今回一万八千字ですってよ! ほぼ二万字ですわねッ!
そりゃ投稿時間ギリギリにもなりますわよ。
補習授業部――合宿所、教室。
すっかり馴染んだその場所に、ヒフミとコハルの両名は足を運んでいた。普段皆が勉学に励んでいた机の上には幾つもの弾薬や武器パーツ、爆薬、救急キットの類が並べられており、黒板に描かれたヒフミお手製のペロロ似顔絵だけが嘗ての名残として消される事無く張り付いていた。ヒフミは先程まで壁に立て掛けていた自身の愛銃、マイ・ネセシティの分解・清掃を終え、組み立てたそれを軽く眺める。
一応、定期的な清掃は欠かさずに行っていた、アズサと出会ってからは特に。武器の手入れの重要性を説く彼女に従い、より丁寧に、慎重に行っていた自覚がある。だからこそ愛銃に不備はなく、普段よりも心なしか動作がスムーズに感じた。
「ひ、ヒフミ、弾薬持って来たよ……!」
「ありがとうございます、コハルちゃん」
教室の扉を肩で押し開け、弾薬箱を抱えながら踏み込むコハル。机の上にそれを乗せると、コハルは額に滲んでいた汗を拭う。持ち込んだミリタリーコンテナの中には、箱詰めされた弾薬が幾つも顔を覗かせていた。
「今は弾薬庫の出入りが厳しくなっていて、特殊弾の類は持ち出せなかったけれど……」
「いいえ十分です、私の保管していた分と合わせればきっと――」
コハルの言葉に首を振って、ヒフミはコンテナの中から弾薬を取り出す。武骨なイラストに記載された文字を眺め、箱を横合いに押し出すと綺麗に並べられた薬莢の表面が視界に並んだ。
「5.56mmに.303弾……要望通りですね、これだけ準備すれば道中は大丈夫だと思います」
ヒフミの扱う5.56mm、そしてコハルの扱う.303、コンテナに詰められたそれらの弾薬は弾倉に詰めて何発分か。少なくとも二人で使用する分だと考えれば十二分だと思えた。
ヒフミはペロロバッグの中から空の弾倉を取り出し、箱から摘まんだ弾薬を一発ずつ丁寧に装填していく。コハルも彼女を真似て、ポーチの中に常備していたクリップに一発、一発弾薬を差し込んでいった。弾薬を差し込む作業はそれなりに面倒であったが、戦場ではこの弾倉をものの数秒で消費してしまう事になる。兎にも角にも数は重要だ、ポーチの半分以上を弾薬で占める程度には。
二人で黙々と弾薬を詰める作業に没頭しながら、ふとコハルは不安げに声を上げる。涙と共に前へと進む覚悟を見せたコハルであるが、それでも恐怖や不安が欠片もない訳ではない。これから自分達は、たった二人で幾つもの学園が争う恐ろしい戦場に身を投じるのだと思えば、自然と手が震えそうになる程だった。
「二人で大丈夫かな……? 協力してくれそうな人達に、声を掛けたりとかは――」
「……一応、アビドスの皆さんには連絡を取ったのですが」
コハルの声に、ヒフミはやや強張った声で答える。しかしその手は淀みなく、弾倉に弾薬を詰め続けていた。
「アビドスって、確か、あの――」
「はい、対策委員会の皆さんです」
アビドス――その名前を聞いたコハルは脳裏に幾人かの生徒、その顔を思い浮かべる。確かあの、妙に個性的な五人組であった筈だ。客室棟で面識はあった、先生の警護という名目で行われた合宿の続き、大抵は先生の傍で屯して具体的に何かをしていた訳ではない。コハルは、「あの五人組が……」と心の中で呟きつつ、朧げな記憶から自治区の地図を引っ張り出す。
「でもアビドスの自治区って、かなり遠いんでしょ? 今から呼んだって、到着するのは明日とかになるんじゃない?」
「いえ、それが調印式を見学する為にトリニティに足を運んでいたみたいでして……連絡した時も、
そこまで口にして、ヒフミは壁に掛かったアナログ時計を見上げた。
時刻は未明――陽は未だ登らず、もう少しすれば空が明るくなり始める頃だろうか。窓はカーテンに覆われており、夜空は目に映らない。既に連絡を入れてから一時間近く経過している。彼女達がどの地区に居るかは不明だが、もし古聖堂地区近辺であれば、徒歩で一時間程度で到着するだろう。
或いは道中で戦闘に巻き込まれてしまったのか。
「私の方でも、正義実現委員会のメンバーにあたってみたけれど、えっと……」
「……いえ、きっと大丈夫です」
コハルがそう、たどたどしく口を開けばヒフミは首を振る。
現在、正義実現委員会は統制を喪ったトリニティを奔走している。一部――と云っても決して少なくない数の生徒がハナコとミカに追従していたが、校内に留まった生徒も皆無ではない。彼女達は学内の混乱を収める事を最優先しており、人手は足りない状況だろう。そんな中で此方に手を貸して貰う様な真似は心苦しい。
この混沌とした状況を収める事が出来る人物が居れば別だが――。
「無いもの強請りは出来ません」
告げ、ヒフミは弾倉に最後の一発を押し込んだ。カチン、と硬質的な音が鳴り響き、満杯になったそれをバッグに差し込む。ペロロバッグの内部には、内側に張り付くようにして並ぶ弾倉。それらを目視で確認し、机の上に広げていた救急キットや手榴弾の類も詰め込み荷物を纏める。
余り長い時間待機する事は出来ない、あと三十分――この教室で待機していても、アビドスの皆が到着しなかった場合は連絡を入れて二人で出立しよう。
動く秒針を見つめながら、ヒフミはそう決める。
手遅れになる前に、動かなければならない。
「コハルちゃん、準備はどうですか?」
「う、うん……大丈夫」
