ジニーの歌声を聞いた後、急いでグレイス隊長の下に戻った。置き去りにしてしまったグレイス隊長を見つけると、それはそれは深い悲しみに包まれていた。用事の終わる正確な時間を聞いていなかった俺が悪いのだが、遅れてしまったことに対して怒るのではなく、無言で涙を流されたのは本当に辛い物があった。
グレイス隊長に謝り倒すこと数十分。なんとか機嫌を直してくれたグレイス隊長を乗せて基地に帰投した。
そんなことがあったのが昨晩のこと。本日の業務確認のため、こうしてグレイス隊長の執務室の前にいる訳なのだが、非常に顔を合わせることが気まずい。
しかし何時までも部屋の前でうろちょろと挙動不審でいる訳にもいかず、意を決して扉を叩いた。
「あら、カレン大尉。おはよう」
昨日のことはどこへやら。けろっとしたグレイス隊長に出迎えられた。
部屋の中には彼女以外に二人。
スオムス空軍のアイラ・ ペイヴィッキ・リンナマーとガリアのエレオノーレ・ジョヴァンナ・ガションだ。
二人は音楽隊の歌手であり、階級こそ俺よりも低いものの音楽隊の先輩でもある。
エレオノーレ、通称エリーは俺を見つけると隊長の方に、手に持ったチラシのようなものを突きつけた。
そのまま手にしたものを見せられた。
「募集……、音楽隊。ああ……、メンバーを公募されるんですね」
「そんな募集で人がまともに集まると思うか?」
疑わしいと、眉をひそめたままのアイラに問われる。
二人の反応を見るに、概ねグレイス隊長の独断による募集のようだ。
正直なところ、裏方の自分としては歌手のほうに関わることも少ないので、メンバーが増えても何かあるわけでもない。
少し視線を逸らしグレイス隊長のほうを見る。目が合った。随分と期待に輝く目がこちらを見ている。
「……あー。隊長も考えもあってのことでしょうから、私は良いと思います。……はい」
「そうよそうよ! カレン大尉は分かってくれるのね!」
やっと賛同者を得られたグレイス隊長は小躍りしながら、こちらの方を何度も嬉しそうに叩く。
これほど喜ばれると、逆に心苦しくなる。グレイス隊長に何も言えず、彼女に見えないように顔を顰めてしまっていると、呆れた目をしたアイラと目が合った。
同情と呆れが半々という様子。段々と視線が辛くなり、当初の要件をグレイス隊長に伝える。
「グレイス隊長これくらいで勘弁してください。自分は予定通り、小銃の点検に行きますので……」
「あら、もうそんな時間?」
広報の部隊といえど、音楽隊も立派な一部隊なのだ。当然、隊員の人数分、小銃がなくてはならない。
自分を含め、それなりの人数が補填されることが決まっているから、それだけ小銃が補給本部から輸送されている。
その動作点検を任された訳だが、この様子だと相当数入ってくることになりそうだ。
「では、自分は外で試射も含めての点検をしています。人手が要るようでしたらお呼びください」
「分かった。今日は入隊希望者の面接をする予定だから大丈夫。お昼くらいになったら様子を見に行くわ」
「それまでには終わっていると思います」
ただの点検だ。むやみに時間をかけるようなことでもないから、手早く終わらせよう。グレイス隊長に断って、彼女の執務室を後にした。
武器庫に向かいながら、エリーをこちらに見せた公募のチラシのことを思い出した。公募というのなら、音楽に関心のあるウィッチが来るのだろうか。
グレイス隊長はどうやら大人数での活動にこだわっている様子。
もしそこに、ジニーがいてくれたら、またあの歌声が聞ける。
彼女は使い魔であるモフィーを仲間に返すことを目標にしていたから、応募することはないのだろうけれど、もし彼女が来てくれたなら。
「だとしたら、それは喜ばしい」
思わずそんなことを呟いた。
●
届いていた小銃のダースを荷台に載せ、航空基地の端にある射撃場に到着する。
安全のため、辺りは広く何も無い草原ばかり。
手作り感の強い柵と射撃のレーン、そして目標があるだけだ。
「……それにしても、今日は暑いな」
真上を見上げれば照り輝く太陽。ブリタニアにしては珍しく、今日は雲一つない快晴だった。
じんわりと軍服が汗で湿っていく感触。
