ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告感謝ですわ!
祝アニメ化! アニメ見ていたら日付超えちゃいましたわ……。


彼女にとっての美食

 

「答えて下さい、先生」

「………」

 

 投げかけられた問い掛け、それは余りにも直截的で、だからこそ言葉を捏ね繰り回すだけの余地が存在しない。

 自身を真っ直ぐ見つめるアカリの瞳から逃れるように、先生の視線が揺らめく。戸惑い、逡巡、苦悩――それでも尚、口元は変わることなく断固として結ばれていた。

 僅かに感じ取れる身動ぎ、それを自身から逃れようとしていると誤解したアカリはより一層表情を険しくさせ、思わず詰め寄り叫んだ。

 

「ッ、逃げないで下さい、悲しくなるじゃないですかッ!」

 

 絶叫は彼女の身体に不要な力みを生み、普段先生に接する時よりもずっと強い力が働いた。それを支えるだけの余力が先生には無く、半ば押し倒される様な形で二人は地面に縺れ込む。咄嗟に手を伸ばした先生の指先がテーブルに引っ掛かり、ひっくり返った椅子がけたたましい音を鳴らす。縁に沿って並べられていた幾つかの料理が地面に落下し、その中身を床に零した。

 だがアカリは零れたそれらに見向きもしない、普段の彼女からは考えられない程激昂に染まった声色で、再度先生に詰め寄る。

 

「答えて下さいッ! 先生! 今、すぐにッ!」

 

 地面に押し倒された先生は口を結び、苦し気な表情を浮かべていた。それが自身の痛みによって齎されているものではないと、アカリは理解していた。視線の先にあるのは生徒(アカリ)、いつだって先生は自身の痛みより他者の痛みに共感する。

 だからこそ心がざわつく。

 苛立つ。

 

「……アカリ」

「そんな、苦しそうな顔をして……ッ!」

 

 至近距離で先生を凝視するアカリは思わず唸る様に云い放った。視界一杯に彼の苦悶に満ちた表情が映る。その表情に滲む色は、感情は何だ? 隠していた事を後ろめたく思っているのか? それとも自身がこうして怒り狂っている事に関して申し訳なく思っているのか? 不甲斐ない自分を責めているのか? ――アカリには分からない、だが自身の行動が間違っている事だけは理解している。

 今にも消え入りそうな声で、先生はぽつりと声を漏らす。

 

「……ごめん、本当にごめん」

「謝る位なら、全部話して下さいよ……っ!」

 

 先生の声を聞きながら、アカリは思考の片隅で思う。

 何故、先生が謝る必要があるのだ。

 望んで喪った訳ではないだろう。

 自ら手放した訳ではないだろう。

 こうして先生に詰め寄る事自体が間違いなのだ、先生にその責任はない。だと云うのに取り乱し、癇癪を起し、子どもの様に駄々を捏ねるのはどうにも耐え切れないからだった。

 アカリの両腕が先生の肩を押さえつけ、絞り出すような声が漏れる。見上げる先生は今にも泣き出しそうなアカリの表情を見て、固く結んでいた口を漸く開いた。

 

「……全部、無くなってしまった訳じゃないんだよ」

 

 ぽつりと、ぽつりと。

 

「ただ、かなり鈍ってしまったのは事実だ、以前の半分、いや、もっとかな――元からそこまで味に繊細な舌のつもりはないけれど……大分、分かり辛くはなっているかもしれない」

 

 自身の唇に指先を這わせながら、先生は目を閉じる。

 

「いつからですか、いつからそんな――」

「……気付いたのは、つい最近なんだ」

 

 嘘じゃない。

 そう言葉を重ねながら、先生は自身の行動を思い返す。

 

「病院食は元々味が薄かったし、私も普段栄養食で済ませてしまっていたから、気付くのが遅れた、ただ違和感を抱いたのは……」

 

 脳裏に浮かぶのは、放課後スイーツ部と共に過ごしたひと時。

 あの瞬間、自身は明確に肉体の異変に気付き、戸惑った。同時に、「あぁ、遂に来たのか」とも思った。寧ろ明確な異常が今の今まで表面化しなかった事に感謝したい位だった。

 

「最近甘味を食べる機会があってね、口にした時――想像していたよりもずっと、甘さが無かったんだ、砂を噛むとまでは云わないけれど、はっきりと分かる程度には」

「………」

「ごめん、私はアカリの作ってくれた料理を、不誠実な形で――」

「そんな事は、どうだって良いんです」

 

