「あぁ、何と面白い見世物でしょう? 私が直接干渉せずとも、お互いの地獄を深めていくだなんて……ミカ、やはりあなたは私のミューズです」
アリウス自治区――バシリカ。
その最奥で虚空を見上げるベアトリーチェは、今尚行われている悲劇を前に恍惚とした笑みを浮かべていた。浮かび上がる暗闇、その奥では互いに死力を尽くし傷つけあう
それこそ彼女が望んだ光景、正しいと信じる世界の在り方、その一端を垣間見た彼女は徐に手を伸ばし、直ぐ横で揺蕩う小さな光に語り掛ける。
「他者との接触は地獄である、互いが憎しみ合う事で、その実在を証明しているに他なりません、証明出来ない楽園と比較すれば、此方の方が遥かに分かり易く明確でしょう――そうは思いませんか、百合園セイア?」
『―――』
「……あら、まだ諦めていなかったのですか?」
ベアトリーチェの隣、空中に浮かび上がる小さな光――それは今尚、夢の狭間へと閉じ込められた百合園セイア、その人だ。彼女の意識は未だ肉体への帰還を果たせず、この裏側の世界を揺蕩い続けている。
それを嘲る様に見つめる彼女は、口元を歪ませ吐き捨てた。
「トリニティに戻るつもりでしょうが、夢の狭間から脱する事は容易ではありません、あなたはあの、『意識』に巻き込まれましたからね、キヴォトスの外部に通じる窓に顔を出したも同然――えぇ、あなたの存在はまるで暗闇に浮かぶ灯火の様に目立った事でしょう」
百合園セイア、その存在は既に変質を始めている。
未だその支配は完全ではないが、時間が経過すればするほど、彼女の本質は塗り替えられ、軈てその精神に限らず肉体すらも件の存在によって全く別の代物となるだろう。自身の全てが侵されて行く光景を彼女は、どうする事も出来ずに眺める事しか出来ないのだ。
「アレに見出されたあなたの神秘は既に恐怖へと反転され、裏面の原理があなたを支配し始めた、これは非常に興味深い事です、この先、あなたがどうなってしまうのか、それは私達にすら予測できません……解釈されず、理解されず、疎通されず、ただ到来するだけの不吉な光、目的も疎通も出来ない不可解な観念、私達ゲマトリアの最大の宿敵――」
――色彩。
ベアトリーチェの目が引き絞られ、その一言がバシリカに木霊する。声には寒々しい程の怖気と、何処か仄暗い期待が込められていた。
「おや、どうやら準備が完了した様ですね」
『―――』
「気付きましたか? そう、アレが私の用意した先生への切り札」
祭壇に佇み、扇子を開くベアトリーチェ。
その奥から、ズシン――と。
何者かが重々しい足取りと共に現れる。
それは、セイアをして見た事も無い程に屈強で、濃密神秘を身に纏った大柄な聖徒会生徒。彼女達と同じウィンプルを、ガスマスクを身に纏い、その全身を拘束具の様にも見えるベルトで締め付けている。
そして何より目を惹くのが、彼女の抱える巨大な武装――左手にガトリング砲を、右手には巨大なグレネードランチャーを携えている。その大きさは、ちょっとした生徒一人分に相当しそうな程。それを易々と、何の重さも感じさせずに手にしたまま、彼女は一歩、一歩、バシリカへと姿を現す。
それを見つめるベアトリーチェは、放たれる神秘濃度と威圧感に満足げな吐息を零した。
「彼女はユスティナ聖徒会のもっとも偉大な聖女、バルバラと呼ばれた存在――予定通りの完成を見せたのであれば、あの人工天使をも遥かに凌ぐ戦力を持つ筈」
聖女バルバラ――ユスティナ聖徒会に於いて、嘗てその首長を務め、最も偉大と謳われた存在。それは贋作の域にあって尚、確かな存在感を醸し出している。
「そして、それだけではありません」
だが、ベアトリーチェは彼女だけで満足する事を良しとしなかった。
バルバラの左右に、巻き起こる青白い光の渦。それは軈て人の形を象り、聖女バルバラと同じように顕現を果たす。バルバラより僅かに小柄な体躯、しかし複製の聖徒会と比較すれば大柄で、その存在感は決して無視できるものではない。
それを指差し、ベアトリーチェはそれぞれの名を告げる。
「聖女カタリナ、聖女マルガリタ……彼女達もまた、救難の名を司る者達、いつか聖徒会と関わった伝承を持つ聖女、所詮は断片に過ぎませんが、その戦力は通常の聖徒会を遥かに凌ぎます、隙間を埋める程度の性能は見せてくれる事でしょう」
ベアトリーチェが用意した、確実に先生を屠る為の戦力。
アンブロジウスを始めとした、バルバラ、カタリナ、マルガリタ――通常の生徒では真面に相手をする事さえ困難な、圧倒的な戦力。あのユスティナ聖徒会ですらベアトリーチェにとっては本命とは程遠い、所詮は尖兵、彼女にとって本当の戦いというのは、此処から始まる。
「マエストロの云う通り、この方式に美学は存在しないかもしれませんが……しかし兵器には兵器の、機能美というものがありますから」
芸術ではなく、作品ではなく――兵器として。
ベアトリーチェは何の感慨も、思想も持たず、これらを運用し勝利する。
それだけが彼女にとっての、マエストロ風に云う所の、云わば
自身の運命を知った時から、彼女は備えて来た。必中必殺の一手すら凌がれ、自身の持つあらゆる力を総動員し揃えた布陣。これを凌がれてしまえば、後に残るのはこの身一つのみ。ベアトリーチェは扇子で口元を隠しながら、思う。
