――最初の記憶は、長年続いた内戦の終わりを宣言するマダムの姿だった。
それ以前の事は、余り憶えていない。毎日生きる事に必死だったから、その日の飢えを凌ぐ食糧を確保するだけでも精一杯で、何かを考える余裕も、学ぶ機会もなかった。
私達は当時幼かったから、内戦の事もマダムの事も何一つ知らなかったの。
日常的に鳴り響いていた銃声が消えて、怒声も、悲鳴もなくなって、突然現れた大人を前に、群衆に紛れた子どもの一人として、ただ見上げる事しか出来なかった。
マダムは生き残った全ての生徒の前で、自分がアリウスの新しい生徒会長であり、主人で在り、支配者だと云っていた。そうして内戦を経て残った全ての生徒に多くの事を教える為に、教育を施して行ったの。
貧民街に住んでいた私達も、その対象だった。
それが『Vanitas vanitatum omnia vanitas.』――全ては虚しいものという真理。
私達が経験する全ての苦痛はトリニティによって齎されたものであり、ゲヘナはそもそも共存など出来ない存在だと繰り返し教えられた。
私達は自分がどうしてこんな場所にいるのか、どうしてこんな生活をしているのか、そんな事は何も知らない。歴史を知る必要も、機会もなかったし。私達だけじゃない、当時貧民街に居た子ども達は皆似たようなものだと思う。
だから教えられた事は素直に信じたし、真偽を問うつもりもなかった。そもそも内戦以前の事を知ろうにも、昔あった書物や書庫に保管されていた歴史書の類も、書籍は全部マダムが回収してしまったから、多分、知ろうとしても出来なかったと思う。
訓練校に入った後は――そうだね、兎に角訓練に次ぐ訓練。
どうやって戦えば良いのか、どうやって他者を傷つければ良いのか、どうすればヘイローを壊せるのか――人を、殺す事が出来るのか。
そういう事ばかり学んで、それ以外は必要ない事だとして切り捨てられた。
寝ても覚めても訓練、訓練、訓練……。
人の殺し方を教えられながら、誰かを憎しみ嫌う『殺害の意志』を秘めている私達は、『人殺し』と同義だとも教えられた。
そして、そんな『人殺し』に、この自治区以外に居場所など無いと。
私達は日陰の存在で、トリニティやゲヘナの生徒は日向の存在。影と光が交わる事は無い、どちらかが存在している限り、どちらかは消える運命、私達が永遠に理解し合える事は無い。
世界は、そういう風に出来ているんだって。
――彼女は自分こそが真実を教える真なるものであり、生徒達が従い尊敬すべき大人だと云っていた。
実際、アリウスの幹部もそういう風に彼女を扱っていたし、見ていた。彼女の云う事は正しいんだって、そうしないといけないんだって。
それを疑うだけの知識も、余裕も、その発想さえ無かったの。
■
パキリ、と。
ミサキが戦闘糧食を歯で圧し折る音が聞こえた。薄いブロック状のそれをゆっくりと咀嚼しながら、彼女は薄昏い瞳で手にした糧食を眺める。
何て事のない食事だった、その気になればコンビニですら買えてしまいそうな――普通の、ごく一般的な。
賞味期限が切れていない、パッケージが擦れていない、砂の様な味がしない、食べても体調を崩さない。そんな当たり前のものを舌の上で転がしながら、彼女は呟く。
その口元は、僅かに笑みを象っていた。
「……
「た、大変な時は、表通りのお店から食料を盗んだり、ゴミ捨て場の廃棄されたものを食べていましたよね、冬場は特にご飯が無くて、でも夏場は夏場で痛んだものも多く……えへへ、それで熱を出した時は、もう駄目かと思いました」
「あの時は、確か姫とリーダーが薬を持って来てくれたんだっけ」
「はい、何処から持って来たのかは……聞けなかったですけれど」
懐かしそうにそう呟いて、ヒヨリはその視線を自身の胸元に落とす。座り込んだ彼女は膝を抱えたまま、ぽつぽつと当時を思い返しながら言葉を続けた。
「彼女の下に集められた後は、皆、その教えに従っていました、でも、それは怖かったからなんです、反抗すると怒られるから、殴られたり、蹴られたり、銃で撃たれたり……アズサちゃんとか、姫ちゃんみたいに」
