ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告助かりますわ~!
日付超えて申し訳ありませんの!


崇高(レプリカ)調(しらべ)

 

 立ち昇る粉塵、それらを軽く払い退け、崩れ落ちた天井、内壁、積み上がった瓦礫を見つめながらミカは静かに銃口を下げる。

 これでこの部屋は完全に中央区画から遮断された。差し込んでいた光が消え、室内は頭上にぶら下がる電球のみが頼りだった。剥き出しのケーブルが揺れ、ミカとスクワッドの表情を不規則に照らす。

 

「――まぁ取り敢えずこれで、こっちには来れないかな」

 

 呟き、ミカは指先を頬に当てながら思案する。古聖堂地下に関しての地形情報は曖昧だ。地上ならばまだしも、地下とカタコンベ周辺は調印式で使用される予定も無いと修繕される事もなく放置されていた経緯がある。複雑なカタコンベへと繋がっているこの場所はシスターフッドやティーパーティーですら詳細な地図は保有していない。

 表層部分ならばマッピングもされているかもしれないが、先生がその情報をピンポイントで持っているかどうかは怪しい所だった。少なくとも、一瞬で最適なルートでも割り出さない限りは相応の時間が稼げるだろう。周囲に漂う粉塵を手で払いながらミカは満足げに頷き、静かに踵を返す。

 

「ぅ、ぐッ……!」

 

 地面に横たわり鼻と口から血を流すサオリは、振り返ったミカを見上げながら顔を顰める。口を覆っていたマスクは、先の一撃を受けた際に何処かへと吹き飛んでしまった。だからこそ、自身を見上げるサオリの顔に僅かな恐怖が滲み出るのをミカは見逃さなかった。

 

「ふふっ、なぁに、そんな――魔女でも見たような顔をしてさ?」

 

 足元にあった木片を踏み砕き、一歩を踏み出す。ミカは自身の口元が歪な三日月を描くのを自覚していた。

 サオリは小刻みに呼吸を繰り返しながら、素早く視線を左右に散らす。自身の愛銃を探したのだ。しかし、愛銃はサオリから少し離れた場所に転がっていた。木片と瓦礫に覆われたそれは、万全の状態ならばすぐ傍、ほんの数歩先程度に過ぎない。

 しかし、殆ど身動きが取れない今の状態から手に取るには余りにも険しい道のりに見えた。それでも諦める事は出来ず、サオリは折れ曲がった左腕をそのままに、辛うじて動く右腕を伸ばし前へ、前へと体を引き摺る。

 

「それにしても、随分弱っているね? たった一発でこのザマなんて……もう少し気張ってくれないとさ、甚振り甲斐がないじゃんね?」

「い、ぎッ……ッ!」

 

 しかし、伸ばした指先が愛銃に触れる事は無かった。

 軽い足取りでサオリの元へと足を進めたミカが、サオリの折れた左腕を徐に踏みつけたのだ。その痛みと衝撃に、思わずサオリは声を漏らし、身体を硬直させる。痛みには慣れていた筈だった、しかし完全に折れたそれを踏みつけられる痛みはまた、通常のそれとは別種の痛みがあった。

 

「ねぇ、さっきさ、ちょっとだけ聞こえたんだけれど……逃げる、とか云ってなかった?」

「っ、サオリ姉さん(リーダー)から、離れろ――ッ!」

 

 ミカに投げ込まれ、コンテナに衝突し一瞬意識を飛ばしていたミサキは、圧し掛かっていたそれらを強引に押し退け、立ち上がる。愛銃(セイントプレデター)は使えない、こんな場所で爆発を巻き起こせば諸共生き埋めになる可能性がある。故に仕掛けるのは白兵戦。ミサキは拳を握り締めると、ミカ目掛けて駆け出し、勢い良く拳を振り抜いた。

 

「ッ、よせっ、ミサキ……!」

 

 ミサキの白兵戦の能力は決して低くはない、腐ってもアリウス・スクワッド。困難な選抜試験を潜り抜け、幼少より積まされた過酷な訓練は通常の生徒とは異なる体捌きを実現させる。ミサキの包帯が巻き付けられた拳、それが風を切る音を鳴らし、ミカの後頭部へと迫る。

 しかし、余りにも無謀だった。

 サオリの声が届くより早く、ミカの姿が掻き消え、ミサキの振り抜いた拳が虚空を切る。驚愕を貼り付け、息を呑んだ瞬間――下から抉る様な拳がミサキの腹部を打ち抜いた。臓物が持ちあがる感覚、肋骨が軋み、ミサキの口から濁った悲鳴が漏れた。

 

「あ、ぐッ!?」

「あははッ、無理、無理☆」

 

 まるで背中に目がついているのかと思う程、完璧に見切られた。ミサキの打撃を身を屈めて避け、そのまま膝のバネを利用したボディフックを一発。横合いから到来した衝撃は、ミサキの身体を突き抜け凄まじいダメージを齎す。想像を絶する痛みと衝撃に脳が危険信号を発し、ミサキの身体が石の様に硬直した。

 折れ曲がった体、そこに追撃する形でミカの裏拳が突き刺さる。まるで撫でる様に、しかし側頭部目掛けて放たれたそれは、余りにも軽い動作に反し轟音を打ち鳴らし、ミサキの身体を後方へと吹き飛ばす。

 再び崩れたコンテナに叩きつけられたミサキは、悲鳴ひとつ上げる事も無く金属と木片の山に埋もれて消えた。その様子を薄らと笑みを浮かべながら見届けたミカは、サオリを見下ろしながら口元を歪める。

