今回、一万三千字ですの。
その情報は、瞬く間にトリニティを――そのごく一部の生徒達の中を駆け巡った。
シャーレの先生、その負傷。そして一部の生徒にのみ明かされた、その死亡報告。
先生の遺体は秘密裏に救護騎士団、その地下にある安置所へと運び込まれ、補習授業部の生徒達もまた救護騎士団より報告を受けた
「っ、先生が負傷したとの報せがッ――!」
「先生!?」
「っは、はぁ……!」
荒い息を繰り返し、血の気の失せた顔で部屋に飛び込むハナコ、ヒフミ、コハルの三名。彼女達の視界には、薄暗い安置所の中で固まる複数の生徒の姿が映った。
壁際で膝を抱え、微動だにしないヒナ。
先生の傍に立ち、沈痛な面持ちを浮かべるセリナ。
ヒナと隣り合い、俯いたまま沈黙するセナ。
その場に立っていたのは三名、その誰もが酷い表情と空気を纏っており、ハナコは高鳴る鼓動を自覚しながら部屋の中へと足を進めた。
ひんやりとした空気、限られた電灯が周囲を照らし、四隅は薄暗い。白い壁が一面に広がり、中央に無造作に置かれた台に横たわる先生。血塗れ、破れた制服に巻き付けられた包帯。頭部と顔半分を覆ったそれは、丁寧に巻き直されていた。左腕から先は消失し、断面を見せぬよう此方もガーゼと包帯で覆われている。
酷い恰好だった――少なくとも、普段の先生を知るハナコからすれば、そう見えた。
「せ、せんせい……?」
コハルが、呆然とした様子で呟く。覚束ない足取りで一歩、また一歩と近付いて行く。そんな彼女の背後でヒフミは息を呑む。先生のその姿が、余りにも生々しく、この混乱の坩堝と化したキヴォトスを現している様に思えて仕方なかったから。
近付けば近づく程分かる、その傷の深さが、その致命的で残酷な現実が。
「せ、せんせ……」
力ない呟きが響き、コハルは先生の直ぐ傍に立つ。
どんなに血にまみれても、どんなに苦しくても、歯を食い縛って立ち上がる先生の姿。コハルの中で先生はそういう、精神的に強いひとであった。そんな彼が目を瞑り、まるで死体の様に横たわっているなんて――彼女の中での現実と理想が、解離する。そんな事はあり得ないと、彼女の本能が叫んでいた。
「ねぇ、な、何しているの、せんせ……お、起きてよ、何、寝た振りなんて……や、やめてよね! こんな所で……っ!」
声を掛ける、今にも泣き出しそうな声で、引き攣った笑みを貼り付けて。何かの冗談だと、悪い夢だと自身に云い聞かせながら。けれど先生が応える事はなく、瞼が上がる事はなく、呼吸音の一つしない。背後から見守るヒフミは引き攣った喉元を抑えながら声を漏らした。
「う、嘘、ですよね? こ、こんな……こんな――」
「………」
ハナコは、言葉も無かった。
この状況が、先生の状態が、その生命の終わりを如実に告げていたから。詳しい状況は分からない、どのような形で此処に運ばれる事になったのかも。しかし、剥がれ落ち、ボロボロになった先生の指先を見た時、彼が文字通り必死になって足掻いていたという事を理解した。
生きるためか、生徒の為か――恐らく後者だろう。この人は、そういう人だったから。
あの爆発に巻き込まれ、この傷を負ったのか。或いは撤退する最中にこうなったのか。震える手を握り締め、ハナコはただ静かに、暴れ出しそうになる感情を抑え込むのに必死だった。顔から血が引き、制御できない衝動が沸き上がる。
セリナはそんな三人に目を向けながら、赤く晴れ上がった目元を隠すように俯き告げる。
「……右眼球破裂、左腕の欠損、至近距離での爆発に加え、恐らく飛来した瓦礫片が体を殴打したのだと思います、背中には何発もの銃創が――正直どの傷も酷く、死因は……」
「ッ――」
その不吉な言葉に眉を吊り上げたコハルは、セリナを睨みつけながら叫んだ。
「し、死因だなんて云わないでよッ! 先生は死んでなんかッ! し、死んで、なんか……!」
