昨日はブルアカ生放送を見ていたので、一日遅らせましたの!
今回約一万八千五百字ですわ~!
対峙する両名、誘導灯にのみ薄らと照らされた輪郭は朧気で、リオの視界には先生が正に儚く、あやふやな存在に見えた。
背後で煌々と照らされる本船、その白の中に浮かび上がる白い影。
「――リオ」
不意に、先生は小さく彼女の名を呟く。
声量は小さく、残響には確かな寂寥感が含まれていた。何も知らぬ者であれば、普段通りで何て事の無い呼びかけに聞こえただろう。
しかし、対峙するリオにとっては柔らかで暖かな陽だまりの中に、ふと小さく冷たい影が落ちた様に感じられた。
それはリオという存在が今目の前に立ち塞がり、対峙している事実に対して湧き上がった感情そのものか。目の前に立つ先生は何故自身が此処に立っているのか、此方から語らずとも、その意味に薄々勘付いている様に思えた。
ピクリと、リオの指が跳ねる、銃に伸ばした指先が彼女の意志とは関係なく震えていた。
それは恐怖か、単なる緊張によるものか。
平静を装う為に身構えたまま、リオは静かに肺を使う。
ただ粛々と、為すべき事を為せば良い。暗がりの中で浮かび上がる赤い瞳が、先生から逸れ、足元に落ちていた。
「……あの場では追及出来なかった、貴方の言葉は合理的だったから」
「あの場というのは、シャーレでの作戦会議かな?」
「そうよ、この状況で一分一秒でも無駄には出来ない、貴方の言葉は正しい、悪戯に場を混乱させるのは本意ではないし、今後の行動を考える上で各自治区代表が集う場での問題提起は修復不可能な状況を引き起こす可能性があったもの」
「………」
「けれど先生、その一分を惜しんだ結果、貴方を失うのであれば――別よ」
例え実力行使に及んでも、貴方を止める責任が自分には存在する。
少なくとも調月リオは、そう自負している。
名も無き神に関連する情報も、それらが残した遺産も、
そして今日、先生が秘匿していた真実も理解し、先の会議を経て、彼女は一つの結論に至ったのだ。
「――それは、どういう意味だろう?」
リオの放った一言に、先生は穏やかな口調で問うた。
声には動揺も、焦燥も、驚きさえ無かった。
少なくともリオには、それらの感情を見出す事が出来なかった。
暗がりの中で対峙する両名、先生からすればリオの表情は手に取る様に分かる。しかし反対に、リオから先生の表情を伺い知る事は出来ない。
分厚い暗闇が、二人の距離を現実以上に切り離していた。
「あの会議の場で見せられた、身体の回復」
ぽつりと、リオは語りながら乾いた唇を震わせる。それは自ら提示された希望を打ち砕く行為に他ならない。
「黒い痣の様な痕跡、皮膚への浸食……救護騎士団、救急医学部、特異現象捜査部、それぞれが資料として提示したものよりずっと症状が改善されていた、確かに単純な特殊メイクや保護膜による誤魔化しではない事は認めるわ、少なくとも視覚上違和感を抱く余地は存在しなかった」
「それなら……」
「――けれど」
先生が言葉を繋げようとした瞬間、リオは即座に否定を投げかけた。
確かに先生の身体は一見、快復した様に思えた。
だが調月リオの中に存在する合理と理性が、偽りだと叫んでいたのだ。
それは決して、根拠のない直感などではない。
根底にあるのは――信頼だ。
「私はヒマリの分析能力、解析能力、情報収集能力の高さを信頼している」
「………」
「加えて彼女が意図して虚偽の報告をするとは思っていない、そんな理由も、メリットも存在しないもの、ミレニアムに於ける全知の称号は伊達では無いわ――そのヒマリが、先生の肉体が遠からず死を迎えるという結論を出したのよ」
それは、リオにとって相当に重い意味を持つ。
調月リオにとって自身に比肩し得る才能、能力を持つ生徒と認める者は非常に限られる。そしてヒマリは数少ない、調月リオが腹の底から認めた天才であり、同時に自身に比肩すると確信している傑物である。
天童アリスに対する認識の擦り合わせこそ結論が異なったものの、その仮定に至る分析結果は全て同一であったのだ。それこそが、彼女の特異性と優秀さを浮き彫りにしている。
故に、今回に於いてもリオはヒマリの導き出した結論に絶対の信頼を置いていた。
明星ヒマリがその様に結論付けたのであれば、恐らく自身も同様の情報、条件であれば、同じ結論を導き出していただろうと。
そこには理解し合えずとも、ビッグシスターという椅子に座る前から積み重ねて来た絶対の信頼があった。
だからこそ調月リオは――目の前に立つシャーレの先生に対し、疑いの目を向けるのだ。
「私には、その結論を唐突に覆すような、都合の良い現実が存在するとは思えない」
冷然と、厳かに、威圧的な気配すら伴って、リオは訴えた。
奇跡――リオはそれを、実際に自身の眼で見た。
あり得ないと断じていた可能性を引き当てたゲーム開発部、そして世界を滅ぼす筈であった
魔王ではなく勇者として、
それは合理と理性を超えた先にある、ほんの僅かな可能性。
リオが手を伸ばす事すら考えなかった、
その道を、選択を、リオは貴いものだと思う。
現実主義、合理主義だけでは辿り着けない、望み、必死に手を伸ばしたからこそ辿り着いた眩い未来。
――だが、『奇跡』とは本来、望めば手に入るという代物ではない。
奇跡という言葉は、希望の所在を示すものでは決してないのだ。
寧ろ逆、合理を追求するリオにとって、奇跡が示すものとは――そこに至るまでの、絶望的な距離に他ならない。
那由他の果ての可能性、星を掴むような話、夢物語の如き理想。高く、分厚く、到底不可能に思えてしまう道程。それを走破して漸く手が届く、正に空の果てに存在する高嶺。
