ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告にカンシャァ~!
今回、本編だけで一万七千字ですわ。
此処を書きたくて、私はこの小説を続けて来たと云っても過言じゃないですの。


最後の審判

 

 雨が頬を濡らす。

 空を覆う雨雲は分厚く、陽光は遮られ薄暗い世界が視界一杯に広がっていた。揺らぐ視界は不安定で、気を抜けば瞼が落ちてしまいそうな程。そんな中で先生は必死に目を見開き、息を吸い込む。冷たく、痛みを伴う呼吸は先生の意思を、心を僅かずつ削いでいく。

 自身を見下ろすサオリの瞳、その透明さとは裏腹に昏く、うすら寒い感情を湛えている様に思える。

 先生とサオリの視線が交わり、僅かな沈黙が二人の間に降りた。

 

「次は調印式で――そう云ったが、本当にこうなるとはな」

 

 声には、僅かではあるが感嘆が込められていた気がした。

 或いは、先生は出席しないのではないか――サオリは少しだけ、そんな風に想っていたのだ。何せ前回のトリニティ襲撃で、決して浅くはない傷を負った身である、自身の安全を第一に考えるのであれば、周囲を護衛で固めてシャーレにでも籠っているべきだったのだ。調印式の様な場にノコノコと身を晒す事の危険性を、先生は理解している筈だった。

 受けた傷が深ければ深い程、恐怖故に人は足を止める。

 サオリはそれを良く知っている。

 

「トリニティとゲヘナの主要部は全て片付いた、残りはもう貴様だけだ、シャーレの先生……尤も、その様子では放っておけば死んでしまいそうなものだが」

「………」

「アズサが随分と世話になった、あいつには今から会いに行く予定だ」

「っ……――」

 

 その言葉に、先生の瞼が震えた。

 突き出された右腕が、ゆっくりと懐に伸びる。指先に触れるのは液晶の罅割れたタブレット。最早電源も付かないそれに、先生は手を伸ばす。

 

「……動くな、そのタブレットからも手を放せ」

「………」

 

 それを咎めるように、サオリは銃口を一度揺らした。

 その言葉に、先生の手が止まる。

 先生がどの様な手札を持っているのか、サオリは把握していない。故にその一挙手一投足に注目し、僅かでも怪しい動きが見えたのであれば即座に引き金を絞る用意があった。

 サオリは先生と云う大人を評価している、良い意味でも、悪い意味でも。

 どの様な盤面であれ、彼女は決して油断しない。

 

「貴様が何かするよりも、私達が頭蓋を撃ち抜く方が早い、足掻くな、もう呼吸一つでも苦しいだろう――抵抗しなければ、楽に送ってやる」

「……な」

 

 地面に這いつくばる先生が、喉を震わせ言葉を絞り出す。

 

「何、故――……」

 

 それは、何を問い掛けようとしたのか。

 苦痛に歪み、尚問いかける先生。

 サオリは暫し考える素振りを見せ、その問い掛けが何故この様な事を起こしたのかという問いなのだと解釈した。

 説明する義理などない――しかし彼女の思考、その片隅に先生の今までの言動が引っ掛かる。命懸けで生徒を守ろうとする大人、自身に銃口を突きつける者に言葉で和解を求める姿。サオリは暫くの間沈黙を守り、軈てぽつぽつと言葉を零す。

 それは決して同情などではない。

 ただ目の前の大人に――悪い大人(善人)に、この世の真理(虚しさ)を突きつけたかっただけだ。

 

「……我々は、トリニティに代わりこの通功の古聖堂にて条約に調印した、楽園の名の下に条約を守護する新たな武力集団、その結成に関する調印をな」

「――……E、TO」

「あぁ、そうだ」

 

 ――『エデン条約機構』(ETO)

 

 ゲヘナとトリニティ、その紛争を解決する新たな武力集団。この調印式によって生み出される筈であった、新たな秩序を担う存在。

 

 それがアリウスの手に渡った。

 

 本来であればETOはゲヘナ首脳部、及びトリニティ首脳部の同意が無ければ活動しない。しかし、現に彼女達は十全にETOを扱って見せている。それは、恐らく調印の書き換えによるものだと分かる。

 

「以前から知っていたのだろう、先生? これは元々私達の義務だった、本来ならば第一回公会議の時点で、私達が行使するべき当然の権利――だがそれを、トリニティは踏み躙った、私達を紛争の原因とし、鎮圧対象として定義、徹底的な弾圧を行った」

 

 帽子のつばから滴る雨水、その向こう側に見える瞳は余りにも冷ややかだ。

 嘗てトリニティ総合学園が創設された時、唯一合併に反対したアリウスを彼女達(連合)が弾圧した過去。排斥され、迫害され、薄暗い地下へと追いやったトリニティ。陽の差す場所でのうのうと生きる生徒と、陽の当たらぬ場所で飢えて苦しみ、血を血で洗う内乱に明け暮れた生徒。

 

 凍えた掌、擦り切れた指先で地面を這いながら時折見上げる地上の青色(ブルー)――透き通るような空の下で、笑顔と共に生きる少女達(生徒達)を見つめながら、幼き頃のサオリは思った。

 

 何故、アリウスは排斥されなければならなかったのだろう? 

 何故、私達はこれだけの苦しみを数百年味わう事になったのだろう? 

 何故、向こうは(トリニティは)陽を浴び(表側で)私達は(アリウスは)日陰(裏側)なのだろう?

 

 サオリは、ミサキは、ヒヨリは、アツコは――アズサは、ただ。

 人並みの、何て事の無い些細な幸せがあれば良かった。裕福でなくとも、皆と一緒に居れて、命が脅かされずに済んで、血を流す事も、流させる事も無い様な。そんな普通の、ありふれた日常の中で生きていたかった。

 望んだのは、そんなキヴォトスでは珍しくもない一幕。

 ほんの小さな――些細な奇跡。

 けれど、それが決してサオリ達(アリウス)に齎される事はないと知っている。

 

 私達が何をしたのだと云うのか?

 何の悪事を働いたのだ? 

 思想の違いは、信条の異なりは、これ程の罰(数百年に及ぶ迫害)を受ける事なのか? 

