ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告感謝ですわ!
今回約一万三千字ですの!


善き人(変な人)

 

「おっ、帰って来たね、お帰り~!」

 

 子ウサギ公園――RABBIT小隊キャンプ。

 一行が野営地に戻ってくるのと、モエがテントから顔を覗かせるのは殆ど同時であった。実働部隊の三名は持ち上げていたドラム缶を地面に降ろす。ガコン、と重々しい音が響き、深い疲労を感じさせる吐息が零れた。

 

「ふぅ、色々あったが、中々に貴重な体験だったな」

「や、やっと戻って来れた……!」

「キャンプへ帰還、負傷者もなし、作戦は成功ですね――」

 

 流れた汗を拭い、彼女達は達成感を滲ませる。当初の予定とは少し異なる過程を経たが、それはそれとして結果的に作戦目標を確保する事が出来た。消耗したのは体力と、弾倉を一つ分という所か。兎角、彼女達の直ぐ脇に佇むドラム缶、これで部隊の衛生状況を改善する事が出来るだろう。

 ミヤコ、ミユ、サキでそれぞれ一本ずつ。

 そして、最後の一本は――。

 

「ぜっ、ハッ、はぁッ……!」

 

 ゴロゴロ、と。

 背後から微かに響いて来る何かを転がす様な音。振り返れば、今にも死にそうな顔をした先生がドラム缶を寝かせ、転がしながら此方に向かってくるのが見えた。

 最初は素直にドラム缶の中に入って駆けていた先生ではあるが、埠頭を離れてからはこの様に比較的労力の少ない移動方法にシフトしていた。身に纏っていた外套は既に腰に巻かれ、その首筋には大量の汗が流れている。埠頭までの距離を考えれば然もありなん、その表情は青を通り越して最早白い。当初と比べれば緩慢な足取りで、しかし一歩一歩確実に歩み寄る先生に対し、ミヤコは声を掛ける。

 

「……先生、御無事ですか」

「な、何とか、ね――……」

 

 力なく応える先生、最初こそ虚勢を張るだけの元気があった彼ではあるが、二十キロ近いドラム缶を担ぎながら一時間以上の移動は相当堪えたらしい。最後までドラム缶を転がし切り、ミヤコの傍まで辿り着いた先生は遂に力尽き、半ば倒れ込む様にしてドラム缶にへばりつく。荒い息をそのままに、ドラム缶へと寄り掛る先生を覗き込む様に屈んだミヤコは、その様子をつぶさに観察しながら問いかけた。

 

「疲労は兎も角、怪我などは?」

「と、特には、無いかな……」

「そうですか、私達の作戦行動中に負傷されては、また連邦生徒会からどんな処罰を受けるか分かったものではありませんからね、安心しました」

「は、はは……」

 

 ミヤコの素っ気ない対応に、先生は乾いた笑いを漏らす。何かを返すだけの余力もなかった。取り敢えず先生に負傷がない事を確かめたミヤコは、そっと胸を撫でおろし立ち上がる。

 

「いやー、それにしても思いっきり醜態晒していたねサキ、あんなに自信満々だったのに、相変わらず実践に弱いままじゃん」

「うるさい、予想外の事態さえなければあの程度、五分で終わっていた……! 全く、現実はいつもこうだ」

「きょ、教範通りには中々いかないよね」

 

 揶揄うモエに対し、サキは悔し気に吐き捨てる。ミユからしても、その言葉には実感が籠っていた。演習や訓練ではうまく行くのに、いざ本番となると空回ったり、上手く行かない事が多い。精神的な重圧や失敗してはいけないという緊張感が体を強張らせ、頭では理解出来ているのに思考が追いつかないのだ。兎にも角にも、反省点だろう。乱雑に髪を搔くサキに対し、ミヤコはその肩を軽く叩く。振り返ると、いつも通り不愛想な表情が視界に映った。

 

「ですが成功は成功です、内容は後で反省するにしても、一先ずは――お疲れさまでした、サキ」

「……あぁ」

 

 その言葉に、サキは声を詰まらせながら頷く。恐らく彼女に他意など無いのだろう、その口調は此方を労うようなものだったし、ミヤコが嫌味を口にした記憶など一度も無い。良くも悪くも彼女の在り方は実直で、素直だ。自身が間違っていると思った事に対しては、正面からぶつかって来る。故にサキは視線を逸らし、口を一文字に結ぶと、ややあって彼女の名前を呼んだ。

 

「……なぁ、ミヤコ」

「はい?」

「その――悪かったな」

 

