「キキッ……! トリニティの連中、随分と派手にやっているじゃないか」
ほんのりと、夜空を染め上げる緋色の炎。それが遥か遠く、薄らと暗闇を照らしていた。その緋色がトリニティの進軍する進路上に発生する戦いの火である事は明らかである。
ある種幻想的とも云える光景を戦車――超無敵鉄甲虎丸の上より眺めるマコトは、くつくつと喉奥を鳴らす様な笑い声を零した。
D.U.外周部より弧を描きながら発射される迫撃砲、それらが白煙を引き、着弾する度に轟く爆音と破砕音。微かに耳へと届くそれを楽しみながら、あの様子では外郭地区を守る防衛隊も遠くない内に崩れるだろうと確信する。心なしか緋色を眺めていると、吹きすさぶ冷風すら暖かく感じる気がした。
トリニティの進軍速度は、マコトをして感嘆を零す程に速く、苛烈だ。
そこから分かるのは連中の本気具合、余程今回の件を腹に据えかねているのか、それとも――。
考え、彼女は踵で足元を軽く小突く。
「どうやら向こうも手を抜くつもりは無い様だな、つまりマコト様の情報網に狂いは無かったという訳だ!」
「……マコト先輩、いい加減降りて貰って良いですか? キューポラから顔を出すだけなら兎も角、砲身に足を掛けて腕組みとか、転んで落ちても知りませんよ?」
「このマコト様が、そんな醜態を晒す訳がないだろうが!」
キューポラから上半身を出し、彼女の考える勇ましいポーズで恰好をつけているマコトに対し、イロハは辟易とした様子で声を掛ける。しかしマコトからすれば重要な事らしく、一向に止める気配がない。これで流れ弾でも当たって気絶されると、万魔殿の統制が面倒な事になるのですけれど――そんな喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込んだ。
「それでイロハ、作戦の進捗はどうなっている?」
「……はぁ、既に部隊は展開済みです、先立って防衛網を突破した風紀委員会も合流していますし、後方には救急医学部が待機しています、それから先程サツキ先輩から連絡があったのですが、美食研究会、温泉開発部がD.U.内部に向かったとの事で――」
「そんな事はどうでも良い」
「あ、そうですか」
イロハはこの時点でD.U.内部で何棟のビルが倒壊し、道路が粉砕されるのかと不安を抱いたが、それを口に出す事は無かった。此方の統制下に無くとも、その破壊行為の代償は万魔殿にも降り掛かって来るだろう。尤も、その辺りは自身の管轄に無いので素知らぬ顔で通す。一応、こうして報告自体は済ませたのだ、後で自身に困難が降り掛からぬよう戦車の整備を理由に逃げ回る事としよう。そう心の中で呟きを零す。
「
「――いいえ、トリニティが目を惹いてくれるというのなら好都合よ」
鼻息荒く、はためく羽織った外套を揺らしながら指先を突き出すマコト。周囲に響く号令、しかしそんな彼女の言葉を背後から響く冷徹な声が遮った。
喧騒の中でも、妙に通る声だと思った。同時に小柄な影が身の丈を超える愛銃を担いだまま、ゆっくりと暗がりから現れる。
「風紀委員長」
「待たせたわね、補給は終えたわ」
イロハ達の搭乗する虎徹の横へと現れたのは、風紀委員長の空崎ヒナその人。彼女は出立した時と全く変わらぬ恰好で、超然とした姿勢を崩さない。万魔殿よりも先にゲヘナを出立し、D.U.とゲヘナ自治区境界線に展開されたカイザーコーポレーションと一戦交えた筈だが、疲労らしい疲労も、負傷も全く見えない。文字通りの鎧袖一触、敵の数も決して少なくない、それどころか凄まじい数を揃えていたという話だが――恐るべきは彼女単騎での戦闘能力、そして風紀委員会の練度か。理解していた事だが、ゲヘナに於ける治安維持を一手に引き受けるという事はそういう事なのだろう。
「今カイザーコーポレーションの目はトリニティに向いている、私達の目的はあくまで先生の救出、向こうが囮役をやってくれるというのなら利用するべきよ、敵の防備の薄い箇所を狙って迅速に突破しましょう、悪戯に戦闘を繰り返す必要は無い、最短、最速で抜けるわ」
