本当なら一回で投稿しようと思ったのですが、長くなったので分割致しますわ!
■■■■の断片。
「ぅ――……」
目が覚めた。
最初に感じたのは強烈な痛み、同時に不快感と呼ぶには余りにも強すぎるそれ。先生は顔を顰めるだけの余裕すらなく、雨に濡れた冷たいアスファルトの上に転がりながら息を繰り返す。霞み、歪んだ視界の中に、爪の剥がれた血だらけの指先が映った。
「わ、たし、は……?」
自身の肌を打つ雨の中、先生は呆然と呟く。痛みは感じない、それどころか寒ささえも。ただ雨水に混じった赤を視界の端に捉えながら、裏路地と思われる周囲にそれとなく視線を向ける。瞳だけを動かし、周囲を確かめる姿。その動作は余りにも緩慢で、遅々としていた。
ふと、横合いに転がっていたシッテムの箱が薄らと光る。先生は光に気付き、瞳孔が微かに広がった。
「……あ、ろな」
『―――』
罅割れ、弾痕の刻まれたシッテムの箱。それに指先を伸ばしながら、先生は掠れた声で彼女の名を呼ぶ。ノイズの走るモニタにはアロナの姿が映っていた。先生は彼女が無事である事に安堵し、同時に自身が辛うじて生きているのは彼女のお陰である事を悟る。影に覆われ、ノイズ混じりの姿でアロナは呟く。
『生命維持機能に、問題が、発生しています……この、状態も――長くは、維持出来ません』
「……そ、っか」
恐らくシッテムの箱、その機能、全リソースを割いて肉体の生命維持を行ってくれたのだ。辛うじて意識があるのも、まだ生きていられるのも、アロナの尽力によるもの。先生は震える指先でシッテムの箱を引き寄せ、微笑む。
右目から流れる赤が、雨に混じってシッテムの箱を汚した。
「あり、が……とう」
『………』
画面の向こう側で、彼女が顔を顰めるのが分かった。命を繋いだと云えば聞こえは良い、しかしそれも所詮は時間稼ぎに過ぎない。
彼の破滅は、既に確定された未来だった。
――そうだ、■■。
シッテムの箱を右腕で手繰り寄せ、先生は周囲に視線を向ける。しかし、先生が求める彼女の姿は何処にも無い。確かに意識が途切れる寸前、彼女は此処に、直ぐ傍に居た筈だった。
自身が力尽きた時、一体どうしたのか、彼女は何処に行ってしまったのか。それを想い、先生は動き出す。
息を吐き出し、左手を前に突き出す。刺々しいアスファルトを掴み、這いずってでも前に進もうとする。しかし腕に力が入らない、指の欠けた腕では地面を確りと掴む事さえ困難だった。両足は既に何の感覚もなく、胸から下も同じ。血を失い過ぎたのか、それとも別の要因か――しかし、それは今重要ではなかった。
今、自身の為すべき事は、ただひとつ。
「いか、なきゃ……」
『……先生』
行かねばならない。
「わた、しの――生徒、を」
前へ、ただ前へ。
血に塗れた腕を伸ばし、ほんの僅かずつでも這いずって移動する。微かに動く度に身体が悲鳴を上げ、口や鼻から赤が零れ落ちる。正直な所を云えば呼吸一つすら困難であった。けれどその苦痛でさえ、先生にとっては手を伸ばさない理由にならない。文字通り血を吐き、死に体の身体を引き摺って進む。
「みん、なを……たす、け――ない、と……」
先生の心にあるのは、その一念のみ。
生徒を助けなければならない、彼女の元へ行かなければならない。
それだけの想いで先生は足掻き続ける。
「……?」
不意に、先生の視界が影に覆われた。這い蹲る先生の目に、雨と泥に塗れた誰かの靴が映る。
震える首を緩慢な動作で動かし、ゆっくりと顔を上げるとそこには――。
「――先生」
「――……」
――全身に白い罅を走らせた、満身創痍の黒服が立っていた。
