「数えるのも面倒になるくらいの自律兵器を鉄屑にしてさ、漸く結構マシになってきたかなって思ったら総合病院周りの敵が急に居なくなって、慌ててロビーに戻ったら先生は車両で搬送されたって聞いて驚いちゃったよ」
「………」
「それで、駆け付けたらこの状況――まさか、ゲヘナの風紀委員長がこんな事を仕出かすなんてね」
軽く爪先で地面を叩きながらミカは何て事の無いように、あくまで自然体を装い語りかける。総合病院から此処までそれなりに距離がある筈だが、殆ど緊急車両と変わらない速度で飛んで来たのか。翼を持ち身体能力の高い生徒ならば可能だろう、だとしても凄まじい機動力だとヒナは内心で零した。
冷静に、ただジッと自身を見つめるヒナに対し、ミカは肩を竦めながらどこか嘲る様な笑みを浮かべた。
「ねぇ、ちょっとは何か反応しなよ? 仏頂面で黙り込んじゃって」
「………」
「あぁ、それともやっぱり角付きだから言葉も分からない? 確かにそうだよねぇ、如何にも考えなしって顔しているもん!」
能面の様にピクリともしないヒナを指差し、ミカは告げる。分かり易い挑発だ、ヒナは彼女の煽る様な言葉に一切の反応を示さなかった。
しかし此方を見下ろす瞳に込められた光に、刺激される記憶がある。ゆっくりと持ち上がったヒナの指先が、自身の瞼を撫でつけた。
■
【――ゲヘナなど、信じた私が……ッ!】
■
「……正直な話」
「ん?」
微かに、瞼が震え視界が揺らいだ気がした。それは彼女の攻撃的な色が見せる過去の記憶、幻影、残響。
ヒナは想起されるそれを丁寧に閉ざしながら、ゆっくりと口を開く。
「砂狼シロコ以外に、これ程の不確定要素が絡んで来るとは思わなかった」
「それって、銀狼の事?」
不確定要素、そして砂狼シロコ。
空崎ヒナの口から零れ落ちた言葉、その二つの要素が絡む存在についてミカは銀狼以外に覚えがない。ケープを揺らしながら暫し思案する素振りを見せた彼女は、それから何の感慨もなさそうに呟いた。
「――ふぅん、そう、負けたんだ、あの子」
目の前の空崎ヒナが銀狼について把握していて、その上で先生を襲撃し、当の銀狼は未だ駆け付けていない。こうなる事は銀狼も理解し、事前に備えていた筈だ。その上で姿が見えないという事は――そういう事だろう。
呟きに対し、ヒナは肯定も否定もしなかった。
ただ愛銃を担いだまま、静かに相手を見据えるのみ。それは観察の為か、それとも機を伺っているのか、それ以外の何かがあるのか。
ミカは小首を傾げる、先程の行動からもっと分かり易く仕掛けて来るものかと思っていたが、存在がそうでもないらしい。
だが銀狼を退けたというのならば実力は本物だろう。仮にその情報が無くとも、対峙しているだけで肌がヒリつく様な熱を感じる。本能的な部分で、肉体が目の前の存在を避けたがっているのだと分かった。
当然だろう、反転した存在は既に恐怖に染まっており、本来決して交わる事の無いコインの裏表。表にとって裏は決して目にする事のない存在で、逆もまた然り。
「セナにも伝えたけれど」
ヒナのか細い指先が持ち上がり、すっと音もなくミカの背後を指し示した。
「私の邪魔を、しないで」
「絶対に嫌」
微かに懇願の色も混じる、切実な声。だが、放たれた言葉に返って来たのは否定。
そこには取り付く島もない様な、強い拒絶の意志が見え隠れしていた。
ふん、と鼻を鳴らしたミカは胸を張ったまま指先で流れる長髪を払う。
「だって貴方は、私の先生を殺す為に此処に来たんでしょう?」
そうだとも、目の前の存在、空崎ヒナの行動は明確だ。