ぐわん、と。発した声は部屋中に響く。
けれど誰も、それを咎める事はなかった。
先生は死んで等いない、死んでなど――そう否定して、けれど見下ろす先生は微動だにせず。コハルは震えた指先を、そっと伸ばす。先生の手に、その指先に。
そうして触れた肌は余りにも冷たくて――ジワリと、コハルの目尻に涙が浮かび上がった。
それは彼女の理性が、残酷な現実を理解したからだ。理解し、コハルは堪え切れず先生に縋りついた。
「う、うぅう、う……うわあぁあああッ!」
「こ、コハルちゃ……――」
ヒフミが駆け寄り、その肩を抱く。そして至近距離で先生を見下ろし、思わず強く唇を噛んだ。声を発すれば、コハルと同じように泣き出してしまいそうだったから。だから噛み締めて、必死に悲鳴を呑み込んだ。ヒフミは音もなく涙を流す。くしゃりと歪めた顔から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。引き攣った喉が嗚咽を零し、彼女は目を強く閉じた。コハルを抱くその腕を、小刻みに震わせながら。
誰も、言葉がなかった。
ぐるぐると胸を、腹の奥で巡る感情、激情。
歪み、色彩を喪った世界の中で彼女は想う。
――私の。
深く吐き出した息が震えている事を、彼女は自覚していた。
――私の、誤断が。
あの時。
あの、爆発が起きた時。
私達が、先生の元に向かっていれば。
状況の把握など後回しにして、我武者羅に救出に向かっていれば。
或いは、先生を助けられる道があったのではないか?
そんな未来が存在したのではないか。
そんな「もしも」が、「あり得たかもしれない未来」が、ハナコの胸に巨大な穴を空ける。希望的観測に過ぎない、自分達が向かった所で全滅するのが結末だったかもしれない。
けれど、一%でも、万が一でも、億が一でも、可能性があったのなら。そうは思わずに居られない。奇しくもハナコが『そうやって』ナギサを追い詰めた様に。可能性が、ハナコの心を殺しに掛かる。あらゆる「もしも」が、「もしかしたら」が、先生の生きていたかもしれない未来が。
――私の誤断が、先生を殺したのではないか。
その言葉がハナコの背中に、途轍もなく重い罪悪を背負わせた。
「……失礼します」
不意に、扉が開く音と共に声がした。
扉を押し開き、顔を覗かせたのはシスター服を身に纏った少女――マリー。彼女はコハルの絶叫と、皆の沈痛な面持ちを見て、思わず目を伏せる。それから台の上に横たわる先生の方を一瞬見つめ、その小さな手を胸の前で握り締めた。その目は赤く充血していて、声は酷く乾いている。彼女が一度、この場に足を運んでいた事は容易に察する事が出来た。
ならば何故、もう一度この場に足を運んだのか。
ハナコは、どこか他人の様な心地で思考する。
「っ――ハナコ、さん」
「……マリーちゃん」
マリーの視線がハナコを射貫く。
自身の口から発せられた声は、とても無機質であった様に思う。数秒、両手を握り締めたまま何かを想う様に顔を伏せるマリー。ハナコは彼女と向き合う事無く、視線だけを向けていた。
「こ、こんな時に……云う事では、ないのかもしれません、でも……わ、私には、託された――果たすべき、義務があります」
涙声で、罅割れた声で、彼女は肩を震わせながら告げる。
「ぅ……先程、パテル分派の生徒達が蜂起したとの報告がありました」
「………」
「先生がいらっしゃれば、説得をお願いしようと……思って、いたんです」
現在のトリニティの状況――ハナコはそれを良く理解している。総括本部からティーパーティー本部、行政室の状況を横目に情報を集めていた彼女は、これを再び立て直すには相応の人物でなければ難しいと考えている。先生ならば、確かにそれも可能であっただろう。その人望、指揮能力、そして連邦捜査部シャーレと云う肩書。
