「……?」
ふと、木人形――マエストロは頭上を見上げた。
古聖堂地下、カタコンベにて彼の云う所の『芸術』、その最終調整を行っている最中の事である。大きな空洞、カタコンベ内に発生した天然の洞窟の中で懸命に、しかし緻密に動かしていた両の手を止めマエストロは呟く。それは、些細な違和を感じ取ったからだった。
「ロイヤルブラッドの力が弱まった、これは……生命に異変が?」
調印を行った本人である秤アツコ、そのロイヤルブラッドの気配は極めて独特である。故にある程度離れた位置であっても、その生命の異常を感知する事が出来た。特に彼女の血筋はこの実験、マエストロの芸術の完成に欠かせない重要なピースの一つであるが故に。その繋がりがあるからこそ、彼は自身の額を撫でつけ思案する。
先程まで明確に感じられた
「ふむ、これでは実験に支障が出るか……いや、しかしまだ――」
万が一、ロイヤルブラッドが死亡するような事態となれば、計画自体が頓挫しかねない。それを懸念したマエストロであるが、彼女の気配は完全に断たれてはいなかった。重傷、しかし死亡には至らず――という所か。随分と都合の良い事だと考え、マエストロは一つの答えに辿り着く。傾けた頭部が軋み、ぎこちない音を立てた。
「嗚呼、そうか、成程……彼女が既に備えを用意していたのか――貴重なロイヤルブラッド故の、何ともまぁ、らしい事だ」
恐らく、ベアトリーチェが保険を掛けていたのだろう。命の危機に於いて、一度だけその死を回避させる何か、ヘイローの保護。契約か、誓約か、儀式か、或いは――いや、何であれやるべき事は変わらない。マエストロは軽く肩を竦め、両の手を揺り動かす。
生存しているとは云え、ロイヤルブラッドの力は確実に低下している。恐らく戒律の維持にも問題が発生する事だろう。そして、それはアンブロジウスも同様。恐らく此方は完全に失敗する事になると容易に予想出来た。仮に生み出したとて、顕現するのは残滓か張りぼてが精々。
となれば、聖徒の交わりに於いて稼働可能な教義はこの一体のみ。不完全な形での顕現になるだろうが――。
マエストロとしては、不完全な形で自身の芸術を披露するのは大変に心苦しい。しかし、そうも云っていられない状況にある。不本意ではあるが、自身の作り出すこれらが計画の主軸の一つとなっているのだから。
「気は乗らないが仮にも同志、この位の事はな――さて、始めよう」
告げ、視線を前へと戻す。
沈黙する赤の巨人――ヒエロニムス。
古聖堂地下、巨大なカタコンベに於いても尚、その巨躯は空間を圧迫する。
聖徒の交わりを率いる受肉せし教義、崇高の解明、その完全な顕現を目指し作られた人工の天使。構成する要素は太古の教義、その神秘、そしてマエストロが秘密裏に回収した、
――だが、組み込んだ聖遺物は予想以上の働きを齎した。
確かに顕現したものは恐怖、その一面であり複製に過ぎない。しかし、その恐怖は限りなく崇高に近しい性質を有していたのである。崇高とは異なる、古の教義である筈の聖徒の交わりが。
マエストロからすれば、これは大変に興味深い結果であった。
それを踏まえた上で、マエストロは考える。或いは、彼の者の遺体を手に入れる事が出来れば、崇高と同質――それこそ嘗てゲマトリアが悲願とした、【人工の
「ベアトリーチェの言葉が正しければ、件の者は既に斃れている……しかし」
だが、マエストロは首を横に振る。
先生は既に斃れた、その報告を受けている。ベアトリーチェ率いるアリウス、その特殊部隊が殺害に成功したと云うではないか。だが同時に、異なる意見をマエストロは同胞より授かっていた。
「黒服の言葉が正しいのならば……先生」
