テンジョーしてカイチョーを確保しましたわよ(致命傷)
81 始まりに相応しい演出
東京は府中レース場。秋も晩秋、冬とそう変わらない季節。
菊花賞から今日が丁度一週間だった。
予想外な程に……あるいは、予想通りに。観客席に座るスタートワンへの視線は多くなかった。
夏場であれば目立つような厚着も、冬場の寒さの中では埋もれる。傷跡を隠していれば目立つ部位も減る。濃い赤の髪も珍しくはあれ特筆するものではない。鋭い目つきも伸ばした背筋も無い。何より、希薄な存在感が周囲からの認識さえも弱めていた。学園の制服を着た赤い髪のウマ娘。それが今のスタートワンだ。
トレーナーがそんな風に目を配らせていた事を知ってか知らずか、当の本人は相変わらずに眠たげな様子で手に持った缶コーヒーにちびちびと口を付けている。
「……ん…。やっぱり、この時期は寒くなりますね……」
「最近まで自分で寒さ発生させてた奴のセリフかよ」
「ようやく季節感を享受できるようになったんですからいいじゃないですか。向こう暫くはレースに出る事も無いんですから……ふぁ……」
「寝るなよ」
「……メインレースまであとどのくらいでしたっけ」
「一時間を切ってる。というか下でレースやってんだから見てりゃいいだろ」
「応援したくはありますが、今ミスターシービーさんは走っていませんからね……。天皇賞から有マ記念までの秋三冠を目指すと聞いた時は大丈夫なのかと思いましたが、あの様子では諦めなそうな様子ですし……」
心配そうに、何故か遠い目をしてそう呟く。勝つかどうかはあるが、当然肉体的な疲労の事もあるだろう。短期的なレースへの出走は少なくない負担をかける。昨年度も毎日王冠と菊花賞での短期間にレースをしていたが、今回は一月ほど開けてとはいえの三連戦。どれを取りこぼしてもおかしくはない。
「……まさか、あんなにまで楽しそうに言われるとは思っていませんでした……」
それは少し日を遡る。
トレーナー室の扉が勢いよく開かれたと思えば、づかづかとソファに座るスタートワンに近付いてその両手を掴んだミスターシービーが宣言。
『アタシ秋シニア三冠狙うよ! 見に来るよね?』
『……ええ、と』
ぼんやりと、しかし明確な困惑を顔に浮かべつつスタートワンはトレーナーに視線を向け。怪訝そうに視線を向けたトレーナーは面倒そうに視線を天井に向けつつ助け船で説明を求めた。
『……話だけでも聞いてやる方が良いか』
『……ごめん二人とも、出来れば聞いてくれると助かる』
慌てた様子でそう部屋に顔を出したのはミスターシービーのトレーナー。何処か疲れているような肩の上下を続けてもいた。
『……あ、こんにちは』
『うん、こんにちは。入ってもいいかな?』
『いいぞ、入れ』
『ありがとう……で、シービー、秋シニア三冠だけど』
『うん! それが一番良さそうなんだ』
手を放したミスターシービーは、今度は己のトレーナーへ近付きその前に立つ。
『今年は残り三回走れる。三回もあれば、どれかは勝てる筈だよ』
『カツラギエース含めて、誰かとは絶対ぶつかるけどね』
『誰が来るかな? エースは当然として、マルゼン、ルドルフ、ミーク……はエリ女だっけ。スタートワンのクラスメイトはどうかな?』
『……どうでしょう……?』
僅かに逸らされた目を追うように、ミスターシービーが体を揺らす。左右するその視界に移ろうとしてゆらゆらと揺れる。
諦めたスタートワンが今度はしっかり目を合わせると、ミスターシービーはにこりと笑みを深める。
『……見たことを伝えたことはありますが、見に来てと言われた事はありませんでしたね』
『そう言えばそうだね? まあ暫くは休養でしょ? 丁度いいじゃん』
『……入れ知恵ですか』
『んふふ、どう思う?』
『……はあ……』
その目が未だ机に座ったままのトレーナーへ向かう。今度はスタートワンが視線を逸らされた。こちらも助け船なのかミスターシービーのトレーナーが苦笑する。
『提案したのは僕だよ。今年残ってるいい感じのレースってどれ、って言われたからね』
『注目のレースと言えばやっぱりこの三つでしょ?』
『それは……まあそうですが……』
