「……サオリ、立って」
雨中、滴る雨音に紛れ先生の声が響いた。
それは想像していたよりも穏やかで、柔らかな口調であった様に思う。雨水に塗れながら地面に這っていたサオリは、緩慢な動作で顔を上げる。そこには、確かな恐怖が見え隠れしている様な気がした。
帽子のつばによって遮られた視界の上半分、影になったそこに先生の表情が重なる。
先生の表情は――未だ見えない。
「私は、サオリと対等に話がしたい、そんな状態では目を見て話す事も出来ないだろう? だから、立って話をしよう」
「だ、だが、私は――……」
「……サオリが立ち上がらないのなら、こうするよ」
云い淀み、未だ這い蹲るサオリに対して、先生は静かにその場へと腰を下ろす。泥水に塗れる事すら厭わず、先生はサオリと目線の高さを合わせる為に雨水の中へと自ら膝を突いた。ぱしゃりと、微かに跳ねた泥が先生の衣服を汚す。純白の中で、その汚れは酷く目立った。
「せ、先生……!?」
「これで対等だよ、目を見て話す事が出来る――さて、話を戻そう」
膝を突いたままサオリを見つめる先生、視線が交わり漸くサオリは先生の表情を視界に捉えた。
彼の表情は――いつか見た日と同じ。
怒りも、憎しみも無い、ただ生徒を案じる大人の表情だけがそこに在った。
「アツコを連れ去った彼女と云うのは――ベアトリーチェの事だね」
「っ、あ、あぁ……」
その、余りにも泰然自若とした様子に面食らい、言葉を詰まらせたサオリ。しかし、一拍置いて気を取り直した彼女はぎこちなく頷いてみせた。そうする事しか出来なかった。
「そうだ、彼女は……アリウス自治区の代表であり、アリウス分校の主人、他の生徒達からはマダムと呼ばれている、彼女がアツコを、追撃部隊を使って自治区へと連れ帰ったんだ」
「……そうか」
戸惑いながらも肯定を返すサオリに、先生は細く絞った吐息を零す。
「――もっと早く、私が……」
声は掠れ、微かに耳を掠めるのみ。雨音の中では、はっきりと聞こえる事はない。目を瞑った先生は数秒程沈黙を守り、それから努めて冷静に問いかける。
「……他のスクワッドは?」
「皆の消息は、分からない」
サオリは首を振ると、散り散りになった仲間を思いながらぽつぽつと当時の様子を語る。
「姫を連れ去られてから直ぐに襲撃を受けた、その時に私が囮を買って出て散り散りになった切り、互いに連絡を取れていない、アリウスを離れる際に追っ手を警戒して端末は破棄していたんだ……先生に連絡した端末は、アリウスの追撃部隊を率いていた者の所持品だったから、もう手元には無い」
「となると、まだアリウスの生徒に追われている可能性もあるか」
「そう、だな……」
現在のスクワッドには碌な支援もなく、弾薬だって心許ない筈だ。サオリと同じように長期間に渡って追跡を躱し続けていたのならば、体力だって底を突きかけているだろう。そう長い間、逃げ続けられるとは到底思えない。合流するのであれば出来得る限り早く動く必要があった。
「アツコは自治区の、具体的には何処に?」
「アリウス自治区の最奥、アリウス・バシリカ――その地下に彼女の用意した秘密の至聖所がある、恐らくは其処だ……そこで具体的に何をするつもりなのかは私にも分からない、ただ、姫の為に用意された場所だという事は知っている、そこで明日の夜明けと共に、儀式を行うとだけ」
「明日の夜明け、残された時間は――半日もないか」
携帯端末のディスプレイに表示されたデジタル時計を見つめ、先生は呟く。半日、たった半日で僅かな手勢を率いてアリウス自治区に攻め入り、アツコを奪還して無事に地上へと戻る。言葉にすれば簡単だが、実際に行動に移すとなると余りにも無謀に思えた。
本来であれば複数の学園に協力を要請し行うべきだ、しかし彼女が云う様に――現スクワッドに協力する様な勢力は何処にもいない。調印式にて行った彼女達の行動は、既にキヴォトス中に知れ渡ってしまっている。仮に先生が矢面に立ち、頭を下げて協力を願った所で、一体どれ程の生徒が了承してくれるだろうか。