 

「はーぁ、全く、こんな事をしでかしておいてさ、先生に消えない傷まで刻んどいて、逃げるとか、何云っちゃっているの、って感じじゃない? 笑っちゃうよねぇ」

「っ、み……ミサキ……!」

「――逃がす訳ないじゃん」

 

 ミカの足が、再びサオリの腕を踏みつける。

 メキリと、嫌な音が響いた。

 

「ぐ、がぁあアッ!?」

「サオリ、云ったよね? 私、もう止まらないって――落としどころなんて存在しないって、徹底的に、どっちかが壊れるまで殺し合うんだって……それはね、先生が生き返ったから無かった事になんてならないの、分かる?」

 

 脂汗を流し、血に塗れたサオリの頬を覗き込み、ミカは告げる。

 

 ――その罪悪(先生を害した罪)は、決して消えないのだと。

 

 聖園ミカの罪悪も。

 錠前サオリの罪悪も。

 例えそれが償える罪であろうと、償えない罪であろうと、他者を傷付けた罪悪が消える事はない。その罪悪を、自分達は一生背負って生きていくのだ。生きていかなければならないのだ。

 

 だと云うのに――。

 

「ましてや、そんな罪を犯しておいてさぁ……これだけ周りを滅茶苦茶にしておいて、私の人生を全部変えておいて、その償いも、罪を雪ぐ事さえしないで、自分達だけ逃げる……? あははッ、なにそれぇ! 面白いねぇ!」

「い、がッ……!?」

 

 二度、三度、ミカは繰り返しサオリの左腕を踏みつけた。その度にサオリは悲鳴を上げ、十分に痛めつけた感触を得たミカは、そのまま彼女の頬を軽く蹴飛ばす。跳ねあがったサオリの頭部を踏みつけ、地面に叩きつけると同時、冷酷な眼差しと共に吐き捨てた。

 

冗談(ジョーク)じゃないのなら、尚更笑えないよ、サオリ」

「ぅ、ッ、ぐ――……」 

 

 意識が、朦朧としていた。

 冷たい地面に押し付けられながら、サオリは暗転しそうになる視界を必死に保つ。今だけは痛みが、その冷たさが、サオリの意識を途切れさせまいとプラスの方向に機能していた。必死に歯を食い縛り、荒い息を繰り返すサオリ。そんな様子の見つめるミカは、笑みを浮かべながら口を開く。

 

「大丈夫だよ、安心してねサオリ? 直ぐにヘイローを壊すような真似はしないから! 目の前でひとりずつ、あなたの仲間を壊してあげる! 同胞が目の前で一人ずつ喪われていく様を眺めていてよ……!」

「っ……!?」

 

 狂った様に笑うミカの瞳が、サオリ以外のスクワッドメンバーに向けられる。倒れたミサキを介抱していたアツコ、隅っこで縮こまり震えていたヒヨリ、アツコの腕の中で未だ抜け切らない衝撃に苦しむミサキ。

 それぞれが顔を顰め、悲鳴を呑み込むのが分かった。

 

「ひ、ひぃッ……!」

「ぐッ……!」

「っ……!」

 

 勝ち目は――無い。

 ただですら消耗していたスクワッド、それに加え聖園ミカの戦闘能力は群を抜いている。ティーパーティーに於いて、異常とも云えるその武力の高さは、アリウスの情報部をして『スクワッドが万全かつ、トラップが機能する状態で漸く勝ちの目があるかどうか』と云わしめる程。しかし、こうして全力の彼女と対峙して、スクワッドは認識を改めた。

 勝ち目云々の話ではない――この女に挑むのは、無謀だ。

 

 ミカの足がサオリの頭部から離れ、地面を踏み締める。そして彼女は、実にゆったりとした動作でスクワッドの皆の方へと足を進めた。その恐怖を煽る様に、或いは甚振る様に。

 

「っ、ひ、ひぃいッ……!」

「下がって、ヒヨリ!」

 

 ガンケースを抱えたまま涙を流して震えるヒヨリに向かって叫び、ミサキを引き摺りながら銃口を向けるアツコ。彼女の愛銃、スコルピウスは近距離戦闘に重きを置いたSMG。この距離で全弾撃ち込めば、大抵の生徒は無力化出来る筈だった。

 しかし――。

 

「へぇ、そんな豆鉄砲でどうするつもりかな? 別に撃っても良いけれど、多分無駄だと思うよ? そっちのヒヨリの愛銃(対物ライフル)だったら、少しは痛いかもしれないけれど……」

「ッ……!」

 

 銃口を前に、何処までも自然体を貫くミカ。その表情からは、向けられた銃を欠片も脅威と思っていない事が分かった。

 その挑発的な言動に、アツコは即座に決断する。どちらにせよ、このまま無抵抗で接近を許せばどうなるか火を見るよりも明らか。ならば僅かでも抗うしかない。そんな思考と共に、アツコは引き金に掛けた指を絞り切った。

 途端、部屋の中に閃光が瞬き、銃声が轟く。確かな反動と共に硬い地面へと空薬莢が次々と流れ落ち、甲高い音を鳴らした。

 そして、閃光の向こう側で薄らと笑みを浮かべたまま、着弾の衝撃に身を揺らすミカ。

 射撃時間は、ほんの三秒足らずの間だった。その間に撃ち込まれた弾数は三十発、微かに立ち昇る硝煙の向こう側、其処に立つ彼女は自身の胸元から零れ落ちる弾丸を見下ろしながら――嗤う。

 

「――だから無駄だって云ったじゃん」

 