 仮にそうだとして、数百年前のアリウスが罪悪を為したとして――先人の罪は、我らの罪なのか?

 私達は犯した覚えもない、数百年前の罪悪を背負って生きて行かねばならないのか?

 

 もし――。

 もし、そうならば――。

 

 この憎悪(先人の恨み)も――我らの憎悪(私達の恨み)なのか?

 

 サオリが抱いた、原初の絶望。

 世界の真理(全ての虚しさ)に至る、最初の道。

 常に心の片隅にあった疑問、疑念、不条理、不平等、不公平に対する根源的な憎しみ、怒り、悲しみ、嫉妬――ただ生まれ落ちた場所が違っただけで、育った場所が異なるだけで、こんなにも違うのかと、こんなにも幸せそうに笑えるのかと。

 あの青空の下で笑う少女達を見て、サオリは思った。

 

 だからこれは、正当な復讐(私達の憎悪)なのだ。

 アリウスにはその義務が、権利がある。

 サオリは、(スクワッド)を幸せにしてやる事が出来ない。

 自身の無力さを、手の小ささを、愚かさを、彼女は幼少期に嫌という程に思い知らされた。

 だから、このETO(エデン条約機構)を使って――トリニティを、ゲヘナを、私達(アリウス)よりも少しだけ、ほんの少しだけ不幸にする。

 

 そうしないと不公平だから。

 そうしないと不平等だから。

 それで私達(スクワッド)の過去が変わる訳じゃない。

 辛かった幼少期が報われる訳でもない。

 夢も、希望も、奪われた将来も、返って来る事はない。

 

 けれど――。

 トリニティも、ゲヘナも、公平に奪われたのなら。

 

 ――私達(スクワッド)は、不幸なんかじゃなくなる。(トリニティとゲヘナよりも、幸福だ)

 

「これからはアリウス・スクワッドがエデン条約機構(ETO)として権限を行使し鎮圧対象を定義し直す、ゲヘナ、そしてトリニティ――この両校こそエデン条約に反する紛争要素であり、排除するべき鎮圧対象……トリニティがそうしたように、今度は私達が連中を消し去る、文字通りにな」

 

 力強く放たれるその言葉と共に、サオリの周囲にユスティナ聖徒会の亡霊が立つ。青白い光に包まれた肉体、顔をガスマスクで覆い、ウィンプルを被ったシスターの姿。

 嘗て彼女達、アリウスを迫害したユスティナ聖徒会――その残滓。

 彼女は嘗ての怨敵と共に立ち、打ち付ける雨の中で告げる。

 

「この条約の戒律――その守護者たちと共に」

 

 声は淡々としていた。

 けれど、確かな熱が籠っている様にも聞こえた。それは計画の結実によって齎される熱か、それとも別種の感情によるものか。

 先生は拳を握り締め、震える声で問う。

 

「……本、気――な……んだ、ね」

「――あぁ」

 

 そうでなければ、この様な事を起こす筈がない。

 憎悪、復讐、それこそがアリウスの本懐であり根源。この為にアリウスの生徒達は自身の身を捧げ、希望を捧げ、未来を捧げ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、薄暗い地下の中でただ苦しいだけの日々を生き抜いて来た。

 その憎悪が、復讐が、結実する日が――今日なのだ。

 

「貴様らは第一回公会議以来、数百年に渡って積み上げられてきた恨み……私達の憎悪を知る事になるだろう」

 

 トリニティが、ゲヘナが、今日まで忘れていた存在。薄暗い地下に閉じ込め、その記憶の片隅にすら存在しなかった道端の小石。

 彼女達は、そんな存在に今日、打倒(うちたお)される。

 数百年続いた、その憎悪の果てに。

 

「……だが」

 

 サオリの瞳が、先生を射貫く。

 その構えられた拳銃のグリップが、軋む音を立てた。

 

「――先生、貴様にその席はない」

「………」

 

 雨音が、鼓膜を叩く。

 肌を冷気がそっと撫でた。

 

 身体がどんどん冷えていく、血が雨水に混じり、薄く濁った血液がアスファルトに滲んでいく。歪む視界の中で、それでもサオリの表情だけはハッキリと分かっていた。

 

「事、此処に至って、貴様の排除はどんな犠牲を払ってでも行えと彼女に厳命されている、悪いが――この場で死んで貰う」

 

 彼女――ベアトリーチェにとっての最重要事項。

 それはエデン条約機構の確保か? 否。

 ならばトリニティとゲヘナ、その最大戦力の打倒か? 否。

 それらも確かに重要ではある、しかしアリウスの一般生徒に決して打ち明けず、彼女が最も重要視していたのは。

 誘導弾頭を宇宙(そら)から撃ち込み、更にはスクワッドをけしかける程の徹底ぶりを見せた――シャーレの先生、その殺害のみ。

 

 アツコ(ロイヤルブラッド)には条約の調印と複製(ETOの確保)を。

 ヒヨリにはゲヘナのヒナを。

 ミサキにはトリニティのツルギを。

 そしてリーダーであるサオリ(最大戦力)には――シャーレの先生(本命の殺害)を。

 それぞれ役割が与えられていた。

 

 マダム(ベアトリーチェ)の指示は、絶対である。

 故に、彼女(サオリ)は先生を殺すのだ。

 

 サオリの構えた銃口、その先端が鈍く光る。

 引き金を絞れば、たった一発の銃弾を放てば、先生の命は簡単に吹き飛ぶ。片腕を喪い、片目を喪い、満身創痍の人間――素手であっても殺せてしまうだろう。

 先生が引き攣ったような呼吸を漏らす。変色を始めた唇が、その体温の低下を知らせていた。

 

「っ――ぅ……」

「……苦しくて仕方ないだろう、直ぐ、楽にしてやるからな」

 

 それは、サオリが抱いた最後の慈悲。或いは、自身の中に存在した未練との決別。あの日、差し伸べられた手を取らなかった己の選択が正しかったのだと、そう云い聞かせる為の儀式。

 静かに、その引き金に掛けられた指に力が籠められる。ゆっくりと、けれど確実に。

 最後までサオリは先生の瞳から視線を逸らす事をしなかった。

 ただ真っ直ぐ――正面から顔を見据え。

 彼女は、先生を殺すと決めていた。

 

