「御存じの通り、現在D.U.総合病院の警護は各校の持ち回りで担当する事になっております、現在連邦生徒会は立て直しの真っ最中、これら初動が遅れたことは――」
「前置きは必要ないわ」
第一大会議室の中に朗々と響くリンの声、彼女が言及しているのは現在のD.U.総合病院、及び連邦生徒会を取り巻く状況について。それに対し即座に言葉を差し込む者が居た。
何処までも冷徹で、抑揚のない声で言葉を被せたリオは、指先でタブレットの画面を小刻みに叩きながら続ける。
それは苛立ちを隠す為か、それとも不安を紛らわせる為か。しかし親しい者でも辛うじて感じ取れる程度の機微に、大多数の者は気付く事も無い。
「連邦生徒会の現状は既にこの場に居る全員が理解している筈、無駄は省いて本題に入りましょう、それが合理的よ」
「キキッ、確かにな、各々情報を扱う部門はあるだろう、シャーレの先生の事ならば兎も角、連邦生徒会云々に関しては然程興味がない」
「………」
ミレニアムとゲヘナ、両陣営のトップに断言されリンは思わず閉口する。背後からアユムが呻く声が聞こえた、きっと椅子に腰かけたまま腹部を擦り項垂れているに違いない。背後を見ずとも、彼女の様子が手に取る様に分かった。
カタリ、と。
微かに響く音、それはソーサーとカップの当たる音だ。全員が視線を向ければ、能面の様な表情を浮かべたナギサがリンを見つめていた。それが意図的に起こされたものだと、遅れて理解した。
「先生は、まだ目を覚まされていないのですね?」
問い掛ける声は、会議室の中に良く通った。数秒、周囲に沈黙が流れる。嫌な沈黙であった。音が無い空間というのは、妙に人の不安を煽る。
「はい、先生が昏睡状態に陥ってから、既に二週間以上、その間一度も目を覚ましたという報告はありません」
リンは慎重に言葉を選びつつ、問い掛けに頷きを返した。先の事件よりD.U.内の総合病院に搬送され、そのまま即手術、後に入院する形となった先生。その後容態は安定し、訪れる生徒達にも朗らかに対応していた彼であったが。
状況が変わったのは二週間前、突如容態が急変し昏睡状態に陥った。
最初に気付いたのは警護担当の生徒であった。見舞いに来た生徒の対応を行い、同じ病院に入院中の生徒達を見て回り、夜に「おやすみ」といつも通りのやり取りを終えた後――翌朝、病室へと踏み込んだ彼女が目にしたのは、昏々と眠る先生の姿であった。
最初はただ、疲労から寝入っているだけだと思った。暫く横合いパイプ椅子を出し、先生の寝顔を見守っていた彼女であったが、医療スタッフが朝の回診に来る時刻でも目を覚ます事は無く、その時点で薄々不安は感じていた。
果たして、それは的中した。
呼びかけにも応じず、痛みなどの刺激にも一切反応しない。こうした状況に於いて、「ただの長時間睡眠」と考えられる筈も無く、即座に医療チームが対応する流れとなった。術後ICUを出た先生であったが、一週間と経たぬ内にICUへと逆戻りとなった彼は、未だ目覚める気配がない。
「そうだな、万魔殿の掴んだ情報とも一致する」
「……先の事件で、頭部に外傷が?」
「――件の騒動後、D.U.総合病院より共有された情報を確認しましたが」
二週間経過しても尚、目を覚まさない等到底普通の事態ではない。それは共通の認識であった。
リオが訝し気に問い掛ければ、ゲヘナの救急医学部、セナが徐に手を挙げ起立する。彼女は手元に広げていた資料を指先でなぞりながら、一つ一つ丁寧に言葉を紡いだ。
「頭部に所々負傷はあったものの、著しい外傷等は見られませんでした、CT及びMRIによる脳挫傷、脳浮腫の所見なし、
「……つまり明らかな器質的損傷ではなく、寧ろ臨床所見だけ見ると非器質性の意識障害、所謂心因性昏睡や機能的要因も考慮すべきケースと、そういう事でしょうか?」
少しばかり距離の空いた席に座すセミナーのノア、彼女が小さく手を挙げ問いかけた。強い懸念を滲ませる彼女の表情を一瞥し、セナは肯定を示す。
「仰る通りです、ただし心因性であれば通常、強い刺激で短時間でも覚醒反応を示す場合が殆ど、しかし先生の場合、痛覚刺激に対しては最小限の逃避反応どころか、一切の反応を示しません」
「……救護騎士団では、角膜反射や咽頭反射など、脳幹反射自体は保たれている事が確認されています――ただ、それでも尚意識レベルの改善が全く見られないというのは、あまりにも不自然です」
「えぇ」
救急医学部のセナに同調するように、救護騎士団のセリナが言葉を付け加える。どちらも病院側より先生の容態を示すデータは共有されており、各々分析、過去の診療録と比較しこの場に必要な資料を揃えている。
「……代謝性疾患や感染症はどうだろうか、たとえば、非ケトン性高浸透圧性昏睡や肝性脳症、敗血症性脳症などもあるだろう」
手慰みに撫でつけていたシマエナガをそっとテーブルに降ろし、両手を重ねたセイアが知見を述べた。すると隣り合ったミネ団長が静かに首を横に振り、返答する。
「入院時の血液ガス分析、アンモニア、血糖、電解質バランス、肝機能、腎機能、得られた値は全て基準範囲内でした、
「こういう分野は素人同然だけれど、それなら……中毒性の原因は考えられないかしら? 警備状況から難しい事だとは思うけれど、カイザーコーポレーションの残党が侵入してとか――血液中の薬物スクリーニングは済んでいるのよね?」