 防御もしなければ、避けもしない。

 無防備に突っ立ったまま、その身体には傷らしい傷が一つとして刻まれていない――弾丸は、その衣服に僅かな汚れと裂け目を作るのみで、当の本人は何事も無かったの様に超然と佇んでいた。

 

「そ、んな――……」

 

 思わず、アツコの口からそんな声が漏れる。例え9mmとは云え、これほどの至近距離で弾倉丸々一つ、腹部から胸部に撃ち込まれて平然とするなど。それこそ正義実現委員会の委員長や、それに比肩する頑強さを誇る生徒でなければ不可解な現象である。ミカは胸元に着弾し、潰れたまま張り付いた弾丸を数発、払う様に手で地面に落としながら再びその歩みを再開した。

 罅割れたマスクの向こう側に見える、その絶望に塗れた瞳を覗き込みながら、ミカは薄らと唇を舐める。

 

「あははっ、良いね、その顔? とっても似合っていると思うよ! それで、抵抗はこれでおしまい? 出来る事は全部やった? もう後悔はない? それじゃあ……」

 

 一歩、ミカが踏み出す。散らばっていた木片を踏み潰し、圧し折れる音が周囲に響いた。アツコがミサキを抱き締めたまま後退り、思わず身を竦ませる。

 

「――今から、ヘイローを壊す(殺す)ね?」

 

 その、スクワッドにとって絶望的な宣告と共に迫る影。

 軋み、揺られる電球が頬を照らし、その背後に濃い暗闇を映し出していた。無造作に掴んでいた愛銃を肩に担ぎ直しながら、ミカは緩慢な動作で足を進める。

 殺す時は、銃なんて大層なものは使わない――この手で縊り殺すと、そう決めていた。

 

「……?」

 

 しかし、踏み出した一歩、その足を引っ張る何かがあった。

 ほんの小さな引っ掛かり、力を込めれば簡単に振り切れてしまいそうなソレ。

 ミカが足元を見下ろせば、自身の足首に絡む指先。

 見ればサオリが息も絶え絶えになりながら必死に腕を伸ばし、ミカの足首を血に濡れた手で掴んでいた。

 白いタイツがサオリの血を吸って赤黒く染まる。か細く震える指先が、サオリの呼吸に合わせて足を握り締める。

 

「や――」

「ん~?」

 

 ミカの口元が、大きく歪んだ。肩で息を繰り返しながらミカを見上げたサオリは、睨みつけるような視線と共に、血を吐き出しながら叫ぶ。

 

「や、めろ……ッ!」

「あは――アハハッ!? なに~? 聞こえな~いッ!」

 

 その、脅迫とも懇願とも取れる言葉に。

 弾む様な声を上げ、ミカは軽く足を振り上げる。

 たったそれだけの動作で、サオリの手は簡単に振りほどけてしまった。そのまま這い蹲り、再度手を伸ばしてくるサオリの前に屈み込み、ミカはその傷だらけの顔を覗き込む。星が浮かぶ煌びやかなミカの瞳に、血と埃に塗れたサオリの顔が反射していた。

 

「っ……!」

「ふふっ、あなた達も仲間は大切なんだね? 取り敢えず身近な連中からって考えていたけれど……うん、そうだよね、どんな人にも大事な存在っているよね! 私にも居たから分かるよ! ――あなた達が殺そうとした、セイアちゃんと先生の事なんだけれどさ!」

 

 その、状況に似合わぬ弾んだ声に。

 サオリは今日何度目かも分からぬ悍ましさを感じずにはいられない。当の本人はそんなサオリの感情など気にも留めず、饒舌に言葉を紡いでいた。

 

「知っている? セイアちゃんってさ、人を怒らせる天才なんだよ! 何回グーパンが出そうになったか分からない位! でも、普段は嫌な奴って思っているのに、いざ怪我をしたら心配になって、大丈夫かなって不安になるの――先生の時なんかは、特にそうだった」

 

 呟きながら、ミカは溌剌とした笑みを浮かべる。ミカとセイアは、基本的にウマが合わない。元より価値観も、趣味も、その生き方そのものがズレているのだ。セイアは理屈で生きる生徒で、ミカは感情で生きる生徒だった。それは水と油の様に反発し合い、互いに理解し合えないのも当然の事だとミカは考えていた。当時のセイアも、そしてミカも、互いに歩み寄る姿勢すら見せなかったのだから当たり前だ。

 その丁度中間がナギサだった。

 理屈っぽいのに、どこか感情的。だから彼女はミカとも、セイアとも適度な距離を保っていられる。どちらかに振り切っている生徒同士、この絶妙な三角形の関係図が当時のティーパーティーだった。

 

 けれど、それでもミカは彼女を――セイアを友人だと思っていたのだ。

 たった三人だけのティーパーティー、それぞれが各々の派閥代表としての責任と権威ある立場で。そんな中で何の打算も、ましてや対等な立場から物を云い合える相手は貴重だった。

 だから、少しだけ困らせるつもりだったのだ。

 ほんの、悪戯をする程度の気持ちだったのだ。

 一緒に少しだけ悪い事をして、その秘密を共有して、それで仲良くなる様な――そんな些細で、子ども染みた悪戯だと思っていたのだ。

 

「死んだって聞いた時は、凄く……凄く辛かったんだよ? 変だよね、セイアちゃんと話すだけでイライラしていたのに、いざそうなったって聞くと、ちっとも嬉しくなくてさぁ……そりゃあ、セイアちゃんの性格は嫌いだったよ、それは嘘じゃない、訳分からない事ばっかり云うし、私の事を馬鹿にしてくるし、でも私にとっては大切な人だった――死んで欲しい訳じゃなかった、人殺しになるつもりもなかった……」

