梅雨が明け、夏の訪れが感じられつつある頃。
トレーナー室に備え付けられたスピーカーからは、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いていた。
「グラス君」
「はい?」
「今日はいい天気ですから、昼はどこか外で食べませんか?」
「──はい!」
トレーナーの青年は、担当バであるグラスワンダーへ向けてそう口にした。この季節には少々邪魔になるであろう長さになってきた赤みがかった黒髪が、開いた窓から入り込む風にふわふわと揺れている。
彼は返事を聞くが早いかといった様子で、鼻唄混じりにトレーナー室に併設された給湯室へと向かっていった。
元気よく返事をしたグラスワンダーはというと、スツールに座りながら無意識に尻尾を振り振り、昼食への期待を瞳に滲ませ、これはきっと今朝から決めていたんだろう、と考えた。
トレーナー業というのは、これが中々多忙である。夏ははオフシーズンとしたので春先や年末に比べれば然程ではないものの、忙しい事には変わりはない。そして手掛ける業務の一つには、担当するウマ娘の栄養管理も存在する。熱心な者であれば毎食手作りして担当へ振る舞うといった場合もあるが、グラスワンダーの担当であるトレーナーはまた違った。
オフシーズンにのみ、手料理を振る舞うのである。これが曲者だった。
トレセン学園に通うウマ娘というのは、食べ盛りな年頃であるのに加えてアスリートでもあり……そこらの肉体労働者が裸足で逃げ出すような運動量を誇る。つまり汗はたんと流すし、それに伴いミネラル質を求める──本能的に塩気の強い食事を好む側面がある。そういった者に
窓の外を見やれば、青空の下でバ場を駆ける、熱心な同輩達の姿。昨年であれば私もあの中に居たのだろう、と思い耽ったところに、トレーナーがひょっこりと給湯室から顔を覗かせた。
「どうかされましたか?」
「グラス君はアレルギーなどは特にありませんでしたよね?」
「はい、特には」
「なら良かった。もう少し待ってくださいね」
耳をトレーナーの方へと向けてみれば、かちゃかちゃと聞こえるのは調理器具を動かす音だろうか、コンロの点火音の後、じりじりと聴こえ始める食材の焼ける音に、心なし良い匂いがしてきたような気がする。
数分後、バスケットを持ったトレーナーは此方へと戻り、グラスの横へ立って外を眺めながら言葉を紡ぐ。
「では行きましょうか。グラス君なら、今日は何処が良いと思います?」
「ううん、それなら……」
少女は数秒──様々に思考を巡らせて、中庭はどうか、と返した。ではそうしましょう、と青年も答えて、共に外へと向かえば、途端緩やかな時が流れていく。
──初めてトレーナーに怒られたのは、丁度去年の今頃だったな、と道すがらに思い返す。レースに向けて自分を追い込んで追い込んで、人のかたちをした刃金のようなものになりかけていたところを叱られた。
……叱る言葉が、「それじゃあ誰も近づいてきませんから意味ないですよグラス君。むしろ勝ちを逃します」というのは如何なものかと思ったが。
気の立った年頃のウマ娘へそんな事を言い放ってしまえば、最悪コンビの解消だってあるのだから。
ともあれどうせ撫で切りにするなら普段はその気配など綺麗さっぱり見せない方が良いだろう。との言葉に従って、平時はむしろ目一杯ゆったりと過ごす事にしてから早くも季節を一巡り。ちょっと不思議なくらいに戦績は良好だったのは叱られた当時の自分へ教えても信じまい。
自らの専属となってからおおよそ半年ほどの時間を掛けて、この人は独特な感性の人物である。と、やっとグラスワンダーは認識した。
見るからにのほほんとしていて、妙に食事に拘り、多少なりの甘さがあり……しかし、見た目とは裏腹に勝利への執念が強い。
擬態して狩りを行う獣のような気配が、レース前のトレーナーから、じわりと滲み出ることがあるのだと知った。
が、それはそれ。次のレースはまだ遠い今の時期は、のほほんとして羊のような青年である。
「……多分トレーナーさん、今朝から外で食べようって決めていましたよね?」
「……はい、おっしゃる通りです」
「こんなに良い天気ですものね?」
「はは……。こういう日に外で食べるご飯は格別ですから」
