いつか見た青を探して
■■■■の断片。
――シャーレ本棟、執務室前廊下。
「………」
その日、ヒナはいつも通りシャーレを訪れていた。
相変わらず重く、取り回しの悪い愛銃を担ぎながら外套に付着した僅かな雪を払い廊下を往く。時刻はそろそろ夜に差し掛かる頃、自分の廊下を叩く靴音以外に音は聞こえず、
ふと、ヒナの視界に硝子に写る自身の顔が見えた。硝子張りの廊下で足を止めた彼女は、自身の恰好を確認し前髪を軽く指先で整える。別段風に煽られた訳でも走って来た訳でもないが、ちょっとした乙女心というものだ。
窓の外にはちらちらと雪が降っていた。街道を歩く生徒達の姿を見下ろしながら小さく息を吐き出す。吐息が硝子を曇らせ、向こう側に反射した自分自身をヒナはじっと見つめる。髪は変じゃない、格好も無難だ、目に隈はない――筈だ。
ヒナは徐にもみあげを軽く手に取って、鼻先に近付ける。微かに香る香水の甘さ、匂いも多分大丈夫。いつか川辺で髪の匂いを嗅がれて以降、先生に会う時はサミュエラの香水を少量、首筋に振りかけるのが習慣だった。
そうしていつも通りの自分を念入りに整え、執務室の前に立つ。一度、二度、ノックを繰り返し――反応がない事を確認。
いつもの事だ、こういう時は大抵修羅場になっている。
そっと扉を押し開け、なるべく音を立てない様に中へと踏み込むヒナ。
「……先生」
やはりというか何と云うか、視界の中央には見慣れた先生の背中。並ぶ書類に埋もれ、ペンを片手にデスクへと突っ伏す先生が居た。緩く握られたペンは指先から零れ落ちそうになっており、傍には何度も淹れ直したのか珈琲の香りが強く残るカップがあった。髪はボサボサでシャツも皺が彼方此方に散見される、一体いつから仕事に打ち込んでいたのか。
ヒナは小さく肩を竦めて先生の傍に屈む。そうして暫く先生の寝顔をじっと見つめ、だらしなく口を開きながら寝息を立てる先生を観察。普段は大人然とした姿を見せる彼ではあるが、このシャーレで仕事に忙殺されている時と寝顔は、普段よりも感情を表に出し易く幼く見えた。「仕事やだ~っ!」と叫び駄々を捏ねる先生を窘めたのは一度や二度ではない。その事を思い出し、ふっと口元を緩めたヒナは先生の首筋に顔を近付ける。そして二度、三度、深く息を吸い込んで彼の香りを楽しんだ。
普段先生が自分を吸ってばかりなので、偶には仕返しの意も込めて、これ位ならば許されるだろう。
そして存分に先生から元気を補給したヒナは、ふんと背筋を正し彼の肩へと手を掛け、優しく揺する。
「先生……先生、起きて」
「んぉ……?」
身体を揺する振動と見知った声。
それに反応した先生はびくりと体を一度震わせ、のそりと上体を起こす。その瞳はいまだ眠たげで、微かに見開かれた瞳がヒナを捉えた。
「……あれ、ヒナ?」
「こんな所で寝ていたら風邪を引くわ、まだ雪も降っているのだし……」
目を瞬かせ、ヒナを見つめる先生は跳ねた髪をそのままに呆然と呟く。見れば周囲はいつの間にか暗くなっており、窓の外にはちらちらと雪も降っていた。どうやら自分は眠ってしまっていたらしい、それを確認した先生はその表情は苦渋に染める。言葉にするならば、「しまった」と云わんばかりに。
「明日の一周年記念パーティーの準備をしていたの?」
「あー、うん、明日は一日皆と過ごすつもりだから、その分も仕事を終わらせちゃおうと思って」
途中で寝ちゃったけれどね、そう云って頬を掻く先生は手元の書類に皺が出来ている事に気付き、「ぉうわ!?」と情けない声を上げながら必死に伸ばす。皺の刻まれたそれは連邦生徒会に提出するものだ。ヒナは左右に積まれた書類を覗き見ながら云った。
「……私も、少しなら手伝えるけれど」
シャーレに来たのは先生に会いに来ただけで、特に用事があった訳でもない。
