ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に感謝いたしますわ!
少々多忙で約11,000字ですがお許しくださいまし。


全てを失った果てに。

 二人の間に、雨音だけが響いている。

 薄暗い暗闇の中で突きつけられた銃口が、月明かりを反射して鈍い光を発していた。対峙する二人は微動だにせず、先生もサオリも、その視線を逸らしはしない。それは覚悟の顕れであり、同時に相手に対する信頼でもあった。

 雨が、体温を奪っていく。

 

「………」

 

 不意に、カタリと音が鳴った。それはサオリの持つ銃器から響く音だ。見れば銃口が震え、その指先は小刻みに揺らいでいる。雨の中でも、サオリの額に汗が滲んでいるのが分かった。

 だが、銃口が降ろされる事は無い。その引き金には指が掛かり、黒く鈍い光は先生を捉えて離さない。

 

 ――私は。

 

 サオリは思う、滴る雨の中で何度も何度も自身に手を差し伸べて来た大人に銃口を突きつけながら。

 繰り返し、思考する。

 

 ――私、は……。

 

 雨の中、脳裏に浮かぶのは仲間達の姿。

 ミサキ、ヒヨリ、アズサ――アツコ。

 彼女達と過ごして来た時間を思い返す度に想う。此処、今この場所に至って、自身が今まで行ってきた事は全て無駄だったのかと。

 アリウスに生まれ、憎悪と苦痛の中で育ち、生きる僅かな希望すら抱く事を許されず――でも、それでも。

 暗がりのなかでも、全てが虚しい世界であったとしても、その些細な幸せを守る為に全てを擲ち、抗い続けた自身の行いは間違いだったのかと。

 

 今はもう分からない。

 守ろうとしたものを全て失ったサオリには、何も。

 

 ただ、それでも、諦める事は出来なかった。

 仲間は、家族は、サオリの全てなのだ。

 自身の何を捧げても守りたいと思える唯一無二だったから。

 そして、その家族を救う為に出来る事はもう。

 

 ――一つだけだった。

 

 ■

 

『追撃部隊を下がらせる事は致しません、貴女方スクワッドは既にアリウス(私の元)を離れた身、一度離反した者を易々と復帰させては他の者に示しがつかないでしょう?』

 

『しかし、そうですね……こうして差し向けた部隊を躱し、端末を奪取した上で私に連絡を取れる状況まで漕ぎ付けた事は評価しましょう、貴女は優秀ですねサオリ、えぇ、此方としても幼い頃より手塩にかけて育てた貴女を処分する事に心が痛んでいるのです、私とて情はありますから、優秀な貴女を失うのは大変惜しい』

 

『そうですね、それでしたら……こうしましょう』

 

『――シャーレの先生を、今度こそ始末しなさい』

 

『やり方は任せます、救援を装って呼び出してから始末しても良し、トリニティに乗り込んで暗殺しても良し……結果が伴えば手段は問いません』

 

『その亡骸か、或いは証を持って部隊へと合流すれば温情を差し上げます、追撃命令は撤回致しますし、アリウス自治区への帰還も許しましょう、勿論スクワッド全員、再び私の元へと戻って来る事が叶うのです』

 

『貴女は知った筈です、この世界の姿を、どれだけ藻掻き苦しもうとも貴女方に手を差し伸べる存在など何処にも居ないのだと、その手を汚した者に安息の地など存在せず、人並みの幸福など夢のまた夢、日陰で生まれた者は日陰の中でしか生きる事が出来ない』

 

『貴女達の様に生まれながらにして穢れを背負った存在を受け入れる場所など、このアリウス自治区を於いて他にありません』

 

『貴女が先生の殺害に成功したのならば、エデン条約に於ける失敗も帳消しとなるでしょう、ロイヤルブラッドを用いた儀式も――えぇ、中止しても構いません』

 

『これが私の見せる、最後の【温情】です……期待していますよ、サオリ?』

 

 ■

 

 マダムと交わした最後の通信、その記憶を反芻しサオリは覚悟を決める。

 錠前サオリという生徒に、裏切った自身に与えられた文字通り最後の温情。これを失えば自身は、本当に何にも縋る事が出来なくなる。

 自分達に行き場がない事など知っていた。そしてこの僅かな逃走生活の中でそれを痛い程に実感した。だから自分達には彼女の、マダムの温情に縋るしか道は無い。

 それ以外に、自分達が助かる道など。

 

 ――本当にそうか?

