今回約一万三千字ですの!
「だーかーらーっ!」
バンバン、と。
両手でカウンターを叩く音が響いた。彼女からすればほんの軽く、些細な抗議の意味を込めて叩いた程度なのだろうが、掌がカウンターを叩いた瞬間、微かに軋む音を立てたのを対応する職員は聞いた。
受付カウンターで委縮し、もし人と同じ構造であれば額に汗を滲ませていたであろうオートマタは、そのフェイスモニタを困惑と焦燥の表情に固定し、頻りに頭を下げながら対応に苦慮する。
その正面に立つ生徒――聖園ミカは目前のオートマタの顔を覗き込みながら、妙な威圧感を滲ませ言葉を続ける。
「先生に会わせて欲しいって、そう云っているだけじゃん! 別に難しい事なんて云ってないでしょう? ほんの一瞬、ひと目で良いの、別に話したいとかそういう訳じゃなくて――いや、起きているなら勿論話したいけれど!」
「い、いえですから……」
苛立ち、自身の要求を突きつけるミカは一向にその語調を弱める様子がない。彼女の居る場所はD.U.中央区総合病院、区画内に於いて最も大きな病院であるその場所は、エントランスホールも相応に広く、吹き抜けの空間は中央に何列もの椅子が並び、頭上には巨大なディスプレイが複数吊り下げられている。周囲には大勢の生徒が屯しており、並んでいる椅子は殆ど埋まり切っていた。
そんな中ミカは受付の片隅でオートマタと顔を突き合わせ、問答を繰り返し早数分。オートマタは手元の端末を時折操作しながら、恐縮した様に言葉を続ける。
「その、現在はゲヘナ風紀委員会の方々が面会中でして……」
「は? 何、
「おかしいと仰られても、皆さんきちんと順番を遵守した上で、短時間の面会を――」
「ふぅん、そんな事するんだ? それならもう、トリニティの病院に移送すれば良くない? こんな病院よりもさ、もっと大きくて良い環境に居て貰った方が、先生だって傷も早く治るじゃん、ね?」
「いえ、流石にそれは……」
「そうしたら私達だって毎日面会に行けるし、お見舞い品だって沢山――」
「ミカ」
カウンターに身を乗り出しながら、最早武力行使も厭わないとばかりに重圧を振り撒くミカ。そんな彼女を呼ぶ声が後方より響いた。握り締めた拳をそのままに目を瞬かせ、背後を振り向けば、此方に向かって来る影が複数。
「そこまでにしたまえ、此処はトリニティではないんだ、もう少し御淑やかに振る舞う事は出来ないのかい?」
「セイアさんの仰る通りですよ、ミカさん」
彼女の名を呼び、歩み寄る影――それはナギサとセイア。
二人は背後に近衛隊を引き連れながら、ゾロゾロと受付の前へと足を進めた。流石に病院内というだけあって、普段手に抱えている銃を肩に提げている近衛隊ではあるが、放つ気配は刺々しい。
歩み寄る二人の姿を認識したミカは、頬を膨らませると不満げに背を曲げながら呟いた。
「えー、何さ、二人は先生をトリニティで保護するのに反対な訳?」
「いいや? 寧ろ事がトリニティだけで済むのならば賛成するとも――しかし、その様な我儘、他の自治区が黙っている筈がない、今回の一件は三大校が介入した結果、主導権が我々の手中に存在しないんだ」
あくまで、セイアは冷静な口調で首を振った。此処はトリニティではなくD.U.そして介入したのがトリニティだけならばまだしも、そうではない。先生の移送には連邦生徒会のみならず、他二校の承認も求められるだろう。そして、当たり前ではあるがソレを得るのは非常に困難と云わざるを得ない。説得出来ない事は、態々第六感に頼らずとも明らかであった。
「私達が先の内容を提案すれば、恐らくゲヘナも、そしてミレニアムでさえ、同様の主張を行うだろうね、先生が今回何故D.U.に留まったのかを君はもう少し考えるべきだな」
「可能であれば、何処も先生を自身の自治区に招きたいのですよ、強硬手段など取れば、それこそ先の事件の二の舞でしょう」
「……ふーん」
