今更ですが独自解釈に御注意くださいまし。
今回約一万七千字です、書いていて最高に楽しかったですの!
暗転した視界、消失した意識、それらが再び覚醒した時――彼女の目にしたのは、崩れ朽ちた聖堂であった。
呆然とした様子を隠さず、セイアは恐る恐る頭上を仰ぐ。
「――此処、は?」
罅割れ、砕けたステンドグラス。崩れた天井や柱は瓦礫として周囲に散乱し、覗く向こう側には星空が広がっている。煌めく星々は薄暗い闇の中でも自己を主張し、聖堂の内部を微かに照らしていた。
しかし、目に見えるそれは果たして本当に星空なのだろうか? それを見上げながらセイアは思った。或いは此処だけが別世界で、空間そのものが区切られている様な――そんな寒々しさも同時に感じ取れる。
暫くそうして周辺を眺めていると、ふとそのステンドグラスに描かれた模様、そして聖堂そのものの造りに意識が向いた。彼女の知識の中に、これと酷似した造りの聖堂があったのだ。
そして、この様式を用いる分派は――。
「この建築様式、まさかアリウス自治区の……」
「――えぇ、此処はアリウスの【バシリカ】と呼ばれる場所です」
「ッ!?」
声は、直ぐ後ろから響いていた。咄嗟に振り向こうとして、しかしそれよりも早く衝撃が体を突き抜ける。首元に強烈な圧迫感、そして足が地面より浮き上がり、視界一杯に赤と白が踊っていた。
「ぐ、ぅ……!?」
「覗き見をしている鼠がいると思ったら、やはりあなたでしたか――よもや、この至聖所まで辿り着くとは」
セイアの首元を握り締め、宙吊りにしているのは――アリウスの主、ベアトリーチェその人。
彼女は正面からセイアを見つめながら、その口元を歪に歪め愉し気な笑みを浮かべていた。
「しかし、この場は私の領域内、異物を見つけるのは容易い、夢の中だと思って油断していたのですか? 予言の大天使――いえ、百合園セイア」
「こ、此処がっ、祭、壇……!」
「えぇ、普段ならば決して踏み込む事が許されぬ場所、光栄に思いなさい」
「ッ!」
■
「――せ、セイアちゃん! しっかりしてっ!」
「ぅ、ぐ、ぁ……!」
病室の中に、ミカの悲痛な声が響き渡る。目前にで苦しみ、喘ぐ様に呼吸を繰り返すセイア。喀血し、胸元を抑えながら崩れ落ち意識を失った彼女を抱えながらミカは扉に向けて思わず叫んだ。
「だ、誰か!? 誰か、来てッ!」
「何事ですか――!?」
ミカの声に反応し、扉の前で待機していた行政官、そして正義実現委員会の委員が中へと踏み込む。そしてミカの腕の中で血を吐き出し、痙攣するセイアを目撃し思わず息を呑んだ。
「救護騎士団を呼んで来てッ! セイアちゃんの……セイアちゃんの様子がおかしいの!」
「わ、分かりました! 直ぐに!」
「救急処置を……! 確か、この辺りに常備されて――!」
蒼褪め、懇願するミカの言葉に頷き駆け出す行政官。正義実現の委員は病室の棚に飛びつくと、救急処置用に備え付けられていたキットを引っ張り出す。
途端に、病室の中は喧騒が飛び交う混乱の坩堝と化す。そんな中で、セイアはただ小さく呻き、ミカの腕の中で苦しみ続けていた。
■
「ぅ……!」
「ふむ、やはりですか、この揺らぐ様な気配、この場で始末しても意味がない、その命には届かない様子、何とも不便な――」
セイアの喉を握り締め、小さく言葉を零すベアトリーチェ。彼女の手には確かにセイアを掴む感覚がある、しかしこの行為が直接的に彼女を殺害するには至らない事を理解していた。苦しめる行為に意味がない訳では決してない、寧ろ彼女を肉体から切り離す為には必要な行為だ。長時間の隔離さえ叶えば、百合園セイアの肉体は自然と死を迎える事だろう。ならば白昼夢に捕え続ける事もまた、彼女には似合いの末路となる。
そんな意図も知らずに、セイアは伸ばされた腕より逃れようと必死に身を捩る。
しかし、存在としての質、肉体的な強度が異なる。セイアとてキヴォトスの生徒に違いはないが、元より身体が弱く運動機能は通常のそれを大きく下回っていた。一般生徒であれば難なく逃れる様な危機でさえ、彼女にとっては命懸けの行為となる。
何より、今の彼女は意志のみで形作られた存在。夢の中で自身に触れられる存在など、セイアは今まで一度も出会った事がなかった。故に意識に空白があった、夢の中で攻撃されるという心構えが無かったのだ。
「っ、くぅ――……!」
絞られた喉元に、視界が揺らぎ始める。これが肉体的な苦痛によるものなのか、或いはベアトリーチェの権能によるものなのか、それすらも定かではない。顔を歪ませ、必死に足を泳がせるセイアは――ふと視界の端に鮮やかな色彩を捉えた。
――それは一枚のステンドグラス。
彼女が至聖所と呼ぶこの場所、その祭壇奥に描かれた白い何か。それは樹の様であり、華の様であり、同時に太陽のようにも見える奇妙なデザイン。だが全体像としては、白と赤の混じった巨大な怪物であるように思えた――視界に収めるだけでも、不吉な気配が漂ってくる。
そして、そのステンドグラスの前に磔にされた人影がひとつ。
彼女は――確か。
「スク、ワッド、の――……!」
そう、確かスクワッドの一員であった生徒だ。全身に傷跡を付け、顔をマスクで覆われた彼女は赤い茨の様な植物に巻き付かれ、奇妙なオブジェの一部と化している。
先程の会議にてベアトリーチェの口にした言葉が真実ならば――彼女は贄だ。