彼女の判断は至極真っ当だ。
「げ、現在、シスターフッドに於ける指揮権を持つサクラコ様は不在、ティーパーティーは拘束中のミカ様を除く両名が行方不明、そして正義実現委員会のトップ二名も同じく、救護騎士団もミネ団長が不在の為――トリニティ全体が、混乱状態に陥っています」
「……それで」
彼女の声に応え、ハナコはゆっくりとマリーに向き直る。
その影が、彼女に覆い被さる様に暗闇を落とした。
「それが、どうしたと云うのですか」
想像していたよりも数段、低く投げやりな声だった。
色を喪った瞳はその話題に何の興味を示さず、ただ一点、先生だけを見つめている。ハナコの瞳はマリーを見ていた、けれど本質的に彼女を捉えていない。その心はずっと、先生の所にあった。
何度か口を開閉させ息を吸い込んだマリーは、喉を鳴らし言葉を続ける。
「万が一の場合、シスターフッドの指揮権は【先生】か『ハナコ』さんにと……サクラコ様は」
「――そう、ですか」
サクラコさんが――。
呟き、ハナコはマリーから視線を逸らす。
或いは、先生がそのように手を回していたのかもしれない、そう思った。
どちらにせよ、一つだけ確かな事は――。
「……このままでは、トリニティそのものが崩壊する」
天井を仰ぎ、淡々とした口調で呟いた声。それは彼女が思っていたよりも鮮明に部屋の中で木霊した。
各派閥の暴走は止められない。仮に自身が陣頭指揮を執ったとしても、素直に受け入れてくれるのはシスターフッド、及び救護騎士団位なものだろう。それでも騒動の収拾を付けるには十分と云えば十分ではあるが、時間は必要だ。
そして現在、その時間が敵に回っており、それだけの能力を持つ生徒もまた限られている。
――誰かが、やらねばならなかった。
トリニティを建て直す為に、その意思を再び一つに纏める為に。
そして、その誰かに該当する数少ない内の一人が――
小さく、息を吐き出した。
思い出すのはいつか、トリニティ総合学園を去ろうとしていた時の事。背負いたくもない立場と期待、身勝手な理由で押し付けらえる権利と云う名の義務。掛けられる空虚で、打算と下心に満ちた言葉。
何もかもが色褪せ、無機質で、無味乾燥で――。
或いは、これは罰なのだろうか?
それを想うと、どうしても否定する事が出来なかった。
宝物なのだ――浦和ハナコという生徒にとっての。
「先生――……」
呟き、先生の顔を見つめる。
もう二度と、開く事のない瞳。
血の気の失せた顔。
暖かな笑みを湛えていた、その口元。
それらを視線でなぞり、ハナコは目を閉じる。
「ゲヘナの風紀委員長――ヒナさん、でしたよね」
「っ!」
不意に壁際で蹲る、ゲヘナ風紀委員長の名を呼ぶ。するとその矮躯が微かに震え、小さく息を呑む音がした。しかし顔を上げる事はなく、何処か怯えた様に肩に力が籠る。ハナコはそんな彼女を色褪せた瞳で捉えながら、淡々とした様子で告げた。
「……敵の正体は理解しています、今はトリニティとゲヘナが争っている場合ではありません、一刻も早く情報の共有を」
「――何をする、おつもりですか」
ヒナの代わりに、隣に立つセナが問いかけた。その表情は未だ優れず、傍から見ても悲惨な顔色であったが、彼女は壁に手を突きながらハナコの前に立った。
ハナコ数秒、何かを決意する様に沈黙を守った。
「――汝の敵を愛せよ」
ふと、口にした言葉。
それは、トリニティに於ける古い書物の一文。
先生が体現した様な博愛と慈愛に満ちた、素晴らしい言葉だ。
けれど。
「申し訳ありません、先生……私は、あなたの望む世界を叶える事が出来そうにありません」
ハナコは、その言葉を、先生の想いを、その願いを――踏み躙ると決めた。
生徒皆が笑い合える世界、そんな世界はもう何処にもない。だから彼女は、せめて残った大切なものの為に戦うと、傷付けると決めた。守るために、もう喪わない為に。