 

 声は、どんどん沈んでく。瞳に輝く星が形を顰め、代わりに何処までも深い色が滲み出す。伸ばされた指先が、サオリの髪を無造作に掴む。這い蹲ったまま顔を無理矢理引き上げられたサオリは、痛みに顔を顰めながら息を呑んだ。

 

「ぅ、ぐ……」

「私はさぁ、あの時、ちょっと痛い目に遭わせてって云ったよね? 誰が、いつ、どこで、ヘイローを壊せなんて云ったのかなぁ? ねぇ、サオリ!?」

 

 髪を掴んだまま、ミカは無造作に拳を振り上げ、サオリの頬を横合いから殴りつける。肉を打つ生々しい音が響き、骨が軋む音がサオリの耳に届いた。そのまま横合いへと転がったサオリは、崩れたコンテナに衝突し甲高い音を周囲に響かせる。最早、悲鳴を上げる体力さえも残っていなかった。

 諸共転がったコンテナにぐったりと寄り掛りながら、サオリは俯き血を垂れ流す。黒と青の混じった髪が光に照らされ、鈍い輝きを放っていた。

 

「ぅ……ぁ――……」

「挙句の果てに、先生に、あんな、あんな傷まで付けてさぁ……! あなた達は、私の大切なモノっ、全部、全部……ッ!」

 

 コンテナに寄り掛り、か細い息を繰り返すサオリを睨みつけながら、ミカは自身の髪を掻き毟る。何度も何度も、自身の足元を蹴り飛ばし、息を弾ませながら、彼女は叫ぶ。サオリは酷い青痣の残る顔を緩慢な動作で持ち上げ、ミカを見た。

 最早、呼吸一つでさえ苦しい程。そんな彼女の閉じかけた視界の中に、暗闇の中でぼんやりと光る、ミカの血走った瞳が映った。

 

「あなたも私から奪ったよね、沢山、沢山……! なら、サオリ、あなたも私から奪われるべきだよ……ッ!」

「っ……」

「だって――それで漸く平等なんだから……!」

 

 そう云って再びサオリへと向かってくるミカ。これ以上は拙いと、アツコが、ミサキが、ヒヨリが、声を上げようとした。アツコはミサキを抱き締めながら再び銃を取り、ミサキは未だ揺れる視界の中で愛銃に手を伸ばす。自爆覚悟の生き埋めであれば、まだ可能性はあるかもしれないと。ヒヨリはガンケースを強く抱えながら、震える指先でその留め具を弾いた。可能性は限りなく低い、けれど見殺しには出来ないと――各々がサオリの為に、仲間の為に抗う意思を見せる。

 

 けれど、それを止める者が居た。

 それは、他ならぬサオリ自身であった。

 

 ――目に映るのは、朧げな意識であっても尚体が動く程に繰り返した、(アツコ)の為のハンドサイン(手話)

 

 コンテナに寄り掛ったまま、サオリはゆっくりと、けれど確実に。

 震える指先を動かし、スクワッドの面々へと意思を伝えた。

 

『囮』

『攻撃不許可』

『撤退命令』

 

「ッ……!?」

 

 アツコが、ミサキが、ヒヨリが、息を呑む。それは、自身を囮にしての撤退指示。自身を切り捨てて、スクワッドは逃げろと彼女は告げていた。

 薄らと、サオリの口元が笑みを象る。それは影になって良く見えない、狙撃手であるヒヨリだけが、その目の良さから気付く事が出来た。

 

 続けて送られるハンドサイン、意味は『東』、『通路』、『封鎖』――皆の脳内に、カタコンベへの地図が浮かぶ。この地下を利用しトリニティ自治区へと攻め入った彼女達は、周辺のカタコンベへと通じる通路を全て把握している。確か、この周辺の通路の一つにカタコンベへと通じる道が一つあった、薄暗く、細く、だからこそ見つかり難い秘密通路の類だ。内部から隔壁を降ろすか、通路を爆破して埋めてしまえば、さしものミカであっても追ってはこれないだろう。

 サオリは暗に、その行為を示していた。

 

「っ、そんなの――……」

「ミサキ……!」

 

 ハンドサインの意味を汲み取ったミサキが、思わず声を上げる。しかしアツコは、そんな彼女の身体を抱き締め、息を潜めた。この機会を逃せば、本当に全滅するしかない。その具体的な未来が、アツコの身体をその場所に縫い付けていた。その目元から涙が零れ落ちる、それは自分自身に対する失望と、悔しさから来るものだった。

 大切な仲間を見捨てる事は出来ない、けれど同時に手を差し伸べて全滅する道も選べない。そんな優柔不断な、中途半端な道の只中で迷う事しか出来ない自分に、涙が溢れたのだ。

 決断しなければならなかった、今すぐにでも。

 見捨てるか、戦うか(全滅するか)

 

「ぅ、ぁ……あ……」

 

 ヒヨリは、留め具の外れたガンケースの蓋に手を掛けながら、その視線を泳がせる。瞳はアツコとをミサキ、そしてサオリの間を何度も往復していた。戦う事は怖かった、抗う事は恐ろしかった、けれどリーダー(サオリ)を見捨てる事は、もっと恐ろしく感じた。

 そうこうしている間にもミカはサオリの直ぐ傍に立ち、コンテナに凭れ掛かる彼女を見下ろす。そして力なく自身を見るサオリに無邪気な表情を晒しながら、何でもない事の様に告げた。