この祭壇に捧げられる生贄が彼女、ロイヤルブラッドであり、その結果生まれるものは――。
思考を走らせるセイアの視界に、一瞬、影が過る。
「ッ……!」
――光が見えた。
それはセイアの第六感が知らせた、最初にして最後の警鐘。
しかし、目を逸らす事は出来ない。その選択肢が、彼女には与えられていない。ステンドグラス越しに、何か奇妙で、不安で、昏くて、寒々しく、恐ろしい、何かが迫る。
「な、にか、近……づ――ッ!?」
「っ! ――これは」
自身の腕の中で唐突に体を震わせ、瞳孔を開きながら譫言の様に声を零すセイア。それを見たベアトリーチェが驚愕を貼り付け、思わずその手を離す。
瞬間、セイアは崩れ落ちる様にしてその場に落下し、人形の様に脱力したまま小刻みに痙攣し出した。開き切ったセイアの輝く瞳に――その色に、ベアトリーチェは見覚えがある。
「まさか、■彩が見■■■? 此■で、接■を■■――………」
セイアの聴覚が狂い出す、何もかもがあやふやになり、その輪郭を捉える事すら出来なくなる。ベアトリーチェが何を云っているのか、まるで聞き取る事が出来ない。
見えない何かに引き摺り込まれるように――否、実際に引き摺り込む様にしてセイアの意識は更に深層へと潜っていく。
この時、漸くセイアは気付いた。自身をこの空間に引き摺り込んだのはベアトリーチェではない。
セイアを、自身を招き、引き込んだのは。
この昏く輝く、恐ろしい、光が――……。
□
――……っ!
視界がぼやける。
意識が虚無の海を揺蕩い、自身の輪郭が曖昧となる。再びその瞳が外界を捉えた時、セイアは巨大な渦の中に存在した。常とは異なる世界の中、明晰夢と呼ぶには余りも不明瞭で、巨大。
渦とそれを表現したのは、まるで世界が安定している様には見えなかったからだ。目に見える景色はどれもこれも移り変わりが激しく、まるで情報の波が押し寄せているかのように見える。
一瞬毎に切り替わる光景は、彼女をして処理し切れぬ程に膨大にして刹那的。セイアは大きく息を荒らげながら、周囲を見渡す。
――此処は、また意識が飛んだのか?
胸内で呟き、自身の意識が何処に在るのかを探る。しかし、このような場所に来た事など彼女は一度としてなかった。未来や過去を目にする時、それは一つ一つの世界として完結していた。
しかし、此処は違う、まるで複数の世界が絡み合い、混ざり合い、数多の未来・過去が同時に存在し、それを全て見せつけられている様な。
――これは、記憶か? それとも……いや、違う、この光景は。
ふと、そんな彼女の視界に新たな景色が映る――それは一度も目にした事の無い光景。
百合園セイアの、知らない世界。
それを知覚した瞬間、彼女の意識は急激にその光景の中へと引き込まれた。
気付いた時、彼女は知覚した世界の中へと引き摺り込まれ、その場面の只中に佇む事になる。焦燥と共に周囲を見渡せば、切り抜かれた映像の中から、まるで世界の中に入り込んだかのように――周囲全ての景色が、一変していた。
「先生の為にッ! 先生だけの為にッ! 今度こそ、先生を【幸せにする】って決めたんだッ!」
声がした。
血を吐く様な叫び、或いは歓喜を滲ませる生誕の声。
薄暗い視界の中で踊る白、その後ろ姿に――セイアは見覚えがあった。
踊る白の後ろで見慣れたタブレットを掻き抱き、呆然とした表情を浮かべるその大人は――先生だ。それは見間違いではない、薄汚れ、血を滲ませ、それでも尚佇むその背格好を見間違える筈がない。
彼は暗く、冷たく、黒々しい何かと対峙している。輪郭のあやふやなそれは、よく見ればアリウスの使役していたユスティナ聖徒会である事が分かった。彼女達は体を揺り動かしながら、先生へとその銃口を向ける。
そんな彼を守る様に立ち塞がる生徒がひとり。
「私を受け入れてくれた先生! 私に素敵な思い出をくれた先生! 私を幸せにしてくれた先生ッ! あなたに――殉じる為に私はっ、今、此処にいるッ!」
あれは――誰だ。
セイアは想う、薄暗い聖堂、その回廊にて拳を振るう生徒。
全身が血に塗れ、薄汚れた制服をそのままに嗤う誰か。見慣れた衣服、見慣れた翼、見慣れた顔立ち、聞き慣れた声――だと云うのに、どうしてか同一人物だと思えない。
亡霊染みた何か、ユスティナ聖徒会と推測されるソレが掻き消える。彼女が拳を振るう度に、その銃器を向ける度にひとり、またひとりと搔き消えて行く。薄暗い回廊の中で踊る白は圧倒的で、まるで暴虐の嵐そのもの、正義実現委員会の部隊が揃って初めて対峙出来るか否かという程の脅威を前に、彼女は単独で道を切り開く。
その強さを、セイアは知らない。
その笑顔の意味を、セイアは知らない。
その存在の異質さを、セイアは認められない。
彼女は――あんな風に、嗤ったりしない。
「ねぇ、先生」
最後の一人を殴り、掻き消し、彼女はゆっくりと振り返る。崩れ落ちた天井から差し込む月光が彼女――聖園ミカを照らし、血と砂利に塗れた
「救いに来たよ――私の大切な王子様!」
その、血に塗れた手を先生に差し出しながら。
□
「自分なら今度こそ先生を守り切れると? シャーレを崩さず、先生を今のまま? ――それは驕りだ」
「自信と云って欲しいなぁ、それに最初から失敗する事を考えて動く人が何処にいるのさ、私はやるよ、やって見せる」
――ッ!?