現実を知るからこそ、なまじ能力が高いからこそ、様々な側面から物事を捉えるからこそ、それが限りなく実現不可能な未来である事を理解してしまう。
恐怖を知って尚、進む事と。
恐怖を知らず進む事は、違う。
「先生、正直に答えて頂戴」
だからこそ人は、決して起こる事のないソレを――『奇跡』と呼ぶ。
リオのタブレットを抱き締めた掌が軋んだ、愛銃に伸びた指先がグリップに触れ、僅かに跳ねる。血が凍る様だ、足が竦み眩暈がした。気を緩めると、その場に崩れ落ちそうだった。
それでも、リオは血を吐くような思いと共に問うた。
「貴方は今、生きて、其処に居るの?」
先生の肉体は、遠からず死を迎える。
それこそが自分達の導き出した結論だ。
少なくとも――『奇跡』でも起こらぬ限りは、そうなると。
「………」
問い掛けは、これ以上ない程切実に、重々しい響きを伴った。
先生はただ、残響する音を耳にしながら沈黙を守った。
目前にて煌めく、暗がりの中でも光を失わない瞳。そこから読み取れる色は、懇願であった。
貴方が、先生が、生徒に偽りを面と向かって吐き出せる大人だと、そう思わせないで欲しいと。リオらしからぬ、「正直に答えて」等という、感情的な文言さえ交えて放たれた問い掛け。
元より嘘を吐くつもりなどなかった、偽りを口にする事さえも。
だが事この場に於いて、煙に巻く事、はぐらかす事、誤魔化す事さえ、彼女への信頼、その裏切りになると先生は想った。胸に針が刺さるような、鋭く、小さな痛みが連続する。それは罪悪感によるものか、先生はそっと自身の胸元に掌を当てる。
心臓は、辛うじて動いていた。血は流れている、意識は明瞭だ、考える頭だって、ならば少なくともまだ己は生きている。
真っ直ぐ正面から答える他ない。
それこそがこの場に於いて、リオの信頼を裏切らない唯一の方法だった。
「嘘は、吐けないね」
目を閉じ、静かに先生は声を発した。
声色は平坦で、気配は余りにも落ち着いている。張り詰めた空気が肌を焼いていた、自身の体内を流れる血流、その音さえ拾えてしまいそうな集中と緊張、心臓が早鐘を打ちリオの背中にじっとりとした汗が滲んだ。
「――半分は、本当だ」
「っ……!」
半分、されど――半分。
覚悟はしていた、それでも無反応を貫く事は出来なかった。
去来したのは安堵と衝撃、それと多大な恐怖。リオの身体が強張り、ぎゅっと唇が結ばれた。暗がりでも分かりやい程に、彼女の表情から血の気が引いて行く。
「私の身体は今、生きていると云えるし、死んでいるとも云える」
「……それは、どういう」
「正確に云うのであれば、その瀬戸際とでも表現すべきか」
先生は徐に暗がりへと手を伸ばし、その指先を広げた。
それはまるで、自分自身の身体を観察するかのような所作だと思った。
背後から伸びる逆光が掌、その輪郭を薄らと浮かび上がらせ、手袋越しに先生は指先を凝視する。
既に肉眼は機能していない、しかし分かる――自身の指先から少しずつ、少しずつ浸食する黒色が。
肉体の崩壊、その兆し、蓄積した奇跡の代償。
その黒は残された時間全てを使い切った時、この身を覆い尽くし、崩壊を引き起こすだろう。
その全てを彼女に明かすには、余りにも難解で、複雑で、感傷が過ぎる。
「――私に残された時間は、少ない」
故に回答は端的であり、簡素であった。
調月リオという優秀な生徒にとっては、それだけで十分であると思ったのだ。
それは決して横着でも無ければ、現実から目を背ける為の逃避でもない。それを証明するかのように、動揺に揺れるリオの瞳に理性の色が煌めいた。
「それが、計画を三日で完了させると、そう口にした理由かしら?」
「……あぁ、その通りだよ」
「ならば、対処方法は」
半分が本当。
つまりそれは、現在進行形で死に行く肉体である事の肯定。
であれば、今から足掻けばどうにかなるのではないのか。何か、対処法があるのではないか。自分達の把握していない様々な情報を秘匿しているのであれば、僅かに生き延びる時間を伸ばすだけでも構わない、先生単独ではなく、生徒達が協力すれば出来る事もあるのではないか。
殆ど、悪足掻きの様な問い掛けだった。
リオ自身、それは分かっていた。何と自身らしくもない、無意味な問いかけ。
そもそも、それがあるのならば実行していない筈がないのだと。先生が協力を乞えば拒否する生徒は早々存在せず、それが無かったと云う時点で凡その状況は把握出来る。
それでも、一抹の望みをかけて問いかける事しか出来なかった。
「存在しない」
そして、先生から放たれた返答は無慈悲で、無情で、リオの思考を肯定するものであった。
奇跡とは本来、不可逆であるが故に。
リオの愛銃に伸びていた手が、そっとホルスターから離れた。代わりに指先は堅く握り締められ、足元に落ちた視線が瞼に覆われる。
そう、そう云う事なのね。
リオは全て合点がいったと、呟きを漏らす。
「……此処に来る道中」
「………」
「ヒマリとヴェリタスに協力を要請して、今回の作戦に参加した場合の『生還率』を演算して貰ったの」
地上に残るサンクトゥム攻略班ではなく、アトラ・ハシースに突入する本船に搭乗する場合の生還率を。
ヴェリタスと特異現象捜査部、その二つが協力し導き出した結論は高い精度を誇る。
「この船を使ってアトラ・ハシースに突入した場合、生還率は脅威の三パーセント、けれどこれはあくまで作戦に参加する【生徒】の生還率に過ぎない、単独での自衛、戦闘行動が可能かつある程度の身体強度を持つ、その最低条件を満たした上での確率よ」
「……それで?」
「先生、人間である貴方の生還率は――」
一度、言葉を切り、自身の平静を保つ為に呼吸を挟む。
ヒマリとチヒロの、彼女達の結論を告げる声が、延々と脳裏に木霊した。
