今回大体一万二千字ですの。
「それでは、次の議題を――」
――ん?
セイアがその意識を浮上させた時、彼女の視界に飛び込んで来たのは薄暗く、陰鬱とした空間であった。天井に設置されたパネル型のライトが部屋の中を照らし、薄い赤色の壁が周囲を完全に覆っている。扉らしい扉も見つからず、完全に閉鎖された空間だった。凡そ人の生活する様な場所ではない――そこに集う、四つの影。
「異論はない、だがその前に確認しておきたい事がある」
――此処は、また明晰夢か? やれやれ、ミカが来る前に少し休むつもりだったのが、いつの間にか深く眠ってしまったのか、最近夢から目覚めるのが段々難しくなっているというのに……。
セイアは自身の薄らと透けた体を見下ろし、胸の中で溜息を吐く。彼女としてはほんの浅い眠りに留めるつもりであった。しかし、どうやら肉体は既に慣れた熟睡を選んでしまったらしい。これもまた夢に潜り過ぎた弊害か。その事に辟易としながら彼女は人影に視線を向ける。
「マエストロ、何か気になる事が?」
「………」
暗がりで良く分からなかったが、良く見ればこの空間に存在する人影はどれも異形であった。漆黒を連想させる罅割れた皮膚を持つスーツの男、首のないコートを身に纏った紳士風の影、木製の身体に軋む音を響かせる双頭の人形、白いドレスに赤い肌を持つ長身の女性。
ひと目で分かる、異様な気配、ただ目視するだけでセイアの中にある本能が警鐘を鳴らしている。ざわりと、彼女の肌が粟立ち産毛が逆立った。
――彼らは、まさか。
「ベアトリーチェに質問がある」
「……えぇ、何でしょう?」
マエストロ――双頭を持つ木製人形が声を発した。それはどこから、どのようにして響いているのかも分からない声だった。彼らの存在を直に感じ取り、セイアは確信する。
――ゲマトリアか……!?
咄嗟に口を噤み、呼吸すら最小限に留められたのは彼女が常に理性的であろうと努めていたからだ。自身の両手で口元を覆い、意味があるかどうかは分からないが距離を取って部屋の片隅に体を押し付ける。極力存在を消し、冷汗を流すセイアは自身の心臓が早鐘を打ち始めたのを自覚した。
そんな彼女の存在に気付く事無く、彼らは言葉を交わし続ける。
「要請によって、私は自身の力を貴下に貸したのは憶えているな? 戒律を守護せし者たちを複製し、そちらの計画に付き合わせた件だ」
「えぇ、感謝していますよマエストロ、お陰様で私は領地内に於いて更なる大きな力を得る事が出来ました」
「……私は貴下がそれを利用する事を許可した覚えはない、そも私の作品をそのように扱うなどと、一度も聞いていなかった」
「そうは云いますが――そもそも、あの現象はあなたの所有物ではない筈でしょう、マエストロ」
「不躾だな、私は所有権を主張しているのではない、それは――」
「まぁまぁ、お二人共落ち着いて下さい、事を荒立てる必要はないでしょう?」
「そういうこった!」
「……失礼しました、マエストロはきっと普遍的な現象を通じて独創的な解釈をする事は、自分なりの表現方法だと考えているのでしょう、彼にとって件の現象は既に作品の一つなのです」
「………」
「しかし、それはマダムの立場では特段考慮する必要がない部分かもしれません、私達は皆、この世界に対する解釈の方法が異なりますから」
「――つまり、私がマエストロの武器を勝手に奪った事が気に食わない、と?」
ゴルコンダの仲裁に、ベアトリーチェはその腕を組みながら淡々とした様子で問いかける。マエストロは小さくその身を震わせると、ベアトリーチェをその軋む指先で指し示し告げた。
「貴下が行うのは芸術ではない、そこには何の美学もなく、信念も感じられぬ、ただ兵器を生み出すだけの行為だ」
「えぇ、その通りです――それに何か問題が?」
「……何?」
「ふぅ、良いですかマエストロ、私のスタンスは以前から何一つ変わってなどいません、このように扱うのはあなたの力だけではないでしょう、私は黒服が提供した技術力も、ゴルコンダが解釈したテクストも、同じように使っているのですから、そもそも私はあなた達の芸術に興味などないのです、【ゲマトリア】の一員となる時から主張して来た話だと思いますが?」
「………」
「クックック……えぇ、その通り、それはそれで構わないと、私はそう考えています」
ベアトリーチェの言葉に沈黙を返し、不気味に佇むマエストロ。その二人を視界に収めながらも笑みを零す黒服。彼は小さく手を叩き場を窘めると、穏やかな声で云った。
「彼女はキヴォトスに於いて自身だけの領地を確保しています、要素だけを考えるのであれば私達の計画に最も必要な代物でしょう、今、仲間同士で争う必要はないかと」
「彼女の領地――アリウス自治区ですね、ふむ、確かに内乱に乗じたとは云えあそこの全ての生徒と学園を自身の支配下に置いた手腕、それは偉業と云えますね」
――アリウス自治区を、支配だと……?