 

 心の中に潜む、何かがそう問いかけた。

 雨越しに佇んだ、目前の先生が滲む視界に映る。

 自身をじっと見つめ続ける、ひとりの大人。

 その真剣で、真摯で、穏やかな瞳を見た時、サオリの中にある信念がぐらりと揺らいだ気がした。

 

 マダムと先生、同じ大人だと云うのに、その性質はまるで真逆であるように思える。いや、実際そうなのだろう、アリウスの只中にあって笑顔を浮かべた事などサオリが憶えている限り、両の手で数えられる程度しかなかった様な気さえする。

 マダムの支配するあの自治区には、笑顔など何処にもなかった。代わりに痛みが、苦しみが、連綿と受け継がれる憎悪があった。

 

 先生の、目の前の大人の周りに集まる生徒は、いつも何処か幸せそうに見えた。ずっと前からそうだ、その笑みを奪ったのも、その居場所に消えぬ傷跡を残したのも、自分達だというのに。その光景を自分はずっと羨んでいた。

 

 ――この選択はきっと、取り返しのつかないものになる。

 

 グローブに沁み込んだ雨水の冷たさを感じながら、彼女はそう考える。

 一度道を選んでしまえばきっと、自分は本当に戻れなくなる。

 此処が最後だ、本当の分かれ道、己の結末を左右する選択は――今、この瞬間だった。

 

 過去(マダム)か。

 未来(先生)か。

 

「っ、ぅ――……」

 

 銃のグリップを握る手が汗ばみ、震える。

 これで本当に良いのか、この選択が正しいのか、自分はこの道を選んで――本当に後悔しないのか。分からない、思考が、心が揺らぐ。自身の選択に全てが、自身の命も、仲間の命も、文字通り全てが懸かっていると思えばこそ、その腕は重く、体温は冷たく、視界が揺らぐ。

 故に考え、考え、考え、呻き、苦悩し、歯を噛み砕かんとする程に強く噛み締め――その果てにサオリは決断した。

 

「――ッ!」

 

 

 ――廃墟の只中に、一発の銃声が轟いた。

 

 

「………」

 

 銃声は、たったの一発。

 それだけで十分だった。

 夜空に吸い込まれるようにして乾いたそれは淡々と響き渡り、廃墟街の中で木霊する。

 弾丸は狙い通り、確かに標的を射貫いていた。

 

「―――」

 

 先生は変わらず、何処までも真っ直ぐな視線でサオリを見ている。

 

 向けられた銃口、その先は――空を向いていた。

 

 弾丸は遥か彼方、夜空の中に吸い込まれ見えなくなる。暫くして、サオリの腕が静かに下げられ、そして脱力した指先から彼女の愛銃が滑り落ちた。硬質な音を立て、転がる彼女の愛銃。雨水に晒されたそれを一瞥もせず、彼女は俯く。

 

「……先生」

 

 雨音が強まっていく。

 ばしゃりと、水の跳ねる音が響いた。

 それはサオリが膝を突いた音だった。

 雨に打たれたまま項垂れ、地面に這い蹲った彼女は先生の名を呟く。膝から崩れ落ちたサオリを、先生はただ無言で見つめ続ける。

 雨が頬を滴る、生温いそれは体温を奪いながら地面へと落ちて行く。

 漏れ出した吐息が、微かに白く濁った。

 

「今更……今更、何をと、そう思うかもしれない」

「………」

「こんな私の話など、一蹴されて然るべきなのだと云う事も分かっている、先生に助けを乞う権利も、その資格も持ち合わせていない事も――でも、どうか頼む、少しで良い……話を、聞いて欲しい」

 

 ――本当は、分かっていた。

 

 心の中では理解していた。

 あの時、アツコが身を挺してスクワッドを救わんとした瞬間から。

 マダムの云う言葉が、単なるまやかしである事を。

 

 例え此処で先生を殺害したとしても、きっと彼女は言葉通りに自分達を許しはしないだろう。

 どの様な形であれ、一度裏切りを為した生徒をマダムは許容しない。自身に逆らった子どもを、受け入れる筈がない。

 その生徒に、自身にとって大きな利用価値でもなければ。

 

 錠前サオリ(自身)の積み重ねて来た過去(代償)は、全てが無意味だった。

 