唇を尖らせ、不承不承といった様子で身を翻すミカ。「突っかかっちゃって、ごめんね」と受付のオートマタに一言謝罪を入れ、ひらひらと手を振りながらそのまま友人達の傍へと足を進める。背後でほっと胸を撫でおろすオートマタ。
不意に親衛隊の一人がナギサの傍へと踏み出し、自分達の後方を指差した。
「ナギサ様、御席のご用意が整いました」
「えぇ、ありがとうございます」
一体何の事だと疑問符を浮かべれば、病院の正面玄関脇――通行の妨げにならない歩道の片隅に、いつの間にか馴染みのあるティーテーブルが用意されていた。
中央には外で用いる為のガーデンパラソルが開いており、丁度良く日光を遮っている。それを見たミカとセイアは、一瞬何とも云えない表情を浮かべる。
「申し訳ございません、本来であればエントランスホールに持ち込もうと考えていたのですが、責任者の方に『せめて外でお願いします』と何度も要請がありまして――」
「構いません、私とてマナーは弁えていますから、此処なら問題ないのですね?」
「はい、既に許可は得ております」
「結構」
近衛隊より齎された報告にナギサは満足そうに頷きを返し、それから嫋やかな笑みでミカとセイアを見た。
「さぁお二人共、聊か趣の異なる場所ではありますが、お茶会に致しましょう」
「えー……ナギちゃん、こんな所でも紅茶を飲むの?」
「ミカ、ナギサの心情を察してやれ、最早飲まないと耐えられないのだろう」
若干諦観の念が滲んだセイアの言葉に、「あぁ、
三人が黙々と席に着くと、待っていたと云わんばかりに傍仕えの生徒が現れ、手際よくソーサー、ティーカップを並べていく。一体いつから準備していたのか、しかし彼女達にとっては最早日常である。
目の前では瞬く間に茶会の準備が進められて行き、道行く生徒は病院の敷地内で突如行われる茶会に奇異の目を向ける。しかし警護を担当する近衛の生徒が、「何を不躾に見ているのですか、ティーパーティーの御三方に不敬ですよ?」と云わんばかりに眼光を光らせると、そそくさと去っていった。
受付で騒いだ自分も自分だが、これはこれで悪目立ちするのではないだろうか? ふとそんな事を考えるが、考えた所でどうなる事でもない。
待っている間、ナギサはお淑やかな姿勢を崩す事無く凛然と、セイアは手元に呼び寄せたシマエナガを撫でつけ、ミカはつまらなさそうに道行く人々を眺めていた。
そしてふと、エントランスで待つ生徒達の姿を思い浮かべ、口を開く。
「……もしかしてだけれど、エントランスホールで座っていた生徒全員、先生のお見舞いだったりする?」
「あぁ、流石に全員という訳ではないが、半数以上はそうだろう、怪我をしていない生徒も目に付いた」
「こうして見ると、まだまだ増えそうですね、制服もバラバラ、所属する学園も異なるでしょうに、相変わらず凄まじい人望です」
「えぇ~……」
返って来た答えに、ミカは思わず辟易とした声を漏らす。見れば正面玄関へと向かって来る生徒は今でもちらほらと散見される。現在進行形で埋まっていくエントランスを一瞥しながら、ミカはテーブルの上に突っ伏した。彼女の全身から倦怠感とも、焦燥感とも云える色が滲み出す。
「これじゃ先生に会うまで、何時間も掛かっちゃうじゃん」
「ふむ、ならミカは先にトリニティへ戻っているかい? 先生には私達の方から良く伝えておこうじゃないか」
「……やだ」
それは、嫌だ。
三時間だろうが四時間だろうが、八時間だろうが十二時間だろうが、或いは半日だろうが一日だろうが、先生に会えるのならば待てる。ただやはり気が逸るのは否定出来ず、一分一秒でも早く先生に会いたいという本音は隠せなかった。
肘を突き、目の前に用意された紅茶を見下ろしながら不機嫌そうに髪を弄るミカ。
そんな彼女の視界に、トリニティの生徒らしき影がちらりと映った。見慣れた制服だ、彼女もエントランスホールで待っていたらしく、頭上のディスプレイを確認すると徐に立ち上がり、それから受付のオートマタに話しかける。
もしかして、順番が来たのだろうか? もしそうなら、ミカは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、告げる。