「さて、果たして先生はこの兵器を突破し、私の元へと辿り着けるのか」
運命は――果たして、どちらに傾くのか。
呟きながら、しかしベアトリーチェは確信に近いものを抱いていた。
恐らく彼の者はこの場所へと辿り着くであろう。それこそどんな姿になろうとも、血を流し這い蹲ってでも――必ず。
扇子を勢い良く閉じ、音を鳴らす。
そして崩れ落ちた外壁、その向こう側に見える夜空を仰ぎながら、彼女は告げた。
「それまで私と共に、この地獄の存在証明、その行く末を見守ろうではありませんか……セイア」
■
「ぅ、っ、は、ぁ――!」
夢の狭間。
或いは、彼女自身が白昼夢と呼ぶ世界。
白く、広く、どこまでも眩い世界の中でセイアは苦悶に喘ぎ、その表情を歪める。覚束ない足取りで歩き続ける彼女は、外側から響いて来るベアトリーチェの声に、低く、唸るような声で反駁した。
「私は、諦める事など、できないよベアトリーチェ……何処かに、何処かに必ず、この状況を打破できる方策が、ある筈だからね……!」
この世界に閉じ込められ、どれだけの時間が経過したのか。それ程長い時間ではない筈なのに、もう何日もこうして世界を揺蕩っている様な気さえする。出口の分からない世界を歩き続ける事は、彼女の精神に大きな負担を強いていた。
そうでなくとも、この世界に於いて肉体など存在しない筈なのに、その身体は痛みや気怠さを再現する。或いは、この精神に全てが呼応しているのか。
セイアは荒い息を繰り返しながら、額に大量の脂汗を流し、呟く。
「一刻も早く、この場所から抜け出さなくては……いつまでも、この白昼夢に囚われてはいけない――……」
その視線を自身の手元に落とす。
すると、少しずつ――ほんの少しずつ、黒ずみ、浸食する黒があった。
それは彼女の指先から、手首の辺りまでを覆い隠そうとしている。罅割れ、ノイズの様なものが走るそれは、恐らく『アレ』に見いだされた結果、植え付けられたものだ。それは腕だけではない、足先も、同じような黒に浸食され始めている。
これが自身の全身を覆い隠した時、自分は自分ではない、恐ろしい何かに変貌してしまうという確信があった。
残された時間は、決して多くない。
しかし、そんな状況でも尚、彼女は顔を上げ、告げる。
「嗚呼、そうだ、私には、まだ――……為すべき事が、残っているのだから」
力強く一歩を踏み、セイアは前を見据える。
もう、諦観の内に沈みはしない。
全てを悟ったように、無気力に項垂れなどしない。
全ては無駄だと、投げ捨てはしない。
足掻く事の、諦めない事の大切さを。
百合園セイアはあの日、確かに学んだのだ。
■
「こっちだよ、ヒヨリ、ミサキ、此処に隠れよう」
「さ、サオリ姉さん……」
「しーっ! 静かに、もっと頭を下げて」
「は、はいぃ……」
「………」
アリウス自治区。
倒壊した市街地、その中央道。彼女達が滅多に踏み込むことが無い表道にて、サオリ、ヒヨリ、ミサキの三人は息を潜め顔を覗かせていた。
貧民街の奥、裏路地でひっそりと、誰にも見つからないように生きている彼女達は、襤褸布に近いシャツとパンツのみを着用し、近場にあった建物の間に身を差し込む。散乱した木板やベニヤ板、瓦礫を隠れ蓑に表通りに目を向ければ、幾人もの人だかりが視界に入った。
その更に向こう側、人混みの奥に、サオリ達も見た事もないような、清潔で装飾品に彩られた女性の姿が見えた。何枚も重ねられたそれに遮られ、顔や体格は視認できないが艶やかな紫の髪が風に靡く様は印象的であった。
サオリに頭を抑え込まれ、挙動不審に周囲を見渡していたヒヨリは、その絢爛華麗な姿を見て思わず問いかける。
「さ、サオリ姉さん、あの中央に居るのは誰ですか? す、す、すごくきれいな服を、き、着ているけれど……」
「私も良く知らない……偉い人なんじゃないかな」
ヒヨリの視線をなぞり、同じ人物を視界に捉えたサオリはそう呟く。豪華な衣服を着込み、沢山の護衛に囲まれた人物。物々しさを感じるが、同時にどこか高貴な気配と尊さを感じる。学のない自分達ではその人物がどれだけ偉くて、凄い人物なのかは分からないが、きっとあんな凄い服を着れる位の人だ。自分達が思っているよりもずっと凄くて、偉い人なのかもしれない。そんな風に考えた。
すると、その行列を見ていたミサキが言葉を漏らす。
「……周りの声からすると、お姫様なんだって、高貴な血を引いているとか、何とか」
「お、お姫様!? お姫様なんですか!? す、凄いですねぇ、世の中には、本当にお姫様もいるんですね? わ、私達のような底辺とは違って……」
告げ、ヒヨリはその目を輝かせる。お姫様だとか、王子様だとか、そういうのはもっと、絵本の中の登場人物に過ぎなくて、現実になんて居ないとずっと思っていた。けれど実際に見たお姫様は本当に綺麗で、襤褸布何か身にまとう自分達とは全然違う世界に生きていて――ヒヨリはどこか眩しそうに、嬉しそうにしながらゆっくりと歩く彼女を見つめていた。
「飢えたりもしないだろうし、怪我だって、しないでしょうし……み、道端の隅っこで寝たりもしないですよね? 多分、おっきなベッドを独り占めして眠るんです、そうですよね……?」
