「ふぅ、ふッ……!」
荒い息が漏れていた。這い蹲り、此方に銃口を向けるサオリを睨みつけるアズサは、自身の腹部を抑えながら肩を上下させる。砂塵に塗れ、血に塗れ、汗に塗れ、あらゆる手を尽くし足掻いた彼女は満身創痍だった。戦闘に次ぐ戦闘、不眠不休での戦闘訓練はアリウスでも頻繁に実施されていたものだが、実際の戦闘ストレスと比較すれば余りにも質が違う。
張り詰めた糸は必ずどこかで切れる。
しかし、アズサの
良い意味でも、悪い意味でも。
「……あぁ、今のお前は確かに、アリウスに相応しい」
這い蹲って尚、戦意を失わぬ瞳。憎悪を孕んだ表情を前にサオリは薄らとした微笑みを浮かべる。それは漸く『此方側』に踏み込んだのかと、喜ぶような口調ですらあった。銃口を向けながらゆっくりと屈み込むサオリ。アズサの歪んだ表情を覗き込むように伺う瞳、暗闇の中で光るそれは不気味な色を放つ。
「その目だ、その目こそアリウスだ、アズサ、意志さえあれば道具は関係ない、重要なのはそこに込められた意志――人を殺すという、殺意」
混じり気の無い殺意、相手を殺すという意志、それをどこまでも貫徹し、実行する行動力。それこそがアリウスがアリウスたる所以、それ以外を持たず、それ以外を棄て、その感情のみで満たされた時――アリウスの
立ち上がり、満足げに息を吐き出すサオリ。アズサは引き攣った吐息を零しながら、歯を食い縛る。
唐突に、サオリはトリガーを引いた。
銃声が鳴り響き、至近距離で瞬いたマズルフラッシュがアズサの姿を浮かび上がらせる。弾丸は彼女の胸元に着弾し、アズサは目を見開き、胸を貫いた衝撃に思わずもんどりうって転がった。
「あぐッ……!?」
「――だが、お前は何も成せない」
胸元を抑え、喘ぐような呼吸を繰り返すアズサの肩を蹴り飛ばし、仰向けに転がす。そして腹部を脚で押さえつけると、苦し気に呻く彼女に再び銃口を突きつけ告げた。
「それはお前が弱いからだ、弱いから、何も成せずに斃れる」
再度、銃撃。
閃光が二人の影を濃く壁に映し出し、弾丸はアズサの胸元に再び着弾する。肋骨が軋み、心臓が大きく脈動するのが分かった。肺に詰まっていた空気が、一気に抜け落ちる。何度も続けて受けたダメージの蓄積がアズサの肺を締め付ける。
このままでは、拙い。
集中的な攻撃を受ければ、呼吸すら出来なくなる。
そう直感したアズサは、苦し紛れにサオリの足を両手で掴む。しかし、その行動を予期していたサオリはアズサの左肩を銃撃し、痛みに硬直した瞬間アズサの顔面を正面から蹴り飛ばした。
「ごッ、が……!」
アズサの鼻から血が噴き出し、サオリのブーツを汚す。揺らいだ身体が後方へと転がり、倒れ込む。
瞬間、彼女が背負っていた背嚢、その口が緩み中から幾つかの物品が転がり出た。軽い音を立てて床に広がるそれら。
空の弾倉、配線の繋がれていない爆薬、小さなペンケースに中の筆記用具、そして――。
「……ほう?」
サオリは、その奇妙な物体を目にした瞬間、興味深そうに声を上げた。
ゆっくりとした足取りで進み、床に転がった妙なシルエットの白い物体を掴み取る。柔らかで、汚れも無く、肌触りも良い。アリウスの様な生徒には不釣り合いな一品だ。鼻を抑え、血を垂れ流すアズサは、サオリの行動に気付かない。這い蹲ったまま震えるアズサに歩み寄ったサオリは、これ見よがしにソレをぶら下げ、云った。
「前にも見たが――この奇妙な人形は、お友達からのプレゼントか?」
「っ……!」
