ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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一日遅れて申し訳ありませんわ!
めっちゃ難産でしたの……!
今回約二万三千字ですわ~!


【怠惰な平穏(正義)は、私の()に】

【■■■■■■の記憶】

 

「――ッ、は、ハッ……!」

 

 誰かの、声が聞こえる。

 荒い呼吸音、等間隔で揺さぶられる自身の体、まるで泥濘の中で横たわるような気怠さと疲労感、肌に張り付く暖かさ、乾いた喉が張り付いて咳き込みそうになる。

 けれど、この体には咳き込むだけの力すら残っていないのか、喉は時折痙攣しながら微かな呼吸を繰り返すのみ。ほんの僅かに腕を動かすだけ、指先一本震わせるだけでも億劫で、両手足を投げ出したまま薄らと聞こえる誰かの呼吸音にのみ集中する。

 

「ふっ、フッ……ぐッ」

 

 揺さぶられる体、痛みを発する全身。頬を伝う生ぬるい何かが項垂れた自身の顎を伝って滴り落ち、薄暗い路地に血痕を点々と残していく。震える瞼を何とか押し開け、朧げな視界を確保すると、自分が誰かに抱えられたまま移動しているのだと分かった。

 

「――探せッ! シャーレ――……!」

「生徒――……逃げ――ッ」

「射殺許可――……場で――……!」

 

 誰かの声が聞こえる、何か恐ろしく、焦燥と怒りに満ちた声が、遠い何処かより。

 横抱きにされた自身が目を開けると、直ぐ傍に自身を抱きかかえたまま歩く大人の姿があった。大量の汗と血を流し、真っ赤に染まった歯を食い縛るその表情を、ただ呆然と見上げる。すっかり純白を失った彼の制服に手を伸ばそうとして力が入らず、震えた指先が衣服の表面を力なく擦った。

 最早、呻き声一つ上げる事さえ叶わず、渇き、擦り切れた唇を震わせる。

 

「だい、丈夫――」

 

 自分を抱き締める大人は――先生はそう云って、一歩、また一歩と薄暗い路地を進んだ。

 朧げな視界の中、先生の顔を見上げていれば、その背中にもう一人、生徒を背負っている事が分かった。

 トレードマークの帽子も無く、綺麗に手入れされていた白い髪も赤に塗れ、ぐったりと動かない友人の姿。両腕を力なく先生の肩に回し、前傾姿勢となった彼に背負われた彼女はぴくりともしない。

 肩に預けられた頬には大小様々な傷がつき、投げ出された両腕の指先は爪が剥げ、血に塗れ、酷いものだと思った。

 

 キリノ、と。

 音にもならない、吐息を零す。

 

「私に、任せて」

「………」

「絶対に、助けるから」

 

 音が耳に届く。何か重いモノを引き摺るような、そんな音。僅かな振動と共に、一歩一歩進む先生は荒い呼吸を繰り返し、腕に抱え、背負った生徒達に云い聞かせる。

 自身を抱きかかえる先生の掌が、嫌に熱く感じられた。先生の頬より滴り落ちる汗と血が、自身の制服に点々と跡を残していく。何事かを口にしようとした、懸命に声を絞り出そうとして、けれど結局漏れ出るのは音とも取れない吐息のみ。

 シャーレの純白の制服、今や見る影もなく変色し、赤黒く染まったそれは歩く度に水音を立てる。

 

「君達を、安全な、場所に――……送り届ける、までは」

 

 誰かが遠くで叫んでいる、先生は生徒(子ども)を二人抱えたまま、満身創痍の身体で歩き続ける。先生を見上げる視界が、どんどん暗がりに落ちていく。ほんの数分、意識を保っている事さえ許されない程に、身体は疲労していたらしい。腹部に乗せられた腕、先生の衣服を擦った指先が僅かに震え、そっと彼の衣服を摘まむ。それだけが今、彼女に許された意思表示であり。

 辛うじて繋がれていた意識の糸は、呆気なく暗闇に沈んで行った。

 

「――私は絶対に、斃れないから」

 

 ■

 

 ――D.U.ウェストパーク前、大通りにて。

 

「痛ッ!?」

「ほら、暴れないで大人しくお縄について~、これ以上手間掛けさせない」

「この、ヴァルキューレの犬が……ッ!」

 

