ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に感謝ですわ!


微睡の幸福(酷薄で儚い夢)

 

「ふふっ、今日も今日とて仕事三昧~……」

 

 日中、シャーレ執務室。

 左手でキーボードを叩き、右手でペンを走らせる。跳ねた髪はゆらゆらと揺れる先生の身体に合わせ靡き、その瞳は有体に云って死んでいた。室内には打鍵音だけが響いており、時折パソコンとタブレットの着信音が混ざって来る。しかしそれは大抵仕事の追加音であり、響く度に先生の纏う気配はより一層沈んで行くのが分かった。

 

「目を離した隙に書類が山の様に連なる、何と云う環境、でも自分で増やした分もあるから、ふふっ、仕方ないよね……」

 

 呟きながら自嘲の混じった笑みを零す。左右に積み重なる書類の山、そうでなくともメールボックスに連なる未対応メール。一応【大至急】や『締め切り間近』など記載のあるものから片付けているが、それでも中々どうしてギリギリで。兎に角無心の心で一つ一つ確実に処理していく他なく、先生はその日も無我の境地に至ろうとしていた。

 

 そんな彼の耳に再び着信音が届く――しかし常なら一度の電子音で済むそれが、連続して鳴り響いている事に気付いた。

 

「……ん、電話?」

『先生、ゲヘナの風紀委員会から連絡が――』

「風紀委員会? 分かった、繋いで」

『はい!』

 

 先生が告げると、タブレットの応答ボタンが反応する。その間にも先生の仕事の手は止まっていない。電子音が止み、代わりに先生が口を開いた。

 

「もしも――」

『先生、今シャーレにいらっしゃいますか!?』

 

 途端、響き渡る聞き覚えのある声。ぐわんと室内に響く金切声に思わず面食らった先生は一瞬口を噤み、それから恐る恐る言葉を続ける。

 

「……えっと、アコ? 今はシャーレに居るけれど」

『なら今すぐ来てください! ヒナ委員長が限界なんですッ!』

「――直ぐに行く、待っていて」

 

 それだけ告げて、先生は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。ペンをデスクに投げ捨て、来客用のソファに掛けていた外套を掴み袖を通す。

 

「アロナ、足の手配を頼む」

『あ、はい、任せて下さい!』

 

 交通手段をアロナに一任し、先生は対応準備を済ませる。充電用のバッテリーを予備含め二つ、財布に連絡用端末、腕章にIDカード、錠剤に義手の充電残量を確認し、最後にシッテムの箱を手に取り執務室を飛び出す。

 其処までの所要時間は三十秒程度、緊急時の準備には慣れたもので、先生はシャーレの廊下を駆けながら思考する。

 

「ヒナ――!」

 

 アコからの連絡、あの焦り様――一体何があったのか。

 

 ■

 

「あっ、先生、ゲヘナに何か御用で――」

「おや? キキッ、どうした先生、そんなに急いで――」

「あら? 先生じゃない、良ければ催眠術の練習に――」

「先生、こんな時間に珍しいですね? お暇なら一緒にサボ――」

「ごめんっ、またあとでッ!」

 

 ゲヘナ自治区へと到着後、校門から広場を突っ切って風紀委員会本部へと向かう。途中何人もの生徒と顔を合わせ、何事か話しかけられていたが今は余裕が無いと謝罪しつつ足は緩めない。風紀委員会本部へと駆け込むと委員の何名かが何事かと顔を向けるが、先生の姿を認めると佇まいを正しながら安堵の色を見せた。

 そのまま先生は彼女達に挨拶を口にしながらも執務室へと駆け込み、扉を押し開く。

 

「遅くなったッ! ヒナ、アコ、皆は無事――」

 

 息を弾ませ、そう問いかける先生。そして視界に飛び込んで来たのは。

 

「先生、遊びたいの? ふふっ、駄目よ、まだ書類仕事が残っているから、風紀委員長として仕事はきちんとこなさないと、でもそうね、後で一緒に少しだけ仮眠を――」

「………」

 

 それは、一瞬我を忘れる様な光景であった。

 デスクに座りスラスラと淀みなく仕事を進めるヒナ、彼女の語り掛ける対象は先生である――しかし、当の先生は今しがた到着したばかりであった。

 なら、一体ヒナは何に話しかけていたのか?

