ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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お休みの間も誤字脱字報告、感謝致しますわ~!


最終編 【あまねく希望(生徒)の始発点】
彼女の原点(弱さを捨てた理由)


 

 救済に至るには、苦悩と絶望が必要なのだ。(楽園への道は、地獄から始まる)

 

 ■

 

■■■■(空崎ヒナ)の断片】

 

 雨――雨、雨。

 そう、自身が何かを喪う時、同時に選択を迫られている時、いつも雨が降っている様な気がした。

 彼女にとって降り注ぐ冷たいそれらは、消失の象徴である。

 まだ不幸の何たるかを、世界の何たるかを知らぬまま踏み躙られ、雨の中で散る野花は数知れず。

 曇天は()を覆い隠し陽光を陰らせる、世界全てを自分達の居場所へと変えるように、日陰が世界を満たしていた。

 影は良い、醜い己を優しい闇に隠してくれるから。

 

「………」

 

 彼女――錠前サオリは硝煙が立ち昇る銃口を突きつけたまま、そんな事を漠然と考える。

 最初は頬を濡らす程度の小雨だったのが、いつの間にかバケツを引っ繰り返したかのような土砂降りへと変わっていた。雨粒は全身を強かに打ち温度を奪って行ったが、サオリにはそれが全く気にならなかった。

 それ程までに、目の前の光景が衝撃的であったのだ。

 

 銃口は確かに――優先排除目標である空崎ヒナ(ゲヘナ風紀委員長)へと向けていた。

 

 その引き金を絞り、最強と謳われる彼女を排除する未来をほんの一瞬前まで思い描いていた。

 それが自分達に課せられた任務であり、役目であるからだ。

 躊躇いはなかった、何の感傷も、感情の揺れも無く、求められるがままに役割を果たし動く事に疑問は存在しない。

 果たして弾丸は確かに発射された。

 命を奪う為の武器(愛用品)は、確かに役目を果たしたのだ。

 自分達と、スクワッド(打ち捨てられる駒)と同じように。

 だが。

 

 

 ――その銃弾を受けた人物は、空崎ヒナではない。

 

 

「………」

 

 世界に、雨音だけが響いていた。

 帽子のつばから滴り落ちる雫が袖を濡らす。銃口から微かにゆらゆらと滲む白煙は、直ぐにその揺らめきを失くす。

 立ち塞がり、項垂れる泥に塗れた純白。所々赤に染まったそれはもう、何も話さず、動きもしない。ただ残された一本の腕で守るべき子どもを抱え、沈黙を通す。

 両目を強く瞑り、来る凶弾に備えていた生徒、先生の腕に包まれた空崎ヒナは、ゆっくりと、恐る恐る目を開く。

 

「ぅ――?」

 

 そして半ば血で塞がり、痣の残る瞼を押し上げたまま、呟くのだ。

 

「――……せん、せい?」

「……あぁ」

 

 直ぐ傍から漏れ出たそれは、返答であったのか。

 それともただ、吐息が漏れただけなのか。

 ヒナの矮躯を抱く先生の腕は力強く、雨音に紛れ彼女の頬に赤が垂れる。彼の口から、鼻から、滴るそれはヒナの頬を汚し、ゆっくりと顎先へと伝った。

 ヒナの鼻腔に漂う汗と血の匂い、甘い香り、少しずつ覚醒する意識。ほんの僅かでさえ動く事を拒んだ指先が跳ね、先生のシャツを咄嗟に掴む。

 最早布切れ同然となったそれを、反射的に。

 皺だらけのシャツに、彼女の爪が食い込んだ。

 

「なに、している、の……?」

「………」

「なんで、先生が――」

 

 疑問は、それ以上言葉にならなかった。

 ただ、目の前で起きた事が信じられなくて、理解出来なくて。

 揺れる吐息が繰り返される。

 何故、どうして。

 立場は逆の筈だ、本来であれば頑強な生徒が彼を庇う筈なのだ。

 だとういうのに、どうして先生が自分を抱き締めたまま。

 

 自分の代わりに、弾丸を受けているのか。

 

「だい、じょうぶ」

 

 ヒナの零れた疑問に、先生は答えなかった。

 代わりに彼女を慈しむように、一際強く抱き締め、それからゆっくりと口元を緩めた。

 顔は見えない、先生の肩口から辛うじて瞳を覗かせるヒナは呼吸を繰り返しながら、先生の背中に縋る。

 掴んだ背中に、じわりと赤が滲んでいた。

 

