日付超えてしまいましたが、誤差ですわ誤差!
「ふーッ……」
深く、深く息を吐き出した。
周囲に響き渡るのはけたたましいエンジン音と風音、先生は簡素な椅子に身を預けながらシッテムの箱を指先で叩く。
『先生、目標ポイントまで後一分です、降下準備を……!』
「あぁ、分かっているよ、アロナ」
画面に張り付き、そう告げるアロナに先生は笑みを零す。ミレニアムのエンブレムが刻印されたエリアルビークルは大きな揺れも無く、エリドゥ上空を飛翔しこの身を運ぶ。内装は余りにも簡素であり、壁に備え付けられた展開式の簡易椅子と物資コンテナが幾つか積み込まれているのみ。元々、大人数を運搬する予定では無かったのだろう。恐らくリオとトキの二名が何らかの状況で脱出しなければならなかった場合に備えて――そんな所だろうか。
操縦の一切をアロナに任せている先生は暫しぼうっと機内の天井を見上げる。騒々しい音と振動は本来眠気とは無縁の筈だと云うのに、先生の意識はふとした瞬間に途切れてしまいそうな程、強い眠気に襲われていた。しかし、彼はそれを精神力で以て抑え込む。
カタカタと、音が聞こえた。
振動で何かが内装にぶつかっているのか、そんな事を考えながら先生は不意に視線を落とし、自身の指先が震えている事に気付いた。指先の間に挟んでいた空の注射器がシッテムの箱、その縁とぶつかっている音だった。先生は無言で震える右手を義手で掴み、強引に震えを止める。そして空の注射器を義手で摘まむと、胸ポケットに差し込んだ。
「……まだ、駄目になるには早いよ」
呟きは自身の身体へと向けられたもの。まだ少し、あと少し、最後の大仕事が残っている。
ゆっくりと右腕を掴んでいた義手を離せば、右腕の震えは完全に止まる。しかし爪先程しかなかった黒い皮膚は、いつの間にか第二関節に届き得る程浸食していた。いや、その程度で済んでいる事に安堵すべきだろうか。先生は二度、三度、右手を開閉させ調子を確かめる。感覚は相変わらず鈍い、だが意図した通りに動かせる、ならば十全であった。
腫れあがった左瞼に義手の指先を当てると、ひんやりとした温度が丁度良く感じられる。内部機構が破損しなかったのは僥倖だった。
「――あれか」
振動と共に旋回を行う航空機、内側に備え付けられた窓から見える特徴的なボックス型のエンジン。その向こう側に地面を覆う異形の大群が視界に映った。影は悍ましく蠢きながらエリドゥ外壁へと向かっている。月明かりに照らされ、暗闇と同化するそれは余りにも強い生理的嫌悪感を掻き立てる。先生は僅かに腰を浮かせ、窓枠に手を掛けながら守護者の大群を見下ろし呟いた。
「凄まじい数だ、良くもまぁ此処まで搔き集めたものだと感心してしまうよ、一体廃墟の何処まで掘り返したのだろうね」
『……それだけ、向こうも本気だと云う事なのでしょう』
「そうだね」
その通りだ。
口の中で呟き、先生はシッテムの箱を握り締める。こんな事象は自身の記憶にすら存在しない、連中は余程この場所で決着を付けたいらしい。或いは
『――降下を開始します、先生、気を付けて下さい!』
「分かった」
ぐん、と機体が揺れ肉体を襲う浮遊感、椅子に背を預けながら直ぐ傍の取っ手を握る。機体は徐々に地上へと降下し、地面に照明を当てながらエリドゥ外周、正面ゲート前へと降り立った。
確かな衝撃と尻の下から弾む様な感覚、着陸した事を確認した先生は横合いの端末を操作し、搭乗口を開放する。パネルが点灯すると、先程まで窓のあった場所が一斉に持ち上がり、上部へと格納され外界を晒した。空気の抜ける様な音、同時にひやりとした風が頬を撫でる。