 

「あ、ぁ――あぁあァアアアッ!」

 

 

 咆哮が、街中に響き渡る。

 それは、サオリの背後から響いたもの。

 倒れ伏していた筈のヒナが転がっていた愛銃を引き摺る様にして掴み、恐ろしい形相で立ち上がろうとしていた。

 肩で息をして、流れ出る血をそのままに、満身創痍となって尚も戦う意思を見せるヒナ。口から滴る血を吐き出し、彼女は叫ぶ、全力で、腹の底から。

 

「やら、せないッ! 絶対、に……ッ! 先生は、私が……ッ――!」

「――まだ立つのか、空崎ヒナ」

 

 ゆっくりと銃口を逸らし、踵を返すサオリ。

 その表情に浮かぶのは――感心と呆れ。

 周囲のユスティナ聖徒会が銃口を向け、ヒナは愛銃を引き攣った腕で構えながら荒い息を繰り返す。

 銃口が定まらない、指先が痙攣している。最早真っ直ぐ立つ事すらままならず、その体は小刻みに揺れていた。

 

「無駄な足掻きだ、既にその肉体は限界を迎えている……その様子では銃弾一発でも、ヘイローが壊れかねない」

「ぐ……ッ――!」

 

 その通りだ。 

 彼女は既に限界だ。

 それは他ならぬ、ヒナ自身が理解していた。

 今にも崩れ落ちそうな足の震え、愛銃すら真っ直ぐ構える事も出来ず、その視界は揺らいで仕方ない。そんな状態で立ち上がって何が出来る? 何を為せる? 何も――何も為せはしない。

 サオリはそう断じ、ヒナを見下すように首を傾げ告げた。

 

「会場に打ち込んだ弾頭も、通常のものより破壊力を大幅に増した特製品だ、寧ろアレに巻き込まれた状態でここまで戦えることが脅威……足掻くな、運命を受け入れろ、そうすれば苦しまずに葬ってやる」

「だ、れがッ……!」

 

 そんなサオリの言葉に、ヒナは吐き捨てるようにして叫んだ。

 

「諦める、事なんて……する訳ない!」

 

 愛銃を脇で挟み、無理矢理固定する。

 覚束ない足取りは、思い切りその場で足を振り下ろし、アスファルトを砕いて爪先を埋め込む事によって補う。仮に被弾しても、身体が後方へと転がってしまわない様に。最後まで立っていられるように。

 所詮悪足掻きだ、戦法もクソも無い、破れかぶれの戦い方。

 それでも、彼女はアリウスの前に立ち塞がる。

 

「ましてや……先生の、前でッ!」

 

 諦める事をしなかった、その人の前で。

 どうして、諦める道を選べよう?

 

 どこまでも強固な意志。

 どこまでも深い信念。

 それを感じ取ったサオリは数秒、ヒナを見つめ。

 小さく息を吐き出し、告げた。

 

「そうか、なら……先生諸共、葬ってやる」

 

 緩慢な動作で、サオリの拳銃がヒナへと向けられる。

 普段であれば大した脅威にもならない攻撃だろう、しかし今のヒナにとっては致命的な一撃になる一発。

 ヒナが愛銃を構え、引き金に指を掛ける。けれど、構えられた銃身は右へ左へ揺れ動く。銃を支える事すら出来ていない。キヴォトス最強と称された風紀委員長の姿は、もう何処にもない。

 先生はそれを、地面に這い蹲ったまま見上げる事しか出来なかった。口の中でヒナの名前を呼び、指先を伸ばす、腕を伸ばす、必死に、歯を食い縛って。

 それでも、それが届く事は決してない。

 

 サオリが、その目を引き絞る。

 ヒナが、歪んだ表情で歯を食い縛る。

 

 私は――。

 

 先生はアスファルトに爪を立て、必死に体を引き摺ろうと足掻く。

 何度も、何度でも。

 けれど、現実は余りにも非情で。

 サオリの指先に、力が籠り。

 ヒナの瞳が、自身への失望と共に閉じられた。

 最後に小さく囁いた言葉は、大切な人(先生)への謝罪で。

 先生は大きく息を吸い込み、腕を地面に叩きつけた。

 

 私は――また、失敗するのか。

 

 時間が、酷く遅く感じられる。

 ヒナの、サオリの、ユスティナ聖徒会の僅かな動きが視認出来る程の、驚異的な集中力。人生で何度か経験する事になった、本能的な危険信号。世界の分岐点、或いは先生という人間の今後を左右する、致命的な分かれ道。

 地面に押し付けた腕を必死に支え、先生は立ち上がろうと力を籠める。声なき叫びを上げ、今にも犠牲になろうとする生徒を守る為に。

 

 ここで私は、斃れて――。

 ヒナも……。

 あぁ、それは駄目だ、アコが、風紀委員の皆が悲しむ。

 

 他人事の様に、心の片隅で先生は呟く。

 生徒の悲しむ顔は、見たくない。

 生徒が犠牲になる世界など、あってはならない。

 悲しみに塗れた世界など、(先生)は――。

 

 心の内に零れた言葉。それに先生は、一瞬声を詰まらせる。

 悲しみ――。

 その言葉と共に想起される、様々な生徒達の慟哭、叫び、訴え。

 脳裏に過る、あらゆる世界の可能性。

 

 這い蹲ったまま、曇天に覆われた空を見つめる。空の青は見えず、星は見えず、月も見えず、厚い雲(絶望)広大な空(無限の可能性)を覆い隠している。己の無力を噛み締めながら、己の弱さを嘆きながら、先生は想う。

 

 もし、私が……。

 ―――。

 私が、此処で斃れたら。

 誰が――。

 

 

 誰が、生徒達(子ども達)を――。

 

 

 ――多分、私は、先生が死んだ後に生き残っても、あの黒いシロコちゃんと同じ道を辿るよ。

 ――あなた様のいらっしゃらない世界に、価値など在りませんもの。

 ――確かに先生の全部、受け取った! ちゃんと受け取れたよ、私!

 ――諦めない背中を、私は先生から学んだ。

 ――皆で力を合わせれば、きっと、どんなことでも乗り越えられるって、信じていますからッ……!