部屋の片隅で息を顰めながら彼らの言葉に耳を傾けていたセイアは、その言葉に思わず目を見開き驚愕を露にする。ゲマトリアが関与している可能性は十二分に考えていた、しかしまさか、裏で全てを操っていたのは――。
「黒服のアビドスについては非常に残念でしたが……おっと失礼、皮肉を云っているつもりではありませんよ、後一押しで成功する件の計画を惜しんでの言葉ですので」
「ククッ、お気になさらず、えぇ、確かにあの計画はあと一歩の所でしたが――シャーレの先生が介入した以上、成就した可能性は限りなく低いものだったでしょう」
――っ、先生……!?
ゲマトリアの口から、先生の名が出される。彼らはその単語にそれぞれの反応を示した。黒服はどこか感傷に浸る様に、マエストロは全身に歓喜を滲ませ、ゴルコンダは深く思案し額縁を撫でつける。
そして、ベアトリーチェは――。
「先生――私達の敵対者」
その無数の瞳に殺意を孕ませ、手にした扇子を力の限り握り締めた。ミシリと、その手の中から軋んだ音が鳴り響く。彼女の呟きは部屋の中でも良く響いた、その声に一番早く反応したのは黒服だ。彼は静かにベアトリーチェへと視線を向けると、その首を緩く振ってみせた。
「ふむ、ベアトリーチェ、その件については私達と貴女で聊か意見の相違がありますね」
「………」
「既に察しているとは思いますが、私は、あの者と敵対するつもりはありません、寧ろ私達の仲間に引き入れるべきだと考えています」
黒服は努めて冷静に、先生の有用性と希少性を説く。そして彼を敵に回した場合の不利益と危険性を考え、ゲマトリアに迎え入れるべきであると論じて見せた。無論、それが全てではない、彼はまだ本心を語ってはいないが――それでも納得できるだけの材料は揃っていた。損得勘定だけで考えても、シャーレの先生は内に抱え込むべきだと、先生の為して来た実績が語っている。
黒服の言葉に隣り合うマエストロは深く何度も頷き、その身体を震わせ、両手を広げながら賛同を口にする。
「私としても黒服の意見に賛成だ、彼の事は大変気に入っている、あの者は私達の真なる理解者になってくれるかもしれない存在だ、同胞として共に並び立つ事があれば、これほど喜ばしい事はない」
「ふむ……私はまだ判断を保留していますが、興味深いのは確かですね」
ゴルコンダは二人の言葉に一定の理解を示し、額縁――デカルコマニーの輪郭をなぞりながら頷きを返した。
「もし、彼がベアトリーチェの様に私達の一員になってくれるのならば、確かにそれは喜ばしい事で――」
「いいえ」
そんなゴルコンダの言葉は、鋭く差し込まれたベアトリーチェの声に掻き消された。三人の視線が彼女に集中し、それを前にベアトリーチェは強かに扇子を開く。そして口元をそれで覆い隠すと、低く、響く声で以て告げた。
「――彼の者は排除すべきです、確実に」
その言葉には、音以上の何かを感じさせるには十分な響きを伴っていた。ひりつく様な熱が部屋に伝搬し、ベアトリーチェは吐き捨てる様に顔を逸らし続ける。
「仲間に引き入れるですって? 愚かで怠惰な思考ですね、良いでしょう、えぇ、この際ですから一つずつ順を追って説明しようではありませんか、まずは、そう――聖園ミカ、彼女についてです」
――ミカ?