頬を掻きながら青年は答える。そんな姿を見て微笑みを浮かべながら少女は続けた。
「──トレーナーさんは悪いお人です……」
「と、言うと?」
「だって、私に休み方をどんどん教えてくるのですから」
「……それは、素直に認めるしかありません……」
「はいっ。なので私が食べ過ぎてしまっても、悪いのはトレーナーさんなのです」
「今日もたくさん作ってありますからね?」
「楽しみです」
「美味しくいただきましょう」
そうこう言葉を交わすうちに、二人は中庭へと辿り着く。折り良く空いていたベンチに座り、グラスは早速バスケットの中を見せてもらう。
出てきたのは、香ばしい匂いを漂わせ、丸々2枚のパンを重ねた大ぶりのホットサンドである。作ってからさほど時間も経っていないので温かく、また中身の具材もたっぷりと入っているようで、ごろごろとした感触が焼けてぱりっとした表面の上からでもなんとなく感じられた。
それが4枚。いかにも食べ応えがありそうである。
「では、いただきます……」
「はい、おあがりください」
齧り付くと、口腔へと熱いソースが溢れ出た。
「──熱っ!? はふっ」
「おっと、もう少し置いておいた方が良かったかもしれませんね」
「うわぁ──」
舌を冷まそうと思わず口を離したグラスに電流、走る──。
一瞬で中のソースの味わいが口腔を支配していた。トマトの酸味、強めの胡椒と少し隠れた唐辛子の風味。そして──海老。
体感した事のない濃度の海老が口の中を蹂躙していく。ぱりっとしたパンの表面にじゅわりとソースが染み込んでいき、鼻腔と舌をどこかすっきりとした芳香が駆け巡り、ほっと吐き出されていった。
「あ、あの……これ、なんです?」
「はは、ただのホットサンドですよ? ちょっと変わり種ですけども」
「海老が……海老の風味が殴りつけてきてます……美味しいですけども……はむっ」
「以前ネット上で見かけて試してみたら好みの味だったので、その中身のソースを休日の時不定期に作ってるんですよ。面白い味でしょう? どうぞ、人参ジュースです」
「ん、く……ふう……ありがとうございます。いったい何をしたら、こんなのが出来るんですか……?」
「まずたっぷりの海老を用意しまして」
「はい」
「だいたい2キロくらいですかね、用意しまして」
「はい……? 2キロ……?」
「はい。今回はゴールドシップ君とそのトレーナーから頂きました。それを色々頑張って濃縮してやると出来上がるのがその海老トマトソースです」
「途中経過が物凄く端折られてませんか?」
「まあまあ、今はこの味を楽しむだけで十分ではないですか」
「それはそうですけど……」
ふっと気付けばホットサンドは1枚目の半分ほどまで食べてしまっていた。しかし妙に高い満足感が得られている。明らかにこの海老の暴力のせいだと少女は一口囓りながら考えた。
濃厚な味わいであるのに食べるのが止まらないのは、トマトの風味がやけにさっぱりとさせてくれるからだろうか? それとも単に自分が健啖なだけだろうか? 前者であったら嬉しいのだけれど……と考えて2枚目へ手を伸ばす。やはり美味しい。
食堂で売り始めたりしないだろうか……? 原価はさておきこれなら売れ行きは良さそうなものであるけれど。などと、取り止めもない事を考える。
トレーナーはというと、そんな少女の様子を眺めながら柔らかく微笑んで、ふっと溢した。
「……グラス君は、幸せそうにご飯を食べますね」
「──ん、く……。トレーナーさん、いつもそう言ってますよ?」
「かもしれません。食べながらで良いので今後のレース予定を伝えますね……」
「はいっ」
「まずは9月ですが──」
穏やかに日々は過ぎて行く。誰もが刃を研ぎながら。
ただ、この少女にとっては、研ぐ姿を同輩に見せる必要は、とうになくなっていた。
その切れ味の出来を知る者は、今やただ1人で十分であったからだ。
なおこの日の帰りに夜食にでもどうぞ、と渡された邪悪な揚げパンを巡って、ルームメイトと熾烈な攻防が展開されたのはまた別のお話。
グラスワンダーの体力が10回復した。
グラスワンダーのスピードが5下がった。
グラスワンダーのパワーが20上がった。
グラスワンダーの賢さが10上がった。
エルコンドルパサーの体力が10下がった。
(続きとかは)ないです。