「う、うん……良く知らないけれど、そうなんじゃない?」
お姫様という存在に全く詳しくないサオリは、その表情を困惑に染めながらも頷く。自分達には想像も出来ない生活だが、お姫様という位なのだ、多分そういう生活をしていても可笑しくはない。
それは実に、夢と希望に溢れたお話だった。
返答を聞いたヒヨリはへらりと口元を緩め、自分の傷だらけで、がさつき、所々血の滲んだ両手を見下ろしながら云った。
「えへへ……この世の中には苦しみしかないと思っていましたけれど、あんなに綺麗で、幸せに過ごせているお姫様も居るんですね……! 何だか感動です……! うわぁぁん!」
「きゅ、急に泣かないでヒヨリ! バレるでしょう!?」
「す、すみませんサオリ姉さん、で、でも、うわぁああん!」
お姫様を見て泣き出したヒヨリ、その口元を慌てて掴むサオリは思わず冷汗を流す。彼女達にとって、世界は苦しいもので、残酷で、不公平だ。何も持たず、野垂れ死ぬ様な孤児が殆どのこの場所で、あんな綺麗で、満ち足りた人がいる事。
こんな世界にもそんな人が居るのだと云うだけで、何となくヒヨリは救われた様な気がした。それが涙とという形で頬を伝い、サオリはこんな時、どんな表情をすれば良いのだと困惑する。
しかし、そんな二人を他所にミサキは酷く冷めた目で行列を見ていた。ゆっくりと歩き続けるお姫様、その両脇に侍る、銃を持った兵士達。
「……お姫様って云っても私達と変わらない境遇か、もしかしたらそれ以下の扱いだと思うよ」
「……?」
どこか、吐き捨てる様な云い方だった。
先程まで大泣きしていたヒヨリは、その零れ出た涙を拭うとミサキを疑問の目で見上げる。壁に寄り掛り、目を細めたミサキは漠然と行列を眺めながら続けた。
「パレードに見えるけれど、あれは人質を敵に送る行列だよ、内戦中だからなのかな……こんな事も、あるんだね」
「ひ、人質……ですか?」
「うん、あのお姫様もきっと、監獄で飢える事になる、食べ残しを貰えたらラッキー程度の生活になるよ」
だから、あんなにも足は重く、気配は昏く、息苦しい。
騒いでいるのは周りだけだ、あの渦中にいる女性の感情はどんなものか。嵐の様にごちゃ混ぜになっているのか、或いは最早凪の如くなのか。しかし、結局のところ行きつく先は同じ。
即ち、諦観と屈服。
この場所に立った時点で、彼女に選択肢はなく、意味など無い。
全部――無意味だ。
「ぅ、あ……」
「――やめて、ミサキ、ヒヨリが怖がっているでしょ」
「………」
その事実を知った瞬間、ヒヨリは思わず呻き声を上げる。綺麗なものを見れたと思った、尊いものが在ると知れた。けれどそれはやはり、上っ面だけのもので――。
その現実に打ちのめされるヒヨリの背中を摩りながら、サオリはミサキに告げる。
ミサキは何も云わず視線を逸らすと、行列に向けていた視線を周囲に散らした。
「……それで、どうするのサオリ姉さん、此処まで来たのに見物だけして帰るつもり?」
「――まさか、あの人だかりに紛れ込んで、役立ちそうなものを拝借する」
告げ、サオリは周囲を取り囲む群衆を見る。その大半は表通りの住人で、中には貧民街の者もちらほら散見された。けれど大抵、その貧民街の住人は物陰からこっそりと周りを伺っていたり、或いはどこか忙しなく動き回っている。
彼女達も自分達と同じ――狙いは明白であった。
サオリはそっと唇を濡らし、二度、三度、手を握り締める。
「所々、制服を着ている連中も見えるし、身綺麗なのも多い、この人だかりだから逃げるのは簡単、皆行列の方に意識が向いている今がチャンスだと思う」
「だ、大丈夫でしょうか……?」
「万が一見つかっても、私達の身長なら人影に埋もれて直ぐ見えなくなるよ」
「……捕まったら、酷い事になるね」
銃を持ち、周囲を伺う警備の姿を見て、ミサキは呟く。
酷い事――サオリの脳裏に、路地裏に打ち捨てられた少女たちの姿が浮かんだ。
表通りで何か失態を犯せば、即座に報復されて、そのまま襤褸雑巾の様な状態で路地裏に投げ捨てられてしまう。そうなれば、もう終わりだ。傷を治す為の薬も、栄養を摂る為の食料も、水もない。勿論、そんな弱者をスラムの住人が放っておく筈もなく、服も剥がれ、文字通り身一つで路肩に横たわる事となるだろう。それでも、生き長らえれば良い方だ。けれど大抵、徐々に衰弱して、ヘイローが浮かぶ時間も減り――軈て、ずっと、何時までもヘイローが出なくなる。
サオリはそんな少女たちの姿を思い返し、思わず頭を振った。
そんな未来には決してさせない、と。万が一の時は、自分が囮でもなんでもして、二人は絶対に路地裏へと逃がす。その為の覚悟を決める。
「……今年は少し寒いから、お金が入ったら毛布を買おう、一枚あれば、皆で包まってきっと寒くない」
「私達みたいなのに売ってくれるところなんてある?」
「お金さえあれば、表のお店だって売ってくれるよ」
「そ、そうしたら、ご飯も一杯食べられるでしょうか……?」
ヒヨリはどこか、期待するような声で問いかけた。サオリは頷き、笑う。