ベアトリーチェの口から漏れた、自身の友人の名にセイアは自身の呼吸が乱れた事を自覚する。口を塞ぐ指先に力を込めながら、彼女は只じっと彼女の言葉に耳を傾けた。
「聖園ミカがアリウス自治区を訪れて以降、彼女には多くの事を手伝って頂きました、そう、云わば聖園ミカは私にインスピレーションを与えてくれる、ミューズとでも云いましょうか、未来の私が何故そのような行動を取れたのか……そこで私は漸く理解したのです、エデン条約を利用して太古の威厳を確保するというアイディアも、予知夢の大天使を真っ先に処分すべきだと云う判断も、彼女のお陰で実現できたのですから」
「成程、彼女が――」
「えぇ、預言者等という厄介な存在は内に抱え込むか、そうでなければ排除するに限りますからね、珍しい技術を提供してくれたデカルコマニー……いえ、ゴルコンダには感謝しますよ」
「私はテクストを提供しただけです、形にしたのはマダムですよ」
「そういうこった!」
「寧ろ、その技術がマダムの足を引っ張ってはいませんでしたか?」
「えぇ、一時危うい場面があったのは事実ですが――生贄の身体に予め植えておいた防御システムのお陰で助かりました、その点に関しては感謝しますよ、黒服」
「……ククッ、無名の司祭達の技術が役立った様で、私としても安心しました」
黒服の言葉にベアトリーチェは肩を竦める。そして開いていた扇子を勢い良く閉じると、畳んだそれを掌に落としながら彼女は告げた。
「そして、聖園ミカが最後にくれたインスピレーション――それが、シャーレの先生を屠る方法だった」
シャーレの先生を屠る方法。
彼女が必殺の意志を持ち、些細な積み重ねから成就した一撃。それは調印式での一幕を指しているのだろう、マエストロ、ゴルコンダ、黒服、彼らにすら内密に用意していた無名の司祭、その遺産――黒服が回収し分析、再開発した量産品ではない、文字通り彼らが運用していたオーパーツ、オリジナルそのものを用いた一度限りの計画であった。
ベアトリーチェは二度、三度、扇子で掌を叩きながら頷く。
「彼の者は生徒を第一に動く、故に生徒諸共であれば屠れると、そう踏んでの行動でした」
「だが、あの者はまだ生きている」
「えぇ、憎たらしい事に」
マエストロの言葉に舌打ちを零し、彼女は憎々し気にその口元を歪ませる。彼女にとってあの一撃は最大にして最高の好機であった。先生の特性を知り尽くし、その信念を理解し、それを逆手に取ったベアトリーチェの執念の一撃は確かに彼の聖人へと傷を刻んだのだ。そして、その傷は遂に命に届き得る筈だった――否、実際に届いた筈だった。
だが、彼の者は今尚生き長らえている。
「私がアリウス自治区をターゲットにしたのは、純粋にそこが秘匿された場所であるからで、それ以上の意味はありません、トリニティ、ゲヘナ、それらに向けられた怒りや憎悪など……私にとっては至極どうでも良い、憎悪は子ども達を統制する為の手段に過ぎず、エデン条約は守護者の力を得るための方法に過ぎず、生徒は使い捨ての道具でしかない――本来の私であれば、先生の事など歯牙にもかけなかったでしょう、しかし」
「アビドスでの一件ですね」
「えぇ、その通りです、
――故に私の計画を果たす為には、必ず先生を消さなければならない。
そうでなければ、ベアトリーチェの大願成就は叶わず、それが為される前にその在り方が捻じれ歪み、変質する事だろう。その確信が彼女には存在した、それはどう在っても変えようのない真実だった。
少なくとも、彼女にとっては。
「正に
ゴルコンダの呟く様な一言に、ベアトリーチェは泰然とした様子で問いかける。
「私の決定が気に入りませんか?」
「――いえ、元よりベアトリーチェの先生に対するスタンスは理解していました」