「私は、だいじょうぶ」

「………」

「だい、じょうぶ、だよ」

 

 だから、どうか安心して欲しい、と。

 先生は懸命に言葉を繰り返した。

 深い隈が刻まれ、ゆっくりと閉じていく瞼の中で、一秒一秒、その安寧と戦いながら、必死に。

 

「だい――……じょう、ぶ」

 

 ――私は、絶対に。

 

 最後の言葉は声にすらならず。

 項垂れた先生はそれきり、静かに呼吸を止めた。

 

「………」

 

 雨音に混じり、微かに聞こえていた吐息、それが途絶える。

 それが意味するところをヒナは理解していた。

 けれどそれは、ただ理解していただけで。

 感情は、別だった。

 

「ね、ねぇ……先生」

 

 ゆっくりと、空崎ヒナが口を開いた。

 動揺を隠し切れない声色で。ヒナが軽く先生の身体を揺すると、その膝が唐突に折れた。

 半ば抱き合う形でその場に座り込む両名。先生はヒナを抱き締めたまま、凭れ掛かる様に沈黙を守った。

 だが、その右腕だけは外さない。

 最後まで彼女の盾にならんと、残った片腕だけで矮躯を庇う。

 

 その背中を強く掴みながら、ヒナは「起きて」と呟いた。自分よりもずっと大きな大人の、先生の身体を揺り動かす。

 けれど彼は何も云わない。

 何の反応も示さない。

 何も、答えてはくれない。

 

「―――……」

 

 サオリは突き出していた拳銃をゆっくりと降ろし、マスク越しに息を吐き出した。

 震える指先を隠すように引き金より離し、グリップを握り込む。

 

「おきて、ねぇ、せんせ、起きて――」

「………」

 

 繰り返し声を発するヒナ、それを見つめるサオリ。

 本来ならばこの場で彼女を――空崎ヒナを始末しなければならない。

 それが自身の役割だからだ、スクワッドに課せられた目的の一つだからだ。

 しかし彼女はその場に立ち、凶弾から生徒を文字通り命懸けで庇った大人を前にして、再び引き金を絞る事が出来なかった。

 ヒナは雨に全身を濡らしながら、覚束ない指先で先生の衣服を力一杯、何度も握り締める。自身を抱える腕、その温もりを探る様に言葉を繰り返す。

 

「い、痛い、の……」

 

 軈て、何の返答も寄越さぬ先生に、彼女の精神が限界に達した。

 何をどうすれば良いのか、分からなかった。

 張り詰めた精神が選択したのは、怒り狂う訳でも、泣き喚く訳でもない。

 ただ、目の前の先生に縋りつきながら、その背中を何度も撫でつける事だった。

 弾丸の撃ち込まれた背中、血の滴る皮膚をシャツ越しに撫でつけながらヒナは口ずさむ。

 

「痛いの痛いの、とんでいけ……」

 

 幼子に云い聞かせるように。

 震え、掠れた声で、焦点の合わない瞳で虚空を見上げながら、何度も。

 けれど、先生が目覚める事はない。

 

「―――……」

 

 自身の代わりに盾となった大人。

 死したその現実を直視する事も出来ず、ただ自失し、返答を願い、祈る。

 その姿は唯々――哀れであった。

 

「リーダー」

 

 無言で雨に打たれ続けるサオリの背後から声が掛かる。

 振り向けば、自身と同じようにユスティナ聖徒会を引き連れたミサキの姿が見えた。かなり苦戦した様で、その頬には打撃痕が残り、衣服には黒ずんだ爆発痕が散見される。しかし当の本人はそれを気に留める事も無く、サオリの前に座り込む二つの影を一瞥した。

 

「……予定通り、シャーレの先生を始末したんだね」

「あぁ」 

 

 サオリは努めて、無感動に声を発した。

 平坦な声の裏に蠢く感情の波を悟られないように、動揺を押し殺して。

 

「……此処にもう用はない、行くぞ」

「風紀委員会の委員長は、良いの?」

 