意識の無い先生に対し突きつけられた銃口、それが齎す結果を想えば許容出来る筈もなく――故にミカはアスファルトを踏み砕く勢いで一歩を踏み出し、全身から容赦のない敵愾心を滲ませ断じる。
「そんな事、絶対にさせないよ」
「どうして?」
するりと、ヒナの口元から疑問の声が漏れた。
極めて強い口調で放たれたそれに対し、ミカの耳に届いたのは余りにも素朴で、純粋な問い掛けだった。
まるで異なる温度差。手応えのない返答に対し、一瞬ミカは面食らって目を見開く。そこには自身に対する敵意も、害意も感じられなかったから。ただ心の底から不思議に思っている様な、そんな色だけが漂っていた。
「どうしてって……何ソレ?」
「だって、貴女も知っているのでしょう」
ゆらりと、揺れ動くヒナの身体、伸びきった長髪の隙間から覗く瞳が仄暗い光を湛えたままミカを凝視する。どうして、何故、その瞳が問いかけて来る。心の奥底まで覗き込んで来るようなソレに、一瞬ミカは気圧された。
「どれだけ足掻いても、どれだけ前に進んでも、齎されるのは苦しみと、後悔、痛みだけ……歯を食い縛りながら痛みに喘ぎ、苦しみを噛み殺して、血を流し続ける先生をもう、私は見たくない」
世界は、昏くて、冷たくて、残酷で、痛みと苦しみに満ちている。
そんな中で悲嘆にくれる子ども達を助けようと、先生はずっと走り続けた。その背中を、在り方を、ヒナはずっと見て来たのだ。
齎される痛みを、苦しみを肩代わり出来れば、何度そう思った事だろう。もう足を止めて良いと口にした事もある、傷付く姿を見たくないと、共に逃げようと訴えた事も。
それでも先生は笑って、痛みも苦しみも飲み込んで、ずっと前に進み続けた。
だから。
「――先生は、もう十分過ぎる位に頑張った」
だからもう、
空崎ヒナの行動原理は、至ってシンプル。
「もう苦しまないように、痛い事がないように、罪悪を覚える事がないように」
一歩、一歩、前に進むヒナ。
小さな体だ、嘗てと比較して多少成長したとしても大差はない。その小さな体で彼女は、世界全てを滅ぼすという重荷を背負った。その使命を押し付けられる最中で、漸く見つけた一つの解。
直ぐ隣で今も尚苦しみ続ける
「これが、私の望み」
小さく、囁く様な声だった。
しかし、決然とした響きを伴う強さを孕んでいた。
多くの苦難に直面し、結末を知った空崎ヒナが辿り着いた結論。
それは先生にこれ以上の苦しみと痛み、罪悪が降り掛かる前に、全てを終わらせる事。未来に希望などない、可能性など存在しない、そんな風に――世界は出来ていないと知ったから。
先生が世界を救っても、世界は先生を救わない。
それを空崎ヒナは、身を以て思い知った。
「……どこかで聞いた話だね、ホント」
ヒナの言葉に耳を傾けながら、ミカは小さく吐息を零した。表情は険しく、強張っていた。
空崎ヒナの語ったそれは結論を除いて、銀狼と同じ道を辿っている様に思える。結局の所、各々の中心にある感情は『先生の為』にという善意と優しさなのだ。
ただ、その結末だけがあまりにも異なるだけで。
銀狼はただ、先生に生きていて欲しかった。
大切な人を想い、幸福を願う何て事の無い善意の発露。好きな人には幸福で居て欲しい、安寧と共に在って欲しい、それが難しいのならば――せめて生きていて欲しい。
求めているのはそんな切実で、何て事の無い日常に過ぎない。
常人に当たり前のように与えられ、大多数が享受している在り方。畢竟、彼女にとって先生の未来に寄り添う存在は自分でなくとも良い。ただ先生が、先生だけが平穏であればそれで良かった。大きな幸福は望まない、普通に生きて、何て事のない一日を過ごして、今日もいつも通りだったと小さく笑って眠りにつく様な、そんなありふれた。
