ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、大変助かりますわ~!


その信念(想い)は、誰か(あなた)を救えるか。

 

 地下回廊を駆ける足音。それは周囲に反響し、月明かりに照らされた影が次々と内壁を過っていく。スクワッドはアツコの囚われているバシリカの至聖所に向けて、全速力で駆けている最中だった。前衛はヒヨリとミサキ、その後ろに先生とサオリが続く。後方で生徒達がユスティナ聖徒会を押し留めているとは云え、あれがアリウス自治区の全戦力であるかは分からない、バシリカ方面から新たなユスティナ聖徒会が投入される可能性もあった。故にヒヨリとミサキの双方は、愛銃を抱えたまま薄暗い回廊に視線を巡らせ、その神経を尖らせ続けている。

 儀式は既に開始されている、今は一分一秒が惜しい。兎に角前へ前へと懸命に足を動かすスクワッド――しかし、そんな彼女達の中で唯一、僅かに動きの鈍い人影があった。

 

「はぁ、ハッ……!」

 

 サオリだ。

 スクワッドの中で、明らかに彼女だけが激しく消耗していた。

 サオリは荒い息を繰り返し、その血の気の失せた顔で必死に足を動かす。しかし、如何に精神が踏ん張ろうとしても、肉体は限界を迎えようとしている。先行するミサキやヒヨリと比べて、彼女の一歩は短く、緩慢だった。

 何日も続いたアリウスの追撃、そこから美食研究会との戦闘、避難通路での攻防戦、ユスティナ聖徒会の奇襲、そしてミカとの死闘――連戦に次ぐ連戦、負傷に次ぐ負傷。最早彼女の身体は何処を見ても傷だらけで、痛々しい何て表現では足りぬ程に傷に塗れている。

 それでも尚意識を保ち動けている事自体が奇跡と云えた。

 だが、彼女の戦いはこれで終わりではない。この後に本命とも云うべき戦闘が控えている、彼女はその戦いの為に此処まで足掻いて来たのだ。

 故に、まだ倒れる事は許されない。

 サオリの手を引き駆けていた先生は、その弾む息を呑み込み彼女の名を呼んだ。

 

「サオリ」

「だい、丈夫だ、先生、足を、緩めるな……私は、まだ、走れるとも……!」

 

 先生に手を引かれながら、サオリは途切れ途切れにそう声を上げた。青痣だらけで、恐らく口の中も切っているのだろう、舌を回すだけで痛みが頬を刺してくる。それでも彼女の意思は固く、ただ前だけを向いていた。その声には、先程までには存在しなかった重々しさを伴っていた。それは彼女にとって初めて感じた強い情動。これまではただ、家族を助けたい一心で此処までやって来た。その気持ちは今も変わらない、優先事項はそのままだ。

 けれど、それだけではない、彼女の肩に圧し掛かった『想い』が確かにあった。

 ふと、彼女は口を開いた。吐息の混じった、途切れ途切れの言葉で、必死に何かを伝えようとする。

 

「先生、私は、私はずっと、間違った道を歩んで来た、その道の過程で、多くの人を傷付け、取り返しのつかない罪を犯して来た……その道に、ミサキも、ヒヨリも、アツコも、アズサさえ巻き込んだ、私の罪悪は、明確で、絶対的だ」

「………」

「そんな――そんな大きな過ちを犯し続けた私の為に、力を貸してくれる生徒が居たんだ……分かるか、先生? 確かに私は、あの瞬間託されたんだ、もう絶対に、手を差し伸べてくれる人なんて居ないと、そう思っていたのに」

 

 先生の手を握るサオリの手に、ぎゅっと力が込められた。不意にサオリの目尻から、涙が零れ落ちた。その表情は歯を食いしばったまま、苦悶に歪んだままだというのに、彼女が静かに流した涙は余りにも透明で、混じりけの無い色をしていた。

 それは罪悪感だとか、感動だとか、そういう類の涙ではない。ただ彼女の中にあった、巨大な罪悪の形に、ほんの少しでも、僅かでも触れてくれた生徒に対する深い感謝と敬服の表れだった。