手短に終わらせるのが吉と見た。
折りたたみの机を立たせ、作業台にして銃を分解しては油を塗り、また組み立てていく。
ブリタニアの銃はアフリカでも触っていたから、丁寧にやっても全て片付くのに二時間もかからない。
太陽が天上にさしかかる頃、手入れは終わった。
「あとは……、どうしたものか」
小銃の手入れには付属の照準器の調整も含まれている。最低限俺が使う小銃だけやれば良い作業なのだが、それには実際に銃を発砲しなければいけない。
グレイス隊長からは無理をしなくていいといわれているが、中途半端に作業を終えること、何よりも自分の銃がいざという時に使い物にならないまま放置することに、どうしても忌避感が残る。
渡された銃弾は三十。つまり一弾倉分。
「これくらいなら、大丈夫だよな?」
誰に向けてのものでもなく、自分に言い聞かせるような言葉。
前に銃を持った時、嘔吐した。だけど今回もそうとは限らない。
そう考えて銃を持ち上げた。
久しぶりではあるが、手に馴染んだ感触と重さ。
大丈夫。今のところはなんともない。
弾倉を銃に込め、しっかりと構えた。
照準器からのぞき込んだ世界。
はっきりと的は見えている。
陽射しのせいだろうか。少しだけ陽炎のように像が揺らめいている。
引き金を引いた。
銃声が一つ。
「──命中。大丈夫、腕は落ちていない」
目標に開いた穴を確認すると中央を貫いていた。
二発。三発。続けて撃つ。
ほとんど同じ場所を貫く。
どうやら調整の必要はなかったようだ。
あとは撃ち尽くせば終わりだ。
「──ん?」
違和感を覚えたのは撃った弾が二十を超えた頃だった。
視界が揺れている。
いや、違う。
大きく動いているのは俺自身。上手く息が吸えず、苦しく、無理に息を吸おうとして肩が大きく揺れている。
気がつけば日差しの揺らめきは、砂漠の熱砂と重なり、いるはずのないアフリカに自分がいるような気がした。
「──クソっ!」
どうしてこうなる。たかが一弾倉。たったそれだけの弾をどうして撃ちきれない。
揺れる体に鞭打ち、なんとか銃を構える。照準器腰の視界で、目標はちっとも見つけられず、引き金に掛けようとする指は滑って意味を為さない。
とうとう限界が来た。
回り始めた視界の中、机に銃を叩きつけるように置くと同時に。大きくバランスを崩した。机の角に額を叩きつけてしまい、大きな物音と共に机上の銃が大きく跳ねる。
酷い痛みと、頭から暖かいものが抜けていく感触。どこか切ってしまったのかもしれない。
けれど確かめることも出来ないほどふらついたままの身体。崩れるような勢いで木陰に沈む。
動こうとしない身体を転がして、やっとの思いでうつ伏せになると少しだけ呼吸が楽になる。
「クルッポー?」
顔のすぐ隣でいつの間にか現れた鳩がこちらをのぞき込んでいる。
「大丈夫だ、オットー。そんなに心配しなくていい」
鳩の名前はオットー。ウィザードとしての俺の使い魔。のんびり屋で面倒くさがり。滅多に姿を現さないオットーが、流石に今回ばかりは心配となって出てきたらしい。
使い魔にまで心配させてしまうとは、これだから自分が嫌になる。
手を伸ばしてオットーの頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めて頭を手にすり寄せてくれる。可愛い奴め。
木陰で休むことしばし。
ようやく崩れたままの息が整いつつあった。
もう大丈夫だろうと判断してゆっくり身体を起こすと、こちらに歩いてくるグレイス隊長を見つけた。
もう面接が一段落したのかな。暢気に考えていると、こちらを見つけたグレイス隊長は顔を真っ青にして駆け出していた。
「ちょ、ちょっとカレン大尉! 大丈夫なの? あたま、すっごい血! 出てるわよ!」
驚いたままの顔で頭部を指さしたままのグレイス隊長。
みっともないところを見られてしまい、恥ずかしさに顔が熱くなる。
「ははは……、すいません。ちょっとバランスを崩してその辺にぶつけました」
「ぶつけました、じゃないわよ。もう! ほら、手当てしてあげるからこっちに来なさい」
すぐ横に座ったグレイス隊長は、ここに頭を乗せろと言わんばかりに膝を叩いている。
