ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝致しますわ~!
今回18,000字ですわ! 


(あがな)

 

 二人の間に、沈黙が降りる。

 弾痕と煤の残る、広い回廊。そこに佇む二人だけの空間、片方は地面に倒れ伏し、もう片方は二本の足で真っ直ぐ立っている。

 倒れ伏した彼女、サオリは天を仰ぎ、呟いた。

 

「私、は……」

 

 その表情は――何の色も見えなかった。

 悔しさも、悲壮も、怒りも、憎しみも、文字通り何も。

 罅割れ、血の滲む唇を震わせ、彼女は問う。

 

「私達は、何の、為に……生まれて、来たのだろうな」

 

 錠前サオリは、あの時の答えを、まだ見つけられずにいる。

 

「今まで、これが正しいと思い、突き進んで来た……だが、いざ振り返れば、全てが過ちだった」

 

 先生の事も。

 トリニティとの確執も。

 アズサとの衝突も。

 スクワッドの在り方も。

 ありとあらゆる選択を、彼女は間違えて来た。

 

「私達は、何の、為に――……」

「……白洲アズサ」

「――?」

 

 サオリの耳に、硬質的な足音が届いた。火薬の匂いが沁みつき、ぼさぼさになった髪をそのままにミカはサオリの下へと足を進めると、見下ろしながら告げる。

 

「あなたはアズサちゃんに、何を聞きたかったの?」

「……アズ、サ?」

 

 どこか呆然とした様子でその名を呟くサオリ。何故、その名前が出てくるのだと、そう思っている様な表情だった。

 

「うん、あなたが意識を失っていた数秒、譫言の様に呟いていたよ」

「………」

 

 その言葉に、サオリは口を噤む。

 彼女の言葉に、心当たりがあった。

 

「補習授業部のアズサちゃん、そもそも私のクーデター計画を手伝う為に選ばれたスパイだったでしょ? そんな彼女に、一体何を――」

「……アズサは」

 

 ミカの声を遮り。

 サオリは、ぽつりと言葉を漏らした。

 

「元々、スパイとして選出した訳では、なかった」

「――えっ?」

 

 ミカの表情が、驚愕に彩られる。

 それは、ミカも知らなかった事実であり。

 そして、それこそが全ての過ち、その始まりだった。

 

「あの子は、和解の象徴になる予定だったんだ」

「……は」

 

 ――和解の象徴。

 

 サオリの言葉を聞いたミカの口から、吐息が漏れる。

 和解の象徴、全てが終わった今、耳にするその言葉の何と空虚な事か。

 けれど、それは決して嘘ではない、もし一つボタンを掛け間違えていれば。或いは何かの弾みで異なる道を選んでいれば。

 そうなる未来だって、確かにあった筈なのだ。

 サオリは当時の事を思い返し、掠れた声で言葉を続けた。

 

「トリニティとアリウスの、和解の象徴……あぁ、そうだ、そう云えば――最初にその表現を使ったのは、お前だったな、ミカ」

「何を――」

 

 ミカが目を見開き、怒りすら滲ませて表情を強張らせる。だって、その表現を、そんな風な云い回しをしたのは――。

 

「何を、云っているの、それは――あなた達が適当に、云い繕った……!」

「いいや、違う……お前が初めて、私達を訪ねて来た時に使った言葉だったんだ」

 

 そうだとも、サオリは未だ憶えている。

 彼女が、聖園ミカがこんな風に誰かへの憎悪を滾らせ、喪われた空白を埋める為になりふり構わず走り始めた、その切っ掛けを。

 

「セイア襲撃が起こる前、そもそもエデン条約も、お前のクーデター計画も、何一つ存在していなかった頃……そうだ、お前はあの時、唐突にやって来て、アリウスと和解したいと云って来たんだ」

 

 ■

 

「はじめまして☆ 誰だか知らないけれど、あなたがアリウスの生徒だよね?」

「………」

 

 彼女――聖園ミカはある日、本当に唐突に、何の脈絡もなくアリウスに接触して来た。

 どうやって見つけ出したのか、トリニティ自治区で活動するアリウス生徒を捕捉し、そこを伝って秘密裏にコンタクトを取って来たのだ。

 生徒から幹部へ、幹部から彼女(マダム)へ、そうやって話が行き渡り、最終的にスクワッドである自身に命令が下された。

 

 最初は半信半疑だった、罠を疑って掛かった、交渉の場を設けたい等とそれらしい事を口にして、のこのこと顔を出しに来たアリウスを殲滅する気なのだと、そう思っていた。

 

 鉄火場は慣れている、下手に大部隊を動員して損害を被っても面白くない。そこでスクワッドに白羽の矢が立った。スクワッドならば少数の戦力であっても有効で、尚且つ包囲網を敷いた罠であっても突破できる力を有している。万が一戦闘になっても、追撃を躱し自治区に帰還するだけの能力があると、上はその様に判断した。

 

 僅かな部隊を率いて交渉の場――トリニティ自治区の廃墟街、その崩落した聖堂の中で彼女と対面した時。

 サオリは、何て平和ボケした女だと思った。

 

 その日、トリニティのティーパーティーに所属する聖園ミカは、護衛や傍付きの一人も同行させずにその場に立っていたのだ。

 ミカは廃墟の中で蒼穹を仰ぎ、どこまでも能天気な様子で云った。

 

「今日も良い天気だよねぇ~! 凄くのどかでさ、こんな日には外で日光浴をしながら紅茶でも飲んで、歌のひとつでも――」

「……用件だけを云え、トリニティ」

「うわぁ、アイスブレイクとか嫌いな感じ? うーん、そっかぁ、じゃあ仕方ないし本題から云うね?」

 

 トリニティ特有の長ったらしい前口上。或いは、彼女に云わせればアイスブレイク。

 それを煩わしいとばかりに一蹴したサオリに対し、ミカはしかし機嫌を損ねるような様子を見せず、淡々と自身の胸の内を打ち明けた。

 

「――私ね、あなた達アリウスと和解したいの」

「……和解、だと?」

 