提げた愛銃、デストロイヤーを抱え直しながら凡その方針を打ち立てるヒナ。彼女の背後には同じく補給を終えた風紀委員会の面々が整然と整列し、自分達のトップの号令を今か今かと待っている。
「アコ、イオリ、チナツ」
「準備は万端です……!」
「うん、いつでも行ける」
「此方も、問題ありません」
ヒナが前を見据えたまま名前を呼べば、後方に並んだ風紀委員会の中より三名が進み出る。各々が部隊を率いるメンバーである彼女達を一瞥すると、ヒナは等間隔で伸びる街灯の先、暗闇を指差しながら云った。
「道は私が切り開く、皆は後に続いて」
「おい、待て! 先陣はこのマコト様率いる万魔殿が華麗に――」
「――マコト先輩、ちょっと静かにしていて下さい」
「どわッ!?」
淡々と話を進めるヒナに突っかかろうと声を荒げたマコトに、イロハは足で合図を出し砲塔を旋回させ足止めを食らわせる。恰好をつけた姿勢で実に不安定な足場に立って彼女は、その僅かな動作で大きく体勢を崩し砲塔にへばりつく形で這い蹲った。
「風紀委員長、
「えぇ、突破した穴を広げて後続の道を作って、風紀委員会と万魔殿の歩兵が機能すれば、十分に楔を打ち込める筈」
「分かりました、本当ならこれだけ歩兵が居る訳ですし、戦車先行の戦術を採用したい所ですが――」
「今は速度が重要よ、私単独なら走った方が戦車より速いもの」
事も無げにそう宣うヒナに、イロハは溜息を噛み殺す。万魔殿の保有する超無敵鉄甲虎丸――虎丸は装甲、火力共に優れる
機動性も良好だ、舗装路であれば最高速度で八十以上は出せる。勿論、常に全力走行する訳でもないが、だとしてもコレを平気で上回ると豪語出来るのも中々どうして凄まじい。
イロハはキューポラの縁に身を預けながら指先で額を叩き、頭の中で凡その行動を組み立てていく。
「鍵穴射撃をする暇はありませんね、ヘッジホッグで周囲を固めます、随伴は――」
「イオリ、足の速い子を集めて、万魔殿の主力装甲部隊の随伴に当てるわ」
「えっ、あ、了解!」
「助かります、なら私の直轄で風紀委員長の背後に付きましょう、残りは足並みを揃えて進軍させます」
「お、おい、イロハ……?」
自分を脇に置いてどんどん話を進めるイロハに、どこか困惑を滲ませ声を掛けるマコト。しかし彼女は面倒そうに帽子のつばを指先で持ち上げ取り合う事無く、自身を見上げるヒナを一瞥し踵を鳴らす。出撃の合図だ、エンジンが唸りを上げ、周囲の戦車群もまた一斉に駆動音を鳴り響かせる。
「では」
「えぇ――アコ、そっちの指揮は任せる」
「はい、ヒナ委員長、お気をつけて!」
互いに役割を定め、理解した。ヒナは羽織った外套を靡かせながら瞳を細めると、アコに部隊指揮を任せ、地面を全力で蹴飛ばしアスファルトを粉砕しながら飛ぶように疾走する。
彼女の矮躯は暗がりの中へと消えていき、あっという間にその背中は見えなくなった。
残されたのは強烈な衝撃と風、イロハとアコは頬を撫でる風圧に目を細めながら、粛々と行動を開始する。
アコはタブレットを操作し、イロハは未だ砲塔に張り付き、「お、おい引っ張るなイロハ!」と喚くマコトを車内へと引き摺り込みながら。
「風紀委員会、前進!」
「虎丸、出撃しますよ」
■
「っ、これは、凄いな――ッ!」
サキは自身の頬を伝う汗を自覚しながら、しかしその表情に笑みを浮かべた。疲労による倦怠感、彼方此方から響く鈍痛、愛銃が嘗てこれ程重く感じた事などないだろう。今や銃撃の振動さえ、彼女に微かな苦痛を齎しているのだから。しかし、それを押して尚、目の前に広がる数々の情報に瞳が煌めく。
視界に表示される、赤い人型の輪郭。敵勢力であるカイザーコーポレーションの潜む場所だ、それが暗闇や障害物越しであってもはっきりと表示されていた。
更に敵の構える銃口から発射される弾丸の予測線、演算から導き出される遮蔽物の安全箇所と危険個所、現在の場所から射撃を行った場合に命中する確率、手に持っている愛銃の残弾、残りの弾倉、立体化した周辺地形の3Dマップ、湿度や風の有無。