ミスターシービーが何かと絡みに来る事は、そう珍しい事では無い。
クラシックが終わった年末にかけてのG1戦線、注目度が特に高くなるのがこの三戦なのは間違っていない。自身のレースに集中していたから観戦に誘えなかったというのなら、それもまたその通りだろう。恣意的と見ているのがスタートワンだけだと言えば、それも突飛な発想とは言えない。
あくまで違和を覚えているのはスタートワンだけであり。
結局突き崩せないまま、折れた。
『……いいでしょう。見には行きます』
『ん。なら良かった』
『私が観に行ったからと、何かが変わるわけではないですからね……?』
『何かが変われとは思ってないよ』
暗くも鮮やかな青い瞳が、薄い笑みを伴いながら光り輝く。
『でも、変わってくれたらいいなって、そう思ってる』
『…………。そう、ですか』
『うん』
再び逸らされた灰色の瞳は、今度は追われなかった。
同じ事を思い出しているのだろう。席に座ったままの灰色の瞳が、後ろめたそうに揺れる。眼下ではメイン前のレースがまた一つ終わり、勝利したウマ娘がスタンドに向けて一生懸命に手を振っていた。
「……私は、あんな風にはなれません」
嬉しそうに手を振り、声援に応えるその姿を見ている。
「彼女のように……彼女達のように応える事も出来ない。強い志も無ければ、大きな義務を背負ったわけでもない。私はそんな、高尚なものではありません」
「……契約の時も、似たような事言ってたな」
「事実なんて、そんなものです。何度言っても変わらないものですから」
両手で握る缶コーヒーが大きくへこむ。まだ裂けてはいない。
「だから、これが正しい事なんです。私のやるべき事は終わりました。あなたの目的に力添えは出来ませんが、何かしろというのなら次のスカウトの手伝いくらいなら出来ます」
「それで、おめおめ逃げ帰るつもりか」
「…………ええ、再起も計らない負け犬に次はありません。
淡々と。
ただ淡々と言葉が紡がれる。
何を見るでもなく、ただスタートワンは己の首を見せるよう静かに俯く。
トレーナーはその首から視線を戻しく、ただ正面だけを見つめる。
次のレースに向けた人々の意識が高揚にうかされ始めた頃、口を開いた。
「お前の仕事が次のスカウトで終わると思ってんのか」
「それ以外に何も無いでしょう」
「足りねえな」
「……ならば、何をしろと」
「見てりゃ分かる」
「……また走れと、そう言うんですか?」
「今日はお前が出るレースじゃねえだろ」
「…………それは」
何かを問おうとしたその時、観客から大きな声が上がる。
メインレース、秋の天皇賞の本バ場入場だ。
一人、また一人歓声と共に登場し、ターフにて思い思いにストレッチや返しを始める。皆その表情は引き締まっており、まるで一週間前のあの光景を払拭する事を強く心がけているようにさえ見える。
「なんか、皆すごい集中した顔だな」
「気迫びりびり伝わってくる……! すごいよ今日!」
「やっぱあれだろ、菊花賞があったから」
そんな声さえ聞こえる程に、ターフに何処か真剣な空気が漂っている。ぎこちなくさえ思えるような固い空気。
その空気を変えたのは、一層に大きな歓声と共に姿を見せた白いシルクハットのウマ娘だった。
『さあ次に入場したのは本日一番人気、ミスターシービー。前走宝塚記念ではカツラギエース、マルゼンスキーと横並びの三着。今回はどちらも出走せずという事で押しも押されぬ大本命として注目されています』
『先週の影響でしょうか、メインレースが始まると共に緊張が見えていた観客達も彼女の登場と共に一気に活気を取り戻しています』
「……流石の人気ですね」
「そりゃな」
現在日本に居る二人の現役三冠ウマ娘。その一角にして強さというパフォーマンスで高い人気を誇る選手でもある。
ゆったりとした足取りで芝を踏みしめた彼女は、その場に留まり僅かに視線を上に向ける。
そして観客席に振り向くと、真っ直ぐ視線を固定した。
「……!」
完全に目が合ったのだろう。動揺がその身動ぎと耳に現れる。
満足そうに笑みを浮かべたミスターシービーが再び向き直り、漫然とした足取りで進む。椅子に座る少女の見開かれた目が、縫い付けたようにその後ろ姿を追っていた。