 逆の立場だったら、自分の大切なものを悉く奪われたら、果たして自分は彼女達の様にその背を守る事が出来るのか? その銃口を逸らす事が出来るのか? 薄暗い暗闇の中で生まれ、泥水を啜って育ち、偽りと拒絶の教えと共に今日まで生きて来た彼女にとって、その在り方は眩く、気高く、余りにも輝いて見えた。

 

「許された訳じゃないと、分かってはいる、けれどこれは、もうスクワッド(私達)だけの戦いじゃない、私には、義務が……いいや、敢えてこう云わせてくれ――私には、責任があるんだ、あの声に、想いに、応える責任が」

 

 俯き、震えそうになる足で懸命に地面を踏み締めながら、彼女は腹の底から絞り出したような声で呟く。そうだ、自身には応える責任がある――あの想いに、優しさに、気高さに、応える責任が。少なくともサオリは、そう強く信じる。

 それが先生ありきの奇跡だという事は理解していた。それでも、ほんの僅かでも良い、自分の為に背を向けた彼女達に報いたいと、サオリの心はそう叫んだのだ。

 サオリは血の滲んだ指先を握り締め、声を張り上げる。

 

「あの光に報いる為にも、私は、絶対に――アツコを、助けなくちゃいけない……!」

 

 一歩、彼女は強く地面を蹴り飛ばす。ぐん、と彼女は加速し、先生の隣に並んだ。先生は傷に塗れて尚、その向こうに辿り着かんとするサオリを見て――故に、その足を一瞬止める。

 手を繋いでいたサオリは、引っ張られる形で体勢を崩した。今まで全速力で駆けていた先生が急停止したのだから然もありなん。後方に逸れる形となったサオリの身体、目を見開いたまま硬直する彼女の手を離し、肩に手を回すと――もう片方の腕を膝裏に潜り込ませ、先生は勢い良くサオリを抱き上げた。

 サオリは突如地面から離れた両足、そして急激に近付いた先生の顔に驚き、目を丸くする。そして自身が先生に抱えられている事に気付くと、困惑を滲ませながらその肩を掴んだ。

 

「っ、先生、何を――!?」

「私は」

 

 サオリを抱えたまま、先生は駆け出す。ヒヨリとミサキの背を追って、息を弾ませ、全速力で。骨が軋む、筋肉が悲鳴を上げていた。決して軽くはないサオリと、その装備を抱えながら、先生はそれでも地面を蹴り飛ばす。自身の身体に籠る熱を感じながら、大量の汗を流しながら先生は云った。

 

「私は、いつも生徒に背負われてばかりだけれど、こんな私にも、役に立てる時はあるんだよ」

 

 そう、自身はいつもそうだ。肝心な時に生徒達に背負われ、情けない姿を晒して来た。だからこそ生徒が倒れそうな時、苦痛に喘いでいる時、ほんの少し、僅かな時間でも構わない――こんな時ぐらい、彼女達を抱えられなければ、大人の矜持が泣いてしまう。

 自分だって一杯一杯だと云うのに、それでも先生は何でもないかのように笑って告げる。

 

「ほんの少しでも良い、身体を休めてサオリ、代わりに私が、走るから……!」

「―――」

 

 そう云って前を向く先生に、サオリは暫く呆然とした表情を向けた。けれどその感情を受け取り、俯いた彼女は先生の汗と血の滲んだシャツを握り締めながら、小さく呟く。

 

「……ありがとう、先生」

 

 声は、足音に掻き消されて届く事は無い。けれど確りと、先生の心には届いた。サオリの掴んだ先生の肩越しに、確かに伝わるものがあったのだ。その瞳を閉じ、サオリは心の中で告げる。

 

 もっと早く、幼い頃に先生と出会っていれば、そう思った事は何度もあった。或いは出会わなければ、そうすればこんな風に苦しむ事もなかったんじゃないかって。諦観と安寧の内に、希望を知らずに沈んで行けたのではないかと。

