菊花賞から一日を置いて、スタートワンは学園に戻ってきた。
普段の姿そのものは変わらないが、眉の皺が取れている。纏っていた鋭くも澱む空気は消え、その表情もまるで穏やかだ。
教室に戻り頭を下げるスタートワンは、ほんの僅かに微笑んだ。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。今日から、また学園に戻ります」
「おかえりスワちゃん!」
「調子どうなのよ?」
「すっかり元気ですよ。クラシックも終わりましたし、暫くはゆっくりする予定です」
クラスメイトに囲まれながらそう返す表情に、やはり菊花賞当日の険しさは無い。明らかに良い傾向である事は事実だった。受け答えに妙なところも見えない。
しかし、一人だけ暗い顔のままその手を掴む。
「? どうしました?」
「……スワちゃん、手袋取って」
「…今取る必要は無くないですか?」
「…………」
じっと見つめられ有無を言わさぬという意思を感じたのか、スタートワンが「分かりました」と手袋を取る。ぼろぼろで傷だらけの掌が現れた。
手に触れると、最初に感じたのは夏合宿のような氷の手、ではなく。指先を突き刺すような氷の感覚、でもなく。ウマ娘としてはやや冷たくはあるが、十分人並みと言える体温。
「……ホントに、大丈夫なの?」
「言ったじゃないですか。ほら、元気です…いえその、ご迷惑をおかけしたのは確かなので言いたい事は分かりますが…」
眉を下げた苦笑。昨年までのよく知る、それでいて昨年以上に柔らかくなった笑みはこれまで一度も見た事が無い。
「うわ、怖い顔無くなったらめちゃカワじゃんスワちゃん」
「目つき戻るとケッコー垂れ目なんな。眉のシワもうちょい消したらニコニコならね?」
「ちょ、あんまり顔を触られましても」
「なに言ってんのさ~。せっかく戻ってきたんだしもっと撫でられとけっての~」
そうして手が離れ、再びクラスメイトに埋もれていく。皆に触れられ少し困った表情で、けれどくすくすと楽し気に笑っている姿。
一人だけがそんなスタートワンの事を不安気に見つめていた。
放課後。大半の生徒がトレーニングに向かう時間。
スタートワンは練習の場に現れることなく、緩慢な足取りでふらりと学園の門から外に出る。眠たげに眉を下げ、時折顔を上げて虚空を眺める。思考ではなく体が動くままに任せる夢遊病者のようだ。
その後ろ姿へ声がかかった。
「……スワちゃん」
「……?……。……ああ、どうしました?」
合宿を共にし、戻ってきて早々に手を握ってきた少女に振り返りもせず、しかし隣に並ぶのを待つようにスタートワンの足が止まる。
「私もついてくね」
「……特に予定はありませんよ?」
「でもついてく」
「……まあ、それでも良いのなら」
並び、歩き始めた二人は、あてもないと言った様子のまま道を進む。
公園や河川敷、ショッピングモールやコンビニなど。スタートワンがよく行くのだろう場所を優先的に。川を流れる葉のように、流されるように二人は歩く。歩みはやはり緩慢だ。スタートワンの速度に合わせているというのもあるが、そもそもスタートワンの普段の歩きは決してここまでではない。牛歩と言ってもよい程の歩みは、5分もあれば着くような距離を10分もかけて辿り着くような状態だ。遅く、鈍く、僅かに背を丸めた姿は、少女に老いた印象を貼り付けさせる。
会話は無く、互いに度々その視線を隣へ向けるだけ。意図を読めないのか薄い表情に困惑を見せるばかりのスタートワンに対し、少女の瞳は何かを言いたげにその表情を見ては、しかし直視できないのか揺れている。
歩き続けた二人の足が止まったのは、小高い山の上に立つ小さな神社に繋がる階段の途中だった。
木々の影がスタートワンを陽光から遮り、灰色の瞳が翳る。休憩なのか段の一つに座り込み、僅かに背を丸めた。何処を見ているわけでもなく、少女にも向けていない。
少しの間の後、視線が向いた。言いたい事があるなら言ってくれと、そう言外に伝えている。
クラスメイトとしての距離か、それとも練習相手としての距離か、あるいはより近くなのか。どれ程の強さで踏み込めばいいのか迷いながら、それでも一歩、絶対に聞かなければならない事を聞く。
「無期限の休養って、スワちゃんから言い出したの?」
「……、私からです。厳密には少し……いえ、それは良いでしょう。そんな事を気にしていたんですか?」
「気になるよ、だって、あんなに頑張って……」
「……あんなに頑張ったのは、クラシックの三冠を狙う為です。そこを過ぎてまで走る理由もありません」
暗がりに隠れる肌に菊花賞の日のような漏れ出る怖気は存在しない。より明確なのは、レース後に感じられた今にも小さく消えていくような存在の薄さ。
「トレーナーさんは何て言ったの?」