積み上がったクリップを手に取り、ポーチへと詰め込むコハル。内部にあるトリニティ製手榴弾を確かめ、最後に黒布に包まれていた愛銃――ジャスティス・ブラックを手に取り、軽くボルトに指先で触れる。整備は怠っていない、ガタつきもなく、電灯に照らされるソレはコハルの敬愛するハスミの愛銃と比較しても決して劣らぬ輝きを放っている。手慣れた動作でボルトを操作し、弾倉を検めたコハルはヒフミに向かって頷いて見せる。準備は万全、その意思を受け取ったヒフミはペロロバッグに手を添え云った。
「三十分程、この教室で待機しましょう、それでも対策委員会の皆さんが合流出来なかった場合は、私達だけで出発します、行先は――」
――古聖堂。
調印式の会場であり、この騒動の始まりの場所。ヒフミやコハルには、アリウス・スクワッドが何処に居るのか、アズサはどこに向かったのか、それを知る由はない。しかし、妙な予感があった。
あの古聖堂に、エデン条約の結ばれる筈であったその場所に――何かがあると。
事実、コハルが正義実現委員会に向かった際に耳にした情報では古聖堂を中心としてアリウスは展開しているらしい。救援部隊も古聖堂内部に突入する際は、かなりの苦戦を強いられたと。
それ程防備を固める理由は、重要な何かがある証拠でもある。アリウスにとって、触れられたくない何か、或いは知られたくない何かがあるのだと思った。そしてアリウスの根幹に近付くと云う事は、スクワッドに近付く事と同義であり――アズサと同じ道を往くという事だ。
絶対に止める、人殺しなんて罪を背負わせる訳にはいかない。
アズサにも、ハナコにも――。
そう心の中で強く思い、ヒフミは手を強く握り締める。そんな彼女の耳に、扉がノックされる音が届いた。びくりとコハルが肩を震わせ不安げに扉を見る。ヒフミは目を細め、やや強張った表情で銃に手を伸ばした。
トリニティとて一枚岩ではない、特に各派閥のトップが不在の今、潜在的に脅威となる種はそこら中に転がっていた。警戒するのは当然であり、特に現状は何処で何が起こっても不思議はない。
「……はい」
「ヒフミちゃん?」
扉の向こう側から声が響く、それはヒフミの聞き覚えのある声で、はっと表情を一変させた彼女は銃を手放し、扉を勢い良く開いた。その向こう側には唐突に開いた扉に対し、驚きを露にするホシノと――アビドス対策委員会の面々。
「対策委員会の皆さん! それに……ワカモさんも!」
「……久方振りですね」
ヒフミの歓喜の滲んだ微笑みに、ワカモは軽く狐面を撫でつけながら呟く。ホシノはヒフミの肩越しに素早く部屋の中を見渡し、机の前に立っているコハルを視認すると、その表情を僅かに険しく変化させた。
ヒフミはワカモの罅割れた狐面、そして解れ、裂け、血や砂利に塗れた皆の姿を見て問いかける。
「えっと、その様子だと戦闘が……?」
「……うん、まぁちょっとね、変な幽霊みたいな連中と戦っただけだよ」
そう、何でもない事の様に告げるホシノ。
彼女たちからは強い火薬と、血の匂いがした。
「えっと、兎に角、こんな状況で呼び出しに応じて頂きありがとうございます! 皆さんの協力があれば、きっと……!」
「ヒフミちゃんには以前お世話になったからね、それに――」
ホシノの視線が、僅かに揺らぐ。唇を震わせ何事かを口にしようとした彼女は、しかしそれ以上何か言葉を紡ぐ事は無く黙り込んでしまう。代わりに背後に立っていたセリカとアヤネが、どこか強張った表情と共に問いかけた。
「その、先生の姿が見えないけれど、もしかしてまだ救護騎士団の所に居るの?」
「出来れば、容態の方をお聞きしたいのですが……」
「っ――」
その質問に、ヒフミは自身の口元が引き攣るのが分かった。息を呑むヒフミ、その変化に一番早く気付いたのはワカモだ。彼女はそっと狐面を片手で覆い隠すと、俯き沈黙を守った。担いでいた愛銃がカタリと、小さく震える。
「せ……」
声を発した。ヒフミは、引き攣りそうになる喉を震わせ、必死に。
「先生、は――……」
「ひ、ヒフミ……」
アビドスの皆が、強張った面持ちでヒフミを見つめる。背後からコハルが駆け寄ってくるのが分かった。小さな手がヒフミの背中、その制服の布地を掴み、微かな支えとなる。
云わねばならないと思った。
現実を、真実を、伝えなければならないと。けれど意志に反して口は余りにも重く、舌は言葉を紡がない。たった一言、そのたった一言を絞り出すのに、ヒフミは凄まじい苦痛と重圧を味わった。
空気が徐々に張り詰める。ヒフミの様子から、その表情から、どの様な言葉が発せられるのかを彼女達は察したのだ。この場合、沈黙は何よりも雄弁であった。
ホシノの顔色は酷く、その表情は今にも泣き出しそうに見えた。シロコが唇を噛み締め、険しい表情で拳を握り締めるのが分かった。セリカが視線を左右に泳がせ、ノノミは不安げに俯く。アヤネが何かを云い掛け、口を閉じたのが分かった。
肌を刺すような沈黙が、ヒフミの心を締め付ける。震える唇を開き、喉を鳴らした彼女は精一杯息を吐き出し――告げた。
「せ、先生は――!」
「到着ッ……! と、遠かった……ッ!」
廊下の向こう側から、声が響いた。それは廊下中に反響し皆の鼓膜を叩く。
待ち望んでいた――けれど聞こえる筈のない声。
それに一番早く反応したのはワカモだ。耳を震わせ、ピンと立てた彼女は凄まじい勢いで声の主、その方向へと顔を向けた。
反し、ぎこちない動作で振り向くアビドス。目を見開き、言葉を失うヒフミとコハル。
彼女達の視線の先には――白いシャーレの制服を靡かせる、
いつも通りの表情で。
張り付く様な絶望を塗り替える、暖かな気配と共に。
「ごめん、遅くなった……!