「あっ、あの子順番早そうじゃない? 同じ派閥の子かもしれないし、ちょっと『お話』して順番を譲っ――」
「ミカ」
「ミカさん?」
音を立て起立したミカに掛かる制止の声、それは殆ど同時だった。セイアとナギサから放たれたそれにミカは二人に視線を向けると、ゆっくりと椅子に再び腰かけ、項垂れた。
「ちょっとした冗談じゃん……」
■
「う、うぅ……!」
「お、おい先生、大丈夫なのか……?」
病室の中に、苦悶の声が響いていた。
その病室は一般的な病室よりも随分と広く、それは現在病床に横たわる人物の重要性を物語っている。部屋の片隅には見舞い品と思われる代物が山の如く積まれており、その直ぐ傍には――苦悶の表情を浮かべ唸る、先生その人が居た。
彼は額に脂汗を滲ませながら、残った右腕で胸元を掴む。欠損した左腕は器用に袖が結ばれ、肩口で固定されていた。先生は荒い呼吸を繰り返しながら、自身を覗き込む生徒達に虚勢の笑みを浮かべた。
先生の前に立つのはゲヘナ風紀委員会の生徒達――ヒナ、アコ、イオリ、チナツの四名。
「ご、ごめんね、皆――折角、お見舞いに来てくれたのに」
「う、ううん、気にしないで先生」
「……傷は、酷いのですか?」
ベッドその傍に立ち、先生の肩に触れるチナツが恐る恐ると云った風に問いかける。チナツの問い掛けに、先生は何とも云えない苦々しい表情を浮かべた。そこには僅かな逡巡が見て取れる。ややあって深くベッドに身を沈めた先生は、「そうだね」と呟き、自嘲の色と共に吐露した。
「もう、どうしようもない、かな」
「そ、そんな……!」
その返答に、全員が息を呑んだ。まさかそんな状態になるなんて、思っても居なかったのだ。しかし、彼女達が胸中に湧き上がった感情を吐き出すより早く、先生は右の掌を突き出し言葉を続ける。
「で、でも、一つだけ、助かる方法があるんだ――」
「そ、それは一体なんですか!?」
「そんな方法があるなら、今直ぐに……っ!」
「先生、任せて……私達が絶対に、何としても助けて見せるから」
必要があればゲヘナの全校生徒を動員してでも――呟きは、確かな覚悟と意志を感じさせ、病室の中に響いた。先生は彼女達の悲壮な覚悟を前に、申し訳なさそうに眉を下げながら視線を上げる。
「イオリ」
「っ、わ、私?」
「……あぁ」
先生の視線は、直ぐ傍に立つイオリを捉えていた。まさか自分に指名が飛んで来るとは思っていなかったイオリは一瞬目を白黒させ、動揺を隠せない。
「これは、イオリにしか、頼めない」
「ッ……!」
酷く真剣な表情と共に告げられる。
部屋の中に居る全員の視線が、イオリに集中した。そこに混じるのは期待、不安、焦燥、懇願――様々な色を孕んだ無言のそれに、イオリは何か見えない重荷が背中にズシリと圧し掛かった様な錯覚を覚える。肌を刺す様な緊張感、それは血が凍る様な感覚に似ている。
「わ、分かった……!」
唾を飲み、深く頷く。強張った体は思ったよりもぎこちない動作で首を縦に振った。イオリの手が先生の腕を掴み、身を乗り出した彼女は自身に発破を掛ける様に勢い良く声を発する。
「何でも云ってくれ先生、私が……私が必ず叶えてやるからっ!」
「――ありがとう」
その言葉に、先生は冷汗を滲ませながら心底嬉しそうに微笑んだ。それにイオリは、幾分か勇気付けられた。本音を云えば不安で仕方ない。
自分にしか出来ない事、頼めない事。
それは一体何だろうか、イオリにはまるで見当がつかなかった。輸血か、臓器移植か、それとも――いや、どんな難題だろうと成し遂げてやる。
先生の為なら、何だって惜しくはない。
イオリは心の中でそう叫んだ。
「実は……」
「あ、あぁ――ッ!」
先生がゆっくりと、口を開く。病室の空気が張り詰めるのが分かった、イオリも、アコも、チナツも、ヒナでさえ、先生の次の一言に耳を澄ませ身構える様に表情を険しく変化させる。全員の額に汗が流れ、全神経が次の一言に集中する。