温かい毛布、美味しいご飯、それは目の前で横たわる恐怖や不安から目を逸らすには、丁度良い代物だった。所詮、夢の話。本当に毛布が手に入るだとか、美味しいモノが食べられるだとか、正直な所半信半疑だ。きっとこんな身なりで、なけなしの金を掴んで商店に行ったって足元を見られるのが結末だろう。けれど、希望を語り、夢を見る事だけは、大人達だって奪えない。
だからサオリは力強い声で答える。
「……食べられるよ、久々にちゃんとしたものを食べよう」
「や、やったぁ……! た、楽しみですね……えへへっ!」
「………」
サオリは二人の肩を叩き、そっと表通りへと一歩踏み出す。決して優しくない世界へ、残酷な世界へ、今日を、明日を生きる為に。ヒヨリとミサキが、遅れて一歩踏み出す。ふたりの伸ばした手を掴む。
そして、強がり、笑みを浮かべながらサオリは告げるのだ。
「さぁ、行こう」
――ちゃんと私が、守るから。
■
アリウス自治区――屋内訓練場。
屋内と云われてはいるが、その実態は崩れかけた教会を利用した半屋外と云っても過言ではない。蔦が生え、苔に覆われ、とても整備されているとは云い難い銃を片手に、今日も今日とて訓練に興じる。
それが唯一の生きる術だと、お前たちの持てる手段だと、ずっとそう教えられてきた。
そんな中で響く銃声。
訓練場に於いて、それは珍しくもなんともない音であった。
その銃口が――生徒に向けられていないのであれば。
「っ、やめろッ!」
「……退け、第八分隊長」
サオリは、咄嗟に飛び込み、叫んだ。
目の前に立つのはアリウス自治区幹部、サオリ達を管理する大人の代わりに立っている上級生。彼女はガスマスクを被り、白いコートに身を包みながら小さなサオリを見下ろす。未だ中学の年齢にも届いていないサオリにとって、百七十に迫るその身長は大層巨大に見えた。けれど懸命に両手を広げ、叫ぶ。
背後には倒れ伏し、砂利に塗れた白髪の生徒。
齢は――自分より、少しだけ年下に見える。
「それ以上やれば、ヘイローが壊れるぞ!?」
「ふん……」
サオリの言葉に、幹部は鼻を鳴らして銃口を下げる。しかし、其処に納得の色も、許しも存在していないのは明白であった。倒れ伏した白髪の生徒に、姫が駆け寄る。不気味な白面で顔を覆ったまま荒い息を繰り返す生徒を抱き起し、その背中を摩ってやった。
「………」
「ど、どうか……どうか、もうやめて下さい……うっ、うぅっ……!」
壁際で蹲り、頭を抱えて泣き言を零すヒヨリ。壁に背を預け、地面を能面の様な表情で見つめるミサキ。蔓延する空気は昏く、淀んでいた。
全員、ボロボロだった。
衣服は泥と砂利に塗れ、髪は土に塗れている。体のあちこちに包帯が巻き付けられ、痛々しい痣や傷が所々に見られた。剥き出しの足に貼り付けられガーゼ、そして足首に付けられた枷が陽に照らされ鈍く光る。
けれど、この場所に於いては――これが普通なのだ。
「こいつは我々に反抗した、当然のことだろう? もう一度云う、退け、第八分隊長、退かなければお前たちも同じ目に遭う事になる――同じ罰則を喰らいたいのか?」
「っ……!」
そう云って突きつけた拳銃を、もう一度サオリの奥――倒れ伏した白髪の生徒に向ける。サオリは、その冷酷な瞳をガスマスク越しに直視した。
此方を生徒とは思っていない、機械的で、何の色も無く、正に無機質な視線。
彼女の良く知る――大人の目だ。
「ゴホッ、こほっ……笑わせ、ないで……誰が――」
白髪の生徒、短く、ざっくばらんに切られたそれを払い、そう口にする。鼻から流れる血をそのままに、彼女は憎々し気に幹部を睨みつけていた。その態度を見た彼女はどこか感心した様に頷き、引き金に指を掛ける。
「ほぅ、まだそんな軽口を叩けるか、身体は頑丈な様だ……それなら」
「待てッ! 待ってくれ!」
「何だ? やはり、お前も反抗するつもりか、第八――」
「――私がッ!」
幹部の声を遮り、サオリは叫んだ。
腹の底から、全力で。
「私が……指導する!」
「何?」
その言葉に幹部は目を細める。サオリは俯いていた顔を上げ、歯を食い縛った。
「……また無駄な事を」
ミサキがぽつりと、そう呟いた。声は彼女に届かない。それがどれ程意味のある事なのか、そう疑問に思ってしまう。自分達とて、此処で生き残る事で精一杯なのに。また彼女は――サオリは、苦労を背負い込もうとする。
「ヒヨリも、ミサキも私が指導した生徒だ、姫も同じくな……! 皆、優秀な成績を残しているだろう!? あいつも私に預けてくれたら、一人前の兵士に育て上げてみせる!」
「……ふむ」
「だから任せてくれ、私が……私が責任を持って、コイツを指導するから」
サオリの言葉に幹部はマスク越しに顎先を撫でる。どこか思案する素振り、或いは単に勘定をしているのか。どちらにせよ、どちらにメリットがあるか計りかねている様子だった。数秒、沈黙が流れる。サオリは背中に嫌な汗を滲ませながら、ぐっと怯懦を噛み殺し、彼女を見上げる。
しばし思考を巡らせた幹部は、不安に揺れるサオリの瞳を見下ろし、頷いた。
「――良いだろう」
「っ!」
「此方としても優秀な駒が増えるのならば云う事はない、良く云い聞かせておけ……我々に逆らわず、従順になるようにな」
「……あぁ」