恐らく、情報支援に於いてこれ程に正確で、凄まじいものはないだろう。先程まで暗がりに支配されていた世界は、まるで昼間の光を取り戻したかの様にはっきりとしていて、知りたい事が全て、リアルタイムで更新されていく。
視界に表示される赤い軌跡、それを避け指示されたポイントに身を滑り込ませれば、命中した筈の攻撃は全て虚空を穿ち、暗がりへと消えていった。
反対に、どのタイミングで、どの方向に居る、どの相手を撃てば良いのか――ガイドラインに従って引き金を絞れば、面白い様に敵オートマタへと着弾する。
今の今まで、辛酸を舐めさせられていた相手だ。それを次から次へと薙ぎ倒す事に、サキは強い高揚感を覚えていた。
「相手の動きがまるで手に取る様に分かる、次の動きが、自分がどう動けば良いのか、全部……!」
「う、うん……!」
ミユは痛みに顔を顰めながらも、しかし自身の不調や負傷によるぎこちない動作に対し、お釣りが来るほどに正確な射撃補助に感嘆の息を吐く。
最早、ある程度の距離であればスコープを覗く必要性すら存在しないかもしれない。感覚としては、常に自身の抱える銃口から自分だけが確認出来る正確なレーザーが出ている様な形だ。それが丸見えの敵と重なった時、静かに引き金を絞れば良い。無論全てがそうではないが、至近距離に於ける確実性が担保されるという点では唯一無二だった。
敵一人に掛ける労力が、凄まじい程に軽減されている。加えて目の前の事に手一杯の状況でどう動けば良いのか、何処に逃げれば良いのか、どこで攻撃に転ずれば良いのか――この指示に従えばまず間違いないという絶対的な信頼が、彼女達の心的負担を大きく軽減していた。
「RABBIT2!」
「っ!?」
しかし、全てに全て対応出来る訳ではない。視界にアラートが表示され、自身が狙われていると理解するサキ。しかし急激な方向転換に膝が笑い、サキの姿勢が大きく崩れた。反応に対して、肉体が思い通りに動かない。
避けられないと体を硬直させ身構えた瞬間、サキの前に割り込んだ小柄な影が飛来した弾丸を全て受け止めた。
甲高い金属音と共に、突き出した防弾盾に弾痕が刻まれて行く。膝を折り、油断なく防弾盾を構える影――クルミは視界の中で表示される赤い攻撃ラインを注視しながら、叫ぶ。
「く、クルミ先輩……!」
「先生の支援は確かに凄いけれど、自分の身体状況位把握しておきなさいっ! 突然身体が強くなった訳じゃないんだからッ!」
先生の支援を既に何度か経験した彼女は、これを非常に有用な情報支援と理解しておきながら、しかし慢心の気配は全く存在しなかった。摩訶不思議な技術ではあるが、これはあくまで情報支援。自分の身体が突然強くなった訳でも、弾丸が望外の威力に化けた訳でもない。
これまでに受けた傷もそのままだ、確かに情報のアドバンテージは凄まじいものであるが、それに驕って注意を疎かにしたり、無茶をしては意味がない。潤沢な情報が存在するからこそ、慎重かつ堅実な立ち回りが求められる。
「あと、今の私はFOX3!」
「りょ、了解!」
素早くクルミの背後に付きながら、サキは返答を口にする。盾を構えたクルミの背中から銃口を突き出し、此方に狙いをつけるオートマタへと繰り返し発砲。前面からの射撃は全てクルミがカットし、一体一体を丁寧に処理していく。
「敵の行動予測、攻撃回避、反撃の隙――」
姿勢を低く、愛銃を抱えながら駆けるミヤコは視線に表示される予測線を潜り抜ける様にして移動し、包囲されないように立ち回る。口元から白く濁った吐息が漏れ、疲労が蓄積した肉体は泥に塗れて冷え切っている。しかし、今はその寒さが全く気にならなかった。時折銃撃を差し込みながらオートマタの集団、その動きを冷静に観察していたミヤコは、最も効果的な攻撃の瞬間――その機会を伺っていた。
自分に釣られて緩やかに、しかし確実に変わっていく敵の陣形。周囲の樹々や茂みに突き刺さる弾丸を気にも留めず、ミヤコは一瞬の間隙、敵の密集するタイミングを嗅ぎ取る。
「RABBIT3!」