 

「でも、取り敢えず、逃げられても癪だから……」

 

 その足が、静かにサオリの左足を踏みつける。丁度膝の部分を、優しく、しかし確かな力を以て押さえつけ、嗤った。

 

「――手始めに、この足一本(左足)、折るね?」

 

 嬉々として、けれど確かな憎悪を込めて。

 ミカの足が、無造作に持ち上げられ――。

 

「っ、姉さん……!」

「サッちゃん!」

「さ、サオリさんッ!」

 

 思わず、スクワッドの面々がなりふり構わずミカに挑もうと、その身体を傾かせた瞬間。

 

「ミカァッ!」

「っ……!」

 

 彼女達の声を掻き消すような、飛び切りの怒声が部屋の中に響き渡った。びくりと、ミカの肩が大きく震える。目を大きく見開いた彼女は、足を持ち上げたまま恐る恐る振り返る。

 

 その視線の先には――荒い息を繰り返す、先生の姿があった。

 

 額に大量の汗を流し、無くなった左袖を揺らしながら。酸素不足から僅かに青の混じった顔色を晒し、先生は荒い息を繰り返す。そんな状態で彼は気丈にも、その二本の足で立っており、片側だけとなった瞳は真っ直ぐミカを射貫いていた。

 

「……先生?」

 

 思わず声が漏れる。それは驚愕と、困惑の滲んだ声だった。薄暗い通路、複雑な地形、まさか、この短時間で此処までのルートを割り出して辿り着いたのか。それはミカにとって大きな誤算であり、未だ彼と対峙する心構えも、何もかもが出来ていなかった彼女は大きく動揺し慄いた。

 

「何で、先生……どうやって」

「はぁッ、はぁっ、駄目だよ、ミカ……!」

 

 疲労を隠しきれず、覚束ない足取りで先生は一歩ずつミカへと近付く。恐らく中央区画から止まらず、全力で駆けて来たのだろう。蒼褪め、途切れ途切れの言葉を紡ぎながら先生は足を進める。

 腫れ上がり、痣だらけになった顔でサオリは、そんな先生を見上げ呟いた。

 

「っ、せ……ん、せい――」

 

 口の中が切れて、上手く言葉が出ない。ミカは持ち上げていた足を降ろし、少しずつ近付いて来る先生を見つめながら問いかける。その面持ちは、影になって良く見えない。

 

「……何で、止めるの? だってスクワッドは、先生の腕と眼を奪ったんだよ? その前にも、先生に爆弾を投げつけたのだってサオリなんでしょ? 私、知っているよ、ハナコちゃんに教えて貰ったんだから……サオリは、スクワッドは、先生にも、セイアちゃんにも、酷い事を一杯した……なのに、どうして――」

「それでも、私はそんな事は望んじゃいない……!」

 

 ミカの何処か、怨念すら籠っている様に感じた声に、先生は応える。力強く、はっきりと。じんわりと、先生に巻き付けてあった包帯に赤が滲み始めた。激しい運動に傷口が開き痛みがぶり返して来るのが分かった。

 しかし、それを顧みる事無く、先生は声を張り上げる。

 スクワッドの為に、何よりも――ミカ自身の為に。

 

「それは駄目だよ、ミカ……! ソレ(殺人)だけは、絶対に駄目だ……!」

「先生――」

 

 息も絶え絶えになりながら、必死にそう訴える先生を前に、ミカは言葉が紡げなくなる。それが、アリウスだけを想っての言葉だったのなら、ミカは悲し気に微笑みながらも足を振り下ろす事に躊躇いは無かっただろう。

 けれど、先生の瞳は真っ直ぐミカを捉えていて。それが、自身(ミカ)を想っての言葉なのだと、腹の底からそうである事を痛烈に感じたからこそ、ミカは動けなくなった。

 先生の顔が悲壮に歪み、切実な、訴えるような声が鼓膜を揺らす。

 

それ(殺人)は、ミカが辛くなるだけだ……!」

「っ……!」

 

 人を殺すという事。

 その罪悪を背負うという事。

 余りにも暗く、重いそれに潰されてしまわない様に。そんな重荷を、背負わない様に。先生は必死に叫ぶ、声を上げる。その優しさが、思い遣りが、ミカには痛い程伝わっていた。

 

 嗚呼、それでも――。

 

 先生は、彼女達の事()庇うのだ。

 

 嘗て、自分にそうしてくれたように。

 その身を削ってまで。

 そんなに、必死になりながら。

 

 自分に向けられた言葉なのは分かった、理解していた。だからこそ、その想いの中にサオリが、スクワッドが含まれている事に気付いた。それはミカの醜い独占欲の為せる業か、或いは同族嫌悪(共に庇われた者による共感)によるものか。

 先生は確かに(ミカ)を想ってくれている。

 けれど、同時にスクワッド(他の生徒)も想っている。

 

 ――その愛が、私だけに向けられたものであったら良かったのに。

 

 そう思った瞬間、自分でも分からぬ、乾いた笑いが胸の奥より込み上がって来た。

 

「は、ははっ……あははっ、あぁ、本当に、もう――」

 

 呟き、ミカは顔を覆った。

 それは自嘲に等しい、その醜く歪む自身の顔を見られたくなかったからだった。揺れる電球に照らされた周囲は薄暗く、ほんの数メートル先であっても顔を確り確かめる事は出来ないと分かっているのに。

 ミカは顔を覆いながら、小さく囁く様な声で云った。

 

「――救えないなぁ」

 

