「秘技・爆裂手裏剣――ッ!」
声は街道に響き渡り、同時にイズナの手元から放たれた手裏剣が風切り音と共に影を捉え――爆発を巻き起こす。爆炎が石畳の床を舐め、衝撃で周囲の建物、その硝子が一斉に砕け散った。
幾人ものユスティナ聖徒会が弾け飛び、その中心に立っていた聖女――カタリナが爆発をもろに受け、膝を突く。両腕に持っていた巨大な銃火器が音を立てて石畳に沈み、その輪郭が徐々に空気の中へと溶けていくのが見えた。
着地し、空かさず二枚目の爆裂手裏剣を構えたイズナは、消え行く大敵を前に油断なく身構える。
反対に後方で銃を構えていたツクヨとミチルは、僅かに煤けた袖を振りながら歓声を上げた。
「や、やった……漸く、倒れました!」
「ほ、ホントに……!? 倒した? もう動かない? 絶対に!?」
「――流石に、限界だった様ですね」
歓喜の声を上げるツクヨに、半信半疑のミチル。そんな彼女達の横合いに立ち、手早く愛銃に弾丸を込めながら呟くワカモは、内心で溜息を吐き出す。
本当に手強く、タフな相手であった。
美食研究会、ミカと分断され各聖女を一人ずつ相手取る事になり、地上で無数のユスティナ聖徒会と鬼ごっこをしながら削り合う事一時間近く。あの怪物相手にどれだけ弾薬を消耗させられた事か、少なくとも弾倉ひとつ、ふたつ程度ではない事は確かだ。火力も、耐久力も、並みのユスティナ聖徒会とは比較にならない難敵であった。
「や、やったぁーッ! って、うぇえッ、また後続の敵が来たぁ!?」
「っ、せ、聖徒会の方は、まだ残っていますね……!」
「――イズナさん、一度退きましょう、このまま機動力を生かして相手方の戦力を可能な限り削ります」
「はいっ、ワカモ殿……!」
聖女カタリナが消滅したとしても、ユスティナ聖徒会は健在。わらわらと集まり出すそれらを前に、忍術研究部の面々は一斉に踵を返す。
「い、イズナ、これ予備の手裏剣! 使ってッ!」
「っと、ありがとうございます、部長!」
「そ、そろそろ、忍具のストックが、切れそうです……! 弾薬も、危ない、かも……!」
「えぇ、幾ら倒しても切りがありません、このままでは――」
呟き、ワカモは後方から迫るユスティナ聖徒会に視線を向ける。此方に銃口を向け、発砲して来る有象無象の幽鬼。陽が昇ってからというもの、その動きは精彩を欠いているが――それでも数は力とは良く云ったもの。
最悪、逃走する準備が必要になるかもしれないと、ワカモは狐面の奥を歪ませる。
忍術研究部の機動力ならば、ユスティナ聖徒会を振り切って撤退する事は容易い。しかし、気掛かりなのは回廊の奥に向かった先生の安否。
彼女は登り始めた陽を仰ぎながら、小さく呟いた。
「あなた様……」
■
「――ブッ壊れろォッ!」
宙を舞う小柄な影、それは外壁を蹴飛ばし聳え立つ巨躯へと飛び掛かると、その顔面目掛けて無数の弾丸を叩きつけた。矮躯に見合わぬ二本の突撃銃が火を噴き、至近距離でけたたましい銃声と共に最大火力を発揮する。ものの数秒で弾倉に詰まっていた弾薬全てを吐き出した双銃は強烈な反動から使用者――ジュンコの両腕を跳ね上げ、彼女はそのまま仰向けに落下すると、石畳の床に思い切り後頭部をぶつけながら転がった。
「あイタッ!?」
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
「ジュンコさん、御無事ですか?」
「随分と派手に飛びましたねぇ」
地面にひっくり返った彼女、ジュンコに向けて美食研究会の面々が声を掛ける。回廊から飛び出し、聖女の一人を引き連れて自治区内の街道で戦う事暫く。各々が愛銃のトリガーを絞りながら、しかしメンバーの動向には常に目を光らせ連携して聖女とユスティナ聖徒会を叩いていた美食研究会は、今しがた攻勢を終えたばかりであった。
大の字に転がったまま力なく横たわったジュンコは、鳴り始めた腹の虫を摩りながら弱々しく呟く。
「うぅ、お、お腹空いたし、もう限界かも……」
「確かにそうですね、戦闘が始まってからそれなりの時間が経過していますし――ですが」
ハルナがその視線をジュンコから今しがた弾丸を叩きつけた相手――聖女マルガリタへと向け、笑みを浮かべた。
「それは向こうも同じ様です」
「……あら?」
