ミスターシービーの勝利から二週間後。秋と呼ぶには震える程の寒さが漂い始めた京都レース場。
スタートワンとトレーナーの二人は、菊花賞以来の同じ地へ。今度はその客席に座っていた。
「……。」
あれからスタートワンは眠たげなだけでなく、物憂げな表情もするようになった。
何を考えているのかは言わない。しかしその思考の中にあの天皇賞が入っている事だけは見て取れた。周囲の僅かな視線にも気付いていない。
トレーナーはその横顔に何を言うでもなく、ただターフを走るウマ娘達を見る。今日のメインレースまでもう少し。観戦の上での天気も悪くない。
今日のレースは、今年度のティアラ路線を走ったウマ娘達にとって重要なものだ。
「……ハッピーミークさんが」
「なんだ」
「勝てると思いますか?」
「エリザベス女王杯をか」
「秋華賞から多少期間は空いていますが、相手はシニア級ばかり。元々出走の予定だったと言え、確実な成果が出るとまでは言えません」
「ハッピーミークが秋華賞を勝っていてもか」
「ならば猶更、全力をもって果たした勝利を短期間に連続で行う事の難しさは、貴方も知っているでしょう」
G1レースであり、トリプルティアラの一角である秋華賞、今年そのタイトルを手にしたのはハッピーミークだった。
夏合宿前から決めていたエリザベス女王杯でも、その勢いを維持して欲しいという期待から人気は上位。しかしシニア級と初めて相対するという不安要素が少なからず尾を引き三番人気という位置に落ち着いていた。
元々トリプルティアラの最終戦として位置づけられていた今日のメインレースは、現在はその役目を変え古強者と台頭してきた新参が交わる舞台となっている。クラシック、シニア混合のG1でクラシック期のウマ娘が勝つことは非常に珍しい。現エリザベス女王杯でも、その勝利は史上初の快挙になるものだ。
そこで三番人気にまで押し上げられているのなら、ハッピーミークの実力は決して侮れるものではない。
「期間は確かに短いな。中三週は桜花賞とオークスよりも間隔が近い分回復も十分とはならんだろ」
「あのお二人は、なぜそれでも走る事を選んだのでしょう」
「んなモン直接聞くしかねえだろ」
「それは、そうですが」
分かってはいるがする気にはならない。そんな含みのある曖昧な返し。
トレーナーは仕方ないと言わんばかりに溜息を吐く。
「気になるなら聞けばいい。本人にな」
「今から、ですか」
「やろうと思えば出来るだろ? 控室に行けばいい」
「…………私が、ですか」
「お前が聞きたいんだからお前が行け」
閉口。それでも聞きに行く気にはなれないようだった。
反応は嘆息。連絡を入れても良いが、それをしたところで聞こうとしないだろう事もその曖昧な反応から見て取れた。
メインレースを待つ観客のざわめきの中、二人は言葉を交わさぬまま時間の流れを待つ。
不意にトレーナーのポケットが揺れた。見ると連絡が一つ。
画面を見るその顔に視線で連絡相手を問うスタートワン。返答は向けられた画面で行われた。
「……京都までいらっしゃっているのは確認しました。今は何方まで来られていますか……」
「お目当ての相手からわざわざ話しかけに来てくれたぞ。どうすんだ?」
「……お話する程の事ではありませんし、これから本番というところを邪魔するわけにもいかないでしょう」
「桐生院の方は探してるみたいだが」
「だとしてもです」
「取り敢えず呼んどくか」
「……呼ばなくともと言ったのですが」
「探してんだったらしゃあない」
聞く耳を持たないのか、と言わんばかりに睨めつけられた灰色の瞳は、そもそもそちらに視線を向けずに返答を打ち込んでいる姿を見て諦め正面に戻った。歓声や応援の声の中、二人の間にだけは静かな間が佇んでいる。
「おまたせしました!」
そういって二人に声を掛ける桐生院は、急いできたのか僅かに頬が上気していた。おう、と返事をするトレーナーに対し、スタートワンは無言で小さく会釈のみを返す。
「待っちゃいねえ。席はねえから一回離れるか」
「いえ、大丈夫です!」
そう言って桐生院は二人の座る後ろへと立つ。座っている位置が客席の中でも最後方だったから辛うじて成立する行動だった。