 言葉は思ったよりも、すんなりと口から出た。それは作戦開始前に突っかかった事に対して、同時に彼女から強引に指揮権を奪った事に対しての謝罪だ。こういう事を真正面から告げるには、存外勇気が必要だった。故に彼女を真正面から見つめる事は無く、ただ嘘は無く、感情を伝える。

 

「色々云ったが、お前の能力は、その……信頼しているから」

「―――」

 

 ミヤコは一瞬、面食らった様に目を見開く。まさかサキからこんな風に言葉を掛けられるとは思わなかったのだろう。しかし数秒して、ミヤコは薄らとした笑みを口元に湛えた。いつも表情に変化がない彼女からすれば、少し珍しい柔らかさであった。

 

「――知っていますよ、私も、サキを信じています」

「……ふん」

 

 何となく気恥ずかしくなって、サキは踵を返すと足早にミヤコの元を去っていく。肩に提げていた愛銃を掴むと、そのままドラム缶を足で小突きながら云った。

 

「兎に角、今は汗でベトベトだ、一刻も早く洗い流したい」

「くひひ、そう云うと思って――じゃん!」

 

 その言葉を待っていたと云わんばかりに、満面の笑みを浮かべ、モエが取り出したもの。いつの間に用意していたのか、彼女の影には積まれた複数の薪と固形燃料が積まれていた。恐らく皆が作戦中の間に物資箱から漁って来たのだろう。モエはそれらを両手に持ちながら、待ち切れないとばかりに声を上げた。

 

「事前に薪とか着火剤とか、色々用意しておいたよ! ほらほら、さっさとお湯を沸かせてお風呂に入ろう!」

「モエ、お前……作戦中にこんな準備をしていたのか、普通だったら懲戒処分ものだぞ」

「ですが今は有難い事です、早速汗を流してしまいましょう」

 

 これだけ準備が揃っていれば、お湯を沸かすのはそう難しい事ではない。ミヤコは両手を叩くと全員の視線を集め、それから薄らと喜色を滲ませながら告げた。

 

「さぁ、皆さん――もうひと仕事ですよ」

「了解!」

 

 ■

 

「あー、生き返るぅ……」

 

 ちゃぷ、と。

 伸ばした腕から滴る湯が音を鳴らした。同時にモエの口から、絞り出すような声が響く。そこには恍惚とした響きが含まれており、眼鏡を外した彼女は微かに曇る視界をそのままに夜空を見上げた。

 一人一本、ドラム缶の中にそれぞれ湯を沸かした彼女達はテント裏にタープで仕切りを作ると、簡易的な焚口を並べドラム缶の底に踏板を設置、簡単な短い梯子で足場を作り上げた。入浴には手間が必要だし、入る時も出る時も少々大変だが、いざ浴槽に入ってしまえばその面倒さも吹き飛んでしまうような心地よさが滲んで来た。

 サキは湯に肩を沈めながら、紅潮した頬で満足そうな息を零す。

 

「やっぱり疲労回復には湯舟が一番だ、筋肉が解れていくのが分かる、ドラム缶のお風呂というのも――少々手狭だが悪くない」

「はい、最初はどうかと思いましたが、思ったより心地良いですね」

「ちょっと、温度の調整が難しいけれど……」

 

 サキ、ミヤコ、ミユの順番に感想を漏らすが、その意見は一致していた。もっと窮屈なものになると思っていたが、いざこうして入ってみると中々どうして悪くない。大きさから体をすっぽり覆えるくらいには余裕があるし、膝もある程度まで曲げる事だって出来る。何より普段とは異なる湯の浮遊感とでも云うのか、半ば立つ様な形で湯に浸かるのは新鮮で、面白くもあった。

 

「あ、あの、これ、このままどんどん温度が上がっちゃったりしないよね……? か、釜茹でにされちゃったり、とか」

「心配ご無用、その辺りはサーモグラフィでちゃんとチェックしているから、上がり過ぎたら消火すれば良いよ、なんなら水を足しても良いし、水道に繋げたホースは直ぐ傍に持ってきているからさ」

「サーモグラフィってお前、こんな事に装備を使ったのか、モエ?」

「サキ、そんなにケチケチしなくても良いじゃん、使えるものは何でも使わないとでしょ、こんな環境じゃさぁ」

 

 手元に在るもの、周囲の環境、使えるものは何でも使う、柔軟性ってそういうものでしょ、現地調達の基本ってサバイバル訓練でやらなかった? そう口にしながらモエはドラム缶の縁に寄り掛りながら破顔する。「それは、勿論憶えているが」と呟きながら口を湯に沈めるサキ。彼女としては、作戦用の装備をこんな風に使用する事に若干の抵抗がある様だった。尤も、こんな生活を続けていくのであれば――その感性もいつかは消えていくのだろうが。