思い返すのはアビドスで行ったカイザーグループとベアトリーチェ相手の総力戦。当時繋いだパイプを片っ端から使い、何とか言い訳の立つ範囲で生徒達を招集し勝利をもぎ取った。だがあれは、云っては何だがアビドスという小さな学校だから出来た事でもある。
アビドスの生徒会は実質対策委員会が兼任している、小規模なグループだからこそ話の通りは良く、ある程度自由に振る舞う事も出来た。原則として他自治区内での戦闘行為、及び明確な戦闘行為を目的とした越境は禁じられている。シャーレとして動くのならば合法的にアリウス自治区にて戦闘行為を行う事も出来るだろう、しかしそれも――戦力があって初めて為せる事。
そして残念な事に、先生が
エデン条約に於ける自身の負傷が、強い遺恨を生徒達の間に残していた。それは殊更に口に出す必要が無い程に、分かり切った事柄だった。
クラフトチェンバーを用いた物資面の備え、万が一の手札、先生としての心構え。この日の為に用意出来たものなど、指折り数えられる程度。相手を考えれば非常に厳しいと云わざるを得ない。欠損の補填に奔走し、その習熟訓練が彼のスケジュールを圧迫していた。更に云えば、先生の記憶の中にある日程と、実際に事が起きた日にちにはズレがある――些細な違い、未来は既に記憶の中と解離を始めている。
しかし。
「状況は大体把握したよ、なら――」
静かにそう告げ、先生は立ち上がる。
びくりと、サオリの肩が震えた。状況だけ聞けば余りにも絶望的、そしてサオリからすればこの件に先生が手を貸す理由など一つもない。
普通であれば、「ふざけるな」と一蹴され、殺されても文句は云えない状況だった。
這い蹲ったまま項垂れるサオリを前にして、先生はその濡れた帽子に手を置く。サオリの頭部に、その重さが感じられた。
「――今すぐにでも助けに動かないとね」
「っ……本当、に?」
それは、了承の返答だった。
はっとした表情でサオリが顔を上げれば、目前にはいつも通り、微笑みを浮かべる先生の姿。その言葉が信じられなくて、到底頷かれるとは思ってもいなくて、思わず問いかける。
「手を、貸してくれるのか……先生?」
「当然」
その問い掛けに、先生は破顔する。その瞳は、信念は、ずっと前から変わっていない。
「私は全ての生徒の味方だから、勿論サオリの味方でもある」
「だ、だが……わ、私は、先生の瞳を奪っただろう? その腕だって、私のせいで……何度も、何度も先生に銃を向けた――私は、罪人だ」
「………」
「縋ろうとした身で何をと思うかもしれない、しかし……その傷は、私の罪の証だ、その命を奪おうとした事実は決して消えない、だというのに、どうして罵倒の一つも飛ばさずに、そんな、簡単に……」
「――簡単なんかじゃないさ」
サオリの言葉に被せ、先生は呟く。そう、決して簡単な選択などではない。
伏せられた瞳は、自身の左手を見つめていた。一見普通の腕にも見えるそれは生徒の善意によって与えられた無機質な義手に過ぎない。覆われた右目は今後二度と光を見る事は叶わないだろう。
その事に思う所はある、何も感じていないと云えば嘘になる。
しかし。
「でも、罵倒されようと、傷付けられようと、裏切られようと、或いは……この命を奪われようとも」
生徒に、自身の信念に殉じる覚悟があって初めて踏み出せる一歩。
それこそが、先生の常なる一歩だった。
「私は、
――生徒こそが、絶対である。
サオリに向けられる瞳には、強烈で、鮮烈で、余りにも輝かしい光があった。それは意志だ、先生の鋼に勝る意思に他ならない。その強すぎる意思が、信念が血肉となり、先生という肉体を象っていた。
その光を直視したサオリは、どこか愕然とした様子で唇を震わせ、怯んだように顔を俯かせる。地面を握り締める両手が、小さく揺れた。