先生は首回りに大量の汗を滲ませていた。額に巻き付けられた包帯も、僅かに湿り気を帯びている様に思える。全力疾走でもして来たのか、その息は弾み傍目から見ても疲労状態であった。
けれど、そんな事はどうでも良い。
大切な事ではなかった。
重要なのは――。
「せっ――先せッ……」
「うわぁぁぁあああああッ!」
ヒフミが口を開くと同時、コハルが絶叫した。両目から涙を零しながら、両手を突き出して先生の元へと駆け出す。弾丸の如く飛び出した彼女に先生は面食らい、咄嗟に腰を落とす。その胸元目掛けてコハルは飛び込み、先生は転びそうになりながらも何とか受け止める事に成功した。数歩蹈鞴を踏んだ先生は、コハルを抱き留めながら苦笑を零す。コハルは先生の首にぶら下がり、先生の首に額を擦りつけながら大口を開けて泣き叫んだ。
「せんぜええぇえええッ!」
「ぐッ、こ、コハル、力、力がつよ……っ!」
強く、強く抱きしめるその両腕に、先生は思わず顔を青くする。キヴォトスの生徒、その全力の抱擁など喰らった日には骨が砕けてもおかしくはない。特に彼女が抱き締めているのは先生の首元だ、首は洒落にならない、いや、本当に。そう思うものの、今のコハルには言葉が通じるとは到底思えず、先生は必死にコハルの背中を叩く事しか出来なかった。
「ほ――……」
目を見開いたまま硬直するセリカ。
彼女は先生を指差し、涙を滲ませながらも笑顔で叫ぶ。
「ほらっ、やっぱり! やっぱり生きていたじゃない……ッ! 先生が死んだなんて嘘っぱちだったのよッ!」
「先生……!」
「先生っ!」
「あなた様――!」
叫び、次々と駆け出す生徒達。先生は駆け寄る生徒達の影に目を見開き、しかし何かを告げるよりも早く、その生徒達の身体に埋もれ見えなくなった。
四方八方から手が伸び、先生の身体を掴む、摩る、揉む。人の身体で溺れる感覚と云うのは、こういうものか。先生は熱気と圧迫感に顔を顰めながら、必死に声を上げた。
「う、ぐぉッ!? ちょ、ま、待って! ぜ、全員一度には、ま、拙いッ……! お、押し潰されちゃう……っ!」
「い、生きてますか!? 先生、本当に生きているんですか!?」
「い、生きているよ、あ、足も付いているもん……!」
「ん、ちゃんと二本ある……!」
そう云って先生の足を掴むシロコとセリカ。上から下まで、満遍なくチェックされ、確認される先生は青くなったり、白くなったり。瞳と腕は一本足りないが、それでもきちんと生きている。先生の腰に抱き着いたヒフミは、涙目になりながらも必死に問いかけた。
「で、でも、でもっ、一体どうやって……? 救護騎士団の方々も、先生は……!」
「な、何でも良いよ! ぐすっ、せ、先生が帰って来てくれたなら、何だって……っ!」
「そ、そうよッ! 生きているなら何だって良いわよ!」
「そっ……そう、ですね――!」
「ん……!」
あの安置所で見た先生は、幻だったのか? いや、そんな筈はない、確かに先生は物言わぬ屍になっていた。その体温を、冷たさを、ヒフミは知っているのだ。
しかし、コハルの叫びにセリカが即座に同調し、疑問は即座に彼方へと投げ捨てられた。そんな事はどうでも良い、この瞬間に限っては過程や方法は重要ではなかった。
先生は生きて、この場に立っている――彼女達にとってはそれが全てだった。
「あ、あはは……は――はぁーッ……!」
ひとり、先生の元に駆け出す事無く佇むホシノ。
彼女は硬直した体をそのままに、先生を凝視したまま乾いた笑みを漏らした。
そして徐に肩に掛けていた防弾盾、畳まれたそれを地面に滑り落とし、その場に屈み込む。膝に自身の顔を埋めると、零れそうになる涙を皆に見せない様、静かに、囁く様な声量で云った。
「――良かったぁ……!」
声には、万感の想いが込められていた。
自分はまだ、喪っていなかった。
この手から、取りこぼしてはいなかった。
その事に安堵する――深く深く、これ以上ない程に。
「み、皆、本当にごめん、その、沢山心配も、迷惑を掛けてしまって……」
「その様な事は――!」
「迷惑だなんて、欠片も思っていません!」
生徒達に埋もれながら、必死にそう口にする先生に向けてワカモが、ノノミが叫ぶ。先生の腕を、肩を、背中を掴む手に、ぎゅっと力が籠るのが分かった。暫くの間、先生の生存を目一杯喜んでいたヒフミだが、ふと思い出したように目を見開き、慌てて叫ぶ。
「せ、先生、そのっ……!」
その声に、先生は微笑みで以て応えた。一本だけになった腕が、ヒフミの頭を優しく撫でつける。
「事情は凡そ把握しているよ、ハナコとミカが――」
「は、はいっ、トリニティの生徒を動員して、アリウスを……!」
「うん、何とかしよう、この争いの事も、ミカの事も、ハナコの事も……そしてアズサの事も」
告げ、先生は窓の外を見つめる。薄暗い世界、この夜空の下で戦っているであろう生徒達。彼女達の為に、今動かなければならなかった。
「また皆で、授業をしないといけないからね」
「――はい!」
先生は首にぶら下げていたコハルを降ろし、その背中を優しく摩った。コハルは垂れ下がった袖で自身の目元を乱雑に拭い、一歩先生から離れる。
皆が名残惜しそうに手を放し、乱れた衣服を軽く整えた先生は、小さく息を吸い込み告げる。
「云わなくちゃいけない事、伝えたい事が沢山ある――けれど今は何よりも先に、この争いを止めたい」
真剣な瞳と共に告げられる言葉。それは廊下に響き渡り、皆の鼓膜を叩いた。
「……私に、力を貸してくれるかい?」
「は、はいッ! 私なんかでよければ……!」
「あ、当たり前でしょ……!」
先生の言葉に、ヒフミとコハルが勢い良く頷く。ハナコの為に、アズサの為に、躊躇いなど無い。自分の持てる全てを使って彼女達を連れ戻すと、彼女達の表情からは、そんな強い意志が見え隠れしていた。