答えたのは黒服だった。彼は静かに頷きながらも、その口元は薄ら笑いを湛えている。何処か不気味な気配を纏う黒服に、ベアトリーチェはその瞳を細めた。ベアトリーチェは黒服が先生を高く評価している事を知っている、或いは彼の者をゲマトリアに招く事が叶うのならば、どれ程の代償すら惜しくは無いと考えている事も。
先程口にした先生の価値など、所詮表面的なものでしかない。そう、ある意味この瞬間互いの腹の底を理解しているのは黒服とベアトリーチェ、この二人のみであった。
「だからこそ私は妨害も、説得も行わなかった、元より私達は各々の目的を追求する存在、以前も口にしましたが――私達は互いに互いの道を云々する権利を持っていません、どうぞ思うがままになさって下さいベアトリーチェ、私達はそれを見守らせて頂きます」
「……ふん」
これ以上手助けする事は無い、しかし邪魔する事もない。それがゲマトリアとしての最終的な決定――それに不満を覚えているのか、マエストロは分かり易く機嫌を損ね視線を逸らす。ゴルコンダはそんな彼の様子に緩く肩を竦めながらも、続けて彼女に問い掛けた。
「しかし、あなたの計画がどういうものなのか、私達に具体的に教えてくれた事はありませんでしたね……マダム、結局の所、あなたはアリウス自治区で何をしているのですか?」
「祭壇を用意しています」
「祭壇だと?」
「えぇ、黒服がアビドスでしようとしていた事と本質的には変わりません、ただ私は契約を交わすつもりはありませんが」
「ほう、契約の代わりに儀式ですか」
その返答に、ゴルコンダは興味深いとばかりにその身を揺らす。世界の見方、その解釈の仕方はそれぞれ異なる。それはアプローチの違いとも云い換える事が出来た。文学的な解釈を好む彼は手にしたステッキで床を軽く小突きながら、二つの異なる点に関して思考する。
「本来その二つが含むテクストは変わらないと考える事も出来ますが……その実行に、先生の存在が邪魔になると」
「えぇ、そうです、あの者は
「……ふむ、儀式という響きから凡その予想を立てる事も出来ますが、それを阻止する為に彼の先生が踏み込んで来ると、そうお考えですか」
「当然です、先生にとって子どもとは心身を削って尚守るべき存在ですから――しかし、既に手は打ってあります」
儀式に先駆け、最も警戒すべきは件の先生――それ以外にあり得ない。このキヴォトスに存在する
「先の騒動であの者は瞳と腕を喪った、残念ながらその存在を奪うまでには至りませんでしたが……しかし二の矢がまだあります」
「ほう」
ベアトリーチェは勢い良く扇子を広げると、力強く断言した。
「先生は――近くスクワッドの襲撃を受けるでしょう」
「……成程、スクワッドですか」
アリウスを離反し、その消息を絶ったアリウス・スクワッド。つい先日その追撃を命じた部隊からスクワッドの足取りを掴んだと報告を受け、報告に上がった地区へと追加の戦力を投入、遂にロイヤルブラッドの確保に成功し儀式の手筈は整った。
そして離反したスクワッドの処分を云い渡し、全ては恙なく達成された筈だったが――。
「えぇ、廃棄しようとしていた消耗品ですが、賢しくも追撃部隊の処理を免れました、あれでもアリウスの中では高い戦闘力を持っていましたからね、ならば最期に一仕事――先生を殺せばアリウスに帰還する機会を与えると伝えました、彼女達にとっては断る事の出来ない提案でしょう、何せ、彼女達の様な存在を受け入れる場所は私の支配下にあるアリウスを於いて他にない」
一度
その言葉に、部屋の隅で全てを聞いていたセイアの身体がぶるりと震えた。彼女の悪意が、害意が、明確な形を持って自身を包み込む様な感覚があった。何より彼女の口にした言葉、スクワッドが先生を狙っているという事実、それがセイアを心胆寒からしめ堪え切れない動揺を生み出した。
――いけない、このままでは、先生が……!
