「……ばいばい、サオリ」
静謐な回廊に、銃声が轟いた。
それと一つの影が飛び込むのは――殆ど同時だった。
弾丸は本来であればサオリの額を強かに打ち、そのヘイローを破壊するだけの威力を秘めていた。
故に、それを防ぐために人影は――先生は必死に手を伸ばす。
それは本当に、刹那の合間。後一秒、後一歩、届かなければ弾丸はサオリへと撃ち込まれていただろう。伸ばした腕は辛うじて発砲の直後サオリと銃口の間に差し込まれ、弾丸は伸ばした先生の腕に着弾――その広げた中指を根元から千切り飛ばした。
「――ッ!」
手の甲が抉れ、衝撃で先生の顔が歪む。僅かに軌道の変化した弾丸が、先生の側頭部を掠めた。そして背後の瓦礫に弾丸は着弾し、穴を穿つ。
一拍後、空薬莢が甲高い音を立てて地面を跳ねた。
ミカの驚愕に見開かれた瞳、背後から微かに聞こえる衣擦れの音。
それを確認しながら深く――深く、息を吐き出す。
――間に合った。
何とか、間に合った。
あと一秒遅れていれば。
いいや、ほんの一歩。
或いは半歩、届かなかったら。
この結果を手繰り寄せる事は、出来なかった。
倒れ伏したサオリと、彼女に銃口を向けるミカ。その姿を見た瞬間、なりふり構わず飛び出してしまった。本来であれば余りにも軽挙であると云えるが、今回はそれが功を為した。
腕を突き出したままサオリを背に庇った先生は、手袋に包まれたまま足元に転がる指を横目に、問いかける。
「……サオリ、無事だね?」
「あ、あぁ……」
「――良かった」
サオリの困惑と驚愕を滲ませた返答に、先生は心から安堵する。そして視線を上げると、ミカが愕然とした表情で此方を見ていた。その銃口が、カタカタと音を立てて揺れ動く。先生は一歩、気遣う様に彼女へと歩み寄り、その名を呼んだ。
「ミカ――」
「せ、先生……」
彼女の視線が、先生の欠けた手のひらに向けられる。滲み出る感情は恐怖と焦燥、月明かりに照らされ、転がる指先を見て、彼女は舌をもつれさせながら呟いた。その顔面からは、血の気が失せている。
「わ、わたっ、私、先生の手、撃って、ゆ、指――」
「大丈夫、落ち着いて、ミカ……」
努めて冷静に、それでいて穏やかな口調で、先生は告げる。指の欠けた手、それに嵌められたハーフグローブを取り外せば、先生の腕全体が黒く、変色していた。
「……
「――ぁ」
そう云って何の痛痒も感じないと、中指の欠けた義手を開閉させる先生。
そう、突き出し防御した腕は、左腕だった。千切れた指先は機械のもので、先生の肉体ではない。
先の衝撃で義手全体が硬化し、表面に投影されていた人肌が掻き消え本来の黒色を露呈させていた。関節部位に着弾した為に指自体は抉られてしまったが、フレーム全体は無事である。手の甲に走った損傷も大きなものではない、義手としての稼働に問題は無く、給電機構も動いていた。
「完全に壊れてもいない、弾は逸れたから私は平気だよ、だから安心して」
「そ、そっか……そっか――」
譫言の様にミカは繰り返し、思わずその場に座り込む。完全に、先生に弾丸を撃ち込んでしまったと思い込んでいた。そうでなくとも先生に銃口を向け引き金を絞った事が、強い恐怖心と後悔を彼女に齎していた。心臓が早鐘を打ち、背中に滲む冷汗を感じながらミカは必死に呼吸を整える。足に、力が入らなかった。
「先生、何で、此処に――」
サオリが痛みに顔を顰めながら、震える腕で体を起こす。瓦礫に寄り掛り、先生を見上げる彼女は恐る恐る問いかけた。
「姫を、助けに行ったんじゃ……?」
「勿論、助けに行く、けれどそれは、サオリ――君も一緒だ」
「なっ……」
サオリを振り返った先生は、僅かな笑みを口元に湛え、告げる。
その言葉にサオリが驚きを見せると同時、回廊に影が差し込んだ。
「リーダー……!」
「サオリさん!」
「っ、ひ、ヒヨリ、ミサキ……?」