 ぎゅっと、先生の肩を掴むアカリの両手に力が籠る。それは先生に明確な痛みを齎したが、彼は声ひとつ上げる事無く受け入れた。

 見上げるアカリの瞳、それが大きく揺らいでいるのが分かる。湧き上がる感情を処理し切れず、綯交ぜになった色が喉元までせり上がっていた。それを必死に制御しようと、押さえつけようと、彼女は唇を噛んで唸りを上げる。くしゃりと、自身の髪を握った彼女は髪が崩れるのも厭わずに喉を震わせた。口から零れたのは乾き切り、震えた笑い声だった。

 

「は、はは――よりに、よりによって、味覚ですか……? こんな、こんな狙い澄ました様に……? 先生と一緒にご飯を食べるのは、幸福で、素敵な事で……ただ、それだけが、それだけで、良かったのに」

「………」

 

 アカリにとって美食とは唯一無二だ、代えの利かない存在だ。

 そしてそれを分かち合えるというのは、大変素晴らしい事なのだ。

 ましてやそれが大切な存在ともなれば――正に至高だろう。

 ハルナがいつか口にしたように、真の美食とは料理のみで完結するものではない。

 

 けれどそれ(至高の美食)が今、自身の手から零れ落ちようとしている。

 

「何故そんな事になったのですか? 味覚が喪われるなんて、そんな――」

 

 口にして、アカリは内心で自身を嘲笑った――そんな事、考えるまでもないと。

 味覚が感じられなくなるなど、到底普通の事ではない。食生活による亜鉛欠乏、口腔疾患、何らかの合併症、薬の副作用、心因性のもの、味覚障害に至る過程は幾つもある。だが何より、最も分かり易い原因が一つあるではないか。

 先生を見ろ、喪われた片目に、潰された片腕――何よりも明確な証拠がそこにはある。

 そも、生きている事自体が奇跡だと云ったのは誰だったか。

 

「ッ!」

 

 歯を食い縛り、一滴の涙を零したアカリはキッと先生を睨み付けながら叫ぶ。その傷の向こうに見える怨敵の姿、其処には彼女にすら制御不可能な強烈な憎悪だけが込められていた。

 

「やっぱりあの時、ヘイローを破壊しておけば良かっ――ッ!」

「アカリ!」

 

 ぐわんと、食堂全体に二人の声が響いた。先生が声を荒げ、アカリの声を遮る。それは彼らしくない、荒々しい口調だった。彼女の声を遮ったのは他でもない、その言葉をそれ以上口に出して欲しくなかったからだ。

 顔を歪めたアカリが口を噤み、先生は努めて冷静に、しかしハッキリとした口調で断じる。

 

「それ以上は云って欲しくない、私はそれ(報復)を望まない……!」

「っ、ですが――!」

 

 先生であればそう口にするだろう、知っていた事だ、理解していた筈だ。

 でも、けれど――呑み込もうとすればするほど、堪え切れない激情が腹の底から沸々と湧き上がって来る。苦悶に歪むアカリの表情、彼女は先生を押し倒した格好のまま縋る様に呟いた。

 

「――ねぇ先生、分かりますか? 食べる事って、生きる上で最も重要ですよね? それを誰かと分かち合える事って、とっても素敵で、素晴らしい事だと、私は思うんです……!」

 

 アカリはそう強く思う。生きる事で一番重要な事を、誰かと分け合える事、大切な人と共有出来る事。それはとても素晴らしい事で、素敵な事の筈だ。

 けれど――。

 

「でも、先生とはそれがもう出来ない、出来ないかもしれない……! 一番大切なのに! 一番一緒に食べたいのにッ!」

 

 その一番重要な事を、一番大切な人と分け合う事が出来ない。出来なくなるかもしれない。それは今まで探していたアカリにとっての美食、その断絶を暗に示していた。

 その絶望感たるやどうか、正に地獄と称して相違ない。傷付き、苦悩し、その上自身の求めていた唯一すら奪われる。

 アカリは両腕で先生の肩を掴みながら、蹲る様に先生の胸元へと額を擦りつけた。ポロポロと零れ落ちる涙が先生の衣服を濡らし、その心を軋ませる。硬質的な角が、先生の肌を引っ掻いていた。

 