 しかし、それでもサオリは強く思う。

 

 ――私は、お前と出会えてよかった。

 

 ■

 

「此処は――……?」

 

 百合園セイアが気付いた時、その身は全く見覚えのない場所に存在していた。上も下も、何もかもがあやふやで知覚できない夢の狭間。その中でただ少しずつ蝕まれていく自身の肉体を苦痛と共に眺める事しか出来なかったセイアは、唐突に切り替わった世界を前に困惑する。その場所は彼女をして記憶にない場所で、かと云って夢の狭間の様にあやふやではない、確かな景色と立体感、現実味がある。それらを前にして暫し呆然としていたセイアは、周囲を見渡しながら我に返る。

 自身の足を支える木板、天井に描かれた特徴的な紋様、松の絵画、それでいて綺麗に重なった障子と遥か向こう側に見える山岳に蒼穹――浮かぶ雲を眺めながら、セイアは呟いた。

 

「蜃気楼、いや……この光景と様式は、百鬼夜行自治区、か?」

「ふぅむ、お客様かのぅ?」

 

 声がした。

 それは本当に、何の気配も感じさせずにセイアの目の前に佇んでいた。息を呑み、素早く振り返ったセイアの視界に飛び込んで来たのは、白い狐――否、彼女は狐ではない。着崩した和装に膨らんだ尻尾を携えた、生徒だった。その手に煙管を摘まみながら、軽く木板の床を踏み締めながら歩く彼女は、セイアを興味深そうな瞳で以て見つめる。

 

「此処に妾以外が足を踏み入れるとは、初めての事じゃのう、不可思議な事もあるもの……して、如何してこの様な白昼夢に(まみ)えたのじゃ?」

「貴女は、誰だ? 私を認識……出来るのか?」

「ふむ――」

 

 セイアは愕然と、そう呟く。今の今まで白昼夢の中で自身を認識できたものは居なかった。未来か、過去か、少なくとも彼女が観測する世界の中でその傍観者たる存在を認識できる事は異例であった。何せ、セイアは本来その世界の住人ではない、云わば軸の異なる存在――いや、そもそも目の前の彼女は、何処にいる? 此処は、未来か、それとも過去か? それすら、セイアには分からない。

 その混乱を察したか、何度か頷いた彼女は、セイアの表情を揶揄う様な瞳で見つめながら、告げた。

 

「何やら、訳有り――らしいのぅ」

 

 煙管から立ち上る煙が、ゆらりと揺らいでいた。

 

 ■

 

「つ、着きました……!」

「バシリカの、至聖所――!」

 

 地下回廊を駆け続ける事、暫く。息を切らせ前を指差すヒヨリ、その視界の中に崩れ落ち、夜空に包まれた大聖堂が見えて来た。巨大なホールの中に聳え立つステンドグラス、罅割れ、砕け、散乱する瓦礫と石柱。夜空から差し込む月光と星々がステンドグラスの模様を地面に伸ばし、スクワッドはその出入口に差し掛かる地点で足を止める。息を弾ませ周囲を観察するミサキとヒヨリ、先生もまた彼女達に続いて足を緩め、大きく肩で息を繰り返す。流れ落ちる汗は、半ば冷汗と化していた。

 

「先生、此処で、降ろしてくれ」

「……うん」

 

 サオリが先生の背中を叩いて呟き、先生は頷きながらそっとサオリを地面に降ろす。両足で床を踏み締めた彼女は、その調子を確かめる様に何度か踵を叩いた。崩れ落ちた瓦礫の影、ステンドグラスの向こう側、祭壇の裏、それらに視線を飛ばしながら慎重に足を運ぶミサキは、視線をサオリに向ける事無く問いかける。

 

「リーダー、身体は?」

「大丈夫だ、先生のお陰で少し休めた――最後の一戦位は、もたせてみせる」

 