彼は裂け、煤け、穴の開いた衣服を身に纏いながら地面を這う先生を見下ろす。そして徐に膝を突いて先生の状態を確かめると、いつものように肩を揺らして笑みを零した。
「クククッ、これは、これは……既にお互い、満身創痍ですね」
「黒、服――」
彼の頭部は半分崩壊しかけ、白く淡い炎の様な揺らめきが立ち上っている。その肉体は辛うじて人型を保っているが、傍から見ると陽炎のように朧気で脆い。罅割れ、砕けた指先を見つめながら黒服はゆっくりと空を仰いだ。曇天に覆われた空、その向こう側には深紅が広がっている。軈て青に覆われていた空は終わりを告げ、終焉の赤に染められる事だろう。それは最早、避けようのない未来だ。
「残念ながら、この世界はつい先度、ゴルコンダの云う所の
「………」
「最早、此処から巻き返す事は不可能でしょう、忘れられた神々は潰え、名も無き神の復権が約束された、アレはキヴォトスのあらゆる神秘と恐怖、そして崇高の概念を吸収しより強大な存在と成り果てる――私の
ぼろぼろと崩れ行く肉体、自身の顔から零れ落ちる断片を見下ろしながら黒服は何て事の無い様子で告げる。其処には恐怖も、後悔もない、ただ淡々と事実を述べている様な無機質さだけがあった。先生は詰まった息をそっと吐き出しながら、渇き、血の滲んだ唇を震わせる。
「ゲマ、トリア……は」
「既に、壊滅しました」
ゲマトリア――黒服を含む四名は襲撃を受け、全員が大きな損害を被った。マエストロ、ゴルコンダ、デカルコマニー、全員が生死不明。領域から辛うじて肉体を保持したまま逃げ出した黒服であったが、受けた傷は修復不能なレベルにまで達していた。せめて僅かな情報、忠告だけでも先生に、そう思って駆け付けたものの。
どうやら、彼の聖人でさえ斃れる間際らしかった。
――こうなってしまえばもう、後は早いか遅いかの違いでしかない。
黒服は裏路地の壁に身を預け、ずるずるとその場に座り込む。彼らしくもない、強い倦怠感の滲んだ動作だった。揺らめきが先生の顔を照らし、裏路地に灯を生み出す。先生は黒服を一瞥した後――再びその手を伸ばし、進み始めた。
衣服と皮膚の擦れる音、アスファルトに滲んだ血の跡が残り、黒服は血の汗を流しながら足掻き続ける先生を眺め続ける。
ふと、声が漏れた。
「――先生」
「……っ、ふぅ……!」
「最後に一つ、お聞きしたい事があります」
この様な状況に陥って尚、項垂れ、諦める事を良しとせず、足掻き続ける大人。その様子を視界に収めながら、彼は生涯最後の疑問を投げかける。
「あなたはその気になれば、この
「………」
「もう、あなたが手を伸ばせる者は、誰も居なかったと云うのに――何故」
全ては急速に、余りにも唐突に行われた。しかし猶予が無かった筈ではない、徐々に崩壊していくキヴォトスを見れば分かる、彼が逃れるタイミング、時間は十分にあった筈だ。既に彼の望んでいた未来は遥か遠く、それどころか守るべき生徒ですら――この世界には、もう。
思い返し、黒服は深く、重々しく告げる。
「
「――……わ、たし、の、生徒」
手が伸びる。
震える指先が地面を掴み、また僅かに前進する。
黒服の言葉を耳にしながら、しかし先生はハッキリと首を振っていた。
「わた、しの、生徒、だ――から……」
「………」
どんな姿になっても、どれ程の過ちを繰り返しても、彼女は自身の生徒である。
先生の役目は、終わってなどいない。
この世界に生徒が存在する限り――守るべき子どもが在る限り、自身は先生で在り続ける。多くの生徒が犠牲になった事を知っている。自身が望んだ理想は、未来は、守りたかった世界は既に崩壊した。けれどまだ、残っている生徒がいるのだ。