そこには期待もあった、世界が昏く、冷たく、残酷であると知りながらも、ほんのか細い一筋の希望に縋る様な。
けれど、空崎ヒナの語る未来にソレはない。
今此処で終わらせる、一切合切の可能性を、未来を切り捨て、苦しみと共に幸福をも断ち切る。
それ程までに、これより襲い掛かる苦しみに比重を置くのか。一切の幸福や希望を失って尚、降り掛かる苦難を振り払いたいと願ったのか。
ミカは数舜、言葉を呑んだ。それは彼女に同情した訳でも共感した訳でもない。ただ改めて、あらゆる世界の結末に心を痛めただけだ。同じような道を辿った世界が、生徒が、幾人も存在し偏在する事実に。
けれど全員が全員、同じ結論に至る訳ではない。
状況は同じなのかもしれない、辿った結末も同様だったかもしれない。けれど導き出された結論は、違う。
「なら、そのまま返すよ、さっきの言葉――貴女も知っているでしょう? ってね」
ならばこそ聖園ミカは、その主張を認めない。
突き出した愛銃の引き金に指を掛けながら、ミカは真っ直ぐヒナを見つめ返した。そこには憂いも、迷いもない、ただこの世界で共に過ごした先生との思い出を反芻しながら握り締めた決意がある。
ずっと先生と共に在ったのならば、その背中を見て来たのならば知っている筈だ。
「先生はね、どんなに痛くても、苦しくても……それでも手を伸ばさない理由にはならないって、そう口ずさんで足を踏み出すよ、何度だって、自分がどれだけ辛くても」
ずっと先生の傍に居た、その背中を見て来たのならば分かっている筈なのだ。
それを先生が望むはずがないと、自身が望む様な道を肯定する筈が無いと。これはただ空崎ヒナが勝手に諦め、辿り着いた結論に過ぎない。
その諦観に、終わりを押し付ける事に何の正しさがあるというのか。
その結論であれば、銀狼の方がまだ百倍マシじゃないか、と。
ミカは胸中で吐き捨てた。
「……これは、ただ私が望んでいるだけ」
「そう、だから代わりに私が云ってあげる」
これもまた、
ミカは赤に染まった空を見上げながら、大きく息を吸い込んだ。
確かに世界は昏く、冷たく、苦しみに満ちているかもしれない。その中で傷付き、膝を折った未来が存在する事も。涙を流したことも、後悔した事も、数え切れない程に。
けれど今、こうして自分が此処に立っているのは。
そんな未来を、先生と共に歩む未来を、自らの手で切り開く為だから。
故にミカは真っ直ぐと空崎ヒナを見返し、告げるのだ。
「――貴女の絶望に、先生を巻き込まないで」
先生が諦めない限り、
地獄の底に沈むとしても、楽園に辿り着くとしても、私達は常に一緒だから。
「………」
「根本的な部分で似ているよ
そして、自身は
力を用いず、言葉を尽くして互いに歩み寄るつもりもない。
相手もきっとそうだ。
優先順位は、ハッキリとしている。
守れるものには限りがある、だから聖園ミカは迷わず、躊躇わず――決して揺らがない。
「良いよ、相手をしてあげる――
言葉で分かり合えないのならば、残された手段は一つだけ。
ミカは一歩、また一歩と踏み出し。
ヒナもまた呼応する様に足を踏み出す。
先程までとは打って変わって、異様な静寂に包まれた周囲に靴音だけが響いて行く。散乱した瓦礫片を踏み砕き、互いの愛銃を構えたまま緩慢な足取りで、しかし戦意を秘めた視線を交わしながら。
その指先が、引き金を絞った。
「貴女と私の違いを、教えてあげる」
■
「はぁ、はッ……!」
詰めていた呼吸を吐き出した途端、一気に肉体が疲労を思い出したかのように筋肉が強張り、冷汗と脂汗が噴き出した。