先生は、必ずまた立ち上がる。
それこそが、真なる聖者の条件であるが故に。
「――あなたは私に、魅せてくれる筈だ」
マエストロは、自身の胸が高鳴るのを感じた。それは予感であった、嘗てない程の高揚と期待。黒服が語って聞かせ、為して来たその者の軌跡。その在り方、その精神性、何より信念は己に通ずるものがある。であるならば、成程、確かに彼の者ならば立ち上がるだろう。
そして見せてくれる筈だ、
この
「その
喝采の準備を――。
マエストロはひとり、天より差し込む光の中で腕を広げる。
せめて彼の者と対峙する舞台、それに相応しい表現者である為に。
■
「っ……」
「ひ、姫……!」
何度も呼びかけ、手を握っていた。どれ位の時間、そうしていたかは分からない。けれど決して長い時間ではなかった筈だ。そうである筈なのに、サオリにとってはその時間が何時間にも、何十時間にも感じられた。
その甲斐あってか、姫――アツコの瞼が微かに揺れる。頭上から消えていたヘイローが、ゆっくりと灯るのが分かった。サオリは逸る気持ちを抑えながら彼女の顔を覗き込み、肩を抱き締め問いかける。
「無事か!? 痛い所はあるか? 意識の方は――」
「………」
目を開き、ぼんやりとサオリを見上げるアツコ。彼女は必死に問いかけるサオリを見つめると、自身の身体を呆然と見下ろしていた。まるで自身の予想とは異なる結末だったとも云いたげに、微かな驚きと共に。
そっと首を横に振るアツコ。その動作は命に係わる程の爆発を受けた後とは思えない程、普段通りで気の抜けた動作だった。念の為処置は必要だろうが、それでも最悪の事態には陥っていない。あのヘイロー破壊爆弾を受けて尚、この程度で済んだ事は正に奇跡的としか云いようがなかった。
「そ、そうか、良かった……! 良かった……!」
サオリはアツコの様子に破顔し、抱き締め、腹の底から安堵の声を漏らす。強く、強く抱きしめられるアツコ。それを目を見開きながら受け入れる彼女は、何も云わず背に腕を回す。サオリの目尻にきらりと光る何かが流れた事に、アツコは気付いていた。
数秒、抱擁を交わした二人は静かに離れ、サオリは努めて柔らかな表情で告げた。
「……姫は、此処で待っていてくれ」
「………」
「大丈夫だ、直ぐ、戻るから」
そう云ってサオリは立ち上がり、傍に転がっていた瓦礫の下、そこに挟まっていた愛銃を回収し、建物の中へと再び足を進める。その間、端末でアツコの負傷を通達し救援の要請を行う。ミサキとヒヨリの回収、及び救援要請を出してから少し経つ、その流れでアツコの治療も頼めるだろう。
階段に足を掛けながら、サオリはそう考える。
「アズサ――」
声が、漏れた。
それは自分が考えていたよりも、ずっと低く、唸る様な響きを伴っていた。
「こうまでしてお前は、私達を否定するのだな」
アリウスを。
スクワッドを。
この世界の――真理を。
自身の大切な代物すら囮にして行う、ヘイロー破壊爆弾による不意を突いた一撃。見事だ、見事と云う他ない。
サオリはアズサの友情を信じていた。
そしてアズサは、サオリがその日向で紡いだ友情を信じると、確信していた。
それは歪な信頼関係。同じ境遇、同じ教育、思想の元育てられたからこそ理解出来る心理。それをアズサは利用した、認めよう、サオリは先の一撃で確実に葬られる筈であった。
或いは、
アズサには出来ない――出来る筈がないと。
セイア襲撃時、そのセーフハウスに唯一辿り着きながらも殺人という罪悪を拒否した彼女が、再びその選択をする筈がないと。あれだけの憎悪を向けられながら、あれだけの感情をぶつけられながら。「殺す」、「殺す」と宣いながら、けれど決定的な一撃を彼女は放つ事が出来ないと。