 人々の喧騒が響き渡る街中、其処にはランプを光らせながら集まった数台のパトカーと、地面に取り押さえられた生徒の姿があった。

 周囲の建物外壁や道路、ガードレールには弾痕が刻まれており、この場で激しい銃撃戦があった事が察せられる。車両でブロックされた公道、市民の侵入を防ぐために並ぶヴァルキューレの生徒達。

 地面に押さえつけられた生徒は白い外套にフードを被っており、その顔は薄汚れたガスマスクで覆われて見えなかった。両足をばたつかせ、仰け反る彼女は肺を膨らませ叫ぶ。

 

「今更私なんか捕まえて、どんな意味があるっていうのさ!? D.U.の治安なんて、もうクソ以下じゃない!」

「治安がクソ以下でも、目の前であんな事されて見逃す訳にもいかないでしょ、普通に考えて」

 

 未だ全力で抵抗する生徒を相手に、背中に圧し掛かって制圧する影――フブキは実に面倒そうな態度で彼女の手首に手錠を掛けた。カチンと音が鳴り、生徒の両腕は背後で拘束される。ズレ落ちそうになる帽子を指先で押し上げ、小さく溜息を吐いたフブキは膝で対象を押し留めたまま愛銃のストックで鎮圧対象の肩を小突き云った。

 

「大体、銃火器から弾薬まで、あんな量を盗もうとするとか、戦争でも起こす気?」

「ハッ! 戦争ならずっと起きているでしょ! D.U.の外に出て他所の自治区でも見てくれば良い……! そうすれば、少しは現実が見えて来る筈だよ!」

「―――」

 

 嘲るような、小馬鹿にする様な、そんな云い方だった。しかし、そこには確かな実感が籠っていた様に思う。フブキは生徒の背中に膝を立てたまま、訝し気な表情で問う。今の云い草、まるで現在の他自治区の惨状を目で見て来たと云わんばかりの口ぶりだったと。

 

「もしかして、他所の自治区から来たの?」

「は?」

「良いから、答えて」

 

 フブキの問い掛けに、彼女はガスマスクの奥で黙り込み、答えなかった。

 代わりに、フブキの指先が彼女の着込んでいた外套に触れる。薄汚れ、所々解れてはいるが、確かに見覚えがある。

 思い出したくもない、凄惨な記憶。顔を顰めながらフブキは指先で外套の端を弾き、呟く。

 

「この制服――確か【アリウス分校】だよね」

 

 そう、確かそんな名前の学園だったか。トリニティ総合学園の救護騎士団に世話になっていた間、その手の話も耳にした覚えがある。

 トリニティとゲヘナの調印式を襲撃し、その名は既に広く知れ渡っているだろう。尤も踏み込んだ詳しい事情まではフブキも把握していない、しかし先生の尽力と一部生徒の協力により、件の騒動は終息しその後アリウスの名を聞く事は稀になった。

 学園の名を耳にした生徒はピクリと肩を揺らし、そのまま地面に顔を擦りつけたまま息を零す。

 

「……そんな事、どうだって良いでしょ」

「どうでも良くないから聞いているんだよ、今のD.U.の状況は知っているでしょう? 誰かの手引きか協力が無ければ、内部に入り込むのは難しい、連邦生徒会にアリウス分校出身の行政官何て居ない筈だし、不思議で仕方ないんだよ」

「私はもう、どこの学園にも、自治区にも所属していない――したくない」

「……は?」

「もう、うんざりなの!」

 

 背中に圧し掛かったフブキを見上げながら、彼女は腹の底から声を絞り出す。薄らと曇ったガスマスク、罅割れたレンズの向こう側で、黄金色の瞳が煌めていた。

 

「意味も無く延々と戦い続けているゲヘナも、こんな状況でも派閥争いと内乱に精を出すトリニティも、内に閉じ籠って自律兵器を垂れ流すミレニアムも、自分の事しか考えず戦う連中、全部――ッ! 全てが虚無に呑まれようとしているのに、碌に動きもしない連邦生徒会! 何の役にも立たないヴァルキューレ(貴女達)……ッ! 全部、全部ッ!」

「………」

「――あの人(先生)だけが、私達にずっと希望を説いてくれたのに!」

 

 ――表の連中(陽に当たる生徒)は、誰もあの人を助けられなかったじゃないッ!