女性の膝に頭を載せることへの抵抗は当然あったが、最後にはグレイス隊長に有無を言わさず頭を引きずられた。
「あらら、少し深く切れているわね。待ってて、ハンカチで綺麗にするから」
「やめてください。せっかくのハンカチを無駄にしてしまいます」
「部下の手当をするのが無駄なはずないでしょ。ほら動かない」
そんなことまで言われてしまったら、それ以上何も言えない。
おとなしく手当てされていると、グレイス隊長が一度机の上の銃を見た。
「もしかして、銃を撃っていたら具合が悪くなった?」
「面目ありません」
「もう、また謝る。カレン大尉は別に悪いことをした訳じゃないでしょう? あなたに任せっきりにした隊長のわたしにも責任はあるんだから。こういう時くらい、上司に責任を押しつけちゃって良いのよ?」
からかうような表情のグレイス隊長。
そんなグレイスになんと言えば良いのかよく分からない。
太ももの感触を後頭部に感じながらおとなしくしていると、一生懸命手当てをしてくれるグレイス隊長。こんなことを隊長にさせてしまっていることが申し訳ない。
黙ったまま手を動かすグレイス隊長。長い沈黙と太ももの感触になんだかむず痒くなって、何かしゃべらなきゃと焦ってしまう。
「そういえば面接の方はどうでした?」
こちらに来たということは、もう終わったのだろうか。
質問してみるとグレイス隊長は、面接のことを思い出したのか笑みを浮かべた。
「いろんな子が来てくれてたわ。まだ明日の実技の試験もあるけれど、一緒にやって行けたらきっと楽しい音楽隊になるわ」
「でしたら、みんな合格ですか?」
少しからかうような声色で言ってみると、グレイス隊長は子供っぽく頬を膨らませた。
「それはちゃんと厳正に見定めるわ。だって、これは大事な音楽隊のことだもの。手は抜けないわ」
「そう、ですか。楽しみですねグレイス隊長の音楽隊」
「あら、他人事みたいな言い方。ステージに出ないだけで、あなただって私の音楽隊のメンバーなのよ?」
「自分もですか……?」
グレイス隊長の言葉にキョトンとしてしまった。
自分は部隊の隊員ではあっても、音楽隊の一員ではないと、どこかで線引きをしていたのかもしれない。
元々、戦えなくなって部隊を追い出されたような身分。自分は必要とされていないと、諦めにも似た無力感がずっと心の片隅にあった。でも、この人は俺に、こんなにもまっすぐ、はっきりと必要だと言ってくれる。
どうしたんだろう。顔が酷く熱い。
「あらカレン大尉、顔が赤いわね。もしかして息苦しい?」
心配そうにこちらを見下ろしたグレイス隊長の顔が、姿勢も相まって目と鼻の先まで近寄った。驚き、声が上擦って。
「いえ、お気遣いなく。気温が高いですから、そのせいかと」
「そう? なら、もう銃の点検は切り上げてらっしゃい。暑いものね。また時間が出来た時でいいわ」
そんなことを話していると手当ももう終わる。固まった血を拭うためにかけられた水筒の水。熱くなった顔に冷たい水が滴っていく感触が心地良い。
「ほら、綺麗になった」
手当が終わったと、両の手のひらを見せるグレイス隊長。
確かめるようにそっと額に触れてみれば綺麗なものだった。
まだ少し水気を含んだまま肌。そっと春の風が通り抜けていき、まだ少し残る痛みを拭い去ってくれていた。同じように風を受けて、グレイス隊長の髪が浅く広がる。風に乗って、仄かな甘い匂いが鼻先をくすぐる。
こんな時間も、たまには良いなと。そう思った。
●
夕方からは明日の実技試験に使うストライカーを整備していた。
ところが整備をしていると面接に来ていたはずのウィッチたち、そして見知ったグレイス隊長とアイラとエリー、と勢揃いして格納庫に詰めかけてきた。
事情を聞くと、面接に来ていないナイトウィッチを探すためにストライカーを使いたいという。
状況の前後はよく分からないが、グレイス隊長が許可しているというなら異議を出すこともない。
飛び去っていく彼女らを見送り、通信室でグレイス隊長と共に見守っていると、目的のナイトウィッチ、つまりジニーは見つかった。ジニーを探すため、歌う彼女たちをジニーが見つけたのだ。
