ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ~!


戦乙女(ヴァルキューレ)に安らぎを

 

「――………」

 

 公安局事務所の出入り口、その軒先でカンナは携帯端末を片手に落ち着かない様で周囲を伺っていた。画面には、先生とのトーク画面が表示されている。特段、何かやり取りがあった訳ではない。此方から何かメッセージを入れるべきか、いやでも既に向かっているという話だったし、今更何かメッセージを送るよりも、直接会って謝罪の一つでも――等と、葛藤していた訳だ。

 そんな風に、あぁでもない、こうでもないと悩んでいると、誰かが駆けて来る足音が耳に届いた。はっと我に返り顔を上げれば、白い吐息を漏らしながら此方に向かって手を振る先生の姿。

 

「カンナ」

「っ、先生――」

 

 さっと、端末をポケットの中に仕舞い込んだカンナは、背筋を正して先生を迎える。先生は上がった息を整えながらカンナの手前で足を止めると、薄らと微笑んだ。

 

「さっきぶりだね、良かった、何か事件とかに巻き込まれた訳じゃなくて」

「申し訳ありません、副局長が余計な事を……!」

「余計な事なんかじゃないさ、カンナが困っているなら、私はいつだって駆け付けるから」

「……揶揄わないで下さい、いえ、先生は本気なのでしょうけれど」

 

 気負いのない、何気なく送られる言葉にカンナは言葉を詰まらせる。私に、その様な資格なんてない、思わずそう口に出しそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。

 

「それで、相談事があるって話だったよね」

「あ、いえ、その……先生のお手を煩わせるほどの事ではありません、あれは副局長の悪戯の様なもので、先生の貴重なお時間を頂く訳には――」

 

 そう慌てて否定し、謝罪を入れようとして――ずいっと、先生の顔が目前に迫った。思わず仰け反り、面食らうカンナ。暫しじっと、此方を観察するように見つめていた先生は、その左目を細めた。

 

「せ、先生……?」

「……とても、そんな風には見えないな」

 

 ぽつりと、呟かれた声。

 先生は数歩後退り、カンナから距離を取ると、徐に背後を指差す。

 

「ねぇカンナ、おでんとかって好き?」

「はっ、おでん……ですか?」

「うん」

 

 別段、嫌いな訳ではありませんが――そう答えると、先生は破顔し、カンナの手を掴んだ。手袋越しに、先生の右手がカンナを引っ張る。簡単に抗える力ではあったが、カンナは突然の事に目を白黒させ、先生に手を引かれるがまま小走りで駆け出す。

 

「あっ、ちょ、先生……!?」

「場所を変えよう、夕飯というには早いけれど、多分店は開いているだろうから」

 

 そう云って、先生は行き先に視線を向けた。

 

「こんな時はお茶を一杯、ってね」

 

 ■

 

「――屋台」

「そう、嫌だった?」

 

 先生がカンナを連れて訪れたのは、D.U.の片隅にある小さな屋台であった。

 こじんまりとしたそれは、薄らと暗がりに覆われていく夕刻の中で、淡い光に包まれている。冬場は陽が早く落ちる、その中でぽつりぽつりと、こうした屋台は少しずつ数を増やしていた。

 軽い調子で問いかける先生に対し、カンナは後頭部を掻きながら答える。

 

「……いえ、私も良く来ているので」

 

 無意識の内に口元は緩み、その瞳に親しみが宿る。何せ、自分も何度か足を運んだ場所だった。寧ろ此処に案内されて驚いた程だ。屋台に足を向けながら、カンナは靡く暖簾の文字を視線でなぞった。

 

「特に、週末などは何度もお世話になっています、今でも週に一度は」

「そっか、今まで顔を合わせなかったのが不思議なくらいだね」

「えぇ、確かに」

 

 先生の言葉に、彼女は同意を示した。何かの拍子で、ふとばったり出会ってもおかしくはなかっただろう。

 年季の入った暖簾をくぐると、大きな猫とも云える店主が鉢巻を額に巻き付け、じろりと此方を一瞥し、それから小さく手を挙げた。既知ではあったが、相変わらず無口な性質らしい。カンナと先生はそれとなく挨拶を交わし、席につく。他に客の姿は無く、まだ早い時間の為か人通りも少ない。