アズサという一人の存在は、殺人と云う罪悪を背負う事が出来ないのだと――そう心の奥底で、思い込んでいたのかもしれない。
――
しかし彼女は為した、為して見せた。
本気の殺意を以て、スクワッドの殺害に踏み切った。それを仲間の負傷と云う形で突きつけられたサオリは、認めざるを得ない。
彼女の憎悪を――その選択と覚悟を。
辿り着いた三階部分、ヘイロー破壊爆弾によって破壊された周囲。床が抜け、二階部分まで崩落した瓦礫群。破砕された壁、その剥き出しの鉄筋コンクリートに引っ掛かる形で、サオリの
それに、サオリは手を伸ばす。
「ならば――」
もう、
掴んだマスクを軽く払い、その表面に付着した粉塵を指先で拭う。そして暗闇で口元を覆った時、サオリの瞳には――確かな殺意と敵意が宿っていた。
「私は、お前を殺すぞ――アズサ」
■
雨の中、蹲るアズサ。
全身が濡れそぼり、張り付いた髪が鬱陶しい。鈍痛を発する体は重く、体温を奪われた結果末端の感覚が徐々に失われていた。補習授業部の人形を握り締めたまま小さく震え続ける彼女は――軈て、その嗚咽を噛み殺し、顔を上げる。
涙に塗れ、雨に塗れ、それでも見開く瞳から光が消える事は無い。
「う、ぐ……っ……!」
ぱしゃりと、水の跳ねる音がした。自身の手を水溜りに突き入れ、身体を支える。ゆっくりと上体を持ち上げるアズサは、震える腕を見つめながら懸命に起き上がろうとする。腫れ上がった目元をそのままに、歯を食い縛って。
――まだだ。
「はっ、ぁ……――」
心の中で、もう一人の自分が告げる。這い蹲り、雨に打ちのめされる自分を見下ろす影があった。それはきっと幻影だ、心の影に過ぎない、実体を持たず、自分を見下ろす
――まだ、立ち止まっている場合じゃない、アズサ。
「……ぐ、ぅ」
分かっていると、心の中で呟いた。
そんな事は百も承知だ、まだ終わってはいない。
関節が軋む。体を起こすという、たった一つの動作が余りにも重く苦しい。膝立ちになり、緩慢な動作で立ち上がるアズサ。その膝が震え、血と雨の混じったそれが流れ落ちる。
――動いて、考えて、蹲って悲しんでいる暇があるのなら、今からでも次の方法を考えなくちゃいけない。
「次……」
呟き、視線が地面を彷徨う。数歩前に転がった愛銃、それを目視しアズサは引き摺る様にして足を進める。一歩、一歩、覚束ない足取りで、けれど確かに。跳ねた泥が足元を汚し、雨水に塗れた愛銃に手を伸ばす。震える指先が冷たいグリップを掴み上げた。
――止まって何ていられない、動かないと、ユスティナ聖徒会は消えていない。
「サオリも、アツコも……まだ、生きている……」
スクワッドのヘイローが失われない限り、ユスティナ聖徒会は消失しない。逆説的に云えば、ユスティナ聖徒会が存在する限りスクワッドは存命であるという事だ。同じアリウスだからだろうか、あの不気味で禍々しい、冷たい繋がりをアズサは感じていた。
ヘイロー破壊爆弾による爆発でも、アズサにとって切り札に等しい一撃であっても、彼女達の命を奪うには至らなかった。
その事実にアズサは歯噛みする。けれど立ち止まる時間はない、その余裕は存在しない。後悔するのも、嘆くのも、後で良い。
今はただ、進まなければならない。
――そう、だから次の手を考えて。
次の手。
アズサは殆ど空っぽの背嚢を感じながら思考する。アズサにとって切り札であったヘイロー破壊爆弾はもうない。弾倉も、残りは二つか、三つか。正確な数を記憶していない程に、彼女は消耗していた。
たったそれだけでスクワッドを、サオリを、相手取らなくてはならない。
――それでも。
「行か、ないと……」