いや――そんなものは
「――ミカさんの収容されている独房の鍵を確保して下さい」
「っ、は……?」
「パテル分派首長、聖園ミカさんを解放します」
ハナコはそう、ゲヘナの両名を見つめ宣言した。
唐突なそれに、背後に立っていたマリーが言葉を失う。彼女が考えていた事とは、全く別の方向だ。ハナコならばもっと、穏便な方向で話を進めるとばかり考えていたから。
「
「は、ハナコちゃん!?」
ヒフミが思わず声を荒げ、彼女の名を叫ぶ。けれどハナコがそれを顧みる事はなく、静かに一瞥するだけに留めた。
ハナコが短時間でトリニティの暴走を止める事は難しい、しかしその方向を捻じ曲げる事は出来る。行為自体を止めるのではなく、その流れを変えるのだ。つまり調印式爆破の主犯を公表し、その矛先をアリウスへと向ける。
しかし、ハナコが幾らそう口にしようとも従わない分派も現れる事だろう。
故に、聖園ミカ――彼女に助力を仰ぐ。
現在ティーパーティーのナギサ、セイアは行方不明、トリニティ内部に存在するトップは彼女だけだ。独房入りしている彼女ではあるが、ティーパーティーの権限は失っていない。聴聞会はまだ開かれておらず、その処分は下っていなかった。
つまり、彼女の公的な立場は未だトリニティのトップ、その一員のままである。
緊急時に於ける代理命令権、以前のクーデターに於いてミカが行おうとした、ホストの失踪、及び病気、怪我などによる公務が困難な場合の交代制度。
今、彼女は図らずもティーパーティーのホストとしての権利を有している。
パテル、フィリウス、サンクトゥスの三分派は、
そこにシスターフッド、及び救護騎士団の協力を取り付けた自身が加われば、理論上トリニティの統制は可能である。
あくまで理論上は――であるが。
「ヒフミちゃん、コハルちゃんをお願いします――私はミカさんの元へ」
「ま、待って、待って下さいハナコちゃん……ッ!」
ハナコの、何処か一変した雰囲気にヒフミは思わず手を伸ばした。けれどその指先がハナコを捉える事はなく、空を切る。
何か、嫌な予感がした。このまま彼女を止めなければ、何処か遠くに、遠い場所に行ってしまうような予感。それは物理的なものではない、心理的な、彼女との繋がりが立ち消えてしまいそうな、そんな漠然とした不安だった。
しかし彼女はその声に応える事無く踵を返した。
靡く長髪が彼女の表情を覆い隠し、影が落ちる。
「……シロコさんを、非難する事は出来ませんね」
思い返すのは、いつかの裏路地での出来事。
彼女が語って聞かせた、この世界とは異なる結末。
――大好きな人が傷付いて、足掻いて、苦しんで、それでもと口にしながら進んだ果てに、何の救いも、希望もなかった……その慟哭と、悲しみを知っていたら、誰だって。
ハナコは想う。
そうだ、その通りだ。
髪を結んでいた、白いリボン。
純白のそれに手を掛け、彼女は髪を解く。解けたそれが宙を泳ぎ、世界は更に
いつか――この学園を去ろうと考えていた時。彼女に出会う前の自分、願いを込めた純白の色。
「これが先生の望みでないと、そう理解していても」
ハナコが俯いていた、その顔を再び上げた時。
そこから覗く瞳に光など何処にもなく。
昏く、淀んだ色だけが渦を巻いていて。
彼女の中で何か、大切な何かが――欠ける音がした。
「
今の
■
「――失礼しますよ、ミカさん」
「……!」
トリニティ自治区、隔離塔地下――一人ベッドに腰掛け端末を片手に佇んでいたミカは、急な来訪に驚きの表情を浮かべた。扉を覆っていた鉄柵が引き上げられ、両開きの扉から見覚えのある顔が覗く。彼女は室内を素早く確認すると、背後に付き添っていた生徒に声を掛けた。
「あなた方は、此処で待機を」
「――分かりました」