 笑顔と、そして広げられた両手と共に放たれた言葉。

 それは、サオリをしてほんの少しも想定していなかった言葉だった。

 トリニティとアリウスの――和解。

 その声を認識している筈なのに、サオリは思わず自身の耳を疑った。何よりその提案があのトリニティから為された事が、その事に拍車を掛けていた。

 

「うん、ちょっと過激な主張かもしれないけれど……あなた達は多分、まだ私達を憎んでいるよね? だから私達の助けも、連邦生徒会からの助けも断って、秘匿された自治区で孤立しているんでしょう? 過去の憎悪がまだ、その胸に燻っているから」

「………」

「でも、これを解決するにはお互いの憎しみが大きすぎる、それに積み重なった誤解とかも相当だろうし、まぁ普通に考えて、簡単じゃないよね、ナギちゃんも、セイアちゃんも反対するのは当たり前だよ」

 

 告げ、彼女はどこか辟易とした様子で肩を落とす。

 どうやらお仲間に大分反対された様だと、サオリは内心で嘲笑った。それと同時に、安堵していた。

 それはそうだろう、当たり前の反応だと、普通はそう考える。

 

 現トリニティに於いてアリウスの存在を覚えている生徒がどれ程残っているか――そうでなくとも、過去に排斥し、徹底的に弾圧した相手と和解など、真っ当な思考を持っていれば論外な選択肢だ。

 その相手が莫大な富か、或いは手を結ぶに足るメリットを持っているならば別だが、生憎とアリウスにその様な資源も、財源も、余裕もない。だからトリニティに、アリウスと和解するメリットは存在しない。

 だと云うのに何故?

 サオリの疑問を他所に、彼女は腕を組みながら唸って見せる。

 

「でもさ、仲良くするのって、そんなに難しいのかな? お互い少しずつでも歩みよれば、いつかは叶うものじゃない? 少なくとも、私はそう思うの――だから、少しずつ努力しようと思って、此処に来たんだ」

「……その言葉が本心であると、どうやって信じろと?」

「うん、その反応も理解出来るよ……だから、考えてみたの」

 

 ぴん、と。

 ミカは指を一本立て、片目を瞑って云って見せた。

 

「あなた達のアリウス生徒を一人、トリニティに転校させるのはどうかな? 勿論、他の子には内緒で!」

「何……?」

「私が後見人になれば何とでもなるよ、こう見えてもティーパーティーだからね、生徒ひとりを学園に編入させるくらい、お茶の子さいさいってね!」

「………」

「それで、アリウス生が何の問題も無く、私達の学園で仲良く過ごしながら幸せになれるという事を証明する、そうすれば、時間は掛かるかもしれないけれど、私達はまた一緒に歩んでいく事も出来ると思うの!」

 

 どこまでも天真爛漫な笑顔で、何の憂いも心配もないと、そう口にする彼女を前にしてサオリは思わず言葉を失った。

 こいつは、何を云っているのだと冷静な部分がそう呟いた。

 アリウスの生徒をトリニティに転校させる? それで何も起きなければ賛同を得られる? 前者だけならばまだ、分かる。この女はトリニティの中でもティーパーティー――つまり生徒会に属す存在。彼女の云う通り生徒ひとりを捻じ込む程度ならば実に容易だろう。

 

 しかし、そんな事が上手く行くはずがない。

 アリウスとトリニティでは、余りにも環境が違い過ぎる。

 そもそも、トリニティは陽の当たる場所、表側なのだ。

 自分達アリウスの生徒は、日陰の存在。

 此処以外に生きていける場所など――。

 

「云わば、その子が『和解の象徴』になってくれるって事! どうかな、この案は?」

「―――」

 

 ――和解の象徴。

 

 満面の笑みを浮かべ、問いかける聖園ミカ。

 サオリは暫し、その笑顔を凝視していた。本当に、何の下心も、何の打算も感じられない笑顔だった。

 

 こいつは――まさか、本気なのか?

 

 ほんの小さな、小さな疑念。

 信じられない様な心地でサオリは彼女を見つめ続ける。だがこんな意味不明な提案を、文字通り身一つで持って来た点を考えれば、少しだけ納得がいく。少なくとも向こうに、今この場で罠に嵌めるような気はないのだろう。サオリは無言でその場に佇み、ミカの真意を計りかねていた。

 暫くして、どこか焦れた様に肩を揺らすミカ。

 サオリは落ち着かない様子答えを欲しがる彼女に、漸く言葉を絞り出す。

 

「……随分と荒唐無稽な計画だな」

「うぇっ!? そ、そうかなぁ……結構頑張って考えたんだけれど、で、でもそんな存在がいたら、きっとセイアちゃんも、ナギちゃんも納得してくれると思うんだ!」

「………」

 

 そう云って、両手を振りながら大袈裟な身振り手振りで力説するミカ。

 トリニティとの和解――サオリからすれば、それこそ夢にも思わなかった様な事柄。実際問題今のアリウスで、それが成ると考える生徒がどれ程存在するか。

 いや、どれ程も居る筈がない、きっと誰もそんな事は信じない。

 しかし、もしも――もしも、そんな事が実現出来るのならば。

 サオリの脳裏に、スクワッドの姿が過った。

 

「……良いだろう」

「えっ!」

 

 サオリは静かに、そう呟いて見せる。

 反応は劇的だった。ミカは思わず素っ頓狂な声を上げ、サオリを凝視した。

 

「だが、私一人で決められる問題ではない、次の連絡を待ってもらう事になる」

「う、うん! 良いよ、全然待つ! でも、えっと、自分で云っておいてなんだけれど、そんな子本当にいるの……?」

「………」

 

 ミカの疑念に満ちた声。

 それに対しサオリは何も答える事は無く、ただ静かに頷いて見せた。

 サオリの胸には――ひとりだけ、心当たりがあった。

 

 ■

 

 アリウス自治区――寄宿舎。

 所々崩れ落ち、補修すらされていない小聖堂。罅割れ砕けたステンドグラスから冷風が吹き、だだっ広い空間は朽ちた木長椅子が並び、壁際には幾つもの軍用コンテナが並ぶ。

 奥まった小部屋には寝袋が用意されており、そこが現スクワッドに割り振られた彼女達の寝床であった。

 