 店主の手元には湯気を発するおでん鍋、脇にはコンロ傍に設置された麵湯で機、大鍋からは香ばしい匂いが漂い、カンナの鼻腔を擽っていた。

 それらを眺めながら、彼女はほっと息を吐き出す。先生もまた、茹でられたおでんを眺めながら云った。

 

「私は冬のおでんが好きでね、以前は良く、こういう屋台に通っていたんだ、アビドスの方ではラーメンも一緒に、あれはいつ食べても絶品だった」

「以前と云うと、最近はあまり?」

「仕事が忙しい上に、健康上の理由でね――今日は特別って事で、一つ」

 

 先生はそういって、悪戯っぽく指を唇の前に立てた。健康診断の結果か、それとも別の理由でもあるのか。兎角、医者に止められる先生の姿が何となく想像出来た。カンナは思わず呆れた様子で肩を落とし、冗談半分で先生を睨みつける。

 

「それを、この私(公安局長)に求めますか」

「頼むよカンナ、此処は私が払うから」

「買収には応じませんよ、先生? ……冗談です、今日だけですからね」

 

 どうせ先生の事だ、何があっても此処は自分が支払うと譲らないだろう。加えて、先生がその様な無理を押してまで此処に足を運んだのは、自身の為でもある。その様に考えると面映ゆい事この上ないが、事実なのだから仕様がない。

 カンナは手元のメニューをサッと一瞥し、それから顔を上げ云った。

 

「店主、特製ウーロン茶を一つ……いえ、二つですね」

 

 通い慣れている彼女からすれば、メニューは既に頭に入っている。季節限定メニュー等はその限りではないが、注文に迷いは無かった。カンナは自身の注文を口にした後、それから先生が指を二本立てたのを見て、追加を頼んだ。店主は無言で頷き、手慣れた様子で傍の棚から二つの湯呑を準備する。

 

「カンナは、何を食べる?」

「では……そうですね、焼き鳥を一つ、此処のタレは風味が良いんです」

「なら、私も同じものを」

「分かりました――店主、合わせて焼き鳥を二つ」

 

 薄暗い冬場の道に、カンナの声が響いた。

 冬の屋台というのは、実に独特だ。足元は薄らと寒いが、カウンターに腰掛ける自身の上半身は奥から漂う熱気に当てられ、寒さをそれ程感じなくなる。年季の入った木製のカウンター席は、四人も座れば満席。しかし、その手狭さ、そして狭さに反し周囲を見渡せば直ぐ外の景色が広がる解放感。この気安さと親しみやすさが、先生は存外好きだった。

 そう云えば、何時しかお祭り運営委員会の皆がこうした屋台の良さを語って聞かせてくれた事があったか。柴大将の所に通っていた時もそうだったが、こういった文化や趣向が、自治区を超えて存在している事を嬉しく思う。

 

「どうぞ、先生」

「ありがとう」

 

 そんな事を考えていると、不意に差し出される湯呑、そして焼き鳥。藍色で染められた皿に乗せられたそれを受け取り、先生は一本手に取る。焼き上がったばかりのそれは、冬の空気に晒され香ばしい蒸気を発していた。

 先端を控えめに口へと含み、引き抜く。

 無言で咀嚼する隣で、カンナが伺う様に此方を見ていた。

 視線が合うと、八重歯を見せながら彼女は云う。

 

「どうです、中々イケるでしょう?」

「うん、確かに、優しい味がする様な気も……」

「はは、独特な表現ですね」

 

 先生の慣れない様子に、カンナはカラカラと笑った。普段公務の最中にはまず見せない、あどけなさが残る笑い方だった。この場に於いて、それが許容される事を彼女は感じ取っていたのだ。

 

「ん……」

 

 先生はそのまま焼き鳥を齧り、奥歯で磨り潰す様にして飲み込んだ。先生は咀嚼に時間を掛ける、それは傍から見るとゆっくりと、味わって食べている様に見えるそうだ。

 けれど、実態は違う。味も、風味も、熱も、まるで分からなくなってから、先生は食事で良く頬や舌を噛むようになった。口に入れた食物と頬を噛んでいる感触の違いが、感じられなくなったのだ。