「ココ、でしょッ!」
見極めた攻撃タイミングと、先生の指示は全くの同時。
視界にウィークポイントが表示され、最も多くのオートマタを巻き込まれる地点が表示される。モエもまた、ミヤコの動きを視界で追いながらその瞬間を待っていた。
既にベルトポーチからグレネードを複数取り出し、指に安全ピンを引っ掛けていた彼女は、ミヤコの合図と先生の指示を認識するや否や満面の笑みを浮かべながら一斉に安全ピンを抜き放つ。ピン、という甲高い金属音と共に、虚空に向かって四つの手榴弾を投擲した。
暗闇の中、緩やかに弧を描きながらオートマタ達の足元に転がる影。モエは脳内で詳細な爆発行程を思い浮かべ、秒数を数える。
「ドッカーンッ!」
モエが嬉々として叫ぶと同時、連続した爆音が鳴り響きオートマタ達の素体が次々と吹き飛んだ。手榴弾四つの爆発は、しかし通常のそれよりも随分強力に見えた。爆発は泥をはね上げ、オートマタ達の外装に穴を穿つ。
投擲したそれは件の浸水で装備を失った彼女が苦肉の策で作り上げた、既存の手榴弾を改造した代物。爆薬を追加し、手榴弾外装にもう一周金属片を追加、爆発による被害はより強く、広く、遠くまで届く。飛来する金属片の速度も段違いだ、それはオートマタの関節や外装の隙間に食い込み、フレームを破損させる。
「――随分と、派手にやる」
直ぐ近くで発生する爆発、銃声、飛び跳ねる泥にオートマタの
遮蔽から遮蔽へ、時折飛来する弾丸は最小限の動きで回避、来る場所が分かっているのなら容易い事――それがユキノの持論である。
「FOX1」
「……
そんな彼女の背後に、ぬるりと近付く影があった。現れた影はユキノの死角を補う様に立ち回りながら、視界のオートマタを順に銃口でなぞっていく。
一、二、三――針穴を通す様に、正確に、静かに、脳内で数字を刻んでいく。自身の使用した弾薬、そして味方の残弾。それらが視界に表示される今、そこに大きな意味はないのかもしれないが、彼女にとってそれは最早呼吸に等しい。無意識下であってもニコは部隊の状況を常に把握し、必要なサポートに備えていた。
思考を幾つかに割き、側面へと回り込もうと駆け出したオートマタの膝を撃ち抜き、派手に転倒した瞬間、側頭部を撃ち抜く。それらを一秒の間に済ませながら、ユキノへと声を掛ける。
「
「――自治区からの遠征部隊だな」
「うん」
どうやら漸く各自治区から応援が到着したらしい。静観する事は無いだろうと考えていたが、凡そ半日足らずで此処まで辿り着いたか。ユキノは齎された報告に薄らと笑みを浮かべながら、ヘッドセットに向けて声を張る。
「FOX小隊、此処が正念場だ――後輩に情けない姿を見せるな」
「了解!」
増援が到着する、その希望溢れた報告があるからこそ、尚更気を引き締める。緊張を緩めた瞬間こそが最も危険なのだとFOX小隊は理解しているのだ。或いは、頭の片隅で報告を受けながら万が一増援が来ない事も想定し動く。
彼女達とて連戦に次ぐ連戦、決して疲労が無い訳ではない。
しかし、目の前で泥に塗れ、血を流し、それでも懸命に戦い続ける後輩達の姿がある。
そんな彼女達を目にして、何故弱音など吐いていられよう? 先輩としての意地が、SRTとしての矜持が、彼女達に無尽蔵の活力を与えていた。
そして同じように、どんな苦境でも決してめげず、諦めず、動じず。そんな先輩の姿をRABBIT小隊は見つめ、その背中の大きさを思い出す。
負けるものかと、追いついて見せると、RABBIT小隊もまた彼女達の姿を見て更に奮起する。互いに互いの存在が、その背中が、懸命な姿が、起爆剤となって肉体を突き動かしていた。
終わらない連鎖、互いが情けない姿は見せられないと歯を食い縛り続ける。
「……何故だ、何故こうも」
目の前で繰り広げられる戦闘、それらを直接目にしながらプレジデントは手にした杖を無意識の内に握り締める。視覚情報の狂いか、或いは演算回路の何処かに異常があるのではないか疑いたくもなる。しかし、幾らセルフチェックを行おうと素体は正常で、基幹システムにも異常は見られない。