後ろ手に扉を閉める。その間、ミカは端末を枕の横に放り、自身の感情を内側に押し込んで不敵な笑みを浮かべようと苦心していた。何となく、彼女の前では弱い面を見せたくなかったのだ。
薄暗い独房の中、彼女――ハナコの靴音だけが木霊する。薄暗い電灯の光が、彼女の表情を照らしていた。
「……わーお、浦和ハナコじゃん、どうしたの? 外の方は何だか大変な事になっちゃっているみたいだけれど」
「………」
「っていうか、さっき見えた子ってパテル分派の子達だよね? あれ、もしかして仲良かったの?」
「……いいえ、特に交流はありません、しかし色々と事情がありまして」
「ふぅん?」
ハナコの言葉に、ミカは訝し気な声を上げる。ハナコがパテル分派の生徒と共に行動する理由が見えてこない。元より政治色の薄いミカは、その手の知識や思慮に欠けている面があった。少し考えて、しかし彼女は頭を切り替える。考えても分からない事に唸っていても仕方ないと、軽薄な笑みを顔に張り付けたまま言葉を続けた。
「ま、良く分からないけれど、こんな所で油を売っていて良いの? こんな囚われの身である私が云うのも何だけれど、トリニティも何だか大変そうだし、他にやる事が――」
そこまで口にしたミカに、ハナコは唐突に何かを投げつけた。
それは下から緩く放られた、金属音を鳴らすもの。ミカは思わず目を丸くし、咄嗟に受け取る。手の中に収まったそれは小さく、冷たく――何かの鍵である事が分かった。
ミカは受け取ったそれとハナコを見比べ、思わず目を瞬かせる。
「……何これ?」
「この独房の鍵です、釈放ですよ、聖園ミカさん」
「釈放? 何それ、そんな事……」
唐突な言葉に、声が詰まる。
釈放? あれだけの事をやらかした自分を? それは到底信じがたい事であったし、そもそも
一体誰の指示で、何の権限があって――そんな疑問に覆い尽くされるミカを前に、ハナコは抑揚のない声色で告げる。
「現在、ティーパーティーは全員が負傷及び行方不明、救護騎士団、正義実現委員会、シスターフッド、全ての責任者が不在になっています、ティーパーティーとしての権限を持ち、尚且つトリニティ全体を動かす事が出来るのは、このトリニティに於いて、ミカさん……今はあなただけです」
つまり――緊急事態による代理命令権の行使。
ナギサが未だ行方不明である事は、ミカも薄々勘付いていた。彼女が無事ならばトリニティの情勢はもう少しマシなものになっていただろう。となれば、恐らく先生も――胸の中に生まれた不安を呑み込み、ミカは薄らと笑みを浮かべる、浮かべ続ける。
その唇は、僅かに引き攣っていた。
「……驚いた、こんな事しちゃって良いの?」
「構いません」
「あはは、後で先生に怒られても知らないよ?」
その、何て事の無い一言に。
ハナコの雰囲気が――一変した。
昏く、淀んだ雰囲気。いつも余裕そうな表情で佇んでいた彼女の顔が、歪む。
それはミカが見た事も無い様な激情の発露。思わず肩を跳ねさせ、目を見開いたミカを睨みつけながら彼女は告げた。
「――先生は先程、死亡が確認されました」
「………は?」
声は、余りにも冷え冷えとしていた。
何の感情も、抑揚もない、無機質で、乾いた声。
そこで初めて、ミカはハナコの様子が余りにもおかしい事に気付いた。
彼女の髪を彩っていた白いリボンはなく、彼女の姿はいつか、トリニティの才媛と持て囃されていた時期と重なる。
しかし――目だけが違う。
あの頃も大概、詰まらなさそうに周囲を見ていた彼女であったが、今は嘗てのそれを上回る勢いで黒く染まっていた。まるで世界全てを否定するかの様に、気怠げで、重々しく、粘つく様な雰囲気。それを身に纏ったまま、彼女は言葉をミカへと叩きつける。
「見ていたのならば、分かるでしょう? 伝聞ですが、あの爆発に巻き込まれ重傷を負い、その後アリウス一派の銃撃を受け、ゲヘナ側の救急車両にてトリニティに搬送されましたが――間に合わなかったそうです」
