ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に感謝致しますわ!
更新されたストーリーにハートブレイクされたので、日数比で文字数若干少ないですわ! 
私のプロットどこ? ここ?


貴方達の往く道に、(希望)が在らん事を

 

『先生、生徒さんの退去を確認しました』

「……あぁ」

『……無名の守護者も活動を停止、周辺に反応もありません』

 

 胸元の掻き抱いたシッテムの箱よりアロナの声が響く。先生は彼女の声に短く返答を行いながら、暫くの間アリスの消えた夜空を見上げ続けていた。アリスの砲撃余波で罅割れ、光を失った照明が時折ちらちらと足元を照らす。

 

 彼女達を前にすると、いつもこうだ――自身の背負った罪悪が可視化され、その重みが増したようにすら感じる。

 否、実質その重みは増しているのだろう、彼女達に歩む道を肯定されようとも、或いは否定されようとも、その在り方を変えられない時点で自身はそれより逃れる術を持たない。

 自身に出来る事は唯一つ、背負って歩き続ける事だけだ。真っ直ぐ目を見て、そのあらゆる声を受け入れながら。

 いつか、この存在が朽ちる――その瞬間まで。

 

「アロナ」

『……はい、先生』

「私は、このまま――」

 

 先生は一瞬、何かを問い掛けようとした。薄らと開いた唇から声にならない息が漏れ、それから彼は静かに唇を噛み締める。ぐっと逸らした表情は、タブレットの中から覗き込むアロナには見る事が出来なかった。ただ小さく震えた頬が、先生の感情をこれ以上ない程に表現している様にも想える。

 

「いいや、何でもない……」

 

 乱雑に顔を拭って、先生は云う。

 何を伝えようとしたのか、アロナには分からない。けれど薄らと、その言葉の輪郭に触れたような気がした。アロナは指先を合わせ、渦巻く感情を持てあます様に俯く。先生はいつもそうだった、大事な事は、本当に大切な所は、いつも自分一人で呑み込んでしまう。

 それをどうにかしようと――共に背負おうと、こんな姿にまでなったというのに。

 彼はまだ、独りで歩こうとする。

 

「――皆の元に帰還しよう、まだやらなくてはならない事が沢山ある」

 

 呟き、先生は月明かりに背を向けた。ゲート前に佇むエリアル・ビークルに視線を向ければ、捲り上がった砂を盛大に被ったのか、外装に砂塵が付着しているのが見えた。あれだけの規模の攻撃なのだ、後方にあっても然もありなんと先生が足を動かせば――一歩踏み出した瞬間、その身体が不自然に硬直した。

 

「――ぅ」

『……先生?』

 

 その瞬間は、唐突に訪れた。

 ぐらりと臓物が裏返り、視界が渦に巻かれる様な感覚。全身の血が一斉に沸騰し、次の瞬間には氷にすり替えられたかのような寒気。ぶるりと震えた身体はそのまま膝を折り、先生はその場に蹲って思わず嘔吐する。

 

「お、ぐぇ――!」

『せ、先生!?』

 

 アロナは急変した先生の様子に焦燥に塗れた声を上げ、同時に手元へと幾つかのウィンドウを表示する。其処には先生の補完状態等が事細かに表示されており、それらの数字とパラメータを目線で追いながら声を漏らした。

 

『そ、そんな、補完状態に変化は――それに充電残量も、演算機能だって、まだ……ッ!?』

「ち、がう……アロ、ナ」

 

 この不調は、アロナの不手際ではない。

 先生は口元から血の混じった唾液を垂らしながら、血の気の失せた顔で呟く。

 彼女は先生の異変が自身の調整ミス、或いは補完機能の不具合であると疑っている様だが事実は異なる。先生は這い蹲ったまま、自身の小刻みに震える右手を掲げる。

 

『それは――』

 

 ――これは、カードの反動(代償)だ。

 

 月光に照らされた先生の右手、それを見たアロナが思わず絶句する。淡く照らされた先生の右手、その五本の指先はいつの間にか全て黒く染まり、手の甲までもを浸食し始めていた。

 つい先程、大人のカードを切る前までは指先の第一、第二関節が精々だったと云うのに、今はふとした瞬間に掌全体を覆ってしまうのではないかと思ってしまう程の黒々しさを放っている。シッテムの箱、その画面に張り付いたアロナは目に入る光景を前に悲鳴染みた声を上げる。

 

『まさか、こんなにも早く進行を!?』

「油断、した……想像、以上に、私の肉体、は――」

 

 ――死に、近付いていたらしい。

 

 たった一度、たった一度切り札(カード)を切るだけで此処まで蝕まれるとは。或いは肉体的な負傷も影響しているのか。

 覚悟はしていた、しかしこうも急激に崩壊が進むと事は予想外であった。単独での召喚であれば、後一度、或いは二度の猶予があると思っていた。色彩の嚮導者と対峙した時の様な、全力顕現であれば身体が即座に崩壊する事も納得できる――しかし、只の一度、断片ですらこの様な有様とは。

 

 どうやら自分達が思っていた以上に、肉体の限界ラインは下がっていたらしいと先生は最悪のタイミングで実感する。

 震える右手を地面に着き、荒い息を繰り返す。頬を伝い顎先から落ちる雫は冷汗か、脂汗か、或いはどちらもか。血の混じった唾液を呑み込み、先生は腫れ上がった頬を動かして歯を食い縛ると、ゆっくりと体を起こした。