ふと、そんな彼女達に――先生に歩み寄る影があった。
その人影に先生が目を向ければ、視線が正面から交わる。
「先生……」
「ホシノ――」
ひとり離れていたホシノが、先生の正面に立っていた。その表情は安堵と不安が綯交ぜになった、酷く不安定なものに見えた。彼女の視線が、先生の喪われた腕と瞳に向けられる。
「また、戦いに行くの?」
「……うん、この争いを、誰かが止めなくちゃいけない」
「それは、先生じゃなきゃ駄目な事?」
「……私の至らなさが、今回の件を招いたから」
先生はそう云って、不甲斐ない自身を恥じるように目を伏せた。
或いは、スクワッドと別な形で接触出来ていれば。
はたまた、古聖堂に対する攻撃に適切な対処が出来ていれば。
そんなあらゆる、「もしも」があった。
それを今、此処で語る事に意味はない。しかし、この騒動が此処まで大きく変化してしまったのは、自身の死がきっかけである。それだけは確かであると、先生は想っていた。
「大筋は変わらなかったかもしれない、けれど此処まで状況が悪化したのは、他ならぬ私の責任だ」
「そっ――……!」
そんな事はない。
ヒフミがそう口にしようとして、けれど他ならぬ先生の手によって声は遮られた。
「ごめんね、危険な事にばかり首を突っ込んで、きっと皆には辛いを想いを、苦しい想いをさせていると思う……でも」
「分かっているよ……それでも、先生は行くんでしょ?」
「――私は、生徒を誰一人として見捨てたくないんだ」
「……知ってる」
その言葉に、ホシノは酷く悲しそうに笑った。それは仕方なさそうな、けれど同時に憑き物がとれたような、溌剌とした笑みだった。先生ならばきっと、そう云うのであろうなと分かっていたのだ。理解して尚問いかけたのは、彼女なりの意趣返しに他ならない。
それは些細な、本当に些細なホシノからの復讐だった。
「ホシノ先輩」
「……シロコちゃん」
シロコが、ホシノの名を呼ぶ。
彼女が振り返ると、アビドスの皆がそれぞれ彼女達らしい表情で以て二人を見ていた。セリカはどこか怒ったように、シロコは憮然とした顔で、ノノミはふんわりと柔らかな笑みを、アヤネは困ったような苦笑を浮かべながら。
「いつか、ゲヘナ風紀委員会と戦った時の事を思い出しちゃいますね」
「……そうですね、あの時もそうでした、先生は無茶をして――」
「酷い怪我していたのに隠して、病院に運ばれたし……ッ! あぁもう、今思い出してもモヤっとする!」
脚を踏みならし、ズンズンと距離を詰めるセリカ。彼女はホシノとシロコの間を通り抜けると、先生の胸元に指を突きつけながら叫んだ。
「私達が此処に来たのは、ヒフミさんに呼ばれたからで……! 正直、先生がまた危ない所に行くのは賛成出来ないし、したくないけれど……ッ! どうせ何を云ったって聞きはしないんでしょ!? なら先生、今の体調はどうなの!? 大丈夫なんでしょうねっ!? 前みたいに隠していたら承知しないからッ!」
「……当然バッチリだよ、救護騎士団のお墨付きさ」
セリカの剣幕に、先生は気圧されながらもはっきりとそう告げた。
それは半分本当で、半分嘘だった。
救護騎士団のお墨付きなど貰っていない、しかしセリナに泣き付かれ簡易的な診断は受けていた。結果は一応表面上の問題はなし。各部位の出血も収まっており、生徒の居ない所でクラフトチェンバーによる生成物の固定化を行い、
それに彼女達には云えぬ事だったが、万が一致命的な傷が残っていたとしても――今の自身に限って云えば、問題にすらならない。
最悪、補完してしまえば事足りた。
勿論、それは最終手段に等しい為率先して行おうとは思わない。生命維持の為の電力は、補填部位に応じて上下する。万が一を考えれば、本当に保険程度に考えておくべきだった。
「ん、大丈夫――何が来たとしても、私達が先生を守れば良い話」
シロコは肩に掛けていた愛銃を揺らし、そう告げる。彼女の特徴的なオッドアイが先生を射貫いた。その瞳にはどこまでも真剣な色があった。やると云ったら、やる。それだけの覚悟を感じ取れる程に力強い視線だった。
「もう、先生から目を離さないから」
「それは……一体、どういう意味で?」
「ん、言葉通りの意味」
淡々と、しかしどこか力強い口調で告げる。何故だろう、先生は彼女の言葉から物理的な危機を感じた。別段、何が在ると云う訳でもないのに背に冷汗が流れる。
「心情としてはセリカちゃんと同じです、今の先生の状態で前線に赴くのは賛成出来ません――でも、きっと生徒の事を放ってはおけませんよね、先生は」
「そうですね、ひとりでも突っ走ってしまう様な人ですから――だったら、選択肢は一つですよね、ホシノ先輩?」
アヤネとノノミは、そう口にしてホシノに視線を向ける。二人の視線を受けたホシノは、これ見よがしに肩を竦めて見せた。
「……ま、此処で拒否する事なんて出来ないよねぇ」
そう云って彼女は、どこかお道化た様に首を振った。片目で先生を見たホシノは、にやりと口元を歪めて問いかける。
「良いよ先生、でも私の云った事、ちゃんと憶えている?」
「……忘れる筈ないよ」
その、どこか意味ありげな問いかけに先生は苦笑を零す。彼女が云わんとしている事を先生は朧気だが察する事が出来た。自身の拳で胸元を叩き、先生は断言する。
「例え心臓が止まったとしても、意地で蘇って見せるさ」
「――ま、そんな事、おじさんがさせないけれど」
告げ、ホシノは床に転がしていた盾を担ぐ。愛銃を脇に挟み、振り返った彼女はアビドスの皆を見た。
「ふんッ! 相手の事とか良く分からないけれど、何が相手でも、ぶっ潰してやれば良い話よねッ!」