 それは、醜い自分に向けられたものだったのか。

 それとも今尚、全てを擲って生徒の為に抗い続ける先生に向けられたものだったのか。

 ミカ自身にも、分からなかった。

 

「……うん、でもまぁ、先生ならそうするよね、先生は生徒皆の味方だから」

 

 納得は出来なくとも、理解は出来る。

 先生は(ミカ)を想っている、そして同じようにスクワッドをも想っている。其処に優劣は無く、先生はどれだけの悪意を、憎悪を、敵意をぶつけられても、決してその軸は曲がらず、揺らがず、折れない。

 それをミカは良く知っていた――自分自身の身で、体験していた。

 先生はそういう人だ、そういう大人だ。だからこそ好きになったし、信頼を寄せていたのだ。

 

 でも――それでも。

 

「……ごめんね、先生」

 

 ぽろりと、無意識の内に頬を伝う涙。

 それを感じながら、ミカは口元を必死に吊り上げる。

 悪役(魔女)に涙は似合わない。

 

 そう、悪役(魔女)なら――。

 

 ミカは、涙を零しながら――歪に嗤って見せた。

 

 先生の顔が、くしゃりと歪むのが分かった。

 それ(歪な嗤み)はいつか、彼女が自分自身に云い聞かせて来た事だった。

 先生の歪んだ表情を見ると、胸が苦しくなる。先生に何度でも謝りたくなる。その衝動を呑み込みながら、ミカは言葉を続けた。

 

「……私は、彼女達(アリウス)を許さないよ」

「っ、ミカ……!」

「軽蔑されちゃうかな? それとも、がっかりされちゃうかな……あはは、先生にだけは、嫌われたくなかったなぁ」

 

 ぽろぽろと、目尻から流れる大粒の涙。その見開かれた目の奥に宿る――危険な光。サオリを殴りつけた右手に付着した血を、その頬に付着させながら、彼女は嗤う、嗤い続ける。

 その、血と涙に塗れたミカの姿に。

 瞳に宿る、極彩色の光に。

 先生は、嘗てない程に強く歯を噛み締めた。それは、痛みから来るものだった。肉体的な痛み、精神的な痛み。彼の脳裏に過る過去の記憶、赤に塗れたキヴォトスで哄笑する白の少女。手を伸ばし、必死に握り締めながらも取りこぼした――嘗ての残光。

 その時の光景が重なって、先生は軋む程に拳を握り締める。赤が滲む、先生の肉体が呼応する、古傷がジクジクと鈍く痛んだ。

 

「でも、それでもね、私は自分を止められないの……私はスクワッドを、絶対に許せない――地の果てまで追いかけて、復讐しないと気が済まないの」

 

 そう云ってミカは、先生に笑いかける。とても綺麗に、まるでお姫様の様に。その髪がふわりと靡き、微かな甘い匂いと、血の香りが先生の鼻腔を擽った。

 

「だから先生? 私を、止めないで」

「ッ……!」 

 

 ――その胸元に銀の指輪が跳ねるのを、先生は見た。

 

「いいや――」

 

 声を、張る。

 それは重々しく部屋の中に響き、先生の足が大きく一歩を踏み出した。

 胸を蝕む痛みに息を詰まらせながら。「まだだ」と、先生は心の中で呟いた。まだ、手遅れなどではない。彼女の物語は、定められてなどいない。彼女はまだ決定的な罪悪を犯した訳でもなければ、取り返しのつかない道を選んでしまった訳でもない。

 

 ――彼女(ミカ)は、魔女なんかじゃない。

 

「絶対に、止める」

「……先生」

「ミカを、人殺しに何てさせない」

 

 俯き気味であった先生の顔が、ゆっくりと持ち上がる。苦痛に歪み、疲労に色褪せ、血が滲んでも尚折れぬ意志。その片方だけとなった瞳の奥に光る綺麗な綺麗な光に、ミカは目を細める。

 先生は、生徒皆の味方である。そこに優劣は存在しないし、遍く全ての生徒の為に己は存在するのだと心の底から信じている。スクワッドを助けたいという想いは、確かに存在する。彼女達もまた自身の生徒だから、寄り添うべき子どもだから。

 けれど、今だけは。

 今、この瞬間だけは。

 

 何よりも、ただ――ミカ(彼女)を、これ以上苦しませない為に。

 

「ミカ、忘れたのなら何度だって云うよ……!」

「え……?」

 

 唐突なそれに、ミカは間の抜けた声を上げた。今度こそ、その手を掴むのだと、先生は呟く。血と汗を滲ませ、全身を駆け巡る痛みを噛み殺し。一本だけになった手を握り締めたまま、先生は何処までも真摯に告げる。 

 透き通るような光が、希望の込められた瞳が、ミカを正面から貫いた。

 

「私は、私の全てを擲ってでも、ミカに寄り添うと約束した……ッ!」

「―――!」

 

 ■

 

『ミカが私に全部を預けると云うのなら、私もミカに全部を預けるよ』

『相手の心が読めなくったって、相手から信頼されていなくったって、私は君を信じられる』

『私は何度だって云うよ、ミカ?』

 

『――私は、私の全てを擲ってでも、ミカに寄り添うから』

 

 ■

 

 青空の下、辺鄙な合宿場で交わした言葉。

 共に過ごした一時間足らずの刻、まだ先生が何も知らず、ミカもまた道を転がっている最中で――ただ見極めようとした、シャーレの先生を利用しようとした、その最中に交わされた声の応酬だった。