つまり、この光景は現実であり、欺瞞情報でも何でもない。その事実が尚更プレジデントの感情を煮え滾らせ、その複眼に怨嗟の色を滲ませていた。
「たった八名、加えて今にも倒れそうな生徒が半分、これで何故押し切れない?」
連中を見ろ。
押せば今にも倒れそうだ。
泥に塗れ、血に塗れ、疲労を滲ませ、虚勢である事は明らかだ。先生など最早立つ力すらない筈だ、土嚢の裏に這いつくばり、息を潜めるばかりではないか。こんな今にも死に絶えそうな一団に、カイザーコーポレーションの精鋭が押し負けるなどあってはならない。
「どちらが優勢かは明白だろうに、こんな者共に、何故この私が……!」
感情の出所は二つ。
何故この状況で諦めないのか、相手が抱くその不撓不屈の精神に。
そうして、そんな相手を前にして歯噛みする事しか出来ない己に対して。
ましてやそんな相手を前に、『敗北』の二字を感じ始めている事自体に。
プレジデントは怒りを覚える。
ミシリと、その甲鉄の指先が軋みを上げた。
「敗北など、あってはならない――ッ!」
■
「―――」
気を抜くと意識が飛びそうだった。
先生は土嚢に背を預けながら曲がった膝の上にシッテムの箱を乗せ、残った右手で懸命に画面を叩く。
網膜に映るあらゆる情報、敵と味方の動き、それらを即座に処理しながら小刻みに震える指先を動かし指示を出し続ける。血走った瞳は常に動き回り、固く結ばれた唇は変色しながらも決して解けない。
「っ、ぅ――……」
不意に、無視できない不快感が頭を過った。まるで頭の中に腕を突っ込まれ、掻き乱さされるような感覚。視界がぐるりとねじ曲がり、平衡感覚が失われる。
それは、或いは痛みであったのかもしれない。しかし、それを痛みと受け取るだけの感覚が先生には残されていなかった。
こめかみの辺りが引き攣り、液晶に赤が垂れる。
青白い光に照らされたそれを指先で拭い、先生が口元に手を当てると、ぬるりとした血が掌全体に付着した。
出血の出所は、鼻と目だ。
目元からまるで涙の様に流れ落ちる赤、鼻からも同様に出血が止まらない。ぽたり、ぽたりと滴るそれを自覚しながら、先生は歪む視界を細める。たった八名への接続でこの肉体は悲鳴を上げ、意識を断とうとしているのだ。
否、これがたとえ一名だけの接続であろうと、同様の結果を齎していただろう。
それを証明する様に、赤と黒に塗れた指先が、ピシリと音を立てた。それは丁度殻を割る様な、歪な音だった。
先生が血に塗れた指先を注視すれば右手の黒ずみ、薄汚れた指先に罅が入り、内部より青白い色が覗いていた。浸食が進行している、肉体としての役割が失われつつある。
右手を握り締め、先生は大きく息を呑む。
「――皆」
項垂れていた顔を上げ、土嚢から微かに向こう側を覗けば、現在進行形で戦い続ける生徒達の背中が見える。懸命に、必死に、銃弾を掻い潜り、避け、弾き、百を超えるオートマタを相手に奮闘する彼女達の姿が。
雪と泥の上を転がり、叫び、食い下がる子ども達。その背を見つめる先生は罅割れたシッテムの箱を掴んだまま、大きく息を吸い込む。流れ出る赤を乱雑に拭い、震える体を土嚢に擦り付け呟いた。
「……まだだ」
まだ、他ならぬ生徒達が戦い続けている。
だから、此処で自分が意識を断つ事は許されない。
どれだけの苦痛であろうと、困難であろうと。
先生である己が先に倒れるなど、決して。
「まだ、もう少し……」
■
『だから、私だけは肯定してあげようと思ったんです』
それは、何て事のない日の事だった様に思う。
自身の記憶が正しければ、こんな風に雪が降る夜だった筈だ。
真夜中、シャーレのデスクでペンを動かしながら業務を進める傍ら、サポートの為に忙しなく指を動かす彼女がタブレットの中から云った。
今と比べれば酷く無機質で、淡々とした口調だった。黒い制服に、白い髪、抑揚のない声質は機械的だが温かみがあったように思う。
あの時の私達は、まだ何も知らず、何かを犠牲にする事は無く。