「体力はまだ十分に残っている、先生にはもう、指一本触れさせない」
「勿論、気力も満々ですっ! 沢山撃ってお手伝いしちゃいますよー!」
「支援の準備は万全です、今度こそ先生を精一杯サポートします……!」
各々が愛銃を抱え、そう宣言する。それを見ていたヒフミの表情が、喜色に染まるのが分かった。「ありがとうございます、皆さん!」と、勢い良く頭を下げるヒフミの声が廊下に響いた。皆の力があれば、きっとこの争いを止める事だって出来る筈だ。
先生はそう、信じている。
「……ワカモ」
「あなた様の、御心のままに」
そっと、先生の背後に控えていたワカモは小さく呟く。その罅割れた狐面の向こう側、煌めく瞳が濡れている事に先生は気付いていた。
「しかし、もし私の心を慮って頂けるのならば、どうか、もう二度とは……」
「……うん、ありがとう――ごめんね」
もう二度と、この様な無様は晒さない。先生はそう心に決め、ワカモに感謝の言葉を告げる。本当に、どれだけ感謝し、頭を下げても足りない程だった。ワカモの指先が音も無く先生の袖を摘まむ。そのいじらしい主張に応えながら、先生は皆を見渡した。
「この困難を乗り越えて、皆でまた平穏な日々に戻ろう――暖かくて、
――生徒達の、青春の只中に。
皆が頷き、声を上げた。それを確かめた先生はシッテムの箱を取り出し、画面を表示させる。トリニティ自治区、その本校舎周辺で点灯する光が一つ。
「校門に車両を手配してあるから、皆は先にそちらで待機していて欲しい、私も後で合流するから」
「えっと、先生は……?」
ヒフミのその問い掛けに、先生は僅かな間沈黙を守る。
シッテムの箱には、とある生徒の現在位置が示されていた。
「――逢わなくちゃいけない子が、まだ居るんだ」
■
「ぅ、ぅ……――」
トリニティ本校舎、裏手――木陰の片隅。
人通りの少ない本校舎の裏側、暗く、木々が生い茂り、細い石畳の道が幾つかあるだけの場所で、ヒナはたった一人影に隠れ蹲っていた。
救護騎士団に手当をされた記憶があった、しかし其処からどう動いたのか、どんなやり取りをしたのかは曖昧だ。気付けばこの場所で膝を抱え、ずっと啜り泣いていた。
夜空が頭上を覆い、薄暗い周辺は明かり一つない。校舎の窓から差し込む電灯が微かに周囲を照らす程度で、ヒナの身体は暗闇にすっぽりと覆われている。
本来であれば、直ぐにでもゲヘナ自治区へと戻らなくてはならない。しかし、それすらも億劫に感じてしまう程に、彼女の心は傷ついていた。
安置所で共に暫く呆然としていたセナは、「……先に、戻ります」とだけ告げ救急医学部へと戻って行った。恐らく、今尚発生している負傷者の手当てに戻ったのだろう。
強い子だと、ヒナは心の底からそう思った。先生の亡骸を見つめ続ける事に耐えられなくなって、覚束ない足取りで逃げ出した自分とは大違いだ。
私は――私は、もう。
「ッ!?」
ふと、足音が響いた。石床を叩く靴音、それにヒナは身を竦ませる。十中八九トリニティの生徒だろう、巡廻か、或いは別の何か用事でもあるのか。人通りの全くない場所ではあるが、物理的に遮断されている訳でもない以上、誰かが通る可能性は十分にある。
「………」
ヒナは身を竦ませ、じっと息を潜めた。足音はどんどん近付いて来る。木陰に隠れ、夜の薄暗い視界ではヒナを捉える事は難しい筈だ。
しかし、そんな予想に反し足音は、
視線を感じる、誰かが自分を見下ろしている。
「う、ぅう……」
ヒナは頭を抱えて震えた。それは恐怖から来るものだった。元よりトリニティとゲヘナの溝は深く、広い。ましてや先生を守れなかった
どの様な罵倒も、中傷も、普段のヒナならば耐えられた。しかし、今の彼女は心が罅割れ、砕ける寸前なのだ。どのような言葉でさえ、劇薬の様に浸透し、彼女の肉体を、精神を苦しめる結果になるだろう。
どの様な言葉を掛けられるか恐ろしかった、聞きたくなかった。だから彼女は頭を抱え、蹲り、外界を遮ろうとした。
「――ヒナ」
けれど、その声は余りにも聞き覚えのあるもので。
思わず、ヒナは目を見開く。
幻聴だと、心の中の自分が告げる。けれど彼女の心が、感情が、一抹の望みを捨てられずに叫んでいた。
今の声、先生のものじゃ――あり得ない、先生は居なくなったのに。
じゃあ一体、誰の声――きっと自分の弱い心が生んだ幻だ。
でも見て見ないと分からない――期待して、裏切られたらもっと酷い事になる。
でも、でも、でも――。
頭を抱えたまま、ヒナはゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げる。
闇夜に慣れた瞳が校舎から差し込む光に照らされ、ヒナは僅かに目を細めた。
「……ぁ」
そして、暗闇の中に在りながら、決して見間違う事のない顔立ちが――ヒナの視界に飛び込む。
心配げに、儚げに、けれど優しさを含んだ微笑み。
それは、喪ったと、居なくなったと思っていた先生その人だった。
薄らと、僅かに明るくなり始めた空に映る、先生の瞳。ヒナは息を呑み、その肩を震わせる。
「せ、せんせッ……!?」
立ち上がろうとして、彼女は失敗した。
腰が抜けて、足に力が入らなかった。這い蹲り、先生を見上げる彼女の顔は――酷いものだ。腫れ上がった目元、涙に濡れた頬、張り付けられたガーゼは既に剥がれかけ、ストレスから無意識に噛んでいたのか、彼女の細い手首には無数の歯型が残っていた。
目尻に涙を溜め、ぼさぼさに跳ねた髪をそのままに彼女は問いかける。
「い、生きて――……!?」
「うん、お陰様で、何とか戻って来れたよ」