ユウカが手元のタブレットを指先で操作し、真剣な声色で問いかける。早々考えられるような事でもないが、相手が先生と云う存在に執着しているのであれば暗殺という手段を取っても何ら不思議ではないと、彼女は訴えていた。寧ろシャーレ本棟を爆破までしたのだ、今更毒物を用いる事に何ら抵抗などあるまい。そんな確信が彼女の中には存在する。
セナは手元の資料を捲り、その瞳を細めた。
「オピオイド、ベンゾジアゼピン、バルビツール酸系、抗精神病薬、アルコール代謝産物、すべて陰性、CO中毒、またシアン化物中毒も疑りましたが、血中カルボキシヘモグロビン、シアン濃度も正常範囲でした、加えて先生の病室は現在各自治区より派遣された選抜隊が防衛に当たっています、関与できる医療関係者も極少数、チェックも厳重であり二重、三重は当たり前、その点に関しては私よりも各代表の方々の方が詳しいでしょう、使用している業者も救急医学部、救護騎士団を通してのもの、院内に侵入し関連器具や薬品に細工が可能とは、とても――」
「なら、機能的MRIやPETで脳の代謝活動の確認は? 脳梁離断症候群や
「機能的
ミレニアム側より様々な問いが飛び込んで来るも、その悉くは既に確認済みである。先生が意識を失ってより、思い当たる事項は可能な限り検査し、調査した。その全てが異常を訴えず、全て問題ないと声高に叫んでいるのだ。
極めて稀な症例――それですら、まだ控えめな表現だろう。
端的に云えば、未だ先生が目覚めぬ理由は、全く以て不明であった。
「……それではやはり心因性昏睡、という事でしょうか」
二度、三度、皆が言葉を重ねる間に紅茶を口に含んだナギサは、小さな声でそう呟く。此処まで調べて何も無いとなれば、後は肉体的な問題ではなく、精神的なモノに起因する可能性が高い。寧ろ、それしか選択肢が無いと云うべきか。
「―――」
彼女の呟きに対し、救護騎士団のミネとセリナ、救急医学部のセナが互いに視線を通わせた。そこには彼女達にだけ通じる何かがある。
それからふと、三名の瞳がミレニアム側へと流れた。
三名の視線の先にあったのは、未だ空席となる二席。
この場に存在しない明星ヒマリと、和泉元エイミの席であった。
「精神的な事柄が原因となると、先の騒動で先生が受けた何かしらの精神的苦痛が関係している事になりますが――」
「その件に関しては、シスターフッドより」
アコが軽く唇を噛みながら思案する素振りを見せれば、緩やかな所作で挙手を行ったサクラコが発言を行う。全員の視線が彼女に集中する中、サクラコは努めて淡々とした口調で続けた。
「D.U.にて発生した一連の事件、その仔細に関して既に皆さん把握している事と思います、カイザーコーポレーションはサンクトゥムタワーの制御権を入手するにあたり、サンクトゥムタワーは勿論、外部よりタワーに接続可能なアクセスポイントを確保する為、シャーレの先生を拘束、尋問を行ったとの情報をシスターフッドは掴みました」
「尋問、ですか?」
「はい、本来であればサンクトゥムタワー、及び行政官が制圧された時点で制御権はカイザーコーポレーションの手に渡ってもおかしくない状況でしたが――先生が予めそういった悪意を持つ者が制御権の取得に動いた際、直前で阻止出来るよう安全策を設けていたと」
「……それで、カイザーコーポレーションは先生よりパスコードか何かを聞き出す為に尋問を?」
「待って下さい」
今回先生が受けた負傷、その大部分に至るまでの過程を口にしようとしたサクラコに対し、待ったを掛けた人物がいた。それは彼女の直ぐ横に座すミネ団長。彼女は立ち上がったサクラコを見上げながら、どこか咎める様な視線で以て射貫く。
「先程の発言、救護騎士団とは聊か見解の相違がありますね、サクラコさん」
「……見解の相違とは、ミネ団長?」
「カイザーコーポレーションが先生に対し行った行為は、尋問ではありません」
サクラコの発言に対し、ミネはハッキリとした口調で否を突きつけた。そして両手の指を組み、一度大きく息を吸った彼女は感情を堪える様に目を瞑り、軈て告げる。
「――あれは、拷問ですよ」
総合病院より共有されたカルテ、及び実際にその目で確認した光景を思い返しながら、ミネは断言する。吐き捨てる様に、しかし確かに放たれた言葉には底知れぬ侮蔑と憤怒の色が秘められていた。あまりにも強い語調で放たれたそれに、一同は微かな戸惑いと共に救急医学部、セナへと視線を向けた。
同業としての意見を無意識の内に求めたのだ。皆の視線に晒されたセナは資料の上に掌を乗せたまま、ゆっくりと頷いて見せる。
「……救急医学部としても、同様の見解です」
セナは淡々と、いっそ冷淡な様子で肯定を示す。しかし、その胸中が表情と一致しているかまでは不明。サクラコはミネの言葉に反駁する事も無く、ただ目を瞑り無言を通した。それは消極的な肯定である――しかし、ミネもまたシスターフッドの代表たる彼女がその手の表現を好まない事を知悉していた。
何分、トリニティに於いて戒律の守護者と謳われ、様々な血なまぐさい歴史を持つシスターフッドである。遥か過去、第一回公会議で定められた戒律を守り続け、それに反した反逆者にどのような対処を行っていたのか、語らずとも察せると云うもの。
故に彼女を責める様な真似はしなかった、しかし同時に現状は正確に伝えなければならない。