ただ当然の様に陽が登り、明日があるのだと信じていた。
『先生のその苦しみも、痛みも、自己全てを捧げる心延えも』
『その道に、貴方の幸福が無かったとしても』
『その結末に、貴方が救われる事がなかったとしても』
『全ての
ぴたりと、その瞬間。
その一瞬だけ、彼女の指先が止まった事を憶えている。
此方に視線を向けず、相変わらず崩れた教室の中でぽつりと佇み、ホログラムコンソールを叩く彼女は。
『私だけは、先生の、本当の味方になってあげようと思ったんです』
確かにあの時、寂しそうに笑って云ったのだ。
■
――あぁ、そうだ。
赤の滴る、シッテムの箱を見下ろしながら先生は声を絞り出す。忘れていた訳じゃなかった、けれど朧げな記憶は疾うに擦り切れ、些細な言葉のやり取りを薪としてくべ始めている。壊れた器からは少しずつ水が漏れ出る様に、この肉体からも、同じように――。
「……私にも」
呟き、先生は薄らと笑う。心の底から嬉しそうに、安堵したように。
そうでなければ肯定などしなかった筈だ、そんな選択などしなかった筈だ。
決して正しいと胸を張れる事ではなかった、苦痛を生むだけの結末だったのかもしれない。
それでも――その道が、世界の終焉を招くと知っていても。
――
その記憶は、先生の中に微かな、しかし確かな力を齎した。血が滲み、最早文字すらぼやけ始めた視界の中で、先生はしかし思考を止めない。震える指先は先程よりも力強く、表示されるアイコンの上を滑る。
渇き、擦り切れた唇が小さく、しかしハッキリと言葉を紡いだ。
「立ち止まる訳には、いかない」
そうだよね。
「――
この戦いを、根本から終わらせる。
絶対に、負ける訳にはいかない。
此処まで来たのだ、この先に広がる未来を、世界そのものを、カイザーコーポレーションに明け渡す事など出来ない。
だから。
――プレジデント、お前を倒す。
暗がりの中、青白い光に照らされた瞳が、プレジデントを捉えた。血が滲み、片側は光を失って尚、しかし込められた意志は十全に伝搬する。今は困難かもしれない、それはいつかの出来事なのかもしれない、だが。
この身が朽ちる前に、必ず。
「ッ!?」
その光を、自身を射貫く意志の煌めきを、プレジデントは察知した。それはオートマタには存在しない機能だった。武器も持たない、死にかけの人間一人に、しかしプレジデントの素体は危機として認識したのだ。
後方、生徒達に守られた土嚢の裏から此方を射貫く青い光。プレジデントの足が一歩、無意識の内に退いた。
「私を獲りに来るか……シャーレの先生」
遠方、プレジデントのコンパウンドアイは暗がりの中、薄らと映る先生の姿を認める。その朧げな瞳を見返しただけで理解した。先生は自身を、他ならぬ己を打倒するつもりであると。
あの今にも倒れそうな、ちっぽけな八名の
事、この状況に於いてプレジデントがその思惑を一蹴する事は出来なくなっていた。吹けば飛びそうなあの
オフィス爆破からの生還、尋問を耐え抜き、シャーレ本棟からの脱出、そしてこの公園までの撤退、長時間の籠城戦――どれもこれも、プレジデントの描いたシナリオには存在しなかったものだ。
故に今度もそうなるのではないかという、漠然とした不安がぬぐえなかった。一度あった事は二度あるかもしれない、二度起きたのなら三度目も、三度起こしたのなら四度目だって。普段なら気に留める事など無かっただろう、「何を馬鹿な事を」と嘲笑って一蹴したに違いない。
しかし、先生の本質に触れたプレジデントは――無意識の内に、「彼なら、或いは」と予感を覚えるまでに至っていた。
それこそ、どのような
「………」
黙り込み、微かに指先を震わせるプレジデントの傍に侍る特務達が、無言でグリーンランプを点滅させ通信を行う。
『外周部の部隊より緊急連絡、既に状況は劣勢との事、突破した各自治区部隊が外郭地区に侵入、先頭の部隊が現在位置まで辿り着くまでの予想時間、演算中――』
『自治区の部隊が雪崩れ込んで来るのは時間の問題だ、此処に留まるのはリスクが大きい、プレジデントに撤退の進言を』
