ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に感謝致しますわ!
ギリギリまで書いていたら日付超えちゃいましたの……。
今回一万五千字ですわ!


夕暮れの中で微笑む貴方は。

 

「こちらです、サクラコ様」

「――えぇ」

 

 先生との会談を切り上げ、移動する事一時間と少し。トリニティ自治区からアリウス自治区へと足を進めたサクラコは、未だ整備されておらず街灯の折れた薄暗い街道をシスターフッドの護衛と共に黙々と歩いていた。

 崩れ落ちた建物や破損した石畳は車両の走行出来る環境ではなく、アリウス中央区画であっても徒歩での移動を強いられる。基本的に警邏やアリウス自治区の復興担当は外郭地区まで車両移動し、街に入る際は徒歩と云う形を取っていた。先導するシスターの後に続くサクラコは、人影の見えぬ周囲を見渡しながらふと口を開く。

 

「他の皆さん――シスターフッド以外の動きはどうなっていますか?」

「正義実現委員会のパトロール隊と、総括本部より各派閥の部隊が幾つか、しかし当区画は既にシスターフッドによって固められております、特に聖堂周辺はパテル、フィリウス、サンクトゥス、それ以外の如何なる分派であっても、立ち入りは認めておりません」

「そうですか、既にナギサさんには話を通してありますが、何か揉め事等があれば即座に報告を」

「はっ!」

 

 サクラコの言葉に、周辺を固めるシスター達は頷きを返す。各派閥の表面上の衝突はなくなったものの、それでも完全に解消された訳ではない。少なくとも自分達がトップに立っている間、その火種が消える事はないだろうという確信が彼女にはあった。

 それでもある程度融通が利く様になったのも事実である。そして、その裏には常に先生の存在があった。

 

「サクラコ様、足元が不安定です、どうぞお気をつけて」

「えぇ、ありがとうございます」

 

 アリウス自治区、聖堂内部。

 破壊され内側へと吹き飛んだ大扉を跨ぎ、聖堂の奥へと足を進める一行。内部は埃っぽく、僅かながら黴の匂いが鼻を突いた。清掃など行っていなかったのだろう、その余裕が此処にはないのだ。口元を袖で覆いながら辺りを観察し、サクラコは所々の意匠や建築様式に嘗ての聖徒会――その信仰の残り香を感じ取る。

 嘗て存在し、確かに心に根付きながらも、しかし時と共に忘れ去られ朽ち果てた恩寵。その残影に心を痛めながらも、サクラコは無言で聖具室へと踏み込んだ。

 

「此方が件の――秘匿聖堂に続く入り口になります」

「……成程、やはり此処にありましたか」

 

 先導するシスターが足を止め、サクラコへと振り返る。そんな彼女の足元には、ぽっかりと口を開ける暗闇があった。直ぐ脇には半ば剥がされるように避けられた床が転がっており、それが覆い隠していたものが秘匿された通路――隠し階段である。

 

「はい、サクラコ様の睨んだ通り、聖堂各所に痕跡が散りばめられておりました、一見意味の分からないものや、解読不能なものもありましたが――サクラコ様のご指示通り、この場の床を探った所、この様な隠し階段が」

「正当な後継者であれば分かる暗号、とでも云いましょうか……先に発ったシスターの皆さんは、階下に?」

「はい、危険がないか現在内部を調査中です」

「分かりました……行きましょう」

「はっ」

 

 サクラコがそう告げれば、先頭に立ったシスターが懐からライトを取り出し階段を照らす。慎重に一歩を踏み出す彼女に続き、サクラコもまた暗闇の中へと身を投じた。隠し階段はかなり古いものらしく、長く続く暗闇には時折錆び付き、折れた燭台の様なものが散見された。

 無言で階段を降りていく事暫く、微かに差し込む明かりがサクラコの網膜を刺激し、先頭を行くシスターが小さく声を上げる。照らすライトの向こう側、光と靴音に気付いた人影は降りて来る人物を確かめるように顔を覗かせ、同じシスターフッドの姿に軽く手を挙げた。そして、その背後に続くサクラコの姿を認め自然と背筋を正す。

 

「――サクラコ様」

「ご苦労様です、調査の程は?」

「今の所、危険物は発見されておりません、唯一見つかったものは――……」

 

 告げ、警備を担当していたシスターの視線が自然と部屋の奥へと向けられる。秘匿聖堂はサクラコ達、シスターフッドが拠点とする大聖堂と比較すると幾分かこじんまりとしていて、内部に屯する十数人のシスター達を見ると小、中規模程度の広さであった。壁や柱、床や天井に至るまで彫りこまれた内装は馴染みのある様式であったが、周囲に漂う気配、荘厳さや厳粛さとでも云うべき感覚は此方の方が重々しい。何より目を惹くのは秘匿聖堂最奥に鎮座する祭壇――地下だと云うのにステンドグラスが張り巡らされ、その向こう側に夜空すら浮かんでいるその場所で、一等目立つ場所に安置された影。それを目視したサクラコは独り息を呑んだ。

 

「では、アレがそうなのですね」

「――はい」

 