 けれど、他に縋る相手が居なかった。

 手を差し伸べてくれる人など、居ないと思っていた。

 

 ――ずっと、ずっと前から差し出されていたソレ(先生の手)から目を背けて、そう信じていた。

 

 自分達を救ってくれる、そんな都合の良い存在は居ない。

 日陰に生まれた自分達を受け入れてくれる居場所は、此処(アリウス)しかない。

 こんな自分達が救われる未来など、存在する筈がない。

 ずっと幼い頃から云い聞かされ、教えられた、その学びこそが、彼女にとっての呪いだった。

 

「姫が……アツコが、アリウスに連れていかれたんだ」

「………」

「ミサキも、ヒヨリも、追撃部隊の襲撃に遭って、散り散りに――生死も、不明だ」

 

 両手を握り込み、彼女は緩く頭を振る。垂れた黒髪が泥水に塗れ、重く垂れさがる。

 彼女の周囲にスクワッドの姿は無い、サオリの云った通り、全員がバラバラになって逃走したのだろう。そして彼女達が未だ生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からないと彼女は云う。

 

「あれから何日も逃げて来たが……私達に逃げ場など、このキヴォトスの何処にもなかった、どの自治区にも、どの街にも、必ず私達を厭う目があった」

 

 アリウスと云う身分を隠し、追撃部隊を警戒し、何を得られずとも、何も失わない。だが永遠に逃れ続ける事など出来ない、その罪悪から、彼女の手から。

 

「私達の行った事を考えれば当然だ……その罰を、報いを、受ける覚悟はあった――だが」

 

 深く、頭が沈み込む。

 サオリは額を床に押し付け、低く涙を滲ませ告げる。

 

「このままでは、アツコは――姫は、死んでしまう」

 

 明日の朝、夜明けと共に――彼女に、殺されてしまう。

 

「私の話など信じられないだろうが、これだけは、真実なんだ」

「………」

「アツコは元よりそういう風に育てられた存在だから、幼い頃から、生贄にされる運命だと、私はアリウスの主人からそう教えられた――彼女は……マダムは、私がアツコを部隊に引き入れたいと願い出た際、姫の運命を変えたいのなら自身の命令に従えと云った、そうすれば姫だけではなく他の仲間を助けてやると」

 

 声には、切実な響きが籠っていた。

 それはまだ何も知らず、無垢にも虚しいこの世界でも抗いたいと――そう思っていた幼き頃のサオリが結んだ、ベアトリーチェとの契約。

 秤アツコという少女に手を差し伸べた時から、錠前サオリはあらゆる努力を厭わなかった。どの様な任務でさえ熟し、どのような戦場であろうと掻い潜り、常に前に立ち続け、終ぞスクワッドはアリウス特殊部隊として選抜されるに至った。

 すべてはアツコを、仲間を助ける為に。

 この暗く、虚しく、絶望に満ちた世界で僅かでも長く、彼女達と細やかな生の喜びを享受する為に。

 それだけが、サオリの生きる理由だった。

 

「エデン条約を強奪し、ユスティナ聖徒会の力をアリウスのものとし――トリニティとゲヘナを手中に収めたら……アツコが、生贄にならずに済むと、元々そういう約束だったんだ」

 

 ――しかし。

 

「――私は、失敗した」

 

 アリウス・スクワッドは、任務を遂行出来なかった。

 エデン条約の強奪に失敗し、トリニティとゲヘナ自治区の征服も為せず、その果てに仲間は生死不明となり、幼き頃に誓ったアツコを守る事さえも叶わなかった。

 錠前サオリと云う存在は、その大切なものを悉く奪われた。

 

「全て……全て、私の力が及ばず、叶わなかった……!」

 

 叫び、その身体を震わせるサオリ。握り締めた拳が雨水を溢れさせ、その噛み締めた奥歯が軋んだ。溢れ出すそれは自身に対する失望と、無力に対する怒りだった。

 

「今の私には、もう何もない……トリニティにも、ゲヘナにも、同じアリウスにだって助けを求める事など出来ない、嘗て共に訓練に励んだ同胞さえ、私達に銃を向ける事を躊躇わないだろう……! 彼女の命令は絶対だ、そういう風に生きて来た、それ以外の生き方を知らない――疑問に思う余地すら、存在しない」