先生が縁に立つと同時、左右に警告灯が表示され、投影装置によりホログラムが足元に広がる。電子音が響き機体下部からタラップが順にせり出し、先生はそれを踏み締め地面へと降りた。
舞い上がる砂塵、ビークルの巻き起こす風に髪を靡かせながら先生はゆっくりと前を見据える。ゲートと航空機外装に装備された照明が一帯を照らしていた。特にゲートに設置された大型のそれは遥か遠くに見える守護者の群れを視界に浮かび上がらせ、微かに立ち昇る砂煙さえはっきりと映している。先生はじっとそれらを見つめる。
「――壮観だな」
地平線より迫り来る無名の守護者、月明かりと照明に照らされたその大群、正面に立った先生は僅かな感嘆を滲ませた声色で云った。其処に恐怖や不安と云った色は見えない、寧ろ口調には安堵さえ滲んでいた様に思う。先生はシッテムの箱を指先で撫でつけながら、穏やかな声で続けた。
「こんな状況だと云うのに、全く悪い気分じゃない……こちらに向かってくる影が生徒達じゃないだけで、こんなにも穏やかな気持ちでいられるなんて――全く、どんな時でも新しい発見があるものだね」
『……先生』
襲来する守護者の影を前に、微笑みさえ浮かべる先生。立ち塞がる必要があった、自ら命を捨てる事を強いられた状況と比べれは――今の何と心穏やかな事か。
本来寄り添わなければならない彼女達の前に立つ、定められた運命を覆す苦肉の策とは云え、それを為す自身の心は常に罪悪と苦痛に苛まれていた。それを考えれば、目の前の影の何と無機質な事か。
内から湧き上がる色を噛み締めながら、先生はゆっくりと感情を切り替える。
そろそろ、時間だった。
「アロナ、準備を頼む」
『――……はい』
暗闇の中で淡く光る画面の中、アロナが小さく頷いて見せる。
何の――とは口にする必要が無かった。
この場にこうして立つ事が何を意味しているのか、分からない彼女ではない。故に佇む先生を僅かな間見上げ、アロナは画面の奥へと姿を隠す。表示されるシッテムの箱、そのOSロゴを見つめ、先生は腹に力を籠める。
「さて――」
息を吐き出し、先生は夜空を見上げた。
照明に背を照らされた先生の影は長く伸び、遥か遠くの暗がりと同化している。その影が微かに蠢き、歪んでいる事に彼は気付いていた。暫し、月明りに視界を慣れさせる。そして徐に口を開くと、先生は声を発した。
「――近くに居るのだろう、無名の司祭?」
それは確信を持った問い掛けだった。声が周囲に響き渡り、先生は尚も言葉を続ける。
「裏側に潜もうとも、貴方達の纏う空気は独特に過ぎる」
沈黙――返答はなく、変化は起きず。ただ先生の声だけが僅かな間余韻を残し、薄ぼんやりとした月明かりの中に溶けて消える。
暫し先生はその場に佇み、ずっと何かを待ち続けた。
【――箱の主】
果たして、ソレは来た。
瞬間、あらゆる光を呑み込む深い闇が周囲を包み込む。
星の瞬きすら許さぬ完全な暗黒――急激に世界を浸食するソレは先生を除いた全てを黒く塗り上げ、周囲を完全な虚無へと還す。その中で、薄ぼんやりと浮かび上がる白の輪郭。無貌の面を被った彼らは蜃気楼の如くあやふやな姿を保ち、先生の周囲を取り囲んだ。
全身を白に統一し全く肌を見せない法衣、頭部に被った冠、首元と顔全体を覆う様に巻き付けられた帯。唯一露出した両手さえも白く、顔は無貌の仮面にて覆われ、凡そ個人を特定出来る要素は存在しない。余りにも不気味な姿であると云えた、しかし無個の七人を前にして先生は小揺るぎもしない。彼らが何を望み、何を為す者なのか――良く知っているからこそ。
