日付変わっちゃった……お詫びとしてペロロ様が腹を切ります。
吹き抜ける様な青空。
彼女の――ヒフミの叫びと共に、先程まで世界を覆っていた雨雲が掻き消え、陽光が差し込む。影が、暗闇が、跡形もなく。
それは目を疑う様な光景だった、あり得ないと口にしたくなる様な景色だった。ほんの、ほんの数秒前まで世界を覆っていた絶望が、憎悪が、怒りが、掻き消え、流れていく。世界の真実が陽光に、希望に、突き抜けるような
頬を濡らしていた雨が止む。
「あ、雨が――」
「天候の操作? いや、これは……」
ミサキとヒヨリが空を見上げ、呟く。
影は光に呑まれ、最早その僅かな輪郭すら残っていない。夜が明け朝が来た、曇天は掻き消え晴天が空を支配する。世界そのものが彼女の声に応じたかのような光景に――ヒヨリは戦々恐々とした様子で呟いた。
「奇跡、ですか……?」
「っ、そんなもの、ある訳……ッ!」
ミサキは空を睨みつけ、思わず吐き捨てる。そんな、都合の良い奇跡など存在しない。そんなものが、この世に存在する筈がない。
――存在して欲しくない。
全ては偶然だ、偶然に決まっている。そんな意思を込めてヒフミを、目前に立ち塞がる光の象徴を睨みつければ、彼女は天に指を突きつけたまま声を張る。
晴天の下で、その光を一身に浴びながら。
「今の私達なら、何だって起こせるんですッ! どんな暗闇の中だって絶望したりしませんっ! 皆が一緒なら――そうですよね……!」
ヒフミは遥か向こう、太陽に照らされた一本の道を見つめ、叫んだ。
「――先生ッ!」
その声が響いた瞬間、全員の表情が一変した。彼女の呼びかけた、その名が齎す意味を理解して。
「ッ……!?」
「なっ……!?」
「馬鹿な――ッ!?」
「せん、せいッ――!?」
ヒフミの視線の先。積み上がった瓦礫の上に立つ、ひとつの影。それを追って振り向く彼女達は、言葉を失う。スクワッドも、ハナコも、アズサも、トリニティでさえも。
青の中で靡く、白い見慣れた制服、陽光を浴び起立する――唯一無二の大人。
それを視界に捉えた時、サオリは目を見開き震える声で呟いた。
「あり得ない……生きている筈が――ッ!」
震える指先が、握り締める愛銃を揺らした。
そうだ、彼奴は殺した筈だ、この手で――自分自身が。その感触を憶えている、その光景を憶えている。忘れる筈がない、何度も彼奴に弾丸を撃ち込んだ。人間が、ただの人間が、あの傷を受けて生きている筈がない。
捥がれた片腕、喪われた片目、頭部に巻き付けられた包帯と力なく揺れる左袖が彼の損失を物語っている。ちらりと覗く肉体には微かに滲む血の跡。
だと云うのに彼は――先生は生きて、この場に立っていた。
「まさか、本当に、先生――……?」
ハナコは呟き、その人影を凝視する。自身の視覚を疑い、何度も何度もその輪郭をなぞった。けれど自身の感覚の全てが、あの目の前に立つ人が先生である事を認めている。傷だらけで、満身創痍で、けれど確かに生きていると。
「せ、先生が生きて……?」
「で、でもっ、救護騎士団の方では――」
「噂じゃ、もう……駄目だったって……!」
「嘘だったって事ですか――?」
「いえ、しかし……!」
ハナコの背後に立つトリニティ生徒が浮足立ち、喧騒が耳に届く。先生の負傷、そして死亡報告を耳にしていた生徒は多い。そして、その仇を討たんとハナコに続いたのが彼女達であった。その対象が生きて、自分達の目の前に現れた――その衝撃は如何程か。
けれど、その表情に戸惑いや困惑はあっても、同時に滲んでいたのは歓喜だった。
先生が生きていた、それは彼女達にとってこれ以上ない程の福音だったのだ。
「馬鹿な、一体どうやって……!?」
「――云っただろう?」
サオリの呟きに、先生は応える。
一歩を踏み出し、広場へと降りた先生はスクワッドの前に立ち塞がり、いつも通り何て事の無い様子でサオリに云った。
「奇跡だと、ね」
「――!」
ぎちりと、サオリの表情が歪むのがマスク越しに分かった。先生は彼女を見つめながら残った一本の腕を掲げ、告げる。
「――此処に、私は
「っ、何を……!?」
先生の掲げられた指先、其処に微かな青白い光が宿るのをサオリは見た。光は輝きを放ち、青空の中に溶けて消える。先生の残った左目が、サオリを、ヒヨリを、ミサキを射貫く。
小さく揺れた指先が、天に小さな輪を描いた。
「紡がれたエデン条約、その約定に則り私は調印した、その定義に反しない限り、私は君達の根源……
「――まさか」
その言葉に、サオリがハッとした表情で先生を、その背後を見た。
先生が現れた方向には――古聖堂が存在する。瓦礫に塗れたその場所、地下にある祭壇を思い返し、思わず蒼褪めた。もし、彼がその存在に気付いていたというのなら。
それを証明するかのように、先生は蒼穹に向かって叫んだ。
「告げる、この場に集う私達こそが――新たな
「なッ……!」
瞬間、光が弾け、蒼穹の中を突き抜ける。
青白い光は尾を引き、何処までも何処までも高く、雲を突き抜け伸びていく。その光景を唖然とした表情で見つめながら、サオリは思う。