「あ、ぇ……」
咄嗟に言葉が出て来ない。彼女の畳みかける様な言葉の洪水に、ミカは目を白黒させる。
重傷? ゲヘナの救急車両で搬送? 間に合わなかった? それはどれも寝耳に水の話で――或いは、薄々予感していながらも目を覆い隠し、耳を塞いでいた彼女の心を突き崩す、強烈な一刺しとなっていた。
「あ、あはは……ま、またまた、そんな、分かり易い噓なんて……」
鍵を握る手が無意識の内に震える。声を裏返し、喉を引き攣らせながら、ミカは強がる。
そう、強がりだ。余りにも白々しい虚勢だった、誰かも分かる程の脆く、薄い。自身の顔色がどんどん悪化するのが分かった。視線が泳ぎ、表情が定まらない。
そんな彼女の姿を、ハナコは何の色もなく見つめる。
見つめ続ける。
段々と、身体が端から冷たくなっていくような感覚があった。
嘘だと云って欲しかった。此処で冗談だと笑い飛ばしてくれたら、どれ程救われるか。
けれど、彼女が自分を見る目は余りにも真剣で、おどろおどろしい――昏い色に塗れている。
否が応でも、実感してしまう。
それが、嘘でも何でもないという事を。
「あ……? う、う……そ――……じゃ……」
「――嘘であれば、どれだけ良かった事か」
吐き捨てるように、彼女はそう云った。
「この件を仕組んだ黒幕――それは決してゲヘナではありません、手を組んでいたミカさん、あなたならば理解していますよね?」
「………」
「ティーパーティーが、シスターフッドが、正義実現委員会が……そんな内部事情や秘密云々など、今はどうだって良いんです」
その手が、指先が。
そっと握り締められ、薄暗い部屋に憎悪に満ちた声が響いた。
「私は――アリウスを
――いつかの公会議と、同じように。
沈黙が降りる。
その言葉を前に、ミカは俯いたまま声を出せずに居た。ハナコもまた、それ以上言葉を重ねる事無く視線を注ぎ続ける。ミカは無意識の内に胸元に手を当てた。不安で不安で仕方なかった、だから身に着けて祈っていたのだ――
けれど、その祈りが届く事は無くて。
「……戦争を、するの?」
「そうです、その為にミカさん、あなたを釈放するんです」
「……トリニティと、アリウスで?」
「そこにゲヘナとシャーレを加えて、必要なら他所の学園も巻き込んで……既にゲヘナに渡りは付けてあります、救急医学部の部長、及びゲヘナ風紀委員長を通じて――向こうが余程の楽観主義者でなければ承諾するでしょう」
ハナコの想定する最低戦力は三つ――トリニティ、ゲヘナ、シャーレ。
トリニティは自身とミカがまとめ上げる、ゲヘナは既に風紀委員長のヒナに協力を取り付けてある為、問題はない。最悪ゲヘナ自体が動かずとも、風紀委員会が参戦してくれたのなら戦力としては申し分なかった。そしてシャーレは――。
これについては、恐らく声を掛ける必要もないだろう。彼女達の事をハナコは良く理解している。黙っている筈がない、彼女達が、先生を喪って。その確信があるからこそ、ハナコはシャーレを戦力の一つとして数えていた。
「先生は全ての生徒の味方だと云いました、もし先生が生きていれば、アリウスの事も庇ったのかもしれません――ですが、私は
自分の大切なものを傷付けられて、それでも相手を愛する事を、許す事を選べなかった。「それでも」と、その彼の信念を受け継ぐ事が出来なかった。隣に立っていた筈なのに、彼の教えを受けていた筈なのに。
その理念を、信念を、想いを――知っている筈なのに。
自分は、俗物だ――ただ自分の大切なものを守るために、他者を傷付ける事が出来る凡人。ハナコはそう自分を評価した。けれど、仕方がない事ではないか。ハナコという存在にとって、補習授業部の存在は、先生という存在は。
ハナコがそっと、その掌をミカへと差し伸べる。