 

 ゆっくりと顔を上げ、先生を見上げるサオリ。

 先生の表情は見えない、薄暗く、月明かりが唯一の光源であるこの場所に於いて、俯く先生の表情は影に覆われていた。

 

「私自身はどうなっても構わない……! どんな末路を辿ったとしても、自業自得だと納得して泥の中で死んで行ける、だがアツコは……家族(仲間)だけは――」

 

 それだけは、諦める事が出来ない。

 自分の命よりも大切な、彼女達だけは。

 

 サオリがずっと、幼い頃から守り続けた。

 あらゆるものを犠牲にして、どれ程天秤が釣り合わずとも捧げ続けた。

 夢も、将来も、希望も、ありとあらゆるものを。

 その小さくて、何て事の無い、ささやかな居場所――そこに集う仲間を守る為に擦り切れ、傷だらけで、汚れ切ったその両手は。

 彼女にとっては他ならぬ、努力の証だった。

 それを泥に沈め、彼女は云う。

 

 自分は全てを失った。

 捧げられる代償も、今の自分には何も残っていない。

 正真正銘、空っぽだった。

 

 ――たったひとつ除いて。

 

「だから、頼れるのはもう、先生しか――……」

 

 項垂れ、サオリは再び額を地面に擦り付ける。泥と雨に塗れ、その身を寒さに震わせながらも、必死に。

 それは懇願だ、到底受け入れられる筈のない――彼女の持つ全て(最後の一つ)を捧げて行われる懇願だった。

 

「頼む」

「………」

「私の、命を賭けて約束する、どんな対価も支払う、どんな指示だろうと従う、何も持たない私だが、私に差し出せるものならば、全てを捧げると誓う……!」

 

 告げ、サオリは懐に手を差し込み、先生の前に幾つかの影を放る。それは先生にとって見覚えのある形をしていた。アリウスが用いる切り札――ヘイロー破壊爆弾だ。その設置型のものを全てサオリは投げ出し、それを見つめ、無言を貫く先生に向けて言葉を連ねた。

 

「ヘイローを破壊する爆弾、これも預ける、私の命を握って貰って構わない、私の事は使い潰してくれて良い、信用できないと判断したら、それを使って処分してくれ、私は決して、抵抗しないと約束する……! だから、頼む――お願いだ、先生」

 

 深く、深く、何度でも希う。

 震え、歯を食いしばり、自身の積み重ねて来た全てを擲って、彼女は先生に向かって必死の叫びを発した。

 

「どうか、アツコを――私の家族(仲間)を、助けてくれ……!」

 

 ■

 

「セイア様のご容態は!?」

「駄目です、痙攣と血が止まらなくて……!」

「救護騎士団は何をしているのですか!? この際、誰であっても構いません、医学の心得がある者は!? 一刻も早く対処法の確認を……!」

「ナギサ様は何と!?」

「現在は公務で移動中の筈です、他の方々にも連絡を取っていますが――」

「ならばシャーレに、先生に連絡は!?」

「さっきから連絡が取れないんですッ! ま、まさか先生の身にも、何か起きたんじゃ……!?」

「不吉な事を云わないでっ! 兎に角、今は連絡を続けて――」

 

 その日、救護騎士団離れにあるセイアの病室は混乱の坩堝と化していた。

 行政官、正義実現委員会が入り乱れ、何とかセイアを助けようと手を尽くす。喧騒は部屋の中だけに留まらず、廊下の向こう側からも響いていた。

 救護騎士団の生徒の声が、遥か向こう側から微かに聞こえる、同時に複数の足音も。セイアを救う為に幾多もの生徒が協力し、事に当たろうとしている。

 

 しかし――不意に、部屋の中に居たサンクトゥス分派の生徒がミカを睨みつけ叫んだ。

 

「事を起こした犯人は聖園ミカですかッ!? また、あの魔女がッ!」

「なっ、待って下さい! ミカ様は何も――」

「彼女がセイア様の部屋を訪ねたからこんな事が起きたのではないのですか!? あの女が何かをしたに決まっていますッ!」

「違うッ! ミカ様は何もしていないっ! 一体何を根拠にその様な――ッ!?」

「やめなさいッ! こんな時に争った所で……!」

 