本来、この条約は連邦生徒会長が宣誓を行う筈であった。そして、連邦捜査部シャーレは連邦生徒会、その生徒会長の直属。その代役として、連邦捜査部のシャーレ、その最高責任者である先生が調印を行った。
つまり――。
「戒律を、捻じ曲げたのか……ッ!?」
咄嗟に周囲を見渡すサオリ。
彼女達を、スクワッドを囲っていたユスティナ聖徒会の輪郭が、その姿が――徐々に、徐々に喪われる。光の中に溶けて行くように、その僅かな残滓を漂わせながら消えて行く。スクワッドが感じていたETOとの繋がりが明確に薄まるの自覚した。本来の半分、否、それ以上。厳格な制約が喪われたからこそ、発揮されていた力が目に見えて低下している。それに気付いたミサキとヒヨリは、続々と消失するユスティナ聖徒会を見渡しながら声を荒らげた。
「リーダー、ユスティナの統制が狂い始めた……!」
「し、指揮系統に混乱が……エデン条約機構を助けると云う戒律、しかし今はETOが二つあって、どちらを優先すべきかの記述がないから――」
「ッ……知った事かッ!」
アリウスの誇る最強の盾であり矛、それが喪われた動揺は大きい。ミサキは苦渋の表情を浮かべ、ヒヨリに至っては動揺の余り涙目になっていた。この場に存在するETO以外の戦力はごく少数、それもこれだけの数を相手に戦えるだけの部隊はアリウスに残っていない。
しかし、サオリはその怯懦を怒声で以て掻き消した。
消滅するユスティナ聖徒会、その残滓を手で払い除け、踏み出す。
光に包まれる先生を睨みつける彼女は、どこまでも眩いそれに目を細めながら声を荒らげた。
「こんな、ハッピーエンドだと……!? ふざけるな、そんな言葉でッ……世界が変わると、本気で思っているのかッ!? それだけでこの憎しみが、不信の世界が――何を、夢の様な話を……ッ!」
「夢を見なきゃ、始まらない」
サオリの前に立ち塞がる先生は、静かな口調で断じる。掲げた腕、その手を握り締め先生は、遥かな蒼穹を見上げながら云った。
「そしてその生徒達の夢を叶える為に、全力で手助けするのが――
それはずっと前から、このキヴォトスに降り立った瞬間から変わっていない。
そしてこれから先、どれ程の時間が流れようとも変わる事は無い。
先生にとっての絶対。生徒の為に、その生徒達が紡ぐ未来の為に、先生は幾らでも手を差し伸べる。
「生徒達が心から願う夢を信じ、共に寄り添い、共に学び、共に歩む……それがどんなに難しく、遠い道のりだろうとも――私は彼女たちを信じている」
「ッ……!」
サオリは歯を食い縛り、唸り、顔を歪ませる。
その、何処までも理想を貫く姿が。この虚しく絶望的で、苦しみと痛みに満ちた世界と乖離した綺麗過ぎる言葉が、その在り方が――スクワッドの、サオリの心を掻き乱す。
理想で腹は膨れない。夢で苦痛は拭えない。
それを知って尚、その在り方を貫くと云うのだから。
「大人の、貴様がッ――そのようなっ……!」
食い縛った歯が軋む。胸に渦巻く感情は何だ、怒りか、憎しみか? それも確かにある。けれど、それだけではない。
「その様な、甘言を口にするから……ッ!」
「あぁ、甘言だとも……!」
「っ……!」
サオリの言葉に、先生が唸る様な声で叫んだ。それは彼らしくもない、荒々しさを孕んだ口調だった。
真っ直ぐサオリを射貫く視線に、微かな怒りが含まれている事に彼女は気付いた。けれどそれは、決してサオリに向けられたものではない。彼女の背後、その奥に控える大人と、自分自身に向けられた怒りだった。
「誰も傷つかない世界、誰もが笑い合える世界、生徒達が何の憂いも無く幸福を享受できる世界――! それの何と遠い事か、その実現の何と難しい事か……ッ!」
くしゃりと歪んだ、先生の表情。それは先生の見せる、葛藤。幾度となく繰り返して来た自問自答、夢を実現する事の難しさを、先生は知っている。
何よりも、誰よりも、その身を以て理解している。
そうだ、本当ならばこんな筈じゃなかった、もっと上手くやれる筈だった、世界は、現実は、そんな事ばかりだ。
この手から零れ落ちた
けれど先生は今も尚――
その姿は無様だろう、滑稽だろう、何と夢見がちで、稚拙で、机上の空論染みた夢か。
「けれど――!」
その果てに――その苦難の先に、追い求めた
安寧の終わりなど求めない。
誰かを切り捨てた束の間の安息など求めない。
それをこの手にする、その日まで。
「私は、諦める事だけは絶対にしない! その
拳を握り締め、叫ぶ。声を張り上げる。
軈てエデンに至る
その光に、優劣は無く。
貴賎は無く。
上下は無く。
この
だからこそ、今度こそ実現してみせるのだと、先生は叫ぶ。取りこぼしなんてしない。誰一人、見捨て等しない。犠牲になどさせて堪るものか。どれ程険しい道のりだろうが、どれ程の苦難に見舞われようが、構いはしない。先生は絶対に足を止めず、諦める事はしない。
どれ程の試練であっても、この足を止めるには足り得ない。
「此処に集った、皆に願うッ!」
「――!」
蒼穹に、先生の声が響いた。
トリニティの生徒達に、ハナコに、アズサに向けて息を吸い込む。
「頼む、どうか、私に力を貸して欲しい……ッ!」
「先生……?」
ハナコが目を見開き、呟いた。