エデン条約が結実し、実働時間が大幅に短縮された風紀委員会には以前と比べてかなりの余裕がある。それでもゲヘナ側の暴動や騒動がゼロになった訳ではないが、ETOという非常にフットワークの軽い治安維持部隊が手に入ったのは大きい。ヒナの仕事は専ら書類仕事に集約され、現場に出たのはいつ以来か。
そう考える位には時間と余裕がヒナにはあった。
「いや、大丈夫だよ、実はこの後連邦生徒会に出向く用事があってね、そろそろ出ないといけないんだ」
「――また、連邦生徒会長?」
タブレットで時間を確認し、申し訳なさそうにする先生に対してヒナは呟く。表情は、少しだけ不満げだったと思う。それを表に出せるようになったのは良い事なのか、それとも悪い事なのか。
「最近、良く呼び出しを受けている様に見えるけれど」
「あはは、色々と立て込んでいて、二人で会議する事が多くてね……」
「そう、羨ましいわね」
声は僅かに棘を孕んでいた。その言葉の意味をどのように受け取ったのか、先生は困った様に後頭部を掻き口を開いた。
「彼女も立場上、色々と忙しい子だから、なるべく力になってあげたいんだ」
「知っている、先生はそういう人だから」
困っている生徒が居れば駆け付け、相談されずとも手を差し伸べる。要らないと突っ撥ねられたらそっと身を引き、万が一の場合に備えて準備をする。そうして生徒だけではどうしようもなくなった時、問答無用で介入し我武者羅に道を切り開く。この人は、そういう人だ。
そういう人だからこそ、此処まで来れたのだろう。
今やこのキヴォトスに於いて、シャーレを知らぬ生徒は居ないと断言出来る程に。
「アビドスの問題を解決して、ミレニアムでも騒動に巻き込まれて、エデン条約を締結した後も奔走して……先生、ちゃんと休めているの?」
「大丈夫だよ、病気も怪我もない、五体満足さ、身体が頑丈な事が取り柄だしね!」
そう云って笑顔を浮かべ、自身の二の腕を叩く先生。二本の腕には所々小さな傷が見えるものの健在で、大きな怪我らしい怪我もない。不健康な生活を送っているが色々な生徒に引き摺られてサイクリングやら筋トレやらマラソンやらに付き合っているという話は耳にしている。しかし、その目元に薄らと浮かぶ隈だけは隠しきれない。私が云っているのは体力的な事ではなく、精神的な部分なのだけれど――そう口にしようとして、ヒナは言葉を呑んだ。
そんな事はもう何十、何百と口にしてきたのだから。
――シャーレ発足から一年。
ヒナがちらりとデスクに置かれたタブレットを横目に盗み見れば、先生の利用しているSNSが見えた。其処に並ぶ生徒達のメッセージ。
『ついに一周年を迎えたシャーレ! この一年間の出来事や事件を振り返る、更にクロノス・スクール独占インタビューはこちらから!』
『健康第一ですよ、くれぐれも無理だけはしないで下さいね!』
『いつもお疲れ様です、今年こそ支出は計画的にしましょうね』
『いつもサンキュな、先生』
『今年の協業も期待しているわよ、先生♪』
『今年こそミレニアムプライス一位を獲ろう! 今年もよろしくね、先生!』
『昨年にも増して、今年もまた数々の素敵な美食が先生と私達の前にあらん事を』
『先生のお陰で、最近は色々と楽しいです♡』
表示される文言はどれもこれも前向きなもの。ヒナの視線に気付いた先生はデスク上にあったタブレットを手に取り、メッセージをスクロールしながら微笑む。登録された生徒数は百人を優に超える。全てが全て、先生が紡いで来た絆そのものだった。
「早いものだね、本当に……あっという間だった」
「そうね、この一年色々な事があったから」
そう、言葉にするのも大変な程、色々な事があった。その一つ一つを思い返せば大変で、とても笑えない様な事もあったけれど――今はもう、全て思い出だ。
「冬が過ぎ、春が来る……か」
呟き、薄暗い外を見つめる。ひらひらと舞い落ちる雪は、このキヴォトスに来て初めて目にする雪だった。一年、長くも短く、瞬きの様な時間だった。大人としてこの地に足を踏み入れ、不慣れながらも必死に業務に励み、様々な生徒に支えられて此処まで来た。