愛銃を抱え上げ、アズサは足を踏み出す。水溜りを踵で踏み締め、雨音が周囲に響く。暗闇の中、ふらふらと体を揺すりながら歩く――歩く。
どれだけ悲しみに塗れようと。
どれだけ心が悲鳴を上げていようと。
どれだけ絶望的な局面であろうと。
どれだけ勝率の低い戦いであろうと。
それは、
――動かないと。
「何として、でも……サオリを――」
そうだ、自分がやらなければならないと強く意識した。抱えた愛銃の弾倉を外し、残りの弾数を確かめる。弾倉に残っていた弾薬は残り半分程度。そしてポーチに手を這わせ、指先で弾倉を数える。無意識の内に行われたそれは、訓練の成果か。疲れ果て、摩耗した思考の隅でもアズサは冷静な自身を保っていた。
鳴り響く歯を噛み締め、アズサは呟く。
何としても、どんな手段を使ってでも。
アリウスを、スクワッドを、サオリを――。
「……殺さ、なきゃ――」
そうしないと――
「ぅ……ッ、ぐ」
壁に肩を擦り付け、半ば倒れ込みながら進む。暗がりの中へ、スクワッドを襲撃する為に、次の戦いに臨むために。
涙を零しながら、アズサは歩き続ける。
■
「………!」
「――スクワッドのリーダー」
アツコと合流する為に廊下を往くサオリの前へと、不意に白いコートとガスマスクを着用した集団が立ち塞がった。彼女達は影の中から音も無く、ぬるりと現れる。
月明かりに照らされる腕章にはアリウス分校の校章、それを確認したサオリは目を細める。見当は付いた、恐らくアズサとの戦闘中にミサキが呼んだ救援部隊だろう。見れば幾人かの生徒は救急救命用の背嚢を背負っている。携えたチェストリグには弾倉が一つも欠けずに詰まっており、補給を終えたばかりなのだと分かった。
「救援部隊か」
「り、リーダー」
「………」
そんな彼女達の背中から現れるスクワッドのメンバー、ヒヨリとミサキ。ヒヨリはどこか申し訳なさそうに、ミサキはいつも通り不機嫌そうに。二人の姿を確認したサオリは、どこかその目元を緩め安堵の声を漏らす。制服は爆発と崩落によって汚れていたり解れているものの、大きな怪我らしいものは見当たらない。貼り付けられた絆創膏やガーゼが治療の名残として所々見られる程度であった。
「ヒヨリ、ミサキ、無事だったか」
「は、はい、何とか――そ、その、それで、姫ちゃんは……」
「………」
その問い掛けに、サオリは沈黙を通した。どこか張りつめた空気を感じ取ったヒヨリは、身を竦ませ視線を逸らす。爆発音は聞こえていた筈だ、そしてこの部隊がアツコの元へと向かっていた最中だという事も察せられる。
負傷したのだ、その事実にヒヨリは俯き、気まずそうに口をまごつかせた。
正面に立つ部隊長が徐に端末を取り出し、画面を叩きながら告げる。
「ロイヤルブラッドが負傷した為、ユスティナ聖徒会の顕現に問題が生じているらしい、今直ぐ古聖堂に戻って戒律を更新せよとの通達があったが、そちらは確認しているか?」
「いや……今、確認する」
答え、サオリはポケットに仕舞っていた端末を再び取り出す。パスワードを入力し通知画面を開けば、そこには新たな命令として古聖堂地下にて戒律を更新せよという、アリウス自治区からの指示が通達されていた。着信は、ほんの一分前。それを確認し、サオリは舌打ちを零したくなる感情をぐっと堪える。
サオリが静かに端末のモニタを落とし、「確認した」と頷くと、部隊長は淡々とした口調で言葉を続ける。
「裏切者――白洲アズサの処分は私達と後続部隊が引き継ぐ、ロイヤルブラッドの救護もな、スクワッドは至急古聖堂に向かってくれ、処置が済み次第ロイヤルブラッドの方も合流させる」
「……了解」