 部屋に剣呑な気配が満ちる。

 ミカを指差し糾弾する生徒、何もそれらしい行動は無かったと擁護する生徒、こんな時に何を云い出すのかと憤慨する生徒。

 それぞれが自身の立場の違いから衝突し、その中で一際甲高い声がミカの鼓膜を揺さぶった。

 

「この、人殺しがッ!」

 

 ■

 

 先生が――スクワッドに、狙われている。

 

 ■

 

「あぁ――」

 

 その声を聞き届けながら、ミカはゆっくりと天井を見上げた。直ぐ傍には倒れ伏し、血を吐きながら苦しむ友人が一人、でも彼女にはどうする事も出来ない。治す事も、励ましを口にする事さえ、彼女には。

 

「また、私のせいで……こうなっちゃうんだね――あは、はは……」

 

 乾いた笑い声が漏れる。それは余りにも馬鹿馬鹿しく、愚かで、無価値な、そんな自分に対しての嘲りだった。

 

「わ、私、バカだかららさ、先生とナギちゃんが、あんまりにも真剣に、大丈夫って云ってくれるから……セイアちゃんも、きっと、許してくれたんだって、そんな風に誤解しちゃって――……」

 

 震える指先を不格好に丸めながら、ミカは言葉を漏らす。そう、夢を見ていた、理想的な夢だ。全部全部、上手くいって、セイアちゃんに「ごめんなさい」と口にして。それをセイアはどこか仕方なさそうに、相変わらず少しだけ鼻に付く、何処か尊大で堅苦しい云い回しで受け入れてくれて――。

 

「此処に来るまで、もしかしたら挽回出来るチャンスがあるかもしれないって思ってた、ま、また、夜が過ぎたら、いつかみたいに、ナギちゃんと、セイアちゃんと、先生と……み、皆、一緒に――お茶会なんて、出来るんじゃないかって」

 

 ――そんな御伽噺みたいな未来、ある筈がないのに。

 

「ほんと、私って、バカだよね……」

 

 ぽろぽろと零れる涙、それが座り込んだミカの膝元を濡らし、視界がぐるぐると回る。感情が胸の中で暴れまわり、あらゆる事がどうでも良くなる様な感覚があった。でも、それでもミカはセイアを見つめ続け、口を開く。

 

「ごめんね、セイアちゃん」

 

 もう、その言葉がセイアに届く事は無い。

 

「私がこんなだから、アリウスに利用されて、大切な人を傷付けて、怪我させて、居場所まで失くして――これじゃあ、まるで」

 

 ■

 

 ――魔女めッ!

 

『どう、か――守って、くれ……ッ!』

 

 ■

 

「おい、コイツ等を摘まみ出せっ!」

「わ、私達だけではっ、正義実現委員会の応援を……ッ!」

 

 暴れ、ミカを指差し、大声で糾弾するサンクトゥス分派の生徒達を抑えながら叫ぶ正義実現委員会の生徒と行政官。全員が全員、ミカを目の敵にしている訳ではない、しかし同分派のミカを見る目は決して好意的ではなかった。

 それを理解している。

 理解しているからこそ、ミカは彼女の心無い言葉を受け止めながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……ミカ様?」

「………」

 

 聖園ミカ(自分自身)に残されたものなど、もう何もない。

 セイアからの許しは得られない、聴聞会はきっと酷い事になるだろう。サンクトゥス分派からの憎しみは消えず、自身の分派が支持しようともティーパーティーに在籍する事は難しくなる。或いは自身の存在こそがトリニティの火種となると判断されてしまえば、退学すら現実的な話であった。

 

 きっと、この学園には居られなくなる。

 そうすればセイアちゃんにも、ナギちゃんにも、二度と会えなくなる。

 そして、生徒でなくなってしまえば、先生にさえも。

 それを思うと胸が張り裂けそうになる。恥も外聞もなく泣き叫びたくなる。

 

 でも、そんな自分でも――まだ、捨てられないものがあった。

 

「先生を、守らなきゃ……」

 

 呟き、静かに拳を握り締める。脳裏に描くのはアリウス・スクワッドの面々。

 あの連中はまだ、先生を狙っている。彼女が気を失う前の言葉、それを反芻し唇を噛み締める。

 きっと予知を得たのだ、セイアちゃんがそう云うのであれば、そうなのだろう。

 だからこれは、せめてもの償い。憎しみを抱いて尚、自分に託してくれたセイアに少しでも報いる為にも。

 これ以上、先生を傷付けさせはしない。

 