果たして、先生の頼みとは。
「イオリの足を、舐めさせて欲しいんだ」
「は?」
一瞬、先生が何を云ったのか分からなかった。
言葉では理解出来たのだ、しかし脳が理解する事を拒んだ。数秒程沈黙が流れる、いつの間にか先生の額に滲んでいた冷汗は何処へやら、目の前で此方を見上げる瞳は爛々と輝いていて、まるで小さな星が瞬いている様だと思った。
イオリは先生の腕を掴んだまま慎重に、震える唇で問い返す。
「……私の、何だって?」
「イオリの健康的な足を舐めたら、きっと、この傷も忽ちの内に治ってくれると思うんだ……!」
「―――」
聞き間違いではなかった。
聞き間違いであって欲しかった。
一体何を云っているんだこの大人は、という感情が先行した。真面目に向き合った自分が馬鹿だった、一瞬にして色褪せた表情を浮かべ離れようとしたイオリの肩に、そっと乗せられる掌。
彼女がそちらに顔を向けると、此方を労わる様な表情を浮かべたアコが、小馬鹿にしたように鼻を鳴らし名を呼んだ。
「イオリ」
「あ、アコちゃん……?」
何で、そんな顔を私に向けるんだ。そんな困惑と共に名を呼べば、アコは静かに先生を一瞥し、ビッと親指で示す。それが意味する所を理解し、イオリは慌てて首を横に振った。
「いやいや!? どう考えても嘘でしょ、こんなのッ、何で私の足を舐めたら傷が治るの!? おかしいだろ! 絶対嫌だよッ!?」
「ごぶぼホォッ!」
「先生っ!?」
イオリが拒否した瞬間、先生が盛大に咽ながらベッドの上をのたうち回った。傍にいたチナツは慌てて先生の身体を抑え、その背中を何度も摩る。それから何故か決意を秘めた表情を浮かべると、キッとイオリに鋭い視線を送った。
「――イオリ、覚悟を決めて下さい!」
「ち、チナツまでッ!?」
「ほら、もう良いじゃないですか舐めさせてあげれば、減るものでもないですし、それで治るかもしれないなら、足のひと舐め程度安いものでしょう? さっさと済ませて下さい、面倒ですから」
「いや、そうかもしれないけれど! だからってこんな、み、皆が見ている前で……!」
頬を赤く染めながら、彼女は慌ててスカートを掴み先生から距離を取る。何で足を舐められないといけないのか、先生と二人だけの時ならまだしも――いや二人きりの時でも嫌だが、こんな状況で舐められるよりはずっとマシだ。
そんな彼女の拒絶反応を見ていたヒナは、暫くの間呆然と佇んでいたが、ややあって何とか再起動を果たし、小さく手を挙げながら一歩を踏み出す。
「せ、先生、その……どうしてもって云うなら、私が、イオリの代わりに、えっと、あ、足を――」
「ヒナ委員長ッ!?」
その顔は真っ赤に染まり、直視出来ないのか俯きがちに放たれた言葉であった。
しかし、その声に対し最初に反応を示したのは先生ではなくアコ。彼女は信じられない事を聞いたとばかりに素早く振り返ると、ヒナの腕を掴み縋る様に凭れ掛かりながら首を横に振り叫ぶ。
「駄目です、考え直して下さい委員長っ! こんな見え透いた嘘に委員長が体を張る必要なんて無いんですッ! どうせこんなのは生徒の足を余す事無く嘗め回すだけの方便なのですから! 放っておけば明日にもヌエットかガヴォット位は踊れる程度に回復します、そうですよね先生ッ!?」
「アコちゃん、さっきと云っている事全然違くない……?」
「アコ行政官、ヒナ委員長、その、一度落ち着いて――」
場は混沌とし始めていた。
先生に足を舐められたくないイオリ、代わりに舐められるというヒナ、絶対に委員長を差し出したくないアコ、困惑するチナツ。そんな彼女達を数秒程穏やかな視線で見つめ、先生は口を開く。
「ヒナ」
声は良く通った。
先程とは異なる、弱々しくも無く、切羽詰まった声でもない。上半身を起こし、彼女の名前を呼べば、ヒナは即座に顔を上げた。
ヒナの視界に真剣で力強い、先生の瞳が映った。
「そんな事をしちゃ駄目だよ、もっと自分の体を大切にしないと」
「せ、先生、でも……」
呟き、思わず視線を落とす。