 ――だから私は、私の全てを使って先生を救って見せる。

 ――私達、全員でアビドスなんですッ、そうでしょう!?

 ――教えてください、先生の、あなたの抱える重荷を、そして分けて下さい、ほんの少しでも、私を信じてくれるのなら。

 

 

 ――だから先生、どうか……。

 

 

 □

 

 

「……私のミスでした」

 

 ――白い車内。

 

 流れゆく雲に、照らされる朝日。窓から差し込む昇ったばかりの日差しは、車内に腰かけた二人に影を伸ばす。

 正面に腰かけた彼女の頬には、赤い血が滲んでいた。

 ヘイローを喪った彼女は既に弾丸のひとつでも致命傷と成り得る。銃弾の掠めた頬は、今尚血が止まっていない。人と変わらぬ、脆弱な肉体。

 最後まで足掻き、それでも辿り着けなかった(楽園)の果て。

 

「私の選択、そしてそれによって招かれた全ての状況」

 

 彼女の枯れた、力ない声が車内に響く。

 私はそれを、ただ見つめる事しか出来ない。

 

「結局、この結果に辿り着いて初めて、あなたの方が正しかったことを悟るだなんて」

 

 ゆっくりと、語り掛ける彼女。

 俯いたままの表情は影に隠れ伺えない、そも見え隠れする感情は察して余りある。彼女の選択――それを、自分は否定できない。

 する権利など、存在しない。

 この選択肢に至って尚、それでも確かに彼女はキヴォトスを想っていたのだから。

 

 腕を、伸ばそうとする。

 彼女の頬に、触れようとして。

 けれど自分に残った片方の腕(左腕)は――包帯が幾重にも巻き付けられ、酷く不格好だった。

 彼女の元に歩み寄ろうにも、見下ろす体は不自由で。

 膝から下の存在しないこの両足では、彼女の元に歩いて行く事すら出来ない。

 満身創痍だ。

 人の形を辛うじて保っている屍、それが今の(最期の)私だった。

 

 車両が、緩やかに揺れる。

 宛ら揺り篭の様に。

 私達を、遠い場所(世界)へと運んでいく。

 

「……いまさら図々しいですが、お願いします、先生」

 

 強く、言葉が耳を叩いた。

 彼女の瞳が、垂れた髪の合間から覗く。

 その瞳に映る、余りにも情けない大人の姿。

 最後まで足掻いて、それでもと叫んで、戦って、抗って、立ち向かって、その果てに誰も救えず、誰も守れず、無様に死んでいった大人(先生)のなれの果て。

 そんな情けない大人に、先生としての責務を果たせなかった者に、それは彼女が最後まで通した意地を投げ捨てて行う――懇願。

 

「きっと私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません」

「何も思い出せなくても、恐らくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょうから」

「ですから……大事なのは経験ではなく、選択」

「あなたにしか出来ない選択の数々」

 

 繰り返す世界で大事なのは経験ではない、選択。

 積み重ねた『経験値』(レベル)などではない、あの時、あの場所で、【私】(先生)が果たせなかった選択を――今度こそ。

 震えた指先を伸ばし、私は虚空に手を広げる。

 血の滲んだ包帯()の中に見える世界。

 瞼裏に浮かぶ情景。

 

 砂漠に沈んだアビドス。(対策委員会の皆は、志半ばで生を終えた)

 壊滅したゲヘナ、トリニティ。(補習授業部は解散し、風紀委員会は壊滅した)

 影の中に消えたアリウス。(アズサは姫を殺し、サオリは生贄となった)

 赤に沈む――キヴォトス。(到来した■■を前に、彼女は犠牲を容認した)

 

 例え記憶の中であったとしても、それを見届けたのは他ならぬ自分自身。対峙した連邦生徒会と連邦捜査部――何かを犠牲にし続けてでも、キヴォトスを生かす為に彼女は進んだ。それを自分は否定し、そして残ったのは――彼女と自分の、二人だけ。

 

「だから先生、どうか――」

 

 そうだ、だからこそ。

 果たさなければならない。

 今度こそ――私の生徒を救う(に寄り添う)為に。

 彼女の存在しない、箱庭(キヴォトス)で。

 

「この絆を……私達との思い出、過ごして来たその全ての日々を、どうか」

 

 彼女の俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。

 陽光が徐々に、徐々に強まる。

 彼女の背を照らす光が、先生の顔をそっと覆った。

 

「憶えていて下さい――大切なものは、決して消える事はありません」

 

 彼女が笑う――微笑む。

 その(ブルー)の瞳で、どこまでも透き通った笑みで。

 血に塗れながらも、とても綺麗に。

 

「大丈夫です、先生」

 

 大丈夫だと、彼女は告げる。

 力強く、断じて見せる。

 

「この世界は――私達の、全ての奇跡(希望)が在る場所ですから」

 

 この世界。

 私達の世界。

 私の、世界。

 

 そうだ。

 あの時。

 あの時、私は。

 

 “勿論、任せて”

 

 包帯塗れの、不格好な姿で先生()は頷く。

 どこまでも信頼を寄せる彼女に、応えたくて。

 白い車内の中、優しい陽光の照らす世界の中で。

 誓ったのだ――生徒に寄り添い続けるのだと。

 今度こそ、奇跡みたいな明日(生徒皆が笑い合える世界)を作るのだと。

 そうだ、あの時、私は。

 

 “―――”

 

 何と、答えて――。

 

 □

 

 

 楽園(エデン)で待っている。

 

 

 ■

 

 

「―――」

 

 一瞬、心臓が音を止めた。

 雨音が、一斉に鼓膜を叩く。途切れていた時間が再生され、先生の意識が一瞬にして鮮明となった。

 それは、強烈な自己嫌悪と、責任感から来るものだった。

 

 記憶に残る、白い車内で血を流しながらも懇願した彼女の姿。何処までも続く水平線、世界を照らす暖かな光に包まれた世界。

 儚い笑みと共に託された、最後の奇跡。あの日、共に誓った己と彼女の夢、その未来。

 彼女は、最後に何と云って自分に託した?

 

 自分は――何と云って、生徒に涙を流させた?