咄嗟に顔を上げたアズサ、鼻血に塗れた頬をそのままに視線を向ければ、サオリの手の中に――彼女にとって初めてのプレゼントであり、宝物であるペロロ人形が握られていた。
頭部を握られ、変形し、血の付着した大切な宝物。
アズサはそれを見た瞬間、カッと自身の中で血が沸騰するような感覚を覚えた。手を地面に突き、上体を起こす。そして息も絶え絶えになりながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「触れ、るな……!」
「………」
強い口調で、アズサはそう告げた。
手を伸ばす。震えた指先で、必死にサオリの持つ人形へと。
その様子を見下ろすサオリは、酷く無機質な瞳で彼女を捉える。
「それに、触れるな……ッ!」
「――虚しいな」
しかし、アズサの手が
目前でマズルフラッシュが瞬き、弾丸がアズサの身体を打ち付けた。銃声が部屋の中に木霊する、立ち昇る硝煙越しに酷く冷めた、無感動で、乾燥し切ったサオリの瞳が見えた。
「虚しい」
「ぐ、ぁ――!」
再度、銃声、衝撃。
アズサの身体が仰け反り、肉体が痛みに反応して硬直する。弾丸により無理矢理体を引き起こされたアズサの目前に、月光に照らされた銃口が直ぐ傍まで突き出された。
「虚しい」
「ぃぎッ――!」
閃光、銃撃、衝撃。
「虚しい」
「ぃ、ッ――!」
「虚しい、虚しい、虚しい、虚しい、虚しい、虚しい、虚しい」
銃撃、銃撃、銃撃、銃撃――セミオートで繰り返される、ただ嬲る様な攻撃。肩、胸、腹、鳩尾と、痛む場所ばかりを狙い意識を失わせない。その精神を徹底的に破壊してやるとばかりに、視界で閃光が瞬く度に鈍痛と衝撃が体を貫く。
空薬莢が床に落ちる音、銃声、サオリの声、アズサの呻き、周囲に響く音がソレが全てだった。
一体、何発撃ち込まれたのだろう。
少なくとも、ニ十発以上は確実に撃ち込まれた筈だった。終わりは、カチンという弾切れの音と共に訪れる。何度も何度も引き金を絞ったサオリは、弾倉の中身が空になった事に気付き、漸く足元に転がる空薬莢へと目を向けた。
数秒、軽く息を吸い込んだサオリはそれを蹴飛ばし、空になった弾倉を取り外すと無造作に床へと放り捨てる。軽い音と共に転がるそれを見下ろし、サオリは呟いた。
「ぁ、が……ぅ――」
「………虚しいな、アズサ」
アズサは精魂尽き果てたかの様に床へと崩れ落ち、そのままか細い呼吸だけを繰り返す。何度も何度も銃撃を叩き込まれた箇所は、青痣と血に塗れ、所々が細かく痙攣しているのが見えた。うつ伏せになったアズサの肩に足を乗せ、サオリは新しい弾倉を愛銃に嵌め込む。薬室に弾丸を送り込みながら、自身の足下で呻くアズサを睨みつけた。
「友情か……偽りの関係、偽りの場所、そこで得た偽りの友――ならばその、無駄で虚しくも懸命に守ろうとするモノから破壊するとしよう、あぁ確か……『ヒフミ』、だったか?」
サオリは以前、アズサからトリニティ潜入中に受けていた報告、その中に出て来た人名を思い出す。トリニティ襲撃の際に目にした、あの淡い髪色の生徒。確か、この奇妙な縫い包みと同じ様なデザインをしたバッグを背負っていた。恐らくこの品を贈ったのも彼女だろう。
ならば――最初に
そうすればアズサも目を覚ます筈だと、そう考えて。
「お前の目の前で、
その言葉に。
呻く事しか出来なかったアズサの、その指先が。
ぴくりと震えた。
「一つずつ、お前の大切なものを目の前で壊す、さて……」