 

「というか、皆お湯温くない? テルミットでも放り込んでみる?」

「はっ? おい、やめろ馬鹿! 全部吹っ飛ぶぞッ!?」

「これ位の温度で丁度良いでしょう、これ以上熱くすると支障をきたします」

「――ふふっ」

 

 ドラム缶に入ったまま、あーだこーだと言葉を交わす仲間達を横目に、ふとミユが笑い声を漏らした。それは本当に、つい漏れてしまったと云わんばかりに些細な声だった。

 

「なんだミユ、唐突に笑ったりして……」

「あ、う、うん、えっと、何だか、その――楽しくて、つい」

 

 サキに問い掛けられたミユは、咄嗟に口元に手を当てて、そのまま恥ずかしそうに湯船へと口元を沈ませる。思いもよらない言葉に面食らうサキ、しかし同時にその感覚に同意する自分が確かに居た。

 

「あー、確かに、こうやって皆で入ってあーだこーだ喋るの何て、何だか変な気分だよね」

「まぁ確かにな……訓練後とかはシャワーをさっさと浴びて終わるのが殆どだったし、浴場とかを使ったのは合同演習とか、大きな訓練の後だったか」

「だねぇ、あの手のカリキュラムの後は、殆ど疲労で喋る余裕も無かったじゃん? 皆で湯船に死んだように浸かってさ、必死に体を解して、入浴時間も決まっているからのんびりなんてしていられないし」

 

 モエは両腕を伸ばしながら、当時の事を思い返す。SRTにあったのは気力体力、全てを使い切った後に義務的に入る様な湯舟だ。そこに会話は無いし、全員が殆ど機械的に体を清め、後に疲労を残さない様湯船で体を軽く解す。後は自室に戻って、ベッドに身を投げるとあっという間に眠る。日常の中にある、入浴という些細な行為を楽しむ余裕が全くなかった。

 

「……いつかSRTに戻ったとしても、偶にはこうして皆でお風呂に入りたいものです」

 

 湯を両手で掬いながら、きらりと夜空を反射するそれを見下ろし、ミヤコは告げる。そこにはこうして、皆で何かを共有する楽しむ時間を惜しむ様な、そんな響きがあった。SRTに戻る事は自分達の悲願だ、けれどこうした日常の中にある楽しみを、些細な幸福を、大切にしたいと思う気持ちも存在する。

 ミヤコの言葉に顔を見合わせた仲間達。それから誰となく破顔し、頷きを返した。

 

「まぁ、それも悪くないかもね、くひひ」

「……うん、わ、私も」

「流石に、ドラム缶風呂は無理だけれどな、学園の浴場ならもっと広いし、快適だろう」

 

 笑い声交じりの会話、それが夜の野営地に響く。

 成り行きで始まったこのキャンプ生活だが、失ったものも多ければ、得たものも多い。演習で長期間野営する事もあったが、本当の意味で後ろ盾無くこの様な事に挑むのは初めてだった。一人一人が役割を果たし、何とか今を生き抜く。ただ任務を乗り越えるだけではない、日々を共に生きる仲間というものを、彼女達は初めて意識した様な気がした。

 

 そんな和気藹々とした彼女達の間に、響く声が一つ。

 

「皆がリラックス出来る環境が出来たのは良いのだけれど、此処は野外だし、誰か来ないか見張っていないと駄目だよ?」

「ん? あー、まぁ問題ないだろう、こんな時間だし、子ウサギ公園なんて辺鄙な場所、そうそう人なんて来ないさ」

「隊員同士で裸を見せ合う何て今更だしねぇ、サキの云う通り、この時間帯に公園に来るヤツ何て居ないでしょ」

「や、野生の小動物とかは、居るんですけれどね、でも基本的に、襲って来る様な子はいませんし……」

「仮に侵入したとしても、地雷とターレットが反応する筈です、防衛網は私達が不在でも健在ですから」

「それでも、気を付けないと」

 

 入浴する生徒達、その直ぐ傍で地面に転がる先生は、夜空を見上げながらとても真剣な表情でそう告げていた。

 

「………」

「………」

「………」

「………」

 

 一瞬、RABBIT小隊の間に沈黙が流れる。

 全員が浴槽に身を沈め、ほんの数メートル先で転がる先生を見下ろしていた。ミヤコが静かに、しかし確かに羞恥を滲ませながら問いかける。その頬は、赤く染まっていた。それは恐らく、物理的な温度ではなく、心理的なものによるものだ。