ヒヨリがぶるりと肩を震わせ、自身の頬を擦る。恐らく殴られた経験があるのだろう、彼女にとっては辛い記憶で、そしてそう云った暴行は日常茶飯事でもあった。暴力と教育、苦痛と恐怖によって支配される世界――それが彼女達の育って来た環境、その見慣れた光景そのものであった。
「い、一番堪えたのは、何日も食事を貰えない事でしたね、独房入りになると、食事どころか水も碌に貰えなくて、ひもじくて、寂しくて、辛くて、何が悪かったのかも分からないまま、ずっと謝る事しか出来ないんです」
「……余りにも反抗的だと判断されると、独房の中でも一際狭くて暗い、地下に放り込まれるの、光は少しも差し込まなくて、両手を伸ばせば触れられる距離に壁があって、ギリギリ体を横たえる程度の広さしかなくて――あそこに長くいると、気が狂いそうになる」
呟き、ミサキは自身の身体を掻き抱くようにして顔を伏せた。その指先は僅かに震えている。それを隠す様に、ミサキは糧食を口に含んだまま小さく唇を動かし、その瞼を静かに閉じた。
「さ、最初は反抗的な子もいたんですけれど、そういう積み重ねが抵抗する意思とか、気力とか、そういうものを根こそぎ奪っていくんです……何も考えず、望まず、諾々と従う事が、あそこでは一番楽で、安心出来る行為でした」
――だって、そうしなければ生きる事が許されなかったから。
「………」
先生はただ、静かに彼女達の言葉を聞いていた。
聞きながら、目を瞑り、口を閉ざしている。
不気味なほどに、先生は静寂を保っていた。
そう在ろうと努めていた。
しかし幾ら言葉を慎もうとも、胸から湧き上がる激情ばかりはどうしようもなかった。
意図せず、手に持っていた携帯食糧を強く握り締める。ミシリ、と包装ごと食糧ブロックが砕ける音が手の中から響いた。見れば、先生の手には青筋が浮かび上がり、その表情は影に覆われながらも――凄まじい形相をしていた。
それは決して生徒に見せる事がなかった、先生の苛烈な一面である。不条理に対する怒り、それを為した元凶に対する怒り、自身の不甲斐なさに対する怒り、あらゆる憤怒が綯交ぜになって、一つの巨大な激情のうねりと化している。
「ひえっ、せ、先生!? な、何か、凄い顔になっていますが……!?」
「……はぁ、だから云ったでしょ、楽しい話なんかじゃないって」
ヒヨリは恐怖交じりに、ミサキはどこか呆れたように視線を逸らしながら云った。
彼女の云う通りだった。その様な話である事は予想出来ていたというのに、故にその感情を見せたのは自身の不手際だ。先生は大きく息を吸い込み、自身の顔を左手で覆う。冷たい
「……ごめん、二人共」
小さく、そう言葉を漏らす。
ミサキが顔を上げ、先生を見た。
「何、突然?」
「私が……私が、もっと早く――」
そこまで口にして、先生は唇を強く噛む。それは、傲慢な物云いだ。その自覚はあった。
それでも思わず口を突いたのは、身構えて尚胸を穿つ自責の念があったからだ。何か、ほんの僅かでも良い、変わるものがあったのではないかと、その可能性があったのなら、零さずにはいられなかった。
ミサキが鼻を鳴らし、嘲笑を浮かべながら目を細める。
「何それ、先生がもっと早くシャーレに着任していれば私達は救われていたかもしれないって――もしかして、そう云いたいの?」
「………」
「……そんな筈、ないでしょ」
そう、ミサキは想う。
どれだけ先生が偉大な存在であろうと、その手は全てを守る事など出来ない。
その手の届く範囲には限りがある。
ましてや、それが過去の事ならば尚更。
どれだけ強大な力を持っていても。
どれだけ強い意志を持っていたとしても。
過去に喪われたものを――取り戻す事は叶わない。
少なくとも、ミサキはそう考える。
俯きながら、彼女はぽつぽつと声を漏らした。
