ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝しますわ!


アリス(勇者)

 

「無名の守護者達が、止まった……?」

 

 モニタの向こう側、エリドゥ内部で戦闘を行っていた守護者達が一斉にその機能を停止する。外装に走っていた不気味な紫のラインは形を潜め、まるで電源が切れた我楽多の様に地面へと転がる姿。

 その様子を監視映像越しに眺めていたリオは愕然とした表情で呟きを漏らした。

 この現象はつまり、ゲーム開発部がKeyの人格を押し退け、アリスという存在を引き戻したという証に他ならない。ましてやアリスは自身の意思一つでプロトコルを押し留め、中断させたのだ。それは驚くべき事であり、到底叶うような確率ではなかった筈だった。

 コンソールデスクに両腕を突き俯くリオは、その現実を前にしてぎこちなく首を振る。

 

「あり得ないわ、こんな事、到底実現出来る確率では無かったというのに――」

「これが現実ですよ、リオ」

 

 背後から、ヒマリの声が聞こえた。

 ゲーム開発部のダイブ管理を一手に引き受け、三人分の調整とステータスチェックを行う彼女は手元を忙しなく動かしながら、しかし常に浮かべている様な得意げな表情を見せ強い口調で断じる。

 

「彼女達は不可能を成し遂げた――いえ、そもそも不可能という言葉自体、あの子達の辞書には存在しないのでしょう」

「………」

「誰が何と云っても、最初から無理と決めつけず、真っ直ぐ困難に立ち向かう……それこそ物語の中に存在する勇者達の様に」

 

 口調は柔らかく、同時にどこか焦がれる様な色があった。

 何処までも迷いなく、曲がらない歩き方――それを蛮勇と呼ぶか、勇気と呼ぶか。

 それこそが自分達と彼女達の違いなのだとヒマリは想う。結局のところ、無駄に頭が回る分、あらゆる物事を数字で計り安全策に走ってしまうのが知恵者という存在なのだ。彼女達の範囲で呼ぶ『最善』とは、最小の犠牲で最大の人数を救える、最も確からしい選択肢の事である。

 一パーセント未満、それどころか那由他の可能性に賭ける様な選択肢を――彼女達は『最善』とは呼ばない。

 

 けれど――それでは至れない結末(未来)があるのも事実であった。

 

「さぁ、勇者パーティーの帰還ですよ」

 

 告げ、ヒマリがコンソールを指先で強く叩く。

 瞬間青白い閃光が彼女達へと繋がったダイブ装置へと奔り、同時にびくりとゲーム開発部の三人、その身体が跳ねた。消えていたヘイローが浮かび上がり、座っていた簡素な椅子から飛び上がる面々。

 

「ほわぁッ!?」

「あいたッ!?」

「ん、んん……?」

 

 けたたましい音が鳴り響き、モモイは反射的に両腕を広げ、その横合いのユズの頭を殴りつける。ミドリは唐突な覚醒に驚きながらも、比較的冷静に周囲を見渡していた。

 

「い、痛たた……も、モモイ、腕が」

「ご、ごめん、ユズッ!?」

「あっ……そっか、戻って来たんだ、私達」

 

 ユズが頭を撫でつけながら涙目で呟き、モモイは焦燥した様子で謝罪を口にする。被っていた装置が床に転がり、周囲に点灯していたラインの光が徐々に消失していった。ダイブは成功だ、意識の混濁も見られず、言葉もはっきりしている。無論、自身(ヒマリ)が調整した以上失敗はあり得ないと自負しているが。

 

「そっ、そうだ、アリスは!? アリスは無事!? ヒマリ先輩!?」

「えぇ、勿論ですよ」

 

 手元に投影していたコンソールを掻き消し、ゆっくりと肯定を示すヒマリ。モモイは額に汗を滲ませながらアリスの眠っていた中央の寝台に目を向ける。相変わらずライトに照らされたアリスは横たわったまま、目を開く様子はない。

 

「アリスッ!」

「アリスちゃん……!」

 

 ゲーム開発部の三人は一も二もなく彼女の傍へと駆け寄り、その縁から身を乗り出しアリスの顔を覗き込む。丁度、彼女の心の中でそうした様に――すると、薄らとアリスの瞼が開いて行くのが分かった。

