を思い出す事など、最早奇跡でも起こらない限り――
「「ほし姉! がんばれっ!」」
スタートワンがパドックに現れてから一分程、彼女はその一分を、その姿を視界に収めた者達には十分以上にも思わせた。
その全てを圧し潰す重圧を消し去ったのは、幼い二つの声。母に抱かれ、三人の前に立った父に遮られていた姉妹の声だった。
抱き締める母の腕を押し返し、父の横を擦り抜け。姉と呼んだウマ娘だったものを直視して尚。姉妹は声を張り上げる。
「ほしねえーっ!」
「きっかしょう! ぜったい勝ってね!」
「…………菊花、賞」
ぱきりと氷の砕けるような音が響く。幻聴だと分かるのは、それが赤い人形から聞こえたからだ。
姉妹の方へしっかりと顔を向けるそれが、緩慢な動作で身体を翻す。その動きはホープフルステークスから見せていた回転。向き直ると両の手でスカートの裾を抓み、小さく首を垂れる。
これまでよりもふらついた、ぎこちないカーテシー。それでもその動きはこれまでの吊られる人形らしさでは無く、スタートワンが自らの意志で身体を動かした事が分かった。
やがてスカートから手を放し、スタートワンが無言のままパドックを去る。土気色の肌に薄らと赤が戻り、生きている者にほんの少しだけ近付いていた。二度と戻る筈の無いスタートワンだったものが、その姿を取り戻していた。
張り詰めた緊張が解け、しかし誰一人として声を出さない。姉妹の父母も二人を再び抱き締め、早鐘を打つ鼓動を鎮めていた。澱む空気は今も尚残り続けていた。菊花賞を絶対に勝たせてはならない。が、勝利を疑わせない。あまりの存在の希薄さと、吐き気さえ覚えるような溶け込む重圧。全てを凍て付かせる炎がパドックを這い続ける。
そして、紫電の轟きが会場の澱みを掃った。炎の揺らめきが追い立てられるように小さくなり、雲の切れ間に僅かな光が現れた。
差し込む一筋が、飾られる三つの星を煌めかせる。
圧倒的な力が再び場を支配した。だがその圧が生み出す重みが、この日、この京都レース場にあってはならない空気を霧散させる。何もかもを飲み込む炎に、彼女は一矢弓を射た。
メインレース、菊花賞の中で未だ姿を見せなかった最後の一人。
そのウマ娘は、観客の全てにこれから行われる結果を確信させた。
彼女は、絶対である。