呆けた灰色の瞳から、薄らと光が消えていく。
うつらうつらと舟を漕ぐスタートワンを、トレーナーは作業中の手を止めちらと見る。
「茶零すなよ」
「……こぼしませんよ。机に置きますから……」
「眠いなら帰って寝とけ、ソファで寝るな」
「……。すみません、少し、日差しが暖かいもので……」
「寝るならちゃんと帰れ」
「そうですね……そろそろ、帰りましょうか……」
そう言い、微睡んだ様子で窓に視線を送る。西日はまだ大きく傾いていない、暗くなる前に帰るのであれば夜は長く寝られるだろう。
「……また夜に寝られなくなるぞ」
「…しかし…、あなたと、いっしょに寝られるなら……」
「ようやく離れても落ち着くようになったってのに毎回寝られるか」
「……そう、言われ…、まし、ても……」
喋りながらも、スタートワンの瞼はより重く下がっていく。やがて言葉尻がすぼみ、言葉が途切れた。眠りに入ったのだろう。
「……おい、スタートワン」
「………………」
「……。ふぅー……。」
椅子から立ち上がり、ソファに近付いて顔を覗き込む。薄くなっていた眉の皺が更に取れ、目を瞑る姿は年相応の少女のそれと変わらない。
つい数日も遡れば眠っている時でさえ魘されているような様だった事も忘れてしまいそうな程に、その寝顔は柔らかかった。その姿を、やはりこれまで常に気を張っていた姿しか知らないトレーナーは一度も見たことが無い。
「腑抜けた……んだったら寧ろいい方か」
暴走していたと言え、本人によれば垂れ流しにしていた力だ。
その影響から外れた今、スタートワンは何時ぶりかと思う程の安息を手に入れた状態だった。
変化は一瞬だった。
それこそ、菊花賞が終わった直後からスタートワンは正気を取り戻した。
『……ごめんなさい、勝てませんでした』
謝罪、そして続けて発する。
『これからのレースで私が勝つ可能性はもう無いでしょう。捨て置くのが一番……契約を続ける意味がありません』
口を挟まなければそのまま自ら学園を去る予定さえ確定させてしまう程に、スタートワンは全てを割り切っていた。直後に顔を出した姉妹家族にすら、そう遠くないうちに学籍も無くなると宣言までしていた。
勝利への執着、妄執は、シンボリルドルフが無敗の三冠を達成したと同時に領域ごと消えた。シンボリルドルフが打ち込んだ
本人の弁の通りならば、それは物心がついて直ぐの頃から強いられた制限がついに終わった瞬間でもある。解放感は一入……いや、それどころの話ではない。
闘争心を失っただけならまだしも、これでは午睡する老婆だ。学業に復帰してからの様子も何度か聞き込んだが、授業以外では殆どの時間で散歩や居眠りする事が増えているらしい。練習する時間を作っていないからとしても、完全にレースに出る意欲自体が無くなっている。領域の弱化はスタートワンに理性を取り戻し、そして執念を失わせた。
つい先日スタートワンのクラスメイトも似たような事を言っていたが、ここから再びレースへの復帰をさせるにはかなりの荒業が必要になるだろう。
否、そもそもとしてこのまま、再びスタートワンをレースに出させること自体に疑問さえ浮かぶ。
スタートワンの走りのモチベーションは「良い結果を残す」事であり、それは「走らなければならないから」だった。夏合宿以前からこの二つは彼女の変わらないスタンスであり、夏を越えてからは口にする事もあった。領域の暴威を抑え込むためには走らなければならない。走り続けるには勝たなければならない。
スタートワンにとって、走るという事にウマ娘の本能が優先される事は無かった。
そもそも学園に来たこと自体が三女神による半ば強制のもの。シンボリルドルフへの執着も言ってしまえば少しでも二つのスタンスを満たし続け、モチベーションを維持するための体のいい口実だったのだろう。それがここまでの執着を見せるようになったのは、シンボリルドルフへの勝利がそのままG1の勝利に繋がっていた事も挙げられる。良い成績の最たるものを取るためには、皇帝の打倒がなければならないという結論があった。
そして現在、G1の獲得にこそ至らなかったが目的はある程度達成されたと言っても良い。重賞二勝はウマ娘の中でも最上位層の実力を表し、G1出走、二着4回ともなれば勝者程では無くとも優秀な結果の持ち主として認識される。
同時に領域という、いわばスタートワンにとって「走らなければならない」という強制力を与えていた力も無いに等しい状態となった。これ程までに力を失っていれば、再び元のレベルにまで力を取り戻すとは到底思えない。