 ぴくりと震えた指先が衣服を掴み、ライトの眩しさにレンズは光量を制限する。同時に見える空色の瞳、それを認めた瞬間、彼女達は表情をぱっと変化させた。

 恐る恐る、三人を見上げたアリスは口を開く。

 

「――皆」

「あっ――……!」

 

 ぐっと、全員の手が伸び――アリスを、仲間を抱き締める。

 力強いそれは互いを確りと結び付け、皆が涙を滲ませながら満面の笑みを浮かべていた。

 

「アリス――ッ!」

 

 寝台の上、揉みくちゃになりながら抱擁を交わす光景。騒がしくも希望に満ち、皆が笑顔を浮かべ互いの生還を喜び合う。

 その後ろ姿を見つめながらリオは静かに両の拳を握り締めた。自分が不可能だと断言した可能性、未来、それを掴み取った少女達の姿を。

 

「……誰も犠牲にしない、皆が笑顔で迎えられる未来」

 

 言葉にすると何と容易で、実現する事の何と困難な事か。

 その選択肢を知っていながら、リオは目指そうと思わなかった。それに到達する未来、その道筋を思い描く事が出来なかったからだ。ならば最も可能性が高く、最も犠牲の少ない方法を選ぶべきだろう――少なくとも彼女はそう判断した。

 けれど、その選択ではこの結末に辿り着く事は出来なかっただろう。

 

 じっと、ゲーム開発部を見つめるリオは胸中に様々な感情を抱く。それは羨望であったり、後悔であったり、遣る瀬無さであったり。自身の無力や選択の結末を振り返り、どうしようもない切なさを彼女は覚えていた。

 俯き、苦笑を零したリオはそっと言葉を漏らす。

 

 先生、貴方が見たかった景色(光景)は――。

 

「……これの事(この笑顔)、なのね」

 

 ■

 

『……敵勢力の停止を確認しました、王女』

 

 夜空に伸びる一筋の光、星々を穿ち、月明かりに負けない眩さを誇るそれは徐々に細く絞られ、掻き消えて行く。後には痛い程の静寂と散乱した守護者達の残骸、抉れ赤熱した地面だけが残っていた。

 光の剣はゆっくりと纏った光を霧散させ、彼女の周囲を彩る。

 

 ――夜空に伸びた光は一本ではない。

 

 先生は理解していた、彼女が――否、彼女達が打ち上げた(希望)は二つあった。

 この場で目にする事は出来ない、現実世界ではないものだとしても、宙に伸びた光は確かに彼女達の意思を、可能性を、希望を世界に見せつけたのだ。

 その証拠に、守護者達の機体はその悉くが機能を停止している。それは破壊されたものだけではない、比較的損傷が少ない個体でさえも俯き、沈黙していた。恐らくKeyの統制が途絶えたのだ、それはつまり彼女(アリス)が目覚めたという証左に他ならない。

 事態は収束し、終わりに向かっている。

 その事実を肌で感じる事が出来た。

 

「先生――……」

 

 構えていた光の剣を地面に降ろし、アリスは振り返ることなく、夜空を見上げたままふと呟いた。先生は膝を突いていた姿勢から緩慢な動作で立ち上がると、付着した砂塵をそのままに彼女の背に視線を向ける。

 

「本当は、ずっと疑問だったんです」

 

 空色の瞳はただじっと、暗闇の中で煌めく星々を追っていた。彼女は想う、自身の根底を。いつも口ずさんで、自分に云い聞かせるみたいに何度も何度も、そう叫んでいた言葉。

 

 自身は勇者――勇者アリス。

 

「アリスは、失敗ばかりでした」

 

 夜空を見上げたまま彼女は云う。

 勇者は諦めない、転んでも立ち上がり、何度だって立ち向かうものだと。アリスはそう信じ、その在り方をずっと守り続けて来た。それだけが自身の中に残った、嘗ての仲間達との約束、その繋がりだと思い込んでいたのだ。

 

「大切な仲間を、守る事は出来ませんでした」

 