ハルナの言動に何かを感じ取り、アカリがそちらの方向へと視線を向ければ――膝を突き、空気中に溶ける様に消滅する聖女マルガリタの姿があった。その様子をイズミが目を瞬かせながら見つめ、困惑したような声色で以て呟く。
「き、消えちゃった……」
「ふふっ、どうやら私達の粘り勝ちの様ですね?」
「た、倒したの……?」
自身の一撃が決め手になるとは思っていなかったジュンコは、上半身を起こしながら呆然とした様子で問いかける。そしてマルガリタの姿が影も形も見えなくなり、漸く倒した実感が得られた彼女は愛銃を突き上げ、威勢よく声を張り上げた。
「ど、どぉよ! か、完璧な、しょうり~……あぅ」
「あら、本当に限界だったみたいですねぇ」
「ふぅ、仕方ありません、アカリさん、ジュンコさんを」
「ど、どうするの~!?」
途中まで勢い良く叫んでいたジュンコだが、最後には力なく腕を地面に落としグロッキー状態に陥ってしまう。最初から最後まで前線で暴れ倒し、多くの弾丸をその矮躯に受けたが故に、然もありなん。弾痕の残る美食研究会の改造制服を掴んだアカリは、そのままジュンコを肩に担ぎ上げた。
未だ奥から続々と現れるユスティナ聖徒会に向けて掃射を行っていたイズミは、銃声に負けない位の大声を上げながら皆の方向を向く。
「決まっています、敵の親玉の一角を切り崩したのですから――当然」
ハルナは最後に一発、複数のユスティナ聖徒会、その頭部を撃ち抜きながら髪を掻き上げると。
そのまま愛銃アイディールを肩に担ぎ直し、一目散に撤退を始めた。
「優雅に撤退致しますわッ!」
「では、そういう事で☆」
「うぅ~……」
「えっ!? あっ、ちょ、待ってよぉ!?」
一番最初に駆け出したハルナ、ジュンコを担いでその背中に続くアカリ。出遅れたイズミは余りの手際の良さに一瞬惚け、それから慌てて愛銃と弾帯、繋がったバッグを担いで駆け出す。散らばった瓦礫片に足を取られかけながら、彼女は必死にハルナ達の背中を追いかけた。
ハルナの横に並んだアカリは、ジュンコを担いでいるとは思えない程に軽い足取りで駆ける。そんな彼女のフィジカルに感心しながら、ハルナは薄らと笑みを浮かべたまま口を開いた。
「ふふっ、まだ聖徒会の残党は残っていますが、敵の目を惹き付けて時間を稼ぐ事には成功しました、先生ならばきっと既に事を為しているでしょう」
「そうですねぇ、寧ろ心配なのは、一際強そうに見えた聖女……確か、バルバラと呼ばれていましたか? あの個体は、私達の相手取った聖女と比較しても随分と規格外であるように感じました」
「えぇ、そうですね――確かあの個体は、ミカさんが担当していた筈ですが……無事ならば良いのですけれど」
「ふぇえ~っ!? 置いて行かないで~ッ!」
■
「はァ――ッ!」
思い切り振り抜いた拳が、目の前のユスティナ聖徒会の頭部を捉えた。衝撃が空間を揺らし、轟音が周囲に木霊する。壁か床であればそのまま粉微塵に粉砕し、倒壊させるだけの威力――しかし相手は亡霊に等しい、手応えは奇妙なもので、拳を真面に受けたユスティナ聖徒会は横合いの壁に叩きつけられ、そのまま霧のように掻き消えた。凹み、砕け、足元へと転がる破片。
それを踏み砕き彼女――ミカは大きく息を吐き出した。
「はぁッ、はぁ……ふーッ!」
身体を支配する疲労感、びりびりと拳に走る微かな痛み。今ので一体何体目か? それを数える事はもう、大分前に止めていた。それに意味はないのだと、何となく察する事が出来たからだ。頬を滴る血と汗、それらを乱雑に拭い、彼女は顔を上げる。
「あぁ、ほんと――」
その視界に――回廊を埋め尽くさんと迫る、ユスティナ聖徒会の亡霊が映った。
「潰しても、潰しても、虫みたいに湧いて来るね、あなた達」
呟きには苦笑が混じっていた。弾痕と破砕痕が刻まれた回廊、その向こう側から行進を続けるユスティナ聖徒会と聖女と呼ばれた一際目立つ怪物、今現在ミカの目の前で歩みを続ける彼女は『聖女バルバラ』――その四肢には傷が散見され、身に着けたガスマスクのレンズは罅割れているものの、未だ健在。巨大な火砲とガトリングを両手に抱えながら、相も変わらず緩慢な動作一歩、また一歩と回廊の奥へと足を進めようとしている。彼奴に拳を叩き込んだのは十や二十では足りない、文字通り百を超える打撃を叩き込んだ筈だが、それでも尚、その歩みを止めるに至ってはいない。死力を尽くして喰らい付き、万全の状態ではないところから此処まで削ったのは我ながら中々どうして頑張ったものだと自画自賛出来る程、しかし流石に分が悪かった。