場面が切り替わる。まるで映像を早送りしたかのように、世界が加速と再生を繰り返す。場面が切り替わるのは一瞬、百合園セイアという異物を除き、世界は瞬く間にその景色を変える。
――何だ、景色が、切り替わった……!?
戸惑うセイアを他所に、世界は再び正常に動き出す。
目前には彼女――ミカの傍に立つ銀色の髪を持つ女性。黒いドレスの様な衣服に大人びた出で立ち、セイアの知らぬ存在。彼女はミカと対峙しながら鋭い視線で正面を射貫く。
ミカの表情が嘲る様に歪み、銀色の女性が舌打ちを零した。
「――そんなあやふやな未来に、先生を連れて行こうとするな」
「――一回の敗北で随分負け犬根性が沁み込んだんだね、狼の癖に」
二人の持つ引き金に、その指は掛かっていた。
□
「……あなたは」
「………ッ!」
――まただ……!
また、場面は切り替わる。セイアは額を抑えながら滲む脂汗を指先で拭う。酷い、頭痛があった。
先生の前に立つ二人の人影、あの銀色の女性とミカだ。彼女達と先生の前に――何かノイズの走る、巨大な影が現れていた。
セイアはそれを直視する事が出来ない。まるで存在そのものが切り抜かれているかのように、輪郭はあやふやで酷くおどろおどろしい気配だけが伝わって来る。しかし例えノイズに塗れていようとも発せられる気配と恐怖は確かなもので、映像としてではなく、情報としてセイアはソレの存在を知覚する事が出来た。
身長は三メートルを超え、大柄な肉体は鉄仮面と奇妙な外套に覆われている。その包帯だらけの細い指先が外套を掴んでおり、肩に施された赤い装飾は、冷たい鉄仮面をより一層不気味に彩っていた。
――アレは、何だ……!?
セイアは心の中で問う。この存在は、一体。
分からない、凡その見当すらつける事が出来ない。そもそもコレは恐らく――キヴォトスの存在ですらない。
セイアが理解出来るのは、それだけだった。
「そうか……やはり」
そんな異形を前にして、先生は怯むことなく対峙する。薄汚れた制服を靡かせ、彼はその表情を大きく歪めた。
それはセイアが見た事も無い様な焦燥と、悲観を滲ませた顔だった。
凡そ先生が生徒に見せた事も無い様な、切羽詰まった感情、その発露。
込められた感情は、悲しみと後悔か。
握り締めたタブレットが軋み、その口が開かれる。
何よりも、誰よりも――強い感情を滲ませながら。
彼は呟いた。
「運命は、こうなるのか……!」
□
「ッ、ぅ、ぐァア――!?」
「っ、先生!?」
「っ……!」
世界が途切れる。再び流れ始めた世界をセイアは知覚する。その中で、最初に飛び込んで来たのは全身から蒸気を噴き出す先生の姿。
古傷という古傷が赤く浮かび上がり、その合間から熱気が吹き上がっているのが分かる。その痛みに、熱に、彼は苦悶の声を上げ倒れかけていた。
しかし、辛うじて崩れ落ちる事を堪え、先生は歯を食いしばって耐える。大量の汗を流し、自身の身体を見下ろした先生は絞り出すようにして声を発した。
「ぅ、ぐッ、これ、は……!?」
――先生……! い、一体何が……?
困惑と驚愕を滲ませ、セイアは視界を振る。
すると聳え立つ巨躯の傍から黒い――影の様な存在が噴出し始めた。その存在が手にしているのは錆びれ、朽ちかけ、ボロボロになった■■■■■■。
彼の抜き出したソレがゆっくりと光を放つ。
青く、しかし黒の混じった光を。それは聖堂を、周囲を覆う様にして広がり続け、先生を、ミカを、銀色の女性を、セイアを包み込んでいく。
まるで世界を塗り替えていくように。
セイアは、愕然とした表情でそれを見つめていた。
だって、その力は。
その力を扱える者は、彼女の知る限り――。
その色を直視し、先生は歯を剥き出しにして呟いた。
自身の発熱する古傷を抑えながら。
「そう、か――……そういう事、か」
その足を前に一歩、踏み出し、彼はタブレットを握り締める。その表情は悲痛そのものであった。今にも泣き出しそうで、羞恥と絶望と無念に染まった、余りにも酷い顔だった。
絞り出した声に、数多の感情を込めながら彼は更に一歩を踏み出す。
その影と、真正面から対峙する。
「一人じゃ、ないんだね……――」
【―――】
「
鮮やかな色彩は朧げな輪郭すら持たない。まるで彷徨う空気の様に周囲を渦巻く。しかしそれも徐々に、徐々に形を得て人型へと収斂される。軈てその色が黒一色へと定まり、影が確かな姿形を纏った時――世界の色を塗り替えた異形が持つ、どこか見覚えのある端末から声が響いた。
表面の罅割れた端末、そこから電子音が響いた瞬間セイアの意識にノイズが走る。
垣間見える色は――白いリボンと黒の制服。
『――
□
「先生を取り込もうとしているの!?」
「本人にそのつもりはないッ……!」
――……ッ!