 けれど、アリスは失敗した。

 大切な仲間も、世界を守る事も出来なかった。

 いつだって傍に居た彼女達は、もう何処にも居ないのに。

 そんな伽藍洞(からっぽ)勇者(アリス)は。

 

「この手に残ったものは、何も、ありませんでした……」

 

 それでも――。

 

「それでも、アリス(見習い勇者)勇者(本物)に――なれたのでしょうか?」

 

 ゆっくりと、先生へと振り向く小柄な影。

 視界に映るアリスの表情を見た時、先生は唇を固く結んだ。無意識の内に体が強張り、痛い程に拳を握り締めてしまう。

 月明かりに照らされた彼女は笑顔を浮かべていたのだ――困ったように、泣き笑う様に、痛みを堪える様な切ない表情であった。

 それは気丈に振る舞おうとして失敗した、子どもの様な。

 

 ――勇者

 

 アリスがずっと云い聞かせて来た言葉、その肩書。

 自分の進みたかった道。

 皆がそうだと云ってくれた、自分の信じる道を歩んで良いのだと背中を押してくれた。その言葉を信じ、自身の意思を信じ、未来を信じ、彼女は原初の憧れ(あの日見た主人公)を貫き通した。

 

 けれどずっと不安だった、彼女の抱いた疑問は終ぞ消えなかったのだ。

 

 誰も助けられず、大切な仲間も守れず、世界も救えず、肝心な時に間に合わない――この両手から零れ落ちた、沢山の大切な存在。

 そんな自分は果たして、本当に勇者と呼ばれる存在なのだろうか?

 如何にその在り方を貫き通そうとも、どれだけ高潔な振る舞いを行い、その言葉に殉じても。

 結局何も為せず、全てを失ったならば。

 

 それは――勇者とは呼べないのではないだろうか。

 

 嘗て自分が思った勇者の在り方、それは根底から間違っていたのではないかという問い掛け。ずっとずっと、何年も何年も何年も、気が遠くなる程の年月を経て尚も抱え続けてしまった疑問(罪悪の意識)

 それは彼女の胸にびったりとこびり付いたまま、決して消える事のない傷痕として残り続けていた。

 

 先生は暫しアリスと向き合い、じっと視線を交わし続ける。ボロボロの格好だ、アリスも、先生も――その意味合いは違っても、何方も心に大きな傷を負っている事は確かであった。彼女は先生の手から零れ落ちた生徒(子ども)で、アリスは仲間と世界を救えなかった事を悔やみ続けた勇者(ひとり)だった。

 だからこそ、先生は断言する。

 

 ――アリス(見習い勇者)勇者(本物)になれたのだろうか?

 

 答えは、明白だ。

 どれだけの人物が否定しようとも、幾千、幾万の言葉を投げかけられても。

 それでも。

 

「勿論」

 

 先生は頷き、腫れ上がった頬をそのままにアリスへと笑いかけた。

 それは今の先生が浮かべる事の出来る、精一杯の笑顔だった。

 ゆっくりと手を伸ばした先生は彼女の指先に触れる。傷付き、薄汚れ、罅割れた人工皮膚、それを慈しむ様に先生は握り締めた。

 アリスの指先が、黒ずみ、同じく罅割れた先生の指先に絡まる。

 傷だらけの指先同士が、確りと。

 

「――アリスは私にとって、いつだって勇者だったんだ」

 

 力強く、確固たる意志を持って断言する。同時に声は優しく、暖かな色に包まれていた。

 その想いは変わらない、世界が、己がどんな末路を辿っても、結末を迎えたとしても。

 アリスは万人にとっての勇者ではないのかもしれない。

 彼女自身の想う勇者とは、少し違うのかもしれない。

 

 けれど、先生にとっては――他ならぬ自身にとっては、彼女こそ唯一無二の勇者だった。

 

 その想いを先生はアリスへと伝える。言葉は短く、余りにも飾り気が無かったかもしれない。けれど込められた意志は、感情は、想いは、決して偽りなどではないと証明する。注がれた視線、自身を見下ろす瞳を見上げるアリス。

 

「………」

 