ならばせめて、彼女だけでも。
もう、どうしようもないのだと理解していても。せめて、自身の手の届く。
――最後の生徒だけは。
「わ、たし、が……寄り添わな、け――れば、ひとりに、なって、しまう……!」
一際強く、地面を掴んだ。血に染まったシャーレの制服、煤け焼け落ちた腕章、五体満足など望むべくもない。あらゆる部分が足りていない、シッテムの箱がダウンすれば、その瞬間に自身は生命活動の一切を終えるだろう。
けれど、だとしても。
先生は最期の瞬間まで足掻き続ける。
その血に塗れながらも決して淀みない瞳は、前だけを見ていた。
「………」
「あの、子を――ひとり、には、しない……!」
――それだけは、駄目だから。
■
「――アロナ」
『は、はいっ……!』
対峙する
その存在を前にして、先生は小さく彼女の名を呼んだ。
青の教室、その中で忙しなく手を動かすアロナは表示される情報を前にして苦り切った表情を浮かべた。調査対象は今しがた出現した異形、ベアトリーチェが呼び込んだ不吉な光そのもの。ウィンドウの中に、彼の詳細な状態が表示される。
『たった今、私の方で彼の生体情報を確認してみました……』
「結果は――?」
『……表示される【彼】の生体情報、それの殆どは、先生のものと一致します』
「………」
『外見こそ大きく変わってしまいましたが、間違いありません――あの人は』
アロナがウィンドウから目を離し、暗闇の中で佇む異形を見つめる。
瞳に浮かぶ色には、隠しきれない大きな悲しみが見え隠れしていた。
『目の前の彼は――先生と、
「……そうか」
――シッテムの箱による、防壁展開。
先程彼を包み込んだあの、青白い光については見覚えがあった。何度も自身を助けてくれた、シッテムの箱の誇る防衛機能。それがある以上、どんな攻撃であっても対象者に攻撃が命中する事はない。弾丸は逸れ、弾かれ、目に見えぬ強力な攻撃であってもシステムがダウンしない限り絶対の守護を約束する。
それを突破するには、途轍もない火力の集中が必要になるだろう。
その眩い光に守られていたからこそ、先生は良く知っている。
そしてシッテムの箱のアクセス権限を持つ者は、この世でただひとり。
――シャーレの先生だけだ。
目の前のこの、人とも思えぬ異形は先生そのもの。或いはそれの成れの果てとも云える。
弾痕の見えるタブレットを抱えたまま、じっと此方を見つめる異形を前に、先生は重い沈黙を返す。
『ですが先生、既に彼の生命反応は……』
「――命云々で語るのなら、私も同じようなものだろう」
小さく、先生は噛み締める様に呟いた。
恐らく目の前の彼は、異形と成り果てた先生は――既に、生物としては死んでいる。
どのような手段で肉体を動かしているのか、或いはそもそもアレが肉体ですらないのか、先生には判断出来ない。自分と同じように、シッテムの箱を用いて疑似的な生命活動を可能としていても不思議はないだろう。
どちらにせよ、文字通り骸となって尚、彼はこの場に立っていた。
「死に体になろうとも、自身の全てを捧げても、守らなくちゃいけないものがある――それは、同じだ、どんな世界の私であろうと……同じなんだよ」
【―――】
鉄仮面越しに感じる、彼の視線。
それは死して尚、変わる事のない絶対の意志。
先生の錯覚なのかもしれない。
けれど――他ならぬ自分自身だからこそ、分かるのだ。
貴方ならそうする。
私ならば、そうする。
その、何にも勝る信頼がある。