『ウマ娘達が追い求める一帖の盾、鍛えた脚を武器に往く栄光への道、天皇賞秋! 東京二千メートル、本日のメインレースは晴れたさわやかな空の中行われます』
『クラシック三冠が一段落付き、立て続けに行われる秋シニア三冠の第一戦。今回挑戦すると宣言したウマ娘は何人も居ますが、果たしてどうなるのか』
『さあその宣言した選手達の一人であり大本命、ミスターシービーがゲートに入ります』
『夏を越えより一層切れ味を増した末脚に期待です』
皆がゲートに収まっていく。ざわつきに収まりが生まれ、その瞬間を見ようと人々がターフを見つめる。今日こそと勇んで来た者、全てを懸けるつもりで来た者、まだ青くも伸びたいと挑む者。
静かに瞑目していたミスターシービーが、小さく息を吐き、瞳を開く。同時にゲートが開いた。
『さあ始まりました天皇賞秋! 全ウマ娘綺麗なスタート! 各々自身の作戦に合わせて位置を変えていきます!』
響く歓声の中それぞれが列を成して走っていく。緩やかに縦長になっていく中、ミスターシービーは普段通りの最後方へと収まった。
ここ暫く見る事の少なくなった、眠たげな様子の無いスタートワンが呟く。
「やはり後ろですね」
「あれが一番走りやすいわけだからな。お前とは違う」
「……そうですね」
「とはいえ追い込みは追い込みだ。前方からのマークで針の筵だ」
「壁を作るにしても、私ならともかく些か早すぎるような気もしますが」
「お前よりは効果が薄いだろうが、やるに越したことは無いだろ」
「それもそうですが」
経済コースを競り合いながら、どのウマ娘も最後方を見るような僅かな視線の行き来がある。皆が距離を取りつつ一直線ではなく横並びに、最内を通れないように詰めている。先頭を目指す以上自然の行動ではあるが、その当然がミスターシービーを前に行かせない。
今週東京では雨が降らなかったために土は比較的乾燥している。しかし昨日今日と踏み固められ、荒れた土は踏みしめた脚によって抉られ、塊となって後ろへと飛んでいく。
「土の礫ですね……」
「体ならまだしも、顔に当たればかなりのダメージになるだろうな」
「……大丈夫でしょうか、ミスターシービーさんは」
「結果次第だ」
中盤に差し掛かる。少しずつ近づいてくる選手たちに応援がより大きくなる。勝て、走れ、栄光を、そんな声に呼応するように、各々の走りがより力強くなる。足音を聞き取り、スタートワンの耳が揺れた。やがてそう時を待たず、彼女達が最終直線に雪崩込んでくるだろう。
「二千メートル、走っていると長くも感じますが、見ていると短いですね」
「そういうのは感覚的なモンだからな。もう最終コーナーに差し掛かる頃だ」
「……ミスターシービーさんは、まだ一番後ろですね」
「そうだな」
府中の直線は長い。しかしそこだけで勝敗が決まるわけではない。坂を越えながらの直線勝負をするには体力も必要だ。
しかしミスターシービーは動かない。先頭が最終コーナーを回る。しかし動きが無い。
『さあまもなく最終直線! 先頭から順に直線へと入る! しかし動かない! ミスターシービーは動かない!』
不気味な程の沈黙。もっと中盤から追い上げる筈のその姿が今も後ろにある事に不安があがる。
「大丈夫なのかシービーは」
「まさかケガ? でも走ってはいるし」
「やる気無いとかじゃないか? 前にもそんな話あったろ」
「あそこから勝つつもりか?」
追い込みの走法としては間違っていない。体格に恵まれない、競り合いが得意でない、そしてトップスピードの維持に秀でない者が最終直線での末脚勝負に賭ける。それが言わば追い込みをはじめとする後方脚質のセオリーだ。
しかしミスターシービーはそうではない。そうする必要が無い。後半までに加速し最終盤で先頭に立つ。そんな追い込み走法として理想的な展開作りを可能とするだけのポテンシャルが彼女にはある。見た目による威圧や領域によって疑似的にその結果を作り出しているスタートワンとは違い、己の能力のみで行使する事が出来る。そんな彼女がここまで追い詰められるような事を、予期せぬ状況でもない限りするだろうか?