 寄宿舎、と呼ぶには余りにも粗雑で酷い環境ではあったが、訓練生時代と比較すれば幾分か扱いはマシになったとすら云える。幾人もの生徒と枕を並べ雑魚寝する事もなくなったし、最低限の装備と弾薬は支給されるのだから。

 それに特務となってからは食事も多少優先的に割り振られるようになって、味は兎も角腹を空かせる事も余りなくなった。賞味期限切れのレーションでも、口に出来るなら有難いものなのだ。

 

 アズサはそんな場所でひとり壁際に腰を下ろし、静かに銃器の手入れを行っていた。サオリは彼女の姿を見つけると、手にした紙袋を握り締めながら歩み寄る。地面を叩く靴音が、周囲に響いていた。

 

「アズサ」

「……何?」

 

 サオリが声を掛けると、彼女はどこか億劫そうに顔を上げた。小さな携帯用ランプがアズサの手元を照らし、忙しなく動いていた指先が止まる。サオリは腰を曲げると、静かに彼女の隣へと紙袋を置いた。

 

「新しい任務だ」

「……そう」

 

 素っ気なく呟き、アズサは置かれた紙袋に目を向け、銃を地面に置くと手を伸ばす。作戦指示書か、或いは次の作戦に必要な装備か何かか、中に入っているのはそういうものだと思っているのだろう。

 実際、それは間違ってはいない。

 ただ少し――常とは毛色が違うだけだ。

 

 アズサは無遠慮に紙袋を開くと中の書類と思わしきものを取り出し、足元のランプに翳す。すると暫し、面食らった様に目を瞬かせた。

 ランプの光に照らされたそれが、凡そアズサの考えていたものとはかけ離れていたからだ。

 

「サオリ、これは――?」

「質問は受け付けない、お前はただ、指示に従えば良い」

「………」

 

 彼女が手にしたのは、古ぼけた教科書だった。

 それは凡そ、アリウスには似つかないような、普通の学校で用いられる、何て事の無い書物。自治区の主の意向で特定の書籍以外は全て回収され、秘匿されている現状、こういった教本の類も酷く限られており、特に外のものとなると非常に貴重で物珍しいものだった。

 他にも参考書らしき書籍に、ノート、同封されていた書類の中身はトリニティの校則と見取図、それらを手にしたアズサは困惑の表情でサオリを見上げていた。

 サオリは敢えて冷たく突き放す様に告げ、彼女に背を向ける。ただ、それでも背中に感じるアズサの視線に、ぼそりと呟いた。

 

「……潜入任務だ、お前の身分が露呈しては作戦失敗となる、私は、お前が適役だと判断した」

 

 それ以上でも、以下でもない。

 もしトリニティに潜入する様な事があるとすれば、アズサが適任だと、ただ彼女は思ったのだ。

 サオリ自身は、スクワッドのリーダーとして不在になる訳にはいかない。

 ミサキは纏う雰囲気が厭世的過ぎてトリニティに馴染む未来が見えない。

 ヒヨリは何とかなるかもしれないが、元々彼女は任務のバックアップが専門な上に精神的に不安が残る。

 アツコは雰囲気だけならば合致するが、マダムとの約束と彼女の身の上から論外。

 精神的に強く、単独でもある程度の局面に対応出来て、トリニティの校風と致命的な齟齬を生まない、アズサが適任だった。

 

 けれど、本当は――それだけじゃない。

 彼女を選んだ本当の理由は、別にあった。

 

「今の内に良く、勉強しておけ」

「……うん」

 

 サオリの、その素っ気ない声に。

 アズサは胸元に教科書を抱き寄せ、小さく頷きを返した。

 

 ■

 

「――和解の申し出?」

「はい、トリニティのトップ、ティーパーティーの一人が」

 

 アリウス自治区――大聖堂、最奥。

 その場所は彼女の私室であり、同時に玉座である。打ち捨てられ、山の様に積まれた古ぼけた書籍。それらを椅子代わりに横たわる彼女は、膝を突き頭を垂れるサオリの報告に疑問の声を上げた。

 サオリは聖園ミカの提案して来た和解の件を、包み隠さず彼女へと報告しを得た。その声は、ほんの僅かではあるが弾んでいる様にも聞こえる。私室の壁際に並ぶ燭台、そこに灯る火が微かに揺らいだ。

 

「彼女は交渉の場には単独で赴き、少なくともあの場に伏兵は存在しませんでした、言葉通りに受け取る事は出来ませんが、或いはその糸口となる可能性はあると、私は――」

「――なりません」

 

 しかし、彼女の判断は無情であった。

 サオリの言葉に、マダムは勢い良く扇子を閉じるとそう断じる。其処には一切の交渉の余地も、言葉を挟む隙すら感じさせない、冷たい色が灯っていた。思わずサオリの肩が震え、その身が強張る。

 

「全く、呆れる程純真無垢な発想ですね、罠でなければおかしい位です」

「………」

「ですが、まぁ、そうですね……折角利用出来る隙があるのですから、結論を急く必要はないかもしれません、無垢なのか、それとも腹黒い蛇なのか、それを一先ず見守る事こそ肝要ですか――その提案は次の交渉の場で一度断って下さい、そして適度に云い包め関係を保ち、トリニティの情報を得るのです」

「それは……」

「何ですか、サオリ?」

「――この提案(和解の道)を、完全に捨てるという事ですか」

 

 サオリは、恐る恐ると云った風に顔を上げ、問うた。 

 揺らめく火が照らす表情、視界に鮮やかな紅が映る。

 マダムの開いた幾つもの瞳が正面からサオリを射貫いた。

 

「当然です、和解の象徴? 何を寝惚けた事を――彼女は、トリニティの情報を得る道具として利用して差し上げましょう、それ以外に取れる選択肢はありません」

「………」

「サオリ、何か問題でもありますか?」

「い、いいえ」

「……まさか、私の許可を得ず何か準備でも?」

「ち、違いますマダム、私は、ただ……」

 

 見抜かれたと、そう思った。

 それが僅かな焦燥となり、サオリの表情を歪ませる。それを見たマダムはサオリの隠す何か勘付き、深い溜息を零した。そこには気怠い、呆れの感情が強く滲んでいた。

 