 雨音に紛れ踵を返せば、背後で成り行きを見守っていたミサキが重ねて問い掛けた。

 その表情は変わらず、瞳は項垂れた先生と縋るヒナを捉えているものの、昏く淀んで光を灯さない。

 それはずっと前からだ、どれだけの罪悪を積み重ねようと、悲劇的な光景を目にしようと、何も変わりはしない――そう、何も。

 彼女の指先が担いだセイントプレデター、その引き金に触れるのが分かった。

 

「まだ、生きているよ」

 

 雨水を滴らせ、張り付いた前髪をそのままにミサキは告げる。

 言外に伝えていた――ここで空崎ヒナを確実に始末しなくて良いのか、と。

 

「構わない、捨て置け」

「………」

 

 だが、被った帽子のつばを摘まみ、サオリはそう吐き捨てる。

 じろりと濁った瞳が、横合いより彼女を捉えた。

 

「……リーダー」

「云っておくが、これは感傷なんかじゃない」

 

 背を向け去ろうとするサオリを見つめる双眸、自身の背に注がれるそれを感じながらサオリは即座にミサキの意図を汲み、反駁した。

 歩み出した足を止め、振り返ることなく言葉を紡ぐ。

 

 弾丸一発で死ぬと分かっていた筈だ、調印式に撃ち込んだ誘導弾で殆ど瀕死だった。腕を捥がれ、瞳を失い、立って歩く事さえ困難な状態で。それでも尚、その脆弱な肉体を生徒の盾にした。

 その姿に何かを感じた訳ではない、感じてはいけない。

 ましてや自己嫌悪に浸った訳でも、罪悪感を覚えた訳でも――その様な事は、決して。

 

 ただ、確信があったのだ。

 

「――空崎ヒナ(風紀委員長)は、もう立ち直れない」

 

 足を止め、振り返ったサオリは物云わわぬ大人に縋るヒナを一瞥し、そう呟いた。

 項垂れ、呆然と骸に縋りつく姿からは風紀委員長としての風格も、威厳も、何も感じられはしない。

 地面に転がり、泥に塗れた愛銃からも。

 最早彼女に、立ち上がるだけの精神と力は存在しないのだと確信を持って断言出来た。

 空崎ヒナは既に、死んだも同然なのだ。

 

「………」

「計画に変更はない、このまま一帯を制圧する、ヒヨリと姫に連絡しろ」

 

 滴る雨粒を指先で払い除け、再び歩みを進めるサオリ。地面を踏み締める度に鳴り響く水音、跳ねる泥、それらを一瞥する事も無く彼女は驟雨の下を往く。

 暗がりの中に、サオリの薄い青()が瞬いた。

 

「――シャーレの先生は射殺(死亡)、風紀委員長は戦闘不能(再起不能)と」

「……了解」

 

 サオリの言葉にミサキは淡々と応えセイントプレデターを担ぎ直すと、そのまま先生とヒナを数秒程見つめ、無言で背を向けた。

 周囲を取り囲むユスティナ聖徒会を率い、スクワッドは再び戦火の燻る街の中へと消えていく。

 砕けたアスファルト、飛び散る空薬莢を爪先で弾きながらサオリは曇天を見上げ、呟く。

 

「――これで良い」

 

 サオリの口から紡がれたそれは、雨音に紛れ、掻き消える。

 進めば進む程、影の強くなる道は彼女達を覆い隠す。背に続くユスティナ聖徒会の朧げな光だけが、辛うじてその輪郭を浮かび上がらせていた。

 

「……これで、良いんだ」

 

 そう、私は、私達(日陰に生きる者)は。

 この道しか、知らない。

 

 これが生まれた時(アリウスに生まれ落ちた時)より定められた、運命なのだ。

 

 ■

 

「っ、は、ハッ……」

「う、ぐっ――」

 

 緩慢な足取りで、しかし崩壊した街並みを往く正義実現委員会。

 全員が全員無視できない負傷を負い、辛うじて自立歩行可能な者は装備を抱えながら歩き、比較的余裕のあるものは歩行困難な者に肩を貸し、或いは背負い、先頭を歩く副委員長――ハスミの背中に続く。

 降り注ぐ雨の中、水音と共に進む足取りは重い。

 血を流し、苦悶に喘ぎ、絶望的な状況でも彼女達は足を止めない。生きてトリニティに帰還し、また先に逃がした先生を守るのだという意識が彼女達の心を奮い立たせていた。

 だが如何に精神的に持ち堪えようとも、肉体はそうではない。

 