警戒し、去って行った彼女の背中を見つめていたセナは身動き一つ取れなかった状態から脱し、その場に崩れ落ちる。
音を立てて座り込んだ影に、数滴の汗と血が垂れた。
先程、自分が何をしようとしたのか、セナ自身にも理解が及んでいない。ただ何か、自分の中に強大な力の流れとでもいうべきものが入り込もうとしていた気がした。
幸い、その波動は既に感じられず、彼女の身体は自身の思い通りに動く。口から、鼻から、ぽたぽたと流れ出る赤は止まる様子が無い。外傷によるものではないと思った、先程の強烈な力の奔流が、肉体にただならぬ負荷を強いていた。
「せ、先生――」
膝を突いた状態からストレッチャーに手を伸ばし、半ば縋る様にして先生の様子を覗き込む。幸いにして、先程のやり取りの最中に先生が傷付けられる事も、吹き飛ばされる事も無く、傍目に新たな外傷は見られなかった。機器に損傷も無い、我を忘れて様々な影響下にあったにも関わらず、望外の結果と云える。
「……良かった」
耳に届く機械的な呼吸音に心の底から安堵し、セナは吐息を零した。
「……先程の方は、確かトリニティのパテル分派首長――」
ストレッチャーに凭れ掛かったまま、先程の生徒に関して記憶を引っ張り出す。
あの姿には見覚えがあった。
連邦生徒会の会議室には出席していなかったが、トリニティのティーパーティー――パテル分派首長の聖園ミカだった筈だ。
総合病院では方々に散っていたが、トリニティの制服を着込んだ生徒も散見された。或いは、彼女自身も総合病院の防衛に関わっていたのかもしれない。
兎にも角にも、有難い増援である事に違いはない。彼女の強さは噂に聞く程度ではあるが、ゲヘナに於いても一目置かれている事は知っている。この状況に於いては、心強い事この上ない。
「……車両は」
セナは軋む体を引き摺って運転席へと戻ると、救護車両を動かせるかどうかを試す為、差し込んだキーを再び回す。幸いフロント部分が潰れた訳でもない。しかしスターターがカチカチと音を立てるが、沈黙が破られる事は無かった。微かに、焦げたようなオイルの匂いが鼻腔を擽った。
セナはハンドルに額を擦り付け、口元から滴る血を袖で拭いながら呟く。
「動きませんか」
口から深い落胆の声が漏れる。どこかが焼けているのか、ラジエーターが破損してエンジンが保護モードに入ったか、
幸い、ボンネットから煙が上がっている様子も、小火も見えない。今の所火災の心配はなさそうだった。完全に沈黙してしまったのならば、安全の為に携帯消火器でエンジンを覆ってしまうのも手であった。
しかし、その場合此処で立往生するしかない。移動手段を自らの手で潰す行為に等しい。
だが、かと云って自分で修理しようにも搭載されている最低限の工具でどうにか出来るのか疑問が残る。整備の為に多少の知識はあれど、自分一人で修理出来る自信はあまり無かった。
加えて――。
「っ……」
背後から何か、独特な金属音が聞こえた。
瞬間セナは肩を跳ねさせ、ホルスターに収めていた愛銃を抜き放ち運転席を立つ。後部扉へと足を進めると、横目に先生の様子を伺いながら、慎重に外へと身を乗り出した。
遠目に、自律兵器が集まって来るのが分かった。ビルの外壁を伝い、或いは表通りから群れを為して。
やはり来たかと、セナは唇を噛み締める。ヒナが居なくなったとしても、自律兵器はまた別の脅威として残る。緊急車両の修理など、そう易々と取り掛かれる状況ではない。
最悪の展開は続いている。セナは愛銃を両手で握り締めながら後部扉に凭れ掛かり、二度、三度と深呼吸を繰り返した。
体には鈍痛が走り、コンディションは悪い。合理的に考えるのであれば、動けるうちに単独で敵中を突破しこの場から離れるべきである。