それで先生が元気になるなら。
そんな言葉を口ずさもうとして、けれど先生は緩く首を横に振った。
「私はヒナがこうしてお見舞いに来てくれただけで、心の底から嬉しく思っているんだから」
「っ、先生――」
穏やかに、いっそ清々しい程の方向転換。ヒナが許してくれるのであれば今直ぐ、その髪に顔を埋めヒナ吸いを敢行したい所ではあるが、大人としてそんな事は許されない。先生は此方を見上げる、涙ぐんだヒナの姿を慈しむ様に眺めながら微笑み、頷いた。
だが、それはそれとして。
「それじゃあイオリ、改めて足を舐めても良いかな?」
「先生の頭は一体どうなっているんだ……」
「ふふっ、冗談だよ」
愕然と、いっそ理解できない何かを見る様な瞳を此方に向けて来るイオリに対し、先生は肩を竦めて見せた。
所謂、先生ジョークである。
流石の自分でも、生徒の前で足を舐める様な真似を嬉々とする訳にはいかない。それこそ、子ども達の何かしらが掛かっているのであれば幾らでも尊厳を投げ捨てるが、そうでないのなら分別はあった。
そう、これは決してセクハラなどではない。
先生はただ純粋に、腹の底からイオリの足を舐めたいだけだった。
「……何だ、先生の事だから本気かと思った」
「まさか、私は生徒が本気で嫌がる様な事はしないさ」
「ふん、どうだか」
イオリは鼻を鳴らし、信じられないとばかりに訝しんだ視線を寄越す。
「って事は、委員長も分かっていて乗った訳?」
「当たり前でしょう、ヒナ委員長がこの程度、見抜けない筈がありません」
「……その割には、随分と取り乱していた様に見えましたけれど」
「え、いや、別に私は――……」
舐められても、嫌じゃないけれど。
ヒナの呟いた声は誰に届く事も無く。
寧ろ届いた方が問題であると気付いたヒナは慌てて咳払いを挟み、自身の羞恥を掻き消す様に声を張り上げた。
「え、えっと、先生、傷は大丈夫なの?」
「うん、ちょっとリハビリが必要だけれど、命に別状はないって、直ぐに良くなるよ」
「……そう、良かった」
先生の姿を改めて見れば、体中包帯とガーゼ塗れ、色濃く残った痣は未だに完治せず、運び込まれた当初と比べれば多少マシになったものの、まだまだ時間が必要な事は明らかであった。
特に布団の下に隠された右足、その実情について小耳に挟んでいるヒナは――その内側より湧き上がる感情と言葉を押し殺し、ぐっと唇を噛む。
そんな彼女の心情を察してか、右手の指を二本立て、ピースをしながら元気アピールを行う先生に、ヒナは思わず苦笑を零した。
「兎に角、あまり長居しては先生に迷惑をかける事になる、そろそろゲヘナに戻ろう――長く空けると、何があるか分からないし」
「っと、そうですね!」
風紀委員会が揃ってゲヘナを留守にすると、大抵碌な事にならない。それも長時間ともなれば尚の事。ヒナは羽織った外套を靡かせながら踵を返すと、肩越しに先生へ告げる。
「また何かあったら連絡して、私達風紀委員会は、如何なる状況でも先生の味方だから」
「ありがとう、ヒナ、皆も」
「……うん、それじゃあ、お大事に」
「他の生徒に、さっきみたいなセクハラするなよ、先生?」
「ヒナ委員長と二人きりにはさせませんからねっ!」
「それでは……先生、また来ますから」
各々が先生に声を掛けながら病室を後にする。広い空間は彼女達が扉を閉めた途端、一気に色を変え、静寂に包まれた。
伽藍洞の様な空虚感、或いは寂寥感だろうか。彼女達の消えていった扉をじっと見つめる先生の耳に、ノックの音が響く。
「失礼します、先生」
扉から顔を覗かせたのは、ヴァルキューレ警察学校の制服を身に纏った生徒。彼女は片手にタブレットを持ち、忙しなく指をスライドさせている。今回この病室の警護、及び面会者の事前対応に当たっていた警備局の生徒であった。
彼女は画面に表示される文字を眺めながら、先生に視線を向ける。
「えっと、次の方ですが――」
「……ごめん、五分だけ時間を貰えるかな? 先に、会っておきたい人が居てね」
「あっ、はい、勿論です」