「先生は大人が責任を負うべきだって、あの大橋で、私の前で云ったけれど……この話に関して先生に責任なんて無い、これはただ、此処がそういう世界だっていうだけ、辛くて、苦しい、そういうどうしようもない……――大人だからって、何でも出来る訳じゃないんだから」
「そ、そうですね、それが人生ですから……辛くて、苦しい事が、えへへ」
「………」
先生は、彼女達の言葉を重く受け止める。それしか出来る事がない。彼女達はそう口にするが、いいや、だからこそだと、彼は胸中で想いを吐露した。その言葉が、思い遣りが、より一層先生の意志を強固なものとする。そう在らねばならないと、先生の自己を補強する。
それを呑み込む様に、手の中で粉々になった食糧を口に放る。皺だらけになった包装を握り締め先生は口元を指先で拭った。
「……アツコについて、教えて欲しい」
「ひ、姫ちゃんですか? えっと――やっぱり、何で姫ちゃんって呼ばれているのとか、気になりますかね……?」
「……姫は、私達の幼少期からそういう風に呼ばれていて、本当のお姫様だったんだ、私も詳しく知っている訳じゃないけれど、自治区を統治していたかつてのアリウス生徒会長の血を引いているんだって、だから【ロイヤルブラッド】って呼ばれていたみたい、アリウス自治区の生徒会長はそれまで世襲制だったらしいから――本来なら、彼女がアリウス分校の生徒会長になる筈だった」
しかし、内戦の有耶無耶で彼女が実権を握る事無く、実際にはマダムがその席に座り、彼女の役割は空白のものとなった。
「……まぁ、さっきも話したけれど、リーダーと私、ヒヨリは小さい頃から貧民街のスラムで碌でもない生活をしていたの」
「そう云えば、私の記憶の中にいる姫ちゃんは、昔から気品あふれる服を着ていましたね、わ、私達とは全然違って……え、えへへ……」
そう云ってヒヨリは微笑みを零す。それはまだ、誰かが幸せに見える頃の記憶だった。自分達は辛くて、苦しくて、酷い場所にいたけれど――それでも、同じ場所で、確かに幸福に見える子どもがいる事は、彼女にとって何か、表現できない夢を見る事が出来た。
「私やリーダーにとって、姫ちゃんは羨望の的でした、いえ、貧民街の子達なら皆同じように思っていたと思います……ミサキさんはあまり、興味が無さそうでしたけれど」
「別に、私もまったく興味が無かった訳じゃなかったよ、ただ表に出さなかっただけ」
「そ、そうだったんですか?」
「姫は凄く優しかったから、私達みたいな存在にも手を差し伸べてくれて……あぁ、そう云えばマスクを被っていなかった頃は、良く笑っていたっけ――多分、元居た場所より酷い環境だったのに、弱音なんて吐かずに……アツコは、私にとっても大切な人だよ」
「………」
「――内戦が終結した後、姫は【彼女】の手で生贄として捧げられるらしいって噂が流れ始めた、それがどういう意味なのか、どうしてそんな噂が流れ始めたのか、私達は良く分かっていなかったけれど……当時の私達は、皆から尊敬される貴い存在だから、選ばれたんだって思っていたよ」
生贄――それの意味を、彼女達は良く理解していなかった。
けれど、何かに選ばれるという事は、きっと素晴らしい事なのだと。
きっと、彼女が貴き血を引いた存在だから、選ばれたのだと。
そんな風に思って、心の中で祝福した。それが彼女にとって幸福につながる事なのだと信じていた。
実態はどうあれ、こんな地獄の様な場所よりも――ずっとずっとマシな場所に行けるのなら、と。
「でも、リーダーはそれに納得しませんでした、だから生贄として捧げられる筈だった姫ちゃんを私達の元へと連れて来て……」
あぁ、そうだ――彼女達は今でも憶えている。
あの自分達とは全く生きる場所が異なる筈の少女が、自分達と同じ、何の変哲もない黒い布切れに身を包んで、それでも笑顔でやって来た時の事を。
貧民街に似合わない微笑みと、手にした小さな小さな、白い花。
あの日、自分達家族は四人になった――こんな苦しみと痛みに塗れた場所で、余りにもちっぽけで、何も持たない、踏み躙られるだけの私達と、高貴なお姫様が、家族に。