「サオリ、まさか忘れてはいませんね? あなた達が苦しんでいる理由を――寒さに震え、飢え続ける理由の根源を」

「――……はい、それは、勿論です」

 

 問い掛けに、サオリはぎこちなく頷いて見せる。

 それを忘れた日は、一日たりとも無い。

 ずっと、ずっと、幼い頃より教えられてきた事だ。

 忘れようと思っても忘れられない、骨身に刻まれた感情と言葉だから。

 俯いたまま、サオリは何度も口にしたそれを再びなぞる。

 

「……それらは全て私達を追放したトリニティのせいです、私達が苦痛に苛まれたのも、アリウスの同胞が多くの血を流し続けた事も」

「そうです、仇と和解など未来永劫あり得ません、必ず裏切りを働くに決まっています、障りの良い言葉で騙し、欺き、またあなた達から多くを奪い去るつもりでしょう、あなた達はまた同じ過ちを繰り返すつもりですか? また、あの内乱の時代に戻りたいのですか?」

「その様な、事は……」

 

 絞り出した声は、小さく掻き消える様だった。内乱の時代、冬の時代、ただの一度の食事すら儘ならず、銃声と悲鳴と苦痛が支配していた時代。サオリは歴史に詳しくない、その為の術は全てマダムが取り上げてしまったから――けれど、その凄惨さだけは何度も教えられた。その憎悪と悲惨さを煽る様に、繰り返し、繰り返し。

 意気消沈し、委縮したサオリを見たマダムは満足げに頷き、その指先でサオリを指し示す。

 

「ならばゆめゆめ、その憎悪を忘れてはなりません、良いですかサオリ、あなた達を導けるのは私をおいて他におりません、そしてあなた達を受け入れるような場所も、此処以外に存在しないのです」

「……はい、マダム、私は――憎悪を忘れません、あなたに、従います」

「えぇ、それで良いのです」

 

 答えに、彼女は満足した様子で嗤った。

 

「それこそ、あなた達の唯一の役目なのですから」

 

 ■

 

「……サオリ?」

「アズサ」

 

 小聖堂――スクワッド寄宿舎。

 そこに戻ったのは、実に三日ぶりだった。

 ミカの齎した提案をマダムに報告し、次の会合を取り決め、日程を報告し、再び顔を合わせたミカに玉虫色の解答を寄越す。それを向こうは良い様に取り、話はトントン拍子に進んでいった。

 だからこそサオリは何処か陰鬱な雰囲気を滲ませたまま、アズサの下へと足を運ぶ。

 

 いつも通りの小部屋、そこに一人で佇んでいた彼女はランプを前に先日サオリが手渡した教科書を開いていた。手垢に塗れ、所々擦り切れた古めかしい教科書だ、それが現在トリニティで扱っている教科書なのか、あるいは昔の代物なのか、それすらも定かではない。けれどサオリが伝手を用いて何とか用立てた、替えの効かない一品である事は確かだった。

 アズサをそれを丁寧に、優しい手つきで捲っていた。

 

 きっと、あの日からずっと、勉学に励んでいたのだろう。

 彼女の座り込んだ壁の周りには、広げられたトリニティ見取り図と校則の記載された書類が並べられ、近くには幾つか実際に問題を解いてみたのであろう参考書とペンも転がっている。正答率は――良くない様子だが、その努力の痕跡は見て取れた。

 サオリはそんな彼女の様子を見て、思わず視線を逸らした。

 逸らしながら、しかし伝えなければならないと、その重い唇を開く。

 

「件の潜入任務は――彼女の判断で中止になった」

「………」

「もう、トリニティについて学ぶ必要はない」

 

 その声は、二人きりの小部屋に良く響く。直ぐに返答は無かった、ただ少しだけ、息を呑む様な音が耳に届いた。アズサを見る事が出来ない、逸らした視線は薄汚れ、埃の積もった部屋の隅に向けられている。

 

「……そう」

「………」

 

 暫しの間を置き、アズサは言葉少なく答えた。

 ゆっくりと視線を戻せば、彼女は――アズサは、その手にしていた教科書を何の色も見えない瞳で閉じ、俯いていた。

 

「……用件は、それだけ?」

「……あぁ」

 

 会話と呼ぶには余りにも無機質で。

 それは単なる実務的な報告に過ぎない。

 サオリはそれ以上何か言葉を重ねる事が出来ず、結局いつも通り、慣れた文言を唇が紡ぐ。

 

「……近い内にまた、任務が下されるかもしれない、準備はしておけ」

「……分かっている」

 

 返事は淡々としていて、アズサは手にしていた教科書を地面に置くと、壁に立て掛けていた愛銃を代わりに手に取った。いつも通り、手慣れた動作で。

 それを見ていたサオリは無言で踵を返し、小部屋を後にする。

 後にするしか、なかった。

 

「………」

 

 私は――。

 

 小聖堂を後にし、その罅割れたステンドグラスを見上げ、サオリは想う。

 胸中で呟きを漏らす、しかし即座に首を振った。それは考えてはいけない事だから、それを自分達は望まれていない。そう云い聞かせ、サオリは再びマダムの下へと足を進めた。

 けれど、握り締めた拳だけは――どうにも解く事が出来なかった。

 

 ■

 

「……セイアちゃんは此処に居る」

 

 それは、果たしてどのような流れでそうなったのだろうか。

 そう、サオリはただマダムの云いつけ通り、それらしい解答でミカを煙に巻き、情報を引き出していた最中の事だった。未だにアリウスの企みに気付いていない彼女は能天気に会合を重ね、そしてある日、その作戦が決行された事になった。

 

 それは、彼女にとっては恐らく何て事の無い、悪戯の延長線上だったのだろう。

 

 ほんの五分足らずの時間、アリウスをセイアの居るセーフハウスに招き入れ、少しだけ怖い想いをしてもらう。

 アリウスが手にしているのは普通の小銃に、手榴弾や設置型爆弾、その程度。如何に百合園セイアが肉体的に虚弱と云えど、その程度でヘイローが壊れる訳がないと、そう思っていたのは確かだった。

 

 ――聖園ミカは、ヘイローを破壊する爆弾の存在を知らなかったのだ。

 

「静かに病院にでも送ってくれたら、それでオッケー、そういう事だから、よろしくね!」

 