ふと、デスクの脇に飾られた一枚の付箋に指先が触れる。その上に乗せられた綺麗な水色の折り鶴。
――いつもありがとう、先生。
付箋に綴られた簡素な一文を、先生は優し気に微笑みながら撫でつけた。
「先生、それは――」
「うん?」
ヒナが付箋と折り鶴に気付き、問いかける。先生は手に取ったそれを大事に掌で包みながら。
嬉しそうに、心からの笑みを浮かべて云うのだ。
「私の――とても大切なものなんだ」
声には確かな暖かさと、相手を想う色に包まれていた。
□
私は足掻き続けなければならない。
いや。
この道に至るまで、喪われたあらゆる光。
――
水の流れる音が響いていた。
蛇口から流れるそれが、排水溝に流れていくのをただじっと見つめる。濡れた手をそのままに、先生は洗面台の前で佇む。暫くそうやって俯いていた先生は自身の顎先から垂れる雫を感じ指先で拭った。
「………」
温度はまだ感じる事が出来る。夏も終わりだと云うのに残る暑さは、この水に包まれた瞬間だけ僅かに和らぐ。それを感じる事が出来るのならば――自分がまだ生きている証拠だ。
ふと、顔を上げて鏡を見た。
濡れ湿った前髪に酷い顔色の男、右目周りの皮膚がやや突っ張り、近くで見れば色が違う事に気付くだろう。遠目ならばまぁ、影の様に見えなくもない。閉じられた右目を指先で摩る、其処に在るべき
「……随分と、酷い
呟き、嘲る様な笑いが漏れた。
それでもまだ自身の経験からすれば『マシ』と判断出来る負傷というのが何とも救えない話だった。
喪われたのは眼球ひとつと腕一本、二の腕から先のない左腕を見つめる。足であったのなら多少なりとも影響があっただろうが――少なくとも、先生にとっては致命的な負傷ではない。
傷痕に関しても今更な話だ、ある意味肉体の古傷を誤魔化す事が出来ると考えれば、寧ろプラスなのかもしれない。問題は、目元の傷痕に関してだった。
こればかりは腕の欠損と同じように隠しようがない。保護膜で覆う事も考えたが、負傷は周知の事実。目元を保護膜で覆う事は大変難しく、下手に弄ると違和感が出かねない。それどころか常に片目を瞑っているのも可笑しな話だ、本当ならば眼帯の一つでも付けるべきなのだろうが……。
先生は少し考える素振りを見せ、自身の髪を乱雑にかき乱し前髪を下ろした。丁度右目全体を覆う様に整え、鏡を見る。忙しく切る暇が無かった髪は少し野暮ったく見える気もしたが、傷は薄らと見えるか否かと云った具合になる。
「……まぁ、やらないよりはマシか」
単純だが悪くはない。悪足掻きに化粧で肌色を多少なりとも良く見せ、後は軽く身なりを整える。ラックに掛けていた上着を羽織り腕章を付ければ、いつものシャーレの先生が出来上がった。
鏡の前に立つ大人――自身の姿を見つめ、呟く。
「私は、大丈夫だ」
声は響き、鼓膜を震わせる。
大丈夫、何度も口にした言葉。言葉は鎧となって己の身体を、精神を包み込む。それは自己暗示に近い、しかし紛れもなく先生自身の本心でもある。
こうした言葉は己の心を覆い隠し――少しだけ補強してくれる。
「先生、おはようござ――あれ?」
声が聞こえた、それは扉の向こう側から。足音と聞き覚えのある声は部屋の中程まで進み、先程より少しだけ大きな声が再び響く。
「先生……いらっしゃいませんか?」
「――今洗面所に居るから、少し待って」
「あっ、はい」
先生がそう口にすると、音はやや遠ざかる。先生は最後に小さく息を吐き出すと、首元のネクタイを引き締め背筋を正した。変な所はない筈だ、それを確認し洗面所を後にする。
いつも通り、何て事の無い様な微笑みを浮かべて。
「やぁ、ユウカ、おはよう」
「おはようございます、先生」
出迎えたのはユウカ、普段通りの恰好に二つに結んだ髪を弾ませた彼女は、先生を見て少しだけ驚いた顔を浮かべた。