 問い掛けにシスターはぎこちなく頷く。自然と、サクラコの両足は祭壇の前へと進んでいた。吊り下げられたキャンドルが軋みを上げ、金切り声を響かせる。星々に照らされ秘匿聖堂に安置されたソレの前に立ったサクラコは、神妙な面持ちで呟きを漏らした。

 

「最後の聖徒会長が残した――『ユスティナ聖徒会礼装』」

 

 サクラコの目下に存在する礼装――まるで祀られる様に安置されたそれはユスティナ聖徒会の正当継承者のみが所有する事を許される、由緒正しい礼装であった。黒く艶やかな布地に穢れを知らぬ純白、明確に区切られたそれは嘗て戒律の守護者と謳われた名残か。アリウスが行使していたと云う亡霊と酷似した装いを前に、サクラコは静かに目を伏せる。

 

「アリウスを弾圧しながら、同時に彼女達のトリニティ自治区(エクソダス)脱出を手助けし、復興を支援した彼の聖徒会長……彼女は後継者に渡る筈であった礼装を、このアリウス自治区に隠していたのですね」

 

 本来であればこの礼装は先代、先々代と受け継がれ、現シスターフッドの長であるサクラコへと渡る筈であった。しかし何故か時の聖徒会長はこの礼装をアリウスの、一部の者のみが知る秘匿聖堂へと隠した。それは戒律の守護者と呼ばれた存在からの決別か、それとも――。

 

「思った以上に状態が良い、とても長年秘匿されていたものとは思えない程に」

「はい、かなり厳重に、かつ丁寧に保管されていた様です」

「―――……」

 

 折り目正しく、綺麗に畳まれた礼装、その周辺だけがまるで別世界の様な空気を放っている。何らかの見えない力が働いている事は明らかで、サクラコは静かに礼装へと手を伸ばした。その指先が触れた瞬間、ピクリとサクラコの眉が跳ねる。僅かな抵抗、痛み、しかしそれもほんの一瞬の事で――サクラコの指先は聖徒会の礼装を確りと掴んだ。指先に感じる滑らかな材質、ひんやりとした冷たさがサクラコから体温を奪う。

 

「……サクラコ様」

「問題ありません、私は大丈夫です」

 

 僅かな空気の揺らぎを感じ取った護衛のシスターが一歩を踏み出すが、サクラコはそれを目で制した。そして礼装を無言で広げると、黒と白が星明りに照らされる。どれ程此処に保管されていたのかも不明だが、埃一つ広がることなく礼装は光を反射していた。降り注ぐ星々の光に目を細めながら、サクラコはそっと呟きを漏らす。

 

「何故、これを手放したのですか――?」

 

 それは今は亡き聖徒会長へと向けた問い掛け。第一回公会議でアリウスを徹底的に排斥し、弾圧しながらも脱出を手伝った当時の聖徒会長。彼女は、一体何を想ってこの礼装を手放したのか。アリウス分校を排斥し、この様な境遇に追いやった事に対する後悔か? それとも聖徒会として、その長としての責任感からか? 弾圧を逃れた後、この場で生きるアリウス生徒達の、その悲劇を見て彼女は――。

 想い、サクラコは静かに首を振った。

 

「……いいえ、今を生きる私が、その理由を知る術はありませんね」

 

 当時の聖徒会長、その心情や想いを汲み取る事は出来ない。それを行うには、余りにも時が経ち過ぎていた。サクラコは手にした礼装を強く握り締め、靴音を鳴らしながら振り向く。視線の先にはサクラコを注視する複数のシスター達が立っていた。彼女達を見渡しながらサクラコは深く息を吸い込み宣言する。

 

「ユスティナ聖徒会の最後の意志は、シスターフッド代表である私――『歌住サクラコ』が正当な継承権限を以て引き継ぎます」

「……!」

 

 その声は秘匿聖堂の隅々まで響き渡り、同じ空間に立っていたシスター達は一斉に足を揃え背筋を正した。それはサクラコに払われる敬意の顕れ、嘗て存在した偉大なるユスティナ聖徒会、その意思と礼装を引き継いだサクラコ(首長)に対する尽くすべき礼儀であると感じたのだ。紛失していたユスティナ聖徒会の礼装、その発見と継承――それはシスターフッドに於いても、トリニティに於いても、とても大きな意味を持つ。

 サクラコは改めて礼装を胸に抱き、強い意志を湛えた瞳で以て叫んだ。

 

「――これ以上、ユスティナ聖徒会の権威が失墜する様を看過する事は出来ません、彼女達の祈りと信仰は、私達シスターフッドが継承するのです!」

「――はッ!」

 

 応えた彼女達の声が秘匿聖堂に木霊した。サクラコは彼女達の声に耳を傾けながら、祈りを捧げるように一瞬目を閉じた。それは先代と今はなき聖徒会に捧ぐ、彼女にとって最後の祈りでもあった。

 

「さ、サクラコ様……!」

「――?」

 

 不意に、そんな荘厳かつ厳粛な空気を壊す声が響いた。声のした方向へと目線を寄越せば、焦燥を滲ませながら駆けて来るシスターが一人。彼女はサクラコの元へと駆け寄ると、弾んだ肩をそのままに告げる。

 

「サクラコ様、どうか此方に……!」

「一体何事ですか?」

「す、直ぐにでも、お見せしたいものが……!」

 