「理解、出来ない」
「今はそれで良いんだ、けれど……爆弾は没収ね」
苦笑し、先生は投げ捨てられ、地面に転がったヘイロー破壊爆弾を手に取る。手にしたそれを眺めながら、ふと先生はサオリに言葉を投げかけた。
「持っていたヘイロー破壊爆弾は、これで全部?」
「あ、あぁ――……」
サオリはぎこちなく頷き、外套の内側を探ると他にない事を確かめ肯定した。
「そこにある分で、全部の筈だ、それと起爆装置も約束通り渡す……信用できないと思ったら、いつでも私を処分してくれ、決して抵抗しないと誓う」
「ヘイロー破壊爆弾には、確か手榴弾タイプのものもあったよね?」
「手榴弾も……?」
「うん、ヘイロー破壊爆弾は全部没収」
「わ、分かった、先生がそう云うのであれば――」
先生の言葉に戸惑いを見せたサオリであったが、自身の言葉を曲げる様な真似はしない。内側に備えていた
サオリは起爆装置とヘイロー破壊爆弾を指差しながら、強張った面持ちで告げる。
「その手のタイプは安全装置が二重に掛かっているんだ、ちゃんとした操作を行わなければ爆発しないから安心してくれ」
「そっか、それは何より」
その言葉に頷いた先生は、徐に起爆装置を左手で握り潰す。プラスチックの拉げる音が響き、同時に中の基盤が剥き出しになった。拉げたそれを足元をに落とすと、水溜りの中に沈め、そのまま足で念入りに踏み潰す。
そんな先生の一連の動作を、サオリはどこか唖然とした様子で見ていた。
「なッ、何を――!?」
「私が持っていても、使わないからね」
そう云って粉々になった起爆装置を摘まんだ先生は、そのまま無残な姿となった起爆装置を傍の薄汚れた廃棄ボックスへと投げ入れる。軽い音を立てて暗がりの中に消える起爆装置、これで少なくともヘイロー破壊爆弾を起爆させる方法は無くなった。物理的に起爆させようとすれば可能だろうが、肝心の爆弾も自身が持っている。コレをサオリに向けて使う様な気は更々ない。
「爆弾本体は後で私が処理しておくから――さぁ行くよサオリ、ミサキとヒヨリを探さないとね」
「……ちょ、ちょっと、待ってくれ先生!」
先に歩き出した先生の後を慌てて追いかけるサオリ。その表情には困惑が滲んでいる。自分を処分する手段を目の前で破壊され、困惑するなと云う方が無理だろう。あれはサオリを従順に制御する為の首輪だった、何処の世界に敵対していた猟犬の首輪を壊す馬鹿が居るものか。
そんな思いを抱えながら足を動かすサオリ、しかし先生は僅かな逡巡も、後悔すらも見せずに前を往く。
「せ、先生……!」
揺らいだ声が、廃墟街の中に響いた。
――えぇ、少々待って頂きましょう。
「っ!」
ぞわりと、サオリの背筋を悪寒が駆けた。一拍遅れて先生も目を見開き、咄嗟に振り向く。しかしそれより早く、その横合いを何か、風としか表現できない人影が駆けた。吹き抜けるそれに思わず目を瞑り、袖で顔を覆う先生。地面を蹴り穿ち、加速する影がサオリに肉薄する。
雨は風に吹かれ、一瞬その音を止めた。
「な――ぐッ!?」
咄嗟に銃を構えられたのは、サオリの天性の勘によるものか、或いは血の滲む反復練習の為せる業か。
しかし突き出されたソレは振るわれた腕によって宙を舞い、そのまま人影はサオリの喉元を捉えた。
そして勢いそのままに背後にあった廃墟の外壁へと叩きつけ、凄まじい轟音と衝撃を撒き散らしながら停止。サオリの背に衝撃と痛みが突き抜け、外壁に罅が走る。
「かは……ッ!?」
「サオリ――ッ!」
唐突な襲撃、意識の間隙を突いた奇襲――正に電光石火。
察知する事も、対応する暇もなかった。すわアリウスの追撃部隊かと先生が懐からシッテムの箱を取り出せば、雨の中、月を覆っていた雲が流れ月光が差し込む。
微かに漏れた明かりに照らされるのは――見覚えのある狐面。
「ワカモ……!?」
それは闇に良く溶け込む黒装束を身に纏ったワカモであった。