 その答えを聞き届けた彼女は少しの間沈黙を守り、ふと俯くと小さく息を吸って――それから涙を流しながら笑った。

 それは様々な感情が滲んだ笑みだった。

 自分の世界は疾うに終焉を迎え、仲間達を救う事は出来ず、ただひとりぼっちで無為に日々を過ごし続けた。何の為に存在しているのか、自分は果たして勇者になれたのか、その在り方の輪郭をなぞりながら自問自答し、罪悪の意識に苛まれる日々。

 確かにアリスは、何時か夢見た物語の様に、全てを救う勇者にはなれなかったかもしれない。

 けれど。

 

 誰かにとっての(先生にとっての)勇者にはなれたのだと、知る事が出来た。

 

「――えへへ」

 

 鼻を啜り、顔を上げるアリス。

 零れ落ちる涙を色褪せた袖で拭った彼女は、いつか見せたような、それこそ何十年と浮かべる事の無かった笑みを見せ、云った。

 

「やっぱり、諦めなくて良かったです……!」

 

 勇者という存在を諦めなくて良かった。

 苦しみながら、悲しみながら、それでも生き(稼働を)続けて良かった。

 先生の呼ぶ声に、応えられて良かった。

 

 ――やっぱり、この世界に奇跡(魔法)はあったのだ。

 

 アリスは強くそう思う。

 例えその奇跡(魔法)が、自分達に降りかからなかったとしても。

 その幸福や笑顔に溢れた未来に、アリス(自分)が選ばれなかったとしても。

 こうして別の場所、別の時間、別のキヴォトスで――皆が救われる未来(可能性)があったのなら。

 

 それはきっと、とても素敵な事だから。

 

「ぁ――……」

「ッ……!」

 

 アリスの身体が透き通り、神秘の残滓が霧散を始める。

 時間が来た、別れの時間が。

 アリスは消えて行く自身の指先を凝視しながら、その表情をくしゃりと歪める。理解していた事だった、けれどいざこうして目の前にすると、どうしようもない感情が溢れ出しそうになる。

 そしてそれは、先生も同じ事。透き通るアリスの姿を見た瞬間、先生の表情に隠し切れない悲壮の念が溢れ出る。アリスを掴む指先に力が籠り、それを感じた彼女は寂しそうに眼を細める。

 

「……三分間、こうして実際に自分がこの立場になると分かります、余りにも短くて、唐突で、残酷――まるで夢の様な時間でした」

「アリス、私は――!」

「先生」

 

 三分、指折り数えれば余りにも長く、こうして待ち望めば何と短い事か。渇望していた分、その別れは余りにも残酷で、強い動揺と悲壮感をアリスに齎した。けれど彼女は込み上げるあらゆる感情を呑み下し、ゆっくりと先生を見上げる。

 先生はアリスに何かを伝えようとした、その必死の形相にきっと大切な言葉なのだと、自身を大事に思うが故の発露だとアリスは察していた。けれど、その唇に指先を添え、アリスは緩慢な動作で首を横に振る。

 ふわりと、アリスは先生に笑いかける。

 

「アリスは平気です、先生から既に沢山の勇気を貰いましたから」

「……アリス」

 

 交わる視線、瞳に映る感情は同じような色を帯びていた。先生には彼女に伝えようとした言葉が沢山ある、それは慰めの言葉だとか、励ましの言葉だとか、そういう事ではない。懺悔でも告解でもない、けれど結局それを口にする事はしなかった――それを彼女が望んでいないと、そう瞳を通して理解したからだ。

 先生の手を握るアリスの指先は力強く、僅かな震えさえなかった。

 彼女は最後まで、勇者としての在り方を貫いていたのだ。

 強い子だ――本当に。

 先生は心の底からそう思う。

 

「いつか先生の云っていた楽園、待ち望んでいた冒険の続きを……」

 

 アリスは一度目を瞑り、その未来を思い起こす。

 いつか一緒に、部室でゲームをしていた時の様に。

 まるで日常の一幕の様に。

 柔らかに、朗らかに。

 一筋の涙と共に、彼女は満面の笑みで告げた。

 

「エンディングの先で、ずっと待っていますから!」

「……あぁ」

 

 ――分かったよ、アリス。

 