 ミサキの声に応えながら、サオリは静かに愛銃の弾倉を検める。弾薬は決して多くない、しかし何とか、一戦を交える程度ならば残っている。残念ながら爆発物の類はミカとの戦いで出し尽くしてしまったが――例え弾薬が尽きようとも、彼女は決して諦めるつもりなどない。その意気を感じ取ったミサキは、それ以上追及する事無く口を噤む。幾ら心配の言葉を掛けようと彼女は歯牙にも掛けまい、その確信があった。

 

「……だ、誰の姿も、見えませんが」

「もしかして、謀られた――?」

「いいや、違う」

 

 辿り着いたは良いものの、周囲にはそれらしい影一つ見えない。その事に不安げなヒヨリと、顔を顰めながら呟くミサキ。

 しかし、先生は確信と共に首を振った。

 その視線はバシリカの最奥に存在する、長い祭壇に向けられていた。第六感、或いは備わった嗅覚とでも云うべきか――先生の奥底に眠る本能が告げていた。

 

 彼女は、直ぐ其処に居る。

 

「――果たして、辿り着きましたか」

 

 それを証明するかのように、彼女は虚空より姿を現した。

 唐突に、まるで空間から滲み出る様に。黒々しい気配を撒き散らしながら宙から祭壇の上へと顕現した彼女は、その扇子を大きく振るい、バシリカに乾いた音を響かせる。その純白のドレス、黒髪がふわりと靡き、紅の眼光が先生とスクワッドを射貫いていた。

 

「ベアトリーチェ」

 

 先生が彼女の名を告げる。

 彼女は先頭に立つヒヨリとミサキ、そして満身創痍のサオリ、最後に自身の宿敵を眺め、何処か感心する様に口を開いた。

 

「……アビドスでの失敗、それを踏まえた上での計画変更――万全に万全を重ね、弾頭を落とし、生徒を人質とし、その脆弱な肉体に鉛玉さえ撃ち込んだと云うのに、手綱の切れた猟犬(スクワッド)を従え、よもや本当にこの場所(バシリカ)まで辿り着くとは」

 

 そこには、彼女らしからぬ感嘆の色があった。彼女は全力だった、本気で先生を潰す為に今日まで動き続けていた。それでも尚、こうして満身創痍でありながら、この場に立つ彼に対してベアトリーチェは薄らと笑みを浮かべる。其処には反する二つの想いがあった、憎々しいと叫ぶ心と、良くぞ此処までと感じ入る心が。

 

「いえ――恐らく心のどこかでは確信していたのでしょう、あなたが此処に辿り着くであろう事は、何せあなたは……このキヴォトスに於ける唯一無二の【先生】なのですから」

「此処までだよ、ベアトリーチェ――あなたの暗躍も此処までだ」

 

 一歩、前へと踏み出した先生が告げる。ベアトリーチェはそんな彼の姿を真っ直ぐ視界に捉え、ゆっくりと扇子で口元を隠した。

 

「……いいえ、まだです、既に儀式は進行しています」

「……!」

 

 瞬間、ステンドグラスの前に陽炎の如く現れる奇妙なオブジェクト。星の様にも、華のようにも見えるそれは高く聳え立ち、スクワッドの、先生の視界の中に飛び込んで来た。それを見上げたミサキとヒヨリが、思わず声を荒げる。

 

「姫――ッ!」

「姫ちゃん……!」

 

 十字架の如く、或いは僅かに傾いた奇妙な恰好で磔にされたアツコ、それが件のオブジェクトに重なって見えた。ガスマスクで顔を覆い隠し、インナー姿で紅の蔦に絡めとられた彼女は、ぐったりとした姿のまま動かない。剥き出しになった腕や足には幾つもの打撲痕や切り傷が散見され、まるで拷問を受けた後の様な悲惨な状態だった。

 否、実際それに近しい扱いを受けたのだろう。より苦しむ様に、より痛みを叫ぶように、より絶望する様に――何度も、何度も。

 ベアトリーチェは磔にされたアツコの前に立ち、その姿を仰ぎながら淡々と言葉を呟く。

 