それを
「リーダーが一体どうやって連れて来たのか何て想像もつかないけれど、でも彼女が素直に姫を解放するとは思えないから、リーダーと彼女の間で何か、約束でも結んだのだと思う」
そのミサキの言葉に、先生はサオリと交わした言葉を思い返した。雨の中、膝をついた彼女が零した真実。
■
『姫の運命を変えたいのなら、彼女の命令に従えと』
『そうすれば、姫だけでなく、他の仲間も助けてやると……』
■
「姫と一緒に貧民街で暮らせた時間は、余り長くなかったかな、皆で一緒に暮らす様になって、直ぐに一定の年齢より上で、比較的健康な子ども達がマダムに招集され始めたから――私達は特に、姫と一緒だったから……抵抗する意思も、力もなかったけれど」
「リーダーも元々、そうなる事が分かっていた様でしたね……」
「うん、そうして姫は顔と声を隠して、私達と一緒に訓練を受ける様になったの、リーダーは私とヒヨリ、姫……そして後から合流したアズサを自ら指導した、今思い返しても辛い記憶しかないけれど」
「あぁ……思い出したくもないですね、あの頃のリーダーは凄く怖かったから」
「でも、それのお陰で戦う力は得られた、アリウスだとそれが何より重要だったし」
膝に顔を埋め、呟くヒヨリにミサキはそう答える。
アリウス分校の尖兵として、訓練校に入れられた後、サオリは誰よりも率先して自らを鍛え上げた。周りの子どもと比較も出来ない程の鍛錬と文字通り血の滲む努力、それを為し座学、実技共に高い成績を維持し続け――そしてそれを、自身の家族にも厳しく強いた。
それが、この場所で生き残る唯一の方法だと知っていたのだ。
力は、善くも悪くも家族を守ってくれる。
全ては、交わした約束を成就させる為に。
その矛先が、何処に向くのかも知らずに。
「その後は知っての通り、私達は特務に選抜され『スクワッド』と呼ばれるようになって、アリウスの多くの任務を遂行するようになった、色々と手を汚して来た自覚はあるよ――まぁ、結果的に一番重要な任務は果たせなかったし、姫は約束通り生贄として捕まってしまったけれど」
「………」
「それに、私達は元々ターゲットだったシャーレの先生と一緒に、裏切り者としてアリウスに戻ってきているし……本当に、笑えない話だね」
そう自らを嘲り、ミサキは自身の腕を撫でつける。巻き付けられた包帯がはらりと緩み、風に靡いていた。家族がバラバラにならないよう、必死に生き残る為に戦い続けて来た。けれど、今はその母校に牙を剥き、本来であれば敵対する先生と共に自殺行為としか思えない様な作戦を遂行している。
彼女の思い描いた未来も大抵惨憺たる代物だったが、少なくとも此処まで劇的ではなかった。
「笑えなくとも――進むしか、私達に道は無い」
「……!」
声が聞こえた。
全員が声のした方へと振り向くと、両手に毛布と先生の外套を抱えたサオリが壁に肩を寄せながら、佇んでいるのが見えた。その姿を見たヒヨリが腰を浮かせ、喜色を滲ませた声を上げる。
「り、リーダー!」
「……目が覚めたんだ、体調はどう?」
「動けない程じゃない、手間を掛けた」
緩く首を振るサオリ、そのまま壁から身を離すと確かな足取りで三人の下へと歩み寄る。その表情は、嘘を云っている様には見えない。
先生は彼女を見上げたまま、その名を呼ぶ。
「サオリ」
「先生……私は大丈夫だ、外套、ありがとう――助かった」
そう云ってサオリは先生に外套を差し出す。
先生は無言で受け取り、小さく頷いて見せた。
「よ、良かったです、へへ、全部終わってしまったかと思いました……!」
「一応、熱が下がったのなら大丈夫かな……でも、今が正常なコンディションじゃない事を忘れないで、次倒れたらもう起き上がれないかもしれない」
「あぁ……そうだな、肝に銘じておこう」
サオリは自身の手を見下ろし、そう告げる。
それはサオリが一番良く理解しているだろう、体調は口が裂けても良好とは云い難い。常の七割も力が出せれば良い方だ、多少休む事は出来たが積もりに積もった疲労を抜くには十分な休息とは云い難い。二度、三度、力の抜けた手を開閉させた彼女は、重々しく肯定の言葉を返した。