それは、先生と共に姫の救出に向かった筈のスクワッドの面々。息を弾ませ、背嚢と愛銃を担いだヒヨリとミサキは、倒れ伏したサオリの下へと駆け寄る。ミサキはセイントプレデターを地面に放ると、満身創痍となったサオリの身体、その肩を起こしながら呟いた。
「リーダー、無事――には見えないね」
「あ、青痣だらけで辛そうですね……? で、でも 兎に角、生きていてくれて良かったです……!」
「……お前達」
自身を見下ろす家族の姿を凝視しながら、サオリは目を瞬かせる。
それと同時背後から続く形で、残った生徒達も回廊へと辿り着いた。美食研究会に忍術研究部だ、彼女達は飛び出した先生の安否を確認し、内心で安堵の息を吐く。
「よ、良かった~ッ! 皆無事だよ!」
「一時はどうなるかと思いましたが……」
「なっ、美食研究会に、忍術研究部まで――?」
「……大丈夫、先生が説得してくれたから、もう敵じゃない」
「何……?」
ミサキから齎された言葉。それは、サオリからすれば正に信じられない様な代物で。
愕然とした様子で双方を眺めていてれば、散々打ちのめされボロボロになったサオリを見下ろしながら、ハルナはその肩を竦めて見せた。
「ふふっ、先生に根負けした、つまりそういう事です」
「――………」
ハルナが笑みを浮かべ、ワカモは不機嫌そうにそっぽを向く。
その様子から、ミサキの言葉が嘘でも何でもないと分かった。
言葉が、なかった。
あれ程、憎々しく敵対していたと云うのに。その遺恨は残っているだろう、完全な赦しを得た訳ではない。けれど、それでも、この場に彼女達は銃口を向け合う事無く立っていた。
それはサオリからすれば、正に奇跡の様な光景だった。
「ミカ……」
「………」
呟き、先生はミカのすぐ前へと足を進める。
愛銃を抱え、座り込んだミカの前で膝を突き、先生は彼女の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げるミカ。その傷と砂利、煤に塗れたミカの頬、それはサオリの必死の抵抗、その表れだった。恐らく自身が想像しているよりもずっと、激しい戦いがあったのだろう――それを想い、先生は深く頭を下げた。
「本当に、ごめん」
「っ……!? な、何で、先生が謝るの……?」
「……私が、もっときちんと言葉を尽くすべきだった、そう強く思ったんだ」
告げる声には、強い後悔の色が滲んでいた。
ミカはそんな先生の姿を目にして、大きく取り乱した。もっと何か、別の言葉を掛けられると思っていたのだ。見放されたり、責められたり、罵倒されたりだって、覚悟していた。
だって、それが普通だと思うから、当たり前の感情だと――そう思っていたから。
だから先生がそう口にしたとき、ミカは狼狽した。それは自身の本心を曝け出したも同然の反応だった。
抱えた愛銃を手放し、地面に両手を突いたミカは先生の方へと身を乗り出しながら声を裏返し、必死に叫ぶ。
「そ、そんな事ない! 先生が、謝る必要なんて……! だ、だって、先生は悪くない! 悪いのは、私、私でしょう!? それなのに――」
「いいや、私がもっと真摯に、正面から……ミカと言葉を交わしていれば、そうすればこんな、互いに傷付け合う様な事も無かったかもしれない」
ミカがこんなに思い悩む事も。
サオリと殺し合う様な事も。
こんなに傷付く事も――無かったかもしれない。
けれど、まだ致命的ではない。
先生は間に合う事が出来た。
だからこそ、こうして彼女に謝罪を口にする機会すら生まれたのだ。
想い、先生は――彼女に向けて手を伸ばす。
それは、いつかの姿を思い出す光景だった。
伸ばされた右手、それが差し込む月光に照らされ淡く輝いて見えた。
砂利と、煤と、血に汚れて――けれどミカにとっては、何よりも尊く、美しく、素晴らしいものに見えたのだ。
「ミカ」
「ぅ……」
先生が、自身の名を呼ぶ。
ミカの胸が高鳴り、その視線がゆっくりと先生と交わった。
月明かりを反射し、煌めく瞳。その蒼に見つめられた時、ミカは自身の中にある何か、云い表す事の出来ない色が滲み出すのを自覚した。