ミカは自身の指先で口元をなぞり、小さく爪先を噛む。その視線は険しく、複雑な心境を孕んでいた。それとなく銀狼に目を向けながら、彼女は問いかける。
「他の一切合切、何もかもを無視して先生の元へ直接出現した――狙いは一つ、という訳?」
「恐らくはそういう事なのだろう、今回は、こういう未来が選ばれた」
「ちょっと、ううん、かなり……早すぎるね」
銀狼の言葉に、ミカはそう吐き捨てる。
厳しい、何てレベルの話ではない。彼女にとって、否、キヴォトスにとって目の前の存在は最大最悪の敵と云っても過言ではないのだ。そして先生と共に素晴らしい未来を手にする上で、あの存在との衝突が避けられない事は理解していた。本来であれば後数ヶ月、半年近い時間を準備に当て、トリニティを始めとした各校に協力を取り付け、総力を挙げて対峙する計画だったというのに――よもや単身乗り込んで来るとは、余りにも予想外であった。
「箱舟の方は、まだ?」
「……見る限り虚妄と箱舟は到来していない、空は赤に染まっていないからな」
「なら、本当に――」
呟き、ミカは異形に顔を向ける。元より諦める事はあり得ない。ミカは鋭い視線で対峙する鉄仮面を睥睨しながら、静かに数歩前に出ていた先生の肩を掴んだ。
『彼』を相手にする事に対して、正直思う所はある。
しかし、それを表に出すには余りにも相手が悪すぎた。この世界に生きる生徒であれば綯交ぜになって吐き出される様な感情でさえも、ミカは呑み込んで告げる。
「先生、此処は私が出る、見た所単独みたいだし、叩くなら今しかない、結局早いか遅いかの違いでしかないんだから、今此処で倒し切れば――」
「ミカ……」
先生を押し退け、先走ろうとするミカを窘める為に先生は彼女の名を呼ぶ。しかし、その声が全て発せられるよりも早く。
先生の心臓が、一際強い鼓動を刻んだ。
「―――ッ!?」
それは直感だった。あらゆる経験を得た先生の、生死に関わる直感。
それを証明するかのように、先生の頬、首、腕、腹部、胸元、背中――あらゆる箇所に刻まれた古傷が保護膜の上からでも視認出来る程に浮き上がり、熱を発し始めた。
それは異様な光景であり、余りの熱と痛みに先生の身体が弓なりに反れる。肌と云う肌から蒸気が噴き出し、堪え切れず先生は苦悶の声を上げた。
「ッ、ぅ、ぐがァ――!?」
「っ、先生!?」
「っ……!」
唐突に発生した不可思議な現象。先生の肩を掴んでいたミカが動揺の余り目を見開き、銀狼もまた先生の異変に勘付く。辛うじて崩れ落ちる事を堪えた先生は、歯を食いしばって苦痛に耐える。大量の脂汗を滲ませ、自身の身体を見下ろした先生は絞り出すようにして声を発した。
「ぅ、ぐッ……!? これ、は……!?」
『先生……! い、一体何が……?』
「先生っ、なにこれ、傷……!? ど、どうなっているの!?」
ミカは先生の彼方此方に浮かび上がった赤い傷痕に気付き困惑する。シッテムの箱を掴んだ右腕、微かに肌の露出したそれを見つめ、先生もまた気付いた。自身を覆っていた古傷が浮き上がっている、それはこの世界に来て刻まれたものではない。世界を巡り、繰り返した時間の中で身体に生まれた、魂そのものにある傷痕と云っても過言ではなかった。
それが今、目に見える形で熱を発し、痛みを齎している。
何故だ、一体何が起こった? 疑問が募る、不可解な現象に思考が乱れる。
そんな先生の耳に届く、聞き覚えのある声。
『共鳴反応が確認されました』
それは異形と成り果てた先生、彼の持つシッテムの箱を管理するOS――A.R.O.N.Aのもの。声は先生の直ぐ手元、シッテムの箱から響いている。画面の中に映るアロナが唐突に出現した自身と同じ存在、A.R.O.N.Aに気付き焦燥の声を上げる。青い教室の中に、黒が揺蕩っていた。