特に、この場に於いては。
「……拷問、と云うと」
「今回、先生の肉体には必要以上に痛みを与える様な、悪意の感じられる傷が散見されました、病院に搬送されてからお会いになった方が殆どだと思いますので、実際の傷を見ていなければ難しい事だと思いますが――」
先生の身体は、一体どこで何をしていたのか、夥しい傷を拵えた身体である。
此処だけの話、初めて先生の肉体を見た救護騎士団の生徒が卒倒しかける程に、その傷は多く、深く、禍々しい。
禍々しいという表現を他者の身体に向かって使う事など、適切ではないと理解しているが、そう評す他ない程に先生の身体は特殊なのだ。傷自体多い上に、その一つ一つに対して何か、云い表す事の出来ぬ怨嗟が込められているかのような。
情念、執着、兎角薄らと感じる仄暗い感情が、先生の身体に刻まれた古傷を通して何かを訴えかけて来るような気がしてならないのだ。その重圧、表現出来ぬ色に呑まれた生徒は決して少なくない。初めて目にした時、ミネ団長が感じたのは薄ら寒さであった。
これだけの傷を受けて、それでも尚命を繋いでいる事の異常。
その傷自体から放たれる、重苦しい気配。
思い返しながら、ミネは眉間に皺を寄せる。
「あれは対象を殺害する為ではなく、徹底的に苦痛を与える為のものです」
断言する。
見る者が見れば分かる、そうでなくとも勘付く事は容易いだろう。ミネがセリナを一瞥すると、資料を握り締めていた彼女は頷き、おずおずと立ち上がった。
「……負傷箇所に関しては、特に右足の状態が酷く、大腿動脈こそ損傷していませんでしたが大腿直筋、内側広筋、外側広筋、大腿四頭筋の損傷著しく、膝関節が屈曲したまま伸展不能の状態でした、その、加えて右足の指先に関しては――」
資料を視線でなぞり、同時に初めて齎された際の報告が脳裏を過り、セリナは声を絞り出す。資料に食い込んだ指先が表面に深い皺を作り、セリナの唇が感情を表す様に下へと曲がった。
「……全て、切り落とされています」
五本の指すべて、一本残らず。
それはただ、攻防の末に負う様な負傷ではない。ましてや狙いすましたかのように、足の指だけ切り落とす負傷など、どんな代物だ。明確な意図を持ち、行動しなければまずあり得ない話。
だとすれば、信憑性は語るべくも無く。
「―――……」
室内に訪れたのは、痛い程の沈黙。
ミネの言及した通り、先生と実際に面会が叶った生徒は、術後の姿しか知らない。治療に関与した訳でもなければ、その包帯やガーゼ、足に装着したギプスの下がどんな状態にあるかなど、知る由もないだろう。多少小耳に挟んだ程度では、具体的な負傷など把握出来る筈も無く。
ましてや足の指が全て切り落とされているなどと、想像も出来まい。
「……ミネ団長」
カップをソーサーに置いたまま、ナギサはミネの名を呼んだ。視線は動かさず、ただ手元を注視したまま。静寂が支配する部屋の中で、その声は良く通った。
呼びかけが意味する所をミネは察し、淡々と頷きを返す。
「全て、事実です」
ナギサの手元から音が鳴った、それは彼女が押し殺す事に失敗した動揺の欠片である。情報自体が十全に共有されていると思っていた、しかしそれは誤りであったのだ。ナギサはその様な話を、一度たりとも耳にした覚えがない。トリニティに於ける茶会、内々の中でさえ、一度も。
強い猜疑心が首を擡げた。それを何とか制御しようとして、失敗する。
「ならば、何故」
「………」
「何故、それをもっと早く――」
「ナギサ」
御し切れない憤怒に彼女が身を任せそうになった瞬間、ナギサの肩に小さな掌が掛けられた。ハッと顔を上げれば、其処には自身を見据える真剣な瞳があった。セイアだ、彼女はナギサを注視しながら神妙な面持ちで言葉を続けた。
「ミネ団長に先生の具体的な負傷、それをティーパーティーに報告しないで欲しいと要請したのは私だ、君が大まかな全体像しか掴んでいないのは、私がそう望んだからに他ならない」
「……セイアさん」
彼女の告白に、ナギサは一瞬驚きと戸惑いの感情を見せた。
一体何故、その様な事を。
第六感に頼らずとも分かる、滲み出る疑問の言葉にセイアは答える。
「ミカがこの報告を耳にした場合、どの様な動きを見せるのか、全く予測がつかなかった」
呟かれるそれに、ナギサが思い返すのは先の戦闘で垣間見えたミカの姿勢。暴力性とでも表現すれば良いのか、遮るもの悉くを文字通り粉砕してでも直進する彼女は、正に制御不能な恐ろしい存在のようにも思えた。
無論、それは正しい認識ではない。言葉も交わせれば、理性だって存在する。自分達の言葉を一蹴する訳でもなければ考えなしに動き回る訳でもない。ましてや彼女達は、友人として互いに言葉を交わしたミカを信じている。
ただそれでも尚、先生という存在の比重が彼女にとって大きすぎるのだ。
「ミカの先生に対する執着、感情は少々常軌を逸した点がある、万が一にもこの事実を知った上で、各自治区に点在するカイザーコーポレーション支社、工場に襲撃でも仕掛けられては、現状とても手が回らない」
「………」
「ナギサ、君も分かっているだろう」
セイアの口調は説得というよりも、半ば自分自身に云い聞かせている様にも思えた。セイアの持つ第六感とて万能ではない、いつかの予知夢と同様に制御出来る訳でもなく、全ての事柄に作用する訳ではなかった。故にこそ、敢えて情報を制限する様求め、ティーパーティーの動きを制御できる範囲内に収めようと動いたのだ。