「ロイヤルブラッドの神秘を搾取し、キヴォトス外から到来する力を借りて……私はより高位のものへと昇華しています、以前の消耗分も大分回復しました、そして何より、此処(バシリカ)は私の真の領域――」

 

 ゆっくりと、ベアトリーチェはその踵を返す。靡いた黒髪が月光を反射し、幾つもの視線が先生を見つめる。手にした扇子を勢い良く畳み、手の中に落とした彼女は暫し感傷に浸る様な恰好で目を細め、云った。

 

「先生、不可解な大人、私の敵対者よ、私達はこの世界を通じて各自が望む事を追求しています、そう、それはあなただって同じ、何になる事も出来るし、全てを知ることだって出来る、私はただ、より高位の存在となりキヴォトスを救いたいだけ――それが大人の責務だから、その道中で失われる命は、必要な犠牲(捧げられる子羊)だったと、そう割り切る事もまた強さであると、そう信じているのです」

「………」

「いいえ、今更な事ですね……あなたはそれを認められない」

 

 淡々と、彼女は事実を述べる。

 不干渉で居る事はあり得ない、それはベアトリーチェも、先生とて同じだ。二人の大人としてのスタンスは致命的に噛み合わない、それは今まで対峙して来た双方、共に心の底から理解している真実だった。

 ゆっくりと目を閉じた彼女は摘まんだ扇子で顎先を撫でつけ、呟く。

 

「ならば後は互いの矜持を証明するのみ、果たして、あの銀狼の云う通りの結末となるか、或いは――」

「――用意された運命に意味など無い」

 

 その言葉を振り払い、先生は力強く告げる。踏み締めた地面から擦れた音が響き、先生の指先が懐からシッテムの箱を取り出した。

 起動したモニタの青白い光、それが先生の表情を照らす。

 月光と交じり合う光は淡い輪郭を浮かび上がらせ、力強い蒼がベアトリーチェを射貫いた。

 

「例えどれだけの苦痛があろうと、苦難があろうと、その先に皆が待ち望む希望の明日があるのなら、諦観の内に訪れる安寧など望みはしない――私は、それを否定する為に、此処に居る」

「……えぇ、そうでしたね、あなたは常にそう在った」

 

 運命に抗い、足掻き、跳ね退け、それでもと叫び続けた果て――それこそが先生。

 どれだけ完璧に見えても、限りなく最善に近くても、誰かが欠けた未来を、誰かが喪われた未来を、先生は認めない。その為ならば自ら苦難の道を選び、安寧を退け、傷に塗れる道を肯定する。ベアトリーチェはそれを、良く知っている、そう自負する。

 その意思の強さを、信念の強固さを。

 

「故にこそ……!」

 

 だからこそ、ベアトリーチェもまた、全力で以て立ち塞がる。その扇子を宙へ投げ捨て、その腕を掲げながら高らかに宣言する。彼女を中心に巨大な風が巻き起こる、それは周囲の瓦礫片を吹き飛ばし、先生の外套を揺らした。

 

「私はあなたを否定するッ! 今此処で、完膚なきまでにッ!」

「―――」

 

 宣言と共に、ベアトリーチェの肉体が、存在が変質していく。その身体は人型のものから異形のものへ、崩れ落ちた天井の向こう側、夜空より降り注ぐ紅の月光――それを浴びて成長する一凛の華。その足は根の様にバシリカを伝い、木の枝のように枝分かれした翼を模した骨格が伸びる、蕾の様に閉じた顔面が、紅を浴びて開花する。花弁一枚一枚に張り付いた瞳、眼光、背に顕現する赤の円環(ヘイロー)――血を吸い上げ、大輪を咲かせる花か、大樹の如く、彼女はその存在をこの場に晒す。

 空を仰ぐ様に両手を広げたベアトリーチェ、そして完全顕現を為した彼女は両手を交差させ、同時に絶叫した。この身を圧し潰さんと放たれる重圧、紅の波動、びりびりと肌を打つそれに押し出され、スクワッドは思わず顔を顰める。

 

「こ、これは……!」

「これが、マダムの本当の姿……!」

「一度、目にはしていましたが、あ、あの時よりも……!」

 