 

 血の滲む様な訴えに、思わず言葉が詰まった。

 自身に組み敷かれ、懸命に声を張り上げる生徒は真っ直ぐフブキを見上げて来る。其処には混じり気の無い、純真な想いだけが籠っていた。私利私欲の為に罪を犯したと吐露してくれた方が、フブキにとっては余程救いがあっただろう。

 レンズに涙を零し、必死に身を捩りながら拘束から逃れようとする彼女は、アスファルトに自身の肌を擦りつける事さえ厭わずに、叫び続ける。

 

「だから、今度は、私達が先生を助けるんだ……っ!」

「――もう良いよ、連れて行って」

「えっ、あ……はい」

 

 抑えつけたまま、フブキは直ぐ傍で待機していたヴァルキューレの生徒に指示を出す。彼女達はフブキの指示に従い、何とも云えぬ表情のままアリウスの生徒を引き起こし、その両腕を両脇から拘束する。蹈鞴を踏み、傷だらけの肌を晒しながら、引き摺られて行く彼女は尚も叫び続けた。

 

「もう、お前達にあの人を任せる事は出来ない! 私が、私達が先生を助けて見せる――ッ!」

「ほら、暴れるな!」

「私は、私達は諦めない、絶対に――ッ!」

 

 あの人に救われたのは、スクワッドだけじゃないんだ!

 

 最後の叫びは、護送車の分厚い扉に遮られ、殆どくぐもって聞こえた。フブキに一礼し、そのまま運転席に乗り込んでいくヴァルキューレの生徒達。彼女達に指先で礼を返しながら、フブキは走り去っていく車両の背中を見送った。どんどん小さくなっていく車体、その影さえも見えなくなった時、フブキは徐にその場へと屈み込む。

 

「はぁーッ」

 

 深く、深く息を吐いた。

 肺に詰まっていた空気を全て抜き出して、被った帽子越しに髪を掻く。まさか、こんな所でシャーレの名前をまた耳にする事になるなんて思わなかった。記憶はまた輪郭を取り戻し、彼女の胸を重くする。提げた愛銃のスリングを指先でなぞりながら、フブキは虚空に向かってひとり呟いた。

 

「……ホント、しんどいね」

 

 過去はどれだけの時間を経ても、決して消えてはくれないらしい。

 時間が癒してくれる等という言葉は――きっと嘘だったのだ。

 

 少なくとも、合歓垣フブキにとってはそうだった。

 

 ■

 

「戻りましたよ~っと」

「んぁ……?」

 

 フブキが事務所に戻った時、室内にはデスクに齧りついてペンを動かす一人の影だけがあった。他は全員出払っているのだろう、どこも人手不足となっている今は、こんな事も珍しくない。デスクの上に山の如く積まれた書類、その隙間から顔を上げた彼女は軽く手を挙げて口を開く。

 

「あぁ、フブキか、お疲れさん」

「……うげ、今日もまた凄い量じゃん」

「これでも朝から奮闘して半分以上片付けたんだよ、凄いっしょ?」

 

 視界に入る書類の山にフブキが顔を顰めれば、彼女――コノカはどこか吹っ切れたような笑顔を浮かべ云った。だらしなく開いた胸元に、特徴的なアロハシャツ、椅子に掛けた外套に引っ掛かった腕章は表面の光沢が濁り切っていた。

 普段肌身離さず身に着けている愛銃の散弾銃も、何となく色つやが無い気がする。

 

「思い出すなぁ、昔は姉御もこーんな量の書類と睨めっこしてさぁ、『デスクワークが多すぎて、銃を抜く暇がない』とか云って、あたしはそんな姉御を横目にこんな風になるもんか~! って思っていたけれど……」

 

 一枚、二枚と内容を確認しながら捺印を行うコノカ。その手際の良さは流石、いつか見ていた姉御の指捌きと重なる程。それを自覚しているからこそ、彼女は椅子に勢い良く凭れ掛かって苦笑を浮かべた。

 

「それがいざ、この椅子に座る事になった途端、本当に銃撃つ暇がなくなってんだよ! マジあり得ねぇ~!」

「あー……でも外を延々と走り回るよりはマシかも? 張り込みとかなら別だけれどさ、こっちの方が疲れないし、眠くはなるけど」

「は? 事務所ん中で書類と睨めっこするのが好きな奴とか、普通居ないっしょ?」

「犯人と何時間も追いかけっこするよりはマシ」

「おいおい、本気か?」

 