 気付いたのは、ミレニアムで入院生活をしている最中だった。歯を磨いて、水を吐き出した時、血の混じったそれを見て驚いた。気付かない間に、食事で口の中を噛んでいたのだ。

 それ以降、先生は好んで固形物を摂らなくなった。ゼリー状の飲料や、然程噛む必要ないものばかりを摂るようになり、舌が白く変色し、その範囲が拡大している事に気付いて以降、あまり人前で食事をしなくなった。

 だから、RABBIT小隊の皆と食事をした時は、少し新鮮だった。

 以前、当たり前のように出来ていた事が、出来なくなる――その事が少しだけ、寂しいとも思う。

 

「――ぷはっ」

 

 先生が黙々と焼き鳥を食む隣で、カンナは既に二本を食べきり、そのまま湯呑を呷っていた。「店主、もう焼き鳥一皿追加で、ついでに特製ウーロン茶も」、カンナが指先で唇を拭い、告げる。その様子に、先生は思わず笑みを零した。

 

「良い飲みっぷり」

「え……あ、あぁ、はは、お恥ずかしい」

 

 一息で湯呑を空にした彼女は、先生の言葉にふと我に返ると、そのまま恥ずかしそうに頬を掻いて、それから店主に湯呑を差し出した。店主は慣れた様子で湯呑を受け取り、それから急須を手に取る。

 コポコポと、茶を注ぐ音が耳に届いた。

 彼女はそんな光景を見つめながら、ぐっとかカウンターに寄り掛ると、僅かに頬を赤らめた。

 

「まだ週末でもなければ、仕事だって残っている筈なのですが、こうしてこの席に座ってしまったからでしょうか? 少し……いえ、正直に云えば大分、気が抜けてしまって」

「そういう時間は大事だよ、ずっと気を張り詰めてしまっては、直ぐに参ってしまう、肉体的にも、精神的にもね」

「それは、先生も同じだと思いますが……ずっと彼方此方の自治区を走り回って、休暇など数える程しかないでしょうに」

「幸い、色んな生徒が助けてくれるからね――勿論、カンナも含めて」

「まさか! 私が先生のお役に立てた事など、それこそいつも助けて頂いてばかりで……」

 

 そこまで捲し立てる様に口にして、カンナは思わず口を噤んだ。

 ことりと、湯呑が目の前に置かれる。店主が差し出したそれを、カンナは会釈と共に受け取った。

 暫し、沈黙が流れる。

 

 

「……先生」

「何だい」

 

 カンナは、ゆっくりと口を開いた。

 その視線は、目の前の湯飲みに注がれており、水面に反射した自身を見つめている様だった。

 

「その」

「うん」

 

 彼女の胸中に、ぐるぐると巡る疑念、疑問。

 ゆっくりと沈んでいく陽光が、完全に姿を隠し、夜が来ようとしていた。

 

「……正義とは、一体何なのでしょうか」

 

 ぽつりと、口を突いたことば。

 それは余りにも抽象的で、簡素で、彼女らしからぬ弱々しさを孕んでいた。

 数秒程沈黙を守った彼女は、自身の口にした内容に気付き、それから慌てて顔を上げると、先生に顔を向けながら早口で云った。

 

「あ、いえ、すみません、別段、哲学的な問いかけをしたい訳ではなくて……えっと」

 

 本当に、不意に出てしまった言葉だったのだと。本当は、こんな事を口にするつもりなど無かった。恥ずかしそうに顔を抑えたカンナは、悔いる様に顔を顰め、そう捲し立てた後、続けて吐き捨てる。

 

「我ながら、バカな質問をしました、青すぎると……そう笑って頂いて結構です」

「RABBIT小隊の子達を見ていて、そう思ったのかな」

 

 先生のその、余りにも軽い調子で投げられた言葉に、思わず体が硬直した。

 図星だった。

 思わず息を呑む。そして何か言葉を返そうとして、何を云っても自身の反応で悟られていると気付き、苦々しい表情と共に項垂れた。

 

「先生に隠し事は出来ませんか、やはり、何でもお見通しなのですね」

「……何でもは、分からないよ」

 