 その変貌を、変身を目の当たりにしたスクワッドの面々は愕然とした表情で呟く。ヒヨリはアビドスでの一件でその本質を理解していたが、目の前の怪物はあの時スコープ越しで見つめた姿よりも、一層悍ましく、恐ろしい存在に見えた。それはロイヤルブラッドを搾取し得た力によるものか、或いはこうして実際に対峙したが故のものか。

 それらを一瞥する事無く、ベアトリーチェは紅に染まった両手を掲げながら叫ぶ。

 

「世界の滅亡と、創世の権限……そう、破壊と創造の絶対者、それが私の追い求めた理想――! その断片を取り込んだ私は、より崇高へと近付いたッ!」

 

 細く、巨大な手が天を抱えんと伸ばされる。降り注ぐ紅の月光は彼女にとっての福音か、それを浴びて脈動する無数の根は、今なおロイヤルブラッドから全てを搾取せんと蠢いている。

 

「先生! 私の唯一無二の敵対者よ! この運命にあなたは抗えるかッ!?」

「――当然だ」

 

 ベアトリーチェの恐ろしい容貌、そして言葉に――先生は何処までも淡々と応える。その手に掴んだシッテムの箱、ベアトリーチェを見据える瞳、そこには僅かな怯懦も見当たらない。

 

「此処があなたの領域であろうとも、一度破った姿、ならばもう一度やってやれない事はない……!」

「ふふっ、その大言壮語……しかし、あなたが口にしたものであれば許しましょう、至高の器、その到達点の一つ――」

 

 告げ、彼女は想い返す。ベアトリーチェの脳裏に焼き付いて離れない、己を射貫いた一撃。アビドスで受けたあの強烈な神秘は、彼女の自尊心と矜持、信念を大きく傷つけた。自身が手を伸ばしても決して届く事が無かったその器、アレに対抗する為にベアトリーチェは数多の犠牲を強いて、準備してきたのだ。

 故に彼女は、その身に滾る戦意を昂らせ叫ぶ――。

 

「さぁ、切りなさい、先生――あなたの、切り札(カード)をッ!」

 

 その紅に輝く瞳、それらを一斉に開きながら彼女は促す。

 先生の切り札、その発現を。

 それを踏み越え、克服し、初めて自身はより高位の存在に近付く事が出来る。

 これは慢心ではない、ベアトリーチェという存在がこれから先、この道を歩むために必要な――儀式なのだ。

 

「……いいや、私はカードを切らない」

「何――?」

 

 だが、予想は裏切られた。ベアトリーチェの声に対し先生は切り札を用いる事はしないと、そう断言したのだ。ベアトリーチェの瞳が先生の持つタブレットに向けられる。そこから漏れ出る光は確かに、嘗てのあの光景と比べれば余りにもちっぽけで、弱々しい。其処には彼女の期待した膨大な神秘も、光も見られない。

 

「これは、アリウス・スクワッドが断ち切るべき鎖だ、生徒達が必死に藻掻き、自らの力で『成長』しようとしている――それを助けるのが、大人の仕事だろう」

 

 この戦いは、アツコ救出という絶対に負けられない戦い。その場所で切り札を切る事は決しておかしな選択ではない。寧ろ、正しい選択とも云えるだろう。

 しかし、サオリの想いの丈をぶつけられた時、先生の中に強い感情が芽生えた。それは期待に似ている、いつか暗闇の中で項垂れ膝を折っていた彼女達が、自らの意思で、力で、その場所から脱しようとしているのだ。

 彼女達は今、自分達の力で成長しようとしている。

 

「この、私と」

 

 その言葉を聞き届けたベアトリーチェは、ゆっくりとその細長く巨大な指先でスクワッドを指す。

 

「そこの子ども(木っ端)が、三人」

 

 彼女の視線には、底知れぬ苛立ちと探る様な色が滲んでいた。

 

「――たったソレだけで、私に勝てると?」

「――私はそう云ったよ、ベアトリーチェ」

 