 

 肉体と精神を駆け巡る、記憶の濁流。

 魂に刻まれた生徒達との絆、その断片。

 自身の背中に存在する、彼女達の未来、希望、可能性、想い、祈り……。

 

 最早、声すら上げられぬ――強烈な感情の爆発。

 

 希望が失われる世界。

 未来が奪われる世界。

 可能性が消える世界。

 生徒達(子ども達)が――虐げられる世界。

 

 それを想い、垣間見、実感した先生は声なき咆哮を上げる。

 認められる筈がない。

 許せる筈がない。

 それに抗う為に、先生は気が遠くなる様な苦痛を繰り返して来た。

 

 最早指先を数センチ動かす事も、立ち上がる事さえ拒んでいた肉体に、何処からか力が湧いて来る。肉体の底の底、もう出し尽くしたと思っていた限界、それを超えて先生の身体は動き出す。

 血を吐き出し、身体の穴という穴から赤を滲ませ、起き上がる。

 両足の筋肉が痙攣し、重心も安定せず、平衡感覚すら怪しい。食い縛った歯が軋み、呼吸一つ挟むだけで呻きたくなる様な鈍痛が走った。

 それを押し殺して、先生は立つ、立ち上がる。

 強烈な感情が、その意思が、生徒達の想いが、先生の背中を強く押した。

 

 ――私は。

 

 目前に見える、拳銃を突き出すサオリ――その銃口を前に、目を瞑るヒナ。

 ヒナ(彼女)は既に限界だ、これ以上負傷を重ねればヘイローが破壊されてしまう。

 目の前で、生徒が死ぬ。

 それは、駄目だ。

 そんな未来を、認める訳にはいかない。

 

 ――生徒が、子どもが犠牲になる世界など、あってはならない。(世界の責任は、大人が負うものだから)

 

 いつ、如何なる時も。

 どんな理由が、あったとしても。

 

 一歩を踏み出す、守るために、生徒に手を伸ばす為に。

 踏み出す一歩が――余りにも重い。

 けれど先生は、その一歩を全力で踏み出す。

 足が千切れようとも。

 二度と使い物にならなくなっても。

 それでも構いはしないと。

 

 ――私は、先生だ。

 

 脹脛に巻き付けられた包帯に、血が滲む。急激な運動に、全身から再び出血が始まった。けれど目はまだ見える、辛うじて声は出せる、身体は動く。肝心の心はまだ、死んじゃいない。

 腕が片方千切れた。目を喪った。血を流し過ぎた――だからどうした。

 その程度で諦める意思しか持っていないのならば、疾うの昔に自分は折れている。寧ろその程度で済んだのかと、先生は感謝の念すら抱いている。動ける体と、考える頭を残してくれたのだから十分だった。

 痛みに勝る意思があった。死を覚悟して尚変えたい未来があった。是を非としても守りたい生徒が居た。

 

 大人の意地だ。

 先生の意地だ。

 人間の意地だ。

 その為に(先生)は――此処に居るのだ。

 

 ――だから。

 

 手を強く、握り締める。

 今にも消えそうな命の火を必死に守って、道へと踏み出し。

 叫ぶ、自身に向かって云い聞かせる。

 意識を失うな、決して諦めるな、目を見開け、恐れるなと。

 足掻くのだ、一分一秒でも長く。

 僅かでも、全力で。

 そう今度こそ。

 

 ――先生(大人)としての、責務を果たせ。

 

 ■

 

 一発の銃声が轟いた。

 

 滴る雨音の中で、その銃声は周囲に良く響き渡る。

 ヒナはその瞬間、自身の死を覚悟していた。

 最早引き金を絞る力もなく、目前に横たわる死という運命に抗うだけの気力もなく。ただ、先生を守らなければという一心だけで立ち上がった彼女は。けれど最後の最後に目を瞑り、先生への謝罪の言葉を口にしていた。

 ほんの数秒、十秒程度の延命――結局先生を守れぬまま果てるのかと、自身の失望に塗れながら唇を噛む。

 

 目を、瞑っていた。

 視界は暗く、俯き気味に垂れた首は力なく。

 軈て飛来するであろう絶望に、その痛みを直視しないように、彼女は顔を背ける。

 震える手を握り締め、到来するそれを待つ。

 ――待つ、待ち続ける。

 

 けれど。

 けれど、何時まで経っても終わりが訪れる事はなく。

 代わりに、力強く自身を抱き締める誰かの腕があった。

 冷たくて、大きくて。

 けれど確かな――あの人の香り。

 

 幻覚だろうか? もしかして自分はもう撃たれていて、最後に体が無意識の内に幻を作ったのかと、ヒナはそう考えた。足元から音が響く、ヒナの掴んでいた愛銃が地面に落ちた音だ。指先をすり抜けた銃は、力なくアスファルトの上を転がる。

 もう、死んでしまったのなら。

 これが幻覚でも構わない。

 ただ、自身を抱き締める腕に応えるように、そっと背中に手を回す。

 

 ぽたぽたと、ヒナの頬に何かが落ちていた。

 僅かな温もりを感じさせるそれは、彼女の頬を伝い、顎先を流れる。

 雨ではない、雨はもっと冷たいから。

 ならこれは、私の涙なのだろうか?

 それを確かめる為に、ヒナの瞼が――ゆっくりと開く。

 自身を覆う影、それを見上げる様にヒナが視線を移せば。

 

「――ぇ」

 

 自身を抱き締める、血塗れの先生が傍に居た。

 額から、目元から、口端から流れる血が、ヒナの頬に滴る。

 

「………」

 

 ヒナが目を見開き、恐る恐る口を開いた。

 

「せん――せい……?」

「………」

 

 先生は、何も語らない。

 口を閉じたまま、ヒナを安心させるように微笑む。

 困ったように、申し訳なさそうに――日常の中で零すような、穏やかな笑みを。

 

「馬鹿な――……」

 

 硝煙を漂わせる拳銃を構えたまま、サオリは驚愕と共に声を漏らす。

 到底、動ける傷ではなかった筈だ。地を這い蹲り、死を待つだけの人間が――何故、生徒を庇っている? ほんの数秒、感傷と共に引き金を絞る間、その瞬きの間に立ち上がり、駆け、割り込んだのか?