しかし自分ひとりで逃げるという選択肢は、思考の何処にも存在しなかった。
静かに、視線を未だ眠り続ける先生へと向ける。
自分が倒れてしまえば、彼を守る最後の盾は潰えるだろう。
ならば、どんな手段を用いてでも倒れる訳にはいかない。
愛銃を握り締めた指先に、力が籠る。
「此処から先は」
意志は既に決まっていた。
セナは一息に壊れかけの後部扉を開け放ち、外へと足を進める。後ろ手に締まる扉の金切り音を聞きながら、セナは迫り来る自律兵器へ照準を合わた。地面を這う様に、次々と集結しつつ自律兵器。果たしてどれだけの時間耐える事が出来るのか、全てを相手取れる程の弾薬は無く、緊急車両を守りながら戦うなど正に無謀の極み。
だが――決して諦めはしない。
「絶対に通しません」
血と共に紡がれる決意と覚悟、たった一人の防波堤となり自律兵器の群れへと挑む氷室セナの背後で。
一瞬、心電図モニターに表示される波形が、大きく揺らいだ。
■
まるで深海の底に沈んでいる様な気怠さの中で、先生はゆっくりと意識を覚醒させた。
しかし瞼を押し上げても、視界に何かが映る事は無い。世界は暗く、朧気で、微かな光の明暗が薄らと分かる程度。音は無く、全ては分厚い壁を隔てた向こう側にある様な、余りにも頼りなくか細い感覚だけが残っていた。
「――お目覚めですか、先生?」
直ぐ横合いから声が聞こえた。
低く、男性的で、生徒の声ではないと直ぐに分かった。
先生は横たわったまま動かない身体をそのままに、瞳だけをゆっくりと動かす。視界は朧気で碌に見えもしないが、薄ぼんやりとした暗がりの中で、白く浮かび上がる白色があった。
その揺らめきに、光に、覚えがある。
――その声は、黒服か。
「えぇ」
先生は喉を震わせる事さえ出来なくなっていた。
ただ、胸中で呟いた言葉がそのまま隣り合う黒服の中にストンと落ちた。
黒く染まった世界――声一つ上げられず、まるで骸の如く横たわるばかりの先生と、それを見下ろす黒服。
恐らく此処は夢の中。
ゲマトリアが行き来する本来の世界とは異なる代物。その中に於いて、本来現実の肉体がどれだけ大きく損なわれていても、この場では反映されないとされていた。
所詮は夢、夢幻であり影に過ぎない。エデン条約の調印式にて、一度その生命を終わらせた先生がセイアと対面し、共に語り合った時の様に。
だが、今回ばかりは異なった。
例え夢の中でさえ、先生の肉体は今に朽ちかけで、あらゆる機能が文字通り死んでいた。
目も見えず、声さえ発する事は出来ず、腕を捥がれ、起き上がる事も困難な有様。それが意味するところは明白だ、既に先生は肉体のみならず、根本的な部分にまで浸食され崩壊しようとしていた。
精神が挫けずとも、肉体は勿論、彼の根源が限界を迎えようとしている。それがこうして、目に見える形で噴出していた。
「貴方が
黒服はゆっくりとその場に膝を突くと、先生の顔を覗き込みながら言葉を続ける。
ぼやけ、暗がりに支配された視界の中では、彼がどんな表情をしているのかは分からなかった。ただ声には、僅かな悲しみが含まれている様に思う。
先生は小さく、唇を動かし僅かな吐息を含んだ。
黒服の語る内容に心当たりがあったのだ。
二週間以上眠り続けていた先生にとって外界の事を知る術はない。故に黒服は先生を夢の中に引き摺り込み、全てを打ち明ける手段を講じた。
最早、僅かな時間も残されてはいないのだから。
「えぇ、既にお察しの事と思いますが……」
一瞬、視界に揺らめく白が大きく膨らむ。それは黒服自身、内に秘める感情がある証明だろう。