そして、感情を滲ませる口調で云った。
どこまでも力強く。
「これは復讐ですミカさん――
「………」
「vanitas vanitatum et omnia vanitas――全てが虚しいというのであれば、是非もありません」
――全てを虚無に還します、アリウスの全てを。
強く、鼓膜を震わせる声。
ミカは俯いたまま、濁った瞳でハナコの掌を見つめる――見つめ続ける。
震えた肩をそのままに、胸元の指輪に手を当てて。
「は――はは……あは、はははっ……」
声が漏れた。
酷く悲し気な、涙に塗れた笑い声だった。
息を大きく吸い込み、ミカは歪に笑う、嗤う、哂う。そうでなければ、壊れてしまいそうだったから。狂ってしまいそうだったから。何か、声を上げなければ、胸に穴が空いてしまいそうだった。
滲んだ視界から、涙が滴る。零れ落ちたそれはミカの膝元を濡らし、幾つもの染みを作った。濁り、歪み、綯交ぜになった感情を噛み締めながら、ミカは想う。
あぁ、そうだ――だから。
「だから、嫌なの――こんな、こんな世界だから、私は……」
この世界が、大っ嫌いなのだ。
「先生……ッ」
指輪を、強く握り締める。その温もりを、声を思い出すように。それは彼女がずっと抱きしめて来た、縋り付いて来た、彼女にとって一等大切な――優しさの記憶。
それを両手一杯に握り締めて、ミカは涙を零す。
何かが、壊れる音がした。
自分の内側から、心の中にあった何か、大切なものが。
それが何かは、ミカにも分からなかった。
けれど再び目を開いた時、視界は普段よりも鮮明で、音は遥かに明瞭であった。まるで思考の靄が晴れた様に、その意思に一点の曇りもない。今まで漠然と動かしていた肉体が、軽く感じる。
ミカは指輪を握り締めたまま項垂れ、静かに告げた。
「良いよ、浦和ハナコ、協力してあげる……――全部、壊しちゃおっか」
「……ミカさん」
「私のせいで、先生は一杯一杯傷付いた、こんな私が云う台詞じゃないし、そんな資格はないかもしれない――でも、でもさ」
独房の鍵を取り落とし、ミカは両手で顔を覆い隠す。
瞳からは大粒の涙が落ち、指の隙間からぽつぽつと、涙が袖を濡らした。
その昏い瞳が、暗闇を湛えた瞳が、足元を凝視する。
「不公平だもんね……? 私達ばっかり奪われて、向こうが何も失わない何て、不公平だよ、不条理だよ……私達が、こんな、こんな辛い思いをして、大切な大切な先生を奪われて――向こうが何も失わない何て、そんなの許せない」
「………」
「だから、奪ってあげないと」
声は、どこか高揚していた。けれどそれは決して正の方向に向けられた感情ではない。ただ、自身の大切なものを奪った者への正当なる報復を前に、その憎悪を滾らせる復讐心の発露だった。
奪われたのなら、奪わなければならない。
傷つけられたのなら、傷付けなければならない。
片方だけが傷を負うなんて。
片方だけが奪われたままなんて。
そんなの、道理に合わない。
奪われた分だけ、奪ってやる。
傷つけられた分だけ、傷付けてやる。
だって。
「――それで漸く、
覆っていた顔を上げたミカは、そう強く断言する。
その口元は、歪な三日月を描いていた。
「あ、でも先生の代わりなんて居ないし、やっぱりあれかな、アリウス自治区全部平らにして、漸くイーヴンって感じ? でも、先生はキヴォトス全域の生徒を笑顔にしたいって云っていたしなぁ……重要度とか、大事さで云えば比較にもならないし、う~ん」
ベッドから立ち上がり、軽い足取りで歩を進めるミカ。彼女はどこかお道化た様に笑って、ハナコの前に立つ。差し出されたその手を、彼女は何でもない事の様に握り締めた。
その瞳からは絶え間なく涙が流れ、それでも尚笑みを貼り付ける彼女の姿は酷く不気味だ。けれどハナコは表情一つ変えず、そんな彼女を受け入れる。
「まぁ良いっか!