 走った方がまだ楽だろ、そんな風に宣うコノカに対しフブキは思わず閉口する。こればかりは性分だろう、全力で外を走り回るよりは、多少面倒でも書類仕事をしていた方がマシに感じてしまうのが自分だ。勿論、どれも程度にはよるのだろうけれど。

 コノカは聳え立つ書類の山を小突きながら、不満に塗れた表情で訴えた。

 

「あたしは現場仕事が性に合っているって云ってんの! だってのにこの仕打ち、おかしな話だと思わねぇのか?」

「いや、仕方ないでしょ、役職的に考えて」

 

 今更な発言に対し、フブキは面倒そうに肩を竦める。そうだ、本当に今更な話だった。

 

「今はコノカ局長が、公安局(此処)のトップなんだから」

「――あたしを局長と呼ぶんじゃねぇ」

 

 フブキの呼びかけに、コノカはそう云って、不機嫌そうに吐き捨てた。

 彼女からすれば、不承不承といった形でその席に座っただけに過ぎないのだろう。コノカの中では未だ自身は副局長で、本当の局長は別に存在するのだ。それを証明するように、彼女はペンをデスクの上に放り投げ背凭れを鳴らし、刺々しい気配を纏ったまま零す。

 

「……あたしにとって、局長はカンナの姉御一人だけだ」

「ま、気持ちは分かるけれどさ」

 

 呟き、フブキは自身のデスクに腰掛けた。コノカのデスク程ではないが、卓上にはそれなりに積み重なった書類の山が存在した。それらを上から一枚捲って、小さく吐息を零す。

 

 誰もが何かを失って、それでも前に進んでいる。

 変わったものは余りにも多い、立場も、感情も、信念も――何もかも。

 それでも、この世界で生きていく他に道は無いのだ

 残酷な程に、悲しい現実が目の前には横たわっていた。

 

「……んで、今日も外での成果は大量だったのか?」

「まぁね、ウチの管轄だけでも荒れ放題、どう考えても手が足りてないよ」

 

 コノカと同じようにペンを走らせながら、フブキは問い掛けに肩を落として見せる。尤も、人手が足りないのはヴァルキューレに限った話でもない。

 

「連邦生徒会長が消えた時もゴーストガン(出所不明・記録なし)が二千パーセント増加したって話だし、正直そのレベルで増え続けている感じっていうか……今でも対処が追いついているなんて、口が裂けても云えないけれど、このままだと本当に治安が崩壊するかもね」

「ったく、こっちの収容限界なんてとっくに超えているんだぞ? これ以上の対処とか、どう考えても無理っしょ」

「実際の所、連邦生徒会()の方で解決策とか、何か話し合っていたりしない訳?」

 

 フブキがペン先でデスクを叩きながら軽い調子で問いかければ、コノカは側頭部を指で掻き眉間に皺を寄せ、当時の会話を思い返す様に口を開く。

 

「あー……色々出てはいるらしいけれどよぉ、新規で増設する訳にはいかねぇし、既存施設の転用で、廃校になった場所とか施設を臨時刑務所として利用するだとか何だとか、云っていた様な、なかったような?」

 

 随分と曖昧な口調ではあったが、恐らく上の方でも事態は把握しているのだろう。何とか対策を取ろうと足掻いている様子だが、それでも順調とは云い難い様だった。

 となると軽犯罪の非収容か、保釈や在宅拘禁の拡大、刑期短縮や仮釈放の拡大などが視野に入って来るだろう。当然ながら、この一件を他の自治区に頼る訳にはいかない。

 現在連邦生徒会はD.U.に隣接する自治区との境界線を封鎖し、戦争の余波、敵対勢力の浸透、物流混乱、治安悪化を防ぐためにD.U.内外への出入りを大きく制限していた。統括室が安全保障上の非常事態を宣言し、先の内容が緊急布告された時は随分と驚いたものだ。

 

 それでもやはり、完全に他自治区からの影響を遮断する事は叶わない。そもそもからして連邦生徒会自体が各自治区や学園から選出された代表者によって構成された組織である。当然、連邦生徒会内部に於いても母校に対する感情的な忖度というのは存在する。都市へ通じるゲート、鉄道駅、空港、湾口など殆どのルートは閉鎖、及び検問が設けられているが、連邦生徒会によって認可された輸送機は通行可能である。