 

「……本当に今更ですが、何故そんな所に? 先生」

「勿論、生徒の安全を守るための見張りだよ」

 

 訝し気に問われるそれに、先生は強い口調で答えた。そこに嘘は無かった、本人は至って真剣で、彼女達に悪意を以て接近する存在が無いか、方々に目を光らせていたのである。長袖のシャツ一枚で冬の地面に転がる先生を、RABBIT小隊は何とも云えない瞳で見つめる。

 

「そんな、土の上に転がって、ですか」

「ごめんね、今ちょっと全身が悲鳴を上げていて、動けそうにないんだ、腹筋とか、背筋とか、上腕二頭筋とか、もう全部が動こうとした瞬間に絶叫して……」

 

 ――それは果たして、見張りの意味があるのか。

 

 四肢を投げ出し、地面に横たわる先生を眺めながらミヤコは思った。最早それは、寝転がっているだけなのではないだろうか。疑問は尽きない。しかしどんな理由があるにせよ、先生は男性で自分達は女性だ。加えて先生と生徒という関係でもある。そんな自分達の入浴に先生が居合わせるのは、非常に拙い絵面に思えた。

 口火を切ったのはサキだった。彼女は自身の身体を抱き締めながら湯に沈むと、先生を睨み付けながら叫んだ。

 

「というか、本当に何で居るんだよ、生徒の入浴姿を見るとか、どう考えてもアウトだろ……!」

「ま、まさか本当に、作戦が終わって武装解除の隙を狙って――……?」

「あ、いや大丈夫、安心して皆、そっちは見ないし、見えないから」

「いや普通に見えるでしょ! ちょっと右に顔を傾けたら見えるじゃん!」

「右目側だし……」

「いや意味が分からん! 流石にこれは撃たれても文句云えないぞ、先生!?」

 

 モエの云う通り、地面に転がった先生が右側に顔を傾ければ、簡単に彼女達の入浴姿を視界に収められるだろう。手にしたテルミットを先生へ投げつけようとするモエ、口まで湯に浸かるミユ、火を吐く勢いで先生を怒鳴りつけるサキ。その攻勢に先生は身を竦ませると、渋々行動を開始する。

 

「流石に、撃たれるのは拙い……ぐ、ぅ」

 

 先生はRABBIT小隊に気圧され、何とか起き上がろうと地面に手を突いた。しかしやはりと云うか、体が全く云う事を聞かない。全身の筋肉と云う筋肉が、まるで別の物質に塗り替えられてしまったかのように。

 ドラム缶の運搬が、想像以上に先生の身体へと疲労を蓄積させていた。二度、三度、まるで出来の悪い人形のように足掻く先生であるが、軈て地面に力なくへばりつき、それから溜息交じりに呟く。

 

「うぅ、いや、ちょっと待ってね、もうちょっとで起きれるから……駄目だ、もう這って行こう」

「え、えぇ……?」

 

 これは恐らく起き上がれないと、自身の限界を悟った先生はごろりと寝返りを打ち、徐にうつ伏せになって匍匐前進を始める。立つ事すら放棄し、衣服が汚れる事も厭わず先生はズルズルと移動を開始した。大の大人が夜空の下、土に塗れながら這って行く光景は実にシュールで理解不能だ。思わず困惑の声を漏らすRABBIT小隊の面々。

 どうやら骨身に沁みた疲労は本当に限界らしい。ミヤコはそれを察し、溜息を零す。

 

「はぁ――先生、少しの間テントの中で待機していて下さい」

「……ミヤコ?」

「こっちを見ないで下さい、薪を投げつけますよ」

 

 そう告げながら、ミヤコは手早く身を清めると用意していたタオルを横目に、ドラム缶脇に掛けていた簡素な梯子を掴む。パシャリと、先生の背後から水音が響いた。

 

「流石にそんな状態でシャーレに帰せば悪評が立ちます、身体を洗う位なら許可しますから、多少でも身を綺麗にして帰って下さい」

「なっ、正気かミヤコ!?」

 

 思わず、と云った風に声を荒げるサキ。多少恩があるとは云え、先生にお風呂を使わせるなど流石に――羞恥心が勝る。ミヤコの決定に対しミユは顔を真っ赤にして黙り込み、モエは揶揄う様な色を宿しながら問いかける。

 