世界は加速する。
場面が次々と切り替わる。セイアは情報を纏め、考える事すら出来ず流れ込む世界の光景に圧倒される。
再び視界に映るのは群れを成し迫りくる大量の人影。
全身を黒に染め、影としか表現できぬ昏さを身に纏った人型の何か。それを前に立ち塞がるミカと銀色の女性。彼女達は銃器を使い、手足を使い、必死になって影を退けていく。
しかし影は幾ら倒されようとも、掻き消されようとも、続々と現れ駆けていく。異形の傍から、その足元から、覆われた世界の中で彼女達は何度も再誕する。
ただひとり――
「ただ、先生を求めて手を伸ばしているだけだ――だが、接触すれば何が起こるか分からない!」
□
【先生――】
【せんせ――】
【せんせいっ――】
場面が飛ぶ。影が一斉に手を伸ばす。
何処かで見たような
それを見つめる先生の表情が――歪む。
痛い程に歯を食い縛り、目を見開き、ぐしゃぐしゃになった表情で影を見つめる。抱えたシッテムの箱、その指先が震えている事にセイアは気付いた。呼吸が引き攣っていた、それは余りにも痛々しい姿だった。
それでも尚、彼は膝を折る事を許されない。
「先生ッ!」
「っ……!?」
ひとりの影が、二人の防衛線を抜けた。
次々と迫りくる人影に、たった二人で対応するのは困難を極める。影は他の影と比較し一際素早い動きで二人を躱し距離を詰め、身構えた先生目掛けて飛び込む。両手を広げ、まるで抱擁する様に。
先生の身体が沈み、回避の為に動こうとした。接触すれば何が起こるか分からない、それは正しい言葉だと云える。故に先生の判断は至極当然だった。
けれどその影が――彼の知る生徒に酷似した影が、口を開く。
【主殿――】
「……――」
瞬間、先生の目が見開かれた。
地面を蹴ろうとした両足が、縫い付けられたように微動だにせず、大きく体が震える。至近距離でその声を聴いた時、その姿を見つめた時、先生の唇が戦慄き、息を詰まらせた。
たった一言、たった一言で先生は身動きが取れなくなってしまう。
その言葉に込められた深い、何処までも深い感情に呑み込まれ、そして――彼女の面影を強く感じてしまったが故に。
――先生、何を……ッ!?
足を止めた先生を前にセイアは思わず叫び、駆け出そうとする。自身が干渉出来る筈がないのに、声が届く筈がないのに。それでも叫ばずにはいられなかった。
先生の瞳から涙が零れ落ちる。生徒に決して見せまいと、自分を偽ってまで堪えていたそれが頬を伝う。
彼女たちを。
彼女達を、見ていると。
どうしても、心が――鈍るのだ。
□
――ぐッ!?
再び場面が飛んだ。加速した世界に目が眩み、セイアは駆け出そうとした姿勢のまま地面に投げ出される。這い蹲り、見上げた視界には人影に纏わりつかれ、影の中に沈み行く先生が居た。
腕に、肩に、足に、腹に、影は全力で縋り付く。その黒が先生に触れる度に、その肉体が朽ちていくのが分かった。先生の制服が黒に浸食され、内部の肌が黒ずみ、罅割れる様にして穢れていく。
その姿を見た瞬間、ミカが焦燥に塗れた表情で叫び、先生の名を呼んだ。
しかし、彼は動かない――動けない。
「ぐ、う、ぅッ――……」
【――先生】
自身を見上げ、その名を呼び続ける生徒の影を前に動く事が出来ない。それはどのような感情から齎されるものか、憐憫か、同情か、否――この影は先生の罪悪そのものだった。
先生が此処まで歩んで来た、その罪の証なのだ。
それを背負うと、彼は云った。歩みを止める事は出来ないと、彼は知っていた。
故にその罪悪が形を為し、その先生の足に縋りついた時――彼は振りほどく事が出来なかった。
だが同時に、唯一その足を止め得る代物は、
けれど、目前に存在する無数の罪悪は――それ全てが先生の歩んで来た道そのもの。彼の手が届かなかった、『あまねく世界の可能性』。
それを直視させられた時、先生の心に大きく、強く、決して消えない傷が刻まれ、罅割れる音がした。
それは余りにも強大で、存在そのものを圧し潰さんとする、
『先生ッ、何をしているんですか!? 早くっ! 早く脱出を――ッ!』
「ッ、ぅ、ぁ――……!」
『彼女達はもう先生の生徒ではありませんッ! あの光に触れ、浸食され、変貌した
タブレットから声が響く、それが酷な選択であると分かっていた。だが敢えて、彼女はその様な物云いをした。そうでなければ先に先生が、その肉体が朽ちてしまうと理解していたからだ。
「ち、がう――……ッ!」
だが、タブレットから響く声に先生は首を振る。血の滲んだ手を握り締め、涙を流し、後悔と悲壮と罪悪と自己嫌悪に塗れながら、先生は声を絞り出した。
「違う、んだよ、アロナ――……彼女、達は、いや……! 彼女達も――ッ!」