動揺は揺らぎを生み、彼女の気配を僅かに、ほんの僅かに主張してしまう。夢を介して空間を漂うセイアは目に見える存在ではない。本来であれば知覚出来る要素は皆無、しかし此処に居る面々はキヴォトスの外部から到来した異形共である、その精神の在り方や肉体的な構成は彼女達と異なり、特に自身の領域に対して敏感なバランスを持つベアトリーチェはその僅かな揺らぎを逃さなかった。
ぴくりと、彼女の方が小さく震え幾つもの瞳が一斉にセイアを捉える。見えない筈の自身を捉えたベアトリーチェを前に、セイアは引き攣った吐息を漏らし、慌てて口元を強く塞いだ。
「――どうやら、
「……!」
「鼠……もしや、彼の銀狼に察知を?」
ベアトリーチェの言葉に三人は驚愕を示し、マエストロが疑問の声を上げる。この空間を察知し、侵入出来る者が居るとすれば彼女以外にないと云う考えからのものだった。しかし、隣り合ったゴルコンダは緩く体を振って否定する。
「いいえ、本来この空間を彼女は認識する事すら出来ない筈です、そうでなければ即座に乗り込んでベアトリーチェに銃口を向けているでしょう」
「そういうこった!」
件の銀狼がベアトリーチェに対して憎悪に等しい強い害意を抱いている事はゲマトリア皆の知る所である。もし彼女がこの場を知覚しているのであれば、即座に乗り込みベアトリーチェに鉛玉を撃ち込んでいる筈である。それが起きていない以上、彼女が此処に気付いたという事は考え難い。
「いいえ、この感覚は、このキヴォトスに生きる生徒の――」
呟き、ベアトリーチェの瞳が蠢く。セイアの潜む空間、部屋の隅を凝視しながら彼女は苛立ちを隠さない。それは感じ取れる気配が朧気で、輪郭が実にあやふやであったからだ。まるで霞のように捉えどころがなく、感じ取れるのはほんの僅かな違和感でしかない。寧ろこれを勘違いだと断じず、『何かが存在する』と確信出来るベアトリーチェの感覚の鋭さが異常であると云えた。
「此処に
「少々、話に熱を上げ過ぎた様です」
訝しむ様に告げるゴルコンダに、ベアトリーチェは話を打ち切る意思を見せる。そして鋭く扇子を振って折り畳むと、その髪を翻しながら自身の領域と空間を繋いだ。
「私は自身の領域に戻ります」
■
「ぅ、ぁッ――はっ!?」
意識が戻るのは一瞬だった、まるで長いトンネルを抜けたかのような解放感、同時に両肩を抑え込む様にして迫る疲労、凄まじい勢いで早鐘を鳴らす心臓を抑えながら、病床よりセイアは飛び起きる。制服には汗が滲み、その顔色は青を通り越して白くすらあった。
弾む吐息、熱い肺を酷使しながら必死に呼吸を整え、セイアは乱れた髪をそのままに俯く。脳裏に過るのは先程の光景、ゲマトリアの交わした会話の一幕。それを反芻しながら思考を回す。
「う、ぐ、ゲホッ、こほっ……!」
堪えられず、咳が漏れた。妙に水気の籠った、嫌な咳だった。口の中に鉄の味が混じる、慣れたそれに顔を顰めながら、しかしセイアの思考は止まらない。
アリウス自治区は、既にゲマトリアによって支配されていた――それはセイアの知らぬ事実だった。そして、それが本当であるのならば。
「はっ、はぁッ、はっ……!」
指先が小刻みに震え、意識が朦朧とし始めた。意図しない明晰夢によって、肉体の限界を超えてしまっていたらしい。そのぶり返しが、セイアを襲っていた。或いは、それだけではないかもしれない。あの空間はこのキヴォトスに生きる生徒にとって、劇毒の様な気配を放っていた。あそこに長時間留まっていれば、先に
――けれど、漸く掴んだ。
アリウスの生徒達の教育も、自治区の位置を今まで見つけられなかったのも、あの正体不明の技術も、ヘイローを破壊する爆弾も、全て、全て――!