 全てを知っているのなら、きっとこんな風にはなっていないだろうから。

 胸中に湧き上がったそんな想いを押し殺し、先生は湯呑を呷る。温かさも、風味も、味も、香りも、何もかも分からない。ただ喉奥に何かを流し込む様な感覚だけがある。しかし、それは生きている証明でもあった。

 それが、時間制限付きだとしても。

 ふっと息を吐いた先生は、眩しそうにカンナを見つめ、云った。

 

「私が分かるのは、この両手を精一杯広げた先までだ」

「……それでも、私の手などよりは余程広い」

 

 少なくとも、そう羨んでしまう程度には。

 呟き、困ったように眉を下げたカンナは。

 それから湯呑を先生の方に掲げ、問うた。

 

「少しだけ、私の話を聞いて頂けますか、先生」

「少しと云わず、幾らでも」

 

 先生がそう応えれば、小さく、掠れた声で彼女は感謝を述べた。

 夜が来た、街灯がぽつり、ぽつりと明かりを灯し、薄暗さの中で光が舞い始める。カンナはそんな街並みを背に、語り始めた。

 

「私は――と云うよりも公安局は、酷く中途半端な立場にあります」

「………」

「中途半端というのは、権限的な意味合いであったり、単純な立ち位置であったり……上手く云えませんが、兎に角あらゆる面で、どっちつかずなのです」

 

 踏み込んだ話をすれば、具体的が過ぎる。そしてそうなると、様々な面で支障が生じる。それはカンナ個人としても、公安局としても、ヴァルキューレとしても、そして先生からしても、迷惑な話に違いない。

 そうなる事は避けたい、先生を困らせる様な事もしたくない。今こうして弱音を吐露して尚、意地とも云える部分が彼女の中で主張しており、結果曖昧と呼ぶには質感を伴い、具体的と云うにはあやふやな、そんな言葉選びとなった。

 カンナは湯呑を掌で包んだまま、謝罪する。

 

「具体的な事は、すみません、相談した身でありながら」

「構わないよ、カンナが話したいと思う事だけで良いんだ、私が此処で耳にした全ては、あくまでプライベートな分類だから」

「……助かります」

 

 公務と口にしなかったのは、ある意味で救われた。勿論、先生が此処で耳にした事を吹聴したり、後日証言として取り扱うことは無いと理解している。そういった面に於いて、カンナは全面的に先生を信用していた。きっとこの人は、悪い意味で騙し討ちを行う様な人ではないと、腹の底から信じているのだ。

 

「当然の事ではありますが、この世の中は決して公正ではありません」

「………」

「たとえ個人が公正で在ろうと努めても、自身より強い力で歪められるのが常です――それはSRTの創設理由を見れば分かります」

 

 力や権限を持つ者が歪んだ時、それを咎める為の手段は必要だ。それは有形無形問わず。その理念を、カンナは否定する術を持たない。

 そう、自身とてただ綺麗な、真っ白な理想だけを見ている訳ではなかった。現実には、妥協が必要だ、何もかも綺麗なままで居続ける事なんて出来ないし、自身の思い通りに事が運ぶなど稀である。

 能力的な限界、精神的な限界、権限としての限界、個人としての限界、集団としての限界、社会としての限界――そして、理想の限界。

 汚れた現場で、妥協と葛藤に塗れながら公務を処理する、それが己の日常であり、現実だ。

 

「この椅子に座ってから……いえ、ずっと前から思っていた事でした」

 

 カンナは湯呑を掴んでいた掌を、ゆっくりと見下ろす。

 武骨で、所々傷があり、乾燥した掌。女性らしさだとか、装飾だとか、そういうものとは余りにも程遠い手だ。しかし、彼女にとっては自身の信じるものの為に、文字通り血の滲む様な努力と、ヴァルキューレの生徒として日々を積み重ねた証明でもある。

 そう、積み重ねて来たのだ。

 努力を、自分の信じる正しさの為に。

 その手は、今。

 

「――この手を汚さずに、正義を掲げる事は出来ない」

 

 声には、強い落胆と失望が滲んでいた。

 公安局のトップに立った時、その積み重ねていた正しさがどれ程脆く、儚く、力ないものであるかを知った。

 