「――限りなくゼロよ」
何故、
この作戦を敢行しようと考えたのか。
それを調月リオは、この場に立ち理解した。
「……ゼロ、か」
「えぇそうよ、一パーセントもない、小数点以下、文字通り那由他の果ての可能性……アトラ・ハシースに乗り込めば、絶対に助からないと断言出来る」
知らなかったとは、云わせない。
どこか逃れる様に視線を逸らした先生に対し、リオの口が歪み、唸るような声を発した。彼女らしくない、明確な怒気を孕んだ声だった。
「そんなの、自ら死にに行く様なものよ――そして、貴方がソレに気付いていない筈が無い、この計画を立案した、他ならぬ貴方が」
「………」
「確かに先生、貴方はそういった場面に於いて必ず自分自身の安全性を度外視し、生徒達の安全を重視する傾向がある、エリドゥが崩壊寸前だった時、自らが矢面に立った時の様に」
だがそれでも、リオは知っている。
誰よりもその背中を、その横顔を注視していたから。
死地に赴く時でさえ、先生の表情には矜持があった。
此処で斃れてたまるか、こんな所で終われない、まだこの先があるのだと――そういう生きる意思が、石に齧りついてでも生きようとする、鋼に勝る決意があった。
例えどれ程険しい道であっても、強大な敵であっても、聳え立つ困難であっても、文字通りの星を掴む可能性でさえ、手にして見せるという気概が。
だが、今の先生には――。
だからこそ、この道を選んだのではないか。
だからこそ、この様な生還率の計画を平然と遂行しようと思ったのではないか。
その思考はリオの中で、徐々に明確な形を伴い始めていた。
「先生、私は、私の合理性を信じている」
「………」
「誰かを犠牲にしなければどうにもならない状況ならば、そうしなければならないと、今でもそう思っているわ――たとえそれが、自分の命であろうと」
リオは云った、強張った声色で、しかし純然たる決意を持って。
自身の命で世界の終焉を防ぐ事が出来るのならば、惜しむ事はない。
今でもそうするべきだと、その根底にある合理性は損なわれていない。
けれど同時に、確かにあの時から変質した部分も存在した。
対峙した己に掛けられた言葉、信念、希望――そこから生まれる可能性の向こう側へ至れる道筋。
それら全てをリオは記憶し、記録している。
脳裏に過るゲーム開発部達の勇姿、背中、笑顔、辿り着いた結末。自分ひとりでは決して到達出来なかった明日。
リオは自身の胸元に手を添え、大きく息を吸い込んだ。
指先の震えは、疾うの昔に止まっていた。
「先生、いつか貴方は私に云ったわ」
「……リオ」
「AL-1S――アリスを犠牲にすれば確実に世界は救われるというのに、それを理解して尚、誰も失う事のない、別の解決策が、何か別の方法があるかもしれないと、あの日の貴方は、私の目の前でそう叫んだ」
暗がりに灯る、空色の瞳。
対峙したその大人の姿に、エリドゥで対峙した純白の姿が重なった。
「――……っ」
思わず、目を細め唇を噛む。
リオは未だ、あの時の光景を夢で見る。
たった一人、
その合理を認め、危機を認め、世界の現状を知って尚、それでも皆が助かる道を諦めたくないと。
皆が笑顔を浮かべて迎えられる未来、第三の選択肢があるかもしれないと。
貴方はあの日、傷だらけの身体を引き摺ってそう叫んだのだ。
何度地面に倒れようと、何度痛みに叩きのめされようと、何度血を流し、苦痛に喘ごうと。
――貴方は、
「そう叫んだ、他ならぬ貴方が……っ!」
知らず知らずの内に、力が籠った。
歯を食い縛り、爪が皮膚に食い込む。痛い程に握り締めた拳は軋みを上げ、リオの瞳が見開かれ、熱い呼気が漏れた。
忘れない、忘れなどしない、忘れる筈がない。
貴方が最初に叫んだのだ。
貴方が望み、貴方が
全く以て合理的ではない、根拠も確証も無い、夢物語の様な未来を。
そうだ。
あの日、調月リオと対峙し。
誰よりも、何よりも、そんな未来を望んだ貴方が――どうして。
「――何故、自身の犠牲を前提とした、こんな道を選ぼうとするのッ!?」
咆哮染みた絶叫が周囲に響き渡り、対峙する先生の全身を震わせた。
暗がりの中、微かに覗く瞳の煌めきが見開かれる。先生の視界に、ノイズが走った。それはシッテムの箱が起こした感情のオーバーフロー、接続された先生の肉体に生じた微かな不具合。
隠し切れない動揺、掴み切れなかった先生の
「貴方が居ない世界で、貴方の生徒は――貴方の大切な、
生徒皆が、笑い合える世界。
貴方はそれを実現したいと、いつかそう口にしていた。
リオは想う。
もし、本当に、心からそんな世界を実現したいと思っているのなら。
本当に、そんな未来を願っているのなら。
顔を上げ、歪み、悲しみに満ち、縋るような声と共に。
彼女は真摯に、問いかける。
「――本当に、心の底から笑えるのッ!?」
皆が笑い合う、幸福な結末の中で。
「―――……」
その偽善を、突きつけられた気分だった。
四肢が痺れ、心臓が一際強く跳ねる。既に生気を失った身体が一斉に生命の在り方を思い出し、息を吹き返したような。
勿論、そんなものは錯覚に過ぎない。
それでも一時、あらゆる記憶や感情、感覚が蘇る程の衝撃を先生は打ち付けられた。
どんな攻撃よりも、どんな悪意よりも、どんな敵愾心よりも、彼女の発した言葉が胸を射貫いた。自身で自らを罰するよりも、余程。
「もしそうなら、本気でそう思っているのなら、貴方は自身の影響を過小評価し過ぎている……!」
背を丸め、タブレットを抱き締めながらリオは訴え続ける。
そうだ、そんな筈がないのだ。
多くの生徒と絆を育み、愛され、手を取り合った大切な存在。
そんな人が失われて、心の底から笑える筈がない。
それで、一体どうして笑顔になれるだろう?