「一緒に帰ろう、これが全部終わったら――トリニティに、ナギサとセイアの所に」
先生の口から告げられる、その言葉に。
ミカは差し出されたその手を凝視しながら、けれどその口元を歪め、緩く首を振る。
それは、出来ない。
言葉に出さずとも、彼女はそれを明確に主張する。
「そ、そんなの、無理だよ……わ、私は、私が学園に居ても、皆不幸になる……セイアちゃんも、私のせいで――」
「私が、何とかする」
彼女の言葉を、その
手を差し出したまま、先生は強い口調で断じた。
「ミカがどんな明日を迎えたいか、どんな日々を送りたいか、何が好きで、何が嫌いで、どんな子なのか――私はちゃんと、知っているから」
「……あ、あははっ、な、なに、云っているの先生、私の事を知っているって、何か……何か、誤解していない? 先生、ちゃんと私の事を見ているの? こんな、沢山の罪を犯した私の姿を――」
乾いた笑み、虚飾に塗れた胸中。ミカは石床に爪を立て、俯きながら昏い感情を吐露する。そこには自罰的で、自嘲的で、こんな自分が救われる筈がない――救われてはいけないと云う、強い想いがあった。
こんなのは、きっと夢だ。
自分が都合の良い妄想だ。
だって――。
「だ、だって、何回も、何回も何回も、先生に助けられて、手を伸ばされて、その度に私は台無しにして……っ! 挙句の果てにナギちゃんも、セイアちゃんも傷付けて……ッ!」
叫び、同時に堪え切れず目尻から涙が溢れ出した。そうだ、こんな、こんな沢山の罪を犯した自分が許される筈がない、救われる筈がない。
何回も、何回も先生の期待を裏切った。感情のままに暴れて、傷付けて、挙句の果てに大切な友人まで――。
周囲の生徒が自身に投げかけた言葉を思い返す。牢の中で何度も耳にした言葉、そうだ、自分は――聖園ミカは。
顔を上げ、涙に塗れた顔を月光に晒しながら、
「私は、魔女なんだよ――ッ!」
「――ミカは、魔女なんかじゃない」
だが、先生はそれを否定する。
心の底から、否定する。
涙を零すミカを見つめながら、先生はその指先を伸ばす。零れ落ちる涙を拭いながら、先生は穏やかな口調で以て続けた。
「大丈夫だよミカ、やり直せない事なんてない、君の立つ其処はまだ、幾らだってやり直しの効く場所だ――私が何度だって手を伸ばす、君が底だと思っても、私が必ず引き上げる」
「……そのまま、振り向かないで行ってくれたのなら、良かったのに」
先生の指先、そこから伝わる優しを感じながら、ミカは呟く。
声は掻き消えてしまいそうな程弱々しく、震えていた。
「先生、どうして先生は、私をこんなに苦しめるの……? 何で、まだ私に、チャンスがあると信じさせちゃうの……? そんなもの無いって、完全に諦めてしまえば、それ以上苦しむ事なんてないのに、こんな私に、そんなもの、もう――」
「ある、ミカにだって、サオリにだって」
やり直す機会は、必ずある。
先生は、そう断言する。
もし、それでも無いと、そう口にするのであれば。
「――もし存在しないのなら、私が一から作り出す」
どこまでも真剣な面持ちで、先生は云った。
心身を賭して。
どんな障害があったとしても。
全力で、その機会を設けてみせる。
その意思が、先生にはあるのだ。
ミカはそんな彼を見上げながら、弱々しく笑う。それは諦めの混じったものだった。
「……そんなの、無茶だよ」
「無茶でも何でも、私はやるよ――例え失敗したとしても、何度でも挑んで見せる」
生憎と、諦めない事に関しては負けない自信がある。破顔し、屈託のない笑みを浮かべる先生は、伸ばしていた手を動かし、ミカの手を取った。傷だらけのそれ、先生に手を引かれたミカはぴくりと肩を震わせる。大きな大人の手が、ミカの細く小さな手を包んでいた。
優しく、暖かく、けれど力強く。
「一回目で失敗したなら二回目で、二回目で失敗したら三回目で、三回目で失敗したら四回目で、何回、何十回、何百回でも、私は諦めない――この命ある限り、チャンスは何度だって生み出せると、私はそう信じている」