「こんな事ってありますか!? こんな事、許せますかッ!?」

「アカリ……!」

「目を片方喪って、左腕まで無くなって、その上美食(味覚)まで――ッ! どれだけ奪えば気が済むんですかッ!?」

 

 先生は――目の前の大人は奪われてばかりだ。だと云うのに、当人は奪ったものに罰を与えない。復讐する事をしない。笑顔で全てを受け入れる。

 

 アカリはそれが――その優しさが、腹の底から気に入らない。

 

「次は、この次は何ですか!? (聴覚)ですか? (嗅覚)ですか? それとも足でも動かなくなりますか? まだ底があるんですか!? これよりもっと、酷くなるんですか!?」

 

 叫び、アカリは見開いた瞳で先生を凝視する。

 優しさを与える者は限られた存在で良い。

 欲を云えば自分だけで良い、先生と生徒の立場などどうでも良いのだ。

 先生が生徒を大切に思う事は普通か? アカリは普通が好きではない――特別こそを、彼女は好む。

 それは浅ましい欲望、恥ずべき事だろうと内に秘めていた感情。

 彼女はそれを吐露する、錯乱していると云っても良い。だからこそ彼女は奥の奥に秘めていた、それに手を掛ける。

 アカリの指先が、ゆっくりと先生の頸へと伸びていた。

 

「これ以上喪う位なら――」

「――ッ!」

 

 自身の特別が、永遠に失われてしまうのなら。

 

「いっそ私が、先生の全部を……ッ!」

 

 アカリの指差が先生の首元に掛かり、その指先が緩く握られる。難しい事は無い、軽く締め上げれば先生の意識を奪う事など造作もない。そしてそのまま連れ去り、誰も知らない場所で共に過ごす事だって出来る筈だ。

 

 先生(自分の大事)が奪われる位なら――誰にも気づかれず、傷付かないように、自身が閉じ込め、奪ってしまおうか。

 

「――っ」

 

 そんな激情に突き動かされたアカリは、一瞬間を置いて息を呑んだ。それは見下ろした先生の表情が苦悶でも、怒りでもなく――唯々、悲壮に染まっていたからだ。

 彼の表情を正確に表現する術をアカリは持たない、だが酷く追い詰められている事だけは分かった。一杯一杯で、言葉を脳裏に巡らせ、あらゆる物事を想定しているのだろう。だがそれを口にする事も、抵抗する事も無く、ただ悲し気に自身を見る先生を目にした時――アカリは急激に感情が引っ込み、代わりに自身に対する失望が広がって行くのを実感した。

 

 ――自分は今、何をしようとしたのだ?

 

 思わず腰を上げ、そのまま背後へと尻餅をつく。そのまま呆然と先生の喉元へと掛けた両手を見下ろし、沈黙した。

 先生は自身の喉を撫でつけながら、ゆっくりと身を起こす。何かを口にしようとする先生に対し、アカリは無言で手を翳した。

 今は、今だけは何も云って欲しくなかった。

 

「――……今日は、もう帰って下さい、片付けは、私がやっておきますから」

「アカリ……」

「じゃないと、私、きっと先生に――」

 

 それ以上は言葉にならない、掻き消えるようにして呑み込まれる声。

 先生は何事かを口にしようとして、二度、三度息を吐く。しかし結局それ以上言葉を重ねる事無く、沈痛な面持ちで立ち上がると近場の倒れた椅子だけを整え、外套を身に纏った。

 

「……今日はありがとうね、アカリ」

「………」

「出来れば、また食事を一緒にしたい、まだ暫く猶予はある筈だから」

 

 それは一体どんな表情で放たれた言葉なのか。俯き、先生から顔を逸らしたアカリには分からない。ただコツコツと離れていく足音を前にして、アカリは焦燥感に駆られる。何か、何か伝えなくちゃいけないと思った。こんな別れは嫌だと、強烈にそう感じたのだ。

 

「――お料理の味付け」

 

 先生の足音が止まる。

 アカリは先生に視線を向けず、俯いたまま呟いた。

 

「次は……濃い目の所を、探しておきます、先生」

「――ありがとう」

 

 抑揚はなく、素っ気ない言葉。けれど先生は柔らかく、穏やかに礼を告げる。そのまま先生の足音は遠くへ消え、食堂にはアカリだけが残された。

 彼女は暫くの間座り込んだまま項垂れ、動く事が出来なかった。漸く落ち着いた頃、覚束ない足取りで立ち上がったアカリはそのまま傍の壁に寄り掛る。

 