「えー、良いのミヤコ? 残り湯、変な事に使われちゃうかもよ?」

「私のドラム缶なら構わないでしょう、皆さんの湯は使いませんから」

 

 丁度ドラム缶は四つあるのだ、自分が使用した分を先生に貸し出すのなら問題ないだろう。勿論色々と思う所がない訳ではないが――それでも今後RABBIT小隊にあらぬ誤解の声を受けるよりは何倍も良い。今は羞恥心よりも実利が勝る、ミヤコはそう判断した。

 それに貰ってばかりでは、何となく落ち着かない。

 ミヤコは何となく表面に浮いた汚れを手で掬い、外に放り捨てる。ばしゃりと、土に湯が掛かった。

 

「いや、流石にそれは申し訳ないし、私は――」

「これもRABBIT小隊、延いてはSRTの為です、決して先生の為ではありませんので、勘違いしないように」

 

 先生が咄嗟に断りの声を上げれば、ミヤコは有無を云わさぬと強い語調で断じる。先生が黙り込むと、そのままドラム缶より乗り出し、タオルで首元を拭いながら、背を向け佇む先生に告げた。

 

「――良いですね、先生?」

 

 ■

 

「……まさか、またこれに入る事になるなんて」

 

 仕切り一枚で隔てられた、簡素なドラム缶風呂――立て掛けられた短い梯子を伝って中に入るそれは、冬空の下で湯気を立てている。光源は下部の火と、脇に退けられた小さな携帯式の照明が一つ。仄かな薄暗さが逆に何とも表現し難い物憂げで、淡い空気を作り出している。先生は傍に用意されていた野外用物資箱にシッテムの箱を置き、そのまま右腕の袖を捲った。

 

「うーん、流石にゲヘナ寮みたいな、七十度のお湯じゃないよね……?」

 

 流石に無いとは思うが、モエの言動から念には念を入れる。勿論、ゲヘナの寮が特殊である事は重々承知していた。先生は腕をドラム缶の中に突っ込み、中の温度を確かめる。数秒程そうしていた先生だが、不意に腕を抜くと苦笑交じりに呟いた。

 

「……あはは、あんまり分からないや」

 

 何となく、じんわりとした温かさは感じられるものの、熱いかとか、冷たいとか、そういった感覚が何か壁一枚隔てた様な、何とも鈍い伝わり方だった。しかし抜き出した掌を見てみれば、火傷した様子もない。これなら大丈夫だろうと、先生は汗の滲んだシャツのボタンを一つ一つ器用に外していく。ズボンも同様だ。

 脱ぎ去ったそれを軽く払い、表面の土埃を落とす。後はインナーを捲り上げると、左腕を固定するバンドを解除する。分かっていた事だが、義手ソケット周りのスリーブには若干汗が滲んでいた。一つ一つ丁寧に外していき、義手の接続を解除する。

 途端、先生の肌色を投影していた義手表面が黒く変化し、有機的な外観から一気に無機物めいたものへと変貌する。グローブを嵌めたままの義手を持ち上げ、先生は折り畳んだ衣服の脇に義手をそっと置いた。

 

「――アロナ、少しの間頼むよ」

『はい、スーパーアロナちゃんにお任せを!』

 

 表面の軽く汚れを拭い、丁寧に畳んだ衣服の上にシッテムの箱を置く。外で全裸になると、やはりと云うか落ち着かない。これを楽しめるハナコは特別と云う事なのだろうか、いや別段全裸で徘徊している訳ではないのだけれど。

 息を吐き出すと、白く濁っているのが分かった。どうやら衣服を纏わない状態でも、一応この身体は熱を持っていらしい。

 

「流石に、外で脱ぐのは冷えそうだ……」

『風邪を引いてしまう前に、湯船に浸かった方が良いかもしれません』

「そうだね、ならさっさと湯を被ってしまおうか」

 

 告げ、先生は用意されていた飯盒を手に取った。

 風呂桶なんて都合の良いものは無いので、RABBIT小隊は桶の代わりにこれを使用していた。間に合わせではあるが存外容量はあり、湯を体に掛ける位なら問題なく使用する事が出来た。ドラム缶風呂の湯を掬い上げ、自身の頭に掛ける。ばしゃりと足元で湯が跳ね、防水シートの上に広がった。零れた分は土に滲み、消えていく。

 

「んー……」

『先生?』

「あぁ、いや、何でもないよ」

 

 アロナから掛けられた声に先生は緩く首を振り、そのまま二度、三度と湯を被る。本当なら石鹸やらシャンプーやら、欲しいものは沢山あるが――今は湯で汗を流せるだけでも有難い。何となく心地悪く感じていた色々なものが、洗い流されて行く気分だった。