サオリがアズサの頭部に銃口を向け、淡々とした口調で告げる。
「お前は
ゆっくりと握り込まれ、象られる拳。肩を踏みつけられ、これ程までに嬲られ、それでも尚尽きぬ意志。燃料は、怒り。爆発的なそれはアズサの身体を巡り、痛みを、疲労を掻き消す役割を持つ。激しい怒りと云うのは、
暗闇の中、鈍い光を放つアズサの瞳。それを見つめながら、サオリの指が再び引き金を絞り――。
しかし、弾丸が発射されるよりも早く、サオリの肩を掴む人影があった。
それはアツコだ。
彼女はサオリの肩を掴んだまま、静かに首を横に振った。
「……姫」
「………」
小さく、けれど素早く動く彼女の指先。手話で以て訴えられるのは、サオリの行き過ぎた暴力を窘めるもの。それに対しサオリは小さく肩を竦めると、何でもない事のように答えた。
「心配しなくとも、加減はしている、訓練自体でもこの程度の事は何度もあった、こいつの意志を挫くのならば、これ位の事は――」
「……ッ!」
瞬間、アズサは辛うじて残っていた力を総動員し、サオリの傍に転がっていた自身の愛銃に手を伸ばす。そして素早く狙いを付け、引き金を絞った。狙いはアツコでも、サオリでもない。
筆記用具と共に転がっていた爆薬の一つ、それの表面を擦る様な形で弾丸を撃ち込み――起爆。
爆炎と衝撃波が周囲を包み込み、サオリは咄嗟にアツコを庇いながら床の上を転がった。爆発は決して大きなものではなかった、そもそも本来の意図した使用方法ではない上に、あれは予備のものだった。
衝撃と爆炎、爆風は確かにあったがダメージは期待出来ない。サオリは二度、三度、床を転がり、腕の中のアツコが無事である事を確認すると、微かに付着した煤を払い叫ぶ。
「まだ動けるのか、アズサ……!?」
「っ……!」
二人が視線を向けた時、既にアズサの姿は何処にもなかった。同時に廊下側から硝子を突き破る音が鳴り響く。咄嗟に振り向けば、爆発から僅かに離れ、影となった窓から身を投げるアズサの背中が見える。幸い彼女が活動していたのは三階部分、少し高いが飛べない高さでもない。
「ぁぐッ……!」
着地の瞬間、痛みで不格好な体勢となったアズサは衝撃を吸収し切る事が出来ず、アスファルトの上に倒れ込む。肩を強く打ち付け、思わず悲鳴が漏れた。しかし数秒掛かることなく起き上がり、震える膝を叩きながら必死に廃墟裏へと駆け出す。擦り切れた頬から、血が滲んだ。
「はぁ、はッ、う、ぐ、ぁ――く、ふッ、はァ!」
鼻からの出血、充血した瞳、腕や肩、胸元、腹部は青痣だらけで、辛うじて愛銃を掴んでいる腕も小刻みに震えている。ボロボロの制服は既に防弾性能が皆無。軽くなった背嚢、装備の殆どは喪失していた。
それでも、彼女は痛みに顔を顰めながら足を動かす。
一歩でも前へ、少しでも遠くに――次の
「……相変わらず、頑丈な事だ」
階下、必死に駆け暗闇の中へと行方を晦ませるアズサ。その去り行く背中を見つめていたサオリは吐き捨てるようにして呟く。あれ程の弾丸、そして打撃を受けて尚、まだ走れるだけの余力が残っているとは思わなかった。彼奴の頑丈さを見誤った、いや、以前のアズサならば立ち上がれない程に痛め付けた筈だ。
ならば、立ち上がれるだけの【何か】があったという事か。
しかし、弾倉丸々一つ分、とはいかないまでも――それに近しいダメージは既に受けている筈。痛みに耐える訓練も、負傷した状態でも動ける訓練も、当然アリウス分校時代に積んでいるが、負傷や疲労は確実に肉体のスペックを低下させる。