「先生、イメチェンですか? 前髪が……」
「ふふっ、まぁね、どうだろう、変かな?」
「い、いえっ、そんな事は、その、に、似合っていますよ」
「ありがとう」
ユウカは何処か戸惑ったような、或いは照れたような様子で視線を逸らしそう口にする。つい先日まで包帯で覆われていた訳だが、いつまでもそんな恰好で居る訳にもいかない。元々右側の視界は何も見えないので、髪で覆われようが何をしようが、表面に髪が擦る感覚が残るだけだった。
「今日は態々すまないね、AVはもう屋上に?」
「はい、ヘリポートで待機していますので、直ぐに出れます」
「助かるよ、早速出ようか」
そう云って先生はデスクの上に置いていたシッテムの箱を手に取り、部屋を後にする。目指すはヘリポート、ユウカも先生の後に小走りで続いた。廊下を往くと、ふと階段の手前でユウカが停止する。そして一段目に足を掛けながら先生に手を差し出した。それを見た先生を目を瞬かせ、思わず戸惑いを見せる。
「先生、手を」
「……えっと」
「転んだら危ないじゃないですか! これは先導する生徒としての責務ですっ!」
「わ、分かった、ありがとう」
顔を真っ赤にしてそう叫ぶユウカを前に、先生は反対の言葉ひとつ漏らす事も出来ず頷く。シッテムの箱を懐に差し込むと、ユウカの小さくも柔らかな手を取った。しなやかな指先は、しかしその見た目に反し確りと先生の手を握り締める。力強いそれを感じながら先生は階段の先――ヘリポートへの道のりを見つめ呟いた。
「……ミレニアムに向かうのは、久々だな」
■
「おう、先生、久しぶりだな」
「ネル」
ヘリポートに到着すると、スカジャンに着崩したメイド服という何とも奇妙な組み合わせをした生徒が立っていた。チェーンで繋がれた二つのSMGを担ぎ、AVの起こす風に裾を靡かせる彼女――ネルは先生に視線を向け破顔する。
ヘリポートには既にミレニアム製のAVが待機しており、アイドリング状態で横合いの搭乗口を開いていた。運転席に人影は見えない、恐らくこれも自動操縦タイプなのだろう。先生はゆっくりとした足取りでネルの元へと歩いて行く。
「確かに久しぶりだね、前に依頼で会った時が最後だから――三週間は経ってないか」
「あん? そんなもんか、てっきり一ヶ月そこらは経ってるモンだと」
「感覚的には私も同じだよ」
告げ、口元を緩める。実際彼女とこうして顔を合わせるのも久方振りだ。他のC&Cのメンバーは何があっても無くてもシャーレに入り浸ったりしているが、ネルはC&Cのリーダーという立場がある。自然依頼関係で多忙を極め、彼女が単独でシャーレに赴く事は稀だった。学園関係で忙しいと云うと、そのスケジュールはヒナに近いのかもしれない。まぁ、少々比較対象が悪い気がするが。
「それにしても、まさかネルが迎えに来てくれるなんてね」
「今日のあたしは先生の護衛だ、セミナーからの依頼って事にはなってるが……そうじゃなくてもこれ位は手伝ってやるよ」
「本当はC&C全員に依頼を出そうとしたのですけれど、時期が悪くて――」
ユウカが申し訳なさそうに手元の端末を操作し、そう呟く。件の事件から彼女も、或いは学園全体に云える事ではあるが先生周りの警護に少々敏感になっている節がある。エデン条約調印式の件が尾を引いているのは明らかだ。C&C全員での警護となるとかなり仰々しい見た目となるが――。
「生憎と他の依頼とブッキングしちまってな、今回はあたしだけだ」
「ネルだけでも心強いよ」
「はっ、当たり前だろ? なんたって私は最強のエージェントだからな」
その言葉に口元を吊り上げ、鼻を鳴らすネル。コールサイン・ダブルオー、その実力に裏打ちされた自信というものだろう、実に頼もしい限りだった。
先生はふと近くで見たAVの外装が以前使用した時と異なっている事に気付いた。以前よりも少しだけゴテゴテとしたフォルムになっていると云うか――気のせいだろうか? 頸を傾げ問いかける。