 

「戻ら、ないと……」

 

 生徒達の所に――。

 

 声なき意志が叫ぶ、まだ倒れる訳にはいかない。せめて彼女達の傍に、脅威が去ってもまだ全てが終わった訳ではないのだと、その精神力だけが身体を突き動かす。

 

『先生、動かないで下さい! 今、助けを呼んで――ッ!』

 

 アロナが叫び、先生を制止した。しかし、先生が一歩を踏み出す事は無かった。

 否、踏み出す事が出来なかったのだ。

 

 身体を押し上げようとした右足が、全く動かなかった。

 

「――ッ!」

 

 まるで四肢が掻き消えてしまったかのように、感覚が存在しない。ぞわりと背筋を駆け巡る悪寒、先生が視線を落とし、自身の右足、その裾を乱雑に捲り上げれば――覗く皮膚に罅の様な黒色が走っているのが見えた。

 右腕だけではない、右足にも影響が及んでいる。黒い罅割れに似た浸食は脹脛辺りにまで伸びており、恐らく指先は完全に呑まれているのが分かった。靴で隠れてしまっているが、踝辺りは比較的まだ肌が見えるだろう。

 エデン条約の折、足が動かなくなったのはコレの前兆だったか。先生は内心で吐き捨てる。

 この様子だと恐らく後一回、いや二回か? カードを切れば自身の右足は完全に制御を離れるだろう。例えこの身に残っていたとしても、動かす事は出来なくなる。それは殆ど確信に近い予測であった。

 

「く、そッ……!」

 

 這いずる様な姿勢のまま、先生は悪態を吐き蹲る。徐々に視界が狭まる感覚があった、本来であれば多少の不調で済む程度の代償が、今の先生にとっては文字通り血を吐く様な苦痛を齎す。精神は挫けずとも、肉体は既に限界に達していた。

 

 Key(ケイ)の砲撃からモモイを庇った際の負傷、リオとの邂逅時に受けた負傷、トキに殴りつけられた際の負傷――文字通り身体に鞭打って走り続けた先生の身体は、最早気力でどうこう出来る領域に存在しない。

 まるで身体が燃えてしまいそうな熱と、芯から冷え込む様な寒気が同居する。先生はシッテムの箱を抱き締めながら、黒ずんだ指先で地面を掻いた。爪に砂利が入り込み、地面に爪痕が残る。

 意識が、遠くなる。

 抗えない睡魔が脳を揺さぶる。

 

『先生! 駄目です、今意識を失っては……! 先生ッ!』

「――……」

 

 指一本分、這ってでも戻ろうと足掻く先生の抵抗は、しかし身体を僅かに前進させる事も出来ず。

 その瞳は徐々に閉じていき、歪んだ口元をそのままに閉ざされた。

 限界だった、様々な面で先生の肉体は意識を断つ事を選んだ。

 冷たい地面に横たわった先生は、散らばった守護者達の残骸の中、ぽつんと取り残されるように横たわる。画面の中でアロナは必死に先生の名を呼びかけ――けれど、それが届く事はなく。

 

『先生! 先生ッ!』

「――居たッ!」

 

 だが、声に応えずとも駆け付けた影があった。

 正面ゲートが音を立てて開き、罅割れた照明に照らされた複数の影が飛び出す。

 

「アツコ、ヒヨリ、ミサキ、周辺の警戒をッ!」

「了解!」

「は、はいッ!」

「分かった……!」

 

 現れたのはスクワッドの面々、そして行動を共にしていたエイミ。

 彼女達は倒れ伏した先生を視認すると凄まじい勢いで駆け寄り、その身体を抱き起しながら周囲に転がっている守護者の残骸を警戒する。先生を抱き起したのはサオリ、エイミの両名。ミサキとヒヨリ、アツコは二人を背にしながら周辺の守護者達に視線を配る。破損しているそれらは沈黙している様だが、何が起き、いつ動き出すかも分からない。

 

「アツコ、ヒーリングドローンは!?」

「もう散布を開始しているよ! 先生の傷は――」

「私が見る……!」

 

 頭上を漂うアツコのドローン、傘の様に開いた四枚羽が青白い軌跡を残し、先生に淡い光を送り届ける。光には僅かではあるが苦痛を和らげ、傷を癒す効果があった。いつかと同じ、ロイヤルブラッドである彼女だけが持つ特別な力。

 アツコの声を遮り、エイミは先生の身体に手を伸ばした。最初に確認するのは脈拍、そして呼吸の有無、幸いどちらも確認出来、生きている事は確かだと胸を撫でおろす。加えて以前の戦闘から負傷が増えた様子はない。

 しかし改めて目にすると、中々どうして酷い状態であると分かった。

 擦り傷と打撲痕、腫れ上がった頬、乾いた血の張り付いた額に、目元に深く刻まれた隈――これは恐らく、貧血によるものだろう。エイミ達は先生の状態を確認しながら、その表情を強張らせる。

 

「かなり酷い怪我」

「……あぁ」

「こんな状態になってまで、あの子の事を……」

「――私達の時も、そうだった」

 

 アツコの声に応える様に、サオリの口から漏れ出た呟き。エイミは静かに目を伏せ、珍しく感情を表情に出した。先生はいつだってそうだ、生徒の為に全力を尽くす。その事を彼女は理解していた。理解しているからこそ、苦々しい感情が喉に詰まって仕方なかった。