 しかしマダムは、その機会を逃さなかった。

 予言を行うセイアは、マダムにとって何よりも目障りな存在だったから。正に彼女にとっては望外の展開と云って良かっただろう。何せ極秘であるセイアの位置情報が、何もない状況から自身の手元に転がって来たのだから。

 聖園ミカはスクワッドを、便利な私兵程度に想っていた。そうでなければこの様な情報を簡単に教える筈がない。

 しかし、違う。

 スクワッドは――アリウスの兵士は。

 

 ヘイローを壊す方法を学び、訓練し、その道具を持った――人殺し集団だった。

 

 ■

 

 その日、ヘイロー破壊爆弾による、セイア殺害命令がスクワッドに下った。

 サオリはいの一番に立候補したが、ミカとの交渉役という間柄、その立候補は却下された。

 代わりに和解の象徴となるべくトリニティの多くの知識を持っていたアズサが指名され、交渉する間もなくその任務に投入される事になった。

 

 全てが裏目になったと、その日の夜、サオリは眠る事が出来なかった。

 自分があの時、要らぬ知恵を回してあんなものを用意しなければ。

 そもそも、彼女が適任だなどと思わなければ。

 マダムに、その事を悟られなければ。

 

 その罪悪(つみ)は――自分が被るべきであったのに。

 

 ■

 

「ナギちゃんが、変な事を企んでいるの」

「………」

 

 百合園セイアが死亡した――そう知らされた日から、聖園ミカは変わった。

 いつも通りの天真爛漫な笑顔の下に何か仄暗く、暗澹たる感情を押し殺している様な、サオリにはそんな風に見えた。

 いつも通りの廃聖堂、そこで腕を組みながらやや隈の見える表情で続ける彼女は、サオリを見つめ、云った。

 

「セイアちゃんが死んでしまってから、気が抜けちゃったみたい、ゲヘナと平和条約だなんて、全く、ナギちゃんったら、本当に突然意味不明な事云っちゃってさぁ」

「………」

「……だから、そう、この前私が提案した計画を始めて欲しいな」

 

 そう云って、ミカは懐から一枚の紙を取り出す。無言のままそれを受け取ったサオリは紙面に視線を落とし、口を強く結んだ。

 紙面には、『編入学届』の文字が躍っていた。

 強張った表情で紙面に目を落とすサオリを覗き込む様にして、ミカは告げる。

 

「トリニティ内部にスパイを送り込むの、セイアちゃんの時とは違って――慎重な方法でね?」

「……あぁ、分かった」

 

 これが、全ての始まりだった。

 

 ■

 

 ミカ――私は、お前の事が理解出来なかった。

 一体何を望んでいるのか、見当がつかなかった。

 態々敵地に一人で乗り込んできて、和解を提案してくるなどと――ただ単に、馬鹿なのかもしれないとも、最初は本気でそう思った。

 けれど。

 けれど、もしも、本当に、お前が和解を望んでくれているのなら。

 お前から『和解』という言葉を初めて聞いた時も、何の譫言だと頭では理解しつつも……。

 もしも、そんな未来が私達にあるのなら、と――。

 そんな風に、ほんの僅かな希望を、私は持ち続けていたよ。

 

 嗚呼、だからきっと。

 ミカ、お前は。

 

 本当に――心から私達と和解を願ってくれた、心優しい生徒だったのだろう。

 

 ■

 

 横たわったサオリは、天井を仰いだまま瞳を開く。痛みに引き攣る呼吸を時折漏らしながら、その視線をミカへと向けた。サオリの独白にミカはただ無言で、静かに耳を傾けていた。

 

「お前は善意を持って私達を訪ねて来た、そんなお前の心を踏み躙り、騙し、この地獄に導いたのは私だ……」

 

 あぁ、そうだ、ミカだけではない。

 先生に消えぬ傷跡を残す事になってしまった事も。

 姫が声と顔を隠して生きなければならなくなったのも。

 ヒヨリとミサキをスクワッドに引き込んだ事も。

 和解の象徴ではなく、人殺しとしてトリニティに送られたアズサさえ。

 

「――全て、私の責任だった」

 

 自身が、錠前サオリがその選択を誤らなければ。

 もっと早く、正しい道を選べていれば。

 或いは、こんな結末に至る事は無かったかもしれないのに。

 

「お前たちの云う事は正しかった、私は、猟犬などではない……周囲の全てに苦痛を撒き散らす、災厄だ」

 

 その場に居るだけで災いを撒き散らす存在。

 自分は兵士でも、駒でも、猟犬でもなかった。

 もっと悍ましく、卑下されるべき存在だった。

 それを自覚し、サオリは深く息を吐き出した。僅かに震えたそれが、白く濁って天へと滲む。目を細めたまま、サオリはふと口元を緩めた。

 

「アズサに聞きたかった事、そう、あったな……ひとつだけ」

「……それは、何?」

 

 ミカが抑揚なく、平坦な声で問いかける。

 アズサに聞きたかった事、疑問に思っていた事。

 けれど終ぞ、問いかける事が叶わなかった事。

 サオリは想い返し、呟く。

 

「あの子は、私の手で地獄に引き込まれて尚――幸せそうに見えたんだ」

 

 それは、トリニティで過ごすアズサを見た時に想った事だ。

 任務としてトリニティに潜入し、偽りの絆を結び、その中で日々を謳歌しながら裏側で暗躍する。二律背反、矛盾を孕んだ在り方だ、その生活がどれだけの精神的負担を彼女に与えていたかは計り知れない。そんな地獄の環境に、サオリはアズサを叩き落とした。

 何度もアズサとコンタクトを取り、定期連絡で顔を合わせていたサオリは知っている。

 アズサはそんな、地獄の様な環境にあっても尚、どこか、幸せそうに見えた。

 その青春を確かに、謳歌している様に見えた。

 それが偽りのものであっても、その関係がいつか破綻するものと知っていても。

 彼女は常に心の中で、その幸福を噛み締めていた。

 

「誰にも感情を表さず、私達を最後まで受け入れず、孤独を貫いていたあのアズサが……あぁ、友達と、大人と、一緒に力を合わせて、悪意と害意に満ちた大きな苦難を乗り越えて――晴れやかで、幸福に満ちた青空の下に、進んで行けた」

 

 或いは、こうも思う。

 アズサは、もしかして知っていたのだろうか? とも。

 自分の紡いだ絆が、決して壊れる事はないと。

 その偽りの関係は真に至るものだと、確信していたのだろうか? 