二人の視線は互いの手元に落ち、背後から差し込む陽光が影を落とす。この様な重苦しい会議の最中でさえ、空は憎たらしい程に蒼く、透明だった。
視線は交わらずとも、互いの事は分かる。それだけの繋がりが、二人の間には存在するが故に。
「私達は互いの溝を埋め合い、取り繕う事が無くなった、それは善い事だろう、忌避する事柄では決してない、私達が再び絆を育んだ事実こそを、私は大切にしたいと思っているんだ、今度こそ――だから」
そう、だから。
セイアはより一層、語調を強め告げる。
「ミカが原因で、自治区間の抗争にも発展する様な事は、決して許してはならない……学園の為だけではない、ミカの心を守る為にも、これは必要な事だろう」
「キヒャヒャッ!」
セイアの真剣な言葉に対して、場違いな笑い声が響いた。二人の視線が対面に向けられる。其処には両腕を組み、目深く被った帽子より鋭い眼光を覗かせるマコトの姿がある。
セイアはナギサに向けていた、友愛と慈しみの視線を拭い、険しい表情を浮かべる。
「……マコト議長、何かな?」
「トリニティの代表が聞いて呆れる、特にシスターフッド等と云う、ユスティナ聖徒会の流れを汲む懲罰の暗部を抱えながら、何故その様な温い考えに賛同する? そもそも仕掛けて来た側を放っておくなどと……!」
尊大に、いっそ清々しい程に敵愾心を隠さない彼女は立ち上がり、大きく両手を広げると自身に視線を向ける全員に対し告げる。
「心置きなく潰せば良いではないか! 現に我がゲヘナでは既にカイザーコーポレーション各支部が襲撃に遭い、壊滅状態に陥っているとも! 所在がスラムだろうが、ブラックマーケットだろうが関係ない! 好きに襲い、暴れ、壊す、何故堪える必要がある? 先に仕掛けたのは連中だろうに!」
「……それは、万魔殿が主導しての事かしら」
彼女の言葉には、自身に対する一切の疑いが存在しない。その言葉が絶対的に正しいと、そう信じているのだ。朗々と、謳う様に宣うマコトに対し、リオは努めて淡々とした口調で問うた。
マコトの表情がリオを横目に、嘲りを滲ませる。
「――まさか」
その様な馬鹿げた行為を、このマコト様自ら主導する筈がないだろうと。実際に口に出さずとも、そう感じ取れるだけの態度で以て彼女は首を振る。大きく音を立てながら再び着席したマコトは、足を組み直し喜色と共に告げた。
「生憎と、我がゲヘナは自由な校風でな、銃撃、爆破は日常茶飯事、他所自治区で暴れたという話など、真面に取り合えば日に何十、何百、何千ある事かも分からん、それこそ風紀委員会でも手が回らん程に――そうだろう、空崎ヒナ?」
何せ、我が威光を示す彫像が数日で破壊される程の活発さだ。仰々しく掌を上に返すマコトは同列のヒナに同意を求め、水を向ける。
声を掛けられたヒナは先の先生の実情を聞いて以降、俯いたまま沈黙を通していた。その表情は心なしか、青白い。「委員長」と、隣り合ったアコがヒナを思い遣る様に名を呼んだ。するとヒナはゆっくりと首を擡げ、アコを一瞥し、それからマコトに視線を移すと、緩慢な動作で頷きを返した。
「……えぇ、そうね、流石に目の前での犯行であれば阻止するけれど、生憎とカイザーコーポレーションの支部は多いし、全てを見て回る余裕は無いもの」
視線を手元に落としたまま、肯定の返答を行うヒナ。声は力なく、細々としていた。トリニティ側はそれらの反応を認めながら、しかしナギサは慎重に言葉を紡ぐ。
「だからと云って、軽率に報復行為へと移る訳には参りません、トリニティには守るべきルールと順序、そして秩序があります、特に自身の所作一つで学園全てが変わってしまうのなら、尚の事」
「キキッ! 理に拘るのは結構だが、連中の全てをブチ壊してやりたいという欲求が眼に滲んでいるぞ? 澄まし顔で然も理性的に振る舞おうとも所詮根幹は変わらん、表装を取り繕った所で意味などあるまい? 選挙前でもないと云うのに、無駄な事だ」
「………」
ピシリと、音が鳴った。
ナギサの持つティーカップ、その取っ手が罅割れた音だった。知らず知らずの内に指先へと力が籠っていた。ナギサの羽が小さく震え、逆立つ。
滲み出る怒気、それはマコトに対する敵愾心の発露。彼女の物云いが、余りにも自身の精神を逆なでしたのだ。黄金色に煌めく瞳が、真っ直ぐマコトを射貫いていた。
二つの視線が交わり、衝突する。
「そんな解決方法を、
「必要ない、心に従えば良い、
互いの主張は決して交わらず。室内でも尚被り続ける帽子のつばを指先で押し上げ、笑みを湛えながら見下すマコト、ティーカップを手に冷然と睨みつけるナギサ。二人の様子に対しセイア、イロハがそれぞれ声を発しようとした瞬間。
「そこまでよ」
二人を制止する声が響いた。
テーブルを軽く掌で叩いたリオが、未だ睨み合う両者を仲介する様に声を張ったのだ。彼女はタブレットを胸元に抱いたまま、両名に冷ややかな視線を浴びせる。
「こんな所で三大校が対立して、どうすると云うのかしら? 学園の代表と云うからには、もう少し合理的な思考を有していると思ったのだけれど……過大評価だったと私に思わせないで頂戴」
「………」