それだけ告げ、幹部の生徒は拳銃をホルスターに戻し、去って行った。今日の訓練は此処まで――という事なのだろう。サオリはそんな彼女の背中を見送ると、踵を返して白髪の生徒の傍へ駆け寄る。
「姫、私が代わる……すまないが、私の部屋から薬を取って来てくれ」
「………」
姫は無言で頷き、そっと宿舎へと駆けて行く。宿舎と云っても、崩れ落ちた過去の学校、その教室に簡素な布を敷いただけの部屋だ。半ば崩れ落ちたそこは、宿舎と呼べる程に上等なものではない。サオリはその部屋、自身の寝床の下に、万が一の際に備え薬品を隠していた。生傷の絶えないこの生活の中で、治療を受けられる事は稀だ。最低限、死ななければ良いという方針の下で運営されいてる故に、当然だった。
此処の生徒達は全員、使い捨ての消耗品なのだから。
「ヒヨリ、もう大丈夫だ……あいつは行ったよ」
「うぅ――……さ、サオリ、ねぇざん……」
「……いい加減、泣き止みなよ、もう連中は居ないんだし」
「ずびっ……ほ、本当ですか……?」
サオリとミサキの言葉に、ヒヨリは鼻水と涙を垂らしながら恐る恐る顔を上げる。ミサキはどこか面倒そうにしながら、ポケットから薄汚れた布を取り出し、ヒヨリの涙を拭ってやった。
「ぐ……」
「まだ動くな、何発も撃たれたんだ、安静にしていろ」
自力で起き上がろうとする生徒を抑え、サオリは彼女の頬に付着した砂塵を払う。腹部と、顔面、恐らく頬に弾丸が着弾したのだろう。青痣になり、痛々しく晴れ上がった頬を、サオリは悲し気な表情で見つめた。
「何で上に逆らったりなどしたんだ、こうなる事は分かり切っていただろう?」
「………」
「抗う事は、無意味だ、この場所に於いて連中は絶対的な力を有している、逆らえば酷い目に遭う……だから、逆らわない方が良い」
「……私は」
サオリの言葉に、彼女は歯を食い縛り、痛みに涙を流しながらも口を開いた。
その、サオリよりも小さな手が、薄汚れた地面を強かに叩く。
「私はっ……! 例え、無意味、でも……抗う事を、やめたくない……っ!」
「それは……何故だ?」
「だって、抗う、事をやめたら……ッ!」
生徒が、俯いていた顔を上げる。
白い髪に、強い意思を秘めた、澄んだ瞳。
それが、真っ直ぐ正面から、サオリを射貫いた。
「――心まで、連中に屈してしまいそうな気がするから……!」
「―――」
それを聞いた時、サオリはどんな感情を抱いたのだろうか。自分自身、良く分からなかった。驚きだったのだろうか、或いは尊敬か、羨望か、それとも――憐れみか。
サオリは開きかけた口を閉じ、数秒、言葉に迷う。
けれど結局、掛けるべき言葉は見つからず。
「……そうか」
お前は、こんな場所でもまだ、希望を失っていないんだな。
そんな声を噛み殺し、サオリは彼女の瞳から目を逸らした。
「だが、一々上に噛み付いていたら顰蹙を買う、その在り方は改めた方が良い」
「っ、でも……」
「心まで屈しろとは云わない、表面上だけで良い、それが此処での生き残り方だ――代わりに、戦い方を教えてやる」
「……戦い方?」
「あぁ」
どこかキョトンとした表情の彼女に笑いかけ、サオリは足元の銃を拾い上げる。薄汚れ、整備も万全とは云い難いそれ。しかし、この場所に於いては唯一無二の力の象徴である。
「どんな道を歩むにせよ、力があるに越したことはない、力を付ければ此処での立場も良くなる、そうすれば自然と意見も通る……先程の私の様にな」
「………」
「私が、お前を鍛えてやる」
そう云って、サオリは手を差し伸べる。
まだ何も知らない、無垢なる白へと。
「私は第八分隊長、錠前サオリだ……お前は?」
「……アズサ」
呟き、彼女――アズサはサオリの手を取った。
泥と砂利に塗れ、傷だらけで、それでも確かに――力強い手を。
「――白洲、アズサ」
■
「っ、痛い……」
古びた、半ば廃墟染みた教室の中で、肌を叩く音が木霊した。それは、サオリがミサキの頬を張り飛ばした音だった。
肩で息をし、怒りで表情を一緒に染めたサオリ。ミサキは僅かに赤らんだ頬を手で押さえながら、淡々とした様子で呟く。
「ミサキ……二度と、二度とそんな事はするなッ! 絶対にだ……ッ!」
「………」
サオリの怒声に、ミサキは微塵も動じない。
彼女のその左手首には、真新しい包帯が巻き付けられていた。そして包帯には、僅かに血が滲んでいる。彼女が、自分自身で切った証明であった。
「……どうして?」
「何?」
「どうして、駄目なの」
ミサキは問いかける。その表情に、確かな諦観を滲ませながら。
「何で、こんな意味のない苦痛の中で生き続けなくちゃいけないの? 何で、こんな苦しまなくちゃいけないの?」
「ミサキ……?」
「寒くて、空腹で、辛くて……毎日殴られて、怒鳴られて、傷だらけになって、ただ苦痛が繰り返される日々なのに――何で、頑張らなくちゃいけないの」
そう云って、自身の腕を掴みながら彼女は俯く。その瞳は黒々しく、光などどこにも存在しない。痣と切傷だらけの身体、年齢にしてはやせ細り、色褪せた肌。かさかさに渇き、血の滲んだ唇を震わせ、彼女は再度問いかける。
「どうして姉さんは、この無意味な苦痛を私達に強要するの? それに、一体何の意味があるの?」
「それ、は……」
どうして――?