「わかった、と。契約の解消はまだするなよ、とも言われました」
「止めなかったの」
「止める理由もありませんから。クラシックは終わりました。休養には丁度いいタイミングでしょう」
年末に出走の予定が無いのであれば、確かに間違いはない。しかしそれだけには思えない。
トレーナーがその選択をせざるを得なかった、そんな理由があるようにしか思えない。
「スワちゃんは、それでいいの?」
「良いも何も、決まった以上はそれを変える理由はありません。クラシック以降の方針はあの人に一任していますから」
「……でも、スワちゃん」
「はい」
「もう走る気無いよね」
動揺は無い。僅かにも耳や尾が動く事が無かった。その問いがある事を察しているかのようだった。
「何故そう思ったのです?」
「ちゃんとした理由は無いよ。でも、菊花賞の時のスワちゃんと違い過ぎてる……違い過ぎだよ」
座り込んだまま視線を送るスタートワンは、その言葉に何処か困ったように微笑む。
見た目や声が変わったわけではない。しかしひどく老いた空気がその体に纏わりつき、スタートワンの輪郭を滲ませる。ある種の反応の鈍さ、情動の弱さ。見覚えの無いその姿は緊張の糸が切れたというには、あまりにも老けていた。
クラシック三冠を、シンボリルドルフへの勝利のために三冠を目指していた。それが菊花賞で限界を迎え、共に活力を奪った。
それはつまり、もう一つの聞かなければならない事に繋がる。
「学園からも、いなくなるの?」
「…………」
「走りたいって気持ちも、もう無いの?」
「……。どうでしょう」
己自身に向けたものとしては何処か他人事の発言。言葉を濁すにしては確信を持っているかのようなはっきりとした声音。やはり。そんな確信が胸の内に形を成す。
スタートワンは既に闘争心を失っている。争おうとする感情の薄まりが、彼女を急激に衰えさせた。
言い方から見て、穏やかになったというよりも勝負への興味を失ったというニュアンスが強いのかもしれない。それならば再び競おうという気力を取り戻す可能性もある。しかしこの反応は、そうした希望的観測も虚しくなるような感情の弱さ。
「シンボリルドルフさんは無敗の三冠を。私も一応は重賞二勝です。……G1勝利はともかく、出走はできました。お互い悪い結果ではありません」
「……。でも、スワちゃんの目標はG1勝利でしょ? シンボリルドルフさんに勝って、取りたいって」
「私が最も価値を感じていたのはシンボリルドルフさんの三冠を阻止する事。G1勝利はそのついでです。彼我の差は菊花賞で明確になりました……ならば、それ以降のレース結果は、分かるも同然のものでしょう」
休養を取った理由が明確になると同時に、レースに戻る可能性が更に引き下がるのを感じる。
スタートワンの拘りが勝利そのものでない以上、消えた闘争心を戻す事は困難だ。今はまだ、などと軽率に判断も下せない。
「走る事は、出来るんだよね?」
「それだけなら出来るでしょう。勝つとなると、恐らく不可能です」
「っ…、なんで?」
「……もう分かっているのでしょう? 私の領域は使い物になりません」
スタートワンの体からじわりと何かが漏れ出す。これまでのレースでは黒く渦を巻く炎だったそれが、今は風に流される白い灰のように、力なく揺れている。菊花賞からまだ数日しか経過していない間での変貌は、唐突でさえあった。
「今はもうこれを出すのにも一苦労ですし、以前と同じだけの出力を出せる気もしないです。好き勝手に暴れて、出し切った途端に顔を出す事さえ渋るなんて……ふふ、私らしい力だなあ、と改めて思い知らされますね」
穏やかな表情の意味が分かる。これまで抑え込む事に大半の気力を使用していたスタートワンにとって、何年ぶりかというほどに久しぶりの気を張る必要が無い状態。
スタートワンが走るモチベーションを失った事の大きな理由がこれだろう。
「少なくとも今の状態でレースに出る事は出来ません。私が虐げた方達に対しても、これでは良い姿とは言えません。無理に出走するくらいなら、素直に学園を去るのも選択の一つです」
「……スワちゃんは、それでいいんだ」
「走る事が出来るのと、走りたいと思うのは別のものです。走れるから走るで良い人も居れば、それではだめだと思う人も居る。私は後者というだけです」
「トレーナーさんは」
「まだ諦めずにいてくれています。とはいえ、それも時間の問題でしょうが……。そろそろ、ここを離れる準備もしようと思います」
時間的な余裕はあるはずだが、既に学園に残るつもりは無いらしい。それこそ数日あれば全ての手続きも終わらせてしまいそうに思える。
「私とは、もう走らないの?」
「練習であれば……と言いたいですが、トレーナーさんに必ず許可を取れと言われているので、まず聞いてからになります」
