D.U.中央区画、その広い公道の中で鳴り響く走行音。横転した車両や落下した看板、圧し折れた街灯などを器用に避け進み続ける影――緊急車両十一号は後方に数多の自律兵器を引き連れながら猛スピードで走行を続けていた。
運転席にてハンドルを握るセナは、背後から迫る重圧にサイドミラーへと目を向ける。其処には緊急車両を追い続々と公道に姿を現す自律兵器が映り込んでおり、街のいたる所から飛び出し、走行する緊急車両の影を追っていた。
「――もう、こんなに自律兵器が」
アクセルを踏み締めたまま、セナは戦慄と共に呟きを漏らす。
総合病院に集まっていた個体も、それなりの数が此方に引き寄せられているのか。あの場に残った生徒達からすれば正に絶望的な状況に思えるだろうが、それは逆である。先生と自身が離れた今、考えが正しければ自律兵器の攻勢は極端に弱まる筈であった。万魔殿の親衛隊、それと残った生徒達による抵抗が続けば軈て戦闘も終わるだろう。
問題は、
流石に走行する緊急車両に追いつける程の機動性を自律兵器は持ち合わせていない様子だが、それでも全力で主腕と副腕を動かし此方を追跡する姿は怖気を覚える。
先程までは総合病院へと集っていた自律兵器が、こうも此方の影を踏みに来る。やはり自律兵器の狙いは先生だと、セナは改めて確信した。
自然、ハンドルを握る手にも力が籠る。
セナは鋭い眼差しで前方を睨みつけながら、脳内で繰り返し逃走ルートを思い描いた。
「……もし、ゲヘナまでのルートが封鎖されていた場合、別の自治区に逃げ込む事も考えなければなりませんね」
この道路状況だ、通行不能となった場所が複数存在している筈である。実際問題、総合病院に向かう途中に封鎖されているルートが幾つもあった事を確認していた。そうなった場合、通行可能なルートから辿り着ける最短の自治区に逃げ込む事になるだろう。
セナにとってはゲヘナだとか、トリニティだとか、そんな事は関係ない。万魔殿の意向に反する事にはなるが、先生の身の安全が確保出来るのであればどこであろうと構わなかった。
それこそ、いつかトリニティへと滑り込んだ時の様に。
――救急車両を改良して正解でした。
唸りを上げるエンジン音に耳を傾け、セナは車両のフロント部分に目を向ける。同時に正面から自律兵器が現れるものの、セナは一向に構う事無くアクセルを踏み直進、自律兵器を勢い良く撥ね飛ばした。
ガゴン、という硬質的な音と共に自律兵器がボンネットを転がり、そのまま横合いへと消えていく。横目でそれを確認しながら、セナが改めて硝子越しに車体を見つめれば表面に多少傷がついた程度で、凹みもしない。
エデン条約以降、特に緊急車両十一号は馬力と装甲の増加に力を入れていた。無論、内部の設備も多少改良されてはいるが、本質的に緊急車両は初期治療室としての役割を求められている。より安全に、より素早く、一分一秒でも早く患者を安全地帯に送り届ける。
その在り方は、決して変わらない。
「此方緊急車両十一号、氷室セナです、救急医学部本部聞こえますか? 現在D.U.総合病院よりシャーレの先生を搬送中、敵の攻撃に遭い親衛隊と分断、周辺には異常なまでに自律兵器が集中しています、安全確保の為応援の要請を――」
備え付けられた通信機に手を伸ばし、送信ボタンを押し込みながら発言を行うものの、返答が聞こえる事は無く。聞こえてくるのはノイズばかり。
しかし、その結果を受けてセナに落胆の色は無かった、毅然とした表情で通信機より指先を離し、濁った感情を吐き出す為に深呼吸を繰り返す。
「……分かってはいましたが、やはり駄目ですか」
駄目で元々、寧ろ易々と通信が回復するなど考えていない。
予想通り応援は期待出来ず、加えて周辺から集まって来る膨大な数の自律兵器、もし車両が何らかの形で動きを止めれば、一巻の終わりである事は明らかである。考えていた通り、この数を捌きながら何とかD.U.より脱出する他ない。