仮面で顔を隠した彼女はサオリの頸を締めあげ、剣呑な気配を身に纏っている。先生は思わず彼女の名を呼ぶ。声には隠しきれない動揺が含まれていた。
「お、前は、災厄の、狐……っ!?」
「追われる身でありながら、随分と不用心ですね? 先程の銃声、確かにこの耳に届いておりました、何分耳が良いもので」
「くっ……!」
「お話は途中から聞かせて頂きましたよ――えぇ、確りと」
ギチリと、万力の様な力がサオリの喉元を握り締める。指が食い込み、その爪が肌を裂かんと血を滲ませていた。苦悶に表情を歪めながら、サオリは胸中に焦りを見せる。狐坂ワカモ、当然その存在をサオリは熟知している、何せ彼奴とは何度か銃を交えた仲――そして彼女が連邦捜査部シャーレに身を寄せている事もサオリは知っていた。
最初から彼女に自分を処分させるつもりで、先生はこの呼び出しに応じたのではないか。
一瞬、ほんの一瞬だが、サオリはそんな風に疑ってしまった。
そんな思考と共に先生へと視線を向ければ、そこには動揺を貼り付けたまま体を硬直させる先生の姿があった。その姿からは、最初からこの事態を仕組んでいた様にはとても思えなかった。
「あぁ、勘違いなさらないで下さい、これは全て
サオリの視線か凡その思考を予測したワカモはそう云って嘲笑う。
そもそも、その様な事を思う事自体がお笑い種だと、そう云わんばかりに。
「本当ならばあの方に知られず、優しい闇の中で葬ってしまえれば良かったのに、よりにもよってその当人に縋ろうとは……全く、盗人猛々しいと云うべきでしょうか、面の皮の千枚張りと云うべきでしょうか? あなたを追っていたアリウスの兵隊共も、存外役に立ちませんね」
「っ、どう……いう――?」
「助けてくれる人が先生しか居ない? それはそうでしょう、あなた方はそれに見合うだけの事を為したのですから、十分に後悔して地獄に堕ちれば良いのです、先程御自分で仰っていましたね? 瞳を奪い、腕を奪い、その
ワカモが顔をぐっとサオリに近付け、その耳元で囁くように告げた。
「此処で散る事こそが唯一の贖罪と知りなさい、スクワッド」
「ぅッ……!」
喉を圧迫する、万力の如き指圧。
言い訳の余地はない、この女は――本気で自身を殺すつもりだ。
掌から伝わる熱に、サオリはそう確信した。
「ワカモ、止めるんだッ!」
「……あなた様」
余りも唐突な光景に一瞬自失していた先生ではあるが、ワカモの行動を見逃す訳にはいかないと、何とか意識を取り戻す。シッテムの箱を抱えたまま一歩を踏み出し、あらん限りの声で叫んだ。
その必死の声にワカモはサオリを掴んだまま、ゆっくりと振り返る。闇夜の中で彼女の黄金色は良く輝き、その瞳が見開かれる。
「あなた様のお心、思い遣る気持ちの深さ、このワカモ、十分に理解しております、あなた様がこの行動を望まない事も、その深い愛情が遍く生徒に注がれている事も、例えそれがその美しい瞳を、愛おしい
そう、狐坂ワカモは先生の意志こそを重視する。
彼がやめろと云えばやめるし、難しい事柄であっても極力その意に沿った形で叶えようとする。彼女は混沌と破壊こそを好むが、だからと云って無差別に撒き散らすつもりなど毛頭ないのだ。特に先生の前であるのならば尚更。
嫌われたくない、疎まれたくない、その性根は何処まで行っても変わる事はないだろう。先生が自身を見限る筈がないと思いながらも、根底ではその可能性を何処かで恐れている、それが狐坂ワカモという少女だった。
――だが、明らかな害意を見逃せと云うのであれば別である。
ワカモの瞳が仮面越しに煌めき、真正面からサオリを射貫いた。
「この者は【害悪】です、あなた様に厄災を齎す存在……! あなた様にあれだけの恩を受けておきながら、この女は一度ならず二度までもあなた様を傷付け、挙句の果てにあのような言葉を吐き捨てた――ッ!」
「ぐッ!?」