「それでいいのか」
「はい。この後ミークの所に戻りますから」
「そうか。んで、わざわざこっちに来たのは?」
「それが、ミークからスタートワンさんに伝言がありまして」
「伝言……?」
横目で見るだけだったスタートワンが僅かに桐生院を見る。
「はい。見てて。と」
「…………。見ていれば、ハッピーミークさんは勝てるのですか」
それは、恐らく反射的に出たものなのだろう。呆然と視線を切った少女の口が呟いた。
桐生院はターフを見つめるその横顔に、ただ静かに返す。
「私達トレーナーは見るのも仕事です。自分が育てたウマ娘がどんな結果を残しても、勝ったとしても負けたとしても、次の勝利の為準備をしなければいけません」
「……。」
「それに、見ててと言ったのならあの子にも考えがあるのでしょう。このレースで結果を残すという、そういう気持ちなんだと……なんて、ミークの事を私が代弁出来るわけも無いのですが」
「……、いえ、ハッピーミークさんの事を誰よりも知っている桐生院トレーナーが言うのです。きっとその通りなのでしょうね」
向き直すでもなく、しかし出任せに言葉を発したのではない笑みがスタートワンに浮かぶ。
「ああ、そうだ。一つ確認したかったんだが」
「はい、なんでしょうか?」
「お前らコンビの出走スケジュールだ。秋華賞の後のエリザベス女王杯。短いスパンでの出走を選んだのはなんでだ?」
「何故その事を今?」
「夏の間に聞きたくはあったからな」
スタートワンが聞きたがったとは言わずにそう返す。
桐生院は僅かにトレーナーの隣に座る横顔を見るが、直ぐに目を戻した。そして次にターフへと視線を変える。
「本来のトリプルティアラへの挑戦、として選んだのはあります。どちらから言い出したというのはなく、いつの間にかそういう方針だったのも確かです」
「……それだけじゃねえ、みたいな言い方だな」
「夏を経て……というより、むしろ。スタートワンさんが合宿から離れてから、ミークは一層二つのレースに向ける気持ちが大きくなったと思います」
隣に座るウマ娘の耳が僅かに揺れるのを横目に収めつつ、トレーナーは桐生院に返す。
「コイツが強くなるモチベーションになったって事か?」
「近しい言い方にはなってしまいますが……、それはやっぱり、ミークの伝言の通りなんだと思います」
「見てろってか」
「はい。どうしても見て欲しかったんだと思います。秋華賞は菊花賞の前なので難しい、だから、このレースを」
二つの視線がスタートワンに注がれる。気付いているのだろうが、当人は瞳を逸らす事無く、ターフを見つめる。
「…………」
冬の寒さの中に僅かな秋の残滓を残し、スタンドに風が吹いた。
『日の丸とユニオンジャックに見守られる中、女王に捧げるG1芝二千二百メートル、エリザベス女王杯。寒空の中、秋のG1戦線の熱気は少しずつ燃え上がっていきます。今日の女王は美しく咲き続ける強者か、新たに花開いた挑戦者か。刻一刻と迫る出走に合わせ、ゲート入りが始まりました』
『昨年度のティアラ路線出走者を含め、今回も多くの有力候補が集まりました』
メインレースが始まり、ウマ娘達がターフに立つ。
白い勝負服と毛色は、小さく見える距離からでもその姿を目立たせた。
『三番人気はハッピーミーク。秋華賞勝利の勢いのままエリザベス女王杯に挑みますが、果たして勝利できるのか』
『疲労は完全に抜けていないかもしれませんが、健闘を期待しましょう』
ゲートに入るその顔がターフビジョンに映る。表情の薄さではスタートワンと並ぶその顔には今、見て分かるほどの気迫が溢れていた。
「やる気は十分みたいだな」
「そうですね……」
既に桐生院の去った客席で、短い会話がされる。
指を絡めて握るスタートワンの瞳に、少なからぬ輝きが灯っている。その事にトレーナーは確かに気付いていた。
『さあゲートイン完了、出走の準備が整いました……スタートです!』
開いた扉から綺麗な横並びで少女達が走り出し、犇めく様に先頭を目指し集団を形成する。滑らかに位置変更を行う者とぎこちなく後続との距離関係を維持する者。展開に対する反応が経験の差を表している。クラシック期とシニア期という間の開きに小手先の技術は通用しない。