 サクラコは疑念を抱きながらも、しかしシスターの様子に只事ではないと感じ取った。彼女は傍に立っていた護衛のシスターに目を向けると、手に持った礼装を差し出しながら指示を口にする。

 

「此方の礼装をトリニティに――ユスティナ聖徒会礼装はシスターフッド管轄、大聖堂にて管理します」

「分かりました、では周辺警備を担当していた生徒を一部呼び戻し、大聖堂へと帰還します」

「えぇ、お願いします」

 

 頷き、礼装を預けながら目線で今しがた駆け付けたシスターを促す。彼女は息を呑むと、「此方です!」と身を翻し秘匿聖堂脇の通路へと駆け出した。サクラコも後に続き、硬質的な足音が周囲に響く。薄暗い暗闇の中、星明りに照らされた秘匿聖堂の端、彼女の向かった場所は横合いに逸れた通路、更にその奥にあった。

 通路周辺には埃を被り、半ば腐り落ちた様な木製机、長椅子、燭台などが退けられており、元々通路がこれらで埋まっていた事が分かった。明かり一つなく、窓も見えない暗闇を前にサクラコは目を細め、向こう側を覗き込む。

 

「この通路は……」

「つい先程発見されたものです、先遣隊が通路の先を探った所――シャーレの先生が交戦したアリウス自治区の主、件の存在が『至聖所』と呼称していた場所に繋がっていたとの事で……」

「秘匿聖堂が、あの場所に?」

「はい、間違いありません」

 

 サクラコの表情が険しさを増す。それは至聖所と呼ばれる場所で、どんな激しい戦闘が起こったのか報告を受けていたからだ。先生をして、立ち入りを制限すべきとしたその場所は様々な破壊跡が刻まれ、爆発や攻撃の余波により空間全体が不安定なものとなっているという。アリウス自治区を隈なく調査しているトリニティであるが、危険がある場所は極力避ける様に通達が行われている。

 

「確か、あそこは崩落の危険があると聞いていますが――」

「はい、ですので探索は短時間で引き返しました、お伝えしたかったのは――この部屋についてなのです」

「部屋……? その様なものは、何処にも――」

 

 サクラコは一瞬、困惑の表情を浮かべる。しかしシスターは一つ頷くと、一見何でもない様な石壁――その表面に手を翳し、徐に押し込んだ。瞬間、押し当てたシスターの手がグンと石壁の一部に埋まり、何処からともなく重々しい音が響く。途端サクラコの視界一杯に広がっていた通路の壁、その一部がゆっくりと後退していくのが見えた。

 仕掛けによる開錠、ゆっくりと動く壁を前にサクラコは思わず唸る。

 

「……成程、隠し扉ですか」

「はい、偶然の産物ですが、運良く凭れ掛かったシスターのひとりが発見しまして――内部に危険が無い事は既に確認済みです」

 

 扉は途中まで後退し、以降は動きを止めた。シスターはそれを確認し、ゆっくりと石壁を押し開ける。内部より微かに差し込む光、それは天井に作られた天窓より差し込む星明りである。シスターが一歩中へと踏み込み、それからサクラコの道を空ける様に脇へとズレた。それを見たサクラコは慎重に内側へと足を進める。

 最初に目に付いたのは、乱雑に積み上げられた書籍の数々。否、積み上げられたというよりは投棄されているという表現が正しいか。部屋の半分を埋め尽くさんと放られたそれはアリウス自治区中から搔き集めたものか、尋常な数ではなかった。かなり古ぼけ、擦り切れたそれらはまるで本の墓場。異様な光景だ、サクラコが思わず気圧される中――隣に立っていたシスターは広がった書籍の山、その前を指差し、告げた。

 

「サクラコ様、これを」

「―――」

 

 指し示されたそれに、サクラコは視線を向ける。薄らと埃の積もった地面、その石畳の床に描かれた紅――そして感じ取れる残滓。同時に朽ち果て萎びた茨の様な植物に、サクラコは表情を強張らせた。

 彼女は足早にその残滓に近付くと、屈みながら強い口調で告げる。

 

「――地上に連絡を、直ちにシスターフッドの司祭を此処に」

「は、はいッ!」

 

 サクラコの指示を聞き、シスターは慌てて通路側へと駆け出す。サクラコは響く足音を背に険しい表情を崩さない。視界に映る茨の痕跡、描かれた紋様、感じ取れる残滓――それら全てに、サクラコは見覚えがあった。どれもこれも古くから聖徒会、或いはシスターフッドの長に継承されて来た古の知識である。紋様外周を指先でなぞり、形を何度も確かめた彼女は脳裏に描くソレと一致する事を認める。

 

「……アリウス自治区の主、マダムと呼ばれる存在、もし彼女がこのアリウス自治区で『アレ』を行っていたのだとすれば、この痕跡は――」

 

 指先に付着した埃を握り締め、サクラコは内に秘めていた憂いを露にする。彼女の口から放たれた声は、僅かに震えていた。

 

「事態は私達が想像していたよりもずっと――深刻なのかもしれません」

 

 ■

 

「――っしょ、と!」

 