 だから思った、正義とは何だろうと。

 

 それは哲学的な問い掛けであり、同時に公安局長という席に座ってから延々と自身に問い続けたものでもあった。

 それは、個人や集団が持つ倫理だとか、価値観だとかに依る相対的なものであるとか。

 共通する原則に基づく、普遍的で、どのような時代や文化に於いても通用するべきものであるだとか。

 彼女(ミヤコ)が主張したという、あらゆる面で公平であり、決して忖度せず、ある一定の基準によって設けられる絶対的な線引きであったりとか。

 

 正義の在り方は異なるだろう、彼女達の信じるそれもまた、RABBIT小隊にとっての真理であっても、万人にとっての唯一絶対と呼べるものではない筈だ。

 けれど、彼女の信じるそれが、一つの『正義の形』である事は間違いない。

 少なくとも今こうして、汚泥に塗れながら妥協を良しとした己よりは、余程。

 己を信じ、憧れた正しさを信じ、ただひたむきに走り続ける彼女を見て、カンナは。

 

「新人だった頃の自分が、そう在って欲しいと願い続けた純真な正義(無垢な正義)――それをあのRABBIT小隊の面々を見ている内に、思い出しました」

「……純真な正義、か」

「えぇ、どんな強大な力にも、苦境にもめげず、自分の全てを擲って、それでも信念を貫こうとしている姿は、正に」

 

 口にして、カンナは思わず羨望の息を漏らした。

 そう正に、自身の正義を信じていなければ出来ない行為ではないか、と。

 自身の内に秘めた、或いは憧れた正義だけを追い続け、安泰なヴァルキューレ編入を蹴飛ばし、連邦生徒会という存在に逆らってまで、目に見えない、形の無い、証明さえ不可能な――たった一つの正義(正しさ)を追求するなど。

 青い、余りにも――青く、若い。

 或いは、人によっては愚かと罵る事さえするだろう。自らの未来を投げ捨て、一時の感情に身を任せ、破滅への道を踏み出す事に何の利があると。しかし、カンナからすれば、その姿は余りにも眩く、格好良く、羨望の対象に映った。それは決して皮肉ではない、正義を執行する為に存在する己が、悪事に手を染め、あれこれと理由を付けて妥協に沈む。この現実に対して、彼女は辟易としていたのだ。

 ふっと、自嘲する様に顔を歪めた彼女は、首を緩く振りながら云った。

 

「反対に、今の私はどうですか? 貫きたかった正義など泥中に沈み、妥協と葛藤に溺れる内に、あの頃秘めていた私の正義は、すっかり何処かに消えてしまいました」

 

 そう、彼女達を見ていると、まるで自分が取るに足らない存在になった様に思えて仕方ない。

 己の矮小さを、これでもかと突きつけられている様な気分になって――酷く惨めだった。

 肩書や権限がどれ程強かろうと、どれだけ立派な言葉を並べようと、為している事に嘘は吐けない。自身が彼女達と同じ頃、一年生であった頃に抱いていた正義、理想の姿など、最早どこにもない。

 

「今の私は、あの頃夢見ていた自分とは程遠い――三流の悪党です」

 

 ゆらりと、湯呑を揺らして、彼女は吐き捨てる。

 成長するとは、そういう事なのだと云い聞かせた。辛い真実と向き合って、自身のあらゆる感情を呑み込み、他人を疑い、夢なんてものは、大体は夢のままで。過去の自分を否定する事になっても、それが世界を知るという事なのだと。正義(正しさ)なんてものは、上へ上へと、世界を知る程に小さく、儚くなっていくのだと。

 

「はは、これでは単なる愚痴ですね……全く以て、お恥ずかしい」

 

 カンナはカウンターに突っ伏すと、目元を覆いながら声を絞り出した。彼女は自身の感情や行いを、自嘲する様に、曖昧に笑っていた。

 先生は、笑わなかった。

 ただカンナの言葉をずっと、静かに聞いていた。

 ややあって、湯呑を手にした先生は、小さく息を吸い込む。

 

「カンナは、どうしたい?」

「ぇ……」

 