長い時を経て準備をして来た。
何度も失敗し、嘆き、苦しみ、それでも足を止める事は無かった。
全て、全て全て全て、この瞬間を覆す為だけに。
先生の瞳孔が徐々に開き、残された右手が地面を掻きながら握り締められる。あらゆる機能が死に絶え、最早残滓としか表現できない生命の残り火が燃え盛る。
呼応する様に、先生の心臓が一際強く鼓動を刻んだ。
黒服の白い炎と、見開かれ、光を失った先生の瞳が交差する。
「――彼の者が到来しました」
この世界が辿る、滅びの運命。
その到来が、先生の耳に届いた瞬間だった。
【
「ねぇ先生、先生ったら!」
「んー?」
「お仕事も大事だけれどさ、ちょっと聞いてよ! ほら私って三年生で、もう直ぐ十八歳でしょ?」
シャーレ本棟、オフィスにて。
黙々とデスクに向かって仕事を進める先生の背後から腕を回し、密着する生徒の影があった。当番とは名ばかりの、何かと先生に引っ付きながらその姿を飽きもせず眺め続ける聖園ミカ。
彼女は何があっても無くてもシャーレへと足を運び、時折こうして先生に引っ付いては幸せそうに笑みを零している。
当初こそどこか遠慮がちで、距離感を測るような躊躇を見せる事もあったが、数々の困難や長い時間を経た今、聖園ミカの抱く先生への絆はより強固となり、その好意や想いを詳らかにする事に対しいつのまにか躊躇は全くなくなっていた。
ミカは先生の肩口に自身の頬を擦りつけながら、唇を尖らせ声を張り上げた。
「十八歳! つまり大人って事☆ 子どもじゃなくて、オトナ!」
「そうだね」
彼女の訴えに対し、先生の返答は至って淡白であった。しかし口元は薄らと笑みを浮かべており、それはいつも通りの対応に他ならない。生徒が成長する事に喜びを見出す、ただそれだけの事だ。
それはミカの望んでいた手応えとは異なっていた。故に僅かに言葉を濁らせ、続ける。
「そう、だから、えっと――私の事、お姫様って呼んでくれたよね?」
「うん、ミカは私にとって大切な生徒で、お姫様だよ」
「じゃ、じゃあ!」
ワッと、ミカは色めき立ち先生の肩を掴んだ。ぎゅっと、その指先に意図せず力が籠る。
「えっと、ほら、お姫様には王子様が必要じゃん、ね? だから――」
だから、と。
隠しきれない羞恥と緊張、それを孕んだまま息を呑む。先生も何やら常の態度と異なると気付き、手にしていたペンをデスクに置きゆっくりと振り向いた。その空色の瞳を真正面から見つめながら、ミカは顏を真っ赤に染め上げ、まるで痺れた様に震える舌を精一杯動かし告げる。
全身の血が沸騰し、高揚感と不安が同時に去来していた。
「先生、十八歳になったら、わ、私と――結っこ……付き合ってっ!」
「……うーん」
精一杯、それこそ限界ギリギリまで何とか堪えて絞り出した告白だった。
両目をきつく閉じ、渾身の一撃を放ったミカに対し、先生は何とも云えない、困った様な声を上げ天井を仰いだ。その反応を目にしたミカはまるでこの世の終わりとばかりに蒼褪め、狼狽し、先生の手を握る。
その場に跪き、先生に縋るミカは捲し立てる様に云った。
「な、何で悩むの!? 私の事お姫様って呼んでくれたよね? 大事だよね? き、嫌いじゃないよねッ!?」
「それは勿論」
「よ、良かった……! わ、私色々雑誌とか読んでて、重い女とか、面倒くさい女の項目に当て嵌まっちゃう事あるけれど……な、ナギちゃんとか、セイアちゃんに私って面倒くさくないよねって聞いたら、『大丈夫ですよ』とか、『なるようになるさ』って云ってくれるし! 先生にはいつも一杯一杯感謝していて、少しでも先生の役に立てたら良いなって思っていて、最近は勉強も頑張っているし、お料理とかお掃除とかも沢山! だ、だから――」