『っ、シッテムの箱に、侵入を……!?』
『―――』
A.R.O.N.Aは一瞬、自身を見つめる同存在を認め、目を細めた。
それは僅かだが、驚きの感情であったかのように思う。
しかし、それも瞬きの間。即座に表情と思考を変化させた彼女は、身構えるアロナを前にして淡々とした口調で告げる。
『肯定、しかし驚くべき事ではありません、私達は共にシッテムの箱を司る存在、メインオペレーター
『っ……!』
本来であれば、どのような高度演算機器を用いても侵入が難しいシッテムの箱に、事も無げに侵入を果たすA.R.O.N.A。それは二人の持つシッテムの箱が全くの性能であるという点もそうだが、システムや防御措置含めあらゆる点が同じであるという事も挙げられる。
A.R.O.N.Aは画面越しに苦しみ悶える先生を見上げ、それから何事かを考えた後、一瞬にしてその姿を消す。代わりに異形の存在が手にしている方の錆びれ、朽ちかけ、罅割れたシッテムの箱、その画面が点滅した。
青白いモニタの向こう側からA.R.O.N.Aが告げる。
『目標を識別、対象【シッテムの箱】を確認、対応レベルを最大に設定――目的遂行は迅速に行われなければなりません、それこそが私に下された、
硝子玉の様な瞳は最早、何も映してはいない。手にした黒傘を両手で抱えながら、彼女は何処までも平坦な様子で続ける。
『最も警戒すべき存在はシャーレの先生、その人のみ、先生が斃れた後であれば計画の障害となる存在は皆無に等しい――キヴォトスを終焉に導き、全てを終わらせる、これはその第一段階です』
『っ、一連の事件で消耗した先生の、隙を狙って……!?』
『肯定』
アロナはこの事態を予測出来なかった事を歯噛みする。しかし、それは無理もない事だろう。誰もこんな事は予想出来ない筈だ、為した本人以外は誰も。そうだ、黒服も云っていた様に此処から先は未知数。
誰もその先を知らない――
「ッ、そんな、事を……!」
文字通り、身を焦がす様な苦痛の中で先生は叫ぶ。流れる汗が顎先を伝い、充血した瞳がA.R.O.N.Aと彼を真っ直ぐ捉えた。震える手でシッテムの箱を懐に戻し、代わりに指先を突き出す様にして天に掲げる。
その構えは、先生にとって最後の希望、その切り札を切る時のもの。
「させる、ものか――ッ!」
『っ、せ、先生……!』
掲げた指先に光が灯り、青白い渦が先生と周囲を包み込んだ。光は苦痛に歪んだ先生の表情を鮮明に浮かび上がらせ、しかし同時に瞳の奥に秘めた、強固な覚悟さえも浮き彫りにした。
地下回廊を遍く照らす光、先生が何をしようとしているのか、それは明白である。故に傍に立つミカと銀狼が瞳を大きく見開き、必死の形相で先生に詰め寄りながら叫ぶ。
「先生、それは――ッ!」
「来るな、二人共ッ!」
「ッ……!」
しかし、その声と伸ばされた手は先生の叫びによって硬直した。普段とは異なる、余りにも強い口調だった。汗と血を滲ませ、歪み切った彼の表情は鬼気迫るものがある。その表情に、声色に、気配に気圧された二人はそれ以上足を進める事が出来なかった。
「此処で、使わなきゃ……駄目だッ! 彼に打ち勝つには、生半可な方法じゃ、不可能なんだよ――身を切る、覚悟がなければ……ッ!」
血を吐く思いで、先生は叫ぶ。
何せ対峙する相手は嘗て己が対峙したあらゆる苦難に勝る存在。全く同じではないとしても、自身が乗り越える事が出来なかった困難そのものとさえ云える。此処で切らなければ、一体何の為に、自身は全てを費やして来たのか。