「行かなきゃ……セイアちゃんに、お願いされちゃったんだから」

 

 それ位しかもう、自分に出来る事なんてない。

 ふらふらと、覚束ない足取りで歩き始めるミカ。その傍でセイアの容態を見ていた行政官が歩き出したミカに気付き、驚愕と共に呼び止める。

 

「ミカ様、一体何処に……!?」

「先生が危険なの」

 

 その声に足を止め、ゆっくりと振り向いた彼女は行政官に視線を向ける。

 その、余りにも昏く淀んだ瞳を直視した彼女は、咄嗟に悲鳴を呑み込んだ。

 

「スクワッドが先生を狙っているって、セイアちゃんが云っていたから」

「ッ、セイア様が……!?」

 

 百合園セイアの予言。

 それはトリニティに在籍する生徒ならば馴染のあるものだった。そして同分派の生徒であるのならば、言葉に十分な実績と信頼を抱いている事だろう。実際、ミカの言葉に対し彼女は動揺を露にしながらも、その表情には思案の色が滲んでいた。

 

「し、しかし、この様な状況では……! せめて一度ナギサ様に判断を仰いだ後に――」

「その間に先生が怪我しちゃったらどうするの、あなた、責任取れる?」

「そ、それは……」

 

 云い淀み、口を噤んだ行政官を一瞥し、ミカは視界を戻す。そして立ち塞がる生徒をゆっくりと手で押しやりながら、静かに告げた。

 

「私の邪魔、しないで欲しいな」

 

 ■

 

「聖園ミカ! 魔女め! この学園から出て行きなさい――ッ!」

「やめろッ! いい加減にっ……!」

 

 セイアの病室から連れ出され、それでも尚糾弾の声を止めぬサンクトゥス分派の生徒。暴走し、ミカに危険な視線を向ける生徒は漏れなく全員病室から締め出される結果となっていた。セイアの体調を考えれば、あの場で喧嘩や云い合い等論外である。まだ理性の働く状態ならば、その程度の事は少し考えれば分かる筈だ。処置は傍付きの行政官に任せ、正義実現委員会の面々は暴走しかけた生徒達の対処に当たる。今尚扉の前で声を上げる彼女は、ミカに対し人一倍害意を抱く生徒、その筆頭であった。

 彼女を押さえつける正義実現委員会の生徒は苛立ちを滲ませながらも決して軽挙に走ることなく、あくまで抑え込むだけに留める。此処で銃を抜く様な愚行は侵さない、万が一にでも流れ弾が室内に入ってしまえば、それを思えば実力行使には出られない。

 本部から応援が到着するまで何とか持ち堪えて、そんな風に考えていた正義実現委員会の生徒であったが、ふと自身の取り押さえた生徒が嫌に静かになった事に気付いた。

 

「……?」

 

 見れば、愕然とした様子で目を見開くサンクトゥス分派の生徒の姿。彼女がゆっくりとその視線の方向へと顔を向ければ、彼女もまた言葉を失った。

 何せ、開いた病室の扉、そこから顔を覗かせた人物が――彼女の糾弾していた本人だったのだから。

 

「み、聖園ミカ……」

「――あぁ、確かセイアちゃんの所(サンクトゥス分派)の生徒だよね?」

 

 呆然とした様子で呟くサンクトゥス分派の生徒に向けて、ミカは何でもないかのように顔を向ける。扉を潜り、後ろ手に閉めた彼女は、今思いついたとばかりに恰好を崩すと両手を合わせながら笑みを浮かべて問いかけた。

 

「そうだ! 私の銃が何処にあるか知らない?」

「じゅ、銃? な、何を……!」

 

 まるで何も出ないかのように。

 病室でセイアが倒れた事など知らぬとばかりに。

 そんな風に宣う彼女を見て、サンクトゥス分派の生徒は額に青筋を浮かべ、全力で叫んだ。

 

「何を戯けた事をッ!? 銃なんて、今の貴女に持たせる筈が――ッ!?」

 

 しかし、言葉は最後まで続かなかった。

 正義実現委員会の生徒に押さえつけられた彼女の横合いを、凄まじい速度で何かが横切ったのだ。

 それは皮一枚を掠め、背後の壁へと衝突する。轟音を打ち鳴らし、凄まじい衝撃と爆音が周囲に鳴り響いた。

 一拍遅れて、がらがらと瓦礫が崩れ落ちる音が聞こえる。

 