「このAV、ちょっと外装変わった?」
「あっ、そうですね、エンジニア部のメンバーが時折改良……というより、改造していますから、流石にやり過ぎない様に見張らないと駄目ですけれど」
「あはは、まぁ私も空中分解は御免だからね」
ユウカの言葉に先生は苦笑を漏らす。彼女達が嬉々として弄り回す姿が目に浮かぶ様だ。しかしいつぞやの様に加速性能が高すぎて空中分解――等という結末は御免被る。尤も彼女が使用している事からその辺りの安全性は問題ないのだろう。
「先生、手を」
「ありがとう」
先にタラップを登ったユウカが手を差し出す。その指先を取りながら、先生も機内に足を踏み入れた。内装は以前使用させて貰った時と変わりなく、最後にネルが飛び乗ると勢い良く扉を閉め切る。
「私は飛行ルートの確定操作を行ってきますね」
「うん、お願い」
ユウカが操縦席の方へと移動し、先生は内部に備え付けられた展開式の椅子に腰かけベルトを手に取った。ふと、ネルが扉に手を掛けたまま自身を見つめている事に気付く。彼女の視線は、先生の揺れる左袖を凝視している。その目線は、少しだけ寂し気に見えた。
「……腕、本当になくなっちまったんだな」
「あぁ――」
呟き、先生は自身の左肩を撫でた。ゆらゆらと揺れる袖は少し煩わしく、しかし今後は慣れなくてはいけない。少なくとも、腕の代替品が仕上がるまでは。
「命が助かったんだ、安いものだよ、これくらい」
「……はっ」
吐息を零し顔を顰めるネル。その反応がどういった感情を含んでいるのか、それを考え、先生はそっと目を伏せた。
僅かに足元が揺らぎ、臓物が持ちあがる様な浮遊感。AVが上昇を開始したらしい、横合いの窓から見える景色がぐんぐん遠ざかっていく。彼女は椅子に座る事もせず、先生の横合いに立つと顔を覗き込むようにして屈みながら云った。
「つぅか、どうしたんだよ、その髪、前はそんな風じゃなかっただろう?」
「ちょっとイメージを変えたくてね、似合わない?」
「いや、似合わない訳じゃねぇけど……」
何処か不満げに唇を尖らせるネル。そんな彼女を前に先生は苦笑を零し、操縦席に立っていたユウカが何やら焦った表情で首を振っているのが見えた。
「ね、ネル先輩……!」
「あ?」
一体何だとばかりに声を上げ、ふと振動で先生の前髪が揺れる。さらりと流れた隙間から見える傷痕、塞がれた瞼。それを見たネルは目を見開き、それから気まずそうに顔を逸らした。
「わ、わりぃ……」
「いいや」
先生は自身の瞼を指先で撫でつけ、息を零す。
「本当は眼帯か何かを付けるべきなんだろうけれどね、何となく、初対面の子に怖がられてしまいそうで――」
「……そうか」
今日は手元にその手のものがなかったから、苦肉の策としてこうしているが――結局知られてしまうのならば、眼帯で目を覆ってしまった方が良いかもしれない。この傷痕も、見て気持ちの良いものでもないだろう。考え、先生は背を曲げる。
暫し、二人の間に沈黙が降りた。それから乱雑に後頭部を掻き、「柄じゃねぇけど」と呟いたネルは、先生の肩を指先でそっと押しながら云った。
「先生は、どんなになろうと先生だよ、それだけは変わらねぇ……忘れんなよ」
「あぁ」
――勿論だとも。
頷き、先生は微笑んだ。その笑みはとても透明な笑みだった。感情の上澄みだけを掬った様な薄色ではない。奥底まで澄み切った笑顔だった。
きっとネルは『そういう意味』で口にしたのではないのだろう。けれど、先生にとってその言葉は別の意味を持つ。
私は、先生だ。
心の中で反芻した言葉は、先生の精神をより一層強固にする。
そう、自分はどんな姿になろうとも先生なのだ。腕を失おうが、瞳を失おうが、足を失おうが、臓物を失おうが。
文字通り――どんな姿になったとしても。
――私は、先生なのだ。
■
「ようこそ先生、ミレニアムへ」
「お邪魔するよ、ノア」