あの、ゲマトリアが背後に潜んでいたのだ。
「伝え、なく、ては……!」
呟き、セイアはベッドを抜け出そうと動き出す。その動作は遅々としており、最早歩くだけの体力すら残っていない。しかしスクワッドが、アリウスの尖兵が先生を追っているのであれば。
「先生が、危険……だっ……!」
彼女達は既に一度、先生を窮地に追いやっている。その牙は、先生に届き得る可能性があった。否、もし誰かが先生の命を奪う事があるとすれば、それは――生徒の手によって為されるだろうという予感が、セイアにはあった。
「ぅッ、ごほ――ッ」
しかし、伝えようと動き出したセイアを阻む肉体の危機反応。口に滲む、血の味、それを噛み締めセイアはどうしようもない、弱々しい己の肉体を見下ろし顔を歪ませる。それは沸き立つ遣る瀬無さを誤魔化す為の苛立ちに他ならなかった。
――【そう、云わば聖園ミカは私にインスピレーションを与えてくれる、ミューズとでも云いましょうか】
無意識の内に、彼女の思考はベアトリーチェと呼ばれた女性が発した言葉を思い出す。
その全ての始点があるとすれば、それは。
「お、お邪魔するよ?」
「っ――!」
控えめなノックと共に、そんな声がセイアの耳に届いた。ゆっくりと開かれる部屋の扉、その向こう側から顔を覗かせる見知った顔――自分自身の友人。
――聖園ミカ。
「えっと、その……こんにちは、セイアちゃん」
「………」
後ろ手に扉を閉め、引き攣った笑みを必死に浮かべる彼女。セイアは病床から上体を起こしたまま彼女を凝視した。
彼女の姿を見たのはいつ振りか、それ程時間が経過していない事は確かだ――けれどセイアにとっては、夢の中で起きた事、現実で起きた事が綯交ぜになり、以前彼女とどんな言葉を交わしたのか、どの言葉を発して、どの言葉を発していなかったのかさえあやふやだった。
ミカは額に滲む冷汗を必死に隠し、意図して明るく振る舞う。その態度は誰の目から見ても空元気に過ぎなかったが、それでも彼女なりに必死に取り繕うとしている事だけは理解出来た。ミカは扉の前から一歩も動かず、セイアと距離を取ったまま身振り手振りを交え、大袈裟に語って見せる。
その浮かべる笑みは、痛々しさすら感じられる程だった。
「あの、連絡貰ったから急いで来たよ! 二人っきりで私と話したいって……セイアちゃんらしくなくて、ちょっと吃驚したけれど! あ、いつも監視している正義実現委員会の子にも扉の外で待って貰っているから、だから……」
「ミカ――……」
ゆっくりと手を伸ばすセイア。その、何処か鬼気迫る様な気配、そして口調にミカは面食らう。よく見ればセイアの表情が酷く歪んでいて、その顔色も酷いものだと分かった。流石に様子がおかしいと、そう気付いたミカは一歩一歩、恐る恐ると云った風に近付きながら問いかける。
「せ、セイアちゃん? 何か顔色、酷いよ……大丈夫? 体も震えて、誰か呼んだ方が――」
「アリウスに……」
近付き、手を伸ばすミカを――セイアは掴む。その肩口、衣服を掴んだセイアは凭れ掛かる様にしてミカを見上げていた。自身を引っ張る彼女の力にどこか驚きながらも、ミカは息を呑む。
近くで見たセイアは、死人の様な顔色をしていた。
「アリウスに接触した時、スクワッド以外で他の誰かに会った事は?」
「えっ」
「アリウス自治区には、本当に一度も行った事がないのかい?」
「あ、ぅ、えっと、セイアちゃん……?」
「ドレスを着た背の高い女性を見た事は? スクワッドについて、他に知っている情報は……!?」
「セイアちゃん、一体何を――」
唇を震わせ、ミカを強く掴みながら必死にそう問いかけるセイアを前に、ミカは完全に呑まれていた。その口調は問いかけるものであったが、力強く、彼女らしくない敵意を孕んでいる、それは尋問に近い。
「ぅ、ゴホッ、ゲホッ!」
「せ、セイアちゃん……!」
不意に、彼女が咳き込む。口元を抑えた掌から、赤い飛沫が漏れた。付着した赤、鼻腔を擽る微かな鉄の匂い。それを前にしてミカは動揺を隠せず、思わず視線を彷徨わせる。そして、そんな状況にありながらもセイアはミカの肩を離さず、血の混じった酷い声で呟いた。
「君が」
「――ぇ」