「は、ハスミ先輩……」

「っ?」

 

 ふと、ハスミの背後に続いていた一人の生徒が足を止め、唐突に崩れ落ちた。

 肩に提げていた銃を地面に落とし、そのまま這う様にして地面に蹲る。金属音を鳴らし転がる銃、同時に額や太腿、脇腹から滲んだ赤が肌を伝い地面に滴り、雨水に混じった。

 濡れた前髪から覗く瞳は焦点が定まらなかった、疲労が極限に達した喉からは罅割れた声が発せられ、もう歩く事が億劫で仕方がない。時折空を仰ぎ口に含んだ雨水は、体を芯から冷やし、吐息を白く濁らせる。

 ハスミの背後に続く生徒達は皆、一杯一杯だ、誰かに背負って歩いて貰う事も、肩を借りる事も出来なかった。

 故に彼女はアスファルトに這い蹲ったまま、雨水に浸かりゆっくりと首を振る。

 

「わ、私の事は、どうか、置いて行って、下さ――……」

「なりません!」

 

 だが、彼女が諦めを口にしようとした瞬間、ぐんとその身体が引き上げられた。ハスミが彼女の腕を掴み、引き起こしたのだ。

 至近距離で瞬く赤い瞳、こんな状況でも尚決して淀む事のない瞳は生徒の奥底まで覗き込み、その精神を揺さぶる。

 

「まだ、貴女達の力が必要なんです……! 立って、歩き続けなさい!」

 

 酷な事を云っている自覚はあった。ハスミ自身も、気力体力共に尽きかけている。

 しかし極限状況での脱落は全員の気を崩す。誰かが諦めた途端、その諦めは伝搬するのだ。故にハスミは誰一人として脱落を許すことなく叱咤する他なかった。

 

「っ、ぅ……」

 

 生徒はハスミの言葉に瞳を潤ませながら、何事かを口にしようとして、それからぐっと唇を噛み締めた。震える足で再び自立し、そのまま転がった銃をぎこちない動きで拾い上げると、体を揺らしながら一歩、二歩と歩き出す。

 普段からすれば余りにも遅々とした足取り、だがそれが彼女の精一杯である事は明らかであった。

 

「は、ハスミ先輩、前方に人影が!」

「っ、警戒を――!」

 

 直ぐ横で二人のやり取りを見守っていた生徒の一人が、白い吐息を零しながら前方を指差し叫んだ。途端、後続の生徒達の間に緊張が走った。銃を持つ生徒は震える腕で銃口を持ち上げ、引き金に指を添える。

 戦意を見せる彼女達であるが、滲み出る絶望感ばかりは隠し切れなかった。

 また、あのユスティナ聖徒会が追撃を仕掛けて来たか。

 ハスミは愛銃を抱え直しながら苦り切った表情を隠さず、奥歯を噛み締める。弾薬も、体力も心許ない、戦える生徒は少なく後何度撃退出来るだろうか?

 だが、彼女達を率いる自身が悲観する事は許されない――最悪、自分が殿を務めてでも。

 

「――?」

 

 その様な覚悟を秘めながら前を見据えれば、見知った背中が視界に映った。雨水と血に塗れ、最早見る影もない恰好だが、忘れる筈もない。自分と比べれば余りにも小さく、しかし確かな存在感と肩書、そして実力を持つ人物。

 そうでなければ、あの人を託す選択などしなかった。

 

「あの恰好は……」

「もしかして、風紀委員会の?」

 

 自分達が見送った背中だ。

 もしかして、追いついたのか。

 項垂れ、疲労と絶望に打ちのめされていた生徒達の顔がゆっくりと持ち上げる。「先生だ」と誰かが呟いた。

 絶対に守るべき存在の出現は、彼女達に確かな活力を生み出した。

 

「先生……」

「先生?」

 

 伝搬する意志、諦めもそうであるように、希望や奮起の意志もまた互いに作用し合う。

 凝り固まり、血を流し、鉛のように重くなった足を動かし前へと進む正義実現委員会。

 少しずつ、少しずつ影へと近付いて行く。

 僅か十数人、傷に塗れた生徒達は、散らばった瓦礫を乗り越え座り込んだ風紀委員長――空崎ヒナと、先生と思わしき影に向かって声を上げた。

 

「先生――っ!」

 