片腕は無く、包帯が巻き付けられた右目は覆われたまま、包帯から微かにはみ出た髪をそのままに先生は笑う。その傷を見るだけで、ヒナは自身の心が軋むのが分かった。
けれど――生きている。
先生は生きて、その場に立っている。
冷たく、物云わぬ先生を知っているヒナからすれば、それだけで全てが許せると思ってしまう程に、その光景は待ち望んでいたものだった。
どうやって? 一体、あんな状態から――そんな疑問が湧いて来るも、それは一瞬で何処かへと消えてしまう。今、目の前にあるこの現実、先生の生存という一点、それこそがヒナにとっての全てだった。
ゆっくりと、手を伸ばす。
先生に向けて、直ぐ目の前に立つ待ち望んでいた人に向けて。
その温もりを確かめる為に。これが夢でないと証明する為に。
けれど、その指先が先生へと触れる直前に、大きく揺れた。
私にその資格があるのかと、そう思ってしまったのだ。
――先生に守られた、
「ぁ、ぅ……」
「ヒナ……」
そう思ってしまった途端、もう駄目だった。
伸ばした手は震えるばかりで、それ以上先には進まない。ほんの十センチ、何てことのない距離だと云うのに――ヒナはそれ以上手を伸ばす事が出来なかった。
蒼褪め、中途半端に伸ばした指先。
震えるそれを見つめる先生は、彼女が何を想ったのかを悟った。
「ご――」
咄嗟に差し出された先生の手。けれどそれがヒナの手を掴むより早く、彼女の指先は握り込まれ胸元へと引き戻される。ヒナは俯き、先程と同じように頭を抱え、全身を震えさせながら叫んだ。
「ごめん、なさい……っ、ごめんなさい、ごめんなさい先生ッ! ごめんなさいッ……! わたっ、私が……私が、守り切れなかったせいで……ッ!」
裏返った声で、そう必死に叫ぶ彼女は恐れていた。
先生に責められる事を、詰られる事を。そんな事は無いと分かっているのに、そんな事を口にする人ではないと知っているのに。それは彼女の抱く罪悪感が見せる不安だ、恐怖だ。目を瞑ると瞼の裏に映し出される、何度も何度も銃弾を浴びせられる先生の姿。自分はただ、それを眺めている事しか出来なくて――それを思い返す度に、ヒナは身を切るような苦しさと、自身に対する失望に支配された。
「先生をっ、まも、守らなきゃ……守らなきゃいけなかったのに、わたっ、私の方が守られて……! こ、こんなッ……こんな、つもりじゃ……わ、私……うぅう、うぅぁ……ッ!」
「……ヒナのせいなんかじゃないよ」
そう云って、先生はその場に膝を着くと――そっとヒナを抱き締めた。
ヒナの冷えた肉体が、先生の体温を奪う。抱きしめられた瞬間、ふわりと香る先生の匂い。そして隠しきれない――血の香り。
その匂いは彼女の記憶を刺激する。無意識の内に回された腕が先生の背中、その衣服を強く掴み、ヒナは喘ぐ様に呼吸を続けた。
ぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちる。
「ごめんね、怖かったよね」
「うぅ、ぅうううッ……!」
「大丈夫、私は此処に居るよ」
――もう、何処にも行ったりしないから。
そんな言葉を、先生は呑み込んだ。
がちがちと、耳元で音が鳴っていた。それはヒナの歯音だった。恐怖と不安、そして寒さから来る反射。先生を抱き締める力が強くなる、下手をすれば骨が軋んでしまう程に。けれど先生はじっと、何の抵抗も苦痛も見せずに全てを受け入れる。片側だけになった腕でヒナを抱き締め、呟く。
「ありがとうヒナ、ヒナのお陰で私は、まだ足掻く事が出来る」
「ち、ちがっ、そんな……ッ!」
その言葉に、聡いヒナは悟った。
先生はまた――戦いに行くのか。
そんな体で、生徒の為に、また危険な戦場に。
「あ、ぅ、ぁ……!」
そうだ、当たり前の話だ。ヒナの理性は告げる、現在トリニティは混乱の坩堝にある。パテル分派のミカが解放され、ハナコが疑似的な参謀として音頭を取ってはいるが、彼女達の目的はアリウスの殲滅。主戦派の凡そは意思統一されているものの彼女達の行動に反対する生徒も少なくない。そして万が一彼女達がこのまま暴走を続ければ、その戦火は何処まで広がるかも不明。
保守派、主戦派、それらを取り纏め事態を収拾する必要がある――誰かが、トリニティを率いる事の出来る、
震えながら、ヒナはついて行かなければと思った。
こんな状態の先生を行かせるなんて、そんな事は出来ないと。
だから今度こそ守らなければと、そう思ったのだ。
思ったのに。
恐怖が、不安が、自身への失望が――ヒナの言葉を腹に押し込める。
「わ、私は……」
結局、ヒナが感じたのは自分への深い失望、そして絶望だった。
こんな、奇跡みたいな出来事が起こったと云うのに、自分はあの時と同じように動けなくて。ただ震えて蹲る事しか出来ない。自分はいつもそうだった、普段は澄まし顔で何でもない様に振る舞っている癖に、肝心な所でいつも。
ヒナの脳裏に――とある生徒の姿が浮かんだ。
「私は……っ! 小鳥遊ホシノみたいには、なれないッ……!」
あの、アビドスの副会長みたいな、強い人にはなれない。
それは胸の奥に秘めていた憧れだった。自身の弱い心を自覚していたからこそ、そう在りたいと願いながらも無理だと悟っていた光景。項垂れ、涙を零す彼女は叫ぶ。
「も、物凄く大切な人を喪ったのに、まだ、立ち上がって、戦って……! あれだけの苦しみを味わって、なんで……? わ、私には……私には――そんな、こと……!」
アビドスの生徒会副会長、小鳥遊ホシノ。
彼女は
アビドスの生徒会長であった人物と、ホシノはとても親しい仲であったという。彼女はそんな人物を喪って尚、まだ前に進んでいる、自身の足で立って、今もアビドスを率いている。
どうしてそんな事が出来るのだろう? どうしてそんなにも強いのだろう?