光を灯した指先を掲げたまま、苦痛に歪む表情で先生は叫ぶ。
青白い光に照らされた瞳には、絶対の意志が込められていた。
「
喪う覚悟。
何かを得る為に、何かを差し出す事。
彼は文字通り、全てを擲ちこの場に立っていた。
ならば――ならば、それに勝る覚悟が無ければ、彼には打ち勝つ事が出来ない。
だからこそ先生は意志を固める、手を抜く余裕などない、その一切合切を投げ捨て漸く退けられるかどうかという段階に至っているのだから。
光に照らされた先生を苦渋の表情で眺める銀狼。彼女は抱えた愛銃を強く握り締め、顔を逸らしながら悪態を吐く。
「クソ、クソッ! 此処まで来て……ッ!」
この戦闘でどれだけの代償が支払われるか、それすらも定かではない。可能な限り補助するつもりで此処に駆け付けた。しかし、此処に至って尚力が足りない事に彼女は強い自己嫌悪の念を抱いてしまう。せめて数日、いや半日でも構わない――もっと早く、彼の到来を予期出来ていれば、そう思わずにはいられない。考えれば考える程、この状況を招いた彼女に対する憎悪が募っていく。
そうだアビドスで、あの場所で、彼女を屠りさえしていれば、こんな事には――。
A.R.O.N.Aは只静かに先生の取り出した
しかし彼女は揺らがない、先生が切り札を使用する事は簡単に予想出来る事であったから。周囲を照らす光を懐かしそうに、愛おしそうに眺めながら、彼女は淡々と呟く。
『……えぇ先生、そうですね、貴方には
シャーレの先生が持つ絶対の切り札。
あらゆるものを対価に運命全てを引っ繰り返す、どんな絶望であろうと跳ね退ける。先生が手にする唯一絶対なる、『
確かにそれを使えば、この状況をも覆す事が出来るかもしれない。
絶望を、運命を、退けられるかもしれない。
――しかし。
『――ですが先生、貴方も理解している筈です』
A.R.O.N.Aはゆっくりと
視線の中で、A.R.O.N.Aの指先が躍った。
『目の前に居る存在が、【誰】なのかを』
声には冷酷な響きが伴っていた。
世界を塗り替える
そしてこの場にはもうひとり、その資格を持つ者が居る。
【―――】
A.R.O.N.Aの声に応えるように彼はシッテムの箱を懐に戻すと、薄汚れた外套に手を差し込み、何かを取り出した。
それは暗闇に滲む様に薄汚れた、錆び、煤け、本来の色を喪った四角形。
しかし、同時に強烈な力を感じさせる影だった。
それが緩慢な動作で抜き放たれ、白日の下に晒される。先生の発する光に照らされ、全員の視界にソレは映った。
――
『あ、あれは、大人のカード……ッ!?』
「ッ……!」
その色を直視し、自身の発熱する古傷を抑えながら先生は苦悶の表情を浮かべる。
そうだ、目の前の存在が『誰』であるかを先生は、アロナは、良く知っている。彼は失意と絶望に塗れながら、希望を取りこぼし暗闇の中に全てを放り込まれ――それでもと叫んだ大人のなれの果て。
そう、彼ならば持っているだろう。
全てを覆す――
【―――】
薄汚れた包帯に塗れた指先が、カードを掲げる。先生と全く同じ動作で掲げられる青と白、それに黒が混じった光は地下回廊を巡り、先生のソレと衝突した。
突風が吹き荒れ、世界と世界が軋み、湾曲する。
「ぅ、がッ……!?」
同時に、より強い衝撃と痛みが先生を襲った。全身に銃弾を撃ち込まれた様な、焼かれ、穿たれ、捩じられ、朽ちていく感覚。それはさしもの先生でさえ耐え切れず、膝を突いてしまう程の苦痛。崩れ落ち、地面に項垂れた先生の額から汗が滴り落ちた。力なく垂れさがった義手が地面を叩き、先生の手にした輝きが不安定なものとなる。押し込まれた光は歪み、捩じれ、地下回廊は青黒い光に包まれて行く。