通行可能なルートにもよるだろうが、最優先はタワーの出現していないゲヘナ、或いは同様にタワー影響下に無く最低限防衛可能な戦力を備えた自治区。次点でタワーが存在しつつも確かな防衛戦力を持つ三大校、ミレニアムかトリニティ。
果たして、自分一人で先生を逃がせるのか――無視できない不安と重圧が胸中に降り、ハンドルを握る手にジワリと汗が滲んだ。
「……!?」
身体に纏わりつく不吉な予感に支配されていたセナの視界、そこにふっと紫色の光が入り込む。
総合病院で幾度となく見た光だ、ハッとした表情で顔を上げたセナは、反射的にハンドルを切った。それは彼女の直感による反射的な回避行動。
途端、爆音と共に道路が爆ぜ、爆風に煽られた緊急車両が僅かに揺れた。パラパラと舞い上がった破片が降り注ぎ、車体を何度も叩く。
「っ、砲撃――!」
頭上から降って来たのは自律兵器が放つ、紫色のエネルギー砲撃。
目を凝らせば前方、背の高いビルの壁面に張り付いた自律兵器が緊急車両を見下ろしながら、その頭部を進行方向へと向けていた。前方に装着された円型装甲、展開された装甲中心に紫色の光が収束しており、周囲のビル群より同様の発光が複数確認出来た。自律兵器が二体、三体、四体――ビル外壁に張り付き、此方を凝視している。
緊急車両の走るルートを先回りし、待ち構えていたのか? どちらにせよ自身の身体を壁面に固定して砲台と化すなど、予想もしていなかった動きだ。
「何と、器用な真似を……!」
思わず悪態を吐き、フロントガラス越しに上空を仰ぐ。視界に紫色の閃光が瞬き、途端次々と降り注ぐ砲撃。
それはまるで雨の如く公道へと飛来し、赤い空を彩った。
傍から見れば美しい光景かもしれない、しかしそれら全てが破壊を振り撒く絶望的な光景である。
一拍後、次々と地面が爆ぜ、瓦礫片が彼方此方に飛び散り、緊急車両の外装を叩いて行く。セナは飛来する砲撃を一つ一つ目視しながら、素早くハンドルを操作し紙一重の回避を繰り返した。
鼓膜を叩く爆音と飛び散る破片が車体を叩く、硬質的な音。微かな振動と駆動音、全身を揺らす衝撃に冷汗が滲む。
余りに激しい振動は、先生の身体に負担を掛けるだろう。なるべくなら安定した走行を心掛けたい。だが、そうも云っていられない状況にある。背後の先生、その姿を気に掛ける余裕すらなかった。
この砲撃の雨、猛攻を掻い潜り中央を突破する事は不可能だ。横道に逸れて、射線の通り辛い道を通るしかない。
セナは視線を素早く左右に動かし、手元の端末でマップ情報を確認しながら機を伺う。
体当たり程度ならば兎も角、このレベルの砲撃を連続で受ければ、流石に危険だろう。
明らかに総合病院で見た砲撃よりも、現在降り注ぐソレは威力が上がっている様に思えた。エネルギーを集中させているのか、そもそも球体タイプの自律兵器でも、通常とは異なる別の砲撃特化型が存在しているのか。
緊急車両の複合装甲は厚く、多少の攻撃程度では破損しない。四方は勿論、地雷やIED対策として車体下部、上部にも増設装甲が施されている。加えてタイヤはランフラット対応、万が一破損しても一定距離を走行可能な優れ物。装甲を増設した都合上、通常の緊急車両よりも室内空間は狭まっているが、安全には代えがたい。
降り注ぐ砲撃も、一発二発程度ならば増設装甲が吹き飛ぶ程度で済むかもしれない。しかし、続けざまに受ければその限りではない。このまま直進し続け、砲撃を躱し続けるのは現実的ではなかった。
「――此処は、一度射線を切ります!」
息を吸い込み、大きくハンドルを切った。
端末が示したルートの一つ、車体は表通りより外れ放置された車両の合間を縫い脇道へと入った。脇道の幅は車両が一台ずつすれ違える程度、遠方からの砲撃は背の高い建物に阻まれ視界は悪い。
表通りと比べれば余りにも狭く、建物の影に覆われた薄暗い道だ。しかし、今はその方が都合が良い。砲撃は背の高い建築物に阻まれ、待ち伏せようにも一体二体程度飛び出した所で緊急車両は止められない。多少時間にロスは生まれるだろうが、砲撃が直撃して横転するよりは余程良い。