より一層強く、首を握り締めるワカモ。その瞳には燃え滾る炎の様な憎悪と嫌悪が渦巻いていた。骨が軋む、サオリの肉体が本能的な危険信号を発し、反射的にワカモの腕を掴み、その胴体を蹴り飛ばす。しかし彼女の肉体は微動だにしない。感情で身体的強さが変わるとは思えない、しかし実際問題として鋼を蹴っている様な感触がサオリの足先に伝わって来た。
そんなサオリの抵抗をものともせず、ワカモは憤怒を滾らせたまま叫ぶ。
「最早、我慢の限界なのですよ、錠前サオリ……ッ!」
「っ……!」
声は廃墟街に響き渡り、その肩が小刻みに震える。それは抑えきれない怒りの発露だった、堪えようとしても堪え切れない、正に狐坂ワカモが生涯で最も怒りを覚えた瞬間。それこそが今、この瞬間。
「忍術研究部の皆さんも直に合流致します、あなたのお仲間を救う事には否やはありません、アリウスには……いえ、あの女には然るべき報いを与えます、そしてスクワッドにも等しく――しかし」
――そこに、
「アリウスの殲滅は恙なく、私達が引き受けましょう、仮にあなたが私共に寝返るとして、再びあの御方の御心を裏切らないと証明出来るのですか? 二度も、三度も、伸ばした手は振り払われたのに、どうしてその様な者を信用出来ましょう? あなたが傍に存在するというだけで、私は虫唾が走って仕方ないというのに――!」
「ッわ、たし、は――……ッ!」
「返答は不要です、あなたは此処で果て消える
ワカモの言葉に何かを口にしようとするサオリ、しかし彼女の言葉が紡がれる事は終ぞなく。その仮面越しにも悍ましい笑みを浮かべている事が分かる程に高揚した声をワカモは響かせた。
「理解出来ましたか? ならば、このまま絞め殺して差し上げましょう――ッ!」
「ぐ、あッ……!?」
「ワカモ――ッ!」
自身の愛銃を手放し、その両手でサオリの首を締めに掛かるワカモ。外壁に押し付けながら敢行されるそれはサオリの喉元を軋ませ、外壁の罅割れを深く、大きくしていく。徐々に、徐々に視界が狭まっていく、血の流れが、血管に流れる血液が分かる程に鮮明に、口元からか細い呼吸が漏れた。
意識が保てなくなる、身体に力が入らない、思考が――回らない。
ワカモの手首を掴んでいた指先が、するりと滑り落ちた。
「このまま意識を断てば、件の
濁った叫びが聞こえた、それはワカモの声だった。みしりと体内から音が鳴る。サオリは自身の顔色がどんどん悪化していくのが自覚出来た。指先が震え、背筋が勝手に反る。
雨音が、何処か遠くに感じた。
しかし、此処で果てる訳にはいかない。
その一念が最後の力を沸き立たせ、サオリの指先を外套の中に差し込ませた。
「待ってくれワカモ、私は――っ!」
焦燥を滲ませ、二人の元へと駆け出す先生。ワカモの纏う気配は異様だ、説得は困難であると強く感じられた。しかし、だからと云ってただ見ている訳にはいかない。言葉を尽くす事には意味がある筈なのだ、踏み出した一歩が水溜りを跳ねさせ、先生は必死の形相で手を伸ばす。
「目を――……」
「――ッ」
しかし、それを遮る声があった。
サオリは降りしきる雨の中、微かに届く声で苦悶に表情を歪めながら呟いた。
「目を瞑って、耳を、塞げ……先生」
ピン、と何かを弾く音が聞こえた。それは雨音の中でも確かに、ワカモの耳に届く。両手で握り締めたサオリの喉元、その先にある瞳が此方を見下ろす。
その瞳は、まだ死んでなどいなかった。
「耳が良い、らしいな――災厄の、狐」
「何を――」
カランと、足元から何か金属が跳ねる音がした。
咄嗟に視線を足元へと向ける、そこには雨水の中で転がる、筒状の何かが見えた。手に握り締める事が出来る程度に小さく、細長い。人は分からないものを恐れ、反射的に知ろうとする。故にワカモが視線を向けたのはごく普通の反応だった。
反対にサオリは顔を背け、自身の両耳を覆う。
その動作で、ワカモはその転がった物体の正体に気付いた。
「っ!?