「大丈夫、どんなミカでも私は大切に思っているから」
宛ら連射砲の如く浴びせられる言葉の濁流に、先生は苦笑を壁ながらミカの頭を撫でつけた。その手の暖かさから、嘘ではないと直ぐに分かる。先生はミカを面倒に思った事など一度も無いし、遠ざけるつもりもない。どんな彼女であり自分にとって大切な存在である事に変わりはないのだと、そう真摯に云い聞かせた。
涙ぐみ、不安に襲われている彼女を慈しむ様に撫でながら、先生は微笑み続ける。
「ただ、ミカにはちゃんと幸せになって欲しいんだ」
「しっ、幸せだよ! 先生と一緒なら毎日が幸せっ! そ、それに例え不幸になったって、先生が隣に居てくれるなら――!」
「駄目だよ」
不幸になっても、先生が隣に居てくれるならそれで良い。
そんな風に口にしようとして、ぴしゃりと、ミカの言葉に被せる様に先生が断じた。
縋る自身を見つめる瞳からは、絶対に譲れないという強い意志を感じた。それに気圧され、思わずミカは反駁の言葉を呑む。
「私と一緒になる事でミカが不幸になるのなら、私は私を許せない」
「……ッ」
不幸に何て、なる訳が無いと。
そう咄嗟に出そうになった言葉をミカは辛うじて堪えた。先生が隣にいるだけで良い、どんな場所だって、状況だって、先生と一緒に居る事が聖園ミカにとって一番の幸せで、喜びなのだから。
「な、ならっ!」
けれど、そう訴えた所で先生が受け入れてくれる事は無いと、ミカは本能的に悟った。もし先生が自分の幸福を、聖園ミカの幸福を第一に考えているのならば、やはりそれは先生の傍にしかない。
そしてもし、先生に聖園ミカを幸福に出来る自信が無いというのなら――そんな事は絶対にないし、居てくれるだけで嬉しくて満足しちゃうけれど――ミカは大きく息を吸い込み、勢い良く立ち上がると先生に向けて云い放った。
「私が……私が、先生を幸せにして見せるからッ!」
「―――」
我ながら、何と吹っ切れた事かと恥ずかしくなる。
顔を真っ赤にして、心臓を馬鹿みたいに高鳴らせながら、想い人に詰め寄り至近距離で云い放った言葉。思い返すと、これって告白どころかプロポーズじゃない? とか冷静な自分が囁いて来るが、撤回など出来る筈もなく、する気もない。
先生もその勢いと語気に気圧され、目を丸くしながら面食らっていた。僅かな静寂が両者の間に流れ、ミカはその隙に畳みかけんと小指を立て、羞恥心を掻き消す様に続けざまに叫んだ。
「は、はい、約束ッ!」
「えっと」
「良いから!」
「ミカ……?」
先生の腕を取り、強引に自身の小指と絡ませる。半ばやけっぱちになりながらも、その所作は丁寧で思い遣りに満ちてた。
もし抵抗したって、ちょっとやそっとでは負けはしない。自分はキヴォトスの住人で、先生は人間なのだから。勿論、力づくで何て絶対に嫌だけれど。
お姫様と王子様は最終的に結ばれる運命なのだ――それこそが物語の終わり、完全無欠のハッピーエンドという奴で、文句のつけようがない最高の結末だろう。
頬を赤く染め、口元をだらしなく緩めながらミカは自身と絡んだ先生の小指を見つめ、それから慌てて首を振ると祝福の言葉を紡いだ。
「病める時も、健やかなる時も――ううん、地獄の底に沈むとしても、楽園に辿り着くとしても、私達は常に一緒!」
ぎゅっと、小指に力を籠め先生を繋ぎとめる。困った様子で、けれどいつも通りの慈しむ笑みと瞳を自身に向ける先生に、ミカは心の底から満面の笑みを浮かべ、力強く宣言した。
「――そして絶対、先生の事、私が幸せにしてみせるからっ!」
そうだ、
先生と一緒なら、地獄の底でだって