 唐突な問い掛けだった。

 顔を上げた彼女は目を瞬かせ、先生を見る。先生はカンナに顔を向けず、ただ自身の手元を見つめていた。そこには何か、表に出ない感情が秘められている様に思えた。

 

「……私、ですか」

「うん、それが一番大事だと、そう思うから」

 

 その言葉は柔らかくあったが、同時に何か、訴えかける様な力がある。背後を幾つかの車両が通った。道路を照らすライトが過ぎ、先生の身纏う白が微かに煌めく。

 

「私はカンナに道を示す事は出来る、新しい可能性を切り開く手伝いをする事も、転んで、立ち上がろうとする生徒を助け、チャンスを作る事も――けれどね、カンナ」

 

 ゆっくりと、含む様な言葉。

 閉じられていた先生の瞳が、直ぐ横に掛けるカンナを捉えた。

 蒼穹を想わせる青、その向こう側に、煌めく光がある。

 

「最後に自分の道を決めるのは、自分(カンナ)自身だよ」

「―――」

 

 私、自身――。

 譫言の様に、カンナは言葉を繰り返す。

 自身の唇に指先で触れながら、彼女は俯き、言葉を呑んだ。

 

「そう、生徒自身が望んだ道を進む、その手助けをする事はあっても、私が歩む道を決める事は出来ない」

「………」

「その道を歩いて行くのも、どの道を歩くのか決めるのも、カンナ自身でなければならないんだ」

 

 先生は云う。自身はあくまで、手助けをするだけだと。生徒の代わりに道を歩む事も、どの道を歩めと命令する事も無い。選び、歩くのは、生徒自身でなければならないのだと。

 

「どの道を進みたいのか、どんな未来を目指したいのか、私は、私の愛する生徒達が、どんな存在にだってなれると、どんな未来だって掴めるのだと、そう心の底から信じている――けれどそれは、『生徒自身がそう在りたい』と、『そんな道を進みたい』と、そう願わなければ始まらない」

 

 ――願いは、最初の一歩だ。

 

 先生の掌が、ゆっくりと握り締められた。握り締めた湯呑の水面に、波紋が広がる。

 どんな未来も、夢だって、願わなければ始まらない。大業を為すのも、夢を現実にするのも、理想を追い求めるのだって、意志があってこそ。

 だから、最初の一歩。

 その一歩は、その一歩だけは――彼女自らが踏み出さなければならない。

 

「だから、もう一度聞くよ」

 

 先生は、その一歩の為に問い掛ける。

 見開かれたカンナの瞳と、先生の視線が交差した。

 先生は薄らと微笑を浮かべ、その眼光どこまでも温かく、生徒を見守っていた。

 

「――カンナは、どうしたい?(何になりたい?)

 

 静かな問いかけだ。

 夜に溶ける様な、決して力強くはない、寧ろ優し気に、包み込む様な慈愛と共に投げかけられた問い掛け。その言葉に、カンナはけれど、いまだかつてない程に動揺した。潤ったばかりの口内が渇いて、肌を蝕む寒さが足元を伝う。

 それは自身の根源、根元に触れる様な言葉で。

 

「わ、私は……」

 

 ――私は、何になりたかったのだろう?

 

 自問自答、自身の中に沈み込んで溶けた疑問は、彼女の根源を目指して沈殿していく。俯き、湯呑の中を覗き込む彼女の視線は、その色を失った表情を注視していた。

 揺れる水面の中で、震える唇で言葉を紡ぐ。

 

「私は」

 

 何故、この場所に立ったのか(公安局局長の椅子に掛けたのか)

 どうして、ヴァルキューレ警察学校の門戸を叩いたのか。

 自身が幼い頃、何を目指していたのか。

 その理由――ずっと小さな頃に、憧れたそれは。

 

「――正義の味方に、なりたかったんです」

 

 するりと、声が漏れた。

 言葉は思っていたよりもずっと、簡単に。

 一度認めてしまえば、思いのほか心は楽になり、まるで憑き物が取れた様に体が軽くなった気がした。

 途端、忘れかけていた様々な記憶が鮮明に蘇る。幼い頃、手に取った書物、画面の中で活躍する主人公達。それを固唾を呑んで見守り、応援し、憧れた。いつかそんな風になりたいと、成れる筈だと、根拠もなく信じていた。