 彼女がデスク脇に置いていたのは、先生を模した人形であった。朦朧とした視線をそのままに、彼女は穏やかな様子で人形に語り掛けている。とても正気の沙汰ではない。その余りにも異様な光景に先生は思わず意識を飛ばし掛け、入室した状態のまま暫し硬直する事となった。

 

「あっ、先生! 遅かったじゃないですかっ!」

 

 傍にあったデスクで同じように書類仕事を行っていたアコは、飛び込んで来た先生を見るや否や勢い良く立ち上がり、ズンズンと距離を詰めて来る。憤慨した様子の彼女であるが、その目元にはハッキリと分かる程の隈が仕上がっていた。先生はそんな彼女に戦々恐々とした様子で問いかける。

 

「……あの、アコ」

「何ですかっ!?」

「これは、一体?」

 

 これというのが何を指すのか、彼女はハッキリと分かっている事だろう。アコは何かを堪える様な素振りを見せ、呟いた。

 

「……今日で三徹目なんです」

 

 余りにも真剣な面持ちだった。声は囁くように小さかったが、はっきりと聞こえた。その両手は固く握り締められており、堪え切れない怒りが額に青筋として浮かんでいる。

 

「……三徹?」

「はい」

「二人共?」

「そうですッ!」

 

 カッ! と迫力のある表情で叫んだアコは、そのまま睨みつける様な視線を先生に寄越し地団駄を踏む。其処には今の今まで蓄積していた怒りを爆発させるような勢いがあった。

 

「あの騒動の後、何の嫌がらせか万魔殿のタヌキ達が時間だけ取られる上に大して重要でもない書類やら何やらを送りつけて来て……! 只ですら通常業務でやる事が多い上に、最近は謎のスマイル仮面集団が暗躍しているとか何とかで時間を取られ、更に嫌がらせでそれらを処理するとなると、もう残業するしかなくて――!」

「――……成程」

 

 今にも怒り泣きしそうなアコに理解を示しつつ、先生はそれとなく執務室を見渡す。風紀委員会の中核メンバーと云えばヒナをトップとしてアコ、イオリ、チナツとなるが二人の姿は何処にも見当たらない。となるとチナツとイオリは外回り、実働部隊として対応に当たっているのか。先生はそうアタリを付ける。

 そうこうしている内にもアコはヒナを指差し、嘆く様に歯を食いしばりながら叫んだ。

 

「私が話しかけても事務的な会話しか返事しか頂けない上に、私の、私のっ、淹れた珈琲を、あまつさえ美味しいとッ!?」

「それは……良い事なのでは?」

「――そんな訳ないじゃないですかァッ!」

 

 とても真剣に怒られた。正に怒髪冠を衝く勢いであった。

 云っては何だがアコの淹れる珈琲は決して不味くない。彼女はヒナの為にきちんとした商品を買い込んで来るし、そのマメな性格と奉仕精神(ヒナ限定)の為に淹れる手順も間違えない。故にその珈琲を美味しいと口にしても何ら違和感等は無い筈なのだが――先生は頬を掻きながら今にも嗚咽を零しそうなアコを宥め、ヒナの前へと足を進める。

 先生が彼女の前に姿を晒しても、彼女は未だ気付く様子を見せない。これはかなり重症であると先生は断じる。

 

「……ヒナ」

「ふふっ、大丈夫よ先生、私はまだ――」

「ヒナ!」

 

 少しだけ強めに彼女の名を呼んだ。するとピクリとヒナの肩が震え、その朦朧とした視線が先生を捉える。瞬間、真っ黒に染まっていた彼女の瞳に微かな光が差し込むのが分かった。

 

「――……先生?」

「……お疲れ様、ヒナ」

「えっ、あれ、先生が何でゲヘナに――今日は特に、訪問する予定は」

 

 唐突に現れた等身大先生を前に、ヒナはらしくもなく狼狽えて見せる。ペンを握ったまま腰を浮かせ、まさか先生の訪問スケジュールを見落としていた? と呟く。先生はそんな彼女を落ち着かせる様に手を翳し、努めて穏やかな様子で語りかける。

 

「大丈夫、元々予定を組んでいた訳じゃないんだ、えっと……ちょっとゲヘナでやるべき仕事があってね、そのついでとは云っては何だけれど、皆の顔を見たくて」

「……そう、そうだったのね」

 