久し振りに足を踏み入れたミレニアムは、相変わらずビル群が乱立しドローンが彼方此方を飛び回っていた。飛行型から自走型まで、あらゆる場面で生徒達や職員をサポートする様に用いられる機械群はミレニアム特有の光景である。階下に見えるモノレールを見つめながら、先生はタラップに足を掛ける。
ミレニアム第一校舎、そのヘリポートへと降り立ったAVはエンジン音を徐々に失くし、沈黙する。空域制限の設けられたこの高さまではドローンも昇っては来れない。
僅かに蒸した空気を逃がす為に襟元を撫でつけた先生は、出迎えの為に待っていたノアに目を向けた。ユウカとは異なる白い制服を身に纏った彼女は、いつも通り一見温和な笑顔を浮かべながら手帳を閉じる。
「ふふっ、先生がこうしてミレニアムに足を運んでくれるのは本当に久方振りですね、具体的に云うのならば一ヶ月と三日振りでしょうか?」
「もうそんなに経っていたのか、本当にごめん」
「いいえ、先生が多忙の身である事は知っていますから、それに――」
言葉を呑み込み、ノアの視線が一瞬先生の左腕に向けられる。それはほんの僅かな動作だった、しかし常日頃から生徒の様子を伺っている先生には分かり易い視線だった。
しかし、視線を向けながらも彼女は先生の負傷について言及しようとしない、それを先生が望んでいないと知っているからだ。ノアはあらゆる面で聡い生徒であった。行き過ぎる程に。
「……いえ、何でもありません、でも偶には顔を見せて下さいね? ユウカちゃんが寂しがってしまいますから」
「ちょ、の、ノアッ!?」
「ふふっ」
指先を唇に当て、彼女は微笑む。ユウカが頬を染め食って掛かろうとするのをするりと避け、先生の胸元へと踏み込んだ彼女は先生の耳に言葉を囁いた。
「――勿論、私もですが」
声は小さく風に紛れる。しかし、その声に秘められた色を先生は正しく受け取る事が出来た。悪戯っ子の様に口元を緩める彼女を見つめながら、先生は頷き応える。
「……次からは、もう少し小まめに足を運ぶよ」
「あら、おねだりしてしまった様ですね?」
「ほ、ほら、もう良いでしょ!? 先生、行きますよ! 時間も押しているんですからっ!」
「おっと」
ぐん、と引っ張られる感覚。先生の右腕を強く掴んだユウカがずんずんとヘリポート昇降口へと歩いて行く。力強い歩みに逆らえる筈もなく、先生はユウカに引っ張られるまま屋内へと足を進ませる。遅れてAVから飛び降りたネルは歩いて行く先生の背中を視界に収め、それから脳内に今日のスケジュールを思い描いた。
「あーっと、確か今日の行先は……」
「ふふっ、エンジニア部ですね」
ネルの声にノアが淡々と答える。
先生がミレニアムに訪れた理由――それは彼の新しい腕を創る為だった。
ただいま戻りましたわ~!
約束通り、大体一ヶ月で戻りましたわよ!
お休み中にも応援して下さった方々、ギフトを送ってくれた方々、メールをくれた方々、評価・感想・フォローして下さった方々、大変ありがとうございますわ!
宣言通り暫くは幕間でリハビリをしつつ、それが終わり次第エデン条約後編の第二章に突入いたしますの。
これがエデン条約の最終章ですわ……! 長さは恐らく後編一章と同じ程度なので期間は凡そ三ヶ月、そして文字数目安はいつも通り五十万字ですわね。ついに総文字数二百万字の領域ですわよ、鼻血出そう。
投稿頻度は一万字未満で二日に一話、一万字以上で三日に一話投稿致します。
まぁ目安なので文字数多くなっても許してくださいまし、少なくなる事は多分ないですわ。
想定外の遅延等がありましたらいつも通りTwitterで報告致しますので、「あれ、三日過ぎたのに投稿ないじゃありませんの~?」と思ったらTwitterを覗いて下さいまし。日付過ぎても小説と格闘していなければ何かしら投稿されている筈ですわ!
という訳でこれからまた三ヶ月、よろしくお願いいたしますの~!