「ッ!」

 

 そして徐に顔を上げると、全力で壁を殴りつけた。振り抜かれた拳は壁に埋まり込み、周辺に亀裂が走る。憤怒と共に振るわれたそれは常の数倍近い膂力を発揮し、パラパラと欠片が足元に飛び散った。罅割れた壁を睨み付けながら浅い息を繰り返すアカリ、今にも射殺(いころ)さんとばかりに絞られた眼光が思い描く対象は、ただひとつ。

 

「――ほんと、頭に来ますねッ……!」

 

 幻影は、何時までも彼女を蝕んでいた。

 

 ■

 

「――……失敗しちゃったな」

 

 食堂を出て直ぐ、すっかり夜に包まれた空を見上げながら先生は力なく呟いた。数歩覚束ない足取りで歩むと、そのままズルズルと壁に肩を預ける。今は真っ直ぐ歩くだけの気力もなかった。空いた右手は首元を摩り、握り締められた感触を思い返す。

 深く息を吸い、吐き出すと僅かに白く濁った――最近の夜は良く冷える、もう冬が近い。

 

「アロナ」

『先生……』

「ごめん、情けない所を見せちゃったね」

 

 懐に差し込んだままのシッテムの箱、それに声を掛ければ画面が点灯しアロナの声が耳に届く。どうやらかなり心配を掛けた様で、ずっと裏で待機していてくれたらしい。先生は懐を摩る様にしてシッテムの箱に触れると、静かに声を落とし問うた。

 

「ねぇアロナ、私の身体は――」

 

 ――本当に半年、命を繋げるのだろうか。

 

 口にして、思わず言葉を呑む。

 それは真実を知る事を躊躇ったからか、或いはただ言葉に詰まっただけか。先生の意図を見透かしたアロナは僅かな逡巡を経て、恐る恐る声を響かせた。

 

『残念ですが……初期の頃から比較して、少しずつですけれど確実に機能は落ちています、固定化した直後はまだ補完の影響が出ていませんでした――しかし私が先生の補完、生命維持を開始して既に二ヶ月以上が経過しています、何らかの不具合が表面化しても、おかしくはありません』

「……元々死体だったものを動かしている様なものだからね、そう考えればこうしてモノを考えられるだけ儲けもの、か」

 

 苦笑し、先生は目を伏せる。

 穴だらけの肉体(既に息絶えた骸)を、代用品(シッテムの箱)によって補い繋ぐ生――補完による肉体、その生命維持限界点は近付きつつある。

 それは納得の出来る話であった。

 元より覚悟の上、少しずつ死に近づいて行く事を理解した上で為した事。

 しかし、いざこうして問題に直面すると、何とも云えない哀愁の念が胸中に湧き上がる。それは自身の肉体や命に対する執着ではない、それを喪った事により生徒を悲しませ、そして彼女達と共に世界を感じる事が出来なくなると云う寂しさから来るものだった。

 

『触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚――正直、最初にどの感覚が消えてしまうかは私にも、ただこれから全ての機能が少しずつ衰えていくのだと思います』

「代償を支払わずとも、少しずつ体は機能を喪っていくか」

『……はい』

 

 機能の消失は避けられない――もし、そうであるのならば。

 考え、先生は壁に寄り掛ったまま彼女に提案を口にする。

 

「アロナ、無茶を云っている自覚はあるのだけれど、何とか感覚消失の順をコントロールする事は出来ないかな?」

『コントロール、ですか――?』

「うん、可能ならば視覚と聴覚は最後まで残したい」

 

 五感全てを失う事は避けられずとも、その順番が変えられるのならば当面大きな問題にはならない。出来れば味覚も残しておきたいが――そもそも可能か知るのが先決だろう。

 

「もし他の感覚を犠牲に、残りを少しでも残せるのなら、やって欲しい」

『それは……』

 

 アロナは思わず云い淀む。正直難しい提案であったが、恐らくやろうと思えば――可能だった。

 アロナの持つ演算能力を一方に偏らせる事で一部の感覚を長く残す事は出来る。しかしそれは、他の五感が急速に消失する結果を生む筈だ。

 