一拍後、爆音。
一瞬の閃光と共に、ワカモの鼓膜を劈く一撃。それは凄まじい衝撃で以て脳を揺らし、視界が白く染まり、平衡感覚が失われるのが分かった。ワカモの意識が一瞬のみ遠のき、その手から力が抜ける。その瞬間を見計らってサオリは全力で背を逸らし、ワカモを蹴飛ばした。
ワカモは抵抗する事も出来ず地面の上を転がり、サオリは外壁に叩きつけられ、ずり落ちる様にして尻餅をつく。喉元を抑えながら咳き込むサオリは、涙を流しながら顔を上げた。
「ッ、ゲホッ、ごほっ、ぐ、せ、先生――ッ!」
「っ……!」
先生は雨の中蹲る様にして耳を塞ぎ、目を瞑っていた。サオリの咄嗟の声に反応し、身を守ったのだ。しかし、それでも比較的近距離で喰らった為かその表情は歪み切っている。
キヴォトス製の閃光弾は少々強烈で、特に人間の先生からすればコンカッショングレネードに近い威力を誇る。至近距離で直撃でもすれば、内臓が破裂しても可笑しくない。
咳き込み、ふらつきながら立ち上がるサオリは一先ず先生の無事に安堵する。彼女は転がっていた愛銃を掴むと、微かに付着していた砂利を払い、そのまま覚束ない足取りで先生の元へと駆け寄った。
「先生、立てるか? 急いで、此処から……ッ!」
「ぅ、っ、小癪な――あなた様っ、あなた様……何処にッ!?」
ワカモは至近距離の閃光を直視し目を焼かれ、音撃によって聴覚を狂わされた。這い蹲り、目を瞑りながら手を伸ばす彼女は一時的に無力化されたと云って良い。しかし、あくまで一時的だ、数分もすれば立ち上がり何事も無く復帰する事だろう。
逃れるならば今しかない、そんな思いと共に先生の腕を引く。
先生は鳴り響く耳鳴りに目を細めながら、何とかぎこちなく頷いて見せた。その視線が一瞬、ワカモを捉える。表情をくしゃりと歪め、何事かを口にしようとした先生だが、それよりも早くサオリの腕が強く先生を引いた。
雨音に混じり、二つ分の足音が周囲に響く。
「錠前、サオリ……ッ!」
「――ッ!」
背後から、怨念の籠った声が轟いた。思わず振り返れば、徐々に小さくなっていくワカモが這い蹲ったままサオリに怒りの形相を見せていた。仮面で覆われていても尚、そう直感できるだけの色がある。
ワカモは未だ目を瞑り、その耳は垂れ下がっているが――しかし、その顔だけはサオリの方角を捉え、震える指先を突きつけながら叫ぶ。
「例え、あなたが如何に上手くあの御方の影へと潜もうと、必ず引き摺り出し、その罪を償わせてみせます……! そう考えるのは私だけではありません、あなたは先の襲撃……いえ、それ以前の蛮行を含め、数多の恨みを買ったのですから――!」
その爪で地面を抉り、嘗てない程の声量で彼女は告げる。
「私達の怒りを、その憎悪を……存分に思い知りなさいッ!」
「―――」
廃墟街に響き渡る絶叫。
サオリはその言葉に、一瞬、ほんの一瞬だけ息を止めた。
しかし彼女は足を止める事無く、先生の腕を掴みながら闇の中へと消えていく。ワカモは薄らと捉えられる輪郭の中で、その背中を憎々し気に見つめ続けていた。
■
「はっ、ハッ、うっ、ゴホッ……!」
「サオリ……!」
どれ程走っただろうか。少なくとも、先生の息が弾む程度の距離は走り続けた筈だった。追撃の足音は聞こえない。
暗闇の中で方角も分からず、雨音に紛れながら裏路地に身を寄せるサオリ。外壁に寄り掛り、咳き込みながら俯く彼女の背中を先生は摩った。サオリは喉元を軽く摩りながら、緩く首を振る。彼女の喉にはハッキリ形が浮かび上がる程の手形が刻まれていた。
「大丈夫、だ――少し、喉を締められた程度で、済んだ、先生こそ、大丈夫か……?」