「私に戦う力はない、君達とは違い、僅かな危険で命を落とし掛けるような、このボロボロの情けない姿が私だ……! これが人間だ! 私に誰かを救う力はない、誰かを裁く力も、罪悪を消し去る力もない! ひとりでは争い一つ収められず、君達と共に銃を持って戦う事すら出来ない! 大人とは名ばかりの、どうしようもない存在――!」
弱々しい肉体、弾丸一つで生命活動が終わるその脆弱さは、彼女達にとって理外のものだろう。先生がこのキヴォトスに於いて、単純な力のみで勝てる相手などそうは居ない。ある意味、人間である彼こそがこの世界で最も弱く、最も脆弱な生き物と呼べるかもしれない。
けれど。
「そんな、情けなく、弱く、無様な私だけれど――ッ! それでもッ、どうしても捨てられない
肉体の弱さだけで諦められる事ではない。自身の抱く夢は、そんな不利一つで諦められるような軽いものではなかった。配られた手札で、自分の手元にあるものを全て使って、何もかもを使って進む。
それでも尚、足りないと思えてしまう程の困難な道。先生ひとりでは、到底届かない理想の場所。
だから先生は生徒達に願う、懇願する。
先生には、それしか出来ない。
自分の全てを差し出して、希う事しか。
「憎悪でなく、悪意でなく、殺意でなく! 誰もが幸福で在れる、誰もが笑顔で在れる世界の為にッ! この、憎しみの連鎖を断ち切る為にッ!」
生徒達の視線が先生に集う、その大人の元に――傷付き、草臥れ、それでも尚、前に進もうとする彼の元に。
「頼むッ! どうか、その力を貸してくれッ――!」
声は遠く、何処までも響いていた。喉が張り裂けんばかりの叫びに、心からの懇願に。
否やは無かった。
余りにも静かで、けれど雄弁な答え。その静寂が、無言こそが彼女達の返答だった。ハナコに付き従っていたトリニティの生徒達が、シスターフッドのシスターが、正義実現委員会の委員が、派閥の垣根を越えた生徒が、各々の銃を抱えて構える。その胸にある感情を必死に押さえつけ、歯を食い縛りながら。
アリウスに対する憎しみはある、敵意もある、どうしても許せないと叫ぶ心が、感情が燻る。どうして奪われたのに奪ってはいけないのだと、やられたのにやり返していけないのだと――不平等を、不条理を糾弾したい心がある。
けれど、果たしてその未来に笑顔はあるのか?
やられたから、やり返して。傷付いたから、傷付けて。その果てに待っているのは殺し合いだ、血で血を洗う戦争だ。今尚――自分達が足を踏み入れようとしている領域だ。其処に入ってしまったらもう、戻っては来れない。他者の命を奪うと云う途轍もなく重い罪悪を背負う事になる。
先程までは、その覚悟があった――先生を奪ったアリウスに対する復讐。先に奪ったのは向こうだ、ならば奪い返さなければ平等ではないと、荒れ狂う感情のままに走っていた。
けれど、腕を喪い、瞳を喪い、それでも尚復讐を望まぬ先生の姿を見た時。生徒の引き金に掛かった指から、ほんの少し――ほんの少しだけ、力が抜けた。
その僅かな、けれど何よりも重要で大切な脱力が、先生の求めていたものだったのだ。
憎しみは消えないのかもしれない。
許す事は出来ないのかもしれない。
けれど、やり直す事は出来る筈だから。
命を奪うという行為は、その機会すらも奪ってしまう罪悪だから。
だから先生は――その未来だけは、絶対に阻止する。
突きつけられた無数の銃口、その先に佇むスクワッドのメンバー。けれど、その突きつけられた銃口に殺意はない。彼女達を突き動かしていた憎悪自体は微かに感じる事が出来た、けれど相手を殺してでも尚、何かを成し遂げると云う意思は何処にも感じられなくなっていた。
殺し合いは転じる――憎悪の連鎖は断ち切られる。
事実は決して消えない、過去を無かった事には出来ない、けれど未来を、別の結末を選び取ることは出来る。少しでも、僅かでも、より良い、一人でも多くの生徒が笑う事の出来る可能性、幸福になれる可能性のある結末へ。
「リーダー……」
「サオリさん……」
「………」
自身を取り囲む無数の銃口。それを見つめながらスクワッドのメンバーは沈黙する。壁となるユスティナ聖徒会は存在せず、正に絶体絶命と呼べる中で二人はそっと口を開いた。
「もう、ユスティナ聖徒会はまともに動作していない、私達の結んだ戒律は意味を急速に失くしつつある」
「残った聖徒会も、アンブロジウスも、この様子では、もう……」
「手札がない――私達の、負けだ」
此処から巻き返すだけの策が、手札が、彼女達には存在しない。唯一無二の戦力であり、切札であったユスティナ聖徒会を抑えられた時点で、アリウスはその戦力の大半を喪失した。
その、諦観に塗れた言葉に。
諦めを示唆する声に。
サオリは、痛い程に拳を握り締め、叫んだ。
「……――ふッ、ざけるなぁアアッ!」
全力で一歩を踏み出し、俯いたまま叫ぶ。踏み抜いた石畳の床が罅割れ、破砕された。それ程に力の籠った絶叫であった。彼女らしからぬ獣染みた咆哮に、その怒声に、ミサキとヒヨリの両名は思わず目を見開き後退る。
諦める事など。
諦めなかったアズサを前にして、どうしてそんな事が出来よう?