 露骨に胸を撫でおろすヒナ、そのまま椅子に腰かけ直すと彼女は深い溜息を零す。無論、デスクの上にあった先生人形に話しかける様な真似もしない。その姿はいつも通りの風紀委員長――空崎ヒナである。

 

「ひ、ヒナ委員長ぉ~……!」

「アコ? 一体どうしたの、そんなに萎びて……」

「よ、良かった、委員長が戻って来て……!」

「……?」

 

 涙すら目に浮かべて自身の名を呼ぶアコに、ヒナは疑問符を浮かべる。その様子から、どうやら自身がどんな状況であったのか自覚はないらしい。先生は敢えてその点を問い掛けようとは思わなかった。

 ただ一点、どうしても気になる代物がある。

 

「あー、その、ところでヒナ、ちょっと聞きたいんだけれど」

「何、先生? 大丈夫、何でも聞いて」

 

 咳払いを挟みつつ、云い難そうに声を掛ける先生を前にして、瞳に光を取り戻したヒナはいつも通りの様子で頷く。先生は一瞬躊躇う様子を見せたが、ややあって彼女のデスクに置かれた人形を指差し告げた。

 

「その、私によく似た、この人形は……」

「これ? これは――アコから貰ったの」

 

 ヒナはそう云って嬉しそうに先生と似た人形を撫でつける。大きさは丁度掌よりも大きい程度で、良くある人形座りというか、両手足を前に突き出しながらにっこり笑顔を浮かべている。先生は小さく、「そっか」と頷きながら背後を見た。

 

「……アコ?」

「――はい? 何ですか、何か文句でもあるんですか?」

 

 振り向き、問いかける様な視線を飛ばせば、アコは毅然とした態度で応じて見せた。その表情には一切の躊躇いや気後れはなかった。

 

「いや、別にないけれど――」

「もしかして勘違いしています? 私が先生の人形を持っているから気を許しているんじゃないかとか思ったんですか? 云っておきますが私個人として先生に含むものは全く、これっぽちも! ありませんからッ!」

「……多分アレだよね、ストレス発散のサンドバッグ的な意味で作った感じ――」

「はぁ~!? 何ですかそれ、先生の人形を私が粗雑に扱うって決めつけるんですか? もしかして自分は嫌われているとか勘違いしてるんですかっ!? そんな事ありませんけれど? 先生の事は嫌ってなどいませんけれど? で? だから何ですかッ!? 私が先生を嫌ってないからって、良い気になって――!」

「アコ、私は何もそこまで云っていないよ」

 

 先生が何も口を挟まずとも、アコは何から何まで顔を真っ赤に捲し立てる様に叫んでいた。これはこれでいつものアコである、別に仕事のし過ぎで錯乱している訳ではない。先生は自分にそう云い聞かせた。

 

「ふぅ~……取り敢えず仕事を手伝うから、ヒナとアコは少し休んで」

「えっ、でも先生だって忙しい筈じゃ――」

「大丈夫、実は明日の分の仕事も終わらせちゃって、今は手透きなんだ」

 

 いつもの様に笑みを貼り付け、さらりと何でもない事の様に告げる。本当は今すぐにでもシャーレに戻り処理しなければならない案件が山の様に存在する、しかし即日中のものは既に片付けてあるので一日――いや、半日程度ならば問題ない筈だ。ゲヘナから帰宅する最中もタブレットで仕事は出来るし、シャーレに戻ってから徹夜で打ち込めば何とかなる。

 そんな先生をじっと見つめるヒナは、ふっと苦笑を零した。先生の言葉は恐らく半分嘘で、半分本当だ――その真っ黒な目元を見れば分かる。

 

「……なら私も頑張る、元々私の仕事だし、私ばっかり休む訳にはいかない」

「そっか、ならアコだけでも……」

「はぁ!?」

「――うんまぁ、そうだよね、分かったからそんな目で見ないで欲しい」

 

 ヒナが働いている中、自分だけ休める筈がないだろうと云いたげな視線を受け、先生は緩く手を挙げた。身に纏っていた外套を脱ぎ、来客用の長椅子に掛ける。椅子の背凭れにはヒナの外套も掛かっていた。もしかしたら執務の最中にも何度か出動していたのかもしれない。

 