黒の中に浮かび上がる彼等は先生を凝視したまま、抑揚のない声で以て告げる。
【よもや、この様な形で相まみえようとは】
【実に不可解】
【しかし、問題はない】
先生を中心に円を描き、口々に呟きを漏らす――無名の司祭。
その姿はまるで捉え切れず、薄霧か蜃気楼の如く、しかし存在だけはハッキリと感じ取る事が出来た。朧気でも分かる、自身に注がれる侮蔑と敵対の意志。
先生は微かに周囲を照らすシッテムの箱を抱えながら、彼等と真正面から対峙する。
「……アリスを利用し、
【不敬な、お前にその名を口にする資格はない】
【然様、王女に名は要らぬ】
【元より王女とはそう在る事を望まれ、存在しているのだ】
世界を滅ぼす為に用意され、存在する代物。
故に呼び名と云うのであれば、
彼らは腹の底からそう信じていた。
【彼の存在が玉座に座し、戴冠した瞬間こそ、我らの望んだ終焉は
【手段は問わぬ、如何なる過程を経ようと全ての忘れられた神々に苦しみを、終わりを齎せるのならば、あらゆる道程は肯定される】
【それこそ我らの望み】
――我らの本懐。
彼らは告げ、その両腕を天に掲げる。それは祈り似ていた、しかし渦巻く感情は余りにも昏く、悍ましく、純真とは程遠い。その願いは唯一つ――忘れられた神々に痛みを、苦しみを、破滅を、消滅を。自身が味わったあらゆる絶望と終わりを此処に。
無貌の仮面、その奥底に渦巻く暗闇は彼らの心を表してる。彼らは天を仰いだまま、静かに、しかし確かな悪意を持って断言した。
【これより全ては終焉に繋がる、最早お前に止める事は叶わぬ】
これから始まる
その発端は、既に始まっているのだ。転がり始めた絶望の連鎖を、止められる者など誰も居ないと彼らは告げた。
「――いいや」
だが、先生は否定を口にする。
暗闇の中でも彼の瞳は色褪せず、その場から力強く一歩を踏み出した。正面に浮かび上がる無貌の面を睨み付け、先生は声を張る。
「止めるよ、止めて見せる、他ならぬ私自身が……今、此処で」
【傲慢な】
指先が先生の瞳を指し、幾つかの無貌が彼を睨み付ける様に突き出された。
【崇高も、神秘も、恐怖も持たぬ――唯人の分際で何ができる?】
その声には隠し切れない嘲りが含まれていた。
そうだとも、何も出来はしない、今この場で
「手段は、あるとも」
声は短く端的であった。
シッテムの箱が微かに発光し、青白い光を放つ。その弱々しい光はしかし、先生の指先に灯ると同時、まるで収束するかの様に四角の形を作り出した。その光は矮小で、薄ぼんやりとしており、暗闇を照らすには余りにも心許ない。
しかし、内に秘めたる力は莫大であり、その片鱗を無名の司祭は感じ取っていた。
そうとも、手段はある――唯一にして絶対、不可逆の奇跡を可能とする力が。
淡く輝くそれを目にした無名の司祭は僅かに身を反らし、そう感じてしまった事自体を恥じる様に忌々しいと肩を震わせ、顔を突き出し告げた。
【――
「……あぁ」
重々しく頷きを返す先生。己がこの状況を打破する手段を持っているとすれば、それは一つしかない。
反則には反則を、理外の力には理外の力を――
使用者に、
だが、
その道に、切り開いた暗闇の先に、子ども達の
「――私は、何度だって
先生は想う。腕だろうと、足だろうと、臓物だろうと、五感だろうと――或いは