 共にプールサイドに腰掛け、青空の下で紡いだ約束――その一幕。

 その光景が一瞬にしてミカの胸の内を駆け巡り、息が詰まった。記憶とは美化されるものである、けれどミカは、あの時ほど美しいものを見た事は無かった。感じた事はなかった。その記憶は、その思い出だけは、どれ程時が経っても色褪せる事無くミカの胸に刻まれていた。

 無意識の内に彼女は胸元の指輪を握り締め、声を失う。その時の感情が、余りにも綺麗で、眩しくて、手のひらから溢れてしまう様な感情が、彼女の身体を硬直させていた。

 

「せ、先生――……」

 

 声が、震える。

 彼女(ミカ)はこの瞬間、漸く――漸く先生の本質に触れた。

 それは恐怖さえ伴う衝撃であった。

 先生は、彼は、ずっとミカを想ってくれていたのだ。あの日からずっと変わらず、自身がどれだけの罪悪を積み重ねても、裏切りを働いても、憎悪を振り撒いても、変わらぬ想いを、(アガペー)を、ずっと持ち続けてくれていた。ミカはその事を理解していたつもりだった。先生のその言葉を、想いを、疑っていたつもりなど微塵もない。

 

 けれど、心の何処かで、奥底で――もう見捨てられるんじゃないかって、呆れられているのではないかって、そんな疑念が、不安が、恐怖が、ほんの少しだけ生まれていたのも事実だった。

 それはミカが必死に目を逸らし、見ない様にしていた昏い心の底だった。それを直視してしまえば、目にしてしまえば、今度こそ心が壊れてしまいそうで。

 だから縋る様にこの指輪を傍に置いていた、嘗ての思い出を、その先生の想いの証を、目に見える物をなぞる事で自分の心を慰めていたのだ。

 

 けれど、先生のそれは自身(ミカ)が想っているよりもずっと深くて、強くて――そんな心配など必要ないのだと。そんな不安は抱くだけ無駄なのだと。何処までも広く、深く、強く、絶対的な安堵を齎すその決意と想いに。

 その真実を目の前に突きつけられた時、ミカは酷く動揺し、堪らなくなった。

 

 こんな自分にと卑下する心。

 その想いに腹の底から歓喜する心。

 どうしてそんなにと困惑する心。

 あらゆる感情が胸の中に渦巻き、ミカは俯く。流れ落ちた涙が足元に跳ね、小さな染みを幾つも作った。気を抜けば、しゃくり上げてしまいそうな程、ミカの心は震えていた。

 

「はっ、ハッ、せ、先生!」

「見つけた――!」

「先生! 御無事ですか!?」

 

 先生の背後から、飛び出す影が三つ。

 先生と同じように汗を滲ませながら、部屋の中へと飛び込んでくる生徒達、コハル、アズサ、ヒフミ。コハルとヒフミは息を弾ませ、アズサは愛銃を構えたまま部屋の中を素早く視線でなぞる。まず先生の無事を確認した彼女達は安堵の表情を浮かべ、それからその両脇と前を固める様に飛び出し、周囲に銃口を向けた。

 そして、ミカの足元に倒れ伏すサオリ、壁際で固まるスクワッドに気付き、彼女達は息を呑む。

 その姿は余りにも悲惨で、直視に堪えないものだったから。誰がこんな事を為したのか、それは誰の目から見ても明らかだった。

 

「っ、もうサオリ達に戦う力はない……! これ以上は――」

「み、ミカ様、もうやめましょう……!?」

「ミカ様……!」

「ぁ……」

 

 勝敗はもう決まっている。これ以上は無意味な戦いであると、彼女達は口々にそう告げる。ミカは唐突に現れた彼女達に面食らいながらも、引き攣った口元をそのままに呟く。自身の拳を見下ろせば、赤黒い血がべっとりと付着していた。

 先生の想いは、嬉しい。

 本当に、心から。

 今すぐにでも――泣き喚きたい位に。

 

「ぁ、ぁは、は……ご、ごめんね、私、いっつもこんなんだよね……先生に迷惑ばっかり掛けて、挙句の果てに――」

 

 声は、軈てか細く絞られ掻き消える。一歩、二歩、補習授業部の三名から、先生から離れる様に後退るミカは、自身の身体を掻き抱きながら俯き、震えていた。

 それは彼女の背に圧し掛かる、目に見えない罪の意識によるものであり。

 尚も掻き消す事の出来ぬ、憎悪から来るものでもあった。

 涙を流し、嗚咽を零し、先生を見る彼女は声を漏らす。

 

「でも、でもね、先生……? 私は――私には、もう……」

 

 ――こんな事でしか、この罪悪と向き合う事が出来ないのだ。

 

 ■

 

「素晴らしい――」

 

 古聖堂地下、カタコンベ出入口。暗闇の中に潜む彼――マエストロは虚空を見上げながら呟く。その声は本人が思っている以上に周囲に響き渡り、そこには隠しきれぬ感嘆と歓喜の念が込められていた。

 罅割れた双頭、描かれた目の模様が暗闇の中で小刻みに震える。軋む音を立てながら自身の身体を掻き抱いた彼は、その感情を抑える事無く言葉に表した。

 

「大人としての知性と品格、先生としての礼儀と信念、人間として培ってきた経験と知恵――そして、何より」

 

 皺になったスーツの袖口を摩りながら、彼は大きく虚空を見上げ声を張る。彼の目には継ぎ接ぎだらけの肉体と成り果てて尚、生徒と向き合うひとりの大人の姿が映っていた。

 

「自身の全てを賭して尚、決して揺らがぬその在り方……!」

 

 それは、マエストロをして尊敬の念を抱いてしまう一本線の入った生き方。その思想や信念は確かに異なるだろう、しかし困難な道を、不可能とすら称される道を、その強靭な意思と自身に許されたあらゆる手段で以て進まんとするその姿は、マエストロの芸術家としての心を、信念を、矜持を大いに昂らせた。

 ましてやその生徒(作品)が、彼をして目を見張る程の変貌を遂げているとすれば尚更だ。

 

 ゴルコンダは云った、彼が関わった物語は変質(変貌)するのだと。悲劇は喜劇に、絶望は希望に、彼の者は定められた運命を覆す。

 

 まだ未完成の生徒(作品)で――アレなのだ。

 であれば、彼の者が最期まで寄り添ったと口にする完成した芸術(生徒)とはどれ程のものなのか?