肉体の限界も近い。
スクワッドを追いかけて戦い続けた時間、弾薬も、持ち込んだ分は装填されているもので最後、殴って、蹴って、其処らに散乱している瓦礫すら放りなげて、あらん限りの手段で以て抗ってはみたものの、肉体的にも、精神的にも、万策尽きようとしている。
ミカは荒い息を繰り返しながら自身の右手を見下ろす。傷だらけで、青痣と切傷の目立つ、とても醜い手だった。数ヶ月前の保湿クリーム云々と口にしていた自分が見たら、きっと驚きの余り意識を飛ばしてしまうのではと思ってしまう程。
そんな指先を握り込み、彼女は微笑みと共に呟く。
「でも、陽が昇るまでは耐え切ったよ……結構、大変だったけれどさ」
告げ、ゆっくりと顔を上げれば、崩れ落ちた内壁の向こう側から差し込む微かな明かりが彼女の顔を照らす。その陽を見上げながら、彼女は静かに目を細めた。背後から感じていた奇妙な怖気も、今はもう微塵も感じない。恐らく此処の主が画策していた儀式とやらが終わりを告げたのだろう。大きく息を吸って、ミカは両手を広げる。
――サオリも、他のスクワッドも、皆ハッピーエンドを迎えられたのかな。
怖気が消えた――儀式が終わったというのならば、それが完遂されたのか、途中で遮られたのかのどちらかだろう。そして、ミカは先生を何よりも信じている。
「……先生が一緒に居たから、きっと、大丈夫だよね」
呟き、微笑んだ。
恐らくスクワッドは、サオリは、救われたのだろう。
秤アツコは救出され、スクワッドは誰も欠ける事無くその目的を完遂した。
きっとそれが、この物語の結末。
「うん、それなら――良いかな」
そんな結末なら、悪くない。
そう思って、彼女は僅かに目を伏せる。
瞬間、鳴り響く砲音――無防備な隙を晒したミカ目掛けて、聖女バルバラが砲撃を敢行したのだ。砲弾は真っ直ぐミカの身体に飛来し、その顔面を捉える。凄まじい爆発と爆音、衝撃が周囲に走り、ミカの身体は爆炎と共に後方へと吹き飛ばされた。
「ぁぐッ……!?」
途轍もない勢いと共に内壁へと身体が叩きつけられ、そのまま壁をぶち抜き室内へと転がり込む。濛々と立ち上る砂塵、壁の崩れる音、破片が床を叩く硬い反響。背中を固い床に叩きつけられ、思わず悲鳴が口から漏れ出る。強い衝撃にゆらりと揺れる視界、揺すられた頭部からどろりと流れ落ちる血、額を伝うそれを感じながら、ミカは重なった瓦礫に手を掛け、ゆっくりと身を起こそうとする。
「痛っ、たぁ……」
全身が痛みを発していた。額を押さえつけ、流れ出る赤を拭う。さしもの彼女であっても、聖女バルバラの放つ攻撃は嘗て経験した事のない火力を誇り、恐らくそう何発も受けてはいられない事を悟る。
耐えられて後二、三発か、五発は恐らく――
そんな事を考えて、彼女はふと自身の足元の伸びる鮮やかな色合いに気付く。周囲を見渡すと、ステンドグラス越しに差し込む光が、美麗な色彩と絵画を地面に映し出していた。ミカが転がり込んだ部屋は、どうやら聖堂かそれに連なる部屋らしく、彼女はぼうっと辺りに視線を送っていた。
「此処って、聖歌隊室――?」
ミカが転がり込んだ場所は、聖堂内部の聖歌隊室。左右に並ぶパイプオルガン、それぞれ異なった様式で左はバロック、右はネオクラシック、中央身廊を遮るコロには小祭壇が整えられ、ぐるりと内部を囲う様に掘られた彫刻がミカを見下ろしている。それらは長い間放置されていたのか埃を被って酷い状態であったが、それでもひと目でそれと分かる程度には形を残していた。
「……あぁ、そっか、そうだよね、アリウスも私達と同じ授業を受けていた筈だもの、こういう場所も、あるよね」
呟き、ミカは地面に映し出された鮮やかな青に手を翳す。コロの傍には蓄音機や譜面台も揃えられ、何処までも見覚えのある造りに思わず苦笑を零す。
しかし、感傷に浸っていられる時間は限られていた。ミカの突き破った外壁の穴から顔を覗かせるユスティナ聖徒会、そして聖女バルバラ。その巨躯を折り曲げ、ゆっくりとした足取りで室内へと踏み込んで来る。伸びた影がミカを彩っていた青を遮り、手に影を落とした。
「ふーっ……」
それを見つめながらミカもまた愛銃を手に取り、静かに立ち上がる。
バルバラの背に続いて部屋に雪崩れ込むユスティナ聖徒会、退路は無く、正に袋の鼠とでも云うべき状況。しかし彼女はそれに対して何を想う事もなく、ただ周囲を照らすステンドグラスを仰ぎながら、呟く。