頭上より響く爆発の音に、セナはその様に考えた。それに、アスファルトを砕く威力の攻撃である。如何に正体不明の自律兵器とは云え、無限に砲撃をし続ける事は出来ない筈だと。必ずインターバル、補給か冷却、或いは両方の休止期間が生まれる筈。
数に物を言わせた攻撃は厄介だ、しかし緊急車両の後を追いながら撃てる訳ではない。ならば入り組んだ地形に入り込み、
しかし――。
「!?」
幾つかの角を曲がり、降り注ぐ瓦礫片や硝子片を振り切りながら突き進む緊急車両の目前に、突然白黒の壁が立ちはだかった。
それは円形の装甲板を組み合わせた様な外観で、進行方向を完全に封鎖してしまっている。
――バリケード?
一瞬、セナはその壁をヴァルキューレ辺りが設置したバリケードと考えた。しかし違う、良く観察すればバリケードで封鎖されているのではなく、自律兵器同士が集合・結合し即席の防壁を構築しているのである。端に佇む自律兵器が自身の主腕を隣り合う建物外壁に撃ち込み固定、其処から隣り合う自律兵器が副腕・主腕を絡ませ三十か四十、下手をすれば五十近くの自律兵器同士が所せましと並び、物理的に逃走経路を封鎖している。
「くぅッ……!」
セナは咄嗟にアクセルを緩め、大きくハンドルを切ってテールを滑らせた。
あの自律兵器が集って作り上げられた防壁、強度は分からないが流石に正面から突撃してどうにかなる代物ではないだろう。無論、改良された緊急車両で突破出来る可能性はあった、しかしセナは車体が損傷を嫌い、直前でルートの変更を決断する。
自身が表通りから此処に入り込んで然程時間も経過していない筈だ。即席でこの規模の封鎖を行えるとは思えなかった。
ならば、誘い込まれたのか。
先程の砲撃は表通りから自分を追い出す為の布石、砲撃を嫌って脇道に逸れる事を予測し予め防壁を構築していた可能性も捨てきれない――セナの脳裏に拭い切れない疑念が過る。
しかし、今更戻る事も出来ない。緊急車両は構築された防壁の手前を曲がり、そのまま入り組んだ市街地裏手へと侵入する。
セナはハンドルを握り締めたままもう片手で端末を操作し、再びルートの再構築を始めた。D.U.中央区画より脱出する為の手段の模索、確かに自分は追い詰められているのかもしれない。総合病院からそれなりに距離を稼ぐ事は出来たが、最短距離を突き進める表通りからは追い出され、このルートも予測されている可能性が浮上した。
「ですが、此処さえ抜ければ――」
セナは端末を横目に、しかし力強い声を発する。その瞳に焦燥や懸念はあれど、絶望は欠片も存在しない。
脇道に逸れはしたが、このルートにもセナが目指した本命へと通ずる道が存在する。D.U.中央から各自治区の境界線まで伸びる高速道路だ、此処に入る事が出来れば一気に距離を稼ぐ事が出来る。この高速道路を経れば、主要自治区の幹線道路まで然程時間も掛からない。
街を見渡す限りの被害、恐らく全線通行止めとなっているだろうが、連邦生徒会にて待機中、緊急車両専用道路として一部区間が再開している事は確認済みであった。
高速に入ってしまえば後は純粋な速力の勝負、囮にする様で心苦しいがPAにはヴァルキューレ辺りの災害対策チームが既に待機している可能性も期待出来る。自身に追い縋る自律兵器も多少なりとも対処してくれるかもしれない。
希望の芽はある、少なくとも現実的に考え得る範囲で。
「先生、もう少しです……!」
告げ、セナは更にアクセルを踏み込む。改良されたエンジンが唸りを上げ、グンと緊急車両が加速した。その間も端末を操作し、高速道路入り口へと続くルートを幾つも表示しておく。もし前方に先程と同様の壁が用意されていたとしても、即座にルートを変更できるよう十全に。
「ッ!」
だが、再び緊急車両の前に立ち塞がったものは――自律兵器が構築する壁ではなかった。
突然、遠目に黒が映る。
それは自律兵器よりも明らかに小柄で、円形のフォルムではなく、まるで道路に呆然と立ち竦む様に存在する人型。
――人影?