中団後方を進むハッピーミークの動きは約2年という期間で比較すれば非常にスムーズでこそあったが、その粗削りさは否めない。むしろその技巧は有力候補達の目を集め、この一戦に懸ける者達に脅威を感じさせる。
必然、マークが集中した。ハッピーミークの得手は先行から差し、その中でも差しに近い位置の方が走りは冴える。
「しっかりと囲まれたな」
「……三番人気とは思えない程狙われていますね」
「自由にさせないのが得策って事だろうな」
差しの作戦を選んだ者を、勝たせない方法は簡単だ。位置取りを悪くし、そのままスタミナを削ればいい。最終直線までに走りを鈍らせれば、後は自然と潰れていく。
後方の脚質は後ろに下がれば下がるほど展開の不利を大きく受ける。今回のハッピーミークは差しを選び、セオリー通りの囲い込みを受けていた。
『ハッピーミークは中団やや後方、内ラチ側。囲まれた状態で走っています』
『位置取りは決して悪くありませんが、周囲のマークはかなり厳しい状態です。ここからどう展開を動かせるかが要でしょう』
レースは始まったばかり、冷静に足を運べば巻き返しは可能である。しかしそのために必要な経験が、ハッピーミークにはまだ多くない。
中盤へと進んでいく中、緩やかに縦へ伸びていく集団は互い違いに牽制し合う。足を鈍らせる大半はクラシック期の出走者だ。後半の坂に向けて体力の温存をしたい者、気圧されて距離を取ろうとする者。種々の思惑が重なり、僅かな緩みが生まれる。
「少しは息が吐けるかと思ったが、ありゃ相当絞られてるな」
「……、終盤までに離れる可能性は低いでしょうね……」
挟まれる形となったハッピーミークは、群の中間に今も包まれている。外に出るにも、先んじるにもその位置取りは体力を奪われるだけでなく判断を狂わせる。重賞常連のウマ娘でも冷静な対処が難しいその中間に居て。
「アイツ、すげえな」
「安定していますね……」
その表情に一切の陰り無し。赤い瞳は揺らぐことなく、真っ直ぐに己の行く道のみを見つめている。周囲を気に留めていないのではなく、変化を機敏に感じ取りながら、己に不利に働くもの以外を冷静に受け流している。牽制に揺れず、動揺に靡かず、ただひたすらに足を運ぶ。
二人も唸る、精神的タフネス。ハッピーミークの天性の強さは、この状況に絶大な力を発揮していた。
展開不利を跳ねのける白毛の少女が、着実に一歩ずつ己の有利へと近づいていく中。
不意に一人、走りの力強さが上がった。呼応するように更に一人が果敢に坂へ向かう。中盤を越えた頃、それぞれの勝利への渇望が形を伴う。
「始まったか」
「はい……やはり、G1に出る選手となると密度が違います」
「見て分かるくらいには走りのキレが違うな」
ウマ娘達の用いる領域の中にも強弱が存在する。その力を知る者達にとっては共通の認識だ。
コンディションやその日の環境、適性、展開による誤差はあるが、より根本的な部分に置いて、個々の生み出す力には差異が存在していた。オープンクラスになんとか出走出来るウマ娘の領域とG1掲示板クラスのウマ娘の領域は、ぶつかり合えば前者の方が押し負ける。覆せない絶対的な差。そしてG1レースに出走するウマ娘のほぼ全員が、濃密に領域を放つ。ぶつかり合い、拮抗する暴威は立て続けで、その中心に居る者達にかかる負荷は想像を絶する程だ。密度という点では彼女達すら足元に及ばないスタートワンやシンボリルドルフでも、一切の抵抗もせずに走り続ければ相応の不利を強いられる。
抵抗のオーソドックスは、つまり距離を取るか、領域による防御。
スタートワンは常に周囲と距離を取り、生み出す炎で強引に掻き消す。シンボリルドルフも中団で領域に晒されようが意に介した様子が無いため、元々領域に強い上で抵抗策もあるのだろう。
ハッピーミークは周囲を囲まれ動けない。領域も持たない。
それは四方を荒れた海に囲まれた中、救命胴衣すら無く見えない陸まで泳ぐに等しい。自殺行為とも表現出来た。
「耐えるしかねえか……」
「…………」
今求められる策を成し得ないハッピーミークに出来ることは、ただじっと耐え凌ぎ、道が開ける瞬間を祈る事のみ。