 

「ふぅー……ッ」

 

 水に濡れた髪が額に張り付き、先生は肺の空気を絞り出しながら髪を掻き上げる。露になった両目で夜空を見上げれば、少しだけ視界が広がった様な気がした。外でこんな風に視界をはっきりさせるのは、随分と久し振りに思える。

 勿論、視界が広がった何ていうのは錯覚だ。最早景色を映さなくなって久しい右目は、どれだけ眩い光であっても、煌めく星々であっても、平等に暗闇へと覆い隠してしまう。

 飯盒を指に引っ掛けたまま、右手の甲で右目の目元を擦れば、焼けつき、引き攣った肌の感覚が良く分かった。この傷が癒える事は恐らく一生ないのだろう。

 けれど、同時にこの傷によって守れた希望もまた存在する。

 そう想えば、この程度――両目を瞑り、先生はひとり笑みを零した。

 

「失礼します、先生」

「―――」

 

 そんな事を考える先生の耳に、誰かの声が届いた。

 見れば、張られたタープを迂回し此方へとやって来る影が一つ。腕の中に折り畳まれたタオルと、支給品のシャツを一枚抱えたミヤコが、徐に顔を覗かせた。

 

「一応、タオルと着替えを持って来ました、ちゃんと新品ですので、変な事に使うのは――」

 

 そう云って、ふと提げていた視線を上げるミヤコ。その先にあるのは、中途半端に此方へと向き直った先生の姿。

 

「……っ!」

 

 びくりと、ミヤコの肩が跳ねた。薄暗い暗闇の中、小さな照明と火に照らされた大人の身体は、彼女が言葉を呑み込み、硬直するには十分な代物だったのだ。掻き上げられ、僅かに色の異なる右目が彼女を射貫く。その周辺の皮膚は変色し、光を宿してはいない。

 そこから視線を下げると、首元から胸元、肩口、腹部と夥しい量の傷痕が並んでいた。流石に、そこから視線を落とす事は無かったが――数秒、気まずい沈黙が流れる。

 

「……ミヤコ」

「せ、先生――」

 

 心臓が、嫌な高鳴り方をしていた。ミヤコは一瞬、何と云えば良いのか分からなかった。ただ、沈黙する事は悪手に思えて、咄嗟に口を開く。

 

「……左腕、義手だったんですね」

 

 目に付くのは、やはりそこだろう。先程まで存在していた筈の左腕が、直ぐ脇の物資箱の上に転がっていた。普段は何て事のない色に見えたが、先生から取り外されたソレは真っ黒に変色している。先生はミヤコの視線を追って義手を一瞥すると、歪に変色し、歪んだ左腕の肩口を撫でつけながら苦笑を零す。

 

「普段から、そういう風に見えないよう、振る舞っているからね、気付かれないのならその方が良いんだ」

「………」

 

 先生の云う通り、ミヤコはその事実に今の今まで気付かなかった――或いは、気付こうとしなかったからか。勿論、その義手の動作がスムーズで、外観を変更していたという点もあるだろうが。

 ミヤコの視線を感じ、先生はそれから逃れるように身を捩った。それは羞恥心によるものではなく、単純に彼女へ配慮してのもの。同時にミヤコも無遠慮であったと気付き、抱えたタオルをきつく抱き締めながら顔を逸らす。

 

「す、すみません」

「いや、こっちこそごめん、嫌なものを見せた」

「――いいえ」

 

 それは、台詞だけ聞けば何とも淫靡な気配を感じさせるだろう。しかし、実体は陰鬱で、痛々しくて、とても胸躍る様な代物ではない。視線を彷徨わせるミヤコは落ち着かない様子で自身の腕を摩り、呟いた。

 

「……傷には、慣れています、私達はSRTですから」

「それでも、生徒に見せるものじゃない、その(見せる)つもりもなかったのだから」

 

 それは大人としてか、それとも先生としてか。或いは、両方か。

 事此処に至って、ミヤコは薄々先生の持つ善性を信じ始めていた。勿論、全幅の信頼を置いている訳ではない。以前口にした、「貴方のような大人が嫌い」という言葉は嘘でも何でもないのだから。しかし、何の困難も、障害も無かった、才覚に溢れた人という認識は改めなければならないと思った。

 何せ、その理由が――目の前に、こうして存在しているのだから。

 

「……凄い、傷ですね」

 