ぐっと、引き寄せられる体。セイアに引っ張られ、近くなった互いの距離。再び自身を見上げるセイア、その口元から垂れる赤、そして自身を捉える瞳――そこに込められた敵意に、ミカは思わず声を失った。
「君が、アリウスに接触した事によって……」
「あ……」
その敵意に、自身を見つめる瞳に、ミカは自身の感情が急激に落ち込んでいくのが分かった。先程まで自分は、セイアと話し合い、謝罪出来ればと思っていた。先生が云っていた様に彼女は既に自分を許していて、また以前のように他愛もない話をして、ティータイムなんかをして、また元通りの関係に戻れるんじゃないかって。
そんな夢みたいな、未来を思い描いて。
けれどそれは所詮夢だった、セイアは自分を許してなど居ない、寧ろ憎悪している。その感情が痛い程に伝わって来た。ミカは視線を揺らし、口元を歪ませながら力なく俯く。
「そ、そうだよね、私のせいで、その、沢山、傷付いて……」
「先生、が――」
セイアは声を絞り出す。項垂れる様にミカへと寄り掛る彼女は、低く、唸る様な声で以て告げた。
「スクワッドに、狙われている――!」
「―――」
空気が、凍るのが分かった。
それは予想だにしない言葉であった。ミカの目が見開かれ、セイアを凝視する。それは彼女をして、決して聞き逃す事の出来ない言葉だったから。セイアの手を取り、ミカは再度問いかける。その唇は、隠しきれない程に震えていた。
「セイアちゃん、今、何て?」
「先生の、命が危ないんだ……っ!」
声が部屋の中に響いた。セイアらしからぬ激昂、震え、力強く自身を掴む手からその感情は痛い程に伝わって来る。口元から垂れる赤が、ミカの胸元を汚す。しかし、それを気にする余裕も無く、純白に命の赤を刻みながらセイアは叫んだ。
「君が、君がっ――先生を
「ッ!?」
その一言は、決定的であった。ミカの目が大きく揺らぎ、その肩が震える。
そして伝わって来たそれに、ハッとセイアは自身の失態に気付いた。予想だにしなかった情報の濁流、そして精神的疲労、肉体的な痛みにより我を失っていた。するりと、ミカの肩から手を離したセイアはベッドに手を突きながら、首を緩く振る。唇を噛み締め俯くその姿からは、強い後悔が滲み出ていた。
「っ、いや、ち、がう……私は、こんな事を、云いたいんじゃ……」
そうだ、何を口走っているのか己は――。
自省し、セイアは胸中で呟く。
ミカを呼んだのは、謝罪をする為だ。許されていないと思い込んでいる彼女に、そんな事はないのだと、既に自分はミカを許しているのだと、そう伝える為に呼び出したのだ。
だと云うのに今、自分はそれと反対の事を為している。
――違う、違うんだミカ、私は君に、『ごめんね』と……そう一言、伝えたくて。
「ぐッ――!? ごほッ、ごほっ!」
「せ、セイアちゃん……!」
そう思い、口を開こうとするも――言葉の代わりに吐き出されたのは、鉄臭い赤色だった。視界の隅が黒く染まり出し、手足から力が抜け始める。感じ慣れた危険信号、肉体が機能を停止する兆候。身体が云う事を聞かない、精神では抗う事の出来ない絶対的な力がセイアを襲う。
また、意識が――。
セイアの視界が徐々に塗りつぶされて行く。意識が落ちる。暗がりの中で、ミカが必死に自分に向けて叫んでいる姿が見えた。その表情にセイアは罪悪感を抱きながら、しかし睡魔に抗う事も出来ず瞼を閉じる。
また夢の中に戻って――いいや、違う。
セイアは自身を襲う微睡の中に、常と異なる感覚を覚えた。夢の中に混じるのではない、何か、抗えない強大な何かに引っ張られるようにして意識が沈んで行く。深く、深く、常よりも更に深く。
そう、これは。
目に見えぬ
引き摺り、込まれて――。
次回
再び夢の中へと引き摺り込まれたセイアは、その中とある存在に知覚され世界の破滅、その真実を目にする。『未来』、『過去』、『異なる可能性』を知ったセイアはこれから先生の身に何が起こるのか、どんな結末を迎えるのか、その切片を知り、その凄惨さに打ちひしがれる。彼女は夢の中で必死に足掻き、先生へとこれから起こる破滅を伝えようと叫ぶ。
しかしその声が届く事は無く、先生はたったひとり、差出人不明のメールを頼りに外郭地区へと赴き、そこで一人の生徒と対峙するのであった。