「先生……ッ!」
『せ、先生、バイタルに大きな乱れが――ッ!』
「だい、じょうぶ……ッ!」
誰の目から見ても分かる程の強がりだった。地面を這いながら、先生は辛うじて意識を保つ。吹き荒れる風の中、青と白、そして不気味な黒の混じった光を見つめながら――先生は向こう側に立つ、
「―――」
掲げた
古傷が疼く、痛む、熱を発する。それらを噛み殺しながら、先生は呟く。
「そう、か――そういう事、か……ッ!」
『せ、先生……!?』
「この、傷が痛む理由が……今、分かった」
足を踏み出し、先生は覚束ない足取りで立ち上がる。声は彼の背負う、その背中に並ぶ想いと願いに対して零れたものだった。先生の表情は悲痛そのものだ。今にも泣き出しそうで、羞恥と苦痛と無念に染まった、余りにも酷い顔だった。絞り出した声に、数多の感情を込めながら先生は更に一歩を踏み出す。
吹き荒れる光と対峙しながら、先生は自身の紡ぐ
この古傷の疼き、痛み、苦しみ。
それは、呼応しているのだ。
彼と――そして、彼女達と。
歪んだ表情をそのままに、先生は
「一人じゃ、ないんだね……――」
【―――】
「
声が響く、回廊に血と涙の滲んだ声が。
異形の彼が何かを答える事は無い。
ただ光に照らされた鉄仮面が、僅かに揺らいだような気がした。
【―――】
まるで彷徨う空気の様に周囲を渦巻く。しかしそれも徐々に、徐々に形を得て人型へと収斂される。軈てその色が黒一色へと定まり、影が確かな姿形を纏った時――世界の色を塗り替えた
――それは、
青と黒の光が弾け、彼の持っていたカードが人型へと転ずる。収斂された人型の影が確かな存在を持ち、
顕現した生徒――その数は、百名以上。
「―――」
銀狼が、ミカが、アロナが絶句する。
それは余りにも絶望的な光景であった。地下回廊を埋め尽くさんと出現する生徒達、異形と成り果てた先生の背後にて立ち上がった彼女達は、その輪郭にノイズを走らせ、罅割れたヘイローを点滅させながら、ゆっくりと顔を上げる。
顕現した生徒達は暗闇の中で瞳を輝かせ、
その、瞳に映る
先生に、それを守る
暗闇の中で爛々と輝くそれ、叩きつけられる激情を前に息を呑む。
悲哀、歓喜、後悔、憤怒、期待、感動、驚愕、軽蔑、殺意、恐怖、不安、興奮――生徒の数だけ色がある、秘めた想いがある。彼が取りこぼした数多の世界の可能性、寄り添い、守ると誓った光達。
それが今――目に見える形で立ちはだかっていた。
『状況開始、オペレーティングシステム――戦術支援モードを起動します』
A.R.O.N.Aが告げ、
途端、先生の古傷が再び疼き、酷い痛みが走る、心臓が破裂するのではないかと思う程に早鐘を打ち、酷い吐き気すら感じた。
けれど、苦悶の声を、悲鳴を上げる余裕すら先生には存在しない。彼の双眸は真っ直ぐ、顕現した百名余りの生徒達に向けられている。視線を逸らす事が出来なかった、まるで足はその場に縫い付けられたかのように微動だにせず、揺れる瞳は彼女達を捉えて離さない。
だって、目を逸らす事は許されなかった。
逃れる事は許されなかった。
陰に覆われた生徒達が自分を見る、先生を見つめる。
その一人一人の顔立ちに、姿に、出で立ちに、見覚えがある。
忘れるものか、忘れられるものか。
だって、
あの、黒に塗れた少女達は。
「―――あぁ」
それは自身が
おじさんの部屋にあるアビドス砂祭りのポスターみたいにさ、先生もセロハンテープで直せたら良いのにね。