セナの両目が見開かれ、咄嗟にクラクションを鳴らし、ブレーキを踏み込む。甲高いブレーキ音が周囲に鳴り響き、緊急車両が大きく揺れた。
確かにそれは人だった、自律兵器に追われる緊急車両の前に、唐突に現れた何者か。脳裏を過る様々な思考、逃げ遅れた市民か、それともヴァルキューレの生徒、はたまた何も知らず自律兵器に襲われ抵抗する誰かか。
何にせよ、余りにもタイミングが悪い。
回避行動を取ろうとする緊急車両に対し、しかし人影は迫り来る車両を見つめながら一切避ける素振りを見せなかった。
寧ろその人物は徐に地面を踏み締めると、片足でアスファルトを粉砕しながら軸足として固定、担いでいた愛銃を無造作に構え、告げた。
「――
■
「っ、ぅ――……?」
セナが気付いた時、視界は薄暗く、世界全てが歪んで見えた。
先程までとは異なる、痛い程の静寂。
一瞬、意識を飛ばしていたのだと自覚したのは、自身の身体にベルトが食い込んでいるのを目にしたからだった。緩衝装置が働いた、その瞬間を感じる事は出来なかったが、確かに車体は凄まじい衝撃に襲われたらしい。
セナは自身の身体を確かめる様に手で触れ、顔を顰める。感じたのは全身の鈍い痛み、まるで鈍器か何かで殴りつけられた様な。
一体、何が起きたのか、まるで分からない。
ただ進行方向に眩い光が広がったと思った次の瞬間、光とは真反対の深淵を想起させる黒が一斉に飛来し、凄まじい衝撃が緊急車両を襲っていた。
其処からの記憶はない。
ソレを攻撃だと認識した次の瞬間には、意識が飛んでいた。
「……ッ」
痛みに顔を顰め、軋む身体を自覚しながら慎重にベルトを外す。
パラパラと自身の身に降り注いでいるのは硝子片、自律兵器を撥ね飛ばしても罅の一つも入らなかった多層積層硝子とポリカーボネートで構成されたフロントガラスが、残らず全て粉砕され四方に散らばっていた。
それ程までに、苛烈な攻撃を受けたという証左に他ならない。
シートベルトが収納されていくのを横目に、セナは自身の額に掌を当てゆっくりと拭う。ぬるりと、生暖かい感触があった。硝子か何かで額を切ったか、それとも別の何かか。
思考に靄が掛かっている様で、堪え切れない眩暈がした。足の裏が床を捉えている筈なのに、身体が浮いているような感覚に陥る。
だが動けない程ではない、今だけは顔を顰めたくなる痛みが良い気付けとなった。
車両は幸い横転などはしていない。彼方此方凹み中々に酷い惨状だが、近くの建物の外壁に衝突し停車していた。
「先生……!」
先生の名を呼びながらセナは運転席より立ち上がると、額を抑えながら車両後部へと踏み込む。今は何よりも先生の安否が気掛かりであった。