どうして平然と明日を迎えられるだろう?
その喪失は、大切な者の死は、必ず心に大きな穴を穿つ。
時間が解決すると人は云う、いつか立ち直れる日が来ると、だが唯一無二の喪失は永遠に癒えない傷をこの胸に残すだろう。
絆が深い程に、情があればあるほどに、手を伸ばされ、助けられる度に――その繋がりが強固であればある程、悲しみは深く、取り返しのつかないものとなる。
それは確かに訪れる、悲劇的な結末だ。
「今からでも模索するべきよ、先生……!」
顔を上げ、睨みつける様に先生を見るリオは息を吸い、叫び続ける。
異なる選択肢を、誰も失われない道を。
「限界まで、貴方を含めた本当の意味で、皆が救われる、
その道こそが、本当の意味で生徒達の笑顔を、笑い合える未来に繋がる筈だと。
響く声が、残響する叫びが、先生の全身を打ち据えていた。
「―――……あぁ」
木霊する声が消えた後、僅かな沈黙が降りる。
涙を呑み、真剣に、真摯に、ただ真っ直ぐ先生を見つめるリオに対し、先生は二度、三度、口を開こうとして言葉を呑む。
ただ感嘆ともとれる、微かな声が唇から漏れた。
自身の中に湧き上がる感情、掻き乱される思考、それらを自覚し、胸元で鼓動を刻む心臓を衣服越しに掴みながら、ふっと口元を緩めた。
辛く、苦々しく、歪な表情。
大人である彼が、調月リオに初めて見せた、偽りのない底に渦巻いた
「リオ、君の言葉は――全く以て、正しい」
不意に天を仰ぎ、自らの顔を掌で覆った先生は云った。
実にすんなりと、先生はリオの言葉を認めた。
突きつけられたそれは、先生自身が理解していた事だったから。
ずっと目を背けずに、直視し続け、背負い続けた現実だったから。
けれど改めてそれを指摘され、突きつけられた時、先生の背中に感じられた重みは――より鮮明に、ずっしりとした重みを発した。
「っ、なら……!」
「本当の事を云うのであれば、私も、皆と一緒に居たかったんだ」
一歩を踏み出し、微かに表情を晴れさせたリオが声を発する。
だがそれを、先生は掌で拒んだ。
皆が成長していく姿を、傍で、この眼で見たかった。
卒業する晴れ姿を、見送りたかった。
どんな形であっても構わない、どんな姿であっても構わない。
迎えた未来に、切り開いた明日に、彼女達と共に笑い合える一幕があったのなら、どれ程幸福だっただろう?
どれ程幸せだっただろう。
あぁ、本当に、そんな未来があったのなら。
そんな未来に、辿り着けたのなら――。
けれど。
「ごめんね、リオ」
先生は掌で覆い隠した表情をゆっくりと晒し、暗がりに光る誘導灯に照らされたまま、冷然と告げた。
リオの視界に片側のみの、鈍く光る空色の瞳が映る。
「――もう、何度も試したんだ」
■
【わ、私は、私は! 皆が居ないと、何も出来ないっ!】
薄暗い路地に蹲り、傷だらけの身体を抱えて叫ぶ彼女は訴える。涙に塗れ、鼻水さえ垂らし、全身を震わせ首を振る彼女は唯一残った仲間を前に叫び続けた。そこが敵地である事も忘れ、頭上を交差する幾つもの照明を他所に、雨に濡れた地面を凝視しながら、必死に。
【私には、ミヤコちゃんみたいな勇気も、サキちゃんみたいな行動力も、モエちゃんみたいな知識も、何もない! 皆が、先生が居なくちゃ、わ、私は――ッ!?】
頬を伝う大粒の涙が、止まらない震えが、恐怖が、彼女の全身を支配し、あらゆる行動を縛り付けている。だからきっと無理だ、自分には出来ないと、土砂降りの夜空に向けて何度も吐息と共に、絶望の色を吐き出した。
【私は――私ひとりじゃ!】
『それでも、やらねばなりません』
【っ……!】
それでも、目の前の仲間は云う。
自身が尊敬し、心の拠り所とし、居場所でもある彼女は。
流す血をそのままに、絶望的な状況であっても決して挫けず、自身を見下ろしていた。
ゆっくりと見上げ、涙に滲んだ視界に映る、勇壮な姿。
SRTとしての誇りを胸に、常に先陣を切り続けた彼女の姿が、其処にはあった。
『先生を託せるのは、あなただけです――RABBIT4』
■
【――これが
一人、トリニティの廊下を往く彼女は吐き捨てる。
忌々し気に、嘗ての清廉さなど忘れたかのように、黒いシスターフッドの制服を身に纏った彼女は白いリボンの代わりにウィンプルを靡かせ、腹立たしい程に蒼い空を睨みつける。
両手は既に取り返しのつかない程に血に染まり、夢見た明日は程遠く。
硝子に映る己の形相に、彼女はより一層表情を強張らせる。
【こんな、悪意と憎悪、自己中心的で無自覚で、無遠慮で無理解で、互いが互いを蹴落とし、憎み、敵意に満ちた
理想と解離した現実、容易く実現出来る等と思っていた訳ではない。
だが世界は、現実は、あの日の自分が思い描いていたよりもずっと愚かで、下劣で、醜悪で。
硝子に伸ばした掌が、軋む音を立てて握り締められた。
【先生……こんな世界に、貴方が身を捧げた価値なんて――】
そこまで口にして、脳裏に過る姿があった。
ヒフミちゃん。
アズサちゃん。
コハルちゃん。