「……えぇ、そうですね」
告げ、ハナコはミカと力強い握手を交わし、徐に声を上げる。
すると扉の前で待機していたパテル分派――主戦派の生徒達が、ミカの愛銃を片手に入室する。どこか喜色を滲ませミカの前へと立った彼女達は、そっと手にした銃を彼女に差し出した。
「ミカ様――!」
「あぁ、私の銃……持って来てくれたんだ、ありがとっ☆」
それを受け取り、ミカは制服の裾を靡かせ踵を返す。
いつも通り、その純白の翼を靡かせ、笑みを振り撒く。
パテル分派の生徒達の間を潜り、彼女は独房から解放される。
部屋の前、その廊下には彼女の指示を待つパテル分派の生徒達が大勢待機していた。中にはちらほらとシスターフッドや正義実現委員会のメンバー、更には他派閥の生徒も見える。彼女達は解放されたミカを見て、その背筋を正す。彼女達の瞳には、確かな戦意が――敵に対する憎悪がある。
先生の死でなくとも、その負傷を聞いた生徒達だ。その情報を統制しようにも、必ずどこかから漏れ出る。先生に恩義のある、慕っていた生徒達が、まだ情報の開示すら行っていないというのに集い始めていた。
そんな生徒達を見渡し、ミカは小さく息を吐き出した。まずやるべき事はトリニティの掌握、けれどそれは難しい事ではない。何せ、自身の大嫌いな政治に関しては、
だから、何の心配もない。
「さてっ! それじゃあ、始めよっか!」
生徒達に向かってミカは高らかに叫ぶ。両手を広げ、涙を流したまま、歪な笑みと共に。その翼から抜け落ちる羽が宙を舞い、彼女の周囲を彩った。こんな薄暗い、独房の前で行われる宣戦布告。
その表情は笑み――けれどそれは、狂笑だった。
片手には銃を、片手には
彼女は握り締め、満面の笑みで以て告げるのだ。
「私達の――
此処にトリニティによる、アリウスへの宣戦布告が為された。
因みにハナエはこの間、普段の溌剌さが嘘の様な死んだ表情で救護に当たっています。流石に救護騎士団の主力が二人も抜けると負傷者一杯で大変だからね、仕方ないね。
このハナコは4thPVの
エデン条約前編のラストで綴ったように、このエデン条約後編は先生にとって最大の試練で在り、また同じように補習授業部にとっても最大の試練となります。
アズサの信念は、その強固さ故に決して折れる事無く罪悪を背負い続け、全てを懸けてアリウスに牙を剝くでしょう。
ハナコの知性は良くも悪くもアリウスと他学園の戦火を拡大させ、終わりなき憎悪の連鎖を生み出すでしょう。
故に、補習授業部が空中分解するか、踏みとどまるかはコハルとヒフミの両名に掛かっています。ついでにトリニティの存亡とミカのメンタルも。
コハルの勇気。
ヒフミの友愛。
そのどちらかが欠けても、生徒の誰かが取り零される未来に繋がります。コハルの勇気は、憎悪に包まれたこの場所で尚輝きを放つ事が出来るのか。ヒフミは最後まで、その友情を貫く事が出来るのか。
陽の当たらない場所へと踏み出した友人達に対し、共に堕ちる事ではなく、光差す場所から手を差し伸べる事によって引き上げてこそ、彼女達は明日に繋がる希望を手にする事が出来るのですわ。
ミカは半分くらい魔女堕ちしているので、先生が起き上がって「ミカは魔女じゃないよ」しないと解除されません。それまではアリウスがボコボコにされます。屋内でゲリラ戦仕掛けても壁突き破って直進してくるし、隕石の代わりにその辺の車両とか信号機とか引っこ抜いてぶん投げてきます。因みにユスティナ聖徒会はミカパンチで一発です。わーお。