「それより、この毛布と――食糧は何処から?」
「あ、それは、えっと……」
「先生が用意してくれた、大人の不思議な力で……ね」
「……そうか」
ミサキの余りにも大雑把な説明に、しかしサオリはそれ以上追及する事無く目を瞑った。
「詳しくは聞かない、だが礼を云う先生、これでまだ私達は抗う事が出来る」
「……生徒を助けるのが、先生の役目だからね」
「あ、あのっ、リーダー、これ食事です、此処に来るまで殆ど何も口にしていませんでしたし、せめて一つだけでも……」
「――そうだな、有難く頂くとしよう」
ヒヨリの差し出したそれを目に、サオリは静かに先生の隣に腰を下ろす。ヒヨリから食料を受け取ると、サオリは手早く梱包を剥ぎ一口齧った。見た目はアリウスに居た頃から食べていたものとそう変わらない、しかし口に含んだ瞬間サオリは少しだけ驚いた様に目を見開いて、手にした戦闘糧食を眺め呟いた。
「……これは、美味いな」
「や、やっぱりそうですよね? 今まで古くなったレーションや、味なんて二の次、三の次なものばっかりでしたから……! どうせ食べるなら、こういう戦闘糧食が良いですよね……!」
食事で士気はかなり変わりますもん、と力説するヒヨリ。普段からすっかり味気ない食事、何なら何かを口に出来るだけマシと理解している彼女だが、それはそれとしてどうせ食べるなら美味しいものが良いという気持ちが常にあった。
そんなヒヨリを隣で眺めるミサキは溜息を零し、視線をサオリに向ける。
「……それでリーダー、これからどうする?」
戦闘糧食を口に含み、咀嚼していたサオリが顔を上げる。
「目標に変更はないんだよね?」
「あぁ、アリウスのバシリカに向かい姫を救出する、最初から目的はそれだけだ」
嚙み砕いた糧食を呑み込んだ後、サオリは頷きを返す。
先生はモニタを点灯させたタブレットを見下ろしながら、どこか憂いのある表情を見せた。
「私としてはもう少し休んでいて欲しいけれど……時間的に厳しいか」
「あぁ、陽の出までそう余裕がある訳じゃない、もう数分したら出立するぞ」
最後の一欠けらを口に放り、食事を終えたサオリが包装を握り締める。指先で唇を拭ったサオリは、先程よりも強い光を瞳に宿していた。
「リーダー、まだ具体的な計画を聞いていない」
「け、計画ですか……?」
「そう、此処はもうアリウス自治区内、カタコンベや他所の自治区とは違う、そこら中にアリウスの生徒達が居る――無策で突入すれば、すぐに圧殺されるのが目に見えている」
そう云ってミサキは腕を組み、難し気な表情を浮かべたまま続けた。
「バシリカには、具体的にどうやって侵入するつもり? 既に私達が自治区に潜入している事は、彼女も知っているよ、大通りは封鎖されているだろうし、大聖堂付近にはきっと防衛隊が張っている」
「あ、えっと、裏路地からこっそり近付いて……とか、無理ですかね?」
「……どっちにしろ、バシリカに通じる道は限られているでしょ、その出入口を張っていれば必ず網に掛かるんだから、見つからずに侵入するなんて無理」
「う、うぅ……」
戦力を考えれば今のスクワッドの選択は隠密一択だ、騒々しく突貫するには何もかもが足りていない。常識的に考えるのであればヒヨリの云う様に、裏道や地下通路などを駆使して誰にも見つからずバシリカに辿り着くのが理想ではあるが――此方の目的が割れている以上、主要な通路にはカタコンベ侵入時と同じように待ち伏せがあるというのがサオリの見解であった。
「先生、そっちの意見は?」
「……そうだね」
ミサキに視線を投げかけられ、先生はシッテムの箱を抱いたまま思案する。大体はミサキの意見に同意するものであった、暫し思考を整理した先生は頷き、口を開く。