自身に縋り、手を伸ばす生徒達。その手が先生の頬に触れ、滲み出る黒が彼の皮膚を汚した。その掌、指先から伝わる冷たさに顔を歪め、先生は大口を開け、嗚咽を零す。震え、力ない先生の指先が――縋り付く生徒の頬に触れた。
途端、彼女の――影の表情が。
少しだけ、ほんの少しだけ。
笑った様に思えた。
「彼女達も、私の――ッ!」
――生徒で在った筈なのだ。
【■い、じょ■ぶ……】
「ッ――!」
不意に、声が響いた。聖堂内におどろおどろしく、ノイズの掛かった声が響く。はっと、先生は声のした方向へと顔を向けた。黒に侵され、罅割れた頬をそのままに、彼は目を見開く。
【■い、■ょう■、だ■……――】
声は、セイアの認識出来ない異形が発したものであった。その内容は、彼女の耳では聞き取る事が出来ない。
異形はただその場に佇み、罅割れたタブレットを抱えたまま俯いている。
ふと、隣に佇む影が異形の外套を引っ張った、それは彼の呼び出した影のひとりだった――顔も、形も定かではない誰か。そんな
影は撫でつけられる異形の手を優しく包み、嬉しそうに笑っていた。
【かな、ら■……助け、■、み■……■、から】
そうして、彼はゆっくりと顔を上げ、先生を見る。
真っ直ぐ、その鉄仮面越しに。
濁り侵され、奪われて尚微かに残る色を覗かせながら。
【だっ、て……――】
「っ……!」
【
□
それは、何と残酷で。
何と、虚しく。
そして、何と悲しい言葉であったか。
その一言が、先生にとってどれほどの衝撃であったのか、セイアには分からない。ただ目を見開き、瞳孔すらも広げ、涙を流しながら嗚咽を零す先生を見れば、彼にとって決して逃れられない、その根底を指し示す言葉である事は分かった。
愕然とした表情のまま、自身に縋る影を見下ろす先生。彼の視界に入る、無数の
「ぁ――」
【先生――】
ぽろりと、先生の頬を伝う大粒の涙。
零れ落ちたそれが、自身を見上げる
「あ、ああぁあアァアア――ッ!」
叫ぶ、全力で。
恥も外聞も無く、血を吐く想いで絶叫する。
それは慟哭だった、どうしようもない感情をただ吐き出し、自身の罅割れた心を固める為に必要な行為だった。自身に縋り、見上げ、語り掛ける影を前にして、先生はその震える右手を掲げる。
先生の背中には、生徒達の夢が、未来が、希望が――託されている。
そしてそれと同じ分だけ、生徒達の願いが、慟哭が、祈りが、呪いが――積もっている。
時を重ねただけ、その比率は偏っていく。
止まる事は許されない。足を止める事は許されない。諦める事は、許されない。
積み重ねて来た罪悪に報いる為に、ただ自身の願いの為に、あの日誓った、掴みたいと夢見た明日の為に。
――それでもと叫び続けた、成れの果てが、
切り札を、切る。
途端、掲げた指先に集う、凄まじい光。黒と青の混じった世界の中で、純白と蒼が交差する。セイアは思わず顔を背け、凄まじい風に地面を這い蹲ったまま頭を抱えた。靡く髪がはためき、その光量は世界を覆い隠してしまうのではと錯覚する程。
光を掲げる先生の肌が急激に罅割れ、古傷が再び浮かび上がっていく。その目から、鼻から、口から、大量の血を流しながらも彼は覚悟を決める。血に塗れた瞳を異形へと向け、彼は涙と血を流しながら叫んだ。
たとえ、どれ程の代償を払う事になったとしても。
「アロナァアアッ!」
『――ッ!』
――その血を孕んだ慟哭が、最後の決断を下した。
■
『――シャーレの先生が意識不明の重体となってから、七十五日が経過しました』
『あの事件以降、破壊された■■■■本棟では、引き続き蘇生の可能性について数々の議論が行われ、各学園の医療従事者は――』
『当該事件についての議論は未だ決着が付かず、特にトリニティとゲヘナ間に於ける関係悪化は深刻な域に達しているとの見方が――』
『先生が主導していたアリウス自治区復興計画に関しても再開の目途は未だ立っておりません、当自治区に対して破壊活動や誹謗中傷を繰り返す生徒が後を絶たず、トリニティは自治区内の一時境界線封鎖を検討していると――』
『キヴォトス内に於ける治安の悪化が懸念されており、ここ一ヶ月以内でも既に幾つもの凶悪事件がD.U.及び各自治区内にて確認されています、この件について連邦生徒会長は……』
■
『そ、速報です! 先生の意識が戻らなくなってから百日が経過した本日、■■病院より緊急発表が……! 世論はこの事について――』
『医療関係者は先生の回復は見込めないと判断し、蘇生は不可能、これ以上の延命治療は無意味であるとの見解を示しました! 近く先生は■■病院より移送され――』
『しかし、一部学園、及び生徒からは反対の声も多く、幾つもの学園が連名で先生の延命治療を嘆願しているとの情報が――』
『連邦生徒会、及び現連邦生徒会長はこの件について――』
■
『先程ミレニアム・サイエンススクールより声明が発表されました! ミレニアムは■■病院の緊急発表に対し強く抗議すると共に、先生の身柄保護を――』