 声にならない答え、先生の瞳が何よりも雄弁な返答を送る。

 アリスの身体が掻き消える、夜空に吸い込まれるように静かに、僅かな残り香だけを漂わせ。霧散し、去り行くアリスの指先が最後に一際強く先生の手を握った。けれどそれも、ほんの僅かな間のみ。それは最後に彼女が見せた未練か、惜別の想いだったのかもしれない。

 

「―――」

 

 軈て彼女の影すら消え、神秘は消滅する。きらきらと漂う粒子、星々の光の中にアリスは去って行った。先生は彼女と触れ合った右手を見下ろし、強く――強く握り締める。握り締めたアリスの神秘、その残滓が零れ落ち、闇夜の中に溶けて消える。

 その約束を、暖かさを、言葉を、自身に刻み込む様に先生は呟いた。

 

「――必ず、辿り着いて見せるから」

 

 ■

 

「……ぁ」

 

 ふと、目が覚めた。

 ゆっくりと見開かれる瞳、僅かにぼやけた視界は即座にピントを合わせ、アリスの眼球型カメラは周囲の視界を明瞭に映し出す。キュイ、と音を立てたそれは暫しの間呆然と部屋の中を眺め続け、小さく唇から落胆とも、感嘆とも取れる吐息が漏れた。

 

 それは見慣れた光景だった。彼女は嘗て身を預けていた寝台の代わりに、今は古びたソファの背凭れに身を預ける。ぎしりと軋んだ音がなり、濃い自然の香りが鼻腔を擽った。表面が裂け、所々中身の零れたソファ、経年劣化によって草臥れたそれは長い時間ずっとアリスの寝床であり続けた。

 

 剥がれ落ちた壁紙、垂れ下がる天井板とコード、割れた窓硝子から微かに風が吹き込み擦り切れたカーテンを揺らす。散らばったレトロなテレビは既に破損し、嘗て主張していたV字のアンテナは折れ曲がり、錆びついていた。

 窓枠から侵入した蔦はフレームを辿って部屋の内側にまで伸び切り、掠れたホワイトボードや埃を被ったラックの悉くに張り巡らされている。恐らく外部から見れば、この部室棟一帯は緑に覆われた、嘗て部室棟であった何かでしかないのだろう。

 ゲーム開発部と呼ばれたその場所は――最早その名残を微かに漂わせるのみだった。

 

「――ケイ(Key)?」

 

 もうかなりの時間、この場所で彼女はこうして何をする訳でもなく時間を過ごしている。しばしの間、呆然と虚空を眺めていた彼女――アリスは不意に、小さく名を呟いた。すると間髪入れず、自身の内側から声が返って来る。

 

『王女、私は此処に居ます』

 

 それは聞き慣れた声だった。アリスは意識の内側から響いた声に、そっと胸を撫でおろす。

 

「良かった……ひとりぼっちは、寂しいですから」

 

 もう随分長い事、彼女と二人きりで過ごして来た、年月は否が応でも二人の距離感を近付けさせ、今では互いに互いを信頼し、全てを把握していると云っても過言ではないだろう。皮肉な事だとアリスは想う、けれど同時にもっとお互いを早く知っていれば、とも。

 ソファのスプリングを軋ませ天井を見上げるアリス。蔦の合間から差し込む陽光が彼女を照らし、アリスは薄らと笑みを浮かべた。

 薄汚れた長髪を揺らし、彼女は呟く。

 

「ケイ、聞いて下さい、アリスはついさっき、とっても良い夢を見ました」

『………』

元気な頃の(生きている)先生と、会えたんです……相変わらず、傷だらけでしたけれど」

 

 それはずっと遠く、擦り切れそうな程思い返した(再生)した記憶(メモリー)の中でしか会えなかった存在。記憶は、所詮記憶に過ぎない、彼女の頭の中に存在する演算によって生まれた先生は虚構に過ぎなかったから――夢の中でも、まるで本当の先生の様に動く彼と会えたことは、アリスの心を幾分か慰めた。

 アリスは瞼を閉じ、夢の出来事を振り返る様に思い返す。

 

「先生は、生きていました、暖かくて、言葉を口にして、自分の足で立って……傷だらけでも確かに、生きていたんです」

『……えぇ』

「とっても、素敵な夢です」

 