それ程までに、大切だと云う事なのだろう。
彼女にとっての、
「だが――何度来ても同じ事」
呟き、部屋の中央へと足を進めるサオリ。そして月光に照らされた白い縫い包み――アズサの宝物を拾い上げる。
先の爆発で多少砂埃が付着しているものの、人形に大きな破損は見られない。表面の汚れを叩き落とし、その珍妙な表情を見つめながら目を細める。
「彼奴は直ぐに戻って来る、何せ、この大事な『友情の証』とやらを取り戻さなくてはならないからな」
「………」
「――闇の中で
サオリは何処か、噛み締める様な口調で囁いた。
思い返すのは嘗ての記憶、自分に手を差し伸べようとした大人の姿。
生徒の為に手を伸ばし、屈託なく笑い、満身創痍となって尚立ち上がり、生徒を庇う。
そんな、自分が殺した――一人の人間。
「それが身を焦がす代物であると理解していても、手放す事は出来ないんだ」
そうだ――人には拠り所が必要なのだ、或いは信じる何かと云い換えても良い。物品でも、目に見えぬものでも、何でも良い。そして周囲が場違いである程、自分と異なる世界である程、その拠り所は一層手放し難く、執着する要因となる。
暗闇の中で灯る
その
だから、最初から手にしてはいけない。
希望を、光を、望みを、未来を。
手にしてしまえば最後、今よりも辛く苦しい想いをするだけだから。
彼女はいずれ到来する苦しみから逃れる為に、先生の伸ばした手を退けた。
今よりずっと、辛くて、苦しくて、虚しい日々を送りたくないから。だからその手を取れば得られるだろう一瞬の幸福を、希望を、光を――サオリは否定した。
「こんなつまらないものが、アズサの心を支える光なのだ……アズサは、
強く、それを握り締めながらサオリは断言する。
サオリにとってそれは、ただの奇妙な人形に過ぎない。その辺りの店で購入出来るような代替可能な品だ。けれど、
これは象徴だ、アズサにとっての青春、そして希望に満ち溢れた日々、その
だから、絶対に彼奴は戻って来る――この場所に、サオリの元に。
「ならばその度に、幾度でも
そう。
「――全ては、虚しいのだから」
人形を見つめ、吐き捨てる。その声に含まれた感情は何だろうか、アツコには妙に彼女が寂しそうに見えた。或いは、それこそが彼女にとっての呪縛だった。幼い頃より云い聞かせられ、そして自分に云い聞かせて来た言葉。
努力は無駄で、将来は閉ざされ、希望を持つ事は許されず、世界は全てが虚しいもの。アリウスの全ては憎悪の為に、数百年前に刻まれた恨み辛みを果たす為だけに費やされるべきなのだと。其処に私情を挟む余地はなく、疑問を抱く権利もない。
ただ、云われるがままに戦い、憎み、殺し、軈て無意味に死ぬ。
それで良い――それ以外の道は、存在しない。
「………」
サオリの背後で、アツコは俯き何も口にしない。する事が出来なかった。ただ銃を抱えたまま、悲しそうに沈黙を守る。運命に逆らわず、流されるままに生きて来た。だからきっと、これからもそうやって、こんな風に、運命に従い生きていくのだろう。
けれど、ふとした瞬間。サオリやスクワッドの仲間達が苦しそうな表情をする度に、彼女は胸の中に小さな小さな痛みが生じる事を自覚していた。
このままで、良いのだろうかと。
本当に、それしか道はないのかと。
何度も思った事だった。
何度も考えた事だった。
それはきっと、アツコの中に残った最後の願いだった。