『宣戦布告です! 宣戦布告が行われましたっ! 既にトリニティ総合学園、及びゲヘナ学園の外郭区境界線にて突発的な戦闘が勃発しているとの情報が――! この宣戦布告は先生の身柄保護の観点から、トリニティ主戦派によるものと――』
『先程ゲヘナ生徒会、
『ひゃ、百鬼夜行連合学院自治区内にて大規模な火災が発生したとの情報がただ今入りましたっ! またレッドウィンター連邦学園にてクーデターが発生し、暴徒は隣接する自治区内に――』
『連邦生徒会は非常対策委員会の設立を発表しました、一連の騒動を【キヴォトス動乱】と呼称し、早急な対策を――! しかし既に各自治区内では――!』
□
巡る、巡る――世界が色を、景色を変える。時間を超越する予知はめぐるましい変化を見せ、セイアはその表情から色を失くす。感情を露にするだけの余裕すら、彼女は既に喪っていた。予知は彼女を待ってはくれない、望む、望まざる問わず濁流のように全てを流し込む。
そうして彼女が最後に見た――その景色は。
「ま、待って……」
「だい、じょうぶ」
其処は、何処だろうか。
広い空間だった、薄暗く、火の手が回り、破壊跡の刻まれた何処か。その炎と瓦礫の中で対峙する二つの影、片方は先生、もう片方は――炎の熱気に遮られ、視認する事が出来ない。ただ、空の様な髪色が踊り、その人影の周囲を青い光が包み込んでいた。
先生の状態は――酷いものだった。
瓦礫に身を預ける様にして座り込んだ彼は全身という全身を赤で染め、彼を象徴するシャーレの純白は何処にも見当たらない。千切れた腕章がセイアの足元に転がっており、彼女は無意識の内に一歩退いていた。その腕は力なく垂れ落ち、左腕は肩口から消失している。
そして何より、彼女が息を呑んだのは。
「待って、下さい――先生っ!」
「大丈夫、だよ……」
譫言の様に、彼は呟く。
実際、それが意識しての言葉なのかどうかも定かではない。先生の瞳はもう、何処も捉えてはいなかった。俯いたまま、光の消えかかった瞳で呟く。その指先は罅割れ、赤いランプを点灯させるタブレットに被さっている。血と砂利に塗れたそれは、爪が剥がれ掛け、直視出来たものではなかった。
炎の向こう側から誰かが叫ぶ。
長い空色が、動きに合わせ揺れ動く。
「先生、待って、お願いッ……! そんなっ!」
「だって、此処から……なんだ」
俯いていた先生の顔が、ゆっくりと生徒に向けられる。炎越しに見える、朧げな輪郭。崩れ落ちる天井、重なる瓦礫の轟音に覆われながらも、彼の声は耳に届いた。一瞬、ほんの一瞬、先生の瞳に光が宿る。
血と傷に塗れ、苦痛に苛まれる先生はそれでも尚――穏やかな笑みを浮かべて云った。
「君達の、希望に満ちた未来は――」
そう、此処から。
此処から全て、始まるのだ。
今この瞬間、この場所こそが――。
「この瞬間が……」
――
「先生ぇッ!」
「責任は――」
その代償も。
色彩すらも。
「私が、負うからね」
その一言と共に生徒が青の光に包まれ、掻き消える。
その姿、影すら見えなくなり、彼女の肉体は跡形もなく消え去った。何処に行ったのか、どうやって行われたのか、その何もかもがセイアには分からない。彼女はただ、死に体となった先生の傍に佇み、呆然と見下ろす事しか出来ない。
何があったのか、どうしてこうなったのか、それを聞きたくて仕方がない。だがその力も、資格も、彼女には無い。この世界に置いて、百合園セイアは傍観者に過ぎない。
千切れ、砕けた両足を投げ出したまま、先生は小さく息を吐き出す。それが安堵の溜息なのだと、傍に立つセイアには分かった。
世界が振動する、爆発が巻き起こり、黒煙が視界を覆い始めた。破壊された外壁の向こう側から吹きすさぶ風は先生の衣服と髪をはためかせる。よく見れば、この空間は空に在るのか――崩れ落ちた壁の向こう側に見える景色は、凄まじい勢いで上方へと流れていた。
「私は――……」
先生の頸がゆっくりと落ち、指を乗せていたタブレットが静かにその画面を暗転させる。罅割れ、薄汚れたそれを指先で静かに撫でつけ、先生は小さく、ほんの囁く様な声色で呟いた。
「私は、やり遂げたのだろうか……?」
その声に――答える者は居ない。
それは彼の最後に見せた疑念だった。これで本当に良かったのか、これが自身の為せた最善だったのか。そんな事を最後の最後に想い、思わず口ずさむ。けれど、彼は自身の出来る範囲で全力であったのは確かだった。
生徒の為に生き、生徒の為に戦い、生徒の為に抗い、生徒の為に歩き続け――此処まで辿り着いた。
生徒こそが、絶対である。
その人生に、後悔はない。
「っ……!」
不意に、先生の横顔が陽に照らされる。
見れば夜空に覆われていた世界が、徐々に明るさを取り戻していた。雲海の上、何も邪魔するもののない、綺麗な蒼穹――先生の愛した青色がそこにあった。