それだけは出来ない。
そんな事は認められない。
軋む程に銃を抱え、歯を食い縛り、サオリは叫ぶ、血を吐く思いで。
青い空の下で、憎悪に生きた少女の声が響き渡る。
「何が夢だ、何が理想だっ! 何が未来だッ!? そんな腹すら膨れないッ、甘いっ、甘い言葉に……ッ!?」
「サオリ……!」
「笑顔だと? 幸福だと? ならば何故、私達はあれ程までの苦痛を味わった!? 何の為に私はっ、アリウスであれ程の責め苦を味わった!? お前たちが何の憂いも、苦痛も無く過ごす中で、何でッ、何故私達だけが……ッ!? 数百年前の、何処の誰かも知らない他人の罪悪を背負ってッ! その罪を擦り付けられてッ! 冷たく薄暗い地下に押し込まれ、空の青さも知らずに、寒さに震え、飢えに苦しみッ、将来に何の希望も、夢を抱く事さえ許されず……ッ! それが、いずれ
顔を覆い、俯き、肩を震わせサオリは叫ぶ。己の受けて来た過去のあらゆる痛みを、苦しみを、その全てを思い返しながら。
世界がもし、『平等』なら。
苦痛の分だけ幸福が、痛みの分だけ笑顔が齎されるのならば。
奪われた分だけ、何かを得られるのならば。
自分達アリウスにも、幸福で笑顔に溢れる未来が訪れたのか?
――そんな未来は、きっと来ない。
「いいや、いいやッ! そんな事はあり得ない! この先に、この未来に、私達の歩む先に幸福など無いッ! 笑顔など無いッ! 希望など無いッ!」
あの、諦観と絶望に支配された場所で、世界は全て虚しいのだと心に、身体に叩き込まれたあの場所で、そんな希望を抱く事は許されなかった。その権利は存在しなかった。
世界は決して、【平等なんかじゃない】。
俯いていた顔を上げたサオリは、今にも泣きそうな表情でヒフミを、コハルを、ハナコを、トリニティを見つめ、叫んだ。
「――
私達には決して与えられないモノ。
けれど彼女達には与えられるモノ。
不平等で、不条理で、だからこそ光り輝く価値あるもの。
今にも崩れ落ちそうになりながら、サオリは最後に――アズサを睨みつける。
「なのに、何故だッ、どうして!? アズサ、どうしてお前だけッ……!?」
「!」
アズサの表情が驚きに変わる。数歩、覚束ない足取りで進むサオリはアズサを見上げた。憎悪と怒り、そして羨望に塗れた瞳で。どうしようもなく、遣る瀬無い感情に表情を歪めながら。
だって、そうだろう? サオリはアズサに手を伸ばす。未だ光に照らされる、向こう側の世界に立つ彼女に。
「私達は一緒に苦しんだ……絶望した! この灰色の世界に! この希望なき世界に! それが世界の真実だと、それがどうしようもない現実だと、身を以て知った筈だッ!」
「……あぁ」
「だと云うのにッ――!?」
サオリの絶叫がアズサの肌を叩く。それは紛れもなく、サオリの本心であった。今の今まで抑制していた、彼女の奥底にあった感情の発露であった。
「全てが虚しいこの世界で、お前だけが意味を持つのか!? お前だけがそんなッ、
晴れ上がった蒼穹が、差し込む陽光が彼女達を照らす。
佇むアズサの背に光が当たり、その影が長く伸びる。光はアズサを照らし、彼女の影にサオリは覆われた。
まるで、彼女達の世界を分ける様に。
日向と日陰を、区切る様に。
「そんな事――許せる筈がないだろうがァッ!?」
叫び、サオリはアズサへと銃口を突きつける。怒りに軋むグリップ、その銃口は震え照準が定まらない。それ程までに、彼女は激昂している。動揺している。それはサオリの中で生まれた、この世に生を受けて初めて抱く
――
私達は共に苦しんだ。
私達は共に世界の虚しさを知った。
私達は共に陽の当らぬ場所で、人を殺す術を学んだ。
同じものを食べ、同じものを学び、同じ場所で生き、同じように生きて――同じように死んでいくのだと思った。
けれど、今立っている場所は正反対で。
その距離は――余りにも遠い。
「全てだッ! 全てを否定してやるッ! お前がトリニティで学んだ事も、経験した事も、気付いた事も! 全て、全てッ、その全てをッ!」
顔を歪ませ、裏返った声で、腹の底から叫ぶ。
そうでなければ、おかしくなりそうだった。
一体、何の為に。
「だって……全ては虚しい筈なのだからッ!」
影に覆われた目元、その奥に煌めく眼光。その目尻に、一筋の涙が流れたのをアズサは見た。あの気丈なサオリが、いつ如何なる時も弱音を吐かず、スクワッドを牽引し、常に前に立ち続けたサオリが流す――弱さの証。