 それは、サオリには理解出来ない行動。

 否、不可能な筈だった。

 そんな力も、体力も、先生には残ってなど――。

 

「――サオ、リ」

 

 ヒナを片腕で抱きしめたまま。

 先生はゆっくりと、口を開く。

 

「まだ、分から――ない……の、かい……?」

「――!」

 

 自身に背中を向ける先生が、首だけで振り向く。

 その血に塗れ、喪われた目を隠し、残った半分の瞳をサオリに向ける。

 赤に塗れた瞳が、もう何も為せない筈の意思だけの存在が――彼女を真っ直ぐ、強く見返す。

 脆弱な人間の筈だ。

 弾丸一つで死に至る弱き者だ。

 ましてや彼は満身創痍で、サオリにとって最早脅威にもならない。

 そんな、この世で最も弱い相手を前に。

 

 サオリは、呑まれかける。

 

「わた、しの、背に……私が、守るべき、生徒が……いる、限り……――」

 

 先生は、血の絡まった声で以て告げる。

 そうだ、以前先生の殺害に失敗した時も、そうだった。

 ヘイロー破壊爆弾で背中を抉られ、地面に這いつくばり、その身を血で彩られて尚、彼はアズサの為にサオリと対峙した。

 

 先生は――斃れない。

 

 どれ程の傷を負ったとしても。

 その背中に、守るべき生徒が居るのなら。

 

「私は、絶対に、斃れたり……しない、と――云った……ッ!」

「ッ――!」

 

 強い――強すぎる、意志。

 肉体を凌駕する信念、先生をその場に立たせる鋼に勝る強固な覚悟。

 肉体は限界だろう、その身体は脆弱だろう、しかしそれを押して尚も勝る精神。

 その気迫に気圧され、サオリは一歩――無意識の内に退く。

 それを自覚し、サオリは自身の足を信じられない心地で見下ろした。

 

 退(しりぞ)いたのか、私が。

 こんな、何も出来ない大人相手に。

 吹けば飛ぶような、弱者を相手に。

 

「ッ、そん、な……」

 

 ぎちりと、握り締めたグリップが軋む。それは認めたくない現実に対する怒りからか、或いは自身に対する遣る瀬無さからか。

 落ちかけた銃口を突き出し、サオリは激情と共に引き金に指を掛けた。

 

「そんな――見え透いた、虚勢などッ!」

 

 叫び、引き金を絞る。

 乾いた銃声が鳴り響き、閃光が網膜を焼く。飛び出した弾丸は寸分違わず先生の背中に着弾し、その砂利と血に塗れた白であった制服に、再び赤を滲ませる。

 体が振動で揺れ、口から苦悶の声を上げる。僅かに折れかけた足を、しかし彼は渾身の力で踏みとどまる。

 

 先生は、斃れない。

 

「っ!? やめッ! 先生やめてッ!? 離してッ!?」

「ッ――……!」

 

 ヒナは今、何が起こっているのかを漸く理解した。

 壁になる筈であった己を逆に、先生が庇っている。それは到底受け入れられない現実で、身の毛もよだつ様な真実だった。目を見開き、蒼褪めた表情で叫ぶヒナは、先生の肩を、背中を必死に掴みながら抜け出そうと足掻く。先生を守ろうと、助けようと、必死に。

 けれど普段からは想像も出来ない程の力で、先生はヒナを抱きしめる。

 抱き締め続ける。

 ふわりと、ヒナの鼻先を甘い(死の)匂いが擽った。

 

「ッ……!」

 

 二発、三発、四発。

 サオリの視界に閃光が瞬き、銃声が轟く。それが鳴り響く度に、振動がサオリの手の中で跳ねる度に、先生の体に穴が空く。

 背中に、脇腹に、腰に、肩に、着弾し、赤く滲んだ印は確実に先生の命を蝕んでいる。

 だというのに、先生は斃れない。

 その二本の足で立ち、守るべき生徒の壁となり続けている。

 赤い、生命の残滓だけが足元に広がる。雨の中に溶け、消えて行くそれはサオリの直ぐ傍まで伸びていた。

 

「先生ぇッ! ねぇ、先生ッ!?」

「……――……」

「―――っ!」

 

 涙と共に絶叫するヒナ、それを前に先生は動かない。ヒナの握り締めた制服が皺くちゃになって、震えるそれを自覚しながらも――心は、身体は揺らがず。

 そんな先生の背中に銃口を向けたまま、サオリは息を呑む。

 構えた銃が、震える。

 何故、頭を狙わない? 何故、心臓を狙わない? 

 サオリの中の、冷静な部分が告げた。殺そうと思えば、いつだって殺せる。先生はただの的だ、動きもしなければ反撃もしない、バイタルラインを狙って撃てば、簡単に射殺出来る――だと云うのに。

 

 銃を持つ手、その震えが酷い。

 カチャカチャと、らしくもなく音を立てる愛銃。

 真っ直ぐ目を見て殺すと、そう誓った。

 なのに、此方(自分)を見る先生の瞳が――酷く恐ろしい。

 

「サオ、リ……ッ!」

「はっ、はぁ……ッ!」

 

 息が、乱れる。

 呼吸が荒い。

 先生を直視するだけで、心拍が跳ねあがる。

 胸元を握り締めながら拳銃を突きつけるサオリは、その頬を流れる汗とも雨粒とも分からないそれを感じながら、一歩、また後ろへと下がった。

 

「どん、なに……苦し、く、とも……!」

 

 ヒナを強く、強く抱きしめ、先生の瞳はサオリを射貫く。

 その瞳が、怖い。

 その瞳が、恐ろしい。

 こんなにも世界は残酷なのに、どうしようもない現実が横たわっているのに。

 絶望を前に、迫る死を前に、どうしようもない運命を前に――それでも先生は、希望を抱いている。

 信じている。

 

 それが、理解出来ない。

 理解できない事が、恐ろしい。

 これならば、銃を突きつけられる方がまだマシだった。

 呪詛を吐き、呪いよ在れと、罵詈雑言を浴びせながら死んでいく人間の方が良かった。

 どこまでも、どこまでも真っ直ぐ、真摯に、彼はサオリの前に立ち塞がる

 

 何故、足掻く? 