同じ苦しみを味わった、先生を喪ってしまったと思った瞬間、この胸に去来した恐ろしさ、不安、後悔、絶望を知っているからこそ――強くそう思ってしまう。
あんな恐怖を味わってしまえば。
あの苦しみを知ってしまえば。
立ち上がる事なんて、ましてや前に進む事なんて。
先生が居なくなったと、そう思った瞬間――
ぽっきりと、心が折れてしまったのだ。
「う、ぅあ、ぁああッ……!」
「ヒナ……」
大口を開けて、ヒナはくしゃりと顔を歪める。喉の奥から、呻く様な悲鳴が漏れた。
知っているからこそ、立ち上がれない。前に進む事なんて、論外だ。
――もう、嫌だ。
苦しみたくない。
怖いのは嫌だ。
恐ろしいのは、嫌だ。
痛いのは嫌だ。
大切な人を喪う瞬間を見たくない。
感じたくない。
それは酷く、寂しく、虚しく、辛い事だから。
もう二度と――もう二度と。
あんな想いは。
「私だって頑張ったッ!」
微かに明るんで来た夜空に、ヒナの声が響いた。涙が弾かれ、その首が左右に振られる。先生の身体を痛い程に抱きしめながら、彼女は感情を絞り出した。
「いつも精一杯、頑張って、どうにかしようとしてッ……! 分かって貰えなくて、それでもって……ッ! でも、でもッ……!」
激務に次ぐ激務、少しでも治安を良くしようと奔走し、気付けば率いられる側から、人を率いる側になっていた。ゲヘナの校風、その体質から忌避される事は分かっていた。受け入れられない事も理解していた。
けれど、必要な事だと割り切って努力して来たつもりだ。
でも、それでも――。
ゲヘナ最強と謳われる程の力を付けた。
風紀委員会の戦力、その半分を占めると称される程になった。
キヴォトス最強格と呼ばれる程の地位に至った。
だと云うのに。
「私は、いつも大事な所で――……ッ!」
先生に庇われて、守るべき人に守られて、それをただ、見ている事しか出来ない何て。一体何のための風紀委員会か? 何がゲヘナ最強だ、何がキヴォトス最強格だ。
肝心な所で役に立たない、只の木偶の坊ではないか。
そんな自身に対する批判が、脳内で鳴り止まない。
嗚咽を零し、涙を流し、引き攣った声で彼女は叫ぶ。
謝罪し続ける。
「ごめんなさいッ、ごめんなさい、先生……っ! ごめッ――」
先生は、ヒナの頭を強く引き寄せ、自身の胸元に押し付けた。
謝罪を口にしていた口が閉じ、荒い呼吸が先生の胸を焼く。涙が衣服を濡らし、先生は囁くように云った。
「良いんだヒナ、もう良いんだ……」
その声には、何処までも深い優しさが滲んでいる。ヒナの震えた指先が、先生の肌を衣服越しに掻き毟った。ぴくりと、先生の眉が震えた。しかし痛みを欠片も声に出す事無く、先生は穏やかに告げる。
「大丈夫、後の事は任せて、全部――私達が何とかするから」
ヒナの後頭部を撫でつけ、努めて何でもない様に、優しく、柔らかく。
希望に満ちた明日を。
その青春の続きを。
先生は語って聞かせる。
「これが終わったら、きっと何もかも元通りになる、いつも通りなんて事のない日常に戻れるから――ヒナが風紀委員長を引退して時間が出来たら、一緒にシャーレでゆっくり過ごそう……アコには、少し叱られてしまいそうだけれど」
そんな風に、今とはかけ離れた未来を先生は口にした。血と銃声に塗れた今ではなく、少し先の、皆が力を合わせた先にある未来の話を。まるで見えているかのように、確定した物事の様に。
「心配しないでヒナ、遠慮せずに甘えて良い、寄り掛って良い、風紀委員会の皆もきっと、そんな風に想っているから」
「――ぁ」
「……ヒナが、憂いなく青春を送れるように、その為にも」
先生の手が、ヒナから離れる。咄嗟に、ヒナは声を上げて先生の衣服を掴んだ。皺くちゃになったそれを見て、ヒナは顔を顰める。先生の温もりが遠ざかる、涙と鼻水に塗れて見上げた先生の顔は、少しだけ困ったような、いつも通りの優し気な表情だった。
「――この争いを、止めて来るよ」
先生の指先が、そっとヒナの手を握った。
此処に来たのは、
そんな疑問が浮かび上がる。けれど、先生がそれを口にする事は終ぞ無く。
「せ、せんせ――……」
「此処には、御礼を云いに来たんだ」
静かに立ち上がる先生。ふわりと、先生の裾がヒナの頬を撫でる。ヒナの握った指先から、先生の衣服が抜け落ちた。
「ヒナは、此処で待っていて、大丈夫だよ、きっと上手くいく」
「………」
「――それじゃあ、行って来るね」
告げ、
暗闇の中を、迷いなく。
真っ直ぐ、何処までも確りとした足取りで。
「ぁ……あぁ……」
その背中に向かって、ヒナは手を伸ばした。這い蹲ったまま、座り込んだまま、必死に。校舎から差し込む光が、ヒナの指先を照らす。けれど伸ばせど伸ばせど、その背中は遠ざかって。
「ま、待って……!」
声を上げた。
それは余りにも弱々しく、小さな声だった。
「待って、先生――わ、私も……私も……っ!」
――一緒に行くから。
そう、叫びたいのに。
叫ばなくちゃいけないのに。
声が出なかった、小さく、喉が引き攣る音だけが響いた。情けない位に震える唇は、ヒナの意志に反して言葉を紡がない。再び滲み出す視界の向こう側に、遠ざかる先生の背中が映る。一歩、一歩、けれど確実に。
どうして、と。
何故、と。
ヒナは表情を歪めたまま自身に問い掛けた。
何で、私はこんなにも――弱いの?