それはアズサの中に、確かな動揺と、強い悲しさを生み出した。
【Vanitas vanitatum omnia vanitas.】
全ては虚しい、何処まで行こうとも――全てはただ、虚しいものだ。
それは、この世界を憂う言葉だ。生きる事は苦しく、辛く、虚しく、世界は不条理で、不平等で、救いなど存在しない、と。
ずっと、それだけを教えられて生きて来た。
その事だけが真実だと、押し付けられて生きて来た。
けれど、アズサは知っている。
アズサだけは、理解している。
足掻いて、足掻いて、足掻いて――その果てに漸く希望を手にした彼女は。
サオリが、その言葉の裏にもう一つの意味を見出していた事に。
――
「いいえ――そんな事はさせません!」
アズサの思考を遮る様に、ヒフミは声を上げた。一歩踏み出した彼女はアズサの隣に立ち、力強い瞳をサオリに向ける。
「そうよ! 私達が合格した事も、ここまで頑張って来た事も、何もなかった事になんてさせない!」
ヒフミに続く形で、コハルもまた一歩を踏み出し、叫んだ。
「私達はッ、どんな時だって力を合わせて、乗り越えて来たんです……! そうでしょう、ハナコちゃん!?」
「ッ……!」
ヒフミはそう云って、ハナコを見る。視線を向けられた彼女は一瞬肩を震わせ、それから俯き視線を逸らした。其処には、隠しきれない罪悪感と苦悶が混じっていた。垂れた手がスカートを皺になる程握り締め、震える。
「でも……私は――」
呟き、ハナコは想う。
先生が生きていた事は、喜ばしい。それこそ許されるのであれば、今直ぐその胸に飛び込んで涙を流し、その生を喜びたい程に。きっと一日中泣きじゃくって、困らせてしまうだろう。その自信があった。
けれど自分は――彼女達の隣に立つ、その資格がない。
彼女達の様な高潔な精神を持ち合わせていない。
アズサは補習授業部の為に、その皆を危険から遠ざける為に自らを削ってでも戦いに身を投じた。
反し、自身は憎悪に呑まれ、唯々復讐に走ろうとしただけだ。其処に皆を想う気持ちが皆無だった訳ではない。此処で自身が先頭に立てば、彼女達を戦場に駆り出さずに済むという考えもあった。けれどその比重は、先生を葬った者に報いを与えなければという、酷く私怨の混じったものだったから。ゲヘナを巻き込み、トリニティを巻き込み、このような戦場にまで出張って。
だから、自分には――。
「ハナコ」
「っ……先生」
そんな事を想い、顔を歪めるハナコの元に先生は足を進めた。
冷たく、無表情で、台座の上に横たわる先生の事を思い返す。あの時の激情を、その憎悪を、ハナコは一生忘れる事はないだろう。
今にも泣き出しそうな顔を向ける彼女に、先生は目を細め、柔らかな口調で以て告げる。
「ごめんね……私の代わりに、頑張ってくれて」
「その様な、事は――!」
胸元で手を握り締め、彼女は首を横に振る。違う、そんな言葉を掛けられる資格は自分にはない。仇を討つと、復讐するのだと、同胞を焚きつけ戦場に連れ出した自分にそんな言葉は不釣り合いだ。ハナコは己の罪悪を吐露する様に、嗚咽を零し懺悔する。
「わ、私は……先生を奪われたと、そう思い込んで、ただ、
「良いんだ」
彼女の声を遮り、先生はハナコの手を取る。一本だけになったその手で彼女を引き寄せ、優しく抱き留めた。零れ落ちた涙が跳ね、先生の首筋を濡らす。自身を包む先生の身体からは、確かに生ある者の温もりが感じられた。
「ぅ、ぁ……――」
「誰だって過ちを犯す事はある、耐え切れない時だってある……結果論かもしれないけれど、ハナコは最後の一線を越えずに踏み留まってくれた」
そう云って、至近距離で交差する視線。先生の腕が静かに、ハナコの頭を優しく撫でつけた。
「――責任は、私が負うからね」
「あ……」
そっと離れる体、然もすると此処が戦場である事さえ忘れてしまいそうになる柔らかな気配。先生が破顔し、視線を自身の背後に向ける。
「それにハナコを含めて、全員で補習授業部……だろう?」
「ハナコちゃん!」
「ハナコ!」
「っ……!」
途端、先生の背中から、補習授業部の皆が駆け寄って来るのが見えた。それを見た瞬間、ハナコは堪え切れず目尻から大粒の涙を流す。ヒフミがいの一番にハナコの元へと飛び込み、抱擁を交わした。数歩蹈鞴を踏みながら、ハナコは引き攣った声で囁く。
「ごめんなさい、ヒフミちゃん……! 皆さん、私は……ッ!」
「良いんです……っ! こうやって皆、揃う事が出来たんですから……!」