「――あの時の先生、格好良かったなぁ……」
思い返すのは、何度も自分に手を差し伸べてくれた先生、その姿。
プールサイドで語り合った時、体育館で対峙した時、爆弾から身を挺して守ってくれた時、牢の中に居た自分に会いに来てくれた時、先生を殺されたと思い込んで暴走した挙句スクワッドのヘイローを壊そうとした時、聴聞会に一緒に出ようと励ましに来てくれた時、サオリの命を奪おうとした時――聖園ミカが、その道を間違えそうになった時、彼はいつも駆け付けてくれる。
「先生ってさ、私が本当に間違えそうになった時、いつも絶対に駆け付けて助けてくれるの、本当に危なかったり、ギリギリのところで……私、そういうお話が大好きで、何回も読んじゃう」
返答が無いと理解していながら、ミカはバルバラに、ユスティナ聖徒会に向けてそんな言葉を放つ。
窮地に陥ったお姫様を運命の人が救う――そんな御伽噺。
子どもっぽくて、夢に溢れて、素敵で、胸がときめく様な。
そういうお話が、聖園ミカは大好きだった。
「……だからね? そんな風に助けられる自分は物語の主役なんじゃないかって、先生にとってのお姫様なんだって、ちょっとだけ勘違いしちゃったんだ」
そう云ってミカは口元を歪ませる。そこには自分に対する、強い嘲りの色が滲んでいた。
お姫様、物語の主人公。これは運命人と出会う為の苦難で、辛い現実の後には甘い理想の結末が待っていると、以前の自分はそんな風に夢想した。
でも、そうじゃなかった――私に、そんな資格なんて無かったのだ。
だって、聖園ミカはお姫様でも、主人公でもない。
聖園ミカは――私は。
「魔女がハッピーエンドを迎えるお話なんて、この世の何処にもないのにね――ッ!?」
吐き捨て、ミカは聖女バルバラへと躍り掛かった。地面を蹴り砕き、急速に加速するミカの肉体、傍から見れば瞬間移動に等しいその加速に、しかしバルバラの視線は確かに追いつく。
「はぁッ!」
「……!」
振り抜いた拳が、バルバラの顔面に飛び込んだ。それに反応したバルバラは手にした巨大な砲、その外装を以て咄嗟に拳を防いで見せる。轟音が鳴り響き、何か金属の拉げるような音、続いてバルバラの巨躯が後方へと押し込まれ、砲の外装が拳型に凹み、衝撃波が周囲に集っていたユスティナ聖徒会を蹴散らした。
――サオリ、私は自分が受けた痛みをあなたに感じて欲しかった、そうじゃないと不公平だと、ずっとそう思っていたの。
押し込まれたバルバラの後方、銃を構えたユスティナ聖徒会が一斉に射撃を開始する。ミカは鈍く光るそれらを目視し即座に頭を振ると、一拍後にミカの頭部が在った場所を弾丸が貫く。微かに跳ね、千切れた髪の毛を目視しながら、彼女は素早く身を翻し駆け出した。
乾いた銃声が幾つも鳴り響き、後方のステンドグラス、木製の長椅子、小祭壇、コロに弾丸が次々と突き刺さる。甲高い音を立てて降り注ぐ硝子片を浴びながら、ミカは弾丸の中を雨を潜り抜け、お返しとばかりに銃口を向ける。
――でも、そうだよね、私と同じように、あなた達も救われたかったよね? あなた達も、幸せになりたかったよね。
「――ぁぐッ!?」
しかし、その引き金を絞るより早く、脇腹を突き抜ける衝撃と鈍痛。
顔を顰めながら視線を落とせば、聖女バルバラがその巨躯に見合わぬ俊敏さで以て、ミカの横腹を蹴り飛ばしていた。長い足が槍の様に腹を穿ち、骨が軋む音をミカは聞く。抗えない衝撃が背骨を襲い、圧倒的な力で蹴り飛ばされたミカはそのまま地面を滑り、幾つもの長椅子を巻き込み、外壁へと叩きつけられた。背中を硬い外壁に強打し、身体が跳ねる。
「かはッ……!」
肺から空気が漏れ、唾液と血の混じった赤が床に飛び散った。
大きな音を立てて床に倒れ込むミカの身体、項垂れた長髪が埃の積もった床に広がり、その肩が大きく上下する。
「っ、ぅ、ぐ……ま、だ――ッ!」
地面に這いつくばり、飛び散った木片を手で圧し砕く。降り注ぐ光、それらを一身に浴びながらミカはバルバラを睥睨した。
その眼光は、未だギラギラと衰えぬ光を放っている。
嗚呼――分かるよ、サオリ、その気持ち。
サオリがアツコを助けたい理由も、何となくだけれど理解出来る。家族が大切だって云うのは嘘じゃない。けれど同時に、こうも思ったんじゃないかな?