この肉体が崩れ、灰の一片になるまで己は食い下がる。最後の最後の瞬間まで諦める事はしない。それだけは、決してない。
その覚悟は遠い過去、そして現在に至るまで絶対不変のものとして抱き続けたものだ。
暗闇の中、塞がりかかった瞼の奥で輝く瞳。それを見つめながら、彼等は身を揺らす。
【その様な身体で、虚勢を張る】
「当然だ」
襤褸雑巾の様な状態、傷に塗れた格好で良くもそう啖呵を切れるものだと彼らは嘲笑っていた。しかし先生は真っ向から言葉を返す。
「――私の
私の
その一言が――何よりも無名の司祭達を刺激した。
揺らぐ輪郭がぴたりと動きを止め、その無貌の面が先生を凝視する。その仮面がゆっくりと回転し、まるで真意を測りかねたとばかりに互いを見やる。腹の前で組んだ指先が震え、カタカタと無貌の仮面が音を鳴らしていた。
【
【よもや、
【アレが、お前の
【何たる……!】
震えの原因は明らかだった。暗がりの中で肩を震わせ、俯いた無個の七人――彼らはゆらりと先生に詰め寄ると、その指先を突きつけ怒声を放った。
【驕るな――ッ!】
突き出された指先は先生を四方から囲み、敵意、憎悪、嫌悪、侮蔑、怨恨――あらゆる感情が叩きつけられる。それらは目に見えずとも肌を通じ、四方八方から先生の身体に降り注ぎ、その精神を揺さぶろうとする。目前に迫った無貌の仮面、その伽藍洞の眼孔から覗く暗闇が此方を睨み付けていた。
【アレはお前の知る
【アレは我らが望み、顕現させたもの! 終焉の導、その光であり、絶対の破壊者!】
【アレは観念そのものだ、
【想像界のイマージュ、現実界へと至る為の空虚な象徴、その第一段階――我らが象徴界での記号を得る為に在る、世界を滅亡に導く鍵なのだ!】
「違う」
だが、先生はその言葉に真正面から否を突きつける。無名の司祭が口にする一切の観念、それを先生は認めない――認められない。顔を突き合わせるような形から先生は更に一歩踏み込む、ほんの僅かな隙間さえ埋める様に。互いの額を突き合わせる様な形となりながらも、先生は一歩も退かない。
「アリスはゲームが好きで、RPGが好きで、冒険が好きで、勇者に憧れている、見習い勇者で……」
そうだ、王女等と云う役割ではない。
他人に決められた道ではない。
彼女はアリスで――魔王などではない。
「仲間の為に必死になって、傷付いても立ち上がる勇気を持った、ミレニアムサイエンススクール、ゲーム開発部所属の一年生……!」
拳を握り締め、歯を食い縛って先生は目前の
脳裏に、アリスの笑顔が過った。
ゲーム開発部の皆と遊ぶ姿、多くの友人と共にミレニアムを冒険する姿、必死に日常の中でアイディアを探す姿、全く知らなかった体験に目を輝かせ挑む姿、部費を使い込んでしまって怒られる姿、夜遅くまで遊んで皆と床で寝落ちしてしまう姿、自身の作ったゲームの出来に一喜一憂する姿――彼女はいつだって全力だった。
全力で毎日を楽しみ、その日々を大切に思っていた。
そうだとも。
「――そして今、私の『世界』で苦しんでいる、私の生徒だ!」
【ッ――!】
彼奴等はそれを奪い、
それを先生は、断じて許す訳にはいかない。
遍く
その中には勿論、あの子達だって含まれている。
例外など存在しない、彼女の存在理由なんて、先生からすれば重要ではない。生まれた理由さえも、生まれ持った役割も、関係ない。
彼女が
ならばそれを叶られる様、己は全力で支え、寄り添う。
ただ、それだけ。
それだけだ。
ただその一念のみを持って、先生は無名の司祭と対峙していた。
その意思を瞳から感じ取り、苦渋に塗れた唸りを上げる司祭。