流れ出る血をそのままに固定されたストレッチャーの元へと駆け寄れば、ロックが外れた様子もなく、固定ベルトも同様。機器に破損も見られず気管チューブから漏れる規則的な機械音が耳に届いた。
その事にセナは安堵の息を漏らす。
「――!」
だが、状況が危機的である事に変わりはない。
不意に、金属の軋む音がした。
甲高い金切り声、まるで悲鳴のようなそれにセナが顔を上げれば変形し歪んだ後部扉を無理矢理こじ開け、踏み込もうとする影があった。
咄嗟に提げていたホルスターより愛銃を抜き放ち、現れる影に突きつけるセナ。
しかし彼女の愛銃、救急用突入キットはショートバレルのグレネードランチャーである。車内で用いるには余りにも不適切であり、自爆防止の安全射程距離があるとは云え、ダッド弾でも不安が残った。
自分だけならば良い、しかしこの場には動けない先生が存在する。車内で戦闘など、自殺行為だ。ならば入り込んで来た瞬間に体で押し退け、車外に飛び出し戦闘不能に持ち込む他ない。
そう腹を決め、徐々に開かれる後部扉を睥睨するセナは緊張と共に息を呑む。
そして両開きの後部扉が鈍い音と共に開け放たれ、セナが踏み込んで来る影を目視し、両足に力を込めた瞬間。
「っ――…?」
しかし、彼女が乗り込む影に襲い掛かる事は無かった。
セナは車両に乗り込んで来る影が、自律兵器だと思っていた。
だが違う、突き出した銃口の先、扉を強引に押し退け、緩慢な動作で乗り込んで来る小柄な影。
逆光で僅かに視認し辛かった姿は、しかし徐々にハッキリと輪郭を現す。
羽織っていた外套が車外より吹き込む風に靡き、白銀の長髪が視界に躍った。
その恰好、顔立ちを目視した瞬間、セナの思考は真っ白に染まり、暫し呆然と立ち竦む。
突き出した腕、銃口がゆっくりと下がり、引き金に添えられていた指先が離れた。
微かに震えるセナの唇が、その名を紡ぐ。
「――ヒナ、委員長?」
そこに立っていたのは、ヒナ委員長その人だった。
風紀委員長が身に纏う外套、その証である腕章、白くクセのある髪に捻じれた角。強い意志を感じさせ、鋭い眼光を放つ瞳。肩に担ぐ身の丈を超える長銃――デストロイヤー。
見間違う筈もない、彼女だ。ゲヘナの風紀委員長である、空崎ヒナその人である。
しかし空崎ヒナは、連邦生徒会の大会議室にて正体不明の異形に連れ去られた筈で。
自力で脱出し先生の救助に駆け付けたのか? 彼女の実力を考えればあり得ないと一蹴する事は出来なかった。ゲヘナ最強の名を持つ彼女ならば、或いは可能かもしれないと。
だが同時に、彼女と対峙するセナは本能的な危機感を覚えていた。まるで遭遇してはいけない何かと出会ってしまったような、絶対に触れてはいけない深淵に足を踏み出してしまったかのような。
全身から血の気が引き、肩を押し潰さんと放たれる
――本当に、目の前の存在は空崎ヒナなのか?