「……何か、狙っているのでしょうか」
そう呟いた瞬間、ざわめきが起こる。ミスターシービーがターフビジョンに映っている。
それは満面の笑みでも無く。憤怒でも無く。
物憂げで、物思いに耽る迷いの表情。
この場にあって、彼女は迷いに足を取られていた。
動揺が広がる。それは観客にであり、ターフビジョンが目に入った選手達であり、そしてスタートワンにも広がった。
「この、状況で……!?」
僅かに身を乗り出し、食い入るように凝視する。
後続が飛び込んでいく。ミスターシービーも最終直線に入る。しかし鋭い足運びに反してその顔は憂いを帯びている。
「なにを、しているんですか……! あと少しで、勝負が決するというのに!」
反射的にだろう。叫ぶその声が掻き消えていく。
近くに座る数人が振り向く。スタートワンは立ち上がった。
「走ってくださいミスターシービーさん! あなたがこのレースを、捨てるなどっ!」
その悲鳴が届いたのかは分からない。しかし、不意にスタートワンが言葉を止める。
同じように、観客の中に居たウマ娘達が耳を立てる。
「……ぁ、っ、な……」
「……!?」
スタートワンから領域が漏れ出した。白い灰が舞い、隣に座るトレーナーを巻き込んで煙を作る。スタートワンは気付いていない。いや、周囲も気付いていない。トレーナーだけが灰を認識している。
「――アタシには、そういう気持ちはよくわかんない。解りたくないって言った方が、正しいと思う」
ミスターシービーの声だ。しかしターフビジョンを見る限り、その口が動いているようには見えない。それにその声もくぐもっているようで、どこか朧気だ。
「レースが楽しいだけじゃないっていうのは分かる。スタートワンにとって楽しいものじゃなかった事も知ってる」
白の中に、色が付く。
「アタシは見てただけだった。一緒にレースで競った事は無かった。ホントはそれでもいいんだろうし、今こうして走るのも、多分アタシらしい事じゃない」
灰に映り込む幻の先。現実に走っているその姿が見える。
誰よりも後ろを走る彼女が、少しずつ前方と近づく。捉える。
「でもさ。苦しくて、暗くて、怖くて。それで終わるのは、走ったって思い出がそれで塗り潰されて終わるのは」
中団を抜け、先行集団すら追い抜き。
先頭を競う少女達の真横に並ぶ。
「アタシの後輩が。友達が。それで終わるくらいなら! アタシは走るっ! 走って、見せる!」
並んで、止まらない。前に出る。
「こんな事で、この足は止まらない! だって! だって!!」
“大粒の雨が身を濡らす。重く身を竦めさせる暗い丘陵
視界を澱ませる大地に、一人足跡を残していく
それでも走る。寒さに身を震わせようと、水の重みによろめこうと
それでも駆ける。跳ねる。跳ね退けるように、駆け上がるように、一歩、一歩。一歩!
大地を震わせ、全てを追い越し、弾む足取りで全ての障害を越え
雨を置き去りにした瞬間、青い空が広がった。雨雲は消え、祝福のように白い羽が舞う
『叙情、旅路のはてに』
走り切った。それだけで十分だ”
「心がそう――望んでるからッ!!!!」
声が、反響する。
トレーナーの視界から灰と幻が消えたその瞬間、ゴール板を駆け抜けるミスターシービーが歓声に包まれた。
『ミスターシービーです! 勝者はミスターシービー! 懊悩の最中でもなんのその! 三冠ウマ娘の強さを見せつけ、秋シニアの一角を獲得しました!』
実況の声を聞いて、スタートワンが乗り出していた体を僅かに戻す。放心とも安堵とも言えない心持ちか、呆然とした顔で勝者を見つめていた。
「……………………」
「……。ミスターシービーは、勝ったな」
「……、……かち、ましたね……」
「随分叫んだな」
「……うるさいです……」
もっとはっきり悪態を吐こうとしたようだったが、気が抜けたのか雑にそう返ってきた。
眼下のミスターシービーは暫く呼吸を整えた後、入場時と同じく、同じ方向へ視線を向ける。
「――――、っ」
やはり目が合っている。そう確信させる程の動揺がスタートワンに見られる。
視線が合う二人は何をするでもなく、ただ互いを見つめて。
それから再度、ミスターシービーが視線を切る。
彼女がウイニングランの後ウィナーズサークルに来るまでの間も、スタートワンはじっと目で追い続けた。