【お前は――ッ!】
「他者に定められた運命なんかじゃない、お前達に定められた
――その真実を、捩じれ歪ませはしない。
先生の掴んだ光――大人のカードが光り輝く。
周囲を淡く照らすばかりであったカードはしかし、その強烈な光で以て辺りを覆っていた暗闇を払う。余りの眩しさに無名の司祭達は退き、その輪郭を更に不安定なものにさせた。
【この、忌々しい光――ッ!】
一歩、二歩、蹈鞴を踏みながら光の中で佇む先生を睨み付ける無貌の七人。闇夜の中で青を照らす光は、暗がりに覆われた世界を塗り替える。
先生は輝きを増す大人のカードをゆっくりと持ち上げ、翳した。
そう、彼女達は何者にだってなれる。
なりたい存在に、望む未来に、彼女達ならば辿り着ける。
故に――。
「その為の
今、
自身の意思で道を選ぶ瞬間、彼女自身で己の在り方を決める時。迷う事もあるかもしれない、苦悩する事だって。
けれど、
だからこそ。
「その邪魔を、させはしないッ!」
――それが、
叫び、先生は大人のカードを空に向け掲げる。
より一層強い輝きを放ち、遍く全てを照らし輝かせるカードは、周囲を覆っていた暗闇の一切を掻き消し世界は元の夜へと還る。
余りの眩さに無名の司祭は忌々しいとばかりに怨嗟の籠った視線で先生を射貫くと、そのまま影の中へと溶けて消える。世界は色を取り戻し、夜空が天を覆う。しかし先生の周辺だけは青が煌めき、昼の眩さが周囲を覆っていた。
切り替わる景色、無名の司祭の代わりに映ったのは迫り来る無名の守護者――彼らと言葉を交わしている間に、随分と接近を許してしまったらしい。後数分もしない内に彼等は此処に到達し、ゲートを破壊しエリドゥ内部へと雪崩れ込むだろう。
無論、それを許しはしない。
大人のカードは幾つもの青白い光を織り交ぜ、直ぐ目前に一つの輪郭を生み出す。僅かずつ形作られるそれを目視しながら、先生は想う。
――失敗した事、過ちもあった、失意の底に呑まれた事だって。
けれど積み重なった過去が、今の自身を此処に運んで来てくれた。その道を先生は否定しない、誰にも否定などさせはしない――その涙に、後悔に、慟哭に、意味はあったのだと、存在全てを賭して証明しなければならない。
自身の過去に、辿って来た道に、慟哭に、苦難に、後悔に、願いに、祈りに――積み上げて来た全てに。
己を裏切らせる事は、決して。
「だから――」
ズズ、と。
カードを掲げた右手、その指先を覆っていた黒が浸食を開始する。不可逆の奇跡、その代償――それは肉体を蝕み、確実に残された時間は削れて行く。
ただ翳すだけでこれなのだ、切り札を切り終えた後、どれ程の影響がこの身に降り注ぐかも不明。鈍り切った痛覚を貫通し、自身の根底そのものを叩く様な痛みと不快感。しかし先生はそれらを噛み締め、ただ前だけを見据える。滲んだ冷汗が、顎を伝い地面に滴り落ちた。
吐いた言葉に嘘はない、故に――先生は覚悟を秘めた瞳を見開き、カードの使用を確定する。
「今度こそ一緒に、世界を救おう……ッ!」
収束する光、掲げたカードの輝きは最高潮に達し、軈て盛大な輝きと共に弾ける。
先生の目前に生み出された光、人型を象るソレは小柄な身体を徐々に形成し、地面に達する程に伸び切った髪を描く。
少しダボついた上着、半分ずつ色が滲んだヘイロー――そして背負った
彼女の背中を見つめながら、先生その名を叫んだ。
「――
■
「……悪趣味な大人ですね、貴方は」
光の向こう側から、声がした。