自分の大切な、一等大切な仲間達。
未だこの、愚かで、下劣で、醜悪なる世界で生きる彼女達。自分の全てを捧げて尚、絶対に守り通したいと願った居場所。
皆の顔が、打ち捨てられた
心の片隅に残った一片、ほんの小さな暖かな欠片。
それを握り締め、彼女は目を閉じる。
【――……いいえ】
言葉を呑み、踵を返した。
この世界を否定する事は許されない、誰にも否定などさせない。
それは、
【それは、駄目です……先生の、あの人の犠牲が、無駄になる事だけは、絶対に】
自身は託された。
この世界にどれだけ失望しようとも。
或いは、絶望しようとも。
諦める事は、許されない。
この世界には価値があると、そう思わなければ――。
【命に、報いなければ】
■
【こんな未来認められない! 認めたくないッ! 私達ばっかり苦しんで! 私達ばっかり痛い目にあってッ!】
頭を抱え、解けた長髪をそのままに、煤に塗れ、傷に塗れ、襤褸布になった制服をそのままに彼女は叫ぶ。重なり合った瓦礫の頂上、積み重なる骸と襲来する幾多もの自律兵器。その中心で叫ぶ彼女は大粒の涙と絶望を垂れ流し、燃え盛る世界を睥睨する。
【ノア先輩もッ! ユウカ先輩もッ! 先生もッ! 皆っ、みんなァッ!】
自分の大好きな人たちは、皆消えた。
誰一人として、残ってはいない。
この瓦礫の下か、それとも炎の中か、或いは最早原型も留めていないのか。
分からない、分からない、分からない、その事が酷く恐ろしい、胸の中が気持ち悪い、吐き気がする、制御できない感情があらゆる形で身体を突き上げる。
ボロボロと涙を流し、自律兵器に定まりもしない銃口を突きつける。
その脳裏にずっと繰り返される言葉があった。
コユキ――貴女の
【こんな世界、ぶっ壊れてしまえば良いッ!】
■
反響する叫び、心からの訴え、絶望の声。
軋む全身、血を流し、この世の地獄と思える程の苦痛に苛まれて尚、立ち上がらなくてはならないと――そう四肢を突き動かす衝動。
擦り切れ、摩耗し、最早継ぎ接ぎだらけの精神に圧し掛かる重みは想像を絶する。
記憶に刻まれた、決して忘れる事の出来ない叫びが、慟哭が、何時までも耳の奥に響き続けていた。
それに先生は、永遠に耳を傾け続ける。
己の救いたかった全ては過去にしかない、己の手が届かなかった数多の可能性は、取りこぼした幾多もの光は。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。
苦しみ、足掻き、幾多もの罪悪をこの身に背負い。
その果てに掴んだ、『次善』の道が、
この道は、最善ではないのかもしれない。
もっと上手くやれた世界が、可能性があったのかもしれない。
別の方法が、道が、リオの云う『第三の選択肢』が存在したのかもしれない。
――
「何度も、試した……?」
先生の言葉に耳を傾けていたリオが、ふと呟きを漏らした。
それは優秀な彼女の頭脳が先生の発言より導き出した仮説である。高速で走る思考、リオの瞳が左右に揺れ、呆然とした表情が先生を捉えた。
それを彼は、ただ感情に蓋をして、無機質な瞳で見返すばかり。
「待って」
「………」
「待って頂戴、先生、貴方は、まさか――」
声が震え、思考が纏まらなかった。
先程の発言、これまでの行動、シャーレの先生が辿って来たと云う軌跡、実績の数々。それらが一斉に、まるで洪水の様にリオの頭の中へと雪崩れ込んで来た。一つ一つは偶然や情報収集の結果と片付けられるかもしれない、だが事細かに分類し、点と点を繋いでいけば分かる事もある。
リオの震えた指先が自身の額を擦り、冷汗が頬を伝った。
「いえ、あり得ないわ……でも、この作戦は、アトラ・ハシースも、対抗手段が――そもそも、エリドゥ攻略の時でさえ、エデン条約の際も事前に防備を、思い返せば全て……?」
取り留めのない言葉、情報の羅列。収集した先生の過去、実績を遡り考えれば考える程、まるでその
不可能だ、あり得ないとリオの理性が囁いた。その様な技術は確立されておらず、それこそ話に聞いた事さえないのだから。
だが、しかし――現実を見ろ。
アトラ・ハシースの存在、名も無き神の遺産、次元防壁等と云う出鱈目な機能もまた、リオの常識からすればあり得ない様な代物だった。
ならば何故、シャーレの先生がそういった遺物を有していないと断言出来るだろう。
「―――」
では、仮に――。
もし仮に、自身の仮説が正しいとすれば。
目の前の、
「君の云う通り、私の選んだこの道が正しいなんて、そんな事は口が裂けても云えない……云っちゃいけない」
先生が一歩を踏み出す。
カツンと、硬質的な靴音が鳴った。過る誘導灯、その真横へと立った先生の表情が白の元に晒される。
いつも通りの、なんて事の無い立ち姿。
気難しそうに、真剣に、此方を真っ直ぐと見つめる瞳。
けれど何故だろう、リオにはその姿が余りにも朧気に見えた。
彼は分かっている筈だ、調月リオがその真実の片鱗に触れたと。