差し込んだ陽光に照らされながら、先生は瞳をそっと細めた。
「あぁ――」
――朝が来る。
崩壊が始まる。
黒煙が吹き荒れ、爆発が連鎖し、世界が、空間が解体され始めた。振動は徐々に大きくなり、セイアは不安定になり始めた足場に顔を顰める。そんな中でも先生は微動だにせず、ただ穏やかな表情で視界に広がる青空と陽光を見つめていた。
そうして彼はゆっくりと、何かを噛み締める様に、どこか感じ入る様に、ぽつりと最期に言葉を漏らした。
「――夜明けだ」
炎が先生の方向へと雪崩れ込み、頭上から降り注ぐ瓦礫に何も見えなくなる。セイアが先生に手を伸ばそうとして、けれどそれよりも早く強大な爆発が全てを掻き消した。最後に呟かれた先生の言葉、それが耳にこびり付いて離れない。
解体された空間から放り出され、セイアの肉体は虚空へと投げ出された。そして、セイアの視界は暗転し、その意識は再び異なる世界へと引き摺り込まれる。
□
――これが、
■
「あ、あぁ、セイアちゃん……気が付いたの?」
「ぅ……ぁ――?」
微かに揺れる感覚に、意識が覚醒した。滲む視界に真っ白な思考、見上げるその中には涙目で自身を見下ろすミカの姿があった。呆然と周囲に視線を飛ばせば、見慣れた天井に壁、行政官に正義実現委員会の生徒達が慌てふためき自身を囲んでいる。目の前のミカが放つ雰囲気はセイアの良く知るものだった、切り替わった世界の中で目視した彼女とは違う――聖園ミカ、その人だ。
此処は、何処だ。
まだ私は夢を見ているのか?
いや、違う、此処は――。
――現実か。
数多の世界を巡り、その景色を目にしてきたセイアは再び目が覚めた時、そこが夢の世界なのか、現実の世界なのか一瞬困惑する。だが肉体を襲う痛み、そして口の中に広がる鉄の味、その匂いに現実である事を悟った。呻き、顔を顰めながら彼女は想う。
私は、夢を見ていたのか。
いや、あれはきっと。
「どうして、セイアちゃんがこんな目に――私、どうすれば、セイアちゃん、どうしよう……!」
「ミ、カ……」
血に塗れ、苦悶に呻くセイアを前にしてミカは涙を零す。セイアの身体を抱き締め、自身の無力を嘆くその姿に、セイアは口を開こうとして失敗した。その暖かな雫がセイアの頬を濡らし、彼女は胸中でミカに詫びる。
――すまないミカ、君のせいではない、これは私が招いた失敗だ。
あらゆる要素が悪い方向へと転がった。単なる休憩であった筈の眠りが明晰夢へと繋がり、そこで真相を掴んでしまった。ましてやゲマトリアの一員に察知され、その情報の濁流に呑まれミカに心無い言葉を投げかけてしまった。
そして、先程見た一連の光景。
それを思い、セイアは心の内で叫ぶ。
――先生、私の声が聞こえていたら、どうか。
――逃げてくれ、出来るだけ遠くに、アリウス自治区から離れてくれ。
――或いは、この
――でなければ、先生は。
「ぐぅ……ッ!」
胸中で呟いた言葉、しかしセイアは自身のそれに否定を叩きつけた。いいや、先生はきっとそんな道を選びはしない、きっと、救おうとすると。寄り添おうとしてしまう、と。
それが自身にとって、どれ程致命的な傷になろうとも、彼はきっとその道を往こうとするだろう。想い、彼女は身を捩り、なけなしの力を振り絞ってミカの腕を掴む。
そうしている間にも、ぐらりと――視界が捻じれ、意識が飛びかけた。
時間がない。
このままでは、また意識を引っ張られる。
あの存在に、不吉な光に。
だから、伝えなければならない。
託さなければならない。
自分が、今、此処で。
「み、か……っ!」
「せ、セイアちゃん! 喋らないで、安静にしていて……!」
「ミカ、お、ねがい、だっ、聞いて、くれ……!」
意識を取り戻し、血を吐きながら辛うじて言葉を口にするセイア。ミカはそんな彼女を抱きかかえながら、無理をしないでと言葉を重ねる。だがそんな彼女の言葉を押し退け、セイアは必死の形相でミカを、その瞳を見つめ血の混じった声を発した。
「先生を……頼、む――……!」
「……!」
「どう、か――守って、くれ……ッ!」
「せ、セイアちゃん――?」
それは、余りにも抽象的な言葉であった。何処で、誰から、どうやって、そんな言葉すら省略された曖昧でどんな解釈の余地すらある言葉だ。
しかし、今のセイアにはそれが限界だった、今にも失われそうな意識に全身を苛む苦痛、言葉を一音発する事さえ、今の彼女には地獄の様な苦しみがあった。血を口の端から零し、ミカの制服を皺が刻まれる程に強く握り締めたセイアは、喘ぐ様な呼吸を繰り返しながら必死に言葉を連ねる。
長々と説明する余裕も、時間も無い。その言葉が不十分な代物であると、彼女の理性は頭の片隅で叫んでいる。だからせめて、少しでも多く、言葉を残して。
「じゃないと、先生……はっ――!」