その問いかけを前に、サオリは思わず言葉に詰まった。
どうして、こんな辛い思いをしなくちゃいけないのか。どうして、
――そんな保証、どこにもないのに。
何で、私達はこんな苦しい想いをしてまで、生きなくちゃいけないの?
「それは……――」
サオリは呟き、思わず口を結んだ。
それは内心で分かっていたからだ。
きっと、自分達に希望ある未来なんて存在しない。
明日も、明後日も、明々後日も、その次も、そのまた次も、一ヶ月後も、一年後も――自分達はこうやって虐げられる、搾取し続けられる。自由は無く、意思は無く、歯車の様に、使い捨ての駒の様に。
無意味に、何の意味もなく、戦って、苦しんで、傷付いて、きっといつか、塵の様に打ち捨てられる。
なのに、どうして生きるのか?
――
サオリは呻き、俯いた。
答えられる筈がなかった。
その解答を、彼女は持っていない。
サオリはそれを、まだ知らない。
「……ほら、答えられないじゃん」
「ミサキ、私は――」
「何でも知っている様に振る舞って、姉さんだって、私達と同じ癖に」
「っ……!」
ミサキの声には、失望の色が宿っていた。
皆を引っ張り、何でもない様に振る舞って、いつも気丈に見えた
ただ、死んでいないだけの、子どもだった。
「全部無意味なら、いつ死んだって、きっと同じ……私達に生きる意味なんて、抗う意味なんてないんだよ」
「み、ミサキ! 待て……!」
ふらりと覚束ない足取りで、ミサキはサオリの横を通り過ぎる。咄嗟に声を上げ、彼女に手を伸ばし――けれど、その指がミサキの手を掴むことは無く。するりと、煙の様にすり抜けてしまう。その指先を、サオリは愕然とした心地で見つめていた。
くしゃりと、彼女の表情が歪んだ。
何の為に苦痛に耐える? 何の為に抗う? 分からない、サオリには分からない――けれど。
それでも。
「待て! わ、私は――私は、ただ……!」
――
■
「……ぅ――……」
ふと、目が覚めた。
サオリが目を覚ましたのは、酷い鈍痛と空腹の為だった。
口の中がカラカラに乾き、罅割れた唇が痛む。布一枚存在しない床の上に転がって、肩を震わせるサオリ。冷たい床は容赦なくサオリの体から体温を奪い、手足の感覚は疾うにない。サオリは体を丸めて、まるで胎児のように自身の腕を抱き、蹲っている。そのまま薄らと視線で部屋をなぞれば、鉄格子に蓋をされた無機質な牢の隅が見えた。
――あぁ、そうだ、私は……。
もう、こんな事を考えるのも何度目か。確か自分は、現状に折れかかったミサキや、泣き喚くヒヨリを励ます為に、ある事を無い事を口走ったのだ。
自分達の明るい将来を語り、遠い昔、貧民街で拾って読んだ雑誌の記事を語り、このアリウスの外には遊園地だとか、水族館だとか、お洒落なカフェだとか、映画館なんかもあって、そこには楽しい事、楽しいものが沢山あるからと。
いつか、皆でそこに行こうと。美味しいものだって、楽しいものだって、沢山ある。私達は知らない事ばかりだ、だから私達には想像もつかないような、素晴らしいものが世界にはある筈だと。
それを探しに行こうと。
だから――この苦痛は、その為の対価なのだと。
そう熱弁した、らしくなく舌を回した。今のこの苦しみを忘れさせる為に、必死だった。そうしなければ、二人が、ミサキが、どこかに消えてしまいそうだったから。
――それを、幹部に聞かれた。
アリウスで希望を語る事は許されない。すべては無意味で、無駄だ。そう何度も聞かされて育った、だから、自身のその行動は大人の言葉に反する行為だった。
即日、懲罰房行きだった。
散々罵倒され、殴られ、蹴られ、撃たれ、ボロボロになった所を牢に放り込まれた。最初の二日間は、痛みで碌に動けなかった。
地下に作られたこの場所は、とても寒い。制服の上着を剥ぎ取られ、インナーのみで牢に投げ入れられて、もう何日目か。一週間は経っただろうか? 日にちの感覚は曖昧だ、何せこうして横たわり、何をする事も出来ないのだから、段々と時間の感覚は狂ってくる。
食事は一日に一度、パンが半分と、一杯の水。生き残る為に、水にパンを浸して、ゆっくりと咀嚼して食べた。水を吸ったパンは、少しだけ膨らんだように感じて、満腹感がある。勿論、それが錯覚である事は知っている。けれど、そんな事でもしなければ本当に空腹で気が狂いそうだった。無意識の内に唇の皮を食い破り、血が流れる。それを舌で舐めとり、サオリは深く、息を吐いた。
暫くして、ぽろりと、涙が零れた。
一度ながしたそれは、中々止まる事が無く。
蹲ったまま、サオリは音もなく涙を流し続けた。
――限界だった。
「許して、下さい……」
小さく、呟く。
声に力はない。数日もの間、碌な食事を与えられず、怪我の治療をされず、この誰も居ない、小さな牢に隔離されたサオリは、誰に対してでもない、ただ漠然と自分を支配する存在に声を上げる。