強く、強く抱きしめられる体。其処に居る存在を確かめながら、確かに紡がれる友情の証明。それを慈しむ瞳で以て見守る先生は、静かに自身の袖を引かれる感覚に視線を落とす。其処には、自身を見上げるアズサが佇んでいた。
「……アズサ」
「先生……」
先生とアズサが視線を交わす。自身を見上げる彼女の瞳には、何か怯えるような色があった。アズサの指が、恐る恐る先生の手を掴む。ボロボロで、擦り切れて、似たような傷が幾つもある指先だった。それは爪が剥がれ、皮膚の破れた先生の指と酷似している。
アズサは最初、先生の指を一本握り締めた。小柄なアズサの指先が先生の大きな指を掴む。それから位置を変えて、今度は掌全体で何度も、何度も先生の存在を確かめる様に手を握り締めた。その視線は分かり易い程に揺れていて、唇は震えていた。それは安堵と、確かな喜びからなる感情の揺らぎだった。
そうやって先生の生存を確かめた彼女は静かに手を放し、どこか申し訳なさそうに、罪悪感を滲ませながらたどたどしく口を開く。
「せ、先生、その、私は……」
「――前に云った事、憶えている? 最初に、サオリがトリニティにやって来た時の事」
そんなアズサの唇に指をそっと当て、問いかける先生。少し驚いた様に目を見開いたアズサは、以前、サオリと対峙した時の事を思い出した。雨の中、血を流す先生を抱きかかえ交わした言葉。先生の指がそっとアズサの頬に伸びて、その付着した泥と砂塵を拭う。その温もりと優しさを感じながら、アズサはぎこちなく頷いた。
「……うん、忘れたりしない」
「それでも、許せなかった?」
「………うん」
その言葉に反し、余りにも穏やかな問い掛けに。
アズサは小さな声で頷いた。
「先生が居なくなって、皆も……同じようになってしまうんじゃないかって、傷付けられる事が、怖かったんだ」
「そっか――」
先生は、彼女を責めるような事はしなかった。ましてや怒る様な事さえも。ただ、仕方なさそうに笑って、アズサを見つめる。それがどうにも堪らなくて、せめて一言叱って欲しくて、アズサは唇を噛み締めながら言葉を続けた。
「憎しみに、恐怖に、私は打ち勝てなかった、私なら
「アズサッ!」
けれど、彼女を責める声が上がったのは先生からではない。直ぐ傍の、彼女の独白を聞いていたコハルからだった。ズンズンと足を進める彼女はアズサの直ぐ傍に立つと、驚いたように目を見開くアズサ目掛けて、手を振り上げた。
「コハ――あぅ」
軽くスナップを聞かせて、叩かれるアズサの頭部。音は鳴らなかった。それどころか痛みすらない、かなり慎重に叩いたらしく、コハルの指先は緊張で震えていた様にすら見えた。ぎゅっと指先を握り締めたコハルは、睨みつけるような瞳でアズサを――そしてハナコを見る。
「い、今はボロボロだから、それ位で許してあげるッ! でも、今度また同じ様な事したらこの位じゃ済まないからッ!」
「……こ、コハル」
「ハナコもッ! 突然あんな事云って、いなくなって! 二人共私達の為に動いたつもりだったのかもしれないけれどッ、そんな事されても、全然嬉しく何てないしっ……! わ、私は馬鹿だし、強くもないし、頼りにならないかもしれないけれどッ! でもっ……!」
コハルそう云って息を吸い込むと、小さな体で、精一杯肩を怒らせながら二人を指差し、叫んだ。
「友達が辛そうに、苦しそうにしていたら、
「コハル……」
「コハルちゃん……」
コハルの言葉に、二人は二の句が継げなくなった。友達が辛そうにしていたら、苦しそうにしていたら――道を外れそうになっていたら、放って何ておけない。
「――うん、確かに……そうだ」
もし、自分が異なる立場であれば、それはとても辛い事だと思うから。きっと自分も放ってはおけない。例えそれが現実的ではないと理解していても、感情は別だ。アズサはそう納得し、笑みを漏らす。コハルに叩かれた場所を、何処か嬉しそうに撫でつけながら。
「ごめんなさい、コハルちゃん……色々勝手な事をしてしまって」
「べ、別に分かってくれたら、それで良いから……!」
泣きながら笑うハナコに、コハルはそっぽを向く。ヒフミをもう一度強く抱きしめ、自身の足で立ち上がった彼女は大きく息を吸い込む。蒼穹を見上げながら、深く、何度も。
良い友人を持ったと、ハナコは心からそう思った。
自分には勿体ない程の――素晴らしい友人達だ。
「憎悪でなく、悪意でなく、殺意でなく――」