 絶望的な状況を打破する、希望と喜色に満ちた声。

 周囲にユスティナ聖徒会の姿は見えない、アリウスの姿も同じく。

 今はただ、合流出来た事を喜ぼうと、微かな笑みと共にハスミが先生の名を呼んだ。

 

「……?」

 

 だが、返答はない。

 聞こえていないという事は無い筈だった。

 降り注ぐ雨の中でも、ハスミの声は良く通った。

 だというのに空崎ヒナも、先生さえも反応を示さない。

 座り込み、微動だにしない二人の姿にハスミも、正義実現委員会の生徒達も疑念を抱く。

 そして互いの顔色さえはっきりと分かる距離まで近付き、漸くその現実に気付いた。

 

「……ぁ」

 

 そんな、嘘――と。

 誰かが言葉を零し、足を止める。

 互いに抱き合う様にして座り込む両者、遠目からでは気付かなかった、けれど此処まで近付けば嫌でも分かる。

 空崎ヒナの肩に凭れ掛かる様にして目を閉じる先生の姿、その背中には赤が染み出し、調印式で受けた爆発とは異なる出血が幾つも見られた。

 足元には大量の赤が流れ、雨水に溶けて広がっている。それが正義実現委員会の足元まで広がり、伸びていた。

 刻まれた弾痕、力なく項垂れるその姿からは――一切の生気を感じられない。

 最早、ただの抜け殻だ。

 

「せん、せい――……?」

 

 ハスミは蒼褪め、震える唇で彼の名を呼んだ。

 同時にピクリと、先生の代わりにヒナの肩が震える。

 比較的近い場所から聞こえたそれに、初めて反応を見せた彼女。

 ゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げるヒナ。

 まるで硝子玉のような瞳が、愕然とした表情で見下ろすハスミを見上げていた。

 

「――ッ」

 

 何があったのかは分からない。

 知りたくもない。(結末は明らかだ)

 ただ、持ち上がった空崎ヒナの顔を視界に捉えた時。

 その絶望し、憔悴しきった表情を目にして。

 ハスミは、自分でも制御できない強烈な感情に襲われた。

 

「―――」

 

 気付いた時。

 本当に、そうとしか表現できない程に、意識の外で。

 ハスミは辛うじて残っていた体力を振り絞り、空崎ヒナの頬を拳で殴りつけていた。

 

「ぁぐッ……!?」

 

 肉を打つ音、骨の軋む感触、くぐもった悲鳴。

 雨音が世界から掻き消える。

 先生の腕の中にあったヒナの身体は横合いへと吹き飛び、強固にヒナを抱き締めていた先生の腕が解かれる。

 衝撃で先生は地面に倒れ、ヒナの矮躯はアスファルトの上を滑りながら何度も転がった。

 泥が跳ね、彼女の白髪をべったりと汚す。

 

「ぅ、ぁ……」

 

 苦悶の吐息、同時に微かに漏れ出る呻き声。水の跳ねる音が何度も響き、ハスミの鳴らす靴音がヒナの耳に届いた。

 

「先生を」

 

 仰向けに転がり、震えながら顔を持ち上げるヒナ。彼女に覆い被さる影、それがヒナの視界を覆うと同時、再び頬に衝撃が走った。

 顔面が弾け、視界が揺れる。唇に滲んだ血がハスミのグローブを汚し、馬乗りになったハスミは何度も拳を振り上げ、ヒナの顔に叩きつけた。

 唸り声とも、荒々しい呼吸音とも取れる音がハスミの口から漏れる。雨音に混じった打撃音が、鈍く周囲に響き渡っていた。

 

「先生を、頼むと……っ!」

 

 雨なのか、それとも涙なのか、幾つもの大粒の雫を零しながら。

 彼女は空崎ヒナを睨み付け、あらん限りの声で湧き上がる感情を目の前の存在に叩きつけた。

 

「そう、云ったではありませんか――ッ!?」

 

 それは信頼だった。

 他に方法が無かったとはいえ、ハスミは確かにヒナを信じて託した。

 ゲヘナである彼女を信じて、託したのだ。

 

 空崎ヒナ(ゲヘナ)はそれを、裏切った。

 

「っ、ぅ」

 