 

「――これは」

 

 不意に、サオリが先生の指先、その変化に気付く。サオリの視線を追い、アツコとエイミもまた先生の指先に視線を落とした。

 

「先生の指先、この色……」

 

 視界に映る黒々とした皮膚、それは以前よりも濃くなっている様に思える。加えてほんの指先程度であった筈のそれは、今は手の甲にまで覆い始めていた。明らかな異常だった、しかしこの場にソレが何であるか断定出来る知識を持った生徒は居ない。サオリは緩く首を振ると、先生の衣服を掴みながら後方のエリアル・ビークルに視線を向ける。

 

「……兎に角、今は先生を一刻も早く安全な場所に移すべきだ」

「うん、そうだね」

 

 サオリの言葉にエイミが頷き、二人は先生をエリアル・ビークルへと運び込もうとする。エイミが先生の両脇に腕を通し、サオリが両足を持つ。なるべく揺らさないように、慎重に持ち上げた二人は呼吸を合わせ運搬を開始した。サオリは横目でスクワッドの面々を一瞥し、指示を出す。

 

「先生を運搬する、そのまま警戒を頼む!」

「了解……!」

 

 サオリ達の移動に合わせてゆっくりと後退するスクワッド、その銃口は常に周囲の守護者達に向けられ、いつ再起動しても即座に弾丸を撃ち込めるよう備えていた。足を進めたサオリとエイミは、先生の身体を機内の中へと丁寧に横たわらせ、伸ばしたタイで身体を固定する。移動時間を考えれば、これで中央タワーへと輸送するのが最善であった、少なくともエリドゥ程の都市であれば最低限の治療施設は存在しているだろうという信頼がある。

 

「っ、良し、後は――」

「リーダー、コレの飛ばし方は分かるの?」

 

 先生の身体を丁寧に、しかし確りと固定したサオリに対し、横合いで周囲を警戒するミサキが問い掛ける。先生を運搬する事に異論はないが、そもそもスクワッドに航空機を操縦出来る者は居ない。サオリはミサキの問い掛けに緩く首を振った。

 

「いいや、だがコレはミレニアムの機体だろう? 自動操縦(オートパイロット)機能はある筈だ」

「そ、その自動操縦機能は、どうやって起動させれば良いんでしょうか?」

「それは――」

 

 ヒヨリの素朴な疑問に、サオリは思わず言葉に詰まった。アリウスの頃に使用していた電子機器、搭乗兵器(ビークル)の類は大抵旧式のものばかりだった。最新機器についても知識として多少齧った事はあるが、ミレニアムの様な最先端を突っ走る学園の航空機、それの操縦、設定方法など全く分からない。冷汗を額に滲ませるサオリに対し、エイミは彼女の肩を突くと、自身を指差し告げた。

 

「任せて、この手のビークルは私が動かせるから」

「っ、そうか、助かる……!」

 

 ぱっと、表情を晴れさせるサオリ。そんな彼女を一瞥したエイミは、先生の固定が為されている事を十分に確かめながら呟いた。

 

「後は私がやっておく、貴女達はこの辺りで撤退した方が良い」

「――あぁ、そうだな」

 

 他の生徒に、スクワッドの存在を知られる訳にはいかない。今回の件、その裏側についてはごく少数だけが知っていれば良い。少なくとも今回、表だってアリウス・スクワッドが動く事はなかった。そういう事にしなければならない。それを理解しているからこそ、サオリはエイミの言葉に頷き、横たわった先生を一度見下ろすと踵を返す。

 

「……どの口で、そう思われるかもしれないが」

「?」

 

 エリアル・ビークル、そのタラップに足を掛けたサオリは帽子のつばを深く下げ、エイミを振り返りながら云った。

 

「先生を、頼む」

「……うん」

 

 表情は暗闇に隠れ、良く見えなかった。

 サオリはそのまま地面を踏み締め、周囲を警戒していた他の面々に手を翳しながら告げる。

 

「――スクワッド、撤退するぞ」

「了解」

 

 その言葉に反応し、守護者達を警戒していたミサキ、ヒヨリ、アツコの三名は素早く集合し暗闇の中に消えて行く。最後に先生の傍を漂っていたドローンが羽を閉じ、そのままエイミの頭上を一周すると、スクワッドの後に続くようにして暗闇の向こう側に飛んで行った。

 エイミは彼女達の背中、その輪郭が見えなくなるまで見送り続ける。

 

「り、リーダー、先生は大丈夫でしょうか?」

 

 ゲートから離れ、小走りでエリドゥを後にするスクワッドは薄暗い闇夜の中で言葉を交わす。ヒヨリは不安を隠せない様子でサオリに問い掛け、前を駆ける彼女は一瞬言葉に詰まった。しかし顔を上げたサオリはぐっと腹に力を込めながら、はっきりと答える。

 

「――先生なら、きっと大丈夫だ」

 

 声は、暗闇の中で良く通った。

 それは実体験を伴う信頼だ。

 自分達を助けてくれた時だって、先生は傷だらけで、血に塗れていて、見るからに限界だった。けれどそんな体でも先生はミカを救い出し、完璧な結末を引き寄せて見せたのだ。

 だから今回も、きっと大丈夫だと――サオリはそう強く信じる。

 信じる事しか、出来ない。

 

「……うん」

「………」

 