それだけ云い残すと、彼女達はアイコンタクトで再び行進を再開する。自身の両脇を駆け抜けて行くアリウスの部隊員。その背を見送りながら、サオリは静かに帽子のつばを深く被り直す。
数秒もすれば、遠くから靴音が響くばかりとなり、静寂と暗闇の中に三名のスクワッドが取り残された。サオリは愛銃を担ぎ直すと静かに口を開く。
「古聖堂方面へ出発する、準備は良いな?」
「……あ、あの」
「………」
淡々と、無機質染みた声で指示を出し、歩き出すサオリ。その異様な雰囲気に思わずヒヨリは声を上げる。しかし、数歩進んで尚二人が追従していないと気付いたサオリは、振り向き様に両名を睨みつけ叫んだ。
「――行くぞッ!」
それは廊下に響き渡り、二人の肌をビリビリと刺激した。
サオリの表情は正に――鬼の形相と云うに相応しい憎悪を秘めている。
「あ、あぅ……」
「……了解」
最早、何を云っても止まる事は無い。
ヒヨリは純粋なる恐怖から。
ミサキは諦観と共に呟いた。
速足で暗闇の中へと消えて行く
足音は三人分、最初は五人で、アズサが消え、次はアツコが――次は自分かもしれない、なんてミサキは考え目を伏せる。
きっと、自分達は
サオリは――陽の当らぬ中で。
アズサは――陽の当たる中で。
「全ては……虚しいのにね」
ミサキの呟きは、暗闇の中に溶けて消えた。
■
――生徒達の声が聞こえる。
■
「連邦生徒会――の――報告は……――」
「でも遺体は――……で、管轄……――」
声がする。
それが誰のものかは分からない。ただ酷く遠く、濁った音だと思った。それは自身の聴覚が戻り掛けているからだ。時が経てば経つほど、時間が過ぎれば過ぎる程、その音は鮮明に、明確な輪郭を伴って鼓膜を叩く。
少しずつ、少しずつ感覚が復活する。痛みも、苦しみも、同時に血の通う感覚も。痛みは生きている証拠だ、痛みが続く限りそれは苦痛と共に確かな安堵を齎してくれる。自分はまだ此処に居るのだと、立ち上がる事が出来るのだと教えてくれる。
小さく、息を吸う。肺が膨らむ感覚が分かる、たった一日足らずの停止だったというのに、その躍動が随分久しぶりに感じた。空気が取り込まれ、体全身が動き始めるのが分かる。
息を、吹き返す。
「―――」
その指先が、意志に応じて微かに震えた。
「えっ?」
「……どうしたの」
直ぐ横合いから、驚く様な声。
視界は未だ昏く、何も見えない。血が行き渡っていない、完全な覚醒には至らず。しかし再稼働を始めた心臓は猛烈な勢いで全身に血液を送り出している。ぴくりと、もう一度指先が震えた。瞼が微かに痙攣し、先生の口元から吐息が漏れる。
「い、今、先生が動いたような――」
「まさか、そんな事……」
声と共に足音が響く。
妙に音が響く部屋だと思った。或いは、自分の収められている場所がそうなのか。先生はそんな事を考えながら、少しずつ戻って来る体の感覚に口の中で歯を食い縛った。
最初に感じたのは寒さだ。
強烈な寒さが全身を覆い、思わず顔を顰める。そして生徒が恐る恐る先生の顔を覗き込んだのは同時だった。
「せ、先生……?」
「ぅ――」
呻き声、先生の瞼が震えながら開かれ、その朧げな視線が交わる。強烈な逆光に先生は何も見えてはいなかった。ただぼんやりとした影が自分を覗き込んでいる事だけは分かった。
影は先生が目を開けたタイミングで身を仰け反らせ、次いで何かにぶつかる音、軽い何かが床にぶちまける様な音が部屋に響いた。
それは先生の覚醒に驚いた生徒が後退し、背後にあったキャスター付きの運搬台を倒した音だった。彼女は床に尻餅を突いた状態のまま、運搬台を掴み震える声で必死に叫ぶ。
「きッ――救護騎士団っ! 救護騎士団を呼んでッ! 誰でも良いからっ、は、早くッ!」
「す、直ぐに!」