「……ぅ、ぁ」
崩れ落ちる上半身、両手を地面に突いて嗚咽を零す。目尻から滴る涙が、自身の手に零れ落ちた。此処で、声を出せぬ事こそが、自身の弱さの証明であった。大切なものの為に、恐怖を、苦痛を、乗り越える勇気――それこそが自身に欠けているもの。
彼女の視界に映る見慣れた愛銃。大きく、武骨で、小柄な自分には大きすぎる銃身。長きに渡って彼女を支えて来た愛銃は、砂利に塗れ、血が付着し、酷い状態だった。それを見つめながらヒナは思い返す。
――終幕、
この名を付けた時、自身は何を想っていたのだろうか。初めて銃を手に取った時、自分は何を目指していたのだろうか。
終幕。
どんな物語でも、終わりはある。
私は――その最後を見届ける為に。
いや、違う。
そんな結末を。
「ッ……!」
咄嗟に、ヒナは愛銃に手を伸ばした。グリップを握り締め、引き摺る様にしてそれを抱える。冷たい銃身は、ヒナの身体から更に体温を奪った。けれど、その冷たさこそがヒナの心を堅くした。初心を思い返す、ほんの少しで良い、僅かで構わない、幼き頃の自分が持っていた意志を、強さを、その想いを
脳裏に、風紀委員会の皆の顔が浮かんだ。
息を吸い込む――周囲を覆っていた暗闇が徐々に、徐々に明るみ始める。
夜明けが近かった。
「――待ってッ! 先生っ!」
「……!」
その声に、先生の足が止まった。
声は届いた、漸く――その背中に。
ヒナは震えそうになる歯を食い縛って、愛銃のストックを地面に打ち付けた。それを杖代わりに、身体を起こし立ち上がる。膝は震え、銃を掴む手は力ない。それは彼女の怯懦の証、未だ胸内には不安が渦巻き、恐怖が体全体を覆っていた。
――戦うのは、怖い。
苦しいのは、嫌だった。
怖いのは、嫌だった。
辛いのは、嫌だった。
恐ろしいのは、嫌だった。
でも。
――先生を喪うのは、もっと嫌だった。
「……私は」
顔を上げて、声を張る。振り返った先生が、少しだけ驚いたような目をしていたのが印象的だった。
地平線に、太陽が昇る。
薄らと明るんだ空に陽光が差し込み、校舎裏に光が溢れた。先程までの暗闇が一斉になりを潜め、先生の姿がハッキリと視認出来る。その表情も、輪郭も、姿形すべてが。包帯とガーゼに塗れ、傷だらけの先生は痛々しく見えた。けれどそれは、自分も同じだ。
泥だらけの制服に、先生と同じ傷だらけの恰好。中途半端な治療痕がそれを際立たせ、風紀委員長としての威厳など何処にもない。
けれど、それでも。
「私はっ、ゲヘナ風紀委員長……! 空崎、ヒナ……!」
どんなに泥に塗れても。
どれだけ傷に塗れても。
その意志だけは――
――私は小鳥遊ホシノにはなれない。
ヒナは想う。
自分は、彼女の様に強くはなれない、折れず曲がらず、進み続ける事は出来ない。弱音だって吐きたいし、落ち込む事だってある。怖がりだし、面倒くさがりだし、甘えたい時だってある。
だから、空崎ヒナとして。
弱虫の空崎ヒナのままで。
今度こそ。
地面を踏み締め、彼女は吼える。
「私は、私のままでッ……っ! 今度こそ、先生を助けたいから――ッ!」
「……ヒナ」
一歩を踏み出す。
陽光に照らされた中で踏み出されたソレは、彼女の震えを打ち消すだけの力強い一歩であった。最初の一歩――その一歩が、彼女にとって一番困難な一歩だった。
愛銃を担ぎ、歩き出す。
二歩、三歩、踏み出した彼女の足取りに淀みは無く、迷いはない。羽織った外套を靡かせ、普段の彼女らしい凛々しい表情を浮かべたヒナは、先生の前に立った。
自分の足で――自分だけの力で。
そっと差し出される手、小さな小さな、
けれどそれは、今までのどんな手よりも大きく、力強く見えた。
陽光が彼女の顔を照す。傷だらけの彼女は、それでも気高く、強い意志を秘めた瞳と共に告げた。
「一緒に行こう、先生……!」
――この争いを、終わらせる為に。
次回、決戦――お待ちかねのブルーアーカイブ宣言ですわ。
動き出すトリニティ、決戦の地は古聖堂、人を殺す覚悟を固めたアズサとハナコの前で、ヒフミは青春宣言をぶちかまします。
絶望を覆す瞬間というのは、生徒の涙と愛を感じるのと同じ位、最高に気持ち良いのですわ~!