子ども達の往く道が、一度や二度の失敗で閉ざされる事なんてない。
小さな失敗でも、大きな失敗でも、どれだけ大きな壁に見えても、どれだけ困難な問題に直面しても。その向こう側は、その道は、必ず続いていると信じている。
そう、だから。
もし自分に、そんな
「君達の、この先に続く未来には――無限の可能性があるんだ」
先生は、何度だってそう口にして見せよう。
誰が何と云おうと、生徒自身がそれを否定しても、先生だけはそう信じ続ける。
未来が閉ざされる事なんて、あってはならない。生徒達がその未来を諦める事など、あってはならない。そのチャンスが無いと、機会がないと、もしそう感じてしまったのなら。
その道は、先生が切り開く。
生徒達がまた、その道を歩んでいけるように。
全力を賭して、切り開いて見せる。
「機会は、何度だって私が作る、生徒が未来を諦める事なんて、あってはいけない……生徒達が心から願う夢を、そこに続く道が無いのなら」
先生はミカの手を引き、立ち上がる。釣られるように、ミカもまた先生に手を引かれ立ち上がった。呆然と見上げる視線、それを見返し、その手を強く握り締め――先生は破顔する。
あぁ、そうだとも。
「それを創る事こそ――
生徒の可能性を信じ、その道を照らす事。
それもまた、己の本懐である。
その力強い言葉が、回廊に響いた。
『――そこまでになさい』
それを、咎める
回廊全体に響き渡る冷徹な声、暗闇の中に浮かび上がる朧げな輪郭。
この領域の主――ベアトリーチェ。
権能を通し一連の流れを観察していた彼女は、その数多の瞳を苛立ちと侮蔑に歪めながら、真っ直ぐ先生を見つめていた。
ミカの手を離し、ホログラムの様に浮かび上がったベアトリーチェの虚像を見上げる先生はその名を呟く。生徒達が一斉に身構えるのが分かった。
「――ベアトリーチェ」
『先生、如何にあなたとて、これ以上私の領地で希望を謳う事は許しません、此処にそのようなものは存在しない、肯定されるべきは苦痛と恐怖、そして絶望――あぁ、つまらない余興はこれにて仕舞いとしましょう』
告げ、彼女は手にしていた扇子を勢い良く閉じる。そこには隠しきれない苛立ちと失望があった。それは自身の望んでいた物語が、唐突にそのテイストを変えてしまったかのような、そんな色合い。
扇子を閉じる音と共に、彼女はスクワッドにとって絶望の一言を告げる。
『――これより、儀式を開始します』
声が、回廊に響き渡る。
同時に何か、云い表す事の出来ない不気味な気配が回廊全体を突き抜けた。まるで夜が深まる様な、或いは何かが入れ替わる様な。スクワッドがはっと、蒼褪めた表情と共にベアトリーチェを仰いだ。
「っ!?」
「そ、そんな、まだ時間は、陽は登り切ってないのに……!?」
『――全く、そもそも其処からして認識が甘いのです』
息を呑み、絶望の表情を浮かべるスクワッドを見下ろしながら、ベアトリーチェは嘲笑う。
『儀式はその気になれば、いつでも開始出来るのです、陽の出まで待つ理由が今の私にはありません、遊びはこれにて仕舞い――えぇ、ロイヤルブラッドのヘイローは間もなく破壊されるでしょう、そしてその神秘の欠片を通じ、私はより高位の存在と昇華する』
「や、やめろ……ッ!」
サオリが覚束ない足取りで起き上がり、ベアトリーチェに向かって声を荒げる。しかし彼女はその叫びを聞き届ける事無く、静かにその指先で虚空をなぞった。
『さて、では――幕を降ろしましょうか、先生?』
その、冷え冷えとした声色。
振り上げられた扇子が虚空を切り、同時に先生の視界の中で蒼が渦巻く。それはユスティナ聖徒会の出現する前兆、冷たい風が周囲に巻き起こり肌を撫でる。
だが違う、この召喚は今までのものとは異なる、その確信がある。
それを裏付ける様に、渦巻く風と色は常の規模とは異なる、それは大きなうねりとなり、軈てひとつの大きな人影を生み出した。回廊に長い影が伸び、先生と生徒達を覆う様に出現する。