先程、先生の叫んだ言葉を思い返す。その意味を理解出来ない程、ハナコは鈍くはない。ただ理解出来るからこそ、少しだけ困った様に先生へと微笑みを返すのだ。
「難しい事を仰いますね、先生は……」
「――ごめん、ハナコ」
「いいえ」
緩く首を振って、ハナコは告げる。
自分一人ならばきっと、憎悪に呑まれ暴走してしまっただろう。
実際に、その中程まで自分は足を進めたのだから。
けれど、彼女達と一緒なら、補習授業部と共に歩む
「きっと、私もその線を踏み越えてしまえば……後悔したと思いますから」
ましてや、他人を巻き込んでまで突き進んでしまっては。その抱える罪悪は、どれ程膨らんでしまった事か。そんな事を考え、背後に集うトリニティの生徒達に目を向ける。自分達を見るその瞳には、先程までにはなかった色が灯っていた。それを見てハナコは、ふっと口元を緩める。それは安堵の笑みであった。
「大丈夫です、今からでも遅く何てありません……!」
ヒフミがアズサとハナコの手を取り、力強く云った。
「色々な事が沢山あって、苦しくて、辛くて、大変な事ばかりでしたが……! それでも、それはこれまでのお話であって、これからのお話ではないんです! それに、先生も一緒なら百人力ですッ!」
「――勿論、任せて」
ヒフミの言葉に頷き、懐からタブレットを取り出す先生。予備バッテリーに繋がれたそれの準備は万端だ。少なくとも一戦、二戦程度で電源が底を突く事は決してない。その自信に彩られた表情に後押しされ、ヒフミは皆に問い掛ける。
「きっと乗り越えられます、私達なら! そうですよね、皆さん!?」
「……うん!」
「と、当然よっ!」
「――えぇ!」
アズサ、コハル、ハナコ、皆の声を受け、ヒフミは振り返り再びスクワッドと対峙する。憎々し気に此方を睨みつけるサオリを前に、ヒフミは強い意志で以て口を開いた。
「平凡で、何のとりえも無くて、無個性な私ですがッ! こんな私にでも、好きなものと同じ位、誇れるものがものがあるんですっ! 例えブラックマーケットの警備だろうと、カイザーコーポレーションの軍隊だろうと、どこかの凄く強い特殊部隊だろうと! どんな強大な相手でも、どんな高く分厚い壁でも、絶対に乗り越えられます! きっと勝てますッ! だって――」
そう云って矢面に立った彼女は、背後の補習授業部の皆を誇る様に手を広げた。その背に視線を受けながら、確かな信頼と友愛を感じながら、彼女は何処までも眩い瞳で以て叫ぶのだ。
「私達は補習授業部っ! 私の自慢の――大切な友達なんですからッ!」
宣言と共に、補習授業部の皆が愛銃を構える。確かな戦意を感じ取ったスクワッドは同じように銃器を構え、その気配を一層鋭く、険しいものへと変化させた。先頭に立つサオリの足が地面を擦り、音を立てる。
「アズサ……ッ!」
「サオリ、私は――いや」
サオリとアズサが視線を交差させる。その中でアズサは強く愛銃を握り締め、叫んだ。
「『私達』は、もう負けない……ッ!」
蒼穹に、彼女の声が響いた。
ヒフミが息を吸い、告げる。
「先生ッ!」
「――あぁ!」
その声に応え、先生はタブレットを叩いた。途端に広がる青白い光、生徒達のヘイローが輝き、そこから細い光のラインが迸る。微かな手足の痺れ、同時に視界に映る無数の情報。補習授業部、アビドス、トリニティ、その全員と繋がった事を確認した先生は、その顔を僅かに歪ませる。流石に、この数は中々どうして多かったかと。
心臓の鼓動が、一瞬弱まった。肉体を蝕む鈍痛、強張る筋肉、しかし、それを噛み殺し先生は不敵に笑う。
生徒の前で――弱音など吐くものか。
その一心で足を踏み鳴らし、先生は立ち続ける。
ヒフミがスクワッドを見据え、拳を握り込む。
「補習授業部、改め、即席ですが……っ!」
補習授業部を、アビドスを、トリニティの皆を、ヒフミはその背中に感じつつ。
その腕を突き上げ、叫んだ。
「
「おーッ!」
青空の下、アズサの首元に下げられた補習授業部の人形が、嬉し気に弾み揺れた。
ベアトリーチェはVanitas vanitatum omnia vanitas.という言葉を都合よく捻じ曲げ、自身の操り易い形で生徒達に教え込んでいましたが、私が考えるに、サオリはその言葉の裏、或いは自身の中でその別の真理というか、解答に行きついていると思うのです。
このアリウスに於いて絶対の教義は、世界は虚しいし、辛くて苦しい事ばかりで、救いなんて無いから、足掻くだけ無駄だし、無意味に生きて無意味に死ね――という解釈をしているアリウス生徒が殆どです。ベアおばは意図的に教えの一部を削ったり歪曲して、そういう風に受け取れる様に細工をしました。