 見たい――是が非でも、この目で。

 

 それは、マエストロからすれば極自然な衝動であった。

 

「万物は衰退する、死と消滅こそ、生あるものが受け入れるべき宿命、いずれ消え去るものに意味など無い――だが、だが……! 芸術はその場に残り続ける、作り手の肉体が朽ち果てようとも、その価値を、境地を証明し続ける……!」

 

 肉体と云う檻は、何れ朽ちて消える。そして朽ちて消えるものに意味などない、マエストロはそう信じる。だからこそ朽ちぬものを、消えぬものを――彼は探し続けた。

 

生あるモノ(有限)不滅(無限)に近付くための軌跡、その畢竟こそが、そなたの育んだ生徒(芸術)そのもの、連綿と受け継がれる作り手(先生)意志(ミーム)……嗚呼、やはり、そなたならば――」

 

 マエストロの両手が、ゆっくりと持ち上がる。まるで指揮者の様に、或いはその体全てを使って歓喜を表現する様に。広げられたそれから、黒の混じった青が滲み出す。その双頭がカタカタと音を鳴らし、マエストロは嘗てない程の興奮と共に叫んだ。

 

「私の【崇高】を、理解してくれるに違いない……ッ!」

 

 振り下ろされる両手、瞬間――鳴り響く轟音。

 それは古聖堂地下、その最奥に眠っていた巨人の目覚めを知らせる喇叭。壁が、天井が、地面が次々と崩れ落ち、古聖堂地下全体が振動する。マエストロの視界に、中央区画へと出現した赤の巨人――ヒエロニムスの姿が映し出された。

 赤い聖布、頭上に輝く黄金の円環(ヘイロー)、両の手を合わせ、儀仗を打ち鳴らす彼の者は黒い闇の中で咆哮する。音は、凄まじい衝撃波となって周囲に響き渡った。

 

 唐突に出現した怪物(未完の作品)、それを前に呆然とする生徒達。当然だろう、彼女達にとっては未知の存在の筈だ。ましてや未だ名もなき小さな光(子ども)にとって、彼の巨人は不可避の死、その宣告に等しい。手の中に丸々と納まってしまいそうな体格差が、より一層彼女達の絶望を煽る。

 立ち向かおうとする者は、誰もいない。

 

 ひとり――彼女達を守る様に立ち塞がる先生(大人)を除いて。

 

「嗚呼、見せてくれ先生……! そなたの創り上げた作品(芸術)を!」

 

 マエストロの心が高鳴る。肉の体など疾うの昔に喪っているというのに、まるで心臓がこの胸に在るかのように。あの頃の情熱が蘇るかのように。血沸き肉躍る感覚が、この冷たく軋む体を揺する。 

 

 聖徒の交わりを率いる受肉せし教義――ヒエロニムス(人工の天使)

 

 アリウスに用意された戦術兵器、マダムが用意した奥の手の一つ。崇高とは異なる古の教義を利用した、崇高に限りなく近づいた意欲作。ただの生徒では相手にならない、故に求めるのは先生にとっての奥の手(切り札)

 奇跡の体現と呼ばれる、彼のベアトリーチェをも屠り掛けたという望外の神秘。

 マエストロはそれを想い、歓声を上げるのだ。

 

「――その生命(不滅)の輝きをッ!」

 


 

 此処でミカを完全に説得したり、救済したりはしませんわよ。ミカはめんどくさい生徒ですの、その面倒くさい所が良いんですのよ。エデン条約後編、ベアトリーチェ決戦に向けて、彼女が介入する余地を残しておかないと、あの名シーンが再現出来ませんものね。

 

 もう私の事嫌いになったよね? 呆れちゃったよね? と云いながらちらちらと先生を見て来るのがミカですわ。そんな事はないよと微笑み掛け、抱き締め、甘々全肯定して漸く彼女は落ち着くんですの。その癖、安堵しながらも心の底では常に自分に対する不安や、嫌われてしまう、見捨てられてしまう事に対する恐怖が燻っていて、突発的にとんでもない事をやらかす、そんでそのやらかした事に落ち込んで、自己嫌悪に陥って、今度こそ嫌われた、見捨てられたと呟きながら先生を見つめて来る、だから先生はそんな事は無いよと微笑んで、また抱き締めて……――そんな素晴らしい生徒が彼女なんですわ~! 

 

 うーん、これは明らかな地雷。

 

 しかし、死中に活と云われるように、おっかなびっくり地雷を処理するなんてナンセンス。此処は自ら飛び込み、爆発するかしないかの瀬戸際で駆け抜けるのですわ……! こういうメンヘラ、嫌いじゃないですわ!

 おら先生! ズブズブに甘やかして依存させろっ! 将来に責任取れっ! そんでもってイチャコラしている所をヒナとかワカモとかおじさんとかハナコに見せつけろッ! なんでそんな事するん?

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