 酷い、と口にしなかったのは、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。ミヤコは視線を逸らしながらも、しかし時折伺う様に、先生の背中を見ていた。先生の身体は、凄まじい。それは筋肉だとか、骨格だとか、そういう面ではなく――悍ましい程の傷が刻まれている事、それを受けて尚生きている事が凄まじいのだ。

 銃創、切創、裂創、熱創、挫創――どれがどの傷で、何が原因で出来たのか。それすらも分からなくなりそうな程、傷の上に傷をつける様な、最早無事な部分を探す方が難しい程に、先生の肉体は痛めつけられていた。

 それは到底、後方指揮を担当する様な人物の身体ではない。

 

「先生は、後方から指揮を執るのが常だと思っていましたが、まさか今回の様に前線で指揮を……?」

「そうだね、本当はそうする事が一番良いとは分かっているんだよ、けれど儘ならない事も多くて」

 

 ミヤコの問い掛けに、先生は背を向けたまま答えた。体が冷えるのを嫌ったのか、手にした桶代わりの飯盒を湯に沈め、そのまま頭部に振り掛ける。ばしゃりと、先生の身体が湯に覆われ、僅かに立ち昇る湯気が一瞬だけミヤコの視界を覆った。

 

「――いざという時、手を伸ばせない場所に居るのは、嫌なんだ」

 

 水滴を零し、先生は呟く。

 それは生徒達に、という事なのだろうか。

 それが先生としての在り方、本人の信念であるのならば――素晴らしい事だと思う。

 しかし、同時に危険だとも思った。ミヤコの視線が、先生の背中に向けられる。

 

「全身の傷に加え、特にその背中の銃創……それだけの銃撃を受けて、その、良く――」

「………」

 

 言葉を濁し、中途半端に声を途切れさせるミヤコ。「良く、生きていられた」と云いたいのだろう。実際先生の背中には、明確に分かる銃創が幾つもあった。それも他と比較して、真新しい傷の様に思う。

 背後から連続で発砲され、無防備に受けなければ出来ない様な傷だった。その幾つかは、バイタルラインでなくとも、その近くに着弾した痕跡が見える。

 ミヤコの問い掛けに、暫くの間先生は答えなかった。

 その沈黙に一瞬、何か拙い事を聞いてしまったのだろうかとミヤコは焦燥する。しかし、ややあって先生はゆっくりと口を開いた。

 

「まだ」

「――?」

 

 言葉を一度切った先生の顔が、ふっと持ち上がる。首だけで此方を振り返り、左目だけでミヤコを捉える先生の表情は、どこまでも優し気でさえあった。

 その瞳の奥に、ミヤコは自身と同質の、或いはそれ以上の信念(強固な意思)を垣間見た気がした。

 

「まだ、斃れる訳にはいかない、そう自分に云い聞かせたんだ」

「………」

「――取りこぼしてしまった未来(可能性)の方が、多いのだけれどね」

 

 そう云って、先生は苦笑を零した。それは自身の無力さを嘆く様な、自責の念を感じさせるような、そんな力ない笑みだった。

 表面は、何て事のない、けれどその笑みの奥に秘められた色は劇的で、鮮烈で、深淵の様に深く昏い。

 

 何度も何度も失敗して、もう後一歩、あと少しだけ、ほんの僅かでも進もうと、立ち上がった傍から崩れ落ち、這い蹲り、傷付き――それでも歯を食い縛って、あと一歩と。

 

 そんな事を何度も、何十回も、何百回も、何千回も繰り返した様な。

 

 痛みと苦しみ、悲壮と嘆き、その果てにある希望を追い求めている様な、そんな姿を幻視させる笑みだった。

 唯の思い込みだろうか、ミヤコは一瞬惚けた様に先生を凝視し、それからハッと我に返り、抱きかかえた衣服やタオルを保管箱の上に乗せると、視線を合わせないまま早口で問いかけた。

 

「……必要なら、入浴の介助を行いますが」

「大丈夫、この腕にも慣れたものさ、ありがとうね、ミヤコ」

「いえ、それなら……良いんです」

 

 自分の両手を見下ろしながら、ミヤコは自分でも良く分からない感情を抱いたまま、首を横に振った。「失礼します」と、踵を返した彼女は足早にその場を後にする。タープを迂回し、先生の姿が見えなくなってから、ミヤコは肺に張り詰めていた空気を吐き出した。一緒に何か、ぐるぐると渦巻く何かも吐き出した気分だった。

 

「……っ」

 

 けれど、肝心の根源は胸元に張り付いたまま、決して消えない。それは何故だろうか、自分は何でこんなに、動揺しているのだろうか。胸元を撫でつけながら、ミヤコは思う。

 