けれど、それを口にするには余りにも自分は無力で。力も、勇気もない自分には何も変えられないからと、俯いて生きて来た。だって、抗い方も、足掻き方も、救われ方でさえ、誰も教えてはくれなかった。
知らない事を貫き通すのは――酷く難しい事だから。
部屋の中に沈黙が降りる。
アツコは手を握り締める。
強く、強く、指先を震わせて。
――ふと、電子音が聞こえた。
それは何かのスイッチを押し込んだような、無機質で甲高い電子音だ。そこから音はリズムを刻み出し、一定間隔で周囲に響く。くぐもったそれは声を発すれば掻き消されてしまいそうな小さいものだ。
けれど静寂が彼女達の味方をした。
「……?」
その音を拾ったサオリは、顔を顰め周囲に視線を飛ばす。音の出所は至近距離、そして聞き間違いでなければ――自身の手の中から。
音は等間隔で鳴り響いており、止む気配はない。
「何だ、この音は――中に、何か詰まって……?」
この様な玩具、縫い包みの類には詳しくない。うろ覚えの知識ではあるが、この手のものには音を発する代物もあった……気がする。ヒヨリの集めていた雑誌に、その手のファンシーな記事が載っていた事があったのだ。
或いは、先程の爆発で何かのスイッチでも押し込んだか。そう思って縫い包みの彼方此方を眺めるも、それらしいものは見つからず。サオリは一つ舌打ちを零し、レッグホルスターからナイフを抜き放つ。
鳴り続けられても面倒だ、内部の配線の一つでも切ってやれば黙るだろう。そう思い、表面を浅く斬り付ける。裂けた表面から綿が溢れ出し、サオリはそれを指先で掻き分け内部を覗き見た。
――奥から、レッドランプの点灯する
「ッ――!?」
サオリは一瞬、息を止める。
産毛が逆立ち、背筋が凍るのが分かった。
表面の綿の奥、恐らく内部の綿を抜いて代わりに仕込んでおいたのだろう、爆薬に接続された簡易端末。赤と緑の線が接続され、黒いテープで固定された
「これは、セイア襲撃時の……!」
トリニティに於いて実行された最初の作戦、セイア襲撃決行時にアズサへと支給されたヘイロー破壊爆弾。現在支給されているヘイロー破壊爆弾と比較すれば試作品の側面が強く、手榴弾タイプと比べ大型で、携行数が限られるが威力は折り紙付き。
至近距離で爆発すれば――まず助からない。
サオリは咄嗟に縫い包みを放り投げ、振り返ろうとした。
電子音が鳴る。
その間隔が短く、徐々に長音へと変わる。
爆発が近い、もう直ぐだ。
焦燥に塗れたサオリは手を伸ばし、叫ぶ。
「姫ッ、逃げ……――!?」
「ッ――!」
けれど、サオリが言葉を全て吐き出すより早く、白い影が自分の身体を覆い隠す。
ふわりと、鼻腔を花の香りが擽った。それは、
サオリの目が見開かれる。サオリを抱き締めるように蹲るアツコ、そのマスクに覆われた表情は確認する事が出来ず。
その背後で――甲高い電子音が一際強く鳴り響き。
周辺一帯の窓硝子が吹き飛び、外壁諸共爆炎と閃光に呑み込まれた。
■
雨が降り出した。
ここ最近は雨ばかりだと、アズサは痛む体を引き摺りながら思う。体温が奪われ、歯が鳴り始める。表面の塵や血が流され、アズサは青痣だらけの胸を抑えて必死に足を進める。
夜は深まり、朝はまだ来ない。真っ暗な闇の中を進む彼女の耳に届くのは、自身の荒い息遣いと跳ねる水音のみ。朝から駆け続けた足裏が酷く痛んだ。靴下にまで沁み込んだ雨水が音を鳴らし、不快だった。
「ぅぐ……ッ!?」
不意に、アズサは何て事の無い段差に躓いてしまう。