しかし、気に留める素振りも、言及もない。
ただ彼は淡々と、自身の決意を露にするばかりで。
「けれど、もしこの未来を進むのに、誰かが代償を支払わなければならないのなら」
第三の道を探し、積み重ねた数多の骸は嘘を吐かない。
必要最低限の――
探し、足掻き、失敗し、斃れ、繰り返し、積み重ね、刻まれた記憶と記録。
その果てに辿り着いた、限りなく最善に近い未来。
もし、
「――
今が、その時なのだ。
「………」
リオはその言葉に口を噤んだ。
同時に、自身の考えに間違いはなかったのだと確信した。
彼は、リオの抱いた疑問に気付いていた筈だった。しかし、それを否定する事無く言葉を続けた。
その行動こそが、リオの抱いた仮説の正しさを裏付けている様に思えた。
彼の語る言葉、救われるべき
いや、そうせざるを得ない。
このどうしようもなく悲劇的で、悲惨な結末であっても――彼の中では、文字通り『次善』なのだ。
「私の選択は子ども達に、苦しみを、痛みを、悲しみを強いる事になると知っていた――いや、ずっとそうして来た、それは決して覆らない真実だ」
「……貴方はそうやって、此処まで進んで来たというの? 貴方を呼び止める、留め置こうとする、幾つもの声に背を向けて」
「そうだよ、リオ」
冷徹を咎めるような声に、先生は肯定を示す。
「それこそが、私の背負った――【
前も、その前も、更にずっと前にも――その声に、気付いていたのに。
もっと早く、この足を止めていたのなら。
だが、彼女達の最期が、言葉が、慟哭が、胸に、網膜に、脳裏に、張り付いて消えない。
救いたいと思ってしまった。
助けたいと願ってしまった。
こんな結末を認めたくないと。
彼女達に幸せな未来が在って欲しいと、祈ってしまったのだ。
そうして踏み出した一歩目の慟哭が、悲しみが、背中にずしりと圧し掛かって、それを無駄にすまいと一歩、一歩と踏み出す度に重みを増していった。
そうして重みに耐えかね、その場で足を止めようとした時、そっと背後から声が掛かる。
何で一歩目で、止めなかったんだって。
そうすればこの背中に圧し掛かった痛みは、悲しみは、
だから、その罪悪に、慟哭に背を押されて、もう一歩を踏み出す。
一歩ごとにまた罪悪は積み重なる、進めば進む程、背中に募る
膨らんでいく慟哭に、両足はいつしか止まる事を忘れ――いいや、出来なくなる。
せめて、積み重なったこの声に。
捧げられた祈りに。
自身の生み出してしまった苦しみに、痛みに、罪悪に報いるだけの。
――
「……先生」
リオは絶句した。
重い、余りにも――重い信念。
先生の鋼に勝る強固な意思、生徒を絶対とする姿勢、どのような逆境にさえ立ち向かう不屈。
それを生み出す衝動、原動力の一端を垣間見た心地だった。
だがその果てに、先生が幸福を手にする事は絶対にない。
それだけは、リオにさえ分かる真実である。
「っ……」
掌で顔を覆い、表情を歪めたリオは小さく唸った。彼の意気を、信念を挫くだけの言葉を自分の中から何とか探し出そうとしたのだ。そうでなければ、彼はこのまま進んでしまうという確信があった。
だがそれは、余りにも心許なく、不格好で、不器用な試みであった。
「先生、それは、プロスペクト理論に過ぎないわ――貴方は、過去に囚われている」
「理屈じゃないんだ、リオ」
その返答は、力なく、見上げた先生は苦笑を浮かべていた。
本当は、そんな風に云うべきではないと先生も理解していた。
理屈ではない等と、そんな風に。
こんな事を、生徒に伝えるべきではない、吐き出すべきではないと心が叫んでいた。同時に今ここで全てを吐き出してしまいたいという感情も同居していた。
自己の感情を無遠慮に発散してしまいたい、内に秘めた嘆きを、苦しみを、痛みを、重みを。
その卑劣な行為は、自身を幾分か楽にしてくれるだろう。
でも、それは許されない。
故に先生は強く、強く拳を握り締め、目を閉じた。
それでも溢れ出る感情の一端が、先生の口ずさむ言葉に強い語気を与えた。
「――苦しかった筈なんだ」
その時リオは、漸く。
「皆、痛みに喘いでいた、苦しくて、辛くて、それでも私を想って」
漸く――先生の背中に募った、膨大な数の何かに気付いた。
「痛かった筈だ、助けて欲しかった筈だ、本当は泣きたかった筈なんだ」
その秘密を、秘匿していた真実に触れたからだろうか。後悔を、拭いきれなかった嘆きを、自らの罪悪を明かす先生の背中。誘導灯に照らされた輪郭から、まるでぼんやりと伸びる無数の
それは先生の身体に刻まれた数多の傷痕を撫でる様に、手を伸ばしていた。
冷たく、色はなく、まるで蜃気楼のように先生を抱き締める影達。
朧げな
「――そんな彼女達を前に、苦しみを、絶望を叫び、救いを求める子ども達を目の前にして、私は、何も……何も出来なかった」
それこそが、先生を支え、或いは引き留め、彼が進み続ける罪悪となった影。
リオは直感的に理解し、声を呑んだ。
失われる生命を、神秘を、先生はずっと忘れられずに居る。