「味覚の消失が始まったのは最近だった、完全に喪ってしまう前に何とかしたい」

『……分かりました、出来得る限りやってはみます、ですが先生、消失を完全に防ぐ事は――』

「うん、分かっている、時間の猶予を少しでも増やしてくれるだけで良い……ごめんね、いつも無茶な事を頼んで」

『……いいえ』

 

 先生の言葉にアロナは教室の中で緩く首を振った。如何にアロナが凄まじい性能を誇る存在であろうと、最終的な五感の消失は避けられない。それは先生が補完された瞬間から決まっていた事だった。

 

『先生、残す順番は――』

「嗅覚から消失させて欲しい、そこから触覚、味覚、聴覚、最後に視覚かな……出来れば味覚も、ほんの僅かでも良いんだ、視覚と聴覚を多少でも削って残せるのなら、残してくれると嬉しい」

 

 ――生徒達と喜び(美食)を分かち合えないのは辛い事だからね。

 

 それが誰を、何を想っての選択なのかは理解していた。生徒(子ども)を切り捨てる事が出来ない大人は、自身を少しずつ、少しずつ切り捨て、削っていく。アロナはそんな先生を見上げながら無言で頷きを返した。

 これより先生の選択した感覚は急激に衰え、消えていくだろう。しかし残った感覚は今暫し時を稼げる筈だ。

 

 ――もう少しで冬が来る。

 

 冬が近い夜空は綺麗だった、澄んだ星々に月、混じり気の無い空気は肺を満たし清々しい気分になれる。先生は暫し無言で壁に寄り掛り、夜空を見上げていた。

 

『先生』

「………」

『分かっているとは思いますが、私の演算で導き出された時間(余命)は先生が代償を支払わず(大人のカードを使わず)、一切の外傷や病気を患わなかった場合のみです』

「……うん」

『……無茶を繰り返せばその分だけ先生の肉体は消耗していきます』

「……分かっているよ」

 

 そうだ、良く分かっている。

 自身に残された(時間)はそう多くない。

 

『アリウスで行った、大規模な力の行使ともなれば……恐らく、一度が限界です』

「二度目はない、か」

『……はい、直ぐに生命活動が停止する事はないと思いますが、もし二度目を行使してしまえば、確実に――』

 

 ――二回目の奇跡は、確実に先生と云う存在と引き換えになる。

 

 現状の肉体、先生の生命維持を担当するアロナの見解は重々しい響きを伴った。先生は口を固く結びながら、ゆっくりと頷いて見せる。

 

「分かった、肝に銘じておくとも」

 

 呟き、目を瞑る。

 

 雪が降り、年が明け、寒さを乗り越えた先に芽吹きがある。

 花が咲き、桜が咲く頃――そうして漸く、先生はキヴォトスにて一年を迎える。

 けれど、その頃には既に、自身の身体は朽ちているだろう。

 予感がある――きっと自分は生徒と共に桜を仰ぐ事は出来ない。

 仮に生き残れたとしても、それは緩やかに死に往く骸に過ぎないのだ。

 だが、それでも。

 

「――やり遂げるとも」

 

 私が私である限り。

 

 シッテムの箱を懐に感じながら、先生はゆっくりと自身の足で立ち上がり、夜道を歩き出す。

 ポツポツと等間隔で並ぶ街灯、その光を縫う様に先生の背中は暗闇の中へと消えて行き――やがて解けて消えるように、見えなくなった。

 

 ■

 

「アカリ、片付け手伝いに来たわよ~……」

 

 気の抜けた声を発し、ゆっくりと食堂へ続く両開きの扉を押し開くフウカ。第十三学生食堂はフウカの普段使いしている厨房からやや遠く、今日の分の仕事を全て片付けてから立ち寄った為、それなりに遅い時間になってしまった。

 もうこんな時間だと、先生は既に帰ってしまっているだろうが、念の為様子を見に来た彼女。給食部の部長としての気真面目さが伺えるというもの。

 

「って、なにこれ!?」

「………」

 

 果たしてフウカは、食堂に入った瞬間目に飛び込んで来た光景に思わず悲鳴染みた声を漏らした。

 倒れた幾つかの椅子に、零れ落ちた料理の数々。何より壁に走った罅と、拳大の穴。一体何があったのだと戦々恐々とする。

 確か今日は此処で先生と食事会だった筈だと慌てて先生の姿を探すも――彼の姿は何処にも無い。代わりに椅子に座り、項垂れるようにして微動だにしないアカリの姿があった。フウカはテーブルに並ぶ冷めきった料理を一瞥しながら、不安げな面持ちで彼女に駆け寄る。