 ヒナは何も云わなかった。

 弁明も、謝罪も、何もかも一切。

 ただ振り上げられた拳と、憤怒に血走った眼で自身を見下ろすハスミを見上げながら、くしゃりと顔を歪めるばかりだった。

 それがより一層、ハスミの感情を掻き立て、とめどない怒りに支配される。

 振り上げ、血の滲む程に握り締めた拳が軋みを上げた。

 

「ハスミ先輩、今は!」

「ッ!」

 

 だが、再び彼女が拳を振り下ろすよりも早く、背後から正義実現委員会の生徒がハスミの腕を掴んだ。

 自身の手首を握り締める、その感触がハスミの意志を刺激する。

 

「………」

 

 気が付けば、雨音が再び世界を支配していた。

 

 目を見開き、息を呑んだハスミが見た景色は、血が噴き出した鼻も、口元も拭わず、顔に幾つもの痣が散りばめられた空崎ヒナだった。

 彼女はただ、腫れ上がって半分程塞がった瞼を押し上げながら此方を見つめていた。切れて血の滲む唇が小さく震え、言葉なのか吐息なのか、微かな音を発する。

 

 ハスミは震える拳をそのままに、ゆっくりと立ち上がると蹈鞴を踏んだ。

 その背中を、後輩である生徒がそっと支える。

 呆然と、数秒程地面に力なく転がるヒナを凝視していたハスミは、それからゆっくりと息を吐き出し呟いた。

 

「……先生の保護を、一刻も早く」

「は、はい……っ!」

 

 先程まで打ちひしがれていた生徒達が、その一言で動き出した。

 一歩を踏み出すだけで精一杯だった体が、感情の力によって突き動かされる。

 わっと殺到した生徒が雨の中横たわる先生の骸に群がり、必死に抱き起した。

 中途半端に、薄らと開かれた口元は既に呼吸を刻まず、閉じられた瞼は開かない。抱き起こした先生の首は座る事が無く、力なく揺らいでいた。

 その顔を覗き込む無数の瞳から、涙が零れ落ちる。薄汚れ、裂かれたシャツを掴む生徒達はそこに顔を埋め、額を擦りつけた。

 

「せ、先生……っ」

「なんで、なんでこんな事に――!?」

「うぅ、ぁあッ……!」

 

 捲り上がり爛れた右目、千切れ失われた左腕、弾痕の残る背中――夥しい出血と雨によりすっかり体温の下がり切った体は、余りにも冷たく、青白い。

 嘗て日常の中で自分達に微笑んでいた大人の姿は、もうどこにも無かった。

 先生に縋り、涙を流し、大声を上げて嘆く生徒達。それを幽鬼のような顔色で見つめながら、ハスミはゆっくりと腕を持ち上げる。

 

「……隊列を組み直しなさい、このまま、トリニティへと帰還します」

 

 ふらふらと歩き出したハスミは、そう呟いて続く公道の先を示した。

 自分でもどうするべきか分からなかった。

 ただ、今は自身の母校に、帰るべき場所に帰る事だけを考えた。

 ツルギは、きっとまだ戦っているだろう。

 ティーパーティーは既に機能していない。

 シスターフッドも調印式の会場で爆発に巻き込まれた。

 途中で合流した部隊(ヒナタ)ともはぐれたまま。

 救護騎士団は、まだ団長が行方不明。

 先生も斃れた今、最早トリニティの指揮を執れる存在は――。

 

「………」

 

 雨音に混じって、自身の足音が耳に届く。感情を押し殺し、合理的な思考に努めた。しかし、そう努めて尚押し殺す事の出来ない感情が沸々と湧き上がって来る。

 今は兎に角、先生を連れて撤退して、それから。

 

「――?」

 

 様々な思考が脳裏を巡る。顔を掌で覆いながら覚束ない足取りで進もうとしたハスミは、しかし足首に妙な引っ掛かりを覚えた。

 足が前へと進まない、何かが、誰かが邪魔をしている。

 

「ま……」

 

 一体なんだと視線を落とせば、自身の足を掴む影があった。

 今にも掻き消えそうな、掠れた声が耳に響く。

 

「待って、お願い……」

 

 ハスミの足首を掴んでいたのは、空崎ヒナだ。

 彼女はうつ伏せの状態で這いずり、腕を伸ばしてハスミの足を止めていた。

 爪が罅割れ、雨でさえ洗い流せない程に血に塗れた指先がハスミの足首を握り締める。

 

「せ、先生を……」

 