煽る様な言動であったが、二人を見つめる瞳に嘲りの感情は微塵も含まれていなかった。彼女の言葉には、幾分かの冷静さを取り戻させる効果がある。睨み合ったまま微動だにしなかった両者は、しかしその全身に纏わせていた不穏な気配を僅かずつ消失させ、軈て互いに視線を逸らす。本音ではあったが、理性を失う程愚かでもない。そうでなければこの場に座すことも許されなかっただろう。
「代行、今回の一件、連邦生徒会としてカイザーコーポレーションに処罰はあるのでしょう?」
「……その件に関しては、近く公表予定のものが一つ」
張り詰めた空気は変わらない、しかし幾分か理性的な場に舵を戻す事が出来た。リオに水を向けられたリンは、そっと安堵の吐息を零しつつ頷きを返した。
「D.U.復旧と連邦生徒会内部の建て直しを優先した為、該当事案の議論は保留されていましたが――近く議論の場を設ける予定です、恐らく現状最も重い処罰が下されるかと」
「当然ね」
「それまでは各自治区に対応を任せる、という形でしょうか?」
「……現時点で、ハッキリと言葉にする事は出来ませんが」
「結構よ、それだけで理解出来たから」
リンのあやふやな返答に、ユウカは鼻を鳴らしながら目を瞑る。
つまり、黙認。
トリニティの対応についても、ゲヘナの対応についても、積極的な介入は行わない。しかし然るべき結論が出次第、厳罰に処す。連邦生徒会らしいと云えばらしいが、処罰するという明確な言葉が出ただけでも十分か。
リオは手元のタブレットに記録を残しながら、言葉を紡ぐ。
「私としては、カイザーコーポレーションそのものよりも、そのトップ、プレジデントの所在が気掛かりなのだけれど、この情報を掴んでいる自治区はあるかしら?」
そう云って、テーブルに並ぶ各校の代表者に視線を向ける。
企業に所属する者全てが悪であると断じる事は出来ない、ただ命令されたから、仕事として今回の事件に加担させられた者も少なくあるまい。無論、何の対処もしないという訳ではないが、重要なのは今回の襲撃、その音頭を取った存在であるとリオは考えた。
マコトはつまらなさそうに腕を組み直すと、再び背凭れに体重を掛け溜息を零す。
「さてな、それに関しては我が万魔殿でも掴めていない、しかし近くカイザーコーポレーションに対しセイント・ネフティスが買収を仕掛けるという話を小耳に挟んだ」
「……セイント・ネフティス、か」
唐突に飛び出た社名に、セイアがその瞳を細く絞る。
「セイント・ネフティスと云うと、確かアビドス発祥の大型企業だったわね」
「はい、それに加えて嘗ては自治区内経済を殆ど担う規模を誇っていたという記録があります、ただアビドスの砂漠化が進んで以降徐々に衰退し、鉄道開発事業が失敗してからは自治区より撤退、社を傾けた筈ですが――」
アコがタブレットを操作しセイント・ネフティスに対する情報を確認しながら所感を述べる。全く聞き覚えの無い無名の企業では決してない、しかし馴染みがあるかと云われると、何とも返答に困った。
「一度傾いたとは云え、弱り目のカイザーコーポレーションを取り込む余力はある、という訳か」
「そうだ、流石にグループ全てをと云う訳ではないだろうが……まぁ所詮は噂レベルの話に過ぎない、確たる証拠はないぞ?」
「噂でも何でも構いませんが、その情報を掴んで尚プレジデントは何の動きも?」
「無い、一切な、何処に逃げ出したのかも、足跡でさえ、このマコト様が此処まで掴めないとなると――存外、どこぞで野垂れ死んでいるのかもしれん」
唇を尖らせ、溜息交じりに言葉を漏らすマコト。その所作は自身の手で始末をつけられなかった事に対する不満か、或いは別の意図からか。兎角、この話については憶測の域を出ず、マコトからしても確かな情報ではない以上行動の軸に据える事も出来ない。
小さく吐息を零したナギサは肩を落とし、思考を切り替える。
「所在の分からない相手に対し、必要以上に拘るべきではありませんね、分かりました……カイザーコーポレーションへの対処は各自治区でお好きな様に、ただしトリニティの領地に無断で踏み込むようであれば、然るべき対処を取らせて頂きます」
「はっ、云われずとも好きにやらせて貰う」
「――話を戻しましょう、先生の右足、仮に治癒したとしても歩行機能に問題は?」
「それ関しては、既に此方で手を打ってあるわ……ユウカ」
リオが挙手を行い、隣に座るユウカの名前を呼ぶ。それに頷きを返したユウカはタブレットを操作し、会議室前面に存在するモニタへと資料を転送した。途端画面が切り替わり、全員の視線がモニタへと注がれる。
「ミレニアムの
「……!」
表示されるミレニアムのロゴ、そこから派生して羅列される数々の部活動。ミレニアムの誇る資金力、及び研究技術を惜しみなく注ぎ開発された新型の人工筋肉は元よりある程度研究されていた分野を、更に人間である先生に合わせて特化させたものであった。元々その左腕が失われた時より、再生医療に関しての研究も進められていた。今回提出されたそれは、その成果の一部であると云っても良い。
投影されたそれらの資料を前に、サクラコは興味深そうに声を漏らす。
「これは、また凄まじい話ですね……」
「今回は以前の様に完全欠損した訳ではありませんから、外見上も以前と全く同じ状態に戻す事が出来る筈です――あくまで理論上は、ですが」