渦巻いた膨大な神秘、それが形となった彼女はゆっくりと地面を踏み締め、呟きを漏らす。
残滓となった光は夜空の中に霧散し、淡く彼女の周囲を彩るばかり。
照明に照らされた彼女の衣服はよく見ると、所々擦り切れ、ボロボロに見えた。解れた上着に色褪せたネクタイ、ミレニアムの校章は既に擦り切れ、靴底は目に見えて擦り減っている。所々髪に絡まるのは苔か、枯葉か、絡まったそれらを彼女は指先で払い、溜息を零す。
ゆっくりと周囲をなぞる赤みがかった眼光が、先生を見つめていた。
「よりにもよって、この状況、この時間、この世界で――
「……けれど、応えてくれた」
告げ、先生は苦痛を噛み殺した笑みを浮かべる。代償に蝕まれる肉体を隠し、必死に虚勢を張る先生を前にした彼女――ケイは溜息を零す。
「えぇ、当然です、それだけの理由があるのですから」
そうだとも、彼女達にはこれに応じるだけの理由があった。
例え十年先でも、百年先でも、その事実は変わらないだろう。
そんな言葉を呑み込み、彼女は痣と傷に塗れた先生の姿を爪先から頭の天辺まで観察する。人の事を云えたものではないが、随分と酷い恰好に思えた。
「随分と草臥れた格好です、一応、辛うじて、生きてはいるみたいですけれど」
「うん、色々あってね……話すと長くなるんだ」
「でしょうね、貴方はいつもそうだった」
良くも悪くも、どんな状況でも――呟き、ケイは先生の背後に聳え立つエリドゥを見上げた。夜空の中で聳え立つ幾つものビル群、煌々と光り輝く都市、その中央に聳え立つタワーを暫しの間見つめ、彼女は静かに目を伏せる。
あの中に――彼女と自分が居る。
まだ違う結末に至る可能性を持つ、自分達が。
それは彼女らしくない感傷であった。
「……時間は無駄に出来ません、アレをどうにかすれば良いのでしょう?」
「あぁ」
振り向き、迫る無名の守護者達を見つめたケイは吐き捨てる。有象無象、暗闇の中で薄ぼんやりと浮かび上がる紫色のライン、それを見据えたまま顔を顰める。
「――頼むよ」
「えぇ」
先生の声に、彼女は頷く。
この程度の雑兵、何千、何万投じようとも――私達の敵ではない。
「……行きましょう、王女」
彼女、ケイは自身の胸元に手を当て呟く。声は優しく、慈しむ様な優しさを感じさせた。同時に浮かぶ赤みがかったヘイローにノイズが走り、その両目がゆっくりと閉じられる。
語り掛けるのは内側に眠るもうひとりの人格――彼女が仰ぎ、唯一絶対とする存在。
どうか起きて、私の可愛い――。
その言葉が胸中へと落ち、浮かび上がるヘイローの色合いが変化する。ゆっくりと持ち上げられる瞼、底から覗く光は先程とは異なり――澄んだ空色をしていた。
先程まで浮かんでいた能面の様な口元が弧を描き、彼女の小さな指先が背負った
「はい、
――そう、今度こそ。
タイの留め具を外し、光の剣を地面に立てる。ズン、と音を立てて聳え立つ愛銃、所々外装が剥げ、錆びつき、苔の生した大切な思い出。けれど内側に見える青白いラインは輝きを増し、その稼働音は力強く鼓動を打ち鳴らす。
小さな体に大きな
「任せて――そして、見ていて下さい、先生」
――私達の背中を、その姿を。
ふとした瞬間に歪みそうになる口元を必死に押し上げ、悲嘆を、哀傷を呑み込み、アリスは大きく息を吸い込む。瞳から零れ落ちた一筋の雨は、彼女の踏み出した一歩に掻き消され、弾けた。
だからこそ勇者は――
「後輩勇者を導くのは、先輩勇者の役目ですからッ!」
それが、いつか夢見た冒険の続きだった。
次回「あの日見た、