石畳の床、そのブロックが一部せり出し、そこに足を取られたのだ。
倒れ込み、盛大に水飛沫を起こしながら転ぶアズサ。手にしていた愛銃が音を立てて転がり、数歩先にて停止する。雨で指先が滑り、保持するだけの握力が無かった。
直ぐに立ち上がり、歩かなければならない――だと云うのに、身体が云う事を聞かない。思考に反し身体は進む事を拒んでいた。
「ぐ、ぁ、は……ハッ、あ、ぅ……――」
途切れ途切れの吐息を零して、アズサは腹を抱えて蹲る。
倒れた衝撃で腹を打った。今の彼女には、咄嗟に受け身を取る体力さえ残っていなかった。ズクズクとした、鈍い痛みが彼方此方から発せられる。服を捲り上げなくても分かった、きっと腹部は青痣だらけに違いない。ほんの少し触れるだけで、顔を顰めてしまう鈍痛が走るのだから。
「い……た――ぅ……」
弱音を吐きそうになって――咄嗟に歯を食い縛る。
それはアズサの癖だった。どんな時もそうだ、幼少期も、訓練時代も、何度もそうやって耐えてきた。弱音を吐かずに、自分を奮い立たせる。今までもそうして来た様に、今度も歯を食い縛り耐えようと試みる。
いつだってそうだ。自分は耐え難い事を耐え、堪え難きを堪え、そうやって進んで来た。
だから、きっと、今回も――。
「う――」
身を打つ雨が、冷たい。
視界が歪み、鼻が詰まる。噛み締めた筈の歯、その奥から情けない呻きが漏れた。これは雨のせいだ。雨が体温を低下させ、視界を滲ませ弱気にさせているに違いない。彼女はそう、自身に云い聞かせる。
「う、うぅ……ッ……!」
目尻から、生温い雨が零れ落ちる。
自身を抱き締め、冷たい石畳の上で蹲るアズサは身を縮こまらせて嗚咽を零した。生温い雨は、拭えど拭えど零れ落ちる。頬を伝うそれは小さく、最初はまだらだったのに。
数秒もしない内に大粒のものとなり止めどなく溢れ出してしまった。
幾ら歯を食い縛っても、声を押し殺そうとしても――感情は止まらない。
歯を鳴らし、肩を震わせ、自身を搔き抱くアズサはひとりぼっちのまま
「ご、ごめ……ヒフミ――ごめん……っ!」
最初に口をついたのは、大切な友人への謝罪だった。
――空っぽの背嚢、そこに詰めていた大事な大事な宝物。
いつも肌身離さず持ち歩いて、寝る時も、外出する時も一緒で。
大切な宝物だと、人目を憚らず自慢していた。
そんな友情の証を、自分は。
震え、石床に額を擦りつける彼女は絞り出すような声で叫んだ。
「大事にッ、一生、大事に……するって……云ったのにッ……! 約束、したのにっ……!」
襤褸布となった制服を握り締め、アズサは
ずっと歯を食い縛って耐えて来た、どんな困苦も堪えて来た、だと云うのに――今回だけは違った。
堪え切れない何かがある、胸を締め付ける想いが在る、どれだけ耐えても、耐え続けても、心はずっと痛いまま。
とても大事な何かを、喪ってはいけない何かを喪ってしまったかのように、ぽっかりと胸に穴が空く。それは酷く空虚で、辛くて、苦しくて、痛い。この痛みに、苦しみに、喪失感に比べれば、撃ち込まれた弾丸など比較にもならなかった。
搔き抱いた体が震える、強く瞑った瞳から止めどなく
「わ、たしは……もう、これ、で――に、二度と……ヒフミと、う、ぐぁ、あぁ……!」
一生大事にすると、そう誓った。
そんな宝物を――自分は誰かを殺す為に利用した。
彼女との思い出を、その友情の証を、想いを、汚した。
そんな自分に――
その資格を、アズサは自ら手放したのだから。
その覚悟があった筈だった。