通常の生徒の倍近い背丈、巨大な銃器を軽々と担ぎ、特徴的な衣服とベールを身に纏う黒の聖女。
先生はその姿を目にした瞬間、戦慄と共に思わず呟いた。
「――聖女、バルバラ」
『ほぅ、やはり知っていましたか』
先生の声を拾ったベアトリーチェは、その表情を愉悦に歪める。薄らと浮かべた冷笑をそのままに、ベアトリーチェは上機嫌に言葉を続けた。
『しかし、彼女だけではありません』
「……!」
聖女バルバラ――その横合いに出現する、新たな個体。
渦巻く青白い螺旋が生み出した影は、バルバラとは異なる存在でありながらも、近しい存在感を放っている。彼女とは異なる衣装、武装ながら体格の良さは同じ。ゆっくりと立ち上がった二人の聖徒会。
聖女カタリナ、聖女マルガリタ。
並んだ三人の聖女、その亡霊は生徒達の前に立ち塞がる様にして、そのガスマスク越しに視線を寄越す。
瞬間、全身から放たれる悍ましい気配。
その威圧感に、皆が一斉に気圧された。
「これは――」
「っ……!」
「あらあら」
「っ、この、圧力……!?」
「な、なんですかこの、肌が逆立つ様な、ひ、酷い寒気が――……!?」
「あれが、マダムの奥の手……? あんなの、私達で相手に出来るの……?」
強大な敵の出現。
放たれるそれは、雪国の寒波を想わせる。対峙しているだけで体温が奪われ、冷気で肌を撫でつけられるような感覚。その出で立ちと重圧が、目に見えない攻撃として精神と体力を削る。古く、戒律の守護者と呼ばれたトリニティの歴史、それが今彼女達に牙を剥こうとしていた。
ミサキは冷静に敵の実力を観察しながらも、その頬に冷汗を滲ませる。本能が告げていた、この存在は危険だと、立ち向かう事すら愚かしい事だと。
更に駄目押しとばかりに、聖女たちの背後から次々とユスティナ聖徒会、その一般生徒達が顔を表す。まるで今の今まで力を温存していたとばかりに回廊を埋め尽くさんと出現するそれに、先生の表情が顰められる。
確実に、此方を仕留めるつもりだと、その意思が空気越しに伝わって来るようだった。
虚空に浮かぶベアトリーチェの影が、その紅い瞳で先生を射貫く。
『さぁ先生、私達の因縁、此処で断ちましょう――』
「………」
ベアトリーチェを前にして先生はその影を睥睨し、静かに肺を使う。
目の前の存在はヒエロニムス――あれに比肩し得る怪物だった。
いいや、左右の個体も含めて考えるのであれば、それを凌ぐ可能性すらある。
見た目のインパクトだけならば巨躯であったヒエロニムスが勝るが、しかし目の前の存在はあの巨躯を、ほんの二メートル、三メートルに凝縮したような存在感があった。単純な戦力として見れば、通常の生徒達に相手など出来ない。アレは既に、その範疇に無い。
反則の存在だ。
「――アロナ」
『……!』
――此処で、
その思考が脳裏を過った。
シッテムの箱を抱えながら、先生は彼女の名を呼ぶ。アロナもその思考を読み取ったのか、画面の向こう側で口を一文字に引き締め、静かに指先を虚空に伸ばした。
それは決して間違いではない筈だ。この場でカードを切り、出来得る限り早く敵性存在を片付ける。そしてこのままバシリカまで急行し、アツコを救出する――それもまた、一つの選択肢。
今この場に集う戦力を考えれば、何とか撃退出来なくはない――かもしれない。
しかし、博打を打つ様な真似は極力避けたい。
ならば――やはり此処は自分がカードを切るべきだ。
そう思い、先生がその口を開きかけた瞬間、視界に掌が翳された。
それは視界の先に立つ、ミカのものだった。
面食らい、目を見開いた先生は彼女へと視線を向ける。
「っ、ミカ……?」
「――先生、アレは私に任せて」
告げ、彼女は何て事もないように一歩、二歩と前に歩みを進める。その聖女たちに向けて、余りにも軽い足取りで。