「この人工筋肉、具体的にはどのような?」
ミネが身を乗り出しながら問いかければ、手帳を捲りながら頷きを返すノア。SMA型、EAP型、人工筋肉と一口で云っても様々存在するが、今回彼女達が目指した形は生体組織との融合、ハイブリット型である。
ユウカがタブレットを操作し、画面を切り替えた。
「先生の右足、無事な筋肉に人工筋肉を連動、損傷が激しい部分は直接や骨に繋いで、不足分を補うの、高分子ゲルベースに生体適合性ポリマー、この人工筋肉は自己修復機能を持っているから、通常の生体筋肉と同じ働きが期待できる筈、信号伝達は筋電センサーとBMI、後はナノマシンで直接神経に繋ぐ事も可能よ」
「それは、何の違和感も無く通常の足と同じような形で扱えるという事でしょうか?」
「えぇ、流石に最初はリハビリが必要だけれどね、それとバイオハイブリットと云っても生体適合性に重きを置いているから定着には少し時間が必要よ、後は先生の身体強度に合わせて出力の微調整も――人工筋肉が強靭過ぎると、生体筋肉とのバランスが崩れて危険だから」
「……へぇ、流石に万能って訳でもないんですね」
「キキッ、それはそうだろう、何でも出来るのなら先生の左腕も元通りだろうさ」
「いつか必ず、失われた左腕に関しても何とかして見せるわ、ただそれには幾ばくかの時間が必要よ」
感心するイロハに、相変わらず不敵な態度を取るマコト。
リオは資料をスクロールしながら、確固たる決意と共に告げた。その時間が、一年か、二年なのかは分からないが。しかし、そう遠い話ではあるまい。
常に思索と研究を続けるミレニアムに於いて、その歩みは遅々としたものであっても前進である事に違いはないのだから。いずれ先生の肉体を何らかの形で再生する技術だって、不可能ではない筈だった。
それが星に手を伸ばす様な話であっても――
「足に関しては治療出来るという事で安心しました、しかしそうなると、やはり重要なのは――」
「……何故、先生が未だ目覚めないのか」
「それは、分かり切っている事ではありませんか?」
サクラコと、リンの呟き。
それに応える声は、彼女達の背後から響いた。咄嗟に全員が声のした方向へと視線を向ければ、微かな駆動音と共に現れる人影が二つ。一人は特徴的な車椅子に座し、もう一人はそれを背後より押している。
対照的な恰好をした二名は、会議室の扉を押し開け室内へと踏み込んでいた。
「――ヒマリ」
「遅れて申し訳ありません、何分ミレニアムが誇る深窓の可憐なる珠のような病弱天才美少女なもので」
「ちゃんと私も居るよ、ちょっと遅れたけれどね」
自身の胸元に手を当て、普段通りの超然とした態度で宣うヒマリ。その背後から続くエイミは小さくピースを行いながらミレニアム一行と合流する。その姿を初めて見た者は戸惑いを、そうではない者は毅然とした態度で流す。マコトは暫くの間、奇妙なモノを眺める視線でヒマリ達を見つめ、それから隣り合うイロハへと小声で問いかける。
「……何だアレは、あの恰好も含め、もしかしてミレニアムなりのジョークか、イロハ?」
「いや知りませんよ、私に聞かないで下さい」
ヒマリの言動、そしてエイミの服――いや、あれは本当に服か? 下着か何かの間違いじゃないのか。そんな疑念に対しイロハは辟易とした様子で答える。そもそも知り合いでも何でもないのだから、知る筈が無いだろうと。
「んんッ! ミレニアムの、明星ヒマリさん、でしたね」
「えぇ、ナギサさん」
こうして直接顔を合わせるのは、初めてでしょう。
ヒマリは車椅子のまま、エイミは用意されていた席に腰掛け、肩に提げていた愛銃を立て掛ける。これでミレニアムの代表者が漸く揃った事になる、ナギサは彼女達を注意深く観察しながら、言葉を続けた。
エイミとヒマリの表情には、言動に反しやや昏い色が垣間見える様な気がする。加えて彼女を知る者からすれば、いつもとヒマリの顔色が異なる事に気付いただろう。それは薄らと施された、化粧によるものだった。
この会議に出席する為だろうか? それは聊か、彼女達の普段の姿勢を顧みれば、違和感がある。リオはヒマリを一瞥し、それだけで真実に気付いた。
気付いた上で、黙秘した。
「分かり切っている事、というのは――一体どういう事でしょう」
ナギサは云う。
その口ぶりは、自分達が答えを知っていると云ってるようなものではないか、と。
ヒマリは投げかけられた問い掛けに答える事無く、救護騎士団、救急医学部に目線を送った。ミネ、セリナ、セナ、それぞれ視線を向けられた三名は顔を見合わせ、頷きを返す。学園の垣根を超え、それぞれ秘密裏に連絡を取り合っていた彼女達は、此処で知り得た全てを打ち明ける決断を下す。
「――私達は、以前より一つの違和感を抱いておりました」
それが、どのような結果を生むにしろ。
真実を、捻じ曲げる事は出来ない。
「……違和感、とは?」
「まずは、此方をご覧下さい」
両目を閉じ、厳かな気配と共に口火を切ったヒマリは、車椅子に備え付けられていたコンソールを指先で叩き、会議室のモニタに幾つかの画像を表示させる。全員の視線が表示されたそれに集まり、幾人かは息を呑んだ。
「これは――」
「既にご存知の方もいらっしゃるでしょうが、この画像は先生の右腕を撮影したものです」
画面に幾つか表示されたのは、先生の右腕を撮影したものだ。肩口から指先まで、古傷も含め一切の