 

「ちょっと、これどうしたのよ? 床に料理が零れちゃっているし、壁に穴まで空いているし……」

「――……転んだんです」

 

 そこらの一般生徒がスラムの不良とそう大差ないゲヘナに於いて、銃撃戦など実にありふれたものだが、先生が巻き込まれるとなると少々話が変わって来る。ゲヘナに於いても先生の近辺、或いは校舎周辺に先生が滞在している状態での戦闘行為は厳罰化されており、風紀委員会と万魔殿の両組織、加えて懲戒委員会や救急医学部等もこれに賛同している。その為、基本的に先生がゲヘナに滞在している間、中央区画、校舎周辺で銃撃戦など滅多に起きない筈だが――それでもあり得ないと云い切れないところが実にゲヘナらしい。

 何か戦闘でもあったのかと訝しむフウカに、アカリは淡々とした口調で告げた。

 問い掛けに答える声色は余りにも無機質で、色が抜け落ちていた。

 

「壁に手を突いた拍子に、壊しちゃいました」

「……壊しちゃったって、そんな簡単に壊れる訳――」

「壊れたんです」

 

 遮る様に放たれたそれに、フウカは思わずたじろいだ。それ以上踏み込んで来るなと云わんばかりの強い語気だった。しかし、それで気後れする様であれば、そもそもゲヘナの給食部の部長など務まらない。一瞬気圧されたフウカであったが肩にぐっと力を籠め、重ねて問いかける。

 

「何かあったの……?」

 

 明らかに、いつもの彼女とは様子が異なっている。彼女の知る鰐渕アカリという生徒は滅茶苦茶で、飄々としていて、それでいて底知れない妖しさと破天荒さを持ち合わせた生徒だ。

 他自治区と比較すると頭の螺子が数本外れていると称されるゲヘナに於いて、更に一等ヤバい存在と称される美食研究会の一員――そんな彼女が、こんな風に力なく項垂れている姿など想像もしていなかった。

 

 尚も言葉を重ねるフウカに対し、ぴくりと反応を見せるアカリ。その落とされていた視線がゆっくりとフウカを一瞥する。普段と同じ瞳の色、しかし明確に異なる点が存在する。心なしかその目元は赤く、腫れているように見えた。だがその内心を悟らせる事無く、一度深呼吸を行ったアカリは緩く首を振った。

 

「……いえ、ちょっと椅子に躓いて料理を零してしまって、うっかりですね、ごめんなさいフウカさん、折角協力して頂いたのに」

「それは別に、良いけれど……」

 

 本当に、らしくない。

 料理を粗末に扱う事はしない、それは彼女のポリシーに反する。無論、彼女が意図してこの様な真似をするとは思っていない、恐らくうっかりミスで零してしまったというのは嘘でも何でもないのだろう。しかし、それ以外の部分で彼女は何かを隠しているのだとフウカは感じた。そもそも普段何十人前をぺろりと完食し、どれだけの量であっても余裕で胃袋に収める彼女が作った料理を残している時点で異常なのだ。

 フウカはアカリをじっと凝視しながら、顔を顰める。

 

「――本当に何もなかったのね?」

「ふふっ……えぇ、先生と楽しくお食事会をしただけですから☆ 少し楽しすぎて、張り切ってしまったんですよ!」

 

 度々繰り返されるフウカの切実な問いかけに、アカリは溌剌とした笑みを浮かべて頷く。その表情、身振り手振りはいつもの彼女そのもので、浮かんだ笑顔は余りにも綺麗だった。

 

「フウカさん、何もありませんでしたよ――本当に」

「……そう」

 

 少なくとも、本人はそういう事にしたがっている。フウカは天井を見上げて息を吸い込むと、自身の意識を切り替えるように二度、三度、額を揉み解した。そして再びアカリへと視線を戻した時、そこにはもう不安や疑念の色はサッパリ消えて無くなっている。

 

「――なら後片付けをしましょう、テーブルの残り物はラップをして冷蔵庫に、床も掃除して、皿洗いも沢山しなきゃいけないし」

「……えぇ、そうですね☆」

 

 やるべき事は沢山ある、まずは床に散らばった料理を片付け、モップ掛け。テーブルに残った料理にはラップをして冷蔵庫に保管――いつものアカリならばものの五分程度でぺろりと食べてしまえそうな量だが、恐らく彼女の事だ、明日の朝にでも全て食べきってしまう事だろう。