 

「どんな状況でも、どんなに恐ろしい相手でも、勇敢に立ち向かって、皆を守れる――正義の味方に」

 

 そう、憧れていた。

 今にして思えば何と青く、気恥ずかしく、苦々しい記憶か。けれど確かに根源はそこにあったのだ。どんな強敵にだって立ち向かい、困難にもめげず、真正面から打ち破る。

 自分の正義を貫くその姿に憧れた。

 自身もそんな存在になりたいと、願っていた。

 

 ――あの、探偵ウサギのように。

 

「……ですが」

 

 想い、カンナは再び表情に陰を落とした。今更、その願いを思い出した所で、何になるというのか。そんな想いが、透けて見える様な、力ない表情で、彼女は項垂れた。

 

「そんなものは、夢物語です、私の汚れ切った手で今更、到底叶えられるとは思えません」

「叶えられるよ」

 

 だが、先生は彼女の言葉を否定する。

 カンナの耳が、ピクリと跳ねた。

 

「どんな状況だって、そう在りたいと願うなら、遅いなんて事はない……少なくとも私は、全力で手助けするとも」

 

 思わず、湯呑を握ったまま先生を見上げた。項垂れたカンナに対し、先生は何処までも泰然とした様子で佇んでいた。

 湯呑を呷り、腹の中に流し込む――それから虚空に白く濁った息を吐いた彼は、カンナを左目で捉え、微笑んだ。

 

「カンナが悩んだ時、葛藤した時、何か大きな壁にぶつかった時、私は直ぐ傍に居る」

「……先生」

「――でも、それは私だけじゃない」

 

 カンナの直ぐ傍に在るのは。

 先生の言葉に、カンナは目を見開いた。そこには微かな疑念が滲んでいた。思い当たるものが無かったのだろう。しかし、そんなことは無い。

 彼女がその手を汚すと決めた時、或いは自身の行いを悔いた時。公安局の局長の椅子に座った後も、その前だって、ずっと、ずっと。

 

「カンナの(願い)は、ずっと君の傍に在った筈だ」

「……ぁ」

 

 彼女はきっと、忘れていた訳ではないのだ。

 あの頃の(願い)は、いつだって輝いていた。

 ただ自分が、目を背けていただけだ。

 それを自覚した時、カンナは愕然とした表情で自身の掌を見下ろし、くしゃりと顔を歪めた。夢は、願いは、ずっと自身の傍にあった筈なのだ。けれどその輝きが余りにも眩しくて、とても直視できなくて、ずっと目を逸らし続けていた。

 

 あの頃から変わってしまったものがある、それは肩書であったり、学年であったり、容姿であったり、人間関係であったり、能力であったり――けれど変わらないものだってあった。

 彼女が幼少期に抱き、ヴァルキューレの門戸を潜った時に秘めていた輝きは、何一つ色褪せてはいない。

 そうだ、自分が秘めたそれは変わらない。

 変わったのは――。

 

「――……変わってしまったのは、私だけか」

 

 思わず、吐息が漏れた。そこに込められた感情は、様々だ。数年分の蟠り、胸中に沈んでいた色が一気に抜けていくような気がした。自分がどれだけ変わっても、汚泥に手を汚しても、背を向け見ぬふりをしても。

 直ぐ傍に仕舞われていた夢だけは、いつだって煌々と輝いていたのだと知った。

 その時カンナは、恥じらい、嘆息し、懐かしみ、同時に安堵した。

 

「……ありがとうございます、先生」

「何も、私はただカンナの話を聞いただけだよ」

 

 感謝を述べるカンナに対し、あくまで、先生はそのスタンスを譲らない。ただ一人で抱え込むよりは、誰かに話し他方が楽になる。自分がやったのはその程度の事だと、彼は宣う。そんな配慮に対しカンナは目を伏せると、大きく息を吸って天井を仰いだ。

 

「今更ですが、吹っ切れる事が出来ました、私は私の道を進む事にします、今まで積み上げたものは、きっと大事なのでしょうけれど……間違ったまま積み上げたのならば、それは一度崩さねばなりません」

 