「先生……ごめんね、私、いっつも問題ばっかり起こして、感情的になって、アレコレ理由をつけて暴走して、面倒くさいし、ほんと、酷い不良生徒だよね」
俯いたまま、彼女は呟く。声は弱々しく、震えていた。
しかし同時に、何か奥に強い意志を感じさせる響きを伴っていた。
ふと顔を上げ、真っ直ぐ起立した彼女は視界の向こう側に並ぶ、無数のユスティナ聖徒会を見つめた。カチャリと、彼女の手の中で愛銃を音を鳴らす。
そのグリップを握り締め、ミカはその想いを口にした。
「でも――ありがとう、こんな私と、ずっと真剣に向き合ってくれて」
――まだ
告げ、ミカは制服の裾を翻し、ゆっくりと先生へと視線を向ける。その星々の煌めく瞳が瞬き、彼女の口元には微笑みを浮かんでいた。月光が、彼女の輪郭を淡く彩る。
まるで躍る様に、彼女のヘイローが揺らめき、廻る。
先生を制止するように突き出した腕を払い、ミカは云った。
「だから先生は先に進んで、サオリと、スクワッドと――ちゃんと生徒を救ってあげて」
「ミカ……!」
「……先生、私の事は何でも知ってるんでしょう? なら、これも知ってるよね」
どこか悪戯っぽく、それでいてお道化る様に、彼女は破顔する。
ミカは小さく息を吐き出すと、その愛銃を無造作に構えた。片腕で突き出す様にして向けられたそれは、型なんて大したものではない。ただ彼女にとってこの日、初めてきちんと構えた格好だった。
思い切り地面を踏み締め、ミカは自身の腕に力を籠める。だが必要以上に力まない、大切なのは力を籠める事ではないのだ。重要なのは巡る神秘、それを一点に集中させて撃ち出す事。
足元から揺らぐ様な風が吹き、ミカの髪を舞い上げた。
その中で、彼女の
「私って――結構強いんだから」
――
迸るそれは、閃光の如く。
ミカが引き金を絞った瞬間、轟音が打ち鳴らされた。
強烈な光が網膜を焼き、ミカの構えた愛銃から放たれた弾丸は宛ら極光の如く直進し、その進路上に存在した敵を軒並み吹き飛ばす。ユスティナ聖徒会が紙切れの様に消し飛ばされ、宙を舞っていた。
瞬く間に肉薄した弾丸は佇んでいた聖女バルバラの胸元に直撃し、強烈な爆発を生み出す。爆発で内壁が抉れ、衝撃波がミカを、先生を襲う。咄嗟に屈んだ生徒達の髪を、衣服を靡かせ、無数の破片がその肌を打った。先生に飛来したものは、ミカが全てその身で受ける。しかし、彼女は微動だにしない。
爆発の衝撃でバルバラの身体が後方へと押し込まれ、その両足が石床を削り、電車道の如く二本の跡を残す。軈て停止したバルバラは胸元から吹き上げる蒸気、そして僅かに汚れた衣服を見下ろし、ゆっくりとその視線を――ミカに向けた。
ミカは自身の一撃を受けて尚、余裕の佇まいを見せるバルバラに鋭い視線を向ける。
「――亡霊なら、ヘイローを壊しちゃうなんて、怖がる必要ないもんね? 最初から全力で行けそうだよ」
「……ミカ」
「先生、こんな事、今更って思われるかもしれないけれど」
突き出した腕を降ろし、振り返ったミカは限りなく透明な、淡い色を滲ませ。
綺麗に笑って、云って見せた。
「私を信じて」
「――……」
逡巡があった。
だが、それ以上に胸を掻きたてる何かがあった。今の彼女に嘘はない、何処までも純真な、真摯な想いだけがある。それは善意か、思い遣りか、だからこそ先生はそれが難しい選択であると知りながら、強く歯を噛み締め。
「――分かった」
それでも、頷いて見せた。
「……ふーっ、ふふッ」
先生からの返答を聞き届けたミカは、砕けた自身の足元、その破片を蹴り飛ばし、軽くコンディションを確かめる。調子は悪くない、傷は少し痛むが想定内。まだまだ戦えると云う確信がある。
ミカはそれを確かめると徐に振り向き、サオリ達の背後にあった瓦礫の山に銃口を向け、トリガーを引いた。
瞬間、先程と同じように極光が奔り、凄まじい衝撃と共に軽々と瓦礫の山を吹き飛ばす。風圧と舞い上がる砂塵に目を細めれば、回廊を封鎖していた瓦礫の山は綺麗さっぱり消し飛ばされ、天井にはぽっかりと穴が空いていた。