そのつもりで此処に赴いた筈だった。
その為に、彼女達を突き放したというのに。
けれどいざ、その大切な居場所を手放した瞬間――アズサはどうしようもなく苦しく、辛い、嘗て味わった事のない悲しみに包まれた。
「ごめん、ごめん、なさい……みんな……っ、う、うぅうあああぁああッ……!」
アズサは叫び、慟哭する。何度も何度も謝罪を口にした、補習授業部の皆に、友人に、ヒフミに。雨に打たれながら、ひとりぼっちで、ずっと。
胸元に隠していたボロボロに解れ、血の滲んだ補習授業部の人形を握り締めながら。
■
「う――ぐッ……!」
瓦礫の落ちる音、割れる音。硬質的なそれを耳にしながら、サオリはゆっくりと目を開く。甲高い耳鳴りが止まない、それでも尚彼女は立ち上がろうと腕を動かし、頭を揺らしながら声を張る。
「姫……? 姫、どこだ……っ!?」
周囲は、酷い状態だった。
元々火力の高いヘイロー破壊爆弾、それに加え旧式であった事が災いした。横合いにあった部屋は勿論の事、廊下も広範囲が諸共焼き払われ、三階部分から爆風で吹き飛ばされたサオリはそのまま窓フレームを突き破り、中庭の回廊へと落下していた。
降り注いだのであろう瓦礫、その残骸が地面を削り、見上げる三階部分は彼方此方にフレームや何らかのケーブル、鉄筋が剝き出しになっている。サオリは自身と同じように吹き飛ばされた筈のアツコを必死に探す。荒い息を繰り返しながら周囲を見渡していた彼女の視界に、月明かりに照らされた白が見えた。
「っ、姫……!」
彼女の着用していたコートだと、直ぐに分かった。足元の瓦礫を蹴飛ばし、自身の愛銃にすら意識を向けず、サオリは駆け出す。アツコはサオリより少し離れた場所、手入れされる事無く放置されていた生垣の上へと落下していた。伸び放題となっていたそれは葉が生い茂っており、幾分か落下の衝撃は和らいだ筈だが、彼女の腕はだらんと垂れたままピクリとも動かない。
サオリは彼女の傍に駆け寄ると、その身体を掴み生垣から引き摺り下ろす。枝を手で払い除け、地面へと横たわらせたサオリはその顔を覗き込む。
「お、おい……姫?」
「………」
返事は、ない。
罅割れた
それだけ爆発の威力は高かったのだ。
分かり切っていた事だった、ヘイロー破壊爆弾が直撃するという事は――こういう事だ。
心臓が早鐘を打つ。額に冷汗が滲む。サオリはアツコの頬を軽く叩きながら、必死になって叫ぶ。
「姫? おい、だ、駄目だ……! 駄目だ、姫っ! 起きろッ!」
顔を近付け、頬を叩き、何度も声を張り上げ――それでも彼女は目を開かない。
肌が粟立ち、視界が歪み出す。凄まじい喪失感が胸に去来し、それを認める事が出来ずに、サオリはアツコの肩を掴み何度も呼びかける、何度でも、何度でも。
その瞳が、再び開かれる事を望んで。
「確りしろッ! 姫っ――アツコォ!」
暗闇の中に、その悲鳴に似た呼び声が木霊した。
雨の中、胸を抑えて歩いていたのは補習授業部の人形に縋っていた為。サオリを屠る為に大事な宝物を利用した己に失望し、同時にヒフミへと強い罪悪感を抱き、それでも尚、その
アズサは精神的超人ですが、決して無敵でも何でもないのですわ。多分、アズサが折れるIFが在るとすれば此処でしょう。この瞬間こそがアズサの底ですの。
友人に対して罪悪を抱き、あまつさえ殺人の道具とし、それでも尚、その
そして、それを阻むアリウスの存在――そろそろ中盤も終わり、終盤が近付いて参りましたわね。