「私は平気だよ、少し驚いただけさ」
耳鳴りも、視界のちらつきも一分そこらで消え去った。唯一悔やまれるは、あの瞬間にワカモへと言葉を尽くせなかった事。内心で臍を嚙みながらも、先生はその素振りを見せずにサオリの体調を気遣う。
「耳や目に異常は?」
「至近距離で喰らったが、目は閉じて顔を背けたし、咄嗟に耳も保護した……問題、ない」
ワカモと同じ至近距離で閃光と爆音を受けながらも殆ど影響を受けなかったのは、不完全とは云え心構えと対策が出来ていたから。
頷き、大きく息を吸い込んだサオリは空を仰ぐ。曇天に覆われた視界は暗闇に閉ざされてしまっている。
月明かりは、見えない。
――【私達の怒りを、その憎悪を――存分に思い知りなさいッ!】
「あぁ、そうだ、あの憎悪を……怒りを生んだのは、他ならぬ
彼女の言葉を思い返し、そう呟く。
嘗て自分達がそれを御旗に戦った様に。
憎悪を、復讐を、その怒りを晴らすのだと声高に叫んだように。
今度は彼女達がその『正義』を翳し、自身の前に立ちはだかっていた。
数百年越しに受け継がれた、何処の誰とも知れぬ感情ではない。
他ならぬ今を生きる自分が生み出し、刻み、与えた感情――それと相対する時が、今だった。
「分かっていた事だ、先生が私に協力してくれたとしても、他の生徒達はきっと、それを許さない」
「………」
「本来ならば、私達は彼女達に足蹴にされ、這い蹲りながら罵声を浴びせられるべきなのだろうな」
「……そんな事、私は望まないよ」
――あぁ、知っているとも。
そんな言葉をサオリは呑み込んだ。その善性を、どうしようもない程に暖かなその温もりを、サオリは実感している。あの瞬間、ワカモに襲撃された一瞬のみとは云え、この大人を疑った自分を恥じる程度には知っているのだ。
しかし、それを言葉にする事はしなかった。
どの口が、今更そんな言葉を吐けると云うのだと。
そんな思いが胸中に燻っていたから。
「ぐッ――だが、今彼女の言葉を受け入れる訳にはいかない、せめて姫を……アツコを助けるまでは、この汚らわしい命であっても喪う訳にはいかない」
外壁に手を突き、自身の足で立ち上がったサオリはそう告げる。雨に塗れながらも、その瞳は決して死んでなどいない。ぶら下げた愛銃を何度か握り直しながら、彼女は先生へと振り返る。
「それを果たした後ならば、どんな罰でも、処遇でも、甘んじて受けるつもりだ」
そう、彼女にとって優先すべきは家族の存在、それひとつのみ。それが果たされ、彼女達の安全が確保された後ならば、全ての罪悪を被って裁かれる覚悟が彼女にはある。
矯正局でも、ヴァルキューレでも、シャーレでも、ゲヘナでも、トリニティでも構わない。投獄だろうが、処刑だろうが、リンチだろうが、それでも家族が無事だと分かったならば――冷たい牢獄の中でも、群衆の中での処刑だろうとも、自分の結末が貧民街の片隅で打ち捨てられた亡骸であっても、きっと微笑んで死んで行ける。
白く濁った吐息を吐き出し、サオリは暗闇に向けて足を進める。
「行こう、先生……まずはヒヨリと合流する」
「……分かった」
彼女の背中を見つめる先生は、その両手を握り締めたまま静かに頷く。胸中にはあらゆる感情が渦巻いていた。しかし、それを吐露すべきは決して今ではない。感情を、言葉を呑み込み、先生はサオリの後に続く。
「――ワカモ」
最後にふと振り返った先生は、雨音の中で小さく彼女の名を呼ぶ。しかし暗闇の中を進むサオリの背中を一瞥し、彼はその言葉を噛み締めながら暗闇の中へと一歩を踏み出した。