「よぉし、それじゃあ始めますか……アコ、珈琲貰って良いかな? 私のカップ、あったよね?」

「えぇ、まぁ――はぁ、分かりましたよ、今回だけ特別、トクベツ! ですからねっ!」

「ありがとう」

 

 風紀委員会の執務室には先生用のティーカップも常備されている。渋々それを手に取ったアコを横目に、先生はヒナへと手を伸ばし問いかけた。

 

「ヒナ、私に任せても大丈夫な書類はあるかい?」

「………うん」

 

 ■

 

 そうして、作業開始から数時間後。

 

「お、終わったぁ~っ!」

「ふぅ、お疲れ様、先生」

 

 長い戦いであった、それはもう伸びをした瞬間骨が鳴り響く程度には。凝り固まった体をほぐしながらペンをデスクに放った先生は、綺麗サッパリ無くなった書類の山を前に凄まじい達成感を味わう。週に一度は似たような達成感を味わっている筈だというのに、中々どうして慣れないものである。

 最後の一束をデスクで纏めながら微笑むヒナは、そのまま最終確認を終えアコへと書類を手渡す。

 

「アコ、これの提出をお願い、なるべく今日中に提出しておきたい、万魔殿なら日付が変わったから受け付けないとか何とか、云い出してもおかしくないから」

「は、はいっ! お任せ下さい!」

 

 ヒナから書類を受け取ったアコは頷き、そのまま駆け足で風紀委員長本部を後にする。ふと窓の外を見ると既に陽は沈み、時刻は十一時を回ろうとしていた。我ながら随分と集中したものだと感心する。

 

「そっか、もう日付が変わるのか……凄いな、半日近くずっと集中していたのか」

「そうね、ごめんなさい先生、こんな時間まで」

「平気だよ、風紀委員会の皆――ヒナの為ならどんな仕事だってどんと来いさ」

「……もう」

 

 余裕ぶった表情で胸を叩き、朗らかに笑って見せる先生。彼女達の前では例えどんな時でも大人として在りたいという想いがある。そんな彼の思惑を見透かしながらも、ヒナはその厚意を有難く思った。

 

「チナツとイオリは……」

「本部には戻らずに直接帰宅して良いって連絡しておいた、あの子達もずっと忙しかったから」

「流石、用意周到だ」

「――シャーレまで送っていくわ、最近は特に治安が悪いし」

「校門前までで良いよ、ヒナも疲れているだろう? 一秒でも長く休んで欲しい」

「……それは、私も同じなのだけれど」

 

 席を立ち、長椅子に掛けていた外套を手に取るヒナ。先生も彼女と並んで外套を羽織り、そのまま風紀委員会を後にする。深夜のゲヘナはいつもの喧騒が嘘の様に静かで、特に風紀委員会本部周辺は虫の声ひとつ聞こえない様な静寂であった。

 

「流石にこの時間だと、生徒も全然居ないね」

「校舎周辺だとそうね、街の方だとこの時間でも不良生徒が暴れていたりするけれど」

「……何と云うか、ゲヘナって感じはするよ」

 

 はっちゃけた生徒が街の方で暴れているのか。此処からだと街の方まで目にする事は叶わないが、確かにゲヘナの生徒達が夜だからという理由で大人しくなる未来は見えない。

 

「此処までで大丈夫、後は一人で戻れるから」

「………そう」

 

 校門まで足を進めると、先生は振り返って告げる。ヒナは頷きながら、心なしかその表情は残念そうに見えた。だから先生は少し考え、目線を合わせるように屈むと不器用な彼女に問いかける。

 

「ヒナ、明日……は休んで欲しいから、明後日か、その次の日でも良いけれど空いている?」

「え? え、えぇ、大きな仕事は片付いたし、少し位なら余裕はある筈だけれど――」

「ならシャーレの当番、頼んで良いかな?」

「――!」

 

 先生がそう口にするとヒナの顔色が目に見えて紅潮し、喜色に染まるのが分かった。

 

「う、うん、行く、絶対行く!」

「ありがとう」

 

 やや食い気味に放たれた返事。先生はそれに感謝を述べながらゆっくりと屈んでいた背を正す。

 

「それじゃあ、また今度ね、モモトークで連絡するから」

「……うん」

 