無謀ともいえる奇跡に縋る事だけだ。額の汗を拭う彼女の顔に、僅かな苦悶が浮かぶ。
『さあ坂を上り切る! ハッピーミークはいまだバ群に揉まれたままだ!』
『ここから先頭へ出るには前を避けるか強引に道を開くか、あるいは壁が崩れるのを待つしかありません。一体どう動いて対処するのか』
いよいよ下り坂と最終コーナーが見えてくる。まだ3ハロン以上の間が残っている。
「まだ来ねえ。今どうなってる」
「立て続けで、領域が途切れるタイミングがありません……。ハッピーミークさんは、ずっとあの中に……」
「…流石に不味いか」
秋の天皇賞のようにスタートワンから灰が舞う事が無い。状況を知るにはスタートワンに聞くしかなかった。そして聞く限り、不利は一切消えていないようだ。
「…………っ……」
「不安か」
「……もどかしい……、」
指を合わせ、握り、じっと走る姿を見つめる灰色の瞳は、逸らされる事無く、瞬きも忘れ見ている。見てて、と、言われた通りに。
「もう、時間も、余裕も……!」
集団が再びスタンドに近付いてくる。ハッピーミークの顔がターフビジョンを介さずとも見えるようになる。
苦悶を隠せなかったその表情が、煌めいた。
『!?? 擦りぬっ、け、た!? は、ハッピーミーク、先頭集団に、そして先頭まで一気に上がった! 囲まれていた筈の中団に既に居ない!?』
『ほんの一瞬、コーナーを回る際に生まれた僅かな隙間をすり抜けるように前へ出ました……なんという迅速果断な動き!』
真後ろに居た筈のマークしていた相手が目の前に居る光景に、出走者達も動揺を隠せない。終わらないプレッシャーの中、ほんの小さな可能性を掴み取ったのは、滑らかで冷静な判断と足捌き。
『落ちない! 速度がまったく落ちない! 最終直線をハッピーミークがどんどん抜きんでていく!』
「…、あれがずっとマークされてた奴の走りかよ」
マークを受け、囲まれ、領域に晒され。それでも鋼の意志は揺るがなかった。
ゴールを見据えた赤い瞳は、己の加速を止めぬまま後続の加速を認識し更に速度を上げていく。種々の技術、作戦、才能を上回ったのは、揺るがぬ精神と小手先の技を必要としない実力。領域など持たずとも、強いウマ娘は強い。
それはスタートワンが狂おしいまでに欲した冠を持つシンボリルドルフのようで。
ハッピーミークはシンボリルドルフのように。けれど領域を使うことなく盤石にゴール板を駆け抜けた。
『今ゴールッ! 京都の坂を越え、今堂々とした貫禄と共に女王が帰還しました! 一着はハッピーミーク、盤石の走りに揺らぎは一つも無い!』
その勝利に観客が色めき立つ。クラシック期ウマ娘によるG1の連勝。内一方はシニア級との混合G1。それは現状、シンボリルドルフにも成し得ていないものだ。
「ハッピーミークはやったな」
「……そう、ですね。ハッピーミークさんはすごいです」
小さな拍手と共にターフ上の友人を眺めるスタートワンは、どこか他人事のように呟いた。どこか晴れやかで、しかしその口にほんの小さな歪みを含みながら。
「ちゃんと見たか」
「…ええ、見ました。ハッピーミークさんの快挙を」
「シンボリルドルフもまだ取ってない記録だ」
「っ……、ええ、そうですね」
「ハッピーミークが残した記録だ。」
返答が消えた。トレーナーからはその横顔に緊張と共に、絡めた指を握り込むのが見えた。
目が合うのを避けるかのように、じっとターフを見つめている。
そこにウイニングランを終えたハッピーミークが歩いてきた。
顔をきょろきょろと動かし、ぴたと止まる。視線の先に居るスタートワンがびくりと肩を震わせる。秋の天皇賞でも同じ事があったのを思い出しているのだろうか。
視線を合わせたまま動かない二人に、数秒の間が置かれる。
不意に動いたハッピーミークの両手がスタートワンの方へ伸ばされ、そして人差し指と中指が立てられる。
無造作な両手でのピース。無表情のような、自慢げなような勝利のポーズに、観客達から小さく笑いが漏れた。観客の中には、その勝利を誰に報告したのか察した者も居た。そんな者達も勝利を讃え、ハッピーミークが応えるように手を振る。
スタートワンは笑うことなく、賞賛に応える姿に指をより強く握り込んだ。