 サオリの言葉にアツコは小さく頷きを返し、ミサキは沈黙を貫く。ただ彼女の担ぐセイントプレデター、その握り締める指先が白く力んでいる事にサオリは気付いていた。 

 スクワッドの間に重い沈黙が降りる。信頼とは裏腹に、不安や恐怖と云うものは蓄積していくものだ。それを自覚しているが故に、最初に口を開いたヒヨリが何とか空気を変えようと咄嗟に舌を回した。

 

「そっ、そう云えば、帰りはあの列車に乗って行かないんですか?」

「あぁ、徒歩だ」

「えぇっ!? こ、このままセーフハウスまで走って帰るんですか!?」

「……別に、これ位の徒歩移動なんて訓練校時代でも良くあったでしょう」

 

 どうやらヒヨリは帰還時に列車を使用するものとばかり思っていた様で、徒歩でセーフハウスに帰還する事を告げれば露骨に慌てふためいた。

 ミサキが溜息交じりに淡々とした口調で彼女の態度を咎めると、背を丸めながらヒヨリは呟く。

 

「あ、いや、でも、最近はそんな長く歩く事も無かったですし……」

「数日も走れば外郭区画には辿り着けるよ、頑張ろうヒヨリ?」

「す、数日……うわぁあん! こ、こんな装備で、そんな距離を延々と走らなくちゃいけないんですね……!」

 

 生憎と現在彼女達が拠点としているセーフハウスまでは遠く、徒歩で戻ろうとすれば数日は必要となる。途中で上手く足を見つけられたのなら短縮出来るだろうが、表側に余り顔を出せない以上、そうなる可能性は極めて低いと云えた。

 その未来を思い描き、大口を開けて泣き喚くヒヨリ、ここ最近ずっとセーフハウスの生活に慣れていた為か、彼女の苦痛に対する閾値が非常に低くなっている気がした――しかし、サオリは敢えて言及する事はしなかった。それは、自分達が幸福である事の証明でもあると感じたからだ。

 

「……サッちゃん、どうしたの」

「ん――あぁ、いや」

 

 先頭を駆けるサオリに、ふとアツコが声を掛ける。サオリは愛銃を抱える手とは反対の指先を、どこか疑る様な目でじっと見つめていた。その事を不思議に思ったアツコは声を掛けるものの、サオリは曖昧に首を振って誤魔化す。

 

「……何でもない、急ごう」

 

 傷だらけの先生、血の滲む表情――ざわつく胸元、刻まれた記憶が思い起こされる。それを振り切る様にサオリは強く一歩を踏み出し、星々の明かりを縫って駆ける。

 だと云うのに何故か。

 先生のあの黒い指先、それだけがずっとサオリの脳裏にこびり付いて離れなかった。

 

 ■

 

「設定完了、後はビークルを起動して、自動操縦に任せるだけ――」

 

 表示されたホログラムモニタ、コンソールを叩きエリアル・ビークルの自動操縦設定を完了したエイミは先生の胸元に手を添えながら呟く。床に固定された先生の表情は変わらず、その口元は苦し気に歪んだまま。エイミは先生の傍に屈み込むと自身の腰に巻き付けた弾帯へとロープを括りつけ、そのまま扉を閉め切る。続いてコンソールを通じビークルを起動させると、甲高いエンジン音、吸引音が周囲に響き始めた。

 

『エイミ、聞こえますか?』

 

 ふと、彼女の耳に聞き慣れたヒマリの声が聞こえた。彼女は装着していたインカムに指差を添えながら、いつもより幾分か声量を上げ返答する。

 

「聞こえているよ部長、たった今先生を保護したから、ビークルを使ってそっちに連れて帰る」

『――そうですか! ふふっ、一先ず安心しました、他の皆さんも先生の帰還を心待ちにしていますので、くれぐれもよろしくお願いしますね』

「うん、分かっているよ」

 

 エイミは頷き、先生を見下ろす。同時にぐん、と体を襲う浮遊感。ビークルが浮上し、飛行体勢に入ったのだ。耳を澄ませると、ヒマリが後方に向かって何事かを伝え、わっと湧き上がる声が聞こえて来た。恐らくゲーム開発部の声だろう、エイミはそれをBGM代わりに先生の手元へと視線を移す。

 

「……やっぱり、前に見た時よりも色が濃くなっているよね」

 

 呟き、先生の指先を見つめる。見たことが無い症状だった、最初は単なる鬱血か、単に戦闘中汚れたものとばかり思っていたが――今のそれは、明らかに何かが『浸食している』様な見た目だった。

 怪我とも少し違う、明確に感じ取れる異変。暫し先生の状態を観察していたエイミは、無言で着込んでいた外套のポケットに手を差し込むと、中からハンカチを取り出す。そしてそれを先生の手に覆いかぶせると、掌全体を隠す様に結びつけた。

 それは彼女なりの配慮だった、きっと先生はコレを大勢に知られる事を厭うだろう。そんな確信があったのだ。

 だが、このまま見過ごすという選択肢も存在しない。

 故にエイミは先生の額に滲む汗、それを袖で拭ってやりながら呟く。

 

「――これは流石に、部長と相談した方が良いよね」

 

 ■

 

「……守護者達が」

「止まった――?」

 

 積み合った瓦礫片、アカネの設置した防壁代わりのケース、その向こう側から顔を覗かせるエンジニア部は戦々恐々といった様子で呟きを漏らす。視界にはそこら中に転がる破損し、内部を晒す守護者の残骸と、一斉に動きを止めた活動可能な守護者達が映っていた。