『了解』
外周部隊の要として配置されていた特務も、既に欠員が出ているらしい。これ以上は見過ごせない、特務の一人がプレジデントの肩に手を置き、電子音声を発する。
「――プレジデント」
声は淡々としていたが、其処に込められた意味をプレジデントは正確に汲み取った。数秒、戦場に視線を送っていた彼は声を発した特務に向き直り、何とも苦々しい気配を滲ませながら呟く。
「……潮時と、そう云いたいのかね?」
「はっ、D.U.を包囲していた外周部隊が突破されました、既に外郭地区の防衛に当たっていた本隊との交戦に入ったと、此処へ到達するのも時間の問題です」
告げ、特務が樹々の影に覆われた夜空を見上げる。薄らと差し込む様に見える緋色、遠くの夜空がやけに明るく感じる。
戦闘の火だ、自治区の部隊が押し寄せようとしている前兆であった。
今は遠くで微かに響くだけの砲撃音や爆撃音も、あと十数分もすればハッキリと聞こえる距離まで詰めて来るだろう。公園内部に唐突に砲撃を撃ち込んだりする事は無いだろうが、危険な領域に近付いている事は変わりない。
プレジデントはコンパウンドアイの光を強めながら特務に詰め寄ると、胸元から駆動音を鳴らし唸る様に云った。
「――よもや、この私に退けと宣うか」
放たれた声には、失望と憎悪の念が多分に籠っていた。
それは自分自身に向けられたものか、それとも特務に向けられたものか。或いは、カイザーコーポレーションという企業そのものに向けられたものか、分からなかった。
プレジデントとて理解している。カイザーコーポレーションの誇る軍事力は本物だ、伊達や酔狂でキヴォトスに於ける一大企業と呼ばれている訳ではない。
しかし、一対一ならば兎も角、三大校を一度に相手取って勝てると信じられる程夢想家でもなかった。
一時の防波堤に過ぎない外周部隊が突破された以上、D.U.の封鎖は破綻した。これ以上この場に留まり続ける事は危険であると、演算結果は出ている。
「プレジデント、御決断を」
特務のオートマタは、激昂寸前のプレジデントに対し、どのような感情も見せなかった。当然だ、その様に創ったのだ――彼らは進言する事はあっても、その決断を強いる事は決してない。あくまで特務はプレジデントの手足となり、時には矛に、時には盾になる存在。
それ以上でも以下でもない。
――どのような指示であれ、我々は貴方と共に
その無機質な黒が、鋼の如き練達した忠節と共に告げた。
「………」
自身が積み上げて来たカイザーコーポレーションという存在そのものに、或いは人生そのものが形作った自身と云う存在、その生きざまに。
幸いにして、己はそれを貫くだけの力と幸運を持ち合わせていた。
しかし、遂に直面する――それを貫く困難な場面に。
ある時に於いて、
目の前の、この今にも死にかけの人間ひとりと、たった八名の
だが。
「……先生」
プレジデントは震える指先で杖を握り締めたまま、甲鉄の口元を軋ませる。
長い、長い葛藤であった。自身の中にある激情を飲み下し、感情を御す為に多大な苦痛と、羞恥心を抑え込む必要があったのだ。
その果てに彼は銃声の只中、外套を翻し告げる。
「――この屈辱、生涯忘れん」
踵を返し、跳ねた泥も気にせず、先生に背を向けたプレジデントは悠然とした足取りでその場を後にする。その背後に特務が整然と続き、RABBIT小隊とFOX小隊にそれぞれ銃口を向けながら静かに撤退していく。
それに気付いたRABBIT小隊は、ハッとした表情で焦燥の叫びをあげる。
「ッ、プレジデントが逃走を……!」
「クソ、逃げるつもりか!?」
「そ、そんな……!」
「はっ、随分と小心者じゃん!?」
「――良い、構うな」
追撃を仕掛けようと前傾姿勢を取るミヤコに、しかしユキノは冷静な声色で告げた。敵の指揮官が逃亡する、恐らく向こうも防衛線を突破された事に気付いているのだろう。つまりそれだけ味方がこの場所に迫っているという証左でもある。