先生がそう云うと、生徒は快く頷き、直ぐ傍に用意してあった車椅子へと駆け寄って行く。此処から先は暫く面会が続くだろう、その前に――どうしても、見舞っておきたい生徒が居た。
■
「――……?」
「おはよう、カンナ」
カンナが僅かな睡眠から目を覚ました時、ベッドの脇に見慣れぬ人影があった。
朧げな影、日がな一日ベッドに横たわる事しかやる事が無く、せめて書類仕事をしようと思えば部下に止められる日々。こうも眠ってばかりでは良く目も覚め、長く寝入る事すら儘ならない。
公安局の局長、そして先の事件に於ける重要参考人として個室を与えられた彼女は、薄らと差し込む日差しに照らされたその人影を、暫くの間じっと注視し。
ゆっくりと影が輪郭を持ち、揺れる視界が彼を認識した時、カンナは反射的に身を起こそうとした。
「先生っ……!?」
「っと、起き上がらないで、まだ安静にしていないと」
しかし、それを見た先生は右腕を伸ばし、布団越しにカンナの腹部を抑える。
どうして先生が、自身の病室に? いつの間に、全く気付かなかった。カンナは暫し呆然と先生を見ていたが、軈て観念した様に再び病床へと身を横たえると、恥ずかしそうに耳を力なく垂らした。
「……この様な姿、お恥ずかしい」
「私も同じだから、気にする必要は無いよ」
カンナの言葉に先生は笑みを零すと、自身の恰好を示す様に右腕を広げた。どちらも患者衣を身に纏い、髪はボサボサ、全身包帯とガーゼ塗れ、とても人様に見せられるような恰好ではない。
しかし、お互い様ともなれば多少羞恥心も削がれるというもの、というより先生にとっては最早日常茶飯事で、恰好を気にするだけの余裕もなかった。その発言に苦笑を零したカンナは、それから先生をじっと見つめたまま、噛み締める様に吐息を漏らす。
「こんな状況で、口にする事ではないかもしれませんが」
病床に身を横たえたカンナは、直ぐ隣に佇む先生――車椅子に乗り、此方を優し気に見つめる彼を眺めながら思う。お互いに傷だらけで、全てが上手く行ったとは云い難い。
しかし、こうして再び顔を合わせられた事を、彼女は心から嬉しく思った。
「――ご無事で何よりです、先生」
「……うん、カンナも」
無事と云うには、お互いに酷い恰好であったが、兎角生きている事が重要であった。その一点に関しては先生も同意するようで、お互いに自然と見つめ合い、微笑みを零した。
「RABBIT小隊の皆に聞いたよ、内部資料の事も、公安局を率いて助けに来てくれた事も」
「……とは云ってもこのザマですが、流石に今回は無茶をし過ぎました、部下達も随分危険に晒してしまった」
「けれど、そのお陰で私はこうしてまた、カンナと話す事が出来ている」
仔細はRABBIT小隊の皆から聞き及んでいる。彼女が公安局の生徒を率いてシャーレ本棟へ攻勢を仕掛けなければ、自分はどうなっていたかも分からない。自身を逃がしたカイザーCEO――カイザーもまた、彼女の起こした騒動に乗じる形でシャーレに侵入した筈だ。それ考えれば、正にカンナと公安局の働きは値千金と云えた。
「皆には感謝しないとね、近い内に公安局の皆が入院している病室を訪ねてみるよ」
「えぇ、きっと部下達も喜びます、確か此処に入院している筈ですから――ですがその前に、先生の御身体を優先して頂かないと」
「大丈夫」
生徒達を見舞う前に、先生自身が回復しなければ。
そんな風に言葉を紡ぐカンナに対し、先生はしかし緩く首を振って見せた。
「今だから、出来る事なんだ」
「……?」
言葉の意味は理解出来たが、意図は分からなかった。
それ以上先生が自身について言及する事は無く、カンナは不意に今後の事が脳裏を掠め、思わず口を開く。
「その、気の早い話ですが、退院後は連邦生徒会の方に?」
「そうなるね、やらなくちゃいけない事が山積みだから」
両肩を竦めながら先生は答える。口調には微かな疲労感が滲んでいた、この後の事を考えると、非常に頭が痛いのは両者同様であるが故に。