 もし、そうならば、そう考えるに至った理由は何なのだろうか。

 そして、そうではないのなら――アズサはその強さを、どうやって手にしたのだろうか。

 

 答えは、ない。

 

 サオリはきっと、それを永遠に問いかける機会を失ったのだ。

 歪んだ口元をそのままに、サオリはゆっくりと天に手を伸ばす。

 

「あぁ……」

 

 いつか、独房で伸ばした手の先。

 そこには常に、紅色の光(彼女の威光)があった。

 許しを請い、誓いを口にし、自身の過ちを認める。

 あの幼き日と同じように、サオリは手を伸ばす。

 

 けれど――もうその先に、従うべき光は無い。

 

「私達に幸福など訪れない、日陰に生まれ落ちた存在は、日陰の中でしか生きられない、私達に夢を抱く資格も、その力もない、全ては虚しく、意味などない――……」

 

 幼き頃、何度も何度も教えられた言葉。

 この血肉を作った、アリウスの教え。

 それが絶対の真理だと、世界の全てだと信じていた。

 あぁ、そうとも。

 

「――全部、嘘だった」

 

 声が回廊に響き、自嘲的な笑いが漏れた。

 引き攣ったそれは、強い悲しみを湛え、サオリの頬を流れる。

 それはサオリが見せた、明確な弱さだった。

 

 ずっと、ずっとスクワッドを守る為に走り続けた。

 どんな理不尽な現実を目にしようと、その膝を突く事はなかった。

 傷だらけの両手で、必死に自分達の生きていける場所を守ろうと足掻いた。

 それしか道が無いと信じていた、自分に云い聞かせていた。

 

 しかし――それこそが過ちだった。

 

「私はただ、それを認めたくなかっただけなんだ、私から離れ、陽の当たる場所へと踏み出し、幸福になったあの子(アズサ)を見て、ただ、自分を否定されたと、そう、思って――……」

 

 (錠前サオリ)が、全ての原因だったというのに。

 愚鈍で、惰弱だった自身は、疫病神の様に周囲を不幸にする――その真実を、認めたくなかったのだ。

 きっと、錠前サオリという存在がこの世に生まれなければ。

 もっと、上手くやれる、素晴らしい人物がこの場所に立っていれば。

 

 想い、サオリは震える唇で、涙を流しながら問いかける。

 歪んだ視界、薄暗い夜空、その向こう側へと踏み出した彼女(アズサ)に。

 

「アズサ、お前なら別の道を往けたのか……?」

 

 声は、みっともなく震えていた。

 彼女が自身と同じ場所に立っていれば、或いはミサキを、ヒヨリを、アツコを――幸せな未来に連れ出す事が叶ったのだろうか。

 

「どうすれば、お前のようになれたのだろうか? そもそも、そんな機会は存在するのだろうか? 私が、そんな風に願っても良いのだろうか……?」

 

「――私達が幸せになれる道も、あったのだろうか?」

 

 錠前サオリがあの時、あの手を取っていれば。

 或いは聖園ミカが持ち込んだ和解の提案を、あの善意を素直に受け取る事が出来たのなら。

 もっと別の、こんな悲惨な結末ではなく、他の未来を迎えられたのだろうか。

 

「私達にも、もっと別な、あの子と一緒に、陽の下で笑えるような……そんな、夢みたいな未来が――」

 

 呟き、その光景を幻視する。

 トリニティとアリウスの和解、夢物語と罵られるような代物だ。一年、二年でその蟠りが、対立意識が、育まれた憎悪が消える事は無い。

 けれどもし、アズサの様に。

 あの子の様に、希望を胸に前へと進める子がスクワッドを率いていたのなら。

 アリウス全体じゃなくても良い、せめて家族だけでも、あの子達だけでも――アズサの様に、トリニティの中で、補習授業部の中で、あの暖かな陽の下で笑い合って、他愛もない日常を享受する未来があったのかもしれない、と。

 

 ヘイローを破壊する術ではない、もっと普通の、学生らしい事を学んで。

 レーションの代わりに可愛らしいお弁当を、銃弾の代わりにペンを、血の代わりに汗を流し。

 共に机を並べ、放課後にどこかお店に寄って、何の益にもならない話を笑顔で続けるような。

 そんな、ごく普通の生活を。

 何て事のない日常を。

 

「あぁ、もっと早く、そう想えていたら――」

 

 呟き、サオリは口を噤んだ。

 流れ落ちた涙が地面に吸い込まれ、跡を残す。

 けれど、それは――夢に過ぎない。

 現実は薄汚れ、古びた回廊に横たわり、苦痛に喘いでいる自分。

 それが全てだった。

 

「……いいや」

 

 擦れた声だった。

 目を閉じ、首を緩く振ったサオリはその夢を、理想を否定する。

 それは、駄目だ。

 それはきっと、許されない。

 

「これ程の罪を重ねて、沢山の人々を傷つけて」

 

 そう、その道を夢想するには。

 そう在れば良かったのにと口にするには。

 

「……余りにも、都合の良い話だ」

「………」

 

 ――(錠前サオリ)は、罪を犯し過ぎた。

 

「ごほッ、ぐぅ――……」

 

 せり上がる嘔吐感に咳を漏らせば、口の中に血の味が広がった。唇の先から垂れたそれを無造作に拭い、サオリは掌に付着した赤を前に苦笑を漏らす。手を握り締め、視線をミカに投げかけた。

 

「私はもう、戻れない――こんな有様だ……だから、ミカ」

 

 その手が、ゆっくりと地面に落ちる。もう、抵抗の意思も、戦う意思もない。

 空っぽだ、今のサオリにはもう、何もなかった。

 

 聖園ミカと――同じように。

 

 硝子玉の様な瞳、透明なそれを真っ直ぐ見つめながら、ミカは口を固く結ぶ。サオリはその手を握り締めたまま、いっそ穏やかな口調で告げた。

 