「申し訳、ございません……二度と、このような事は……」
続け、何度もか細い息を繰り返す。吐き出した息が白く濁る。震える唇を必死に動かして、彼女は懇願する。一度口にすれば、咳を切ったように言葉が浮かんだ。昔から何度も教えられた、その身体に叩き込まれた、謝罪の言葉だった。
「二度と、大人の言葉を、破りません……反抗、しません……将来に、希望を抱かない様、努めます――……」
ただ粛々と、大人の言葉に従い、歯車の様に、駒の様に、意思なく動けばそれで良い。考える事は必要ない、未来を語る必要ない――その権利が、自分達には与えられていない。
だから、サオリは涙を流しながら、蹲り、呟き続ける。この場所に捕らわれた自身を、力のない子どもである事を自覚する。
「二度と、幸福を望みません……祈りません、だから……」
もう、外の世界に行きたいなんて思いません。
もう、未来に希望があるなんて語りません。
もう、自分達に幸福があるなどと驕りません。
もう、大人に逆らおうなんて考えません。
だから――。
「だから、どうか……」
サオリは、蹲ったまま手を伸ばす。
牢の外に、薄らと見える光に向けて。
それが自身の心を売り渡す行為だと知りながら、けれど、どうしようもない苦しみから逃れる為に。震える指先を、必死に。
その、
「慈悲を――」
■
『――なぁ、アズサ』
サオリは、想う。
心の中で、彼女の虚像に問い掛ける。
薄暗く、自身の心の内を表現したかのような世界の中で、サオリは膝を抱えて俯いていた。
座り込み、諦観の中にある彼女をアズサは――彼女の虚像は、ただじっと見下ろしている。
アズサは幼い頃からずっと希望を抱き続けていた、誰もかれもが項垂れ、日々を生きる気力すら失っていく中で、彼女だけはずっと足掻き続けたのだ。
こんな薄汚れ、昏く、沈んだ泥の中で――必死に、何度でも。
それが、サオリには不思議で仕方なかった。
『お前は――』
『お前はどうして、そこまで抵抗するんだ?』
『和解の象徴――いいや、それは欺瞞に他ならない、お前はそんな存在ではない』
『お前が準備し、学んできたことの全ては任務の為だった』
『幾ら足掻こうとも、運命からは逃れられない』
『日陰に生まれた者は、日陰の中で静かに沈みゆくしかない』
『だから、諦めて受け入れろ――全ては虚しいだけなのだから』
『期待も、希望も、夢も、全て』
そうすれば、苦しまなくて済む。
そうすれば、痛い思いをしなくて済む。
そうすれば、悲しまずに済む。
そう在り続ければ――生きる事が許される。
希望を抱かなければ、絶望せずに済むのだから。
それが、彼女の知った生きるための術。大きな希望を抱く事がなければ、深く絶望する事も無い。逆らおうと思わなければ、理不尽に痛めつけられる事もない。世界の真実を受け入れ、そう在れと云われた様に、教えられた通りに粛々と、歯車の様に従い続ければ――ただ皆と、生きる事だけは許される。
それだけで良かった。
それだけが、サオリの秘めていた、小さな小さな
――だというのに、彼女は背を向ける。
座り込んだまま動けずにいるサオリに背を向けて、アズサは前へと歩き出す。
暗い闇の中で留まるのではなく、その先、未来に――光のある方向へと。
暗闇の中にっぽかりと空く、ほんの僅かな穴。差し込む光に目を焼かれ、サオリは手を伸ばそうとも思わなかったその場所に、アズサは何の躊躇いも無く足を向けた。
その背中を、サオリは愕然とした表情で見つめる。
『アズサ――……?』
『待て、何処へ行く、アズサ……そっちは、違う』
『お前は、何処に――……何処に行くんだ?』
『私達は、私達はまだ、此処に居るというのに……』
『ずっと此処に……此処しか、私達には居場所がないんだ』
『この暗闇の中でしか私達は生きられない、他に生きていける場所など存在しない』
『そっちは駄目だ、戻って来い……! アズサ、そっちには――』
声を上げ、必死にアズサに向け叫ぶ。
けれど彼女は足を止めない、振り返らない、ただ何処までも力強い足取りで光の向こうへと進んでいく。段々と強くなる光、それが強くなればなるほど、影は、暗闇は色濃く反映される。
闇の中で足を止めるサオリ、光に照らされるアズサ。
その強い光に焼かれ、影となったアズサを見つめながら、サオリは呟く。
『まさか……』
脳裏に過る、いつかの光景。
自身に投げかけられた、答えられなかった問い掛け。
――寒くて、空腹で、辛くて……毎日殴られて、怒鳴られて、傷だらけになって、ただ苦痛が繰り返される日々なのに、何で、頑張らなくちゃいけないの。
――どうして姉さんは、この無意味な苦痛を私達に強要するの? それに、一体何の意味があるの?