まるで影の様にべったりと皮膚を覆うそれは、全員が顔を顰める程の異様さを誇っていた。イロハは半ばテーブルより身を乗り出しながら瞳を細め、画像から視線をヒマリへと移し問いかける。
「普段より手袋で覆い隠されていましたけれど……まさか、壊死しているのですか?」
「最初は私達もその可能性を考えました、ですがどうにも既存のあらゆる症例に当て嵌まりません、これは傷でもなければ、病でもない」
「傷でも、病でも……?」
「そうです、此方はトリニティの救護騎士団より頂いたデータ」
続けて、ヒマリはコンソールを操作し異なる画像を表示させる。黒が伸びた掌から手首にかけての部分を拡大し、その脇に救護騎士団より提出された画像データを表示させる。
画角はやや異なるものの、同じように掌が映った画像であった。エデン条約で負傷した折、検査も兼ねて撮影されたものだろう、撮影された時期は半年近く前――それは現在の画像と比較すると、指先にほんの僅かに黒が付着して見える程度だった。
「そして此方は、ミレニアムで起きた騒動後、先生が入院した際に得られたものです」
ミレニアムでの騒動、つまり要塞都市エリドゥに関する一連の騒ぎが収まった後に撮影されたもの。再び表示されたそれは、今度は指先から掌の半ばまで黒で覆われた画像であった。掌全体を覆っている現状と比較すれば、多少目立つもののマシにも見える。
画面に映し出される一連の画像を前に、各校の代表者は沈黙する。険しい表情を浮かべたセイアは、口元を袖で隠しながら呟いた。
「……黒色が徐々にだが、浸食しているね」
「えぇ、その通りです、そして今回得られた直近のデータが――これです」
そうして、最後に表示される直近のデータ。
即ち、現在D.U.内の総合病院にて昏睡状態に在る先生を撮影したもの。
画像は右腕と胸部、左足。敢えて負傷した足を撮影しなかったのは、各々に対する配慮の為か。夥しい古傷の中で浸食する黒は、先生の右腕、その肘辺りまでを覆い隠し、足に関しても膝下まで飲み込んでいた。確実にこの黒は先生の身体を塗り替えようとしている、加えて目に付いたのは――先生の胸元、手足だけではなく胴体にまで黒が及んでいると云う事実。
アコは驚きの表情を浮かべたまま、その指先を画像に向けた。
「……左胸に、黒い
「発生した箇所は、【心臓】ですか」
「えぇ」
先生の胸元、その左胸にまるで蜘蛛の巣の如く張り付いた黒。良く観察すれば、白く伸びた罅割れの様なものが方々に走っている事が分かる。それは手足も同じだ、しかし微かに伸びるだけのそれは、ひと目見ただけでは分からない程度に細く、小さい。
ヒマリはモニタに表示させたそれを並び替えながら、努めて冷静な様子で続けた。
「D.U.総合病院にも協力を要請し、今回得られた詳細なデータを分析、前回のものと比較したものがこれです、加えて各校、及び総合病院より共有された情報、数値上は不自然な程同値を示しましたが、これは――」
「御託は必要ないわ」
幾つかの資料を用意しながら、車椅子のコンソールに指を掛けていたヒマリに対し、隣に座すリオが冷たく云い放った。視線を向ける事も無く、ただ真っ直ぐモニタを見つめながら、リオは息を吐き出す。
ヒマリの瞳がリオへと向けられる、彼女の横顔は変わらず凛としており、決然としていた。
「結論を、ヒマリ」
「………」
傍から見れば何ら動じる事無く、この前置きを煩わしく思っている様にも見えるだろう。しかし、それは違う、ヒマリには分かった。
彼女のそれが単なる虚勢であり、何を意味するのかをヒマリは理解していたのだ。或いは彼女自身が耐えられないのかもしれないとも。
微動だにせず背筋を正すリオ、しかし重ねられた指先は微かに震え、その唇は戦慄いている。ヒマリは数秒程リオに視線を向け、それから小さく吐息を零す。表示しようとしていた資料を引っ込め、数段程構成を飛ばし、改めて口を開いた。
他ならぬリオが、それを望むのであれば――そうしよう、と。
「……見て分かる通り、この黒が先生の肉体に何らかの影響を与えているのは明白でしょう、黒い浸食は右腕、右足、左足、欠損した左腕を除く四肢先端より肉体中心に向かって伸びています――そして今回、先生が昏睡状態に陥った際、身体を確認した所心臓部に同様の黒い浸食が認められました」
この様な黒は、過去の画像でも確認出来なかった。つまり今回の騒動後、またはこの二週間の間に発生したものだと分かる。加えて、この黒色の浸食速度――ヒマリは自身の膝元で掌を組みながら、自身もまたモニタに視線を向ける。
「私達はこの浸食状況を初めて目にした際、その発生個所から体の中心に向かって進んでいく可能性が高いと推測していました、しかしその浸食速度は決して鈍重ではないものの、素早いとも云えず、四肢全体を覆うまで最低でも半年近い猶予があると演算結果が出ていたのです……しかし」
「――今回の一件で、狙いすましたかのように心臓へとこの黒色が発生した、計算外も良い所」
ヒマリの言葉を継ぎ、エイミが内心の鬱屈とした感情を吐露するように呟く。ヒマリと共に長い時間この黒について調べ続けた彼女は、各画像の浸食速度からまだ時間的余裕があると見ていた。少なくとも腕全体、足全体を覆うまでに半年、それでどのような悪影響が出るのかは不明だが、そこから胴体に伸びるまで更に時間は掛かるだろうと。