 つい先程、目と鼻の先で銃撃戦を行っていた守護者の群れ、それらは重なり合いながらも波の如く自分達へと襲い掛かっていたが、今では光を失い、まるで我楽多の様に地面に転がっている。

 ゆっくりとした動作で物陰から身を乗り出したウタハは、直ぐ傍に転がった守護者を銃口で軽く突き反応を伺う。しかし一向に再起動する様子はなく、暫し間を置いた後彼女は安堵の息を吐いた。

 

「どうやら先生達が上手くやってくれたみたいだね」

「助かった、のかな……?」

「恐らく、ですが!」

 

 詳細は分からないが、中央タワーに乗り込んだ皆が何とか事態を収拾してくれたのだろうとエンジニア部は予想した。疲労感からその場に座り込んだ三名は、互いの顔を見合わせながらへらりと笑みを浮かべる。

 

「っ、と……!」

 

 そして同じように、エンジニア部よりも前線で戦っていたトキは唐突にアビ・エシュフが膝を突いた事で驚きの声を上げた。見れば溶け落ちた装甲が振動で剥がれ落ち、穴だらけの盾が指の欠けたアビ・エシュフの掌より零れ落ちる。甲高い音を立てて地面に転がる外装、ぶわりと倒れた衝撃で巻き起こる風が頬を撫でた。耳元で響くアラートは徐々に鳴りを潜め、軈て何も聞こえなくなる。

 

「流石に、限界でしたか」

 

 ふっと、苦笑を零したトキは首を振る。寧ろ今の今まで稼働していた事が奇跡と呼べるような状態であった。輸送用コンテナから起動した時と比較すれば、今の機体は見る影もない。トキは右腕をアームギアごと抜き出すと、素手のままゆっくりとアビ・エシュフの外装を撫でつけた。

 

「――お疲れ様でした、アビ・エシュフ」

 

 この機体もまた、稼働限界を超え最後の瞬間まで自身に付き従ってくれた。その事にトキは感傷であると理解していながら、感謝を述べる。

 

「……?」

 

 不意に、視界の中に誰かの指先が映った。

 顔を上げれば、罅割れた眼鏡に、所々黒ずみ、裂けたメイド服を身に纏うアカネの姿がある。彼女は歪んだ眼鏡のフレームをそのままに、指先で押し上げるといつも通り柔らかな笑みを浮かべながら云った。

 

「手を貸しますよ、トキちゃん」

「……アカネ先輩」

 

 その笑みに、態度に、差し出された掌に――トキは戸惑いを露にする。

 だって、自分は、彼女達に。

 

「良いのですか? 私は――」

「確かに、色々とすれ違いもありましたが」

 

 トキの言葉を遮り、アカネは微笑んだまま言葉を続けた。その瞳に以前感じた敵意はない。

 

「同じ危機を前に私達は背を預け戦いました、それにトキちゃんはC&Cの新人、謂わば私達にとっての後輩です、それを無下に扱うような真似は致しません」

「………」

 

 確かに自分達は敵対していた、信じる道を違え銃口を向け合っただろう。許せないと激昂した点も、勿論ある――けれどそれは決して、互いを憎み合い、悪だと思っていたからではない。互いが互いを想い、その未来を案じ、最善を尽くそうとした結果である事をアカネは理解していた。

 ましてや、彼女の境遇を想えば尚更。 

 トキは差し出された掌とアカネを交互に見つめ、それから恐る恐ると云った風に指先を伸ばす。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 告げ、トキはアカネの手を握り締めた。

 ぐん、と引き上げられるトキ。アビ・エシュフから抜き出された彼女の両足が地面を踏み締め、蹈鞴を踏む。

 ふわりと香るのは硝煙と鉄の匂い、絡む指先はどちらも血が滲んでいて、互いにギリギリまで戦い抜いた証拠が散見される。直ぐ傍にあるアカネの表情が、穏やかな色を浮かべたまま告げた。

 

「ただ、後できちんとご主人様には謝罪に向かいますよ」

「それは、勿論です」

「それとリオ会長――自身のご主人様に関しても、ただ盲目的に従うだけではいけません、時には道を違えそうになるご主人様を正す事も、出来るメイドの嗜みというものです」

 

 するりと、アカネの腕がトキの肩を抱くように回った。気付いた時には、そう表現する他ない様な滑らかな動作でトキの隣に身を滑らせた彼女は、淡々と、けれど確かな力強さを感じさせる口調で断じる。

 

「トキちゃんはエージェントとしては一流ですが、メイドとしてはまだ覚えるべき事が沢山あります、その辺り、帰還したら念入りに、それはもう詳しく叩き込みますので」

「………」

「――宜しいですね?」

 

 きらりと鈍く光るレンズ、妙に威圧感のある気配。

 駄目、とは云えなかった。

 お手柔らかにお願いします、そんな言葉がつい口から出そうになり、トキは咄嗟に呑み込んだ。アカネの表情は笑顔でも、その瞳は全く笑っていない様に見えたからだ。恐らく、それが自身の贖罪になるだろうと――トキは彼女の提案を呑み下すしかなかった。

 彼女は無言で頷くトキを見て満足そうに笑みを零し、それから後方のエンジニア部と、物陰で眠るネル、それを守るアスナとカリンに視線を向け、ふっと安堵の息を吐き出し、告げる。