己は審判者ではなく。
己は救済者ではなく。
己は絶対者ではない。
ただ忘れられ、苦しむ生徒に寄り添うだけの――
「生きたいと、そう叫んだのは、あの子達だって同じだった筈なのに――!」
――
「――……どうして」
リオは思わず愕然と、言葉を漏らした。それは周囲に反響する事無く、暗闇に溶けて消える。
目の前の大人はあまりにも頑なで、あまりにも強く在り過ぎた。
彼はたった一つ、認めれば良いのだ。
自分は精一杯やったのだと、必死で抗い努力し、戦ったのだと。その運命は過酷で、苛烈で、彼はその濁流に呑まれただけに過ぎない。巨大な世界という流れの中で、たった一人の大人が傷に塗れ抗い続けていたのだ。
誰が否定出来よう。
誰が糾弾出来よう。
彼の努力を、足掻きを、死に物狂いの献身を。
誰に否定されようとも、或いはこの世界の主とやらに否定されようとも、大多数の親しき生徒は肯定する筈だ。
その中には当然、リオも含まれている。
本当に頑張ったのだから。
血を流し、苦痛に顔を歪めながらも、此処まで戦い続けたのだから。
だが、
ならば、
繰り返しの中で潰えた世界は、取りこぼした彼女達の涙は、慟哭は、願いは、祈りは――全て無意味だったのか、と。
いいや、違う。
先生は、先生だけは否定する。
無意味などと、云わせはしない。
誰にも、誰であろうとも、絶対に否定などさせはしない。
取りこぼした可能性、数多の光、彼女達の涙に、慟哭に、願いに、祈りに意味を与えるのは、
他ならぬ己が、やらねばならない。
彼女達の涙に、慟哭に、応えねば。
彼女達の願いを、祈りを、成就せねば。
それこそが唯一、全てを振り切り、多くの悲劇を積み重ね、犠牲と苦痛を強いて来た。
愚かで、無様で、無力な己が差し出せる、唯一なのだと。
「だからこそ――その命に、報いなければならない」
握り締めた拳をそのままに、先生はリオへと、その心の奥底へと語りかける。
何者にでもなれた
この世に生まれ落ちた、眩い
それを取りこぼした、目の前で失った己の――
先生の決意を聞き届けたリオは、そっと歯を食い縛る。頬を伝う一筋の涙が、足元に痕跡を残し、ぽつぽつと跳ねた。
「……先生」
「私には、それしか出来ない、そうする事でしか、彼女達の声に応えられない」
声には、決然とした響きが伴った。最早どうする事も出来ない程に強く、固い。
責任――先生は時折、その言葉を口ずさむ。
しかし、今回のそれは、常のそれよりもずっしりと重く、昏い気配を漂わせていた。
それこそが今、こうして先生が突き進む根源。
彼の背負った、罪悪。
「――先生、貴方は」
あまりにも強すぎたのよ。
リオは項垂れ、背を丸めながら涙を零し、呟いた。二つ、三つと零れ落ちるそれをそのままに、リオは力なく首を横に振る。
彼の瞳は、星の光に似る。
星の光は全て過去から届いたものだ。
彼は今、その空色の瞳で以て――『現在』と【過去】を見ている。
これまでずっと。
そして恐らくこれからも、ずっと。
時折彼が懐かしそうに、寂しそうに生徒を見ていたのは、きっと――。
「……こんな私を、強いと云ってくれるのかい?」
「えぇ、そうよ――肉体的な事なんかじゃない、精神的に貴方は、その想いに、願いに、数多の声を背負える程に、強靭過ぎた」
「私は、強くなんてないよ」
もしそう見えるのならば、それは。
「……ただ、
その死を後悔し、幾つもの涙を流し、悲痛な叫びをあげ、自身の無力さを嘆いた所で、それが取りこぼされた生徒達にとってどれだけの慰めになるだろう。
彼女達の想いを無駄にしない事は当然なのだ、その死に意味を与えるのは自分自身なのだから。
しかし、たとえどれだけ彼女達の想いに殉じようとも、生徒達の過去は救えない。
失われた彼女達の生命を蘇らせる事は出来ない、世界を幾ら跨いだ所で決定した
救ったと、そう思い込む事は出来る。
だがそんなものは所詮、自身の無聊を慰めるだけの代物なのだ。単なる自己満足、自分で自分を納得させ、決着をつける為の幻想だ。
先生は、それを良しとしなかった。
だからこそ、全てを忘れず、決して目を背けず、自らに刻み込み、罪悪を背負い続けた。
この身が朽ち果て、全てが終わるまで――或いは、朽ち果てた後も。
「先生」
リオは自身の双眸から流れ出る涙を、乱雑に拭った。
僅かに霞み、揺らぐ瞳。だが秘められた光は失われず、先生を見つめる視線には尚も力が籠った。
「貴方は、自らの
「――だから、これで最後にする」
分かっていると。
先生はリオを見返したまま、力強く云い放った。薄らと掛けたタブレットから、青白い光が放たれた。それが先生の胸元を照らし、その純白の制服と青の腕章を暗がりに浮かび上がらせる。
繰り返しはもう出来ない、これが正真正銘、先生にとっての最後の戦いとなる。
だから。
「この戦いで、これまでのすべてに、私の辿って来た遍く全てに決着をつける」
現在にも。
過去にも。
そして、これから続く――