レースに戻るという事は、今ようやく手に入れた平穏を再び手放すようなものだ。
「…………。」
トレーナーはソファの横に座る。沈み込んだ歪みからか、スタートワンの体がトレーナーに寄せられ、その頭が肩にもたれかかる。
「…ん…、ん、ふ……」
一瞬だけ眉を動かしたスタートワンは、無意識にだろう、そのまま体を動かしトレーナーの胸元に頭を寄せる。擦り寄るように体を密着させ再び眠りについたその重みが伝わる。それは酷く軽く、小さく、細い。
一月以上眠る時はこの体勢でいた故か、安堵するような笑みが漏れる。
そんな姿さえ、トレーナーが見たのはこれが初めてだった。
トレーナーとしての成績は、既に悪くないものだ。一人目で重賞勝利、風評には多少の問題があるが、それでも勝利を求めて扉を開く者は必ず居る。あとは育て続けるだけだ。
無理にスタートワンと共に目標を目指す理由は――
「……ん、とれ……」
トレーナーからも腕を回し、スタートワンを抱き締める。漏らした声は少し苦しそうではあるが、より強い力を求めるかのように頭をぐりぐりと寄せる。
「スタートワン。お前は今も走りたいか?」
まだ起きてはいない。返答は無い。
「まだ勝ちたいと思うか?」
答えない。
「俺と、まだ戦ってくれるか」
答えない。
眠っているのだから答える筈はない。
分かっている事だがトレーナーは問わずにはいられなかった。
無理矢理に引き出された力で、絶対好調になり得ないと言っても良い体で。それでも勝利を重ねたのだ。
義務感だけで勝てるほど、強制されて勝てるほど、レースの世界は甘くない。そこには必ず、外からのものではない要因がある筈だ。
スタートワンが、走る事を決めた大きな理由が。
勝つ為の可能性を模索するのがトレーナーの仕事なら、選手のモチベーション維持を担うのもトレーナーの役目。
枷が外れた。それはスタートワンにとって走らなければならない、勝たなければならないという義務感が無い状態。
強烈なバイアスが無くなり、フラットにレースを見る事が出来る、恐らく唯一にして最大、最高のチャンス。
夏合宿の前、彼女の体が冷たくなっていった、その始まりの日。
全てが終わった後聞くと言い、今も尚聞けずにいるたった一つの問い。
もしも。義務としての走りが初めからスタートワンの根底にあるものではないのなら。
もしも。スタートワンがまだ走る事を嫌いになっていないのなら。
もしも。もしも“勝たなければならない”が“勝ちたい”になったのなら。その時は。
片腕でスタートワンを支えたまま、トレーナーはスマートフォンを取り出しスケジュールを開く。
今年残るG1、その中でシンボリルドルフ達が出るレース。
それから来年、年度末までの全てのレース。スタートワンが有無を言わさず言う通りに動いてくれるとしたらここまでだろう。年度が切り替わるまでに気持ちを変えられなければ、その時はもう打つ手はない。
予定していた種は蒔き終えた。芽が出るとは限らない。何をしてでも芽を出さなければならない。
全員に頭を下げ、それでも頷かないのなら床に額をつけるしかない。要求するなら靴だって舐める。
そうしてでも、言わせたい。聞きたい。
より強く腕に力を入れる。スタートワンは苦しそうな声で、しかしやはり安心するかのように頭を押し付けてくる。
「……頼む、聞かせてくれ」
そろそろ終盤という事で、今だに迷っている事をアンケートにしてみようと思います
今後に影響があるか無いかで言えばありますんってところです。
スタートワンのG1挑戦は
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勝てる(複数勝利もアリ)
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勝てなくていい(惨敗もアリ)
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最後の最後にギリギリの勝利で
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惜敗記録伸ばせ!
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勝ってトレーナーと情熱的なハグして締めろ