 

「さて、帰りましょうか――」

 

 私達の、帰るべき居場所に。

 

 ■

 

【いつか何処かの世界で】

 

『アリス――』

 

 誰かが自身の名前を呼んでいる気がした。

 微睡の中、アリスは自身の身体を揺すられる感覚を覚える。自身の肩に触れる暖かな手、久しく感じていなかった――誰かの体温。

 ゆらゆらと揺れる体、僅かに残っていた眠気が少しずつ、少しずつ晴れて行く。

 

『アリス……ねぇ、アリスったら!』

『――?』

 

 声は、直ぐ傍から聞こえていた。

 はっと、アリスはその余りにも聞き覚えのある声に思わず目を見開く。機能した彼女の視界が捉えたのは、歪みもしなければ霞もしない、此方を覗き込む姉妹の姿。モモイとミドリの二人は座り込むアリスの顔を覗き込みながら、どこか訝し気な表情を浮かべていた。アリスは突然の事に目を瞬かせながら、二人の姿を凝視する。確かに見覚えのある顔だった、けれど何となく、ぼんやりとした輪郭の歪みがある。

 

『もう、どうしたのさアリス! ゲームの最中にぼうっとするなんて、らしくないじゃん! これのストーリーの続き、すっごく気になっているのに!』

『どうしたのアリスちゃん? もしかして、何処か具合でも悪い?』

『……あ』

 

 二人の言葉を、表情を、アリスはただ呆然とした様子で受け止める事しか出来ない。ふと気付けば、アリスは見慣れたコントローラーを握っていた。いつかゲーム開発部に在った、自分専用の――アリスのコントローラー。

 握ったそれは見慣れたレトロゲーム機に繋がれており、画面にはドット絵で描かれるフィールドが広がっている。その中心に佇む、勇者のキャラクター。忘れかけていた光景、もう二度と見る事が出来ないと思っていた景色。

 

『―――』

 

 乱雑に転がったゲームのパッケージ、幾つも繋がれたコントローラー、並べられたディスクに愛用のクッション、広げられた雑誌、絡まったコードが足元に広がりダマになっている。いつもユウカが来ると、「少しは片付けなさい!」と小言を云われたものだ。

 その場所を見間違う筈もない、もう二度と目にする事はないと思っていた――在りし日の、ゲーム開発部の部室。

 アリスはゲーム画面と室内、そして二人を見比べながら恐る恐る問いかける。

 

『も、モモイ、ミドリ……?』

『ん? あれ、どうしたの、もしかしてアリス、本当に調子が悪いんじゃ――』

『……でも、熱とかはないみたいだけれど』

 

 戸惑いを隠せず、ただただ動揺した声色で問いかけるアリスに、二人は何て事のない様子で対応する。ミドリの掌がアリスの額に触れ、その温かさがアリスの頭部を揺さぶった。それは正しく目に見えない衝撃だった。視線を彷徨わせ、唇を小さく開閉させるアリスは困惑する。

 夢、ではない? アリスはそう思って自身の記憶を振り返ろうとする。

 けれど、まるで記憶領域がごっそり抜け落ちたかのように、アリスは直前の事が思い出せずに居た。

 アリスは何か、大事な事を忘れている様な気がした――忘れてはいけない、苦しくて、辛い事。

 けれど暖かな空気と光景、そして何より求めていた現実が彼女の心を縛り付ける。

 

 だって、それは余りにも心地よかった。

 自分達はずっとこうやって過ごして来たのではないか。

 この光景は何も、可笑しな事なんてないのだと。

 アリス(自分)の日常、ゲーム開発部の毎日は――こうやってずっと続いて来たのだと。

 そう思うと、つい先程の感情、辛くて苦しい何かが、まるで悪い夢の事の様に思えて来た。

 アリスはコントローラーを握り締めると、必死に、努めて明るい口調で告げる。

 

『――ごめんなさい、アリス、少しだけぼうっとしてしまいました!』

 

 ぱっと、華が開いたかのように笑うアリス。

 それは彼女の中にある寒く、薄暗く、恐ろしい感情から目を背ける為の笑顔だった。

 アリスを見ていたモモイとミドリの二人は、仕方ないとばかりに肩を竦め彼女を挟む様に腰を下ろし、足を投げ出す。

 

『もー、確りしてよね! ゲームは全クリした後が本番なんだよ? 魔王を倒して、世界を救って、その後のストーリーが肝心なんだから!』

『魔王が居なくなった後の世界で住民に話しかけたりすると、新しいイベントが起きたりするしね、何なら裏ボスとかが現れても可笑しくないし、もっと強力な武器とか防具が手に入るかもしれないよ、アリスちゃん』

『新しいアイテムですか!? それは楽しみです!』

 

 二人の言葉に顔を赤らめ、ふんふんと鼻息荒く応えながらアリスはコントローラーを改めて握り締める。操作していた画面の勇者を移動させようとスティックを弾くと、酷く懐かしい気持ちになった。ずっと握っていた筈なのに、慣れた動作だというのに、彼女の手付きはどこかたどたどしい。

 

『アリスに目的地が無いなら、最初は勇者の生まれた村に行ってみようよ! 家族に報告とか、何かそれっぽいイベントとかありそうだし!』

『そうですね、では早速魔法で移動します!』

 