 間違ったもの(悪事の片棒)を幾ら積み上げた所で、それが正しさ(正義)に転ずることは無い。最初から、間違っていると断じた時点で、自身は崩すべきだったのだ。

 それが出来なかったのは、ひとえに自身の弱さ故に。

 

「私はそれが恐ろしかった、間違っていると分かっていながらも、けれど高く高く積み上げたそれを崩してしまう事が……やはり、私は三流の悪党ですね」

「そんな事はないさ」

 

 しかし、彼女の弱さを先生が責めることは無い。それは誰にだってある、人なら誰しも持つ弱さの筈だと、そう思うから。

 

「高く積み上げたからこそ、崩す事が恐ろしくなる、その気持ちは良く理解出来るんだ」

 

 それは、大人だからこそだろうか。カンナは肩を竦めそう零す先生に対し、湯呑を軽く掲げ、云った。

 

「先生、また私と一杯――飲んで頂けますか?」

 

 今度は、悪党ではない、私と。

 吹っ切れたと云ったその言葉に嘘はないのだろう。彼女の表情は柵から解き放たれた様に快活で、生き生きとしていた。先程より数割増しで輝いて見える笑顔に、先生もまた、彼女と同じように湯呑を掲げて、「勿論」と答える。

 先生の行動原理は、ずっと変わらない。

 

「私はいつだって、カンナの味方だよ」

「――はい」

 

 カコン、と。

 軽く合わせた湯呑が音を立てた。

 そして二人同時に湯呑を呷り、中身を空にする。「ぷはっ」という声が、直ぐ隣から聞こえた。

 同時にコトリと、目前に差し出される新しい湯呑と、焼き鳥。

 

「……あれ」

 

 思わず、先生は目を瞬かせた。カンナの前にも同じように差し出されたそれ、彼女も疑問符を浮かべながらカウンター越しに店主を見上げる。店主は相変わらず、仏頂面で此方を見下ろしていた。

 

「えっと、店主、追加の注文をした憶えは――」

「今夜は」

 

 妙に高く、猫らしい声が目の前より聞こえて来た。風にそよぐ髭をそのままに、店主は腕を組んだままクイッと、顎先で湯呑と焼き鳥を指し示す。店主が口を開いた所を、先生とカンナは初めて見た。

 

「店の奢りだ」

 

 声はぶっきらぼうで、端的であった。

 そのまま気難しい様子を隠さず背を向け、再び用意していた網に、小型の冷蔵庫から取り出した焼き鳥を乗せていく。その様子を呆然と眺めていたカンナであったが、ややあって店主は背中越しに呟いた。

 

「ヴァルキューレの生徒さんには、いつも世話になっている」

「………」

 

 それは不器用ながら、店主なりのエールだったのだろう。カンナはそれに気付き、暫し呆然としていたが、噛み締める様に笑みを浮かべた。まだ淹れたばかりの、暖かい湯呑を両手で掴む。じんわりとした温もりが、掌から全身に伝わってくるようだった。

 街の喧騒が、背後から少しずつ聞こえて来る。彼女が親しんだ、ヴァルキューレとして守ろうと、そう在ろうと努めた街に夜が来た。

 その光は二人の背中を照らし、少しずつ人々の声が響き出す。

 

「……見ている人は、ちゃんと居るみたいだよ、カンナ」

「……えぇ」

 

 横から届く先生の言葉に、カンナは俯いたまま頷く。

 湯呑を握り締めながら、深く背を曲げ。

 彼女はもう一度――強く頷いた。

 

「えぇ」

 


 

 此処からはもう独自ルート突入ですわ~! 公安局、FOX小隊、RABBIT小隊、全員の力を合わせて終盤に突っ込みます事よ! 

 序盤とかで敵対した相手と組んで強敵撃破する展開好き。でもそれはそれとして、美学ある悪役には最後までそれを貫いて欲しい感もありますの! 

 まぁこのカルバノグ編は最終編の切っ掛けも兼ねているので、終盤は盛りに盛りまくります事よ。全部このカイザー奴が悪いんですわよ、そうに違いありませんわ! 

 うぉぉおプレナパテス先生~ッ! もう少しですの、もう直ぐ会いに行きますから、お待ちくださいましねェ~ッ! 

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