多くの人を騙し絶望に陥れた自分でも、最後の最後に誰かを救う事が出来たのなら……そう、大切な誰かを助ける事が出来たのなら。苦痛だらけの人生でも、それだけで
分かるよ――私にだって分かるんだよ、サオリ。
だって、他ならぬ……私とセイアちゃんもそうだったから。
「ああああァアアッ!」
歯を剥き出しにして、獣のように飛び掛かる。近場に居たユスティナ聖徒会の頭部を掴み、全力で床に叩きつけた。轟音と共に床が陥没し、ユスティナ聖徒会のガスマスクが砕け四肢が痙攣する。再起不能となったユスティナ聖徒会の腕を掴み、まるで鈍器の様に振り回し、周囲の敵を軒並み弾き飛ばして突進した。狙いは聖女バルバラ、せめてこいつだけでも削る、限界まで喰らい付く。その意思を持って戦い続ける。
後に続く生徒が少しでも楽に戦えるように。
先生が往く道を、切り開くために。
――あぁ、だからね、サオリ。
「次――ッ!」
向けられた銃口を蹴り上げ、顔面を殴り飛ばし、ユスティナ聖徒会から何発もの銃撃を受け背中を抉られるミカ。蹈鞴を踏み、飛来する第二射を翼で防ぎ、宙に舞う血の滲んだ羽に顔を顰めながら愛銃の引き金を絞る。マズルフラッシュが瞬き、閃光の如く放たれた弾丸は纏まって動いていたユスティナ聖徒会数人の上半身を消し飛ばした。聖歌隊室の外壁に穴が空き、差し込む陽光が血塗れのミカを照らす。
その柔らかな光の中で、彼女は想う。
――私は、あなた達を赦すよ。
「ぐぅ――ッ……!?」
「――!」
ミカの全身を、無数の弾丸が打ち据えた。鼓膜を叩く重低音、鳴り響く獣の唸るような砲音。バルバラの構えた巨大なガトリング砲が火を噴き、部屋全体に嵐の如く暴威を巻き起こしたのだ。視界内のあらゆるものが粉砕され、壁のパイプオルガンが悲鳴のような音を搔き鳴らし、崩れていく。
その到来した嵐に対してミカは腕を交差させ、必死に耐える。肌が裂け、血が噴き出し、無数の青痣が刻まれようとも、彼女の両足は膝を突かない。その目は、光を失わない。
「っ、ぎッ……!」
寧ろ、その弾丸の嵐を掻き分け――前進する。
今は、今だけは――あなた達の為に、祈ってあげる。
いつか――そう、いつか、あなた達の苦痛が癒える様に。
やり直しの機会を希うのと同じように。
あなた達に未来が、次の機会がある事を。
それはお互いが公平に、不幸である事よりも――ずっと良い結末だろうから。
「っ、あァア――ッ!」
嵐を潜り抜け、バルバラの目前へと迫ったミカが、彼女の突き出したガトリング砲、その銃身を蹴り飛ばす。赤く赤熱したバレルが捻じ曲がり、バルバラの腕が大きく逸れる。瞬間、その腹部目掛けてミカは全力の拳を叩き込んだ。踏み締めた床が砕け、破片が虚空に打ちあがる。バルバラの背中を突き抜けた衝撃が一陣の風を生み、その後方にあった壁を粉砕した。
バキリ、と。
バルバラの身体がくの字に折れ曲がり、ガスマスクに罅が入る。
「もぉ、一発――ッ!」
「っ……!」
血の絡んだ声で、苦痛の中でも必死に立ち続けながら彼女は咆哮する。腕を振り上げ、全力でバルバラの顎をかち上げる。轟音が鳴り響き、強烈なアッパーがバルバラの顎を跳ね上げ、その巨躯を微かに浮かせた。逸れた彼女の上半身と微かに揺れる室内がその威力を物語り、視界に赤が舞う。衝撃で彼女の手の中からガトリング砲が零れ落ち、地面に転がった。
数歩蹈鞴を踏んだバルバラが凹み、拉げ、罅割れたガスマスクを押さえ俯く。
その眼光が、割れたレンズ越しに煌めく。
ミカとバルバラの視線が、交差する。
ねぇ、サオリ。
例えアツコを救ったとしても、あなた達の未来はきっと苦痛に満ちている。
一生追われ続けるだけの人生かもしれない、表を歩く事が出来ない様な悲惨な人生になるかもしれない。
でも、それでもね?