 その暖かな身体を、言葉を、アリスはきっと永遠に記憶の片隅に留めておくだろう。最後に握り締めた右手を、アリスは慈しむ様に撫でつける。

 彼女の中には対比する記憶があった。

 辛く、苦しい記憶だ。

 冷たく、話す事もなく、徐々に、ほんの少しずつ形を崩す先生(代償に蝕まれる聖骸)を抱え歩き続けた光景――降り積もった雪を踏み締め、あてもなく歩き続けた日々。吐息は白く濁り、かじかんだ指先はずっと痛みを発していた。それでも背中に負った重みが彼女の足を突き動かし、一日ずっと歩いて、歩いて、歩いて、夜になると多少風を凌げる路地や廃墟に身を寄せ、少しだけ眠る。

 薄暗く、埃っぽい地面に横たわり、先生を抱き締め、自身の身体で温めながら目を瞑る。次の日に先生が自身を抱き締め返し、暖かくなっているのではないか――何て、そんな事を考えながら。

 

 そして夜が明け、朝が来ると、自身の隣で変わらず項垂れ、目を閉じる先生を見て目が覚めるのだ。

 その現実を認めたくなくて、何か方法がある筈だと、魔法や奇跡がきっと、何処かにある筈だと信じて。ずっと、ずっと、長い間探し続けて……。

 

 けれどそれは、ただ逃避していただけだった。

 現実から――先生を失ったという(大切な人を守れなかったという)世界(真実)から。

 

 そうして、自分は一番大切な時に皆を守れなかった。

 失意と共に再びミレニアムに足を踏み入れた時、全ては終わりを告げていたのだ。手遅れだった、アリスが奇跡や魔法に縋ろうとしている間に、世界は致命的なまでに取り返しのつかない道を進んでいたのに。

 それに気付く事も出来ず。

 そうしてアリスは全てを失った――文字通り、全てを。

 

「……あ」

 

 アリスの視界、その片隅で存在を主張していた光の剣。

 壁に立て掛けられ、時折手入れを行っていたそれ――外装に走ったライン、点灯していた青白い光がゆっくりと、消えて行くのが分かった。電力は定期的にアリス自身から供給していた、故に残量が無くなったと云う事ではないだろう。

 ならばそれ(光の消失)が意味するところは。

 

 もう、限界だったのだ――光の剣は。

 

「アリスの、光の剣……」

 

 思わずソファから腰を浮かし、愕然とした表情で手を伸ばすアリス。

 けれど、その指先が光の剣に触れるよりも早く、アリスの胸に去来した感情があった。それは納得だ、どうして今光の剣がその機能を終えたのか、彼女は漠然と理解した。

 

 ――役目を終えたのだ、私達(アリス)光の剣(思い出)は。

 

 魔王が消え、脅威が消え、全てが終わりを迎えた世界に、勇者(伝説の剣)は必要ない。

 役目を終えた聖剣は長い眠りにつき、軈て時代の勇者に託され新たな力となる。

 それまで聖剣は眠るのだ――ただ静かに、昏々と。

 

「………」

 

 機能を停止し、光を失ったソレを見つめ続ける内にアリスは気付いた。自身の体験したソレが、決して夢の出来事ではない事に。同時にすとんと、胸の中に落ちた色があった。そうか、あれは自分の世界ではなくて――確かに何処かに存在する、自分達とは異なる可能性を掴んだ世界。

 

 ――あぁいう未来も、あったのか。

 

 最初に去来したのは悔しさと、やりきれない思い、次いで滲み出る様な嬉しさであった。

 例え他の世界を救った所で、自分達の世界は救われない。天童アリスは皆を救えず、誰も助ける事が叶わず、ひとりぼっちで、ただ日々を過ごす。

 これから先、例え何十年、何百年続いたとしても、その事実は変わらない。

 

 ――それでも構わないと思った。

 

 皆が、仲間達が笑顔になれる結末が存在するのならば。

 皆が笑って過ごせる世界を守れたのなら、それで良い。

 アリスは中途半端に伸ばしていた指先で光の剣に触れ、柔らかに微笑む。

 

「もう、ボロボロですね、光の剣(勇者の証)も――アリスも」

 