――
アズサは、それを。
息を呑み、サオリは口を開いた。
『お前は、知ったのか?』
『お前には……答えが、分かって――?』
いつか、問いかけられた言葉。
あの日、答えられなかった言葉。
今の今まで、終ぞ見つけられなかった、その問い掛けへの答え。
サオリは、震える指先をアズサに伸ばす。
『アズ、サ……!』
光が、アズサを包んでいく。
その背中が眩い世界に包まれ、見えなくなっていく。自分達には踏み出す事の出来なかった
サオリはその背中に手を伸ばす。
必死に、何度でも、その喉を震わせながら。
彼女へと言葉を投げかける。
『待って……!』
『待ってくれ、アズサっ!』
『頼む、教えてくれ、私は――ッ!?』
『私は、一体……どうすれば――ッ!』
『どうすれば、私は、皆を――ッ!?』
指先が、彼女の背中に届く事は無い。ただ光に包まれ、影に覆われた彼女の表情は見えなくて。
ゆっくりと、その首がサオリに向けられる。
その強い意志を湛えた瞳が――最後に自分を見つめていた気がして。
サオリは想う、懇願する。
私は、どうすれば良かったのだと。
どんな道を選べば良かったのだと。
錠前サオリは。
この、どうしようもなく辛く、苦しく、理不尽に満ちた世界に生まれ落ちた存在は。
『どうすれば、
■
「ア、ズサ――……」
呟き、サオリはゆっくりと瞼を開いた。
冷たい風が、額を撫でつける。
「アズ、サ……?」
何か、夢を見ていた気がした、或いは幻か――ぼんやりとした思考のまま暫く、自身が何をしていたのか、何処にいるのか、全く分からずに瞳を揺らす。
見れば、自身の身体は地面に這いつくばり、硬く、冷たい床に転がっていた。
自分は、何故こんな場所に、寝転がって――? 不思議に思い、指先を動かすと、酷い痛みが走った。剥がれ掛けた爪、滲む赤色、変色した肌。
徐々に、思考が明瞭になっていく。
閉じそうになる瞼を押し上げ、ゆっくりと視界を上げると――。
――自身を見下ろす、聖園ミカと目があった。
「……っ、ぅ!?」
思い出した。
そうだ、自分は彼女と――。
はっと息を呑み、急いで腕を突いて起き上がろうとするサオリ。
しかし、途端全身から鈍痛が走り、悲鳴が漏れ出た。肩も、腕も、足も、腰も、あらゆる箇所が痛みを訴え、思う様に動かない。まるで全身に鉛が張り付ているかのように重く、怠く、息苦しい。
肺が焼ける様に熱を発した。
「はっ、はッ、ぅ、ぐぁ――ぅ……!」
上体を起こし、立ち上がろうと足掻く。しかし、震える腕は容易く折れ曲がり、サオリの身体を支えるだけの余力がない。青痣だらけの肌を晒したまま、半ばまで体を持ち上げたサオリは、しかし再び地面に音を立てて倒れ込んだ。
荒い呼吸、指先は細かに痙攣し、その顔色は青を通り越して白に近しい。
――誰の目から見ても、彼女は限界だった。
それでもサオリは頬を地面に擦り付け、転がっていた愛銃に手を伸ばす。流れた鼻血が地面に滲み、引き攣った呼吸音が静謐な回廊に響いた。
「う、ぐ、ぅ――……ッ!」
「――サオリ」
ミカはそんな彼女を見下ろしながら――呟く。
声には、何の色も感じられなかった。
「……その傷じゃ、もう無理だよ」
「――………」
「勝負はもう、ついた」
声は、サオリの耳を叩く。
這い蹲り、血と汗に塗れ、打撲痕塗れのサオリ。青痣と共に腫れ上がった全身は痛々しく、最早起き上がる事すら困難になっている。
対して、ミカはどうか? 所々負傷し、制服は煤け、爆発によってケープは失われているものの――その肉体は健在。戦闘に何ら支障はなく、その気になればいつでもサオリに手を下す事が出来る。その佇まいを見れば、未だ余力を残しているのは明白。
そう、彼女の言葉は正しい。
どちらが勝者なのかは――明らかだ。
「………」
サオリはその言葉に、愛銃へと伸ばしていた手をぴたりと止めた。
震えていた指先が、冷たい地面に触れる。その手をゆっくりと握り締め、俯いていた視線をミカへと向けた。
その瞳には、表現しきれない複雑な感情が混じっていた。
「そう、か……」
声は、小さく、囁く様だった。
「そう、だな……」
「………」
勝負は、ついた。
その一言と共に、サオリの身体が大きく沈む。伸ばしていた腕が地面に落ち、その身体は再び地面に這い蹲った。
そのまま痛みに呻き、その場で体を仰向けに転がすサオリ。
彼女の視線が、崩れ落ちた回廊の天井に向けられた。
深く、深く――息を吸う。
それだけで痛みが全身を駆け巡り、思わず顔を顰めた。
あれだけあった筈のサーモバリック手榴弾も、全て使い果たして。
銃弾以外の装備も、費やして。
それでも尚、彼女には届かなかった。
それを自覚し、彼女は長い長い静寂の後に。
ぽつりと、声を漏らした。
「私は――負けたのか」
次回 『