あなたがもし、その未来に――ほんの一筋でも光明が在ると信じられるのなら。
アツコと同じように、あなた自身を赦せるように、自分の事も救ってあげて欲しい。
聖園ミカはもう手遅れだけれど、
「ぎッ――!?」
ミカの顔面に、バルバラの拳が突き刺さった。自身の頭部を覆い尽くしそうな大きな拳が、その頬を打ち据える。まるでトラックの衝突を受けたような衝撃が脳を突き抜け、ぐらりと身体が後方へと傾いた。
だが彼女は踏ん張りを聞かせ、思い切り地面を踏み締めて堪える。傾いた体を全力で引き戻し、バルバラと顔を突き合わせる。
「ッぐぅ! ぅ、ふぅーッ! フーッ――!」
「――………」
睨み合う両者。血塗れのお姫様と、その前に立ちはだかる青白い幽鬼――肩で荒い息を繰り返し、ミカは鼻から流れる血を乱雑に拭う。世界が嫌に静かに思えた、それだけ自身が戦いに集中しているのだろうか? 否、ミカは想う――実際に世界は静謐であった。まるでフィナーレを迎えるかのように、荘厳で、厳粛で、神聖で。
それに、先生が手伝ってくれているのなら、きっと大丈夫。
きっと、その未来は、悪い物じゃない。
「はぁっ、ふッ、ねぇ――……サオリ」
血の滲んだ唇で、ミカは呟く。
銃を持つ腕は震えていた、もう真っ直ぐ銃を構える事さえ困難であった。けれど一発、あと一発だけならきっと、何とかなる。
何とかする。
ゆっくりとバルバラにその銃口を向けながら、血で塞がった視界、片目を瞑りながら彼女は告げる。
自分がこんな風に、誰かの為に祈りを捧げる事なんてないと思っていた。他者の救いを希うなんて、自分らしくないとさえ思えるのに。
けれどその口元は、薄らと笑みを浮かべていた。
生涯でたった一度、ほんの最期の瞬きの間だけれど。
聖園ミカは、真摯に祈りを捧げる。
錠前サオリに――スクワッドに。
救われるであろう、
「あなた達の往く先に、幸いが――……」
その未来に――明日に、希望が。
「輝きに満ちた祝福が、あらんことを」
告げ、引き金が絞られる。
瞬間放たれる銃口より極光、部屋を覆い尽くような眩い光、それは幾多もの光を織り重ねたような力強い輝きと共に、バルバラの身体を覆い隠した。その輪郭さえあやふやになる様な銃撃――神秘砲。
それは正に、聖園ミカが最後に放つ輝きに他ならない。
同時にバルバラの火砲が火を噴き、鈍色の砲弾がミカに迫った。それを避ける事がミカには出来ない。同じタイミングで放たれた両者の攻撃は互いの肉体を直撃し、聖歌隊室は一拍後、爆発と衝撃によって崩落する。
ミカの肉体はバルバラの放った砲撃によって弾き飛ばされ、地下回廊へと逆戻りした。壁を突き破り、地面を転がる傷だらけの四肢。血が滲み、埃と砂利、煤に塗れたティーパーティーの制服は見る影もない。力なく投げ出された両手両足が地面に叩きつけられる度に血を撒き散らし、彼女の身体は摩擦によって徐々に停止する。血と砂利の混じった跡を残しながら、回廊に横たわるミカ。彼女は辛うじて動く腕を使い、ゆっくりと立ち上がろうと足掻く。
「ごほッ、コホッ! は、っ、ぅ、はぁ――……!」
不意に、からんと音が鳴った。
軽い金属製の何かが、落ちるような音だ。
直ぐ傍から聞こえたそれに、ミカの視線が向けられる。
「――ぁ」
直ぐ傍に転がっていたそれは、差し込む陽光を反射し鈍く輝いていた。
先生から貰った銀の指輪だ。それが爆発の衝撃でポケットの中から零れ落ち、陽に照らされていた。あれ程の戦闘があった中でも、汚れも、傷さえないそれを震える指先で拾い上げ、ミカは蹲る様にして胸元で握り締める。傷だらけで、泥だらけで、酷い恰好である自分に残された、唯一無二の宝物。それを抱き締めるミカの胸には、表現する事の出来ない様々な感情が噴き出していた。
歪んだ視界に映る、ユスティナ聖徒会の群れ。
そして先程の攻撃で片腕を失いながら、蒸気を吹き上げ尚も立ち上がる聖女バルバラの姿。
その光景を視て、ミカはか細い息を吐く。
――此処まで、かな。
声は小さく、震えていた。
彼女にはもう、抗うだけの力も、意思も残っていない。
魔女にしては随分と健闘した方だ、自分の役割は恐らく果たす事が出来た。最後まで手にしていた愛銃が床に転がり、ミカは指輪を握り締めたまま天を仰ぐ。傷付き、血に塗れ、陽を仰ぐ少女は神聖な絵画の如く――その瞼がゆっくりと閉じられ、彼女は最後に言葉を漏らした。
「あぁ……私も、先生と一緒に、帰りたかった、なぁ――」
もし、自分にもやり直す機会が与えられたのなら。
もし、違う結末があったのなら。
もし、救いがあったのなら。
そんな――在りもしない夢を抱いて、彼女は微笑む。
「――ごめんね、先生」
その頬に、一筋の涙が零れ落ちた。
■
「謝る必要なんてないよ、ミカ」
■
一番聞きたいと思っていた声が、直ぐ傍から聞こえた。
はっと、彼女は閉じていた目を見開く。涙で滲んだ視界、彷徨った視界の先に見える誰かの輪郭。