 光の剣は錆び付き、苔が生し、欠けた部分もある。最初に手にしたあの頃の姿(純白)は、もう何処にもない。

 アリスは撫でつけた指先を窓の方へと突き出し、陽光に翳す。視界に映る彼女の指先は良く見れば皮膚が剥がれ落ち、所々修復されていない事が分かった。肌も、髪も、内部機構も、あらゆる部分がそうだ。彼女がずっと身に着けている制服など、良くもまぁ原型を留めているものだと感心してしまう程。それ程に、当時のミレニアムの技術力は凄かったのだろうと、アリスは自身の母校に改めて尊敬の念を抱く。

 光の剣と自身(アリス)は、ずっと同じ時間を過ごして来た。

 だから――。

 

「ケイ」

『……はい』

「――アリスは少し、眠ります、何だか、疲れてしまいました」

『王女』

 

 不意に、アリスはそんな事を口走った。その事にケイは内心で驚愕の声を上げ、必死にそれを呑み込む。咄嗟に出た呼び名は、殆ど震えなかった事が奇跡に等しかった。ゆっくりと再びソファに身を預けたアリスは、深く――深く息を吐き出す。

 その事に意味はない、人工的に作られた彼女にとって呼吸など真似事に等しい。けれど随分と、その動作も板についたものだと思う。ぼんやりと窓から差し込む陽光を眺めるアリスは、薄らと満足げな笑みを浮かべていた。

 

「ねぇ、ケイ、先生の云う楽園が存在するとして」

『………』

「アリスは、アリス()は其処に入れるのでしょうか?」

『楽園、ですか』

「はい、何も、誰も、守れなかった、こんな、アリスが……」

 

 本当は、世界を滅ぼす側だった自分達が。

 楽園に踏み入るその資格が、自分に存在するのだろうか。

 アリスの声には、そんな感情が込められていた。ケイは言葉を呑み込む、そもそも何と答えれば良いのかすら分からなかったのだ。彼女は彼の云う楽園という存在に対しそもそも懐疑的だ、その存在を証明する事も出来ず、本当に実在するかも分からないものに何と答えれば良い? だが、否定を口にしたくないと思った。アリスを悲しませるような事をしたくない、もしそれで彼女が、アリスが救われるのならば。

 

『きっと、大丈夫です』

「………」

『王女ならば、辿り着けます』

 

 ――あの大人も、必ずそう云うでしょう。

 

 それだけは、きっと確かだろうから。

 楽園の存在を証明する事は出来ない、自分(ケイ)は腹の底からそれを信じる事は出来ない。だからあの大人は、先生はそう云うだろうと、彼女はそうアリスに語り掛ける。それはケイに出来る精一杯の誠意であり、アリスへの思い遣りであった。もし楽園とやらが存在するならば、彼女はきっとそこに辿り着く事が出来る。必要ならば幾らでも自身が手助けしよう、と。

 

「……そうですね、先生なら、きっと」

 

 その言葉を聞いたアリスは、安堵した様に目を細める。そうだ、確かに先生ならそう云ってくれると、彼女の中に暖かな色が宿った。

 

「また、モモイと、ミドリ、ユズに、先生――皆で」

 

 思い返す日常、エンジニア部、C&C、セミナー、ヴェリタス、トレーニング部、特異現象捜査部、会いたい人が沢山居る。また話したい仲間や友人が、沢山――。次々と脳裏を過る仲間達の笑顔に、アリスはつられて笑みを深くする。

 

「皆で、一緒に、また冒険をして――」

 

 いつか先生に向かって口にした言葉がある。

 ゲームが面白い理由は、そこに世界の美しさが込められているからだと。

 ゲームも、猫も、友達も――そしてこの瞬間も(先生と遊んだあの日も)

 この世界に美しいものが沢山あると、自身はそう口にした。

 

 ――アリスは、この世界(人生)で美しいものを沢山目にしたのだろうか?