 トリニティ自治区、大聖堂――裏手倉庫。

 多くのラックとコンテナの類に包まれた屋内、天窓から差し込む陽光に照らされたその場所で作業に励む生徒が一人。彼女は何十キロもある様なコンテナを両手で掴み移動させ、倉庫の片隅に積み上げていく。降ろす度に金属同士が擦れ合う音が響き、丁度キリの良い数まで重ねた事を確認した彼女は、額に流れる汗を指先で拭った。

 

「ふぅ、これでこっちの分は全部ですね!」

 

 倉庫の整理を行っていたのはシスターヒナタ、その人である。彼女はシスターフッド内部でも主に備品管理を任されており、この倉庫も彼女の仕事場、その一つである。先の作戦で使用した弾薬、装備の補充が近々行われる為、奥まった所にあった古い弾薬、装備の点検と移動を行っていた。基本的に弾薬や爆薬などにも使用期限が在り、そう長い期間置いておく事もないが使う場合は古いモノから消費していくと備蓄が長持ちする。特に期限が近いものは訓練などで早々に使い切る為、点検は欠かせない。移動させたコンテナを開き、梱包されている弾薬の種類と期限を調べていると、ふと背後から声が掛かった。

 

「シスターヒナタ」

「あっ、マリーさん……!」

「お疲れ様です、此方の点検も終わりましたから少し休憩にしましょう」

 

 声を掛けたのは、同じ倉庫内で作業に勤しんでいたマリーであった。彼女はいつも通りの柔らかな笑みを浮かべつつヒナタに休憩を促す。大聖堂裏手の倉庫は中々に広く、ヒナタひとりで全てのコンテナを移動、点検するのは中々に手間であった。それでも時間を掛けてやり遂げるつもりであったがマリーが善意から協力を申し出た為、ふたりで作業する事と相成ったのである。

 ヒナタとマリーの二人は頬を流れる汗を拭い、軽くウィンプルを靡かせる。はしたないがこうすると風が首筋に届き、僅かだが涼む事が出来るのだ。

 ヒナタがポケットに仕舞っていた端末を取り出し画面を点灯させると、既に時刻は夕刻に迫ろうとしている。まだ陽は落ちていないが、見れば差し込む陽光は茜色に染まっていた。

 

「そう云えば、お昼からずっと働き詰めでしたか……」

「はい、あれだけ大きな事がありましたから、忙しくなるのは仕方ない事です、しかし適度に休憩を挟みませんと疲れてしまいます」

「そ、そうですよね」

 

 マリーの言葉に同意しながら、ヒナタは頻りに頷いて見せる。二人は近場にあった空のコンテナに腰掛け、深く息を吐き出した。マリーは持ち込んだクーラーボックスを開き、中からペットボトルを取り出す。

 

「シスターヒナタ、此方をどうぞ、冷やしていたので火照った体に丁度良いと思います」

「あ、ありがとうございます、マリーさん!」

 

 夏場程ではないが、やはり動き回った後だと熱気が籠る。特にシスターフッドの制服は色合いと布面積から熱が籠り易く、受け取った飲料に口を付けるとひんやりとした心地良い冷たさが喉と腹を突き抜けた。「ぷは」と一息入れると、前髪に付着した汗が弾ける。横を見ればマリーも小さな口でこくこくとボトルを口にし、その頬に一筋の汗が流れているのが見えた。自分より肌の露出が少ない制服であるというのに、マリーはまるで堪えた様子を見せない。やはり精神力の違いなのでしょうかと考えつつ、ヒナタは二度、三度とボトルに口を付けた。

 

「そう云えば、サクラコ様は――」

「ふぅ……えぇと、確か今日は先生と会談があった筈です、今は執務室ではないでしょうか?」

「あぁ、もうそんな日付なのですね」

 

 ふと呟いたヒナタの声に、マリーは口元を指先で拭いながら答える。シスターフッドの長であるサクラコは何かと多忙であり、二人が彼女の仕事を手伝う機会も多い。自然とサクラコのスケジュールを把握する様になったマリーは、脳内のスケジュール表で今日が先生との会談が予定されている事を思い出した。

 それを聞いたヒナタは途端、露骨に身なりを整え始め、何処となく落ち着かない様子だった。前髪を整え、ポケットから白いハンカチを取り出した彼女は頬や首元、胸元などを順に拭っていく。視線は倉庫の出入り口をちらちらと行き来し、両足がむず痒そうに揺れていた。

 その様子を横目で見守っていたマリーは、何とも云えない微笑ましい感情と共に告げる。

 

「ふふっ、きっと先生の事ですから、私達にも顔を見せに来て下さいますよ」

「えっ!? あ、そっ、そうですよね……? あはは、はは……」

 

 自身の行動を注視されていたと気付いたヒナタは、途端に頬を赤らめ自身の行動を恥じる様に俯く。そしてその身体を限界まで縮こまらせると、真っ赤な瞳を泳がせながら恐る恐る問いかけた。

 

「あ、その、えっと――わ、私、分かり易かった、でしょうか……?」

「いえ、私も同じ気持ちでしたから」

 

 ヒナタの消え入りそうな声に対しマリーは微笑みを返す。ヒナタは余裕を感じさせる彼女の答えに、「そ、そうですか……」と頷きながら口を噤んだ。羞恥心から顔が燃えそうな心地だった。

 