陽光に照らされ、後光が差し込んでいる様に見える彼は自身を見下ろしながら優しく微笑んでいた。
擦れた声で、けれど力強い声で、彼は自身の名を呼ぶ。
「――遅くなってごめん、ミカ」
荒い息を繰り返す肩、汗の滲んだ額、血の滲んだ唇、疲労の吹き出した顔色。きっと全力で駆けて来たのだと分かる姿で、先生は自身に手を伸ばす。
「せ、せん……せい?」
その姿を、呆然とミカは見上げていた。
色んな疑問が、衝撃が彼女の胸を、思考を突き抜けた。
どうして此処にいるのとか、何で戻って来たのとか、聞きたい事、問い詰めたい事が沢山あって。けれどそれ以上に自身を覆い隠す感情が、彼女の鼓動を高らかに鳴らしていた。
とても格好良い姿ではない、必死で、余裕なんて無くて、泥臭い姿だ。
でもそれが、その姿が。
そんな先生が。
今この瞬間、聖園ミカにとっては――何よりも素敵な、運命の人に見えた。
■■■■の断片。
「はぁッ、はッ――……!」
歩く、歩く、歩き続ける。
降りしきる雨の中、彼女を背負って必死に足を進める。薄暗い街道の裏路地、黴の匂いが充満するその場所を、遅々とした足取りで進む。
肺が痛む、呼吸の度に全身が悲鳴を上げ節々が鈍っていくのが分かる。今が熱いのか、寒いのか、それすらも定かではない。ただ着実に、少しずつ自身の肉体が死に向かっている事だけは確かだった。
「ふーッ、ふっ、ごふっ、ゴホッ……! お、ぇ――」
堪え切れず、歩きながらその場で嘔吐した。赤黒い血が垂れ、咽る度に血が吐き出される。肺に血が入った、そうでなくとも体中、何処もかしこも穴だらけだ。それでも足を止める事が出来ず、彼は此処まで歩いて来た。
何もかもが足りない、文字通り何もかもが。
それでも、立ち止まる事は許されない。
時間は、残り少なかった。少しでも遠くに、少しでも前に、歩かなければならない。
背負った温もりが、その小さな光が、彼の――先生の背中を押す。
「ぅッ、ふっ、か、はッ、はぁーッ……――!」
躓き、数歩蹈鞴を踏んだ。ゆらり、ゆらりと揺れる先生の身体。踏み締めた両足がばしゃりと雨水を跳ね、制服が泥に塗れる。壁に着いた手、指の欠けた左腕を見つめながら、先生は大きく息を吸う。歯を食いしばり、震える両足を叱咤する。膝は情けない程に震えていた、それが疲労から来るものなのか、寒さから来るものなのか、恐らく両方だろうと先生は想った。
血塗れの右腕で彼女を背負ったまま、血の絡んだ声で吐き捨てる。
「まだ、斃れる、ん、じゃ、ない……っ」
身体が限界だろうと、心が摩耗しようとも、それは今、力尽きて良い理由にはならない――この背中に守るべき存在が居る限り、倒れる訳にはいかない。
自身の首に腕を絡ませ、張り付く小さな存在。
先生に背負われた彼女に視線を向け、小さくその名を口ずさむ。
「――■■」
自身に全てを預け、目を瞑る彼女。
長く、くせっけのある白い髪は赤に塗れ、身に纏う制服は解れ、穴が空き、血が滲んでいる。消失したヘイローが彼女の意識が無い事を証明しており、その手に愛銃は握られていない。それを手にするだけの余裕も、時間もなかった。数秒、彼女の血に塗れた、けれどあどけない寝顔を見つめていた先生は、大きく息を吸って両足に力を籠める。
「ぐッ、ぅ――……!」
歯を噛み締め、壁に手を突きながら歩みを再開する。ぽたぽたと、雨に混じって赤黒い血液が地面に流れていった。どれだけ血を失ったか――それを考える事は、余りにも恐ろしい。
「……大丈夫、だよ」
歩きながら白い吐息と共に、そう口ずさんだ。覚束ない、弱々しい足取りで一歩、また一歩と進んでいく。それが誰に向けた言葉だったか、自分か、背負った■■か、或いは今尚苦しみ続けている子ども達か。
「だい、じょう、ぶ……!」
震えた弱々しい声が路地に響き渡る。けれどその殆どは雨音に掻き消され、誰の耳に届く事も無い。
「私が、絶対に――」
雨と血に塗れた顔を上げ、先生は前を見続ける。赤に塗れた歯を剥き出しにしながら、苦痛を噛み殺し歩く。
「何とか、して、見せるから――!」
――だが、物事には限界がある。
どんなに強い決意を抱いていも、鋼に勝る意思を秘めていても。終わりと結末は、必ず訪れる。
そして先生にとって、それは脆弱な肉体がその切っ掛けであった。
「ぁ……ぐぅ――ッ!?」
がくんと、唐突にその膝が折れ、先生の身体が沈み込む。遂に身体が地面へと倒れ込み、その穿たれた両足の傷痕から血が噴き出した。咄嗟に腕を回し、背負った■■を抱きかかえながら冷たいアスファルトの上に転がる先生。どしゃりと、重々しい音を立てながら地面に蹲った先生は、数秒痛みに顔を顰める。
雨が頬を打ち、水溜りが先生の視界を半分覆っていた。体中から血が喪われ、雨に溶けていく――意識が少しずつ、しかし確実に遠のいていく。それを自覚しながら、先生は自身の腕の中で眠る彼女を見つめ続けた。
意識が、本能が訴えかける。
あぁ、駄目だ。
まだ、眠るな。