ジニーを探すための不格好な編隊飛行。しかしそれは月光に優しく照らされ、俺には酷く美しいものに思えた。通信室にある小さな出窓から、空の彼女たちを見上げる。
それは見とれてしまうほどのもので、しかし俺には余りにも遠い空だった。
「カレン大尉もみんなと一緒に飛びたかった?」
そんなにわかりやすく顔に出ていただろうか。察してくれたらしいグレイス隊長は苦笑して、
「だってカレン大尉、ずっと羨ましそうに、みんなのこと見つめてたもの。きっと誰でも分かっちゃうわ」
「すいません。本当にお恥ずかしい……」
飛べないと分かっていても、空への未練を断ち切れないでいた。
どれだけ己の身を苦しめてしまうものだとしても。それでもあの空は、俺の居場所だったのだ。
「なら……、そうね。いいわ。カレン大尉、みんなが帰ってきてしばらくしたら、格納庫で待っていて。飛行服でね?」
「それはどういう……」
「良いから。隊長に任せなさい!」
良いことを思いついたと目を輝かせるグレイス隊長。
俺はその意図をくみ取れず、ただ気の抜けた返事をするばかりだった。
そんな会話があったのが少し前のこと。
言われたとおり格納庫に来てみれば、なんとストライカーを装着してエンジンを吹かせるグレイス隊長が待っていた。
「よし、現役の時よりは出力は出ないけど、ちょっとくらいなら」
見るとグレイス隊長の頭には、使い魔のものであろう馬の耳があった。現役を退いてから、もうウィッチとしては『あがっている』と聞いていた。だから、まさかストライカーを動かせるとは思わなかった。
「あっ、来たわねカレン大尉。それじゃあ、夜間飛行に行くわよ」
「え? 夜間飛行って一体……。それに自分は知っての通り、ストライカーで飛ぶと昼間のようにまた……」
過呼吸を起こすだろう。地上ならまだ良い。その辺に身体をぶつけるだけで済む。
しかし空に上がればそれは致命的だ。はるか上空であんな状態になったらどうなるかなんて、火を見るよりも明らか。
だがグレイス隊長は首を振ってそれを否定した。
「大丈夫。私が一緒に飛ぶから。具合が悪くなっても支えてあげる。だからカレン、飛びましょう?」
「でも……、その……」
言葉に窮してしまう。ただ一言、飛びたい。そう伝えるだけで良いのに。その一言が言えない。
本当は飛びたいのだ。もう一度、空に上がりたい。
けれど、それが恐ろしい。以前のように墜落してしまったら。墜落した時のことを、あの苦しい感覚はまだ鮮明に思い出せる。
上手く飛べる自信はもう、どこにもなかった。
うつむき、何も言えない。こうした機会を得ても、俺に前へたった一歩を歩み出す勇気が何処かへ消えてしまった。
硬く握られた拳。震えるそれを、細く白い指が優しく手が包んだ。見れば硬く握った手をグレイス隊長がとってくれていた。
グレイス隊長は俺にどうしろと言わない。
ただ、一言、問いかける。
「カレンは、どうしたい?」
「俺は……」
風が吹き、開け放たれた格納庫の扉の向こう。叢雲に時々隠れる望月があった。
月の光が滑走路を照らし出している。その向こうには静謐な星と空がただ在る。
故郷と同じ、星と月の空だった。
「叶うのなら、もう一度。もう一度あの空に」
「なら、決まりね!」
小さなウィンク一つ。グレイス隊長に押されるがままストライカーに装着し、空へ飛び立った。
「飛べてしまった……」
飛んでいるのは自分だというのに、どこか他の世界の出来事のような感じがした。
足下を見れば人の営みを伝えてくれる街の明かり。見上げれば星の運河を流れていく白い雲。
人と空との狭間。幻想の中にあって、現実に触れ合っている世界。夜の間だけ現れるナイトウィッチの世界。
「ようやく、帰って来たんだ……」
夢ならきっとここで覚めてしまう。焦がれていた場所に、ようやく踏み入れられたのだから。ここで終わって欲しいと思う。
「カレン大尉、身体は大丈夫そう?」
手を握ってくれているグレイス隊長。暗く、冷たい夜空であっても一人でないと教えてくれる。
「はい、このままずっと飛んでられるくらい」
そのおかげか、いつもよりずっと気持ちが楽だ。過呼吸に陥る前の嫌な感覚がないわけじゃない。けれど、それはずっと軽いものだった。