「――先生、恐らくお二人は此方かと」

「ありがとう、助かったよ」

「い、いえ、それでは私はこれで……!」

「……!」

 

 不意に倉庫の扉が開き、聞き慣れた声が響いた。ヒナタとマリーの肩が小さく弾み、二人の視線が出入り口に向く。茜色と共に倉庫内へと踏み込んだ人影は扉を後ろ手に閉め、周囲を見渡しながら声を上げた。

 

「――ヒナタ、マリー、居るかい?」

 

 間違いない。

 確信を持った二人は座っていたコンテナから降りると、衣服を軽く整えながら先生の居る場所へと足を向けた。

 

「――先生」

「っと、こっちに居たんだね」

 

 ラックの隙間、コンテナの影から現れた二人に先生は目を向ける。マリーが声を掛けると、先生は片手を挙げながら破顔した。陽光に照らされた先生は、何とも幻想的な色合いに見えた。

 

「お疲れ様、二人共」

「先生も、お疲れ様です……!」

「先生、お元気そうで何よりです」

 

 二人の声は心なしか弾んでいた。件の騒動以降、救護騎士団にて暫く入院していた先生。その間、二人は先生の病室に殆ど毎日と云って良い頻度で通っていたが――シャーレに戻ってからというもの、直接顔を合わせる機会は少なくなっている。

 多くて週に一度か二度、だからこそ先生はトリニティに立ち寄った際には、こうして必ず顔を見せに来てくれるのだ。二人はその時間をいつも心待ちにしていた。

 

「うん、最近は調子が良くてね、マリーの御祈りのお陰かな?」

「まさか、私の力など微々たるもので――ふふっ、この平和に感謝を、先生が穏やかに過ごされている様で安心しました」

「あはは、大袈裟だよ」

 

 マリーの言葉に先生は頬を掻くと、苦笑交じりにそう告げる。しかし仕事に忙殺されかけているとは云え、事件や事故が発生していない現在は確かに平穏そのものである。欲を云えばもう少し睡眠出来る余裕が欲しいが――それは欲張り過ぎというものか。

 

「あの、先生、サクラコ様との会談はもう?」

「あ、うん、何か急用が出来たみたいでね、少し早いけれど切り上げたんだ」

「急用、ですか……?」

「アリウス自治区に関しての事らしいけれど、詳しくは私も」

 

 ヒナタの問い掛けに対し、先生は緩く首を振る。残念ながら彼女の行動については何も知らされていない、勿論聞き耳を立てる様な真似もしていないのでアリウス自治区で何があったのかは不明だった。それでも本当に困った時、大きな問題が起こった時、彼女なら必ず一報を入れてくれる筈だという信頼が先生にはあった。

 同時に万が一の策ではあるが――アリウス自治区には、先生しか知らない情報網が存在する。大事になる様な騒動が発生したのならば、即座にタブレットへと通知が飛んで来るだろう。

 先生は手元のタブレットを一瞥し、何の通知も無い事を確認すると、改めて周囲に視線を向けた。ヒナタとマリーの立つラック周辺は随分と片付いている様に思う。思い返すと、以前此処に足を踏み入れた時と比較してコンテナの数が大分減っていた。

 

「倉庫、随分と荷が減ったね」

「あ、はい、以前の作戦でシスターフッドも弾薬や装備品を随分と使いましたから……備蓄も大分減ってしまって」

「新しい弾薬や装備の申請は済んでおりますので、補給が届き次第また此方の倉庫に保管する手筈になっています」

「そっか、ならそれまで此処の整理を?」

「はい、シスターヒナタが特に頑張って下さって」

「そ、そんな……!」

 

 マリーが笑みを浮かべながら肯定すると、ヒナタは慌てて掌を振って後退る。

 

「元々私は管理担当ですし、こういう時位しかお役に立てないので……! あの、当然と云いますか、寧ろご迷惑を掛けてばかりで――!」

「そんな事はありません、シスターヒナタのお陰で様々な方が助かっています、勿論私も、サクラコ様も」

「――そうだね、マリーの云う通りだ」

 

 頻りに恐縮し肩を竦めるヒナタに対し、先生は目線を合わせるように背を曲げると笑みを零す。

 

「ヒナタのお陰で助かっている生徒が沢山居るんだ、私だってその一人だよ……それに」

 

 言葉を続け、先生の指先が周囲のコンテナやラック、備品に向けられた。

 

「最近は備品を壊してしまうミスが殆ど無くなったって聞いたよ」

「ぁ――」

 

 その一言に、彼女の肩が分かり易く跳ねた。

 それはヒナタ自身、自覚のある事であった。

 以前であれば力加減を誤ってコンテナを変形させてしまったり、或いはラックを粉砕してしまったり、そんな事が日常茶飯事であった。この倉庫ばかりの話ではない、授業中にペンを粉砕したり、食事のスプーンを曲げてしまったり、清掃中の箒に罅を入れてしまったり。あらゆる場面、日常生活の中で彼女の力加減は悪影響を生んだ。その度に謝罪し、始末書を書き、不甲斐ない自分に失望したものだ。

 

 だが最近――正確に云えば先生に対する大きな負い目と罪悪を背負ったあの日から、ヒナタの両手は物を壊す事が殆ど無くなり、業務が滞る事もなくなった。

 

 それは客観的に評価すれば素晴らしい事であった。

 自身の弱点が一つ無くなり、以前どう頑張っても改善出来なかった悪癖が矯正されたのだから。

 事件以前の自分であれば諸手を挙げて喜び、嬉々として先生や友人達に報告して回ったに違いない。これでもっと皆の役に立てると、迷惑を掛ける事がなくなると。

 

 しかし、ヒナタはそうしなかった。

 出来なかった。

 その欠点を克服した理由が――先生の腕を代価としたものであるからだ。

 

 誰がどうして、恩人であり想い人である先生の腕を引き千切ったお陰で力加減を覚える事が出来ましたと、そう胸を張って報告出来よう?