 それを終えたら食器洗い、壁の破損については事故という事でフウカが後々修繕申請を出す事となった。アカリは自身でどうにかすると口にしたが、いつも襲撃されている給食部である、食堂で給食の取り合いになり銃撃戦、壁が穴だらけに――何て事は日常茶飯事なので、手慣れた自分が申請した方が良いとフウカが云って突っ撥ねた。

 どうせ万魔殿の事だ、いつ何処で誰がどうして、なんて詳細を書かずとも申請は通るだろう。何せ申請数が余りにも膨大なのだから。ゲヘナでは毎日、どこかしらで壁やら天井が破壊される。

 

「と云うか、態々手伝いに来てくれるなんて思っていませんでした」

 

 二人肩を寄せ合って食器を洗う中、ふとアカリはそんな言葉を漏らした。てっきりフウカは自分達美食研究会を好意的に見ていないと思っていたが、まさかこんな風に手助けしてくれるなんて。

 アカリがそう言葉を漏らすと、フウカはいつも通りの呆れた視線を寄越し、溜息交じりに答えた。

 

「学園の厨房は基本的に給食部の管轄だから、洗い物を放置されると私達が後で大変なの、此処の食堂もいつ使われるか分からないし」

「ふふっ、そんな事はしませんよ~?」

「まぁ、後片付け含め食事に関する事で疑ったりはしないけれど……でもアカリって潔癖症でしょう?」

「あら、お皿洗い位なら全然平気ですし、そこまで酷いものでもありません、日常生活に差し障りない程度には☆」

 

 泡に包まれた両手を広げ、アカリはにかっとした笑顔で答える。いつも彼女の両手を包んでいたシルクの手袋はポケットからはみ出し、顔を覗かせていた。

 

「……ねぇ、フウカさん」

「何よ?」

 

 黙々と手際良く食器を洗い続けるフウカ、そんな彼女を横目に丁寧に一枚一枚汚れを拭っていくアカリは、落ち着いた声を漏らす。

 

「――もし、自身の求める至上の喜びを、分かち合う事が出来ない、大切な人が居るとしたら」

 

 もし、そんな未来が存在するのなら。

 声を切り云い淀むアカリ。低く、乾き切った声。そこに込められたのは深い失望と虚しさ、それは自身に向けられたものか、相手に向けられたものか。

 フウカが目を瞬かせながらアカリを見れば、真剣な面持ちで自身の手元を見下ろしていた彼女は、不意に表情を緩めて云った。

 

「……いえ、何でもありません☆」

「――?」

 

 要領を得ない、今のフウカには理解出来ない言葉、無意味な問いかけであるとアカリ自身分かっていた。何せ自分達の答えがどんなものであっても、特別な人の振る舞いはきっと決まっているのだ。

 恐らく、それでも彼は。

 

「それでもきっと、笑顔で頬張ってくれるのでしょうから」

 


 

【後日の美食研究会】

 

「――……あら?」

 

 先生との食事会から数日後。

 ゲヘナ自治区本校舎――空き教室。

 いつものように街へと繰り出し、現地で出来立てを食しつつ気に入った食品をテイクアウトした美食研究会の面々。机を彩る様々な料理を堪能する中、ふとハルナが疑問の声を上げた。

 

「もごもご」

「ん――どうしたのハルナ?」

「いえ、大した事ではないのですが……」

 

 イズミは両手一杯に料理を掴み、ジュンコも負けじと屋台で買い込んだ焼き鳥を口に放る。そんな中疑問符を浮かべるハルナに対し、ジュンコは首を傾げながら問いかけた。ハルナは緩く首を振りつつ、手にした料理を眺める。ジュンコが買い込んだやきとり屋、その隣にあった焼きそばだ。値段もリーズナブルで、パック一杯に詰め込んだ割に味も中々どうして悪くない。満場一致で爆破を逃れた屋台であったが、確かこれは――アカリが買い込んだ料理であったと思い出す。

 

「アカリさん、少々お伺いしたいのですが」

「ん~? どうしたんですか、ハルナさん?」

 