実際ミサキやヒヨリなんかはそういう風に捉えていますから、苦しい事も辛い事も諦観と共に受け入れています。ミサキなどは自身の弱々しい肉体を捨てられるのならば構いはしないと死すら受け入れる態度を取っています。ロイヤルブラッドのアツコもこの教義に対しては、それに近しい持論を持っており、疑問を抱きつつもそこから脱する勇気を抱けずに此処まで来ました。
唯一、違う解釈を持ったのは「アズサ」と「サオリ」です。
アズサはこの世界は虚しいという真理を受け入れつつも、しかし足掻く事は無駄ではないと考えました。すべては無意味なのかもしれない、その果てに救いはないかもしれない、けれど万が一、億が一、那由他の果ての可能性に――ほんの僅かでも希望を手にする道があるのならば。
何度だって立ち上がり、何度だって足掻くべきだと考えているのです。
アズサはアリウスの教義を受け入れつつも、希望を諦めませんでした。
反し、サオリはアリウスの教義を全面的に受け入れています。現状を大きく変える事は出来ないと他の面々と同じように諦観を抱いていおり、アズサの様に希望を求める事はありません。
けれど彼女は、決して自死を願ったり、苦しみを肯定する事もありませんでした。彼女の現実主義的な在り方の根底にあるのは、『希望が無くても、今直ぐ其処にある幸せだけは、何としてでも守ろう』とする想いなのです。
サオリにとって奇跡とは、幸福とは、スクワッドの皆と一緒に居られる事、ただそれだけなのです。
アズサにとっての希望とは、奇跡とは、もっと大きくて、凄くて、光り輝く何かです。現状を全て変えてくれるような、アズサが信じるこの世界の真理すら覆してくれるような、偉大で、輝いていて、とても珍しい――それこそが奇跡だと考えています。
けれどサオリにとっては誰も喪われず、ただ苦痛と虚しさに苛まれる日々であっても、自分の大切なもの、スクワッドの皆が居ればそれで十分であり、その事自体が小さな奇跡だと思い続けました。
この、奇跡に対する見方の違いの様なものこそが、二人を分かつ大きな分岐点だと私は考えるのです。
サオリはただ、スクワッドを、その居場所を守る為に、その他のあらゆる全てを犠牲にしただけなのです。たとえその天秤が、どれ程偏って、不平等で、不条理で、釣り合わないものであったとしても、彼女はその小さくて細やかな幸福を守る為に、自身の差し出せるものを全て差し出し、罪悪を積み重ね続け今に至るのです。
だからこそ、自身と同じ場所に立っていた筈のアズサが、特大の希望を、その身を焦がすほどの大きな大きな奇跡を引き当てた姿を見た時、彼女は堪え切れなくなってしまう。自分達にも彼女の様に、あの場所に立つ可能性があったのかもしれないと考えてしまえば、その自分の守ろうとした小さな奇跡が、ちっぽけだけれど幸福で、あらゆるものを犠牲に守って来たその場所が、取るに足らない、陽光に照らされてしまえば掻き消えてしまいそうなものに思えて。
それは彼女にとって、自身の全てを拒絶され、否定された事の様に思えてしまう事でしょう。だからこそ彼女はアズサを否定するしかないのです、否定しなければ自身の犠牲にしてきた全てが、費やして来たあらゆる事が、全て無意味であると証明されてしまうから。
全ては虚しいと嘯きながら、その実誰よりも何よりも、その小さな奇跡に固執していた自分を、彼女はこの瞬間、初めて自覚し、取り乱すのです。
おぉ、何と素晴らしい事か、何と素敵な事か、この瞬間彼女は一つの学びを得て、成長したのです。
しかし、その罪悪が消える事は決してありません。責任は先生が背負い、例えあらゆる罰から逃れたとしても、その罪悪だけは先生にも掻き消す事は出来ないのです。
彼女にとっての審判は、トリニティの魔女が執り行うでしょう。
デンプシーロールのお時間ですわ~ッ! でも生徒が酷い目に遭うのは辛いのですわ……ミカさん、代わりに先生の事を殴って下さいません? でも先生がミカパンチ受けたらマジで洒落にならない事になっちゃいますわよねぇ~……。どてっぱらに風穴が空きます事よ! そうしたらまた、アロナちゃんに代わりを用意して貰わないといけませんわ。うぅ、アロナ、先生お腹の内臓全滅しちゃったから代わりになって……。そんな事したらフウカが悲しんじゃいますわ~!