散乱した瓦礫、作り出された風穴を見つめながら、サオリは呆然とミカを見た。
ミカはその視線を受け止めながら、顎先で道を示す。
「――行きなよサオリ、時間、無いんでしょ?」
「………」
「此処は、私が守るから」
手を払い、その背中を見せるミカ。其処には言葉には出さずとも、伝わる想いがあった。サオリはぐっと声を呑み込み、立ち上がる。
その背中に、続く影があった。
「先生、此処は私達にお任せを」
「……ハルナ?」
「流石のミカさんと云えど、この数とあの怪物三体相手は厳しいでしょう、しかしそれは彼女単独であればのお話――丁度此処には、
「うぇっ、わ、私達もぉ……!?」
先生の肩を掴み、そう宣うハルナに対し、自然と巻き込まれたミチルは思わず驚愕の声を漏らす。ハルナはそんな彼女に対し、何処までも悠々とウィンクを返して見せた。
震える腕を押さえつけ、恐る恐る視線をスライドさせるミチル。その先には佇む聖女達と、ミカの一撃を受けて尚、まだまだ数を残すユスティナ聖徒会の群れ。それを目にしながら、ミチルは内心で叫んだ。
――アレ、見るからにヤバそうな奴なんだけれど……!? 何かこう、見た目がもう悪の黒幕とか、そういう感じなんだけれどぉ……!?
自分だけならば、まだ良い。万が一失敗したり、負けたとしても、喪われるのは自分自身だけだ。
けれど今は違う、今この場にはイズナとツクヨ、それにワカモが居る。彼女達を巻き込んで、こんな見るからに途轍もない存在と戦う事を、ミチルは躊躇していた。
彼女達が傷付く事が怖い。
仲間を失う事が、恐ろしい。
そんな思いと共にちらりと、ミチルは背後を盗み見る。
しかし、そんな部長の内心は見透かしていると、知っているとばかりにイズナとツクヨの両名は、力強い瞳と共に頷きを返した。まるで自分達を見ると分かっていたかのような反応だった。
それは、
それを見て、ミチルは自身の怯懦を噛み殺す。
此処で逃げると云う選択肢は――無かった。
だから両手を力強く握り締め、腹の底から絞り出した声で叫んだ。
「~ッ! に、忍者に二言なし! 先生殿を守る為に来たんだし、なんかめっちゃ強そうな怪物の一人や二人、私達なら何とかなるに決まってる! 忍術研究部を舐めるなぁ~ッ!」
「部長、御供しますっ!」
「わ、私も、全力で、お相手します……ッ!」
ミチルが愛銃を担いでミカの元へと駆け出せば、その背中にイズナとツクヨが素早く続く。自身の背を駆け抜けて行く忍術研究部を見つめながら、サオリはその表情を微かに変化させた。胸中に湧き上がる、何か、表現できない色がある。
「錠前サオリ」
「っ……!」
ふと、サオリの肩を掴む影があった。
背を震わせ振り向けば、自身を真っ直ぐ凝視する狐面が視界一杯に広がる。
「あの御方を御守りしなさい、その命に代えても、もし万が一の事があれば――今度こそ、私が貴女を始末します」
影からぬるりと現れたワカモは、そう云って黄金色の瞳でサオリを射貫く。自身の肩を掴む手には、万力の様な力が込められていた。サオリは数秒、驚愕に身を強張らせていたが、彼女の声を聞き届け。
それから喉を鳴らし、ゆっくりと、しかし力強く頷いて見せた。
「私の名に――いいや」
「
「………ふん」
瞳の奥に輝く絶対の意思。
その返答に、ワカモは鼻を鳴らすとサオリの肩を離した。そして裾を翻し、忍術研究部の後に続く。その背中を、じっとサオリは見つめ続ける。ワカモに掴まれた肩には痛みとは違う、何か熱が込められていた様な気がした。
「ハルナさんの仰った通り、思ったより早くストレス発散の場がやって来ましたね~♪」
「コイツ等、どっから湧いて来ているのよ……!? 十五、二十、二十五――これ、下手すると百人くらい居ない!?」
「わわっ、え、えぇと、これ、弾足りるかなぁ……? 残りの弾薬は、えっとぉ……」
「ふふっ、弾が無くなったら最悪、拳で――という選択肢もありますわ」
「いや、それ出来るのってごく一部の奴だけだよね!?」