 彼女の頬を掠めたのは――拳。

 

 少し離れた場所に立っていた彼女がいつの間にか目の前に居て、正義実現委員会の生徒を引き剥がしながら右の拳を振り抜いたのだ。

 肩を引かれ尻餅をついた正義実現委員会の生徒は、蒼褪めた表情でミカを見上げ、頬に一筋の傷を負ったサンクトゥス分派の生徒は、小刻みに震えながら自身の直ぐ横に付き出された拳を見つめ歯を打ち鳴らす。

 直ぐ後ろ、備品室の壁が崩れ落ち、その内部を晒していた。

 たった一発の拳で決して薄くはない壁を粉砕したのだ。

 それを間近で見せつけられた彼女は、怯えを隠す事も出来ずに体を硬直させていた。

 ミカは至近距離でサンクトゥス分派の生徒を眺めながら、小首を傾げる。

 

「ごめん、ちょっと聞こえなかったなぁ、もう一回、改めて聞くね?」

「っ……ぃ、ひ――……!」

「――私の銃は、どこにあるの?」

 

 上から見下されるように、機械的で、淡々と、いっそ殴り殺してしまおうかと云わんばかりに問い掛けられる言葉。

 まるで生きた心地がしなかった。

 サンクトゥス分派の生徒は震える指先をゆっくりと渡り廊下の向こう側に向け、「ぱ、パテル分派の、保管室で、厳重に……!」と辛うじて呟く。本当ならばそれも奪って、壊してやるつもりだった。だから場所だけはきちんと把握していた。

 

「あ、そっちだったんだ? サンキュー☆」

 

 その答えを聞いたミカはぱっと表情を明るく変化させ、軽い足取りでその場を後にする。唐突な轟音を聞きつけた生徒達が何事だと駆けて来るが、誰の先導も無く、我が物顔で道を往くミカを視界に捉え、慌てて壁際に身を寄せていた。彼女を止める勇気のある者は、誰も居ない。

 背後ではズルズルと座り込んだサンクトゥス分派の生徒を、正義実現委員会が必死に抱き起している所だった。

 

「……後で、ナギちゃんに怒られちゃうかな」

 

 その惨状を自覚しながら、ミカは苦笑を零す。

 道を往くミカに向けられる視線、そこに含まれる感情。

 恐怖、苛立ち、侮蔑、不安、崇拝、敬意――注がれるあらゆる色、それらを前に、ミカは吐き捨てる。

 

「――でも、どうでも良いや」

 

 この学園の誰に、どう思われようと。

 どの様な沙汰が下されようと。

 

「アリウス・スクワッドを潰せれば、それで良い」

 

 呟きはミカの足音に掻き消され、誰にも届かなかった。

 

 ――先生、やっぱりあの連中に赦しなんて与えられないよ。

 

 ミカは胸中で思う。連中は何度も、何度も、何度も何度も、先生を殺そうとした、その身体に、心に、消えぬ傷を刻んだ。

 私の大切な友達を害した。トリニティを、自身の居場所を滅茶苦茶にした。

 

 そして今尚――その罪を重ねている。

 

「言葉で理解し合えないのなら、もう、手段は一つしかないじゃんね?」

 

 浦和ハナコと共に立ち上がった時、彼女は先生の言葉に振り上げた拳を降ろした。それは尊い事だ、きっと『正しい行い』だ。浦和ハナコは自分とは違い、ちゃんと踏み留まる事が出来た。

 先生にとって、彼女はきっと善い生徒だった。

 

 けれど聖園ミカは、未だ握り締めた拳を解く事が出来ずにいる。

 自分の時間はあの日、スクワッドと地下で対峙した時のまま、ずっと止まっていた。

 聖園ミカが辛うじて踏み留まっていられたのは、先生が無事だったからだ。百合園セイアが生を繋いだからだ。

 でも、百合園セイアは再び倒れ、スクワッドは先生の命を狙っているという。

 だからもう、彼女は止まれない。

 

 言葉で止まる事がないのなら。

 何度でも先生を害そうとするのであれば。

 やっぱり。

 

 誰かが――人殺し(魔女)になるしかないのだ。

 

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