 モモイの提案に頷き、アリスが魔法を使う為にメニュー画面を開けば、表示されるパーティーメンバーが視界に入った。現在のパーティーは『アリス』のみ、最終戦を終え、平和な世界を迎えた今、パーティーは一時的に解散した様だった。

 レベルは『七十九』、終盤のレベリングを終えた中ではかなり高い方だろう。裏ボスの事も考えるのなら、最大の九十九まで上げ切りたい思いがある。

 その後二人に見守られながら、勇者の村へと魔法で飛び立つアリス。効果音と共に暗転する画面を見守りながら、ふと彼女は視線を背後に向けた。三人の後ろにあるのは赤い、ふっくらとしたソファ――いつか彼女が寝床にしていた場所、アリスはその上に人影を求めていた。

 

『そう云えば……』

『ん、今度はどうしたの、アリス?』

『――ユズと先生の姿が見当たりません』

 

 アリスがゲームをしている時、大抵先生やユズはこのソファに座って見守ってくれていた。だから自然と二人を認めた時、彼女の意識は残った先生とユズを探していたのだ。二人の姿が無い事に疑問符を浮かべれば、モモイとミドリは互いの顔を見つめた後、ふっと笑みを漏らし告げる。

 

『アリス、何云っているのさ、さっき二人で新しいゲームを買いに行ったばっかりじゃん』

『今日発売の新作ゲーム、先生が買ってくれるらしいから、ユズちゃんと二人でゲーム屋さんに行ったんだよ』

『それは本当ですか!?』

 

 新作ゲーム――その響きにアリスの瞳が輝き、思わずコントローラーを手にしたまま立ち上がる。

 

『そう、何でも先生が前から皆に内緒で予約してくれていたみたい! 今日は皆で夜通しゲームパーティだね!』

『別に良いけれど、お姉ちゃんそれでゲーム制作を疎かにしないでよ? またユウカに叱られたくないし……』

『うっ……! だ、だからゲームは遊ぶのはアイディアの為にも必要な事で――ッ!』

 

 得意げに語り出したモモイに釘を刺すミドリ、大抵いつも新しいゲームを手にした彼女達はそうだった。夜通し遊び倒し、収録されているコンテンツは全てコンプリートする。その為一週間か二週間程度は完全にゲーム制作がストップしてしまうのだ、その事をユウカに知られると彼女は部室へとやって来て、怒り心頭と云った様子で進捗を尋ねる。

 それをモモイが何とか誤魔化そうとして、ユズはロッカーに隠れたり、段ボールに入ったり、ミドリはラフを何枚か提出するのだけれど、他の皆は殆ど進捗が駄目で、それでユウカが更に怒って、先生が必死に窘めて――そう、日常だ。

 ありふれた日常、何て事のない毎日が今、アリスの目の前には存在していた。

 其処まで考え、アリスは不意に自身の頬を流れる何かに気付いた。

 

『――アリス?』

『……へっ?』

 

 モモイが自分を見て、驚いたような声を上げる。

 ミドリも遅れて気付き、やはりアリスを見て目を見開いていた。彼女達は途端に不安げな表情を浮かべ、手を伸ばしながら恐る恐る問いかけて来る。

 

『ど、どうしたの、アリスちゃん』

『アリス、泣いているよ……!? やっぱり、ど、何処か痛いの!?』

『えっ、あ――……?』

 

 そう云われて、アリスは初めて自分が涙を流している事に気付いた。

 咄嗟に頬に指先を当てれば、感じられる涙の痕跡。彼女は自身が涙を流しているという事実に驚き、目を瞬かせる。どうして今、こんなものが――そう思い、目元を擦るものの次から次へと涙は零れ落ちて来る。

 アリスはコントローラーを手放すと、両手で目元を何度も拭いながら首を横に振った。

 

『ち、違います、これは、その、ただ、アリスは――』

 

 たどたどしく、言葉を紡ぐ。

 そう、悲しい訳じゃない。

 悲しくて涙が出る訳ではないのだ。

 ただ、アリスは――嬉しくて。

 

『何故、でしょうか……? な、何だか今、アリス、凄く幸せで』

『し、幸せ? そんなに新しいゲームが嬉しかったの?』

『――……えへへ、はい、きっとそうです』

 

 はにかみ、口元に深い笑みを浮かべながら告げるアリス。

 本当は、違った。

 新しいゲームは嬉しいけれど、アリスはただこうして皆で一緒に遊べる事自体が嬉しかったのだ。

 ただ、それを知られるのが嫌で、何となく恥ずかしくて、アリスは拙く、誤魔化す様に俯いた。

 ミドリは困惑した様子でモモイを見て、モモイもまた同じようにミドリを見返す。

 彼女達からすれば新作ゲームが手に入ると聞いて突然泣き出したのだ、困惑もするだろう。モモイは腕を組みながら目元を擦るアリスを見つめ、呟く。

 

『うーん、こんなに喜ぶなら部費で前もって買っておけば……』

『いや、お姉ちゃん、今そんな余裕ないでしょ、ただですら最近部費削られそうなのに』

『いや、バイトでも何でもすれば、何とかなるよ――!』

『それもう部費でも何でもないじゃん……』

『んんッ! と、兎に角、今はこのゲームを楽しもう! 魔王が居なくなった後の世界をさ! 二人がゲームを買って来てくれるまで、まだ時間はあるし!』

『は、はい、そうですね……!』

 