 手を振り、軽い足取りで去っていく先生。その背中が見えなくなるまでヒナは見送る、暗闇と徹夜のせいで若干目が霞んでいるが、それでも視線を切る様な事はしなかった。やがてその大きな背中が見えなくなると、ヒナは小さく吐息を零し両手を握る。

 

「シャーレの当番、久しぶり……ふふっ」

 

 声はらしくもなく弾んでいて、久しぶりに先生の顔を見たからだろうか? 何となく先生に包まれている気分だった。

 そのまま鼻歌でも歌いそうな気分でヒナは風紀委員会本部へと戻り、執務室のデスクを片付け始める。今日の業務は終了、明日は万魔殿が出しゃばって来ない限り簡単な業務だけになるだろう。尤もゲヘナの問題児の事だから何かしら騒動を起こすのだろうけれど――それはいつもの事なので、最早勘定に入れない。

 デスクの上に鎮座する先生のデフォルメ人形を見つめ、ヒナは笑みを零しながらその額を突いた。

 

「委員長! 書類を万魔殿に提出して来ま――」

「あぁ、お疲れ様アコ、先生の方は私が見送って来たから、今日はもう閉めましょうか」

 

 勢い良く扉を開き、満面の笑みで報告を口にするアコ。彼女を一瞥しながらヒナは施錠の為に鍵を取り出す。しかしアコは扉を開いた姿勢のまま固まり、此方を凝視し続けていた。その様子にヒナは首を傾げ、彼女の名を呼ぶ。

 

「……アコ?」

「ひ、ヒナ委員長、その」

「……?」

「その外套は、一体……?」

「――外套?」

 

 アコの言葉に目を瞬かせ、ヒナは自身の羽織っている外套に目を落とす。其処には着慣れた黒と風紀委員会の腕章が付けられた外套ではなく――純白かつシャーレの腕章が付けられた先生の外套があった。

 

「………ぇ」

 

 思わず、と云った風に声が漏れる。

 何で自分が先生の外套を羽織っているのか? まるで理解出来ないとばかりにヒナは目を見開き硬直する。黒と白、どう考えても間違う要素がない。だと云うのに現実問題、自身は先生の外套を身に纏っている。

 通りで先生に包まれている様な感覚があった筈だ。

 

「まさか、取り違えた――?」

 

 思い返すのは来客用の長椅子に掛けられていた二つの外套。確か自分と同じように先生も椅子に外套を掛け、そのまま執務に入った。お互い徹夜続きで意識が朦朧としていたのもあるだろう、先生の体格が大きく普段ヒナが羽織っているサイズと違和感がなかった点もある。

 ヒナは頬を赤くすると、その羞恥心を振り払う様に額を軽く叩き告げた。

 

「はぁ、どうやら疲れが残っているみたい……先生に返却して来る」

「あっ、ヒナ委員長! それでしたら私が――!」

「良い、アコも徹夜続きで疲れているでしょう? 先に休んでいて」

 

 勢い良く手を挙げ提案するアコだが、自身のミスを彼女に拭わせるような真似は出来ない。明日も業務はあるのだ、出来得る限りアコには休んで貰いたかった。

 そのまま何事かを叫ぶアコを他所に、ヒナは風紀委員会を速足で後にする。廊下を進み外へと踏み出すと冷たい風が頬を撫でた。端末を取り出しシャーレまでの交通情報を確認する――しかし残念ながらこの時間だと何処も営業を終了してしまっている。

 それを確認し、ヒナは肩を竦める。

 

「この時間だと……流石にバスも地下鉄もやってないか、ちょっと高く付くけれど仕方ない」

 

 夜間料金は高く付くが背に腹は代えられない、タクシーを利用するしかないだろう。流石に風紀委員会の保有する車両を私用で使う訳にもいかないし――そう考えヒナは広場を無言で歩いて行く。周囲には誰の目もなく、まるで世界に自分一人である様に感じられた。

 ヒナはそれとなく周囲を確認すると、靡く外套の襟元を引っ張り、自分の鼻先を埋める。

 

「――ん」

 

 鼻を鳴らすと、先生の匂いがした。徹夜続きだったからだろう、普段よりも少しだけ匂いが強かったように思う。いつも自身の頭部に顔を埋め、ヒナ吸い等と宣う先生だ――別に、これ位なら許される筈だろう。

 

「ふふっ」

 

 ■

 

「……お邪魔します」

 