 何故、希望を抱く?

 何故、諦めない?

 何故、信じる?

 

 この世界は――虚しいのに。

 

 先生は息を吐き、声を発した。

 血と痛みに塗れた、酷い声だった。

 

「どん、なにッ……辛く、ても――!」

「ぅ――」

「諦め、ちゃ――駄目、なんだよ……ッ!」

 

 透き通る様な、空に似た瞳がサオリを見る。

 見つめ続ける。

 自身を撃った、その憎むべき敵を。

 僅かな憎悪すら抱かずに。

 

「その先に……ッ――!」

 

 一歩、また退く。

 銃も持っていない、満身創痍の人間を相手に。

 (サオリ)は。

 

(希望)はっ、必ず……ある、んだ……ッ!」

 

 だって――。

 

 

 ――君達の可能性(未来)は、無限に広がっているのだから。

 

 

 不意に、誰かの足音が周囲に響いた。

 雨水を跳ねさせ、アスファルトを駆ける小柄な影。ずぶ濡れの恰好で公道を駆け、現れたのはトリニティの制服に身を包んだ――白洲アズサ。

 彼女は雨水で張り付いた前髪をそのままに、肩で息を繰り返す。

 視界に映るユスティナ聖徒会、そして銃を構えるサオリ。それを認識した彼女は足を止め、抱えた愛銃の安全装置を弾く。

 

「はぁ、はぁ、はァッ……!」

「アズサ――」

 

 嘗ての同胞――その姿を見たサオリは呟く。

 名を呼ばれたアズサは彼女を視界に捉えつつ、素早く周囲を見渡した。

 彼女の探す人物はただ一人、今日、あの会場に居た筈の人物。

 そしてアズサは、その人を漸く見つけた。

 

「先生――ッ!?」

 

 叫びが、周囲に響く。

 サオリに背中を見せ、佇む先生。その腕の中には風紀委員長が愕然とした表情で収まっており、その充血し、見開かれた瞳からは絶え間なく涙が零れている。

 先生が、酷くぎこちない動作でアズサを見た。

 その口元が、小さく開く。

 何事かを呟いたのか、或いはただ息を吸い込んだだけなのか。

 それは分からない。

 

 サオリは、先生を見つめるアズサを眺めていた。

 彼女の表情で、態度で分かる。先生こそが彼女(アズサ)(陽光)、トリニティで紡いだ一等の絆。アリウスで学んだ筈の世界の真理を歪めた――元凶(悪い大人)

 陽の当らない場所で生きる私達に、甘い夢を見せる存在、そのひとり。

 

 そっと、拳銃を握り締める。

 銃口の揺れが、止まる。

 強く歯を噛み締めたサオリは、その引き金に再び力を込めた。

 

 そうだ。

 

「――私達に、(希望)なんて無い」

 

 可能性(未来)など、存在しない。

 だって、それは。

 

 声に反応し、アズサがサオリを見る。

 突き出された拳銃、その引き金に掛かった指先。そこにゆっくりと加えられる力、それを自覚し、焦燥に塗れた声で彼女は叫んだ。

 

「陽の当たる場所に立つ者にだけ、許されたものだろう……!?」

「ッ!? やめ――っ!」

 

 銃撃。

 先生の体が仰け反り、蹈鞴を踏む。

 穿たれた銃創から僅かに血が噴き出し、先生の身体が大きく揺れた。

 壊れてはいけないところが、壊れた。

 撃たれてはいけない所を、撃たれた。

 そう理解して、先生は息を吸う。最早、痛みは感じない。

 それでも、果たさなければならない責任がある。

 

「先生ッ!?」

「―――」

 

 ヒナを抱き締める先生は――半ば、彼女に凭れ掛かる様にして項垂れていた。最早、自分の足で立つ事も困難であると云いたげに。

 けれど、それでも斃れない。

 不格好ながらも立ち続け、生徒を守る。

 弾丸から。

 悪意から。

 殺人という、罪悪から。

 

 意識が混濁する。

 精神より先に、肉体が限界を迎えようとしている。否、限界など疾うの昔に超えている。これはただ、生命最後の刻が近付いているだけだ。燃え盛る蝋燭の火が、その最後の輝きを終えようとしている。

 先生の身体から、力が抜ける。

 

「せん、せい――……?」

「………」

 

 最早、口を開く余裕すら無くなった。

 その体は、意識を失いつつある今尚、ヒナの盾となっている。

 呆然と、それを見つめるヒナ。崩れ落ちそうになる先生の身体を抱き締め返しながら、声を漏らす。

 震えた、囁く様な声だった。

 

 返答は――なかった。

 

 アズサが強く、強く唇を噛み締める。血が流れる程に、煮え滾る感情を湛えて。踏み出した一歩、その爪先が雨水を跳ねさせる。

 

「どう、して……」

「……どうだ、アズサ」

 

 銃口を降ろし、呟く。

 硝煙が雨の中に溶ける、サオリは音もなく曇天を仰いだ。

 

「なんで……っ!」

「私の云った通りだっただろう? トリニティにも、シャーレにも、お前の居場所はない」

 

 雲に覆われた世界を見つめながら、彼女は想う。

 そうだ、一度。

 一度でも、手を汚してしまえば。

 

 ――陽の当らぬ場所に、生まれてしまえば。

 

「どうして、何でッ!?」

「私達みたいな【人殺し】を受け入れてくれる場所なんて、この世界には無いんだよ」

 

 魚が、水のない場所で生きられない様に。

 人が、水の中では生きられない様に。

 人を殺した者と、そうでない者には明確な境界線が生まれる。その絶対的で、絶望的な線引きはどのような場所で生きようと、決してその者を離さない。

 

 アズサが、一歩を踏み出す。

 雨音が激しさを増し、アズサの身体が震える。

 それは決して、寒さによるものではないと知っている。

 雨幕が二人を隔て、その視線を遮っていた。

 

「どうして、先生をッ、こんなッ……!?」

「そんな場所がある様に見えても、全ては儚く消える――この、『先生』のように」

 