「今回の一件でD.U.全域が少なくない被害を受けた、部分部分とは云え復旧作業は必要だし、連邦生徒会内部の諸々、加えてカイザーコーポレーションへの対応も急がなくちゃいけない」
流石に、見て見ぬふりは出来ないから。
先生の言葉に、それはそうだとカンナは重い溜息を零した。元々連邦捜査部シャーレはその名の通り、連邦生徒会の直轄組織。上のゴタゴタに対し完全な静観を決め込む事は組織としても、先生の性質としても難しいだろう。
そしてそのゴタゴタは、現在進行形で起こっている事でもある。
思考し、カンナは胡乱な目で先生を見た。
「……もしや先生、病室で夜な夜な書類仕事に勤しんでいるのでは?」
「――ははっ」
その指摘に、先生は視線を逸らしながら乾いた笑い声を漏らした。
図星だった。
そして、周囲にも同じように思われているのだろうと察し、先生は最早笑う他なかったのだ。しかし、カンナにはそれを責めたり咎める権利が無かった。何せ自分もまた、同じような事をしようとしていたのだから。
「人材資源室、防衛室は今後、どうなるのでしょうか」
「前後も含めてまだ確かな事は云えないかな、一応調査委員会は設置するらしいよ、室長の職務・権限は停止済み、関係の疑われる生徒は拘束・勾留中、今行政委員会の二部門は統括室が代理業務を行っているらしいから」
「それは、また」
先生の言葉に、カンナは分かり易く口元を引き攣らせる。その多忙さを想像し、絶句したのだろう。彼女の胸中は良く理解出来た、電話越しに聞いたリンの声は、今にも死にそうな調子だった事を思い出す。普段の業務に加え、空いた穴も埋めなくてはならないとなると――文字通りの二十四時間稼働も冗談ではなくなる。
先生としても、早く復帰して何とか彼女の力にならなければという思いがあった。その為にも、皆が寝静まった夜に細々とタブレットで業務を進めているのだが、これが中々どうして思う様に進まず。
「私も今はオフィスが吹き飛んでいる状態だし、退院までにシャーレ本棟の復旧が間に合わなかったら、連邦生徒会にお願いしてサンクトゥムタワーの片隅で細々と仕事かな?」
「はは、そうなったら顔を合わせる事も増えますね――……痛っ」
先生が冗談めかしてた様にそう云うと――存外、冗談という訳でもないのだが――カンナもつられて破顔し、それから脇腹に走った鈍痛に顔を顰めた。
少しばかり、羽目を外し過ぎたらしい。先生はカンナを暫し見つめた後、乗って来た車椅子の手摺を軽く叩いた。ギッと、フレームが軋みを上げて車椅子が後退する。
「ごめん、長話をし過ぎたね、そろそろ病室に戻るよ」
「いえ、そんな事は……」
「今回は本当にありがとうカンナ、また時間を見つけて話そう」
「えぇ、此方こそ、いつでも」
お互いに礼を告げ、先生は不慣れな様子で車椅子を操作しゆっくりと部屋を後にしていく。擦れる金属音、車輪の動く音。カンナはゆっくりと上体を起こし、先生の背中をじっと見つめ、それからふと喉を震わせる。
「先生」
その名前を呼ぶと、ぴたりと進んでいた車椅子が止まった。肩越しに此方を伺う、先生の瞳。
「退院したら、またご一緒に」
カンナは徐にガーゼと包帯に包まれた右手を挙げ、杯を掴む様な動作を見せた。
それが意味するところは、明白だ。
「――屋台で一杯、どうですか?」
はにかむ様に、微かな羞恥を滲ませながら。
その様な提案をしたカンナに対し、先生は満面の笑みを浮かべると、右手を同じ形に取った。
「勿論」
■
「ごめんね、慌ただしくて」
「い、いえ……!」
「カンナの事、よろしく頼むよ」
「ハッ!」
カンナの病室、その両脇に立つ警備局の生徒二名。彼女達は名目上カンナに対する監視役となっているが、実態はカイザーコーポレーションに対する警戒の意味合いが強い。二人と短く言葉を交わし、カンナの病室を後にした先生は、警備局の生徒に車椅子を押されながらゆっくりと白い廊下を進む。
「それでは、お部屋に戻りますね」
「うん、お願い」