 ヒナがシャーレへと到着した頃、既に時刻は日付を跨ぎ一時を回ろうとしていた。どっぷりと深けた夜は暗く、シャーレ内部も殆ど光を落としている。学生証を翳し入館すると一斉にライトが点灯し内部を明るく照らす。ヒナは眩しそうに眼を細めながら周囲を見渡すが、当然人影はない。

 

「流石に、この時間だと静かね」

 

 普段ならば様々な生徒が屯し、或いは思い思いに過ごしているシャーレであるが深夜ともなると流石に静寂そのものである。その中で唯一気配があるのは一階のエンジェル24位なもので、ヒナはそれとなく傍まで足を運ぶと硝子越しに中を覗き込んだ。

 

「……良かった、流石にソラじゃない」

 

 まさかとは思ったが、流石に中学生のソラがこの時間まで店員をしている訳ではない様だ。店員は見覚えのないロボットになっており、直立不動でレジに立っている。ヒナはそのまま踵を返すと、エレベーターを使って居住区に移動した。

 

 目指すのは先生の私室――一部過激派生徒が存在する為、先生の私室周辺はある程度防備が固められているが、それでも先生の善意により出入りの制限などはされていない。ヒナは長い廊下を歩き先生の私室の前に立つと、そのまま控えめなノックをした。

 

「先生、居る?」

 

 返事はない。二度、三度、ノックを繰り返すが同じく。

 仕方なくドアノブに手を掛けると、ゆっくりと回す。すると扉は簡単に開き、鍵が掛かっていない事が分かった。

 

「……先生?」

 

 問い掛けながら恐る恐る中を覗き込むヒナ、しかし部屋の中は暗く中に誰も居ない事が分かる。室内は相変わらず殺風景で、棚やデスク周りにフィギュアやら何やらが飾られている程度であった。

 此処に居ないとなると――ヒナは凡その場所にあたりを付け、そのまま扉を閉めるとオフィスの方に向かう。時間が時間の為、既に寝入っているだろうと考えていたが。

 

「――やっぱり」

 

 ヒナがオフィスの方に向かうと、廊下の向こう側から青白い光が漏れていた。きっと帰って来てからまた仕事に取り掛かっていたのだ。敢えて廊下のライトを消灯し、廊下を静かに歩いて行くヒナ。そのまま光が漏れているオフィス内部を覗き込むと、デスクにうつ伏せになる先生の背中が見えた。

 その横には山積みの書類が残っており、光は先生のパソコンのモニタから漏れているものだった。

 

「……仕事は終わらせてあるって云ったのに」

 

 呟き、ヒナはゆっくりとオフィスの扉を開ける。中に踏み込むと先生の寝息が聞こえて来る。右手にマウス、左手にペンを握ったまま先生は寝入っており、かなり無理して進めたのか足元の段ボールには処理済みの書類が詰まっていた。一枚、二枚、ヒナはそれを手に取って確認し、思わず苦笑を零す。

 

 ――私が当番として来る前に少しでも減らしておこうと思ったの? そういう所が、本当に先生。

 

 無理をしている姿を見せようとしないのも、生徒の前では何でもない様に振る舞う所も。

 

「……っていうか、私のコートそのまま着て寝ちゃったんだ」

 

 遅れて、ヒナは先生が外套を羽織ったまま仕事をしていた事に気付く。先生もそうだが、自分も徹夜続きだった為、結構、その――匂いが籠っていた筈だ。勿論隙を見てシャワーを浴びたり着替えてはいるが、制服の類は三徹の間に一度か二度替えた記憶しかない。それを想うと、かっと羞恥で頬が赤く染まった。

 

「………」

 

 ヒナは暫く無言で佇み、平常心を取り戻す。そして今目の前で寝入っている先生を起こすべきかどうか逡巡した。本当ならばこのままゆっくり眠らせておきたい、しかしせめてちゃんとした所で横になって貰わないと、起きた時に身体が悲鳴を上げる事になるだろう。ましてや先生は常日頃から横になって眠る事の方が少ないのだから。

 

「先生、先生、起きて……」

「ぅ――……」

 

 そっと優しく、先生の肩を揺り動かして声を掛ける。しかしヒナの声に反応はするものの、余程疲労が溜まっていたのか起きる気配は微塵もない。暫く声を掛け続けても先生が目を覚ます事は無く、ヒナは彼を起こす事を諦めた。