「皆の所に、戻らないと――……」

 

 呟き、皆が待つ野営テントへと足を向ける。その足取りは来た時とは反対に重く、覚束なかった。

 

 ■

 

「おっ、戻って来たぞ」

「み、ミヤコちゃん」

「お帰り~、ミヤコ」

 

 RABBIT小隊が設営した野営テントの内側、中央にはLEDランタンが吊り下げられており、奥側には組み立て式の簡易ベッドが整然と配置されている。ベッド傍には各々の持つ装備品や私物が収納されている棚があり、他には通信機器や簡易作業スペースが設けられていた。基本的に迅速な撤収・撤収が出来るように物の配置は予め決まっている、これは訓練時にも見慣れた光景で、内観だけならば随分と心地良い空間に仕上がっていた。

 作業用の椅子やベッドに腰掛けた仲間達は、ミヤコがフラップを潜り中に踏み込むと、濡れた髪をタオルで拭いながら声を掛ける。

 

「それで、どうだったの? 残り湯で変な事とかされてなかった?」

「……問題ありません、先生は普通に入浴していただけです」

「ふぅん」

 

 興味本位で問いかけて来るモエに対し、ミヤコは緩く首を振る事で否定する。サキは気のない返事を響かせながら、意外そうに唇を尖らせた。そしてふと、ミヤコの様子がどこかおかしい事に気付く。

 

「何だ、随分大人しいな、ミヤコ」

「……そう、ですか?」

「あぁ、いや、大人しいっていう表現が正しいのかは分からないが、こう、覇気がないって云うか……うーん」

 

 小首を傾げるサキは、自分でも正確には分かっていないのか、朧げな感想を漏らす。ミユやモエもそんな言葉を受け、改めてミヤコを注視してみるが、確かに普段と比べると幾分か落ち込んでいる様にも見えた。そこから邪推したモエは髪を拭っていたタオルを払うと、呆れた様子で問いかける。

 

「やっぱり、向こうで何かあったんじゃないの?」

「そ、そう、なのかな……で、でも、先生がそんな事――」

「えぇ、ミユの云う通り、本当に先生が何かしていたという訳ではありません、普通に入浴をしていただけですし、非難される様な行為は一切見受けられませんでした」

「……それなら、何でそんな意気消沈しているんだ?」

 

 ならば、尚の事どうしたのだと、サキは問いを重ねる。ミヤコは一瞬何かを考え込む様に俯き、それからゆっくりと唇を動かした。

 

「先生は――……」

 

 零れたのは、素朴な問いかけ。自分の胸の内に渦巻いて、へばりついていた感情の発露。しかしそれを言葉にするよりも早く、彼女は喉を鳴らし、続けそうになった言葉を腹の奥に呑み込んだ。

 

「ん? 先生が、何だ?」

「――いえ」

 

 訝し気な表情で問い返すサキに、ミヤコは緩く首を振る。

 あの傷を見た今、確信した事がある。

 きっと先生は文字通り生徒の為に体を張り続けて来たのだろう、今回の様に必死になって、何の見返りも無く。或いは、時折悪意や敵意を向けられてでも。

 自分達の様に、敵愾心を向けた生徒だって居た筈だ。命懸けの場面だって多かっただろう、あの体はその証明でもある。それでもきっと、自分達と初めて会った時のように、或いはヴァルキューレ警察学校で顔を合わせた時のように、屈託なく笑って手を差し伸べて来たのだ。付き合いの短い自分ですら、そんな光景が目に浮かぶくらいには、彼はお人好しだった。

 

 ――きっと先生は、善人だ。

 

 ミヤコはそう思った。善き人間で、善き大人なのだろう。

 けれど、同時に疑問も沸き上がった。どうして、そんな風に尽くす事が出来るのだろうかと、そんな風に考えたのだ。何の見返りも無く、下心もなく、淡々と、当たり前のように――彼のその強固な信念を支える柱は、正しさ(正義)は何だろうと。

 ミヤコは、それを知りたいと思った。

 

「何でも、ありません」

 

 その返答に、サキは眉を顰めミユやモエと顔を見合わせる。不思議に思われただろうか? しかし、此処で先生の配慮を詳らかに語るのか何か、違う気がした。不義理だと思ったのだ。それが先生になりに考え、秘めた事ならば、自分は彼の傷について黙秘する責任があると、ミヤコはそう思った。

 故にあらゆる感情を自分一人で抱えたまま、彼女はぽつりと呟く。

 

「……本当に、変な人」

 

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