 そんな人物が居て、目の前に現れたのなら、ヒナタはきっとらしくもなく憤慨し、憎悪に相手を睨みつけ、罵詈雑言を浴びせた後に力一杯殴り飛ばすに違いない。その自信が彼女にはあった。

 

 だからこそヒナタはこの事について決して云い触らす様な事も、喜ぶ事も、ましてや誇る事もしなかった。その過程を、代わりに失われたものの大きさを知っているからだ。けれど幾ら隠したとしても、自罰的になったとしても、今まで積み重ねて来た始末書は誤魔化せない。明らかに書く回数が減り、ミスが減り、騒動が起きなくなったのならば――気付かれるのは明白だ。

 

 ヒナタは唇を噛んで俯くと、目を強く瞑って痛みに備えた。それは物理的なものではない、心の痛みに対する備えだった。先生にどんな言葉を掛けられるか、恐ろしく思ったのだ。それは先生に対する信頼が揺らいだとか、そういう事ではない。それはヒナタにとって殆ど反射的な、心を守るための所作だった。

 

「……っ!」

 

 だが、衝撃は来ない。

 寧ろ彼女の身に走ったのは暖かな重みであり、ヒナタが恐る恐る片目を開けば――当の先生は自身の頭に手を乗せ、満面の笑みを浮かべていた。

 

「――凄いじゃないかヒナタ」

 

 それは余りにも屈託のない笑みだった。含むところなど何もない、混ざり気の全くない喜び。

 それは生徒(子ども)が成長した、出来ない事が出来るようになった、その事を心の底から喜ぶ大人の姿だった。

 

「ヒナタは今まで出来なかった事を成し遂げたんだ、それがどんな形であったとしても、君の成長である事に変わりはない――私はその事が、とても嬉しいんだ」

「せ、先生……?」

 

 自身の事でもないのに、心の底から笑みを零す先生を前にしてヒナタは思わず困惑の声を漏らす。罵倒も、責める声も、何もない。そんな事を先生が口にする筈がないと理解していながら、自身の怯懦が生んだ幻が掻き立てる不安に気圧され、それでも、万が一、億が一――そんな風に考えた自分が馬鹿らしく思えてしまう程、目の前の先生は明るく笑っていた。

 戸惑う彼女を他所に、ウィンプル越しにヒナタを撫でつける先生は、より一層語気を強めて続けた。

 笑みはその質を変え、余りにも大きな優しさで以てヒナタを照らす。

 

「どうかヒナタ、後ろめたく思わないで、今は難しいかもしれないけれど、それはきっといつか君の大きな糧になる」

「か……糧、ですか?」

「そうだよ、そしてヒナタ、柔らかな手で触れられるのなら――」

 

 先生の腕が――右手がヒナタの手を取る。

 暖かなそれに触れた途端、彼女の肩が跳ねるのが分かった。力強い握り、先生の優しい空色の瞳が真っ直ぐヒナタを見つめ、告げる。

 

「こうしてまた、手を繋ぐ事だって出来るんだ」

「――……」

「ほら、前に云った通りだろう?」

 

 二人の握り締めた手が視界に広がり、ぐっと先生の指先がより強くヒナタの手を掴む。自分より大きなそれ、けれど余りにも隔絶した力の差がある指先。

 けれどそんな差など知らないと、関係ないのだと――繋いだ手の先で、先生の笑顔が咲いていた。

 

「こうして日常に、また戻って来れた」

「っ!」

 

 それはいつか、病床のヒナタに告げた言葉。

 私達はまた、いつも通りの日常に戻れる――何て事のない日々の中で語り合い、笑い合い、こうして触れ合う事だって出来る。

 本当に些細な、けれど奇跡の様な日常。

 

 ――それは今、こうして私達の中に存在しているのだから。

 

「―――」

 

 それを自覚した時、ヒナタには込み上げる何かがあった。それは喜びだとか、感謝だとか、そういう明るく、沸き立つ感情であった。自身の感じていた不安、恐怖、そう云ったものを一切合切洗い流し、それ以上の優しさと(アガペー)で包み込む。何処までも深く、溺れてしまいそうな博愛と受容。

 同時にヒナタの中に生まれる深い想い。彼の者は許し、導き、受け容れる。その在り方はまるで彼女が信奉する存在そのもので――。

 だからこそ彼女は先生の手を両手で握り締め、祈る様に深く、深く頷いて見せた。

 

「っ、は――……はいっ!」

 