セナの胸中に、殆ど反射的な疑念が湧き上がる。
いつもの彼女と、目の前の彼女。
内に着込んでいた制服、そのデザインが聊か異なる。
風紀委員長の纏うあの外套は、あれほど古びていただろうか。
あの腕章は、あんなに擦り切れていただろうか。
風紀委員長の角は、あんな風に欠けていただろうか。
身長が少し、ほんの少しだけ伸びていないだろうか。
彼女はこれ程に禍々しく、退廃的で、重苦しい気配を放っていただろうか。
ほんの些細な違和感、差異、それらが集まりセナの本能を刺激し警鐘を鳴らす。
目の前の空崎ヒナは――彼女であって、彼女ではない。
「……先生」
カツンと、床を踏み締める音が車内に響く。
彼女は此方を凝視するセナを一瞥した後、特に何ら反応を示す事無く無造作に先生の元へと足を進めた。
ストレッチャーに固定され微動だにせず、繋がれた機器が無ければ生命を維持する事も出来ない先生は、ただ昏々と眠り続ける。
刻まれた多くの傷痕は多くの困難を乗り越え、切り開いて来た証明。
そして今、目の前に広がる姿こそが、その末路――ヒナはゆっくりと目を伏せ、唇を一文字に閉ざす。
横たわる先生の姿に、嘗ての彼の姿を重ねた。胸中に堪え切れない、大きなうねりが生じていた。
「やっぱり、この世界でも貴方は、同じように苦しみ続けているのね……」
どんな世界でも、そうだ。
子ども達の為に全てを背負い、捧げ、摩耗した果てに辿り着く結末は同じ。そうであると理解していながら、彼は決して足を止めない。子ども達が苦しむ未来を、世界が毀れ、欠けていく未来を良しとしない。
それが自分にしか出来ない事ならば、何の躊躇いも無く進む人だと知っていた。
だからこそ、幸福で在って欲しかった。
「本当なら、外の世界に帰してあげたかった」
この世界が壊れる前に。
全てが失われる前に。
この世界ではない何処かで、自分達の知り得ない可能性の中で。
先生だけでも幸せになれる未来があったのならば、そうするべきだと思っていたから。
「――でも、それはもう叶わない」
呟かれた声には深く、昏い絶望の色が灯っていた。
黒いグローブに覆われた指先が、ピクリと跳ねる。伏せられていた顔が、ゆっくりと持ち上がった。
或いはこうなる前であれば、先生に猶予が残されていたのならば、逃れる可能性もあったかもしれない。
しかし、全ては遅すぎたのだ。
この世界の運命は定まった、破滅の未来は到来した。
結末を覆す事は出来ず、唯一それを為せる可能性を秘めた
それならば――今、
「私に許されている方法は、たった一つ……たった一つだけ」
告げ、ヒナは力なく垂らしていた腕を持ち上げた。
自身に世界全てを作り替える力など無い。
過去を変える様な力も、存在しない。
他者の傷を癒し、生命を元の形に戻す事も出来ない。
「もう、これしかない」
「っ……!」
セナが蒼褪め、引き攣った息を漏らした。
空崎ヒナが、意識のない先生に向けて銃口を突きつけたのだ。
腰裏に取り付けていたホルスター、そこから抜き放たれた拳銃――
嘗ての彼女が受け継ぎ、肌身離さず共にあった嘗ての
ヒナの瞳が引き絞られ、銃口が微かに揺れる。
「貴方を救う方法は、これしか」
悲痛な、それでいて重苦しい気配を纏った彼女は独白する。細く絞られた瞳の向こう側には、自身に対する失望と無力感、そして世界に対する怒りと憎しみ、先生に対する情愛と後悔、あらゆる感情が渦巻いていた。
昏く淀み、絶える事の無いそれらは世界を跨いで尚巨大な一つの塊となり、ヒナの矮躯を押し潰さんと膨大な熱量となって体を突き動かし続けている。
誰よりもその救われない結末を、苦しむあの人の姿をずっと傍で見続けていた。
今も尚、ずっとそうだ。その罪悪は
だからもう、先生がこれ以上苦しまないように。
痛みに苛まれないように。
もう、罪悪を背負わず済むように。
全てを此処で終わらせる。
「先生」
ずっと閉じられた瞼。規則的に鳴る、人工的な呼吸音。繋がれた無数のケーブルと死人の様な肌がヒナの記憶を、内に秘めた感情を刺激する。
いつかこの世界で見られた光景、切り取られた世界の一幕。
緊急車両の中で立ち会うセナとヒナ、そして先生、失われる生命。
同じ状況、しかし――異なる選択。
突きつけられた銃口が先生の額を捉え、ヒナは微かに声を震わせ云った。
「――今、楽にしてあげるから」
それが空崎ヒナに許された、最後の優しさだった。