 問い掛けに、先生は確固たる口調で答える。

 私は、私の生徒の強さを信じる、と。

 

 先生の云うそれは、決して肉体的な強さではない。

 精神の――心の強さだ。

 諦めないと、抗うのだと、そう決めた者の持つ意志の強さ。それは運命を、未来を、世界(自分自身)を変え得る唯一無二の力。どんな物事にも意思が介在しなければ始まらない、一歩を踏み出そうと考えない者は歩みを進められない、走る事も出来ない、そうだ――彼女達には無限の可能性がある。

 

 何故ならスクワッド(彼女達)は、まだ歩き始めてすらいないのだから。

 

「あなたは克服すべき過去、彼女達にとっての楔、だからこそあなたという存在を乗り越え、彼女達は本当の意味で陽の当たる場所へと踏み出す事が出来る……これは、その最初の一歩」

 

 ――その一歩を、此処から始めるのだ。

 

 支配からの脱却、暗闇からの決別、陽の当たる場所で笑い合う幸福な未来への第一歩。

 そして彼女達ならば、この試練を乗り越えられると信じている。

 

「……あぁ、そうだな、先生」

 

 先生の言葉に、サオリは静かに頷きを返す。ゆっくりと、口元に手を伸ばしマスクを装着する。罅割れ、血の滲んだそれは彼女の決意の証。指先で表面を撫でつけ、サオリは真っ直ぐベアトリーチェを――その奥に居る、アツコを見上げる。

 ミサキが、ヒヨリが、無言で先生の隣へと並び立った。そこには言葉に表さない、強い覚悟があった。

 

「サオリ、ミサキ、ヒヨリ――行こう、君達ならきっと、成し遂げられる筈だ」

 

 皆の、スクワッドの中で先生は告げる。全員の視線がベアトリーチェを捉える、その強大な存在を、超えるべき試練(苦難)を。それぞれが、それぞれの意思を秘め。

 

「怖がる必要はない、苦しい時、辛い時、膝を折りそうになった時、思い出して欲しい、君達が戦い続ける限り――君達の背には、必ず私が立っている……!」

 

 三人の背中に、先生の手が添えられた。其処には暖かさ以上の強い何か、信頼が込められていた様に思えた。全員の両腕に、両足に、何か表現できない様な力が宿り戦意が奮い立たされる。精神的にも、体力的にも、スクワッドに余裕はない、皆が皆全力を振り絞った上でこの場所に立っている、満身創痍だ。そんな彼女達からすれば、目の前のベアトリーチェ(怪物)は余りにも強大で、恐ろしく高い壁に見えた。

 けれど、不思議と絶望を感じる事はなかった。暖かな光が、まるで太陽の様な何かが、自分達を照らしている。自分達は見守られている、信じられている、その想いが、真実が、彼女達の疲れ果てた体と心にほんの僅かな、けれど種火となる力を与えてくれた。

 月明かりが彼女達の表情を浮かび上がらせる。

 その瞳には、力強い光が宿っていた。

 ヒヨリがその恐怖を噛み殺し、口を開く。

 ミサキが、唸る様な声と共に彼女を睥睨する。

 

「ぜ、絶対、姫ちゃんを助けるんです……!」

「あの怪物を此処で倒して、全部終わりにする」

「先生――」

 

 サオリがスクワッドの先頭に立ち、その愛銃の安全装置(セイフティ)を弾く。ベアトリーチェから一陣の風が吹き、彼女の外套と長髪が靡いた。ゆっくりと顔を上げた彼女は、聳え立つベアトリーチェ(マダム)に挑む様に、声高らかに叫んだ。

 

「頼む、私に(家族)を――アツコを、救わせてくれ!」

 

 ――あぁ、勿論。

 

 響き渡るそれに、先生はシッテムの箱を掲げる事で答える。

 至聖所に満ちる光の波動、先生の掲げた腕から発せられるそれはスクワッドを包み込み、月光と星明りの中で一際強い輝きを生んでいた。

 その光景を、瞳を細めながら眺めるベアトリーチェは呟く。

 