まだ、斃れるな。
まだ、諦めるな。
まだ、目の前に生徒が。
寄り添うべき子どもが、居ると云うのに。
そう云い聞かせ、意思を奮い立たせる。だと云うのに手足は動かず、その意識は意志に反して遠のいていく。抗い難い睡魔と安寧の泥の中に、刻一刻と先生の肉体は沈んで行く。
「……■、■」
彼女の名を呟き、震える指先で、その頬を撫でつけた。剥がれ落ちた爪から滲む血が、彼女の頬に赤を彩る。
ふと、その瞼が微かに震えるのが見えた。睫毛が雫を弾き、彼女の特徴的なヘイローが灯る。薄暗い路地の中で、■■のヘイローが微かな明かりとなって先生を照らした。ゆっくりと開かれる瞼、その奥に輝く瞳、胡乱なそれが目の前の先生を捉える。
「……せん、せ?」
「……あぁ」
起き抜けの、やや幼い口調で彼女は問う。先生は自身の中で蠢く不安や焦燥、苦痛と云ったものを全て噛み殺し、精一杯微笑んで見せた。彼女は自身を抱きながら横たわった先生を見て、それとなく周囲に視線を向ける。
滴り落ちる雨、跳ねる雨音、薄暗い路地裏に満身創痍の先生――彼女の瞳が動揺に揺れ、その唇が寒さと恐怖に震える。先生の顔は、右半分が暗闇と雨水に覆われ見えない。けれどそこから滴る、夥しい程の赤色だけは分かった。
彼女の指先が無意識の内に先生の汚れ、煤けたシャツを握り締め、問いかける。
「せんせ、ここ、どこ……?」
「………」
「どうして、そんなに傷だらけなの……?」
「………」
「……せんせ?」
先生は何も答えない――答えられない。
先生は紫色に変色した唇を小刻みに震わせながら、緩慢な動作で右手を動かした。震え、僅かな動作にすら時間を要する指先が先生の首から下げていたシャーレのIDカードをゆっくりと抜き出す。それは先生の顔写真と、シャーレのマークが印字された、シャーレ及び連邦生徒会に於ける重要なキーカードである。これがあれば、大抵のセキュリティは突破出来る。それを■■の手の中にそっと握らせ、微笑みながら彼は告げた。
「私の、IDカード……だよ」
「………」
「これがあれば、シャーレで、大抵のものには、アクセス、出来る筈、だから」
「……な、なん、で」
戸惑いの声が漏れ、思わず声が震える。どうしてこんなものを自分に手渡すのか、それが分からない。
いいや、それは嘘だ、聡明な彼女は理解している。ただそれを、その現実を認めたくないだけだ。
先生は何も答えない。ただ微笑みを浮かべたまま、その瞼が少しずつ、ほんの少しずつ落ちていく。まるで眠る様に、微睡む様に意識が消えていく。それが目の前に居る彼女には手に取る様に分かった。
「シャーレの、地下に――……役立つ、も……が、沢山……ある、か……」
「せ、先生、ねぇ……先生!」
消えていく先生の意識、それを呼び起こそうと声を張り上げる。掴んだ先生のシャツを揺すって、彼を叱咤した。その甲斐あってか沈んだ瞼が僅かに押し上げられ、微笑みはより一層深みを増す。けれど先生の瞳は既に、彼女を見ていない――もう、何も見えていないのだ。
「だい、じょうぶ、少し、眠い、だけ……」
「………」
「私は、だいじょうぶ」
大丈夫、大丈夫と――先生は繰り返した。
何度も、繰り返し続けた。
それが何の慰めにもならない事は理解していた、大丈夫と口にしながら、先生の肉体は刻一刻と死に迫っている。
自身に縋る■■の手を握り返し、赤子の様な、酷く弱々しい力で握り返す。それに応えながら、彼女はか細い息を吐き出し、先生の傍に身を寄せる。その温もりを感じたくて、生きていると信じたくて。けれど肌を伝わるそれは冷たく、人とは思えない温度で、恐怖と寂しさで、彼女の歯がカチカチと鳴り始める。
「大丈夫、だいじょう、ぶ……安心、して、ね――」
「せ、先生……」
「私が、絶対に――……何とか、して……みせ、る、から」
最早色を失くした唇、ぎこちなく声を発するそれが、徐々に震えさえしなくなる。微かに押し上げられていた瞼が遂に閉じられ、先生は雨の中小さく、最後に息を吸い込んだ。青黒い隈の刻まれた表情は、既に色を失くして久しい。
「わ、たし、が――……」
ほんの、雨音にさえ負けてしまう様な声。それが彼女の鼓膜を揺する。
そして、その言葉を最後に――先生はゆっくりと呼吸を止めた。
それ以上先生が何かを口にする事は無く、彼女の手を握り締める指先は、僅かも動く事は無くなった。一斉に雨音が鳴り響き、彼女の世界が騒音を増す。
雨音で、先生の声が聞こえない。
「――先生?」
縋る彼女が、その耳元で先生の名を呼ぶ。
けれど彼は何も答えない――答えられない。閉じられた瞼は開かない、自身の握り締めた手を、握り返してくれない。冷たくなったその肌は永遠に熱を灯さない。
手渡されたシャーレのIDカード、笑顔で映る先生の写真。それを胸に押し当てたまま、先生の手を握り締めもう一度、彼女は問いかける。
「――……先生?」
路地裏には彼女の震える声と、雨音だけが響いていた。