 目前の先生を見据え、サオリは吐き捨てる様に告げる。そう、夢と云うのはいつか覚めるものだ。そして夢の内容が暖かければ暖かい程、現実という名の絶望、その落差は大きくなる。

 だから、そうなる前に――真実を示さなければならない。

 

 その震える指先を隠すように、彼女は拳を握り締めた。

 アズサが、俯いていた顔を上げる。

 サオリが、アズサへと振り返る。

 二人の視線が――重なる。

 

 サオリは、諦観を湛えて。

 アズサは、憎悪を湛えて。

 

「……全ては無駄だ、それなのにどうして足掻くんだ――白洲アズサ」

「――サオリいぃィイイッ!」

 

 今度こそ、アズサの理性は千切れ飛んだ。

 

「――あなた様ッ!」

 

 二人の銃口が交差する直前、一台の車両がサオリ達の元へと突貫する。

 周囲の標識を撥ね飛ばし、急制動を掛ける車両。甲高いブレーキ音が周囲に木霊し、近くに居たユスティナ聖徒会が撥ね飛ばされ地面に転がる。

 ルーフの上に立った狐面の生徒――ワカモが叫び、サオリに銃撃を敢行。音に気付いたサオリは放たれたそれを素早く身を翻す事で回避。一瞬で手練れと判断したワカモは、先生の周辺に佇むユスティナ聖徒会を次々と射撃する。

 徐に車両の後部扉が開き、そこから救急医学部のセナが顔を出した。

 

「先生っ! 委員長ッ! 手をッ!」

「装甲車……――いや、これは!」

「――セナッ!」

 

 唐突に現れたソレにサオリは困惑の声を漏らし、ヒナが叫ぶ。

 必死に伸ばされたヒナの手を掴み、セナは先生ごと車内に全力で引き込んだ。

 襲撃に反応したユスティナ聖徒会が迎撃を開始し、車両外装に弾丸が突き刺さる。硬質的な音が連続し、セナは腰の救急用突入キット(グレネードランチャー)を抜き放つと、適当に狙いを付けてトリガーを絞った。

 ポン、と栓を抜く様な音と共に榴弾が発射され、近場のユスティナ聖徒会の足元に着弾――そして爆発が巻き起こる。

 幾人もの聖徒会が宙を舞い、その結果を見届けながらセナは残ったアズサに向かって焦燥に塗れた声を上げた。

 

「あなたは――!?」

「良いから行けェッ!」

「っ……! 発進しますッ、御注意を!」

 

 アズサに顔を向けたセナ、しかしアズサは鬼気迫る表情で叫び、セナは即時離脱の判断を下す。内部から運転席に駆け込み、急発進。今しがたグレネードランチャーを撃ち込んだ箇所から聖徒会の包囲網を突破する緊急車両十一号。その去り行く背を見つめながら、サオリは舌打ちを零す。

 

「……逃したか」

 

 最後まで銃撃を続けるユスティナ聖徒会、しかし決定打にはならない。防弾仕様なのだろう、タイヤも同じく。相手が車両を用いている以上追撃は困難――恐らくそう遠くない内に、トリニティ本校舎へと撤退を許してしまう筈。出来る事は精々、進路上にユスティナ聖徒会を出現させ時間を稼ぐ程度。

 

 しかし、問題はない。

 あれだけ銃弾を撃ち込めばヘイローは――……いや、人間なら死に至るだろう。

 元から半分死んでいた様な状態、助かる筈がない。

 サオリはそう判断する。

 

 そうだ、私が先生を殺した。

 他ならぬ、この手で。

 

「サオリ……っ!」

「――アズサ」

 

 アズサが銃を構えたまま立ち塞がり、サオリが緩慢な動作で振り向く。

 対峙する二人――それは、あの日の再現。

 先生を傷つけられ、激昂するアズサ。

 先生を傷付け、能面を貼り付けるサオリ。

 

 異なるのは――もう、誰も止める者は居ないという点だけ。

 

「お前だけはッ、絶対に……!」

「まだ、甘い夢に酔っているのか……」

 

 アズサが荒い息を繰り返し、憤怒と憎悪を湛えて叫ぶ。サオリは辟易とした素振りを見せ、肩に担いでいたライフルを握り直す。

 互いの愛銃、その引き金に指を掛ける。

 同じ場所(アリウス)で育ち、同じ辛酸を舐め、寝食を共にし、苦楽を共有した仲間。

 それでも、道は分かたれた。

 サオリはアリウスとして。

 アズサはトリニティとして。

 嘗ての仲間に銃を突きつける。

 

「仕方ない、手伝ってやろう――何度でも、その夢から目を覚まさせてやる」

 

 アズサが浸かった、甘い夢から。

 夢を語り、将来を希望し、未来ある明日を歩んでいけると信じている――その幻想から。

 それは、陽の当たる場所で生きる生徒のみ許された(あの日見た少女達にのみ許された世界)ものだから。

 私達(アリウス)には、決して存在しないものだから。

 

 サオリはその手を伸ばし、彼女に告げる。

 

「アズサ、お前の居場所は、此処(暗闇)にしかない」

「ここで、此処でッ……サオリ、お前を!」 

 

 曇天は、二人を覆う。

 影で、暗闇で、世界全体を。

 

 噛み締めた奥歯、軋む程に握り締めたグリップ、身も毛もよだつ様な感情の濁流。

 銃口を突きつけ、激情に身を任せ。

 血を吐く思いで以て叫んだ声。

 

 殺意を込めて、彼女はあの日――口に出来なかった言葉を発した。

 

「――殺してやるッ!」

 




 本当は昨日と明日で二つに分けようかと思ったのですが、折角ですので全部ぶち込みましたわ。やりたい事、全部やりますの。ちょっと最近クソ程忙しいのですが、此処を書いている時だけは最高に楽しかったですわ。ありがとう……先生。
 
 カルバノグの続編が来るので、場合によってはプロット破壊により投稿が遅れるかもしれませんの。「今日、投稿ねぇですわねぇ~」ってなったら私はプロット捏ね繰り回して死んでいる最中だと思って下さいまし。
 いやぁ、しかしやっとやりたい事やってやりましたわぁ~~!!!
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