 半分程雨水に浸し、痣に塗れた顔を歪め、苦痛の吐息を漏らしながら彼女は訴える。力は然程強くなかった、振り解こうと思えば簡単にそう出来ただろう。

 しかし、自身を見上げる瞳が余りにも悲哀に満ちていて、切実で。

 ハスミはただ呆然と、這い蹲って手を伸ばすヒナを見つめていた。

 

「先生を、連れて、いかないで……」

 

 どうか、これ以上。

 

「わ、私から、奪わないで」

「―――」

 

 それは懇願だった。

 心の底から、切に願った、あまりにも弱々しい。

 ヒナからすれば、先生と引き離される事に対して心が耐えられないが故に零れた言葉に違いなかった。

 

 だが、当のハスミからすれば。

 それは。

 

「ぎっ――!?」

 

 ヒナの顔が掌ごと跳ね上げられ、その身体が水音と共に横合いへと転がる。

 ハスミは掴まれた足を振り上げ、ヒナの顔諸共蹴飛ばしたのだ。

 雨に濡れ、弾丸と爆発に裂かれたスカートが靡く。甲高く鳴るヒールの音、その向こう側に憤怒の満ちた表情が覗き、力なく転がったヒナを睥睨した。

 

「わ、私から……」

 

 そうだ。

 奪ったのは。

 

「私達から先生(この人)を奪ったのは、貴女でしょうにッ!?」

「ハスミ先輩ッ!」

 

 下手をすれば、殺してしまいそうだった。

 

 彼女に直接的な原因が無い事は分かっている。手を下した訳でもない、ましてや先生を守ろうと全力を尽くしたのであろうと事も。

 だが、失われた存在は余りにも大きく。その死をすんなりと飲み下せる程、軽々しい関係でもなかった。

 大事だった、大切だった、だからこそ嫌悪するゲヘナにさえ信を置いたのだ――だというのに、この結末。

 気が狂いそうだった。

 否、狂う事が出来ればどれ程楽だろうか。

 

 強張り、怒りに震え、犬歯を剥き出しにして叫ぶハスミ。後方で先生を支える生徒の一人が、悲鳴染みた声で彼女の名を呼んだ。

 呻き、泥水を掻いて動き出すヒナに憎悪の視線を送り付け、それからハスミは踵を返す。

 跳ねた飛沫がヒナの頬を汚し、最後にハスミはヒナを視界に捉える事無く、吐き捨てた。

 

「――ゲヘナなどを信じた、私が愚かでした……ッ!」

 

 その信頼が、過ち(罪悪)であると知っていれば。

 こんな結末には至らなかったのに。

 それは自分自身への失望と、怒りと、憎しみさえ籠った言葉だった。

 

「まって、ま……って――」

 

 殴りつけられ、蹴飛ばされ。

 それでも尚、ヒナは地面を掻き必死に顔を上げ、再び懇願を口にする。

 しかしハスミは彼女の声に応える事無く、先生と彼を抱えた正義実現委員会を引き連れ去っていく。

 その背中がどんどん遠く、小さくなっていった。雨はますます勢いを増し、視界を遮ってしまう。

 擦れ、揺らぐ視界の中で、伸ばした指先の影だけが映る。

 

「お願い、待って……」

 

 寒い、痛い、苦しい、辛い、悲しい――あらゆる感情がヒナを苛み、責め立てる。

 そんな中でも懸命に体を引き摺って、その背中を追おうとした。

 しかし既に精魂尽き果てた肉体は云う事を聞かず、ただ震える腕を伸ばすのが精一杯で。

 じわりと滲んだ涙が、堪え切れないそれが幾つも頬を伝った。

 

「まって――」

 


 

 お待たせ致しましたわ~! 更新再開ですの!

 更新速度はいつも通り、また暫くよろしくお願い致しますわ~!

 

 更新再開一発目は反転ヒナちゃんのお話ですわよ!

 つまり失敗した世界線のお話ですわね!

 待ちに待った最終編ですので、この反転ヒナちゃん除いて失敗世界線の子達が後七人出てきますわ~!

 皆、多種多様なシチュエーションで先生を失い、打ちひしがれ、足を止めた子達ですの! とっても楽しみですわね!

 まぁ虚妄のサンクトゥム攻略はまだ先なので、早く其処まで辿り着けるよう頑張りますわ~!

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