 吐き出し、項垂れた。それは縋る様な姿勢だった。繋いだ先生の手に額を擦りつけ、彼女は歯を食いしばる。

 ヒナタは暫くその場から動く事が出来なかった、今顔を上げれば涙が零れてしまいそうだったから。隣り合うマリーがそっと寄り添い、ヒナタの背中を撫でつけながら微笑みかける。涙を呑んだヒナタが僅かに視線を上げれば、マリーは彼女の涙を隠す様に指先で目元を拭った。

 

「ま、マリーさん……」

「大丈夫ですよ、シスターフッドの皆さんは知っています……ヒナタさんの頑張りも、努力も、献身も」

 

 その言葉にヒナタは目を泳がせ、再び深く頷いた。

 

 不意に電子音が鳴る。

 それは先生の懐から――見ればタブレットの画面が点灯し、幾つかメッセージを受信していた。

 

「……っと、もうこんな時間か」

「っ! お、お仕事ですか?」

「うん――ごめんね、そろそろシャーレに戻らないと」

 

 目元と鼻を拭い、背筋を正したヒナタは慌てて問いかける。先生は申し訳なさそうに頷くと、時計を確認しながらタブレットを二度、三度視線でなぞった。

 ヒナタは何かを云い掛け、しかし隣り合うマリーに目を向けると、彼女の指先を優しく握りながら告げた。

 

「あの、マリーさん、先生のお見送りをお願いしても良いですか? 私は此処の整理を続けますので」

「えっ? それは、勿論構いませんが――」

「……私ばっかり、えっと、先生を独占してしまったので」

 

 鼻を啜って、恥ずかしそうにはにかむヒナタを前にマリーは一瞬面食らう。そして一拍間を置いて、彼女もまた恥ずかしそうに笑って頷いた。

 

「……分かりました、御厚意に感謝致します」

「い、いえっ、そんな」

 

 深く頭を下げるマリーにヒナタは首を勢い良く振る。彼女は僅かに汗ばんだ手を制服で拭うと、先生と向き合い羞恥心を隠す様にして捲し立てた。

 

「で、では先生! 私は此方の倉庫整理を続けますので……!」

「……分かった、頑張ってねヒナタ、でも、ちゃんと休憩は取るんだよ? 何かあったらまたいつでも連絡して」

「は、はい!」

 

 勢い良く返事をし、倉庫を後にする二人を見送るヒナタ。彼女はその背中が見えなくなるまで手を振り続け、マリーと先生の二人は静かに倉庫を後にした。

 扉を閉めると夕暮れが視界に広がり、茜色が二人を照らす。その光量に先生は思わず目を細め、左手を目前に翳した。

 

「――ふふっ」

「……マリー?」

 

 不意にマリーが笑みを零す。唐突なそれに目を瞬かせた先生だったが、どこか嬉しそうに笑みを零す彼女は先生を見上げ口を開いた。

 

「いえ、申し訳ありません、不躾に……やはり先生は、先生なのだなと思いまして」

「それは、どういう?」

「シスターヒナタが最近ずっと思い詰めた様に学業や大聖堂での仕事に打ち込んでいたので……仕事上の失敗が少なくなっていた事には気付いていたんです、ただその理由が理由ですから、中々云い出す事も出来ず時間ばかりが経ってしまって」

「そっか――ごめんね、気を揉ませてしまって」

「いいえ、寧ろ気付いて頂けて、更にあのような言葉まで掛けて下さって感謝致します、先生」

「……いや、私一人の力じゃないんだ」

「――サクラコ様、でしょうか?」

 

 マリーの言葉に先生は驚きを露にした。思考を先回りされた様な奇妙な感覚、面食らった先生を見上げた彼女は優し気に微笑み、呟いた。

 

「あの方も、誤解される事も多いですが、とてもお優しい方ですから……私達シスター一人一人に気を配って下さるのです」

「そう云えば、マリーはサクラコと一緒に仕事をする事が多いんだったね、ならそうか……うん、サクラコに助言を貰ったんだ、全く、私こそもっと周りを見なければいけないと云うのに」

「ひとりで全てを熟す事は困難です、助け合い、手を取り合う事こそ本懐――特に先生は一人で何でも背負い込んでしまいますから」

「……参ったな、全く同じ事をサクラコにも云われたよ」

 

 呟き、苦笑を零す先生。そんな彼の右手に視線を落としたマリーは、徐に先生の指先を握った。ひんやりと、僅かに自身のそれと比べ体温の低い先生の指先。

 

「……マリー?」

「――傷が、また増えてしまいましたね」

 

 先生の右手は普段ハーフグローブに包まれている。しかし、その日は素肌が見えていた。先生の指先はごつごつしていて、彼方此方傷に塗れている。指先の爪も生えかけの部分があり、お世辞にも綺麗な手とは云えなかった。

 事件が起こる度に足掻き、必死に駆ける彼の指先は時を経るごとに傷を増やす。必死な大人の、先生の手だ。

 じっと自身の手を眺めるマリーを前に、先生は穏やかな口調で以て告げた。

 

「これ位、私は平気さ」

「身体がそうであっても、心はどうでしょう? 如何に傷が癒えるとしても、その恐怖や苦痛はきっといつまでも残り続けます」

「……マリー」

「先生、私は――私達は、戦う事を好みません」

 