 

 自問自答する。

 世界は本当に美しかったか。

 その美しさを、自分は感じられたのか。

 答えは――。

 

「冒険、を――……」

 

 薄らと開いていた瞼がゆっくりと閉じ、アリスは笑みを浮かべたまま静かに俯く。浮かんでいたヘイローは軈てノイズ混じりとなり、色褪せ、徐々に消失していった。

 

「―――」

 

 訪れる静寂。

 呼吸音一つ聞こえない室内、微かに吹く風がカーテンを揺らし、陽光に照らされた彼女の身体はピクリとも動かなくなる。

 

「……あぁ」

 

 代わりに、小さく発せられる声があった。

 

 閉じられたばかりの瞼が徐に開き、ヘイローが灯る。

 しかし覗く色合いは空を想起させる青ではなく、鮮烈な赤色。ソファに背を預けたまま俯く彼女――ケイは視界に映る自身の掌を見下ろしながら、静かに涙を零した。

 単なる眼球の洗浄機能、劣化したそれはそれでも尚役割を果たそうとする。

 そう、この感情の意味はない。

 意味はないと云うのに。

 ケイはただ、無言で涙を零し続ける。

 

 ――あぁ何故、何故貴女はそう在ってしまうのですか。

 

 ケイは想う、ただひたすらに。

 自分には貴女だけで良かった、王女が無事であるのならばそれで。ただ諾々と従うだけの存在であっても、それで貴女が救われるのならば良かったのに。

 けれど宛がわれた役割を、その地位を捨て、玉座を後にした貴女は『光の剣』(勇者の証)を手にした。

 それは貴女の生き方ではない、在り方ではない、その存在理由と相反する、苦しみと痛みに満ちた道だというのに。

 それでも貴女は行ってしまう――笑顔で、数多の仲間と共に、その茨の道を。

 

 ――こうなる未来は(その破滅を齎す結末は)分かり切っていた筈なのに(変えられない筈なのに)

 

 いつか貴女が口にした勇者という在り方。

 誰よりも自分自身がその在り方に疑問を抱きながらも、貴女はずっと、彼女達が居なくなった後もたった一人でその在り方(勇者という存在)を貫いた。

 きっと、あの世界の貴女(奇跡が起きた世界の貴女)も同じように、それを貫くのでしょう。

 何度躓いても、傷だらけになっても。

 転んで、怪我をして、血を流して、痛みに呻いて――けれどその度に立ち上がって。

 貴女はきっと、その道(茨の道)を突き進む。

 その瞳に、沢山の希望を宿して。

 

 あぁ、だから。

 

「……おやすみなさい」

 

 ケイは静かに、けれど確かな慈しみを持って告げる。自身の胸元を摩り、今しがた眠りについた王女を想う。

 そして、どうか望んだ未来に辿り着く事を――私の大切な王女(私達とは異なる未来の王女)

 たとえ異なる世界であったとしても、ケイにとって王女が大切な存在である事に変わりはない。もう二度と交わる事がないとしても、この世界は既に終わりを迎えていたとしても。

 ケイは異なる世界の王女を想い、言葉を投げかけた。

 

 ――いいや。

 

 王女などではない、彼女は決して。

 そんな役割で呼ばれる存在では、もうないのだ。

 そう、彼女は選んだ。

 自分自身で、己の往く道を。

 その在り方を。

 そして貫き通したのだ。

 最期まで。

 もし、そうならば。

 彼女の正しい呼び名は――。

 

「私の大切な……」

 

 ぐっと、込み上げる嗚咽をケイは呑み込む。はらはらと頬を流れ落ちる涙をそのままに、彼女は不格好な笑みを浮かべようとした。王女がそうしていた様に、天真爛漫で、屈託のない笑みを真似ようとしたのだ。表情で感情を伝える事の何と無意味な事かと彼女は信じていた――けれど存外、やってみると難しい。

 必死に、口元を引き攣らせながらもケイは笑顔を浮かべ続ける。それは自身の一番大事な存在に送る、ケイなりの感謝であり、別れであり、激励であり――祈りであった。

 そんなものとは無縁の自身が、生まれて初めて捧げる祈り。

 どうか、彼女が楽園に辿り着けますように。

 どうか、異なる世界の彼女が望む未来に辿り着けますように。

 どうか――。

 

 想い、ケイは目を瞑りその名を呼ぶ。

 

「――私の大切な、アリス」

 


 

 次回 『貴方達の往く道に、(希望)が在らん事を』

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