「凡そはミサキと同意見、完全に見つからず侵入を果たすのは難しいと思う、かと云って正面からぶつかるのはかなり危険が伴うだろうから、ギリギリまでは見つからずに進みたい――どこか警備の薄い、バシリカに通じる通路でもあれば良いのだけれど」
「……そんな都合の良い道、ある訳――」
「ある」
ミサキの呆れたような声を、サオリの凛とした声が遮った。
ヒヨリとミサキの視線が、今しがた声を上げたサオリに向けられる。彼女は真剣な面持ちで視線を返しながら、強い口調で以て断じた。
「ルートは既に決めている――アリウス分校旧校舎に向かうぞ」
「きゅ、旧校舎ですか?」
予想もしていなかった唐突な行先にヒヨリは面食らう。その声には、疑問の色が強く滲んでいた。
「あそこは、かなり長い間放置されていた廃墟ですよ? そんな所に一体どうして……」
戸惑いを口にするヒヨリを、ミサキは不意に手で制す。言葉を呑み込んだ彼女を横目に、ミサキはどこか疑る様な視線をサオリに向けながら問いかけた。
「リーダー、そういう風に云うって事は――そこに、何かあるの?」
「あぁ……これは姫から聞いた話だが、かつて聖徒会がアリウス分校を建設する際、バシリカと分校を繋ぐ地下回廊を作ったらしい」
「地下回廊……? 聖徒会が――?」
ミサキは思わず顔を顰める。そんな話、一度も耳にした事がなかった。しかし嘘と断ずる事も出来ない、自身の顎先を指でなぞりながらミサキは思考を巡らせる。
「確か昔、ユスティナ聖徒会がトリニティ連合に反対したアリウスの脱出を支援したって、聞いた事はあるけれど……」
「そ、そうですね、私も耳にした記憶があります、彼女達は私達アリウスを最も強く糾弾しましたが、同時にアリウスの
「どの様な経緯で作られたのかは見当もつかないが、恐らく殆どの生徒が回廊の存在を知らない、それこそ姫の様な血族にのみ知らされていた様な代物だ」
緊急避難用の経路だったのか、或いは別の意図があったのか――それは定かではないが、兎角その通路の存在をサオリはバシリカに至る為の唯一の手段であると考えている様子だった。神妙な顔で考え込むミサキを前に、サオリは言葉を重ねる。
「回廊自体はかなり昔に建設されたものになる、彼女が此処の主になる前からな――或いは、見落としている可能性が高い」
「成程、ね」
「……そこが封鎖されていなければ、消耗を限りなく抑えた上でバシリカに侵入出来るかもしれない――そういう事だね?」
「そうだ先生、多少遠回りになるが正面からぶつかるより余程良い」
先生の言葉に頷き、サオリは皆を見渡す。
反対意見は――ない。
ミサキは幾つかの懸念事項を頭に浮かべながら、サオリに問い掛ける。
「リーダー、具体的な回廊の場所は?」
「大まかな位置は把握している、しかし肝心の回廊は現地で探す事になるだろう」
「……そう、まぁ古い回廊みたいだし、それは仕方ないか」
ミサキが険しい表情で呟く。
もしこれで回廊が埋め立てされていたり、崩れ落ちていた場合は、正面から力づくで突破するしかなくなる。旧校舎から引き返して大通りを隠れて進むだけの時間は、きっと残されていないだろう。そして先程云った様に、この戦力で正面からアリウスと戦うとなれば――。
「で、でも他に方法はありませんよね? バシリカまで強行突破となると、流石に……」
「さっき先生が云ったけれど、強行突破は流石に無理、弾も体力も足りない、成功する可能性は万に一つか、億に一つか――そうだね、普段ならそんな噂を頼りに探す何て絶対にしないけれど……他に選択肢がない」
そう云って頷くミサキ。
リスクは高いが、見返りも相応に大きい。もしサオリの云う通りで在れば防衛隊どころか、誰も知らず放置されている可能性もある。そうなればバシリカまで一度も戦闘を行わず、素通りすら叶うかもしれない。体力と弾薬を温存出来る事を考えれば、正に理想的だ。
どうせ元より無謀な計画だったのだ、信憑性に欠けるものだろうが何だろうが、今更博打を打つ事に躊躇いは無かった。
「地形把握なら私の方でもある程度力になれる、場合によっては現地にさえ到着できれば隠し通路の類は私が見つけ出すよ」