絶叫が部屋全体に木霊した。何かを蹴り飛ばすような音、忙しない足音、徐々に遠くなっていく生徒の声。それを耳にしながら、先生は上体を起こそうとする。すると、自身の上に被さっていたタブレットに気付いた。それは自身の胸元に、まるで添えられるように置かれていた。
「っ――」
――アロナ。
心の中で彼女の名を呟く、しかし答えはない。
罅割れた液晶、その向こう側に彼女の姿はない。しかし電源は入っていた、右上に表示される残量は赤色、点灯するランプが先生の焦燥感を煽る――残された時間は、少ない。
「ぅ、ぐ……」
寒さに体を震わせ、歯を軋ませながら動く。しかし先生の予想に反し、その動作は余りにもぎこちなく、節々が固まっていた。横合いに突いた手を滑らせ、先生の身体は台から転げ落ちる。その際、横合いにあったステンレス製のカートを巻き込み、けたたましい音と共に床に倒れ込んでしまう。
痛みに呻き、シッテムの箱を胸に抱えた先生は深く息を吐き出す。まだ、身体が思考に追いついていなかった。冷たい床を掴む感覚すら朧気だ。
「せ、先生……!? 何をしていらっしゃるのですかッ!?」
「い……――」
尻餅をついていた生徒が慌てて先生の傍へと這い寄って、その身体を支える。腕に添えられた手は、驚く程に暖かかった。否、自分の身体が冷たいだけか。
至近距離で見れば、それがトリニティの行政官である事が分かる。どの分派であるかまでは把握できないものの、その髪に隠れた目元がちらりと覗き、酷く不安げな色が見え隠れしていた。
彼女の触れた指先は小刻みに震えていた。それが恐怖と不安から来るものだと先生は知っている。
「安静になさって下さいっ、先生は……さ、先程まで死亡判定を受けて――」
「行か、なきゃ……」
シッテムの箱を懐に差し込んだ先生は彼女の腕を掴み、呻き声を漏らしながら体を起こす。無様に笑う足元、寒さに止まらぬ震え、しかしその瞳だけは輝きを喪わない。片方だけとなった瞳で、先生は生徒を真正面から見つめる。その視線を受けた生徒の身体がびくりと震えた。先生の腕を掴む手に力が籠る。
「手も、足も……まだ、動く――」
未だ動きはぎこちない、しかし駆け巡る血液が少しずつ、本当に少しずつ先生の肉体を稼働させつつあった。焦点の合わぬ視界も、震える膝も、思考に掛かる靄でさえ時間と共に晴れるだろう。
ならば、動かぬ理由がない。
――■■ッ!
誰かの声が、何処からか頭に響いて来る。
ノイズ混じりの酷い声だ。傍に居る生徒のものではない、かと云って遠くから叫んでいる訳でもない。隔てられた世界の向こう側から、必死に、何かを伝えようとする声だった。
それが彼女の声である事を、先生は知っている。
きっと止めようとするだろう。
きっと彼女は悲しんでしまうだろう。
後悔し、自分を責め、苦痛に俯く筈だ。
それを知っていた、そうなると分かっていた――けれど。
――ごめん、アロナ。
先生は胸内で謝罪を口にする。彼女の想い、願い、優しさを嬉しく思う。それこそ胸が締め付けられる程に。けれど背中に降りかかるその声を、その懇願を、悲鳴を、切望を、今まで振り切って歩いて来た。数多の生徒達が伸ばす手を知りながら、此処まで辿り着いてしまったのが己だ。
進めば進む程足取りは重くなり、背に負う罪悪は嵩を増し――けれど同時に、止まる事が難しくなる。積み上げれば突き上げる程、崩す事が難しくなるように。此処まで止まってしまえば、彼女達の願いが、苦しみが、訪れた結末が無駄になってしまう様な気がして。
けれど、あの時誓った――約束だけは。
例え、この身が擦り切れようとも。
例え、この心が擦り切れようとも。
この命、朽ち果てるまで。