「たかが木っ端が三人、あの神秘(あの生徒)とは比べるべくもない……しかし」

 

 アリウス・スクワッド。

 三人の事をベアトリーチェは知悉している、何せ幼い頃より育て上げたのは他ならぬ彼女だ。大多数の中で比較的使い勝手の良い駒、その様に扱って来た彼女達の戦力は確かに高い。しかし自身とは比べるまでもなく、そしてベアトリーチェの中にある望外の神秘――在りし日の奇跡(大人のカード)で顕現した存在(生徒)と比較すれば正に天と地ほどの差がある。

 内包される神秘は月と鼈で、技量に於いても比較するのが烏滸がましい程の差がある様に感じた。加えてこの場は彼女の領域、地の利も、実力の差も、肉体の状態でさえ、自分に分がある。満身創痍の子ども()が三匹、それで一体何が出来るというのか。彼女の冷静な思考がそう告げる。

 

 ――しかし。

 

「私は決して侮らない、私はあなたを、決して――故にこそ、その小さな光諸共、全力で屠って差し上げます……!」

 

 ベアトリーチェは決して生徒を――先生を侮らない。

 この者が介在した時、その運命が、未来が捻じ曲がる事を知っている。どれ程不利な状況でも、どれ程絶望的な状況でも、この者が膝を突く事はあり得ない、諦める事はあり得ない。最期のその瞬間まで、先生はその強靭な意思と絶対的な力と共に全てを覆す可能性を秘めている。

 だからこそ彼女は油断しない、慢心しない、侮らない。

 先生を、目の前のこの、ちっぽけな三人を――彼女は最大の脅威と見なし、全力で排除せんと躍動する。

 

 至聖所に、バシリカに、紅の空気が蔓延する。世界を塗り替えるような息苦しさ、圧迫感、子どもを搾取し己を高める彼女を表現する様に、自身を中心とした世界の在り方を――今この場に於いて彼女は証明する。

 目に見えない赤が伝搬し世界を覆い隠す、スクワッドと先生の退路を彼女の権能が断った。全身を圧し潰さんと奔る紅の波動、圧迫感に抗いながら、先生は真っ直ぐベアトリーチェを見据える。

 両手を広げたベアトリーチェが、迎える様に吼えた。

 

「さぁ、来なさい、我が生涯に於いて最大の宿敵――ッ! 今度は腕一本と片目だけで済むとは思わない事ですッ! その信念が、この運命に打ち勝てると証明してみせなさいッ!」

「私の体など、どうでも良い、だが――生徒達(彼女達)の希望ある未来だけは返して貰うッ!」

 

 叫び、紅と蒼が衝突する。先生の光がスクワッドを包み込み、全員のヘイローが一斉に光り輝いた。全員の視界に一瞬ノイズが奔り、その指先にひりつく様な痛みを感じる。だがそれ以上に、自身の中に流れ込む想いが、熱がある――それを噛み締め、力に変えて、紅を掻き分け一歩を踏み出す。

 恐れを知らず歩む事と、恐れを知って歩む事には、大きな違いがある。

 恐怖を知り、絶望を知り、それでも尚踏み出す一歩。

 

 ――人はそれを、勇気と呼ぶ。

 

「行こう、皆……!」

 

 その声が、スクワッドの背中を押した。見上げる程巨大な試練を前に、彼女達は強い意志と共に対峙した。燻る恐怖があった、憂いがあった、不安があった、けれどそれ以上に――助けたい(家族)が居た。

 その家族を視界に捉えながら、彼女達は歯を食いしばって一歩、また一歩と進む。

 自分達を支配した大人の前に、ベアトリーチェの前に。

 克服すべき、試練(苦難)の前に。

 

 先生の掲げた腕が振り下ろされ、その声がバシリカに轟いた。

 

「アリウス・スクワッド――出撃ッ!」

「了解!」

 

 彼女達は、この信念(想い)が、アツコ(スクワッド)を救えると信じている。

 

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