一人じゃないと思えば、恐ろしかったはずの空も、優しい月光に照らし出されどこまでも続いていく。
「あと、どれくらい。いつまで飛んでいられるかな?」
なんて考えていた時だった。
「え、ウソっ!」
一緒に飛んでいたはずのグレイス隊長が急に素っ頓狂な声を上げた。
異音。規則的に風切り音をならしていたストライカー。それが不規則に速度を変え、時々燃料の不完全燃焼を起こして黒いガスを吐く。
魔法力切れを起こした時に見られる現象だった。
「グレイス隊長!」
こんな上空でストライカーが止まったらどうなるかなど明らかだ。落ちる前に確保しなければ。
急いで両手で浮力を失いつつあるグレイス隊長を捕まえようとした。そうした無理のある姿勢の変えかたが良くなかった。つり上げようと位置を下にしたグレイス隊長。
掴んだ手が握り切れておらず、気がつく頃にはすり抜けてしまっていた。
「ウソでしょ。だめっ、落ちる!」
叫びながら落ちていくグレイス隊長。
切り返し、追いかける。
自由落下していくグレイス隊長は、なんとか追いつけそうな速度だった。
追いかけながら考える。
よくよく考えればグレイス隊長はもう二十歳を超えている。それはつまりウィッチとしての最盛期を終えて、減衰期に入ったということ。
自分の力量を見誤ったと言えばそれまでだが、そんな不安を承知で俺に手を差し伸べてくれていたんだ。
だからこそ、絶対に助けなければ。
ストライカーをふかし、加速度を増して降下していく。
顔に当たる生ぬるくなった風。瞬間、よりにもよってこんな時にアフリカの夜空が視界に重なった。
なんの問題もなかったはずの呼吸が、途端に重苦しく不自由になった。
手を伸ばさなければいけないのに、空気を求めて首を掴んでしまう。
せっかく縮まった距離がまた離されていく。
──お兄ちゃん
また、俺は救えないのか?
闇の向こう。グレイス隊長はこちらに手を伸ばしているのに。
それに答えられない。こんな思いをするのは、もう嫌なのに。
息苦しさばかりが募っていく。
とびかけた意識。視界が闇に染まっていく。
その時だった。
黒に染まっていく視界。光があった。音があった。
「……これは、歌?」
耳に届いたのは静かな歌。いつか聞いた、故郷を永久に思う優しい歌。頭上の魔道針がそれを拾い光っているのだ。
歌は月がある方の空から反射して来ているんだ。月光が暗闇の中、ジニーの歌を届けてくれた。
闇が晴れていく。クリアになった視界。
もう飛べると確信する。苦しさは何処かに忘れた。
息を整え、まっすぐ。ただ前に向かって飛ぶ。
「グレイス隊長! 手を!」
届かせようとする手はグレイス隊長に伸ばされ。今度こそ、確かにその手を掴んだ。
グレイス隊長を抱え、上昇する。
あんな危険な目に遭ったというのに、グレイス隊長の目は輝いている。
「カレン大尉! ちゃんと飛べたのね!」
「それどころじゃ……。いや、まあいいっか」
月光に照らされ、静かに登っていく。
「歌が聞こえました」
「歌が?」
「はい、ジニーの歌が聞こえたんです。そうしたら途端に苦しさがなくなって、上手く飛べたんです」
今も歌は聞こえている。今だってアフリカの光景も、オラーシャの過去も視界に重なっている。それは恐ろしいものだ。
だけどこの歌を聴いている間だけは、息苦しさも、恐ろしさも姿を消してくれる。
魔道針を調整してみると、空にジニーの歌声が響いていく。
静かな夜空。星と月の光に照らされて、二人は耳を澄ませる。空にいることも忘れて、ただジニーの歌に聞き入っていた。
「これがきっと、歌の力なのね。ジニーの歌が、カレン大尉に力をくれたのでしょう?」
いつかグレイス隊長が言っていた歌の力。歌には傷ついた人々を癒やす力がある。
あの時は、ちっとも信じられなかった。そんなもの、あるはずないと決めつけていた。
だけど、今なら言える。
「もっと聞いていたい。誰かの歌が背中を押してくれて、勇気が湧いてくる。そんな気がするんです」
確証なんて、どこにもないけれど。
ここにある月と星と歌。胸の奥から溢れそうになる暖かいものは信じていたい。
「本当に綺麗ね」
「はい、本当に」