否――朽ち果てようとも。
「約束、したんだ……」
血を吐く思いで、先生は声を絞り出す。
あの日、この道を歩むと決めた刻。
そして初めて、その罪悪を背負った時。
喉を震わせ、彼は叫ぶ。
私達の、すべての
「今度、こそ……ッ!」
「そうか、先生――」
白い――白い部屋。
飾り気のない椅子、ティーパーティーにて彼女が愛用していた一席に腰を下ろしながら彼女は呟く。夢の中、揺蕩う意識は未だ戻らず、現実の彼女は未だ目を覚ましていない。しかし、少しずつ――ほんの少しずつだが、意識が微睡む事を彼女は自覚していた。
それは自身の意志が、現実へと寄っている証拠だ。既にあの、ティーパーティーのテラスを再現する事が難しくなっている。故に、何もない白、夜明けを待つ無機質な白だけが夢の世界を彩っていた。
目を瞑り、空を仰ぐセイアは暫く無言を貫いた。瞼の裏に描かれるのは、今尚変化を続けている現実の光景。夢の中で夢を見るように、予知の続きを彼女は知覚し続けている。
アツコを傷付けられたサオリ、雨の中歩みを止めないアズサ、友を救う為に動き出す補習授業部、復讐心に駆られるハナコ、奪う為に動き出すミカ――そして、心折れた健気な光。
「私は、君の事をまだ何も知らない」
それは先生に向けられた言葉だった。
混乱の坩堝となったキヴォトス、そしてトリニティの中で目覚めた先生。それがどの様な手段で以て為されたのか、どのような代償によって行われた事なのか、セイアは何も知らない。しかし、生半な方法ではなかった筈だ。
彼はぎこちない動作で台から転げ落ち、必死に立ち上がろうと足掻いている。その姿を見つめながら、彼女は口を開く。
「間違った物語の真ん中に立たされた私達は、ただ足掻く事も出来ず夢を見る事しか出来なかった、けれど……先生、君はあくまで立ち向かうつもりなのだね」
先生の瞳には、欠片も諦観など浮かんでない。
何処までも真っ直ぐな希望を信じる光が、強い意志だけが灯っている。余りにも違う、己と、その思い描く軌跡そのものが。
「生徒達が他ならぬ――生徒のままで、在る為に」
きっと彼は、そう在るべきだと信じているのだ。
「――これより君の前に立ち塞がるのは憎悪と不信、長きに渡り久遠に近しい集積を経た絶望の具現、ひとりで立ち向かうには余りにも無謀で、困難で、馬鹿馬鹿しい程に強大な悪意だ」
アリウスが抱く、長年の教育によって育まれて来た憎悪と敵意。それによって齎された殺人、死、裏切り、争い――憎悪が憎悪を呼び、それは殺意と転じ、終わらぬ連鎖を続ける。
嘗ての公会議と同じように、人は歴史を繰り返そうとしている。
その壁は余りにも厚く、高く、越え難い。
「でも、それを断ち切る最後の鍵は――」
けれど、もしその憎悪を断ち切ると云うのであれば。
その負の連鎖を、終わらせると云うのであれば。
必要なのは――。
「生徒と君の、
厳しい道の筈だ。
誰も傷つかない結末など望めない。
しかし、その中でも最善を尽くす道を彼は選んだ。
その為に、先生は舞い戻ったのだ――
「見届けるよ、最後まで」
静かに、彼女は背を正す。膝の上で重ねた手をそのままに、目を瞑ったまま告げる。例えどの様な結末に至ったとしても、それが辛く苦しい、絶望に至る悲劇であっても。
或いは、誰かの笑みと共に幕を下ろす喜劇であっても。
「……それが私の、
――夜明けは、近い。
■
先生死亡から八話、たった二十日程度だというのに、とても長く感じた。
しかし、乗り越えた!
悲しんだなら悲しんだ分だけ、苦しんだのなら苦しんだ分だけ、報われないといけませんわよね!
次回からは
先生、血反吐撒き散らしながら生徒達に愛と勇気を与えてあげようね!