――今度こそ、その
呼吸が深く、しゃくり上げる様なものへと変わる。大きなそれは不規則なもので、時折鼻や、口から血が噴き出した。限界が近い、目を開けていられない、意識を保つ事も難しくなり、セイアはその表情を苦しみと無念に歪めたまま――静かにまた、深い眠りへと沈んで行った。
そのヘイローが静かに点滅し、軈て消失する。
「セイアちゃん……?」
「………」
ミカが腕の中で目を閉じた彼女の名を呼ぶ。しかし、彼女が何か反応を見せる事は無い。
百合園セイアは再び――白昼夢の中へと囚われたのだ。
■
トリニティ自治区――郊外、廃墟区画。
「……っ!」
不意に、先生は夜空を見上げた。それは何か、云い表す事の出来ない悪寒を覚えたからだった。
まるで背中に氷柱をでも突き入れられたかの様な、一瞬の悪寒――身構えシッテムの箱を抱え込んだ先生ではあるが、しかし砲弾が降って来る事も、銃声が轟く事も無く。頭上には変わらず星々が瞬き、周囲は廃墟区画らしい古びた建物が立ち並ぶばかり。電気も通わぬその場所は、月明かりと時折此処に屯しているのであろう、不良生徒の放置した火台程度が唯一の光源だった。薄暗い闇の中で暫く歩みを止めていた先生だが、その首を緩く振って再び前を向く。
「……気のせい、か」
呟きは、風に吹かれて掻き消える。携帯端末を起動すると、綴られた位置情報を再度確認する。
マップが指し示す位置情報は――確かにこの場所だった。
「………」
ふと、月明かりが遮られ暗闇が広がった。顔を上げれば厚い雲が月を覆い隠そうとしている。ぽつりと、頬を叩く冷たい感触。どうやら、小雨が降り始めた様だ――このままだと、一雨来るかもしれない。
そんな事を考えながら、周囲を見渡す。周囲を老朽化した建物に囲われた路地、薄汚れ、グラフィティの描かれた外壁を見つめながら耳を澄ませる。人の気配は全く存在しない、或いはこのメール自体が悪戯か、それに類するものであると断定する事も出来た。
しかし、先生は確信を持って問いかける。
「――サオリ、居るんだろう?」
声は、然程大きなものではなかった。しかし、人気のない路地の中では良く響く。空に問い掛け、暫くの間その場に佇む先生。ぽつぽつと、少しずつ雨が勢いを模していた。シッテムの箱を抱えながら、静かに立ち続ける事数十秒――先生の視界に、ひとつの影が物陰からゆっくりと姿を現す。
「……サオリ」
「………」
それは、擦り切れ弾痕の刻まれた外套を着込んだ、ボロボロのサオリだった。肌と云う肌に傷を負い、薄汚れた格好のまま先生の前に立つ。どれ程の期間逃亡していたのか、或いは戦い続けていたのか。その表情には強い疲労の色が残る。ぶら下げた愛銃をそのまま、彼女は掠れた声で問いかける。
「分かって、いて――」
その瞳が、先生を真っ直ぐ見つめる。髪に覆われた右目、それは自身が奪ったものだ。そして彼の左腕も――その両手に嵌めたハーフグローブがどのような意味で身に付けられているのか、その理由も何となく察する事が出来た。故に彼女はその声に苦渋を感じさせながら、呟く。
「分かっていて、此処に来たのか……護衛の一人も付けずに」
「……当然だよ」
――私は、私の信念を
その声は、雨音の中でもサオリの耳に確りと届いた。正面に立ち、互いに相手を真っ直ぐ見据えながら視線を交わす。サオリの銃を握り締める手に、力が籠るのが分かった。軋むグリップの感触を感じながら、彼女は帽子のつばを掴み深く下げる。
「私は、全ての生徒の味方だと云った――困っている生徒を放ってはおけない」
「………」
数秒、沈黙が降りる。それはサオリにとって選択の為に設けられた数秒であった。帽子のつばを掴み、愛銃を垂らしたまま彼女は口を噤む。此処が分水嶺だという自覚が彼女にはあった――そして、これから選ぶ道によって自身の、何より仲間達の未来が決定するという予感も。
小さく、息を吸い込むサオリ。
ただ呼吸をするだけで、肺が痛む。余り長くは迷っていられない。彼女に残された時間は多くなかった、追手がいつ此処を発見するかも分からない。
何より、夜明けまで残された時間は僅か。
だから――。
「シャーレの――先生」
呟き、サオリはゆっくりと顔を上げる。その瞳には、確かな覚悟が秘められていた。
その視線を先生に向けたまま彼女は静かに――先生へと、その銃口を向けた。
「………」
雨音が、少しずつ強まっていく。
先生とこうして対峙する時、大きな選択をする時、常に雨が隣に在った様な気がした。傷口に水が沁みる、しかしその痛みすら気にならない程、彼女の精神は圧迫されていた。微かに揺れる銃口、跳ねあがる心拍数、それらを感じながらサオリは引き金に指を掛ける。
それでも先生は目を逸らさない。
身構える訳でもなく、言葉で説得する訳でもなく。
彼はただ生徒を――サオリを見つめ続けていた。