「好きにすると良い、お前が奪われた分だけ、奪ってくれ……」

「………」

「優しい心を持っていたお前を、憎悪の魔女にしてしまったのは――他ならぬ私だ、私こそが全ての原因だった、私が他者から奪ってきた、その全ての報いをお前が為してくれ」

 

 そうだ、そうすれば――。

 

「これで、少なくとも……公平になる筈だから」

「――……そう」

 

 長い沈黙があった。

 

 ミカは下げていた愛銃の引き金に指を掛け、静かに銃口をサオリに向ける。倒れ伏したサオリはその様子を、何処か満ち足りた表情で見つめていた。

 血の滲んだミカの唇が言葉を紡ぐ。

 

「それが、最後の言葉で良いんだね――サオリ」

「……あぁ」

 

 頷き、サオリは想う。

 こうなる未来は、何となく察していた。けれどその最後、もしこの結末に至るとすれば。

 この役目が、もしあるとすれば。

 

「この役目があるのなら、それを為すのはアズサだと思っていたのだが」

 

 呟き、彼女は静かに目を閉じた。

 その口元に薄らと笑みを湛え。

 

「――お前だったのだな、ミカ」

「………」

 

 ――沈黙が、降りる。

 

 既にサオリは全てを受け入れている、後は聖園ミカがその引き金を絞れば――結末は定まる。

 錠前サオリの死という形で、この物語は幕を閉じるのだ。

 しかし、いつまで経っても弾丸は飛来しなかった。

 ただ目を瞑り、最後の瞬間を待っていたサオリは、戸惑いと共にその瞼を再び押し上げる。

 

「サオリ」

 

 声がした。

 ミカが、彼女の名を呼ぶ声だった。

 ミカは銃口を突きつけたまま、静かに息を吸い込む。

 その前髪に覆われ、影になっていた表情は見えない。しかし、その頬を一筋の涙が流れるのを、サオリは見た。

 

「……あなたは、私なんだね、サオリ」

「……何?」

「私もね、幸せになりたかった」

 

 それは、今しがた聞き届けたサオリの独白――その結果気付いた、運命の類似点。

 ミカは構えていた銃口をゆっくりと下ろし、ぽつり、ぽつりと心中を吐露する。言葉と共に大粒の涙が零れ落ちた。それは彼女の足元に幾つもの染みを作り、その度に肩が小さく揺れた。

 

「私も、あなたのように、もう少し先生に早く出会っていたら、或いはあの時、手を取る事が出来ていたら……そうしたら、過ちを取り返せたのかなって、毎日独房の中で思っていたんだ」

 

 そう、聖園ミカは独房に収監されたあの日から――薄暗い檻の中で何度も過去を悔いた。

 あの時、先生の差し伸べてくれた手を取る事が出来たのなら。

 もしくは先生ともっと早く、出会えていたら。

 或いは、せめて一瞬踏み留まるだけの心の強さが自分にあれば。

 違う道も、違う結末もあったんじゃないかって――そんな風に毎日思っていた。

 

「当然の罰だと受け入れていた、でも、それでもやっぱり慈悲が欲しいと数え切れない程祈った、でもね、そんなのはやっぱり無駄だった……私が犯した取り返しのつかない数々を、どうすれば良いのか、どうすれば償えるのか、どうすれば許されるのか、全然分からないから」

 

 どうすれば自身の罪は許される? どうすれば、またやり直す事が出来る? どうすればいつかの様に、また皆で笑い合いながら日々を過ごす事が出来る? 

 何度も祈った、何度も考えた、得意じゃない思考を回し続けて、普段縋らない様な憐れみさえ求めた。

 でも結局、その方法も、糸口すら、ミカには分からなかった。

 

「二度目のチャンスが――やり直す機会が欲しい」

 

 呟き、ミカは自身のポケットに手を当てた。

 中には、先生から貰った銀の指輪が仕舞い込まれている。

 彼の信頼を、想いを裏切った自分に、これを身に着ける資格はない。

 けれど、どうしてもおいて行く事は出来なくて。

 サンクトゥス分派の生徒に燃やされてしまうのが恐ろしくて。

 こうやって未練がましく、今でも肌身離さず持ち歩いている。

 それは、ミカの縋る願いの残滓、そのものだった。

 指先に伝わるその形に、ミカは口元を大きく歪めながら吐き捨てた。

 

「そんなものが、私にもあるって信じていたよ……でも、そんな都合の良いものはなかった、そんな未来はね、私達には最初から存在しなかったの、ただ救いを願って、苦しむだけだったんだ」

 

 ぽろぽろと、大粒の涙を流し、しゃくり上げながらミカは云った。

 願えば願った分だけ。

 祈れば祈った分だけ。

 苦しみは深く、強く、色濃く自身を苛む。

 結局救いなど、赦しなど与えられないのであれば、それはただ在りもしない救いを夢見て絶望を深めるだけの行為に他ならない。ただ自分は、自分達は自ら苦しんでいただけだ。

 

 ミカの視線がサオリに向けられる。

 そこには強い悲哀と、苦痛に歪み切った色だけがあった。

 目尻から次々と涙が流れ落ち、血と涙に滲んだ唇が言葉を紡ぐ。

 月明かりに照らされ、恥も外聞もなく泣き顔を晒すミカ、それこそが今の彼女の本当の姿だった。

 

「だからね、貴女は私だよ、サオリ――あなたは絶対に幸せにはなれない」

 

 ――私が、絶対幸せになれないのと同じように。

 

 聖園ミカは、決して幸せにはなれない。

 錠前サオリもまた、決して幸せにはなれない。

 そうなるには、余りにも多くの罪を犯し過ぎた。

 

「やり直すなんて、無理だよ、もう取り返しのつかなくなった私達に二度目のチャンスなんてある筈がない、そんな事は、許されない――きっと、許されちゃいけないの」

「ミカ……」

 

 ぎちりと、愛銃のグリップを強く握り締める。

 自分達は幸福にはなれない、許される事もない、手から零れ落ちた平穏を再び握り締める事はない。その機会は、永遠に失われたのだ。

 救いは与えられない――自分達に待つのは、破滅(絶望)だけだ。

 でも――。

 