 声は淡々としていた。それは彼女らしからぬ強い口調であった様に思う。夕焼けが沈み始め、夜の蚊帳が降りて来る。星が瞬き始める時刻の中で、マリーの表情は影に覆われ良く見えなかった。もう数十分もすれば夜がやって来るだろう。

 マリーの暖かな指先が先生の古傷を静かになぞっていく。その度にざわざわとした感覚が先生の背筋を奔っていた。

 

「平和の為に武器を取る事が必要であると、その事は理解しています、しかし――それを続けた果てに、果たして本当に平和が、平穏が訪れるのかと、考えてしまう事があるのです」

「………」

「愛とは貴く、崇高なもの、ですが……私は時折、それを恐ろしく感じてしまいます、私はいつだって嘘偽りのない姿を先生にお見せしたいと思っています、だからこそ私は、その愛が――恐ろしい」

 

 それは彼女なりの懺悔か、或いは告解だったのかもしれない。風に揺れるウィンプルがマリーの瞳を隠し、時折覗く青色は先生の()だけを見つめている。

 

「この胸に巣くう感情(想い)が、貴く崇高な筈のソレが、躊躇いなく武器()を手にしてしまう事が、いつか私の求める平和と反対の事を為してしまうのではないかと、それが恐ろしいのです――その果てに平和など、貴き平穏など存在しないと、そう理解しているのに」

 

 ――ただ私は、先生(大切な人)に幸福で在って欲しいだけなのです。

 

 その一言が先生の鼓膜を揺らす。

 途端、先生の表情が苦痛に歪んだ――精神的なモノでもあったが、同時に物理的な痛みでもあった。視界に過る煤けたウィンプル、シスターフッドの制服に身を包みながらも疎んでいた銃器を握る姿。

 それは今の彼女ではない――既に過去となり、先生が背負った世界の彼女だ。

 彼女のその姿を幻視し、重ね、先生は咄嗟に声を噛み殺す。その感情を、表情を、今目の前にいるマリーに見せる訳にはいかなかった。

 故に彼女が顔を上げ、自身に目を向けた時。先生は内心を押し殺し平静を装った。それは困った様な、或いは何かを噛み締める様な表情に見えただろうか。

 マリーは申し訳なさそうに眉を落とし、自身に対する失望を吐露する。

 

「……私は、シスターとして失格なのかもしれません」

「まさか」

 

 彼女の言葉に先生は大袈裟に手を広げると、首を振った。もし彼女がシスター失格ならば大多数の存在がシスターとしての資格を失ってしまうのではないだろうか? そう思う程に彼女と云う存在は清廉で、神聖で、誠実だ。あくまで口元に笑みを装った先生は彼女の手を引くと徐に歩き出す。「あっ」と声を発したマリーは夕焼けの中を歩き出した先生の横に連れられ、同じように歩みを進めた。

 茜色に染め上げられたトリニティの中で、先生の影は濃く地面に伸びる。見上げたマリーの視界の中で先生の表情は影と髪に覆われ見えなかった。

 しかし、声だけはハッキリと聞こえる。

 

「マリー」

「……はい、先生」

「ありがとう、いつも私の為に祈ってくれて――その心を、私はとても嬉しく思う」

「……いいえ」

 

 先生の言葉にマリーは緩く首を振った。そして何か言葉を口にしようとして、一度呑み込む。そして再び顔を上げた時、彼女は花が咲いた様に笑って云った。

 

「いつか一度口にしましたが――先生が幸せでしたら、私も幸せですから」

「――……それなら、きっと大丈夫さ」

 

 応え、先生はマリーの方へとゆっくり振り返る。照らされた夕日の中、先生は何処までも透き通る笑顔を浮かべ、静かに告げた。

 

生徒達(みんな)の幸せが、私の幸せだ」

 


 

「先生がこれまで積み上げて来た道、そしてこれから選ばれる道――そこにどうか、出来るだけ多くの平和と、幸せがありますように……」

 

 マリーちゃんは先生の為に祈りを捧げ、平和と幸福を祈ってくれる良い子。

 バイトして色んな美食を安く一杯食べたいと思っているのがジュンコ。

 「ウサギは寂しいと死んでしまう生き物だそうです」と云って言外に構えと云ってくるのがミヤコ。

 お姫様で子どもの作り方を真正面から先生に聞いて来るのがアツコ。

 しっとりとした雨の中で身を寄せ合い存外悪くないねと微笑み掛けるのがカヨコ。

 エグいハイレグを身に纏って「これが私の覚悟――」するのがサクラコ。

 それを横から驚愕と歓喜の滲んだ声で称賛し一緒に脱ぐのがハナコ。

 百夜堂の看板娘で出張販売もしてくれて「あの目だ……」をしてくるのがシズコ。

 思っていた以上に怪力で本の虫でじっと先生の帰りを待ち続けてくれるのがシミコ。

 ん、銀行強盗をして、あっち向いてホイして先生は幸福になるべきなのがシロコ。

 SRTのFOX小隊の副小隊長で耳もふもふお稲荷さん美味しいのがニコ。

 シュロの保護者で未だまるで何も分からんぞなのがコクリコ。

 そして手足を捥がれながらも大切なモノの為に血反吐を撒き散らしながら進むのが先生です。

 

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