「何、本当か、先生?」
「うん、それ程広い範囲は見れないけれど、建物ひとつくらいなら任せて」
「そ、それは助かりますね……!」
その言葉に、ぱっとヒヨリの表情が明るくなった。ミサキはぐっと背筋を正すと、壁に立て掛けていたセイントプレデターに手を掛ける。
方針は、定まった。
「なら、決まりだね、後は回廊が実際にあるかどうか」
「姫の言葉を信じろ――旧校舎は此処から遠すぎる訳じゃない、目立たない様に移動するぞ」
「了解です……!」
サオリの言葉に各々が出立の準備を始め、慌ただしく動き出す。そんな中、先生も立ち上がろうとして――ふと、手元のシッテムの箱から声が聞こえた。
『先生……』
先生の視線が画面に落ち、モニタの前で佇むアロナを捉える。彼女の放つ雰囲気を感じ取った先生はそれとなく周囲を見渡すと、準備に勤しむ彼女達に背を向けながらその名を呼んだ。
「アロナ」
『自治区に入ったばかりの頃は、そこまで感じなかったのですが、今のこの感覚、恐らくですが――』
「……そっか、やはり私の勘違いではなかったんだね」
呟き、先生は宙を仰ぐ。黒く、暗闇に覆われた天は何の光も示さない。その暗さが人の恐怖や不安といったものを煽る――しかし、それだけではない。何か云い表す事の出来ない漠然とした違和感、或いは不快感の様なものを先生は宙より感じ取っていた。
まるで自分が世界から拒まれているかのような、誰かに見つめられている様な。
「――目を覚ました時から、妙に嫌な感覚があった、多分だけれど、これは……」
じっと虚空を睨みつけるようにして、先生は言葉を零す。
「……此処はもう彼女の領域だ、何があってもおかしくない」
『先生の肉体内部に関しては完全に遮断出来ていますが、外部に関しての阻害は、恐らく大きな効果は見込めない可能性が高いです、せめて十分に注意を……!』
「うん、ありがとう」
アロナの言葉に、先生は強い頷きを返す。此処から先は一つの油断が命取りになる。
此処に来るまでもそうだったが――この場所は、もう彼女の腹の中だと思った方が良い。
ゲマトリアの中で唯一自身の領地を確保するに至った存在。
■
「――先生、そろそろ出立するぞ」
数分もすると、完全にいつものスタイルを取り戻したサオリが壁に寄り掛っていた先生に声を掛けた。その後ろには完全武装を終えたヒヨリとミサキも佇んでいる。ぱんぱんに膨れ上がった背嚢を背負うヒヨリは何とも重そうに見えるが、心なしかその表情は喜色が滲んでいた。
「……うん、直ぐ行くよ」
告げ、先生は静かに立ち上がる。手に包んでいた外套に袖を通し、先生は一歩を踏み出した。
パキリと、何かを踏み壊す音が周囲に響く。サオリはそれを、砕け散った硝子片か何かを踏んだのだと思い、気にも留めなかった。
「此処から先は、かなり走る事になるだろう……大丈夫か?」
「カタコンベに入るまでもそうだった、問題ないよ」
「ふっ、そうだな――行こう、先生」
先生の軽口に笑みを零し、サオリは口元を見慣れた黒いマスクで覆い、外套を翻す。
先生もその後に続き、四人は廃墟を後にした。
皆の背を追う中、先生は静かに手を開閉させ、確かめる様に敢えて地面を強く踏み締める。
脈拍は正常、眩暈や息切れも無い、力もきちんと入る。
これなら、多少長い時間走り続けても問題ないだろう。
そう判断する。
考え、先生はそれとなく外套の内ポケットを覗き込んだ。
吊るされたプラスチックのケース、そこに入った注射器。
――残りは、二本だった。
実装された新ストーリーを読み終わりましたわ~!
次話がめちゃ楽しみですの、でも同時にストーリー更新と共にプロット破壊が起こるのではないかと戦々恐々ですわ!!
最後に出て来た鬼子ちゃんめっちゃ外見が好みなのですが、何とかして百鬼夜行を舞台の物語書けないかなぁ、今回のストーリー最終編後ですし、普通にやっていくとこの作品完結した後なんですわよねぇ……。
幕間イベントストーリー的なもので何とか書けないだろうか。