しかしこの二週間で浸食速度は桁違いの成長を見せ、果ては胴体に直接黒を伸ばす始末。この変数を予測出来なかったのは自身の落ち度と、エイミは自責の念を抱いていた。
「加えて、この黒色に包まれた部分――いえ、この黒が先生の肉体を蝕んで以降、恐らく既存の数値を測る事に意味はありません、どれだけ調べようとも、或いは物理的に存在し『そうである』と私達が認識したとしても、異常を感知する事が出来ないのです、それこそ全てが偽りであっても、何らおかしくはない」
「は? 待て、何だそれは、どういう理屈で――」
「……あぁ、そうですね、分かり易く云い換えましょうか」
マコトが顔を顰め、要領を得ないと困惑の様子を見せる。代表者の殆どが疑念の色を浮かべ、ヒマリを見ていた。彼女達の抱く感情は共通する。
ヒマリの言葉はやや曖昧な表現であった、それは意図したものではなく、彼女自身も自覚のない感情から生まれた云い回しであった。
ヒマリは徐に視線を手元に落とす、同じようにミネも目を閉じ、セリナとセナは眉間に皺を寄せ、そっと顔を伏せた。
それは次に齎される言葉がどのようなものになるかを、凡そ理解していたからだ。
「……っ」
掌に指先が食い込み、去来するであろう痛みに耐える為に身構える。
つまりは、と。
ヒマリがゆっくりと喉を震わせる。
その唇の動きが、やけに遅く感じた。
数ヶ月に渡り調査し、議論し、彼女が、彼女達が導き出した結論は。
「――先生の心臓は今、本当に動いているのかどうか、それすら分からないと云う事です」
ヒマリの声が、会議室の中に響いた。
「―――……」
誰も、声を上げる事は出来なかった。ただ事前に知らされていた僅かな生徒だけが沈黙を守り、残った各代表は絶句し、言葉を失う。
先生の心臓が、動いていない。
それを確かめる術が、自分達には存在しない。
だが即座に全員の心が否定を叫んだ。余りにも突拍子が無く、現実味の無い話だと。それを直ぐに信じて飲み込めという方が無理というもの。
しかし、この場でその様な虚偽を口にする事に、一体何の意味があるというのか。他校を悪戯に敵に回す様なモノだ。そんな愚かな存在が、この場に立てると云うのか。理性が囁き、肉体を硬直させる。まるで思考が焼き切れたかのように、頭が回らない。言葉を口にしようとしても、まるで舌が動かなかった。
それは誰もかれも同じだ、ミレニアムも、ゲヘナも、トリニティも、連邦生徒会でさえ。全員がヒマリを見つめ、凍り付き、湧き上がる感情に翻弄される。
「そ、れは――一体、どう、いう……」
辛うじて。
本当に辛うじて、ヒナが声を絞り出し、全員の声を代弁した。
瞳孔が開き、強張った体を突き動かすのは強烈で、鮮烈で、純粋な感情。
椅子から立ち上がり、呆然と佇む彼女は呟く。
みしりとテーブルを掴む指先が表面に食い込み、全身の肌が粟立った。それは否定だ、自身の全てを賭した否定。垂れていた翼が戦慄き、小刻みに振動する。
見開かれた瞳の奥に見える光が、一切の虚偽を認めないと叫んでいた。
だって、だって先生は生きている。
今は病床で寝たきりであっても、生きて確かに、ほんの少し前までは話だって出来たのだ。心臓はある、動いている、動いている筈だ――だって、そうでなければ。
「……表面的に見れば、確かに先生は生きているでしょう、何せ『そういう風に見せている』のですから、そうでなくてはならない」
「―――……は」
「この黒い浸食は、病でも負傷でもないと先程私は断言しました、では一体何か? 云わばこれは『生存を欺瞞する』事に対する限界、その警鐘であると、私達はそう判断したのです」
――故に言葉を選ばず、直截的に表現するのであれば。
もし仮に。
自分達の数ヶ月に及ぶ調査、そして推測、導き出した演算結果が正しいとするのならば。救急医学部、救護騎士団、特異現象捜査部、三大校のそれぞれが協力し、導き出した結論は――あまりにも残酷で。
「……ぁ」
ヒナの全身から血の気が引いた、まるで全てが凍ってしまったかのように温度を無くし、色を無くし、足元があやふやになって世界全てが一気に崩れてしまう様な。テーブルを掴んだ指先が表面を砕き、音を立てる。無意識の内に歯が鳴った、「聞きたくない」と叫ぼうとして、けれど声は出なかった。
ただ真っ直ぐ、此方を見据える明星ヒマリの眼差しだけが、視界の中心にあった。
そうして彼女は、その
「――先生の肉体はそう遠からず、死を迎えるでしょう」
■
踏切が音を鳴らしている。
蒼穹に浮かぶ雲が夕日に照らされ、地面に濃い影を伸ばしていた。
そこからは、キヴォトスの街並みが良く見えた。乱立するビル群、遥か向こうに広がる水平線、沈み行く陽光。淡い光に照らされた世界は、その温かさの中で少しずつ春へと足を進めていく。
一歩ずつ、しかし確実に。
世界と世界、その狭間を繋ぐ
そのシートに赤い血を残し、誰を運ぶ訳でもなく、空っぽのままで。
いつか、この中に踏み込む者が居るだろう。それがいつかは分からない、それが誰かは分からない。ただ、今この瞬間、この世界に於いて、言及するのであれば。
ぽつぽつと、シートから滴る血が床を汚す。点々と跡を残すそれは車内の扉へと続き、その主は見えない。
途中下車した、嘗ての大人の姿は、どこにも。
伽藍洞のまま、列車は進んでいた。