「……ならいい。練習だけなら」
「……そうですか」
言外のレースへの催促。意味がないと分かって行い、その意欲が無い事を改めて確信する。
自ら言い出したことといえ、申し訳なくせめて目を合わせようとしたのかスタートワンが視線を向ける。しかし目の合った少女はじっと、真っ直ぐに見つめ返した。更にたじろいだ灰色の瞳が揺れ、遂に顔が背く。
「私は先に帰るね」
「……ええ、分かりました」
そして再び顔を合わせる事無く、二人の距離が離れていく。振り返る事も、目で追うことも無い。聞こえたのは、搔き消える寸前の小さな呟き。
「ごめんなさい」
振り向きそうになるのを抑えながら、少女は歩みを止めずに去る。背後からは何も聞こえない。
学園に戻ると同時に、声が二つかかる。
「……おかえり」
「スタートワンは?」
ハッピーミークとミスターシービー。ジャージ姿で正門前に立っていた二人に、少女は静かに首を振る。
「だめです…、スワちゃん、もう走る気も無さそうでした」
「…そっか」
「…………。」
お手上げ、という意味か両手を首に回すミスターシービー。中空を見据え、思案に入り込む。一方ハッピーミークは静かに顔を俯かせる。無表情のような、しかし正確にその感情は読み取れない。
「走る気が無い所を無理に走らせるのは話が違うなあ……。」
「……せめて、一回でも」
「出来るといいけど……。正直、このまま自主退学っていう方がずっとあり得るって思った」
「話してみての実感。って感じだね」
「話してる時に見せてもくれたんですけど、スワちゃん、領域も変わってたんです。炎が消えて、白い灰が出てくるだけで……なんていうか、今まではものすごく燃える焚火だったのが、今は燃え尽きた後の灰になったみたいな……」
説明と共に所感を並べていく。
レースに向けて気を張るスタートワンに呼応するように変貌していた領域は、戦意の消失に合わせ急激に弱化した。基本的な領域の使用における変化があるのか否かは分からないが、その変わりようがこれ程とは到底思えない事だけは明確だ。
「……んー、アタシ達の知るモノとはワケが違うから、それもどうしようも無さそう」
本来のルールを逸脱した理外の力。振り回されているような物言いでこそあるが明確に干渉しているスタートワンや自身の条件を本来の制限以上に使いこなしているシンボリルドルフが異常なのであって、変化を加える事は困難だ。ミスターシービー程のウマ娘でも、二人のようなよくわからない使い方は出来ない。マルゼンスキーやカツラギエース達も同様だろう。
「だから、もっとシンプルに考えるしかないね」
「シンプルに?」
「あれがまた燃えるようになったら、スタートワンはレースに戻ってくる」
アレは基準だ。戦う意思を失って灰になったのなら、もう一度走りたいと思わせればあの灰はまた火を灯す。そう考えるのが単純で建設的だ。
「……でも、スワちゃんは今すごく落ち着いてて…、また火が付くって事は、それって」
「多分ね。また菊花賞前みたいになるかもしれない」
「じゃあ……!」
「それでいいのなら、アタシは止めないよ」
良くはない。あの日シンボリルドルフが語ったように、また走って欲しいと思う者は居る。
居るが、それを強いるのはまた話が変わってくる。
本心では走って欲しい。それはここに居る三人ともに同じだ。仲の良さや、共に走った事がある、というだけではない。
走り、競いたい。それはウマ娘としての本能であり、そのために学園に来た。それは多少の差はあっても、スタートワンにもある筈だと。そのために出来るのは。
「結局、どうするかはスタートワン次第だ。出来るのは」
「走る事」
「!」
殆ど喋る事の無かったハッピーミークが、顔を上げると共に二人を見る。赤い瞳が、真っ直ぐに二人を射抜いた。
「走って、出て来させる」
「……うん、それが良いと思う」
「ん」
準備は出来た。そう思わせるハッピーミークとミスターシービーの顔を、少女は少しの間動きもせずに見続けた。
「どうしたの? 練習前に休憩する?」
「……?」
「……あ。いや大丈夫です。行きます、一緒に練習します」
並んで正門を去る。ミスターシービーは考え事をするように視線を揺らしながら。ハッピーミークは口を閉じ正面だけを見据えている。
少女はぼんやりと思考を回す。
休養という言い方からして、期間が何時まで続くかは分からない。仮に年度末までは学園に居たとしても半年を切っている。そろそろ準備をするという発言もあった以上、時間は更に短く見積もるべきだ。
彼は何を考えているのだろう。唯一スタートワンの行動を縛る事が出来る、彼は。
何時か、それも出来る限り早く話さなければ。
焦りを言葉にはせず。しかし歩みだけは少し早く、深くして。
少女は先を急ぐ。