「だから――ごめん、リオ」
私は、この足を止める事は出来ない。
今更引き返す事も出来ない。
そんな意図を込めた謝罪が、リオの耳を打った。
彼女は口を噤んだまま、指先で頬を拭う。涙を零した事など、何時ぶりだろうか。もう遠い記憶の彼方だ、これ程に感情を揺さぶられたのは。
これ程までに――絶対的な
「……謝る必要は、無いわ」
呟き、リオは勢い良く腕を払った。
指先に付着した涙を飛ばし、改めて先生と対峙する。丸まった背は正しく張り、強い意志を秘めた瞳は鋭く煌めく。その超然とした立ち姿は、先程までのリオとは一線を画す。ミレニアムのビッグシスターに相応しい佇まいであった。
何を云っても、先生の説得など不可能だと悟った。
彼は止まらない、止まれない。
何故なら今この瞬間こそが、彼の望んだ最後の選択、未来へと続く道なのだ。
ならばこそ――リオは決断する。
先生がこのまま、最後の計画を実行に移すというのであれば。
「それなら、私も同行するだけだから」
「――!」
その一言に、先生の眼が大きく見開かれた。露呈する動揺、焦燥、しかしそれはほんの一瞬の事。先生の表情は即座に切り替わり、険しい視線のままリオへと言葉を掛ける。
「リオ、分かっている筈だ、この戦いは片道切符になる……だから」
「だから、先生ひとりで向かうと――?」
最初から全てを終わらせるつもりで向かうから、帯同は許されないと。
その様な理論が通じる筈もなく、リオは勢い良く足を進め、周囲に連続する靴音が響いた。
迫り来るリオの影、誘導灯が順に彼女の横顔を照らし、あれ程遠くに感じられた彼我の距離が手を伸ばせば届く距離に縮まる。
交差する空色と赤色、伸びたリオの指先が先生の胸元を突き、その大柄な体躯が一歩退いた。
「――絶対に許さないわ、そんな
下から覗き込む様に、至近距離で、リオは断言した。
薄らと赤く腫れあがった瞳には先生に負けず劣らず、絶対的な意思を秘めた光が灯っていた。
「私が貴方と共にアトラ・ハシースに挑んだ所で確率は大きく変動しない事は分かっている、或いはゼロ以下の可能性に、ほんの僅かな
「それなら……」
「けれど」
先生が開きかけた口に掌を翳し、リオは大きく息を吸い、その瞳を凝視したまま吐き捨てた。
「
それは調月リオらしからぬ発言だっただろう。
彼女を知る人物であればある程、あり得ないと思えるような。
目を見開き、驚愕に声を失う先生の姿がその証左だ。
だが、寧ろその反応をリオは誇らし気に、胸を張って受け入れた。
「――私は、調月リオ」
タブレットを片手に、彼女は改めて自身の名を告げる。
先生に、世界に、自分自身を示す様に。
その黒い髪を靡かせ、彼女は先生の
「ミレニアムサイエンススクールのビッグシスター、星を追う者、私の掲げる理念は『最大多数の最大幸福』――当然その中には、貴方も含まれているわ、先生」
彼女は背筋を正し、先生の胸元に掌を添えたまま薄らと口元を緩めた。
最大多数の最大幸福、その理想を語るのであれば、百人の内百人が幸福である事が望ましい。
百人の内、九十九人が幸福で、ひとりが犠牲となる道もあるかもしれない。寧ろたった一人で済んだと安堵する事もあるだろう。
だが、全員が幸福で、笑顔で迎えられる明日、その可能性があるのならば。
そんな楽観的で、夢物語で、御伽噺の様な第三の選択肢があるのなら。
「私も、貴方も、誰一人欠ける事無く、全員が生きて戻って来る事」
――たとえそれが、
「それが私の導き出した、最も合理的な答えよ」
彼の心に触れた調月リオは、その
いつも何かする度に、「コユキ~ッ!?」って怒りながら自分を追いかけ回し、説教してくる大切な先輩が、本当の本当にどうしようもない失敗をして、どう頑張っても取り返しのつかない状況になって、母校も崩壊して、自分もその被害を被って息も絶え絶えになっているのに。
それでも血を流しながら、「貴女のせいじゃないわ」って優しく微笑んで来る光景。
いつものように「コユキ~ッ!」って怒ってくれたらまだ良かったのに、「あなたのせいで……!」って恨んでくれたら良かったのに。
最後の最後に見せた相手を思い遣った優しさが、結果的にその怒りや絶望を他者に押し付ける選択肢を潰し、どうしようもない絶望と悲愴を胸に秘めたまま狂うしかなかったコユキちゃん可愛いね。
可愛いじゃないが? 何でこんな事するんですの? まじあり得ませんわ、口直しにミユをひとりぼっちにするので覚悟の準備をしておいて下さいッ! 貴女はSRTですッ! ひとりぼっちで瀕死の先生を連れて逃げ続ける旅を楽しみにしておいて下さい! 良いですねッ!
因みに先生の記憶に出て来た生徒達は漏れなく守護者として顕現するのでご安心下さいませですわ~ッ!
本当はTwitter(新:X)に投稿した漫画の様に、「合理的な選択をね――リオ」って台詞を入れたかったけれど、こんな意趣返しみたいな台詞、本当に先生が口にするだろうか? って数時間悩みに悩み、カットしましたわ~!