忙しなく、そして喧騒と共に足を進める美食研究会。ハルナが片腕を掲げて軽く二度、三度揺らせば、それだけで彼女達はいつものフォーメーションを構築する。スクワッドの、先生の目の前に生徒達による防衛網が築かれて行く。
その中央に立つミカが振り返り、先生に向かって力強く叫んだ。
「さぁ、先生――行って!」
「っ……!」
回廊に、集った生徒達の声が響く。
「あなた様、どうか――ご無事で!」
「背中は私達が絶対守るから! あっ、でもなるべく早く帰って来てねぇ~!?」
「主殿、御武運を……! イズナは、無事のご帰還を信じています!」
「私達は、絶対に、負けません……! だから、安心して、背中を預けて下さい!」
「私達がお相手します、突き抜ける優雅さで――! えぇ、ですから……凱旋をお待ちしておりますわ、先生」
「ふふっ、終わったら一緒に食事の約束、忘れないで下さいね☆」
「な、なるべく頑張るけれど……! これだけ苦労したんだから、ご飯は奮発してよね!」
「はむっ、むぐ……ッ! 弾はあんまりないけれど、おやつはあったから! んんッ、エネルギー充填! よぉし、大丈夫、任せて先生!」
月明かりに照らされ、並ぶ生徒達。目前に対峙するユスティナ聖徒会の群団と比べれば、余りにも小さく、ささやかな戦力に見えるだろう。けれどその輝きは何物にも勝り、星々の輝きにだって負けはしない。その意思が、心が、彼女達を遍く照らし、輝かせていた。
その背中を先生は目を細め、見つめ続ける。
「リーダー、先生!」
「い、急ぎましょう……!」
回廊の向こう側から、自分達を呼ぶ声が響く。振り返ればヒヨリとミサキが、自分達に向かって声を上げていた。サオリは足元に転がっていた自身の愛銃を拾い上げ、最後にもう一度ミカを――生徒達の背に視線を向ける。
「――サオリ、行こう」
「………」
先生が、手を差し出した。
それをじっと見下ろし、サオリは深く息を吸う。それだけで胸が、身体全体が軋み、鈍痛を発した。けれど、今はそれが気にならない程に強い感情が沸き上がっていた。
サオリは背を向けたまま、ミカの、彼女の名を呼ぶ。
「ミカ」
「……なぁに」
「――ありがとう」
告げ、サオリは先生の手を取った。
先生がサオリの腕を引き、駆けて行く。最後に振り返り、ユスティナ聖徒会と対峙する生徒達を一瞥し、その瞳に強い光を湛えながら――再び前を向く。
先生に手を引かれ、回廊の奥へと駆けて行くサオリ。
その背中を見送って、ミカはふっと苦笑を零した。
「謝ったり、御礼を云ったり、ほんと――忙しない奴」
呟き、前を向く。
立ち塞がる有象無象、幽鬼の如く佇むユスティナ聖徒会、聖女、出来損ないの亡霊。ミカはそれらを一瞥し、大きく手を広げる。ひんやりとした風が少しだけ傷に沁みて、けれど今はそれすらも気にならない。
「――あなた達は通れないよ」
声には、強い意思が込められていた。
降り注ぐ月光を全身に浴びながら、彼女はゆっくりと足を進める。
「此処から先は、私が……」
告げ、同時にコツリと靴音が鳴る。それに目を見開き、ミカが左右に視線を飛ばせば。
彼女が一歩踏み出した分だけ、他の生徒が――忍術研究部が、美食研究会が、同じ一歩を踏み出していた。
その表情が物語る。
『貴女ひとりの戦場ではありませんわ』
『ふふっ、食べ放題ですねぇ』
『全員ぶっ壊してやるんだから!』
『ちょっとはお腹が膨れたし、今の私は多分いつもよりすっごいよ!』
『皆で戦えば、何とかなるよね……!?』
『今こそ、忍の本懐を果たす時……!』
『此処は、私が、守ります……!』
『早急に排除し、あの方を御守りせねば』
――声に出さずとも、伝わって来るような声。
随分と騒がしく感じたが、それが存外嫌でない事に、ミカは自分自身で驚いた。
聖園ミカは、決して一人じゃない。
その事実を噛み締め、ミカは薄らと笑みを湛えたまま。
超えるべき
「此処から先は――私達が守るから」
次回 『その