未だ攻め手を緩めないオートマタを順に射貫き、手際よく弾倉を切り替えながら彼女は冷静に相手の動きを見極める。相手に分かり易い形で退路を塞ぐのは悪手だ、追い詰められた存在というのは予想以上の力を発揮する。文字通り死力を尽くす兵士というのは厄介極まりない、それこそ自分達の様に。
「これで、幾分か先生を守り易くなる――それに」
ちらりと、自分達の後方、先生の傍に視線を向けたユキノは視線を細め呟く。
「どうやら、足の速い部隊が居たらしい」
その一言と同時に、銃声が鳴り響いた。重々しい重低音を打ち鳴らし、RABBIT小隊へと狙いをつけていたオートマタが複数、派手に後方へと吹き飛ぶ。それはFOX4の持つ対物ライフルと同クラスの威力。着弾した胸部外装が大きく凹み、内部機構を露出させていた。
唐突なそれに驚愕し、慌てて遮蔽へと滑り込むRABBIT小隊。
「っ、背後から銃撃……!?」
「でも、視界に敵の反応は――」
敵からの攻撃であるならば、アラートがある筈だ。それが無いという事は情報の不足か、それとも――。
「遅くなってすまない、先生」
暗がりから現れた人影は四つ。白い外套に冬にも関わらずタイトな戦闘服に身を包んだ人物。黒い帽子を目深く被り、銃口を前へと突き出しながら前進する彼女は自身を捉えるRABBIT小隊、FOX小隊を一瞥し、それから後方に続く三名に指示を出す。
「……アツコ、ミサキ、先生の手当を」
「うん」
「分かった」
「ヒヨリは先生の護衛と、私の援護を頼む」
「りょ、了解……!」
即座に状況を把握し、行動を開始する四名――アリウス・スクワッドはサオリを除き三名を先生の護衛に当て、土嚢の裏で座り込む先生の元へと駆け出す。
「……皆」
「動かないで先生、今助けるから」
全身から血の匂いを漂わせる先生の傍に屈み込んだアツコは、懐に仕舞っていたドローンを起動させる。駆動音を響かせ、ふわりと空中に浮かび上がったそれは、四枚の羽根を広げ奇妙な光を先生へと送り込んでいた。
治癒の力、ロイヤルブラッドと称される彼女とリンクしたそれは、微かであるが先生の傷を癒し、肉体を保護する。
心なしか、光を浴び続けた先生の色を失っていた表情は、微かに柔らかさを取り戻したような気がした。
ミサキは着込んだ外套のポケットからハンカチを引っ張り出し、先生の頬やら口元に付着した血を拭いながら嘆息する。
「……ほんと、いつ見てもボロボロだね、先生」
「……はは、面目ない」
「――笑い事じゃないから」
口元を引き攣らせ、気丈に振る舞う先生を前にしてミサキは眉間に皺を寄せ、強い口調で告げる。ヒヨリは先生の直ぐ隣で土嚢の上に防壁代わりのガンケースを設置すると、その上に愛銃アイデンティティを構え叫んだ。
「さ、サオリさん!」
「あぁ」
準備は整った、サオリは飛来する弾丸を避けながら前線に切り込み、RABBIT小隊とFOX小隊の中程まで足を進める。オートマタに射撃を加えながら、しかしサオリ達も油断なく観察していたユキノは、敵対マーカーの表示されない彼女達を一瞥し、少しだけ驚いた様に目を見開いた。
「お前は――」
「………」
「……いや、今は良い、友軍と云う認識で正しいな?」
「そうだ、私達は先生を助ける為に此処に居る」
「なら、十分だ」
短いやり取りだった、しかし近距離でサオリのマスクに覆われた顔を見た時、FOX小隊は彼女がいつか自分達をシャーレに導いた人物であると気付いた。廃墟同然となったシャッター街で出会った、あの生徒だ。
此処に駆け付けたという事は、元から先生と知古か何かなのだろう。であれば信頼出来ると判断し、頷く。
「……此処から先、
FOX小隊の脇を駆け抜け、単独で深くオートマタの部隊へと切り込むサオリ。無数の弾丸が彼女に降り注ぐが、その悉くを彼女は俊敏な動きで回避し、弾丸は翻る外套を僅かに掠めるばかり。多対一は寧ろ彼女の得意とする所、何せずっとそうやって戦い続けて来たのだから。
跳ねる泥さえ彼女を捉える事は出来ず、暗闇へと潜む彼女はオートマタに銃口を突きつけ、告げる。
「――スクワッド、戦闘を開始する」