 

「仕方ない、せめてそこのソファに移して……よいしょ、っと」

「ん――……」

 

 起きないのなら勝手に運ぶまで、幸いにしてキヴォトスの生徒からすれば先生を持ち運ぶ程度は朝飯前。ヒナは寝入っている先生を軽く持ち上げお姫様抱っこすると、そのままオフィスの来客用ソファへと運んだ。本当はベッドの方が好ましいが、少なくとも椅子で寝入るよりはマシだろう。先生をソファに横たわらせ、自身の外套を回収しつつ代わりに先生の外套を布団代わりに被せる。

 

「――これで良し」

 

 先生を起こす事無くソファに移したヒナはほっと安堵の一息。そして今尚眠り続ける

 先生の傍に屈みこみ、じっとその寝顔を観察した。

 

「………」

 

 先生の顔には大小様々な傷がある。特に起きている間もずっと閉じられた右目は、もう二度と光を映す事はない。ほんの僅かに変色した皮膚は、それ自体がメイクか何かである事をヒナは知っていた。先生は生徒に凄惨な傷痕を見せない為に普段は何らかの形で傷跡を隠している。

 それは人の皮膚を模した薄い膜であったり、指先を覆うハーフグローブであったり、夏場でも頑なに緩めない胸元であったり。

 

 エデン条約で起きた襲撃以降、先生は様々なものを失った様に思う。それを隠す様な素振りを見る度に、ヒナはあの時に抱いた自身への強い失望と後悔を思い出す。

 けれど今こうして眠る先生の表情は余りにも穏やかで、何の憂いも心配もなく、ヒナは思わずと云った風に呟いた。

 

「――いつもこんな風に、貴方が安らかであれば良いのに」

 

 それは願望であり、祈りだ。

 先生が穏やかで、何の不安も、傷付く事も無く過ごせる世界。こんな風に日常の中で、あどけない寝顔を晒す事が出来る毎日。彼女はそれを強く望んでいる。

 ヒナはそっと手を伸ばし、先生の頬を撫でつける。

 その表情には内に秘めた強い決意が滲み出ていた。

 

「大丈夫、今度こそ――」

 

 そう、今度こそ。

 

「私が守るから」

 

 ■

 

 ――例え、何を犠牲にしたとしても。

 

 ■

 

「っ――?」

 

 一瞬、ヒナは顔を顰めた。

 それは額を奔った痛み、同時に耳へと届いた幻聴の為だった。

 視界に過った暗闇、深く何かを憂い、決意し、罅割れた声。ヒナは額を抑えながら声を漏らす。

 

「……今、何か」

 

 聞こえた、様な。

 けれどそれは本当に一瞬の事で、以降ヒナの額に痛みが齎される事も、誰かの声が聞こえて来る事もない。緩く首を振ったヒナは深い溜息を零し、肩を落とす。

 

「駄目、疲れているのね……」

 

 無理もない、ここ数日は正に激務続きで睡眠は勿論、碌な休憩時間も取れていなかったのだから。ヒナは再度先生の寝顔を一瞥し、それから思い悩む素振りを見せる。

 

「――ちょっと位、良いよね」

 

 自身の中に在った天使と悪魔、しかし今だけは互いに意見を揃え硬い握手を交わしている。ヒナは自分の外套をテーブルに放ると、いそいそと先生の懐に潜り込み蹲る。小柄なヒナはソファの殆どを占領せず、先生の横合いで添い寝するだけの余裕があった。

 

「……ふふっ」

 

 先生の懐に潜り込むと、思わず忍び笑いが漏れた。

 先生の体温は自分と比べると随分と低い。先生の腕を引っ張って自身に被せると、ぬるい人肌が布越しに感じられた。少しばかり体温の高い自分にとっては、丁度良い位だ。ヒナは先生の胸元に顔を埋め、そのまま静かに瞼を落とす。

 疲労し切った肉体と精神は先生に包まれ、いとも簡単に睡魔に屈する。うつらうつらと船を漕ぎながらヒナは先生の衣服を掴み、そのままゆっくりと眠りに落ちた。

 

「……おやすみ、先生」

 


 

 次話で逞しく生きる現世界線のスクワッドと、サオリに撃ち殺された先生に「痛いの、痛いの、飛んでいけ……」する別世界線ヒナちゃん書きたいですわね。

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