「でも、だからこそ――……」

 

 告げ、ミカは顔を上げた。

 涙と鼻水に塗れ、酷い表情を晒したまま。

 彼女はしかし、力強い口調で断じる。

 その瞳には何処までも強固で仄暗い、強い意志が秘められていた。

 

 その罪悪(つみ)に、結末があるのなら。

 贖う方法が、あるとすれば。

 

「私が、あなたの結末を決める、それが私に救いなんて無いんだって、それを証明する事になったとしても――私達は、それくらいの大罪を犯してしまったのだから」

 

 一度下げられた銃口、それがまたゆっくりと――サオリへと向けられる。

 幾ら考えても分からなかった、贖いの方法。

 けれどもし、それにたった一つだけ答えがあるとすれば、それはコレ(銃弾)だけだ。

 

 罪人は、罪人同士で裁き合えば良い。

 

 自身の罪を自覚し、苦痛に塗れ、その果てで救いなど無かったと絶望しながら命を終わらせる事。

 それこそが、一つの贖いとなると、ミカは結論付けた。

 

「私達の罪は、私達で裁かなくちゃいけない、それが私に出来る、数少ない贖いの一つだから」

「……あぁ、そう、だな」

 

 ミカの言葉に、サオリは視線を落としながら小さく賛同を返す。

 もし手を汚すのであれば、それは、その罪悪を背負える者である事が好ましい。図らずも此方側(日陰)に踏み込んでしまった彼女には、その資格がある。そう考えれば、成程――この役目を担うのがミカとなるのは、どこか納得の出来る話の様に思えた。それを為したのが自分自身だと思えば、全く以て、酷い話ではあるが。

 想い、サオリは苦笑を零した。

 それをどういう風に捉えたのか、ミカは強張った表情のまま銃口を揺らし、云った。

 

「……最初は、殴り殺してやるって思っていたけれど――気が変わった、錠前サオリ、あなたはちゃんと、コレで殺して(ヘイローを壊して)あげるから」

 

 横たわったサオリに銃口を向けたまま、ミカの指先が緩慢な動作でトリガーに触れる。涙と血の跡が残る頬を晒し、ミカは真っ直ぐ彼女を見ていた。

 二人の視線が三度交わる。

 そこにはもう――互いに対する憎悪は存在しなかった。

 どこまでも真摯で、イノセントで、互いに対する理解の色だけが残っていた。目の前のこの人物はきっと救われない、何方も底の底まで転がり落ちてしまった、大罪人だ。そしてその光景を知っているのは、きっと、この目の前の存在だけ。

 終わらせられるのは、互いの指先(引き金)か、自分の指先(引き金)だけだった。

 それを呑み下し、ミカは囁くように告げる。

 

「……先に待っていて、多分私も、此処の主人をやっつけたら、そう遠くない内に『そっち』に行くと思うから、だから――」

「――……あぁ」

 

 頷き、サオリはそっと目を閉じる。

 

 ――すまない、皆。

 

 サオリは胸中でスクワッドの皆と、先生に詫びた。

 結局自分は多くの人物を地獄に叩き落とし、傷付け、苦痛を齎しただけだった。この生に意味があったなどと、口が裂けても云う事は出来ない。

 嗚呼そうだ、それこそ錠前サオリという存在は――生まれるべきではなかった。

 でも、そう――それでも。

 家族(スクワッド)と出会い、今日まで共に生きられた記憶は、何物にも代えがたい自身(サオリ)宝物(思い出)だ。

 それだけは、そう思う事だけはどうか、赦して欲しいと。

 誰に対してでもなく、そう、強く願った。

 

「なぁ、ミカ」

「……なぁに」

 

「――すまなかった」

 

「………」

「どうか、此方(こっち)には……ゆっくり来てくれ」

 

 ふっと、息が漏れた。

 それは最後に漏らしたサオリの言葉に対する、失笑だった。

 苦り切った表情で、けれど不格好な笑みを浮かべたままミカは呟く。

 

「……酷い奴」

 

 だって、そうでしょう?

 自身に問い掛け、ミカは想う。

 

「そんな事――出来ないって知っている癖に」

 

 それが、最後に交わした言葉だった。

 添えられた指先で、引き金(トリガー)を絞る。

 小さく、軋む様な音が響く。

 最後にミカはサオリに向け、何処か憂う様な、悲しむ様な、けれど全てを受け入れるような笑みを零し。

 目を瞑り、彼女は云った。

 

「……ばいばい、サオリ」

 

 

 回廊に、乾いた一発の銃声が木霊した。

 

 

 ■

 

 目を閉じたまま、サオリは静かにその時を待っていた。

 自身の終わりを迎えると云うのに、何故だろう、その心は穏やかで、想像していたよりも何倍も静かで、痛みは無かった。

 

 轟いた銃声は、確かに彼女の鼓膜を叩き、サオリは全身から力を抜く。もう、弾丸に耐えるだけの力は残っていない。一発か、二発か、それとも三発か、そう長い間撃ち続ける必要もないだろう。自分のヘイローはきっと、そう何発も撃ち込む必要なく破壊されるだろう、その確信がある。

 だから、ほんの一瞬、痛みを耐えるだけで良かった――。

 この命が尽きるまで。

 ヘイローが破壊されるまで。

 

 だというのに、何故だろう。

 

 いつまで経っても――衝撃が訪れない。

 銃声は耳に届いている、弾丸は発射されている筈だった。

 

「――……?」

 

 ゆっくりと、サオリは目を開く。

 もう開く事は無いと思っていたそれ、まさか狙いが逸れたのか? そんな風に、何とも決まりの悪い感情と共に顔を上げれば。

 

 

 目の前に、大きな――大人の背中があった。

 

 

「……先、生?」

「―――」

 

 ミカが、呆然とした表情で呟く。

 その大きく見開いた視線の先に立つ、見覚えのある姿に。

 震えた声で、その名を呼ぶ。

 

 彼――先生。

 全身に汗を流し、ぼさぼさの髪で、荒い呼吸を繰り返しながら。

 けれど確かに、その二本の足で。

 

 ――聖園ミカ(錠前サオリ)の前に、彼は立っていた。

 


 

 次回 『決して消えない、罪悪の形』

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