 皆の隣でお好み焼きを頬張るアカリ、机にはソースやマヨネーズ、調味料の類がずらりと並んでいる。各々が好みの味、或いは新しい美食を探求する為に用意したそれは何も珍しい光景でもない。尤も一番良く使うのはイズミなのだが――今回は珍しくアカリが独占している。

 

「このお料理もそうですが、アカリさんの購入したもの全般、私の気のせいでなければ……全体的に少し、お味が濃くありませんか?」

 

 ハルナは手にした焼きそばを軽く持ち上げなら問いかける。その口調は軽く、ちょっとした疑問を訪ねる様な抑揚であった。

 

「ん、そう? 別にそんな気になる程じゃないけれど」

「もごっ、全然おいしーよ?」

「えぇ、これはこれで美味しく頂けるのは確かなのですが……」

 

 イズミとジュンコの二人は特に違和感を覚える事無く食事をしていたが、余り量を食べる事無く、特に繊細な舌を持つハルナは気になったらしい。アカリはそんな彼女の問い掛けに飄々とした態度のまま薄らと笑みを浮かべた。

 

「ふふっ、そうですね、今回の料理は味が濃い目の物を選びましたので、実は最近味が濃い目で美味しいお店を探しているんです☆」

「あら、そうだったのですか、そういう事なら……濃いお味を探求し始めたのには、何か理由でも?」

「……ん~」

 

 椅子に背を預けたアカリは、手にしていたソースを眺めながら思案する様子を見せる。ハルナからすれば、何か素敵なお料理と出会い、濃い味を求め始めたのか? という美食に関する好奇心からの問い掛けであったが、アカリの様子を見るにどうもそういう感じではないらしい。彼女は手の中でソースの容器をくるりと回すと、どこか茶化す様に片目を瞑って云った。

 

「――今はまだ、内緒という事で!」

 

 溌剌としたアカリの声が教室に響く。

 

「内緒って……どうせまた新しい美食の開拓とか、そういう感じじゃないの? っていうか元々アカリってこういうこってり系とか好きだったじゃん」

「私は美味しければ何でも良いよ~! はむっ!」

「あ、そう云えばアカリってもう先生と食事しに行って来たんでしょう? どうだった? やっぱり高級店とか連れて行って貰ったの?」

「ん~? んふふ……さぁて、どうでしょうか☆」

 

 ジュンコがふと思い出したようにアカリへと尋ねると、アカリは肩を竦めながら手元にあったお好み焼きを次々と口に放る。その様子は正に大食いの女王と云わんばかりで、見ているだけで腹が膨れそうになる程。

 

「ジュンコさん、先生に対しては真摯に、一人一人時間を過ごすという取り決めですからね?」

「わ、分かっているわよ! ただ、ちょっと参考にしようかなって思っただけで――やっぱり私はビュッフェとか、いつもは行けない様な所で一杯食べるのが……えへへっ」

「あ、食べ放題とか良いよね! 普段はゲヘナ中心だけれど、百鬼夜行とか、ミレニアムの方にも美味しいお店があるし、遠出するのも良いかも!」

「そういうハルナはもう決まっている訳? どうせ先生と一緒に行くんだから、普段行けない様な所に行きたいじゃん!」

「私も決まっている訳ではありませんが……そうですね、確かに特別感というものは大事です、普段足を運ばない場所だからこそ得られる美食というものも――」

 

 あそこはどうだ、こっちが良い、それなら此方も。各々が自身の一押しの店名を上げ先生と共に一食を――美食を共にする場所を吟味する。アカリはそんな仲間達の姿を見守りながら、喧騒に紛れるようにしてぽつりと言葉を漏らした。

 

「食事は生きる上で最も重要だと云っても過言ではない、でもそれより重要な事だって世の中には――あるのかな~? ないのかな~?」

 

 小さく笑みを零しながら呟かれた言葉は彼女達に届く事は無い。そも、それは彼女の独り言に過ぎないのだから。恐らく一年前の自分であれば何の躊躇いもなく食事(美食)よりも重要な事など無いと云い切っただろう。

 しかし――今は。

 

 思考し、アカリは無言で口に残った料理を放る。ソースの類をこれでもかと投入し、それなり以上に味を濃くしたそれは、まぁ悪くない。元々薄味より濃い味が好みのアカリからすれば、何枚でも食べられると思う程には。

 しかし、どうにも納得できる味ではなく、口元のソースをハンカチで拭いながら、アカリはぼんやりと呟いた。

 

「やっぱり……何だか、味気ないですね」

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