頭上から響く声に頷きながら、先生は車椅子に背を預ける。そうしてゆっくりと瞼を閉じ、暫しの間身を休める為に深呼吸を繰り返した。これからやるべき事は沢山ある、連邦生徒会の再編もそうだし、今回の件に対する各自治区への感謝と謝罪、被害に遭ったD.U.区画の市民対応、カイザーコーポレーションへの対策とシャーレ本棟の復旧、防衛室と人材室に関する事も。
そして――SRT特殊学園の復活さえ。
今回プレジデントが残した爪痕は大きい、一つ一つ対応するだけでも相応の時間を要するだろう。腰を据えて片付けていくしかない、それは分かっているが今の先生からすると、まるで途方もない事の様に思えた。
ただでさえ時間は少ない、この肉体も、そして不吉な光が到来するまでの猶予も。
想い、先生は右手の指先を擦り合わせる。包帯に包まれた肌は、その亀裂を生徒の瞳に映さない。一日、一日経る毎に自身の中からあらゆるものが失われて行く感覚があった。
それはここ数日、特に顕著である様に思う。その喪失感は先生の中に強い焦りを生み、様々な懸念と思考が脳裏を飛び交っていた。
せめて、本船を起動するだけの猶予は――そう溜息交じりに瞼を押し上げた所で。
「―――……ッ」
思わず、息を呑んだ。
それは隠し切れない動揺から漏れたものだった。
寧ろ、声を発さなかったのは奇跡とも云える。
「……? 先生、どうかされましたか」
その僅かな動揺を感じ取った警備局の生徒が、不意に車椅子を停止させる。直ぐ傍から問いかけられる声、先生はそれに直ぐ答える事が出来なかった。それ程までに訪れた結果が、先生の精神を根底から揺さぶったのだ。
――嗚呼、そうか。
しかし、同時に納得もあった。
遅いか早いかの違いに過ぎない、アロナは以前より口にしていたではないか、と。
全ては己の肉体が一切の損傷を受けず、平穏に過ごした場合の仮定に過ぎないと。
ならば、これは何ら不思議な現象ではない。
寧ろ、当然の代償とも云えた。
予兆は自体はあった。一度RABBIT小隊のキャンプで発生した事、一時的なものだと思っていたが、今回の負傷でより大きく削れたと云う事だろう。先生は自身の目元を指先で擦り、感覚も無いままに二度、三度と同じ動作を繰り返す。
来るべき時が来た、ただそれだけだった。
「……いいや」
悲鳴を呑み込み、恐怖を腹に押し込め、先生は努めて何でもないように答える。
声に震えは無く、真っ直ぐ前を見据えた先生はゆっくりと息を吐く。
その所作に、少しばかりの違和感を抱いた生徒が先生の顔を覗き込むも、特に変化らしい変化は見られない。止まったままの車椅子に、先生は後方の生徒を見上げながら微笑み、云った。
「ごめん、本当に何でもないよ」
「……そう、ですか?」
不自然ではない筈なのに、どこか引っ掛かる。
しかし、それが何であるかは分からない。
この場に立っていたのが、普段から付き合いのある生徒であれば勘付いただろう。
しかし滅多に先生と接点を持たない、警備局の生徒では気付きようがなかった。それは生徒にとって、先生にとって幸運だったのか、それとも不幸だったのか。
不思議そうに小首を傾げ、警備局の生徒は再び車椅子を押して動き出す。
白い廊下に響く微かな金属音、耳に届く誰かの話声、足音、残響。
先生はそれらを辛うじて感じながら、黒く染まった視界の中で言葉を絞り出す。
「――……私は」
震え、乾燥した唇が紡いだ呟きは、中途半端に途切れた。
先生はもう。
大丈夫とは、云わなかった。
RABBIT小隊とFOX小隊のその後。
退院するカンナと先生の容態急変。
連邦生徒会による各自治区生徒会代表への緊急招集要請。
最後となるゲマトリア会議と銀狼の使命。
そして来る最後の
カルバノグの兎編も残り二~三話となりましたわ。
そしてカルバノグの兎完結は、それ即ち最終編の突入を意味します。
云ってしまえばこの章の終わりこそ、最終編のプロローグであり、最終編の前半なのです。そう考えれば約五十話、五十万字以上に渡る文字数も仕方ない事――そう自分に云い聞かせるのですわ~!