 ミドリから入る突っ込みを捌き切れなくなったモモイは咳払いを挟み、アリスが落としたコントローラーを彼女に力強く押し付ける。それを受け取ったアリスは目元を拭い、改めて画面に目を向けた。其処には先程まであった昏い感情は微塵も見当たらなかった。

 

 魔法で移動した勇者は村の入り口、その手前のフィールドに飛ばされる。後は少し歩けば勇者の生まれた故郷が見えてくるだろう。ドット絵で歩き始める勇者の姿を眺めながら、ふとミドリがアリスの名を呼んだ。

 

『ねぇ、アリスちゃん』

『あ、はい、何でしょうミドリ?』

 

 

「――頑張ったね」

 

 

 その一言に、アリスのコントローラーを操作していた指先がぴたりと止まった。

 釣られて画面の中に居る勇者の足が止まり、村の入り口手前で停止する。

 まるで世界が色を取り戻すかのように、耳鳴りがして、不鮮明であった世界が一気に明瞭となる感覚があった。

 それは本当に、不思議な体験だ。

 無意識に肩が跳ね、身体が硬直する。何故そうなったのか自分でも分からなかった。ただ、その一言が、ミドリの言葉が――アリスの中にある何かを、根底にある何かを強く揺さぶったという感覚だけがあった。

 

 ミドリの視線はアリスに向かっていない、彼女はゆったりとした動作で画面の勇者を指差し、穏やかな様子で言葉を続ける。その姿は先程よりもはっきりしていて、煌めく瞳には優し気な色が見て取れた。

 

「このゲームさ、結構ストーリー長かったでしょう? クリアに何百時間って掛かっちゃったし、此処まで来るまで大変だったから……隣でずっと見ていたから分かるよ」

「あー、確かに、全体的にすっごく鬼畜難易度だったよね、時には理不尽に思えるイベントもあったし、まぁだからクリアし甲斐があるって云うのもあるけれど」

「あ、アリスは……」

 

 二人の言葉を耳にしながら、アリスは思わず声を震わせる。

 胸に込み上げる何かがあった。それは今にも叫び出しそうな衝動、想い、感情、その爆発。けれどそれがどういう物なのか、どこから来たものなのか、何故湧き上がるのか――アリス自身にも理解出来ないでいた。

 ただどうしようもなく、制御できない感情だった。アリスの唇が震え、コントローラーを強く握り締めながら呟きを漏らす。

 

「……アリスは、頑張ったのでしょうか?」

 

 零れ落ちた疑念。

 自分は――アリスは。

 頑張ったのか。

 頑張る事が、出来たのか。

 頑張った結果が、今なのか。

 

 漠然とした問い掛けだ、そもそも言葉の裏にある意図をアリス自身が自覚出来ていない。だというのに何故か、問い掛けなければならないと云う想いがある。それはアリスの中に存在する強烈な衝動、自分ではない誰かが、何かが腹の奥底から問いかけている様な。

 零れ落ちたアリスのそれに、二人は驚いた様に顔を見合わせる。

 それからふっと破顔し――モモイとミドリはアリスを両脇から抱き締めた。

 ふわりと、アリスの身体が二人に包み込まれる。

 

「こんな高難易度のゲームをクリア出来たんだから、頑張ったでしょ!」

「うん、そうだね、アリスちゃんは頑張ったよ!」

 

 左右から訪れる二人の体温、懐かしい香り、柔らかな声。

 画面の中で佇む勇者がアリスを見つめる。そのレベル、装備品、紡いで来た絆、プレイ時間――あらゆる記録(思い出)が証明している。

 彼女が此処まで辿り着く為の道のりを。

 その困難であった試練の全てを。

 二人はアリスの顔を覗き込みながら、穏やかな口調で云う。

 

「だから、後は此処で待っていよう? ユズちゃんと先生が、帰って来るのを」

「ま、予約した店がちょっと遠い場所だから、少し時間が掛かるかもだけれど」

 

 肩を竦め、大袈裟に両腕を広げたモモイはふんと鼻を鳴らす。アリスに寄り掛り、その肩を何度も叩く彼女は、いつも通り天真爛漫な笑顔で以て断言するのだ。

 

「皆でゲームをして待っていれば、そんなのあっという間だよ!」

 

 モモイの言葉に、アリスは目を瞬かせ、はにかみながら頷く。

 改めて指先を動かし、勇者を数歩歩かせると、村の入り口にキャラクターが立っているのが見えた。アリスが最初、この村を出発した際に送り出してくれた村人の一人。

 遠くに在っても、勇者を応援してくれていたNPC(誰か)

 彼女はドット絵で描かれた赤い瞳を瞬かせ、拙い笑顔で勇者(アリス)へと告げる。

 

【――お帰りなさい、勇者アリス!】

 

 アリスはウィンドウに表示されたそれを目にして、最後に一粒の涙を零した。

 鼓動が高鳴り、自分とは異なる存在を内側に感じ取る。

 けれど、そこに悲しみはない。

 だからこそ左右に感じる温もりを噛み締めながら、彼女(アリス)は満面の笑みで応えるのだ。

 ただ、心の底から――嬉しそうに。

 

「……はい!」

 

 勇者アリスは改めて、救った世界を冒険する。

 仲間達と一緒に、晴れやかな笑顔を浮かべて。

 世界を救っても、それでも彼女達の冒険は終わらない。

 だって。

 

 ――この世界には、まだまだ美しいものが沢山あるのだから。

 


 

 次回「エピローグ」

 

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