 そういった部分に手を回し、母校生徒をD.U.に避難、或いは手引きする事例は絶えない。

 

 勿論、内部への手引きが存在しない、武力による検問突破を試みるケースもあれば、秘密裏にD.U.へと侵入を試みる生徒も存在する。

 夜間に無灯火で海岸沿いに監視網が薄い水域を渡って来たり、貨物コンテナ、トラックの積み荷内部に隠れたり。人目につきにくい鉄道、輸送機に紛れ込んだり、はたまた検問を偽造書類で通過しようとしたり――兎角、連邦生徒会の指示の下、ヴァルキューレが行う業務は以前と比較し大幅に増加した。

 

 手元の紙面を睨みつけながら、不意にフブキは椅子に背を預け、ペンで額を小突いた。片付けても片付けても、日々の業務は積み重なる。日がな一日、呑気に街をパトロールして最適なサボりスポットを探していた頃が懐かしい。

 そんな風に思い、フブキは瞼を閉じた。

 

「……まぁ良いや、それより今日の夜、ちょっと抜けさせて貰うから」

「あん? もしかして、また見舞いか?」

「あー、そんな感じ」

 

 素っ気なく、フブキは返答した。既に何度も行ったやり取り、事情もコノカは良く知っている。

 彼女は一度フブキに視線を移すと、それから手元の紙面に顔を戻し、呟いた。

 

「……そっか、良くなると良いな」

 

 ――シャーレの先生も、お前の友達も。

 

 ■

 

「ふーっ、あ~……疲れたぁ」

 

 深夜――すっかり習慣となった見舞いも済ませ、手ぶらとなったフブキは総合病院傍の公園に車を止め、薄暗い公園の中、ぼうっと淡い光を放つ自動販売機にふらふらと近付いて行く。支払いの為の学生証をケースから取り出しながら、片手間に端末を指先で操作する。すると即座に表示される幾つもの通知、それを見て思わず顔を顰める。

 

「って、また応援要請来てるし」

 

 通知、全然鳴り止まないじゃん。

 どこもかしこも事件だらけかと、そんな風に愚痴をこぼし、げんなりとした表情のまま眩い視界に目を細める。暗がりを歩いて来ると、自販機程度の淡い光であっても随分明るく感じられた。

 深夜であっても勤勉に商売を怠らない自動販売機の品揃えを眺め、指先は迷うことなく下段の端にあるエナジードリンクを押し込む。

 ピッ、という電子音、一拍後缶が落ち、徐に取り出し口へと手を突っ込む。冷たいそれを掴みながら、フブキは溜息と共に自販機へ背中を預けた。

 

「あー、めっちゃ眠い……眠いけれど、今から車の中で仮眠したら絶対起きられないよねぇ」

 

 全身を襲う疲労感と眠気、きちんとベッドで睡眠をとったのはいつの事だったか。流石にそろそろ拙いよなぁと思いつつ、しかし今車で寝入ったら明日の昼まで爆睡する自信がある。そうなれば当然、今しがた端末に表示された応援要請にも間に合わない。

 

「今日も何とか、コレで朝まで頑張って、それから交代して……」

 

 呟き、プルタブに指を掛けた瞬間。

 フブキは何かに気付いた様に、その動きを止めた。

 

「――ぁ」

 

 声を漏らし、プルタブに掛かった指を見下ろす。

 手元に握られたエナジードリンク、そう云えば先生や局長が、いつも似たようなモノを飲んでいたっけ、と。

 紅茶に珈琲、どちらもカフェインは豊富だった。フブキも珈琲を好んで愛飲していたが、あれはドーナツのお供として趣向品の意味合いが強い。何故あんな風に紅茶やら珈琲を義務の如く口へと流し込んでいたのか、今なら分かる気がした。

 そうしなければ、疲労に負けて眠ってしまうからだ。

 

「ふふっ……」

 

 今は、その立場に自分が置かれている。

 自覚し、ふわりと笑いが漏れた。それは過去を懐かしむ様な、もう二度と手に入らない未来を惜しむ様な、そんな感情が漏れ出た結果。

 フブキは缶を握ったまま俯き、くしゃりと顔を歪める。

 

「――ほんと、嫌になっちゃうよね」

 

 両手で缶を握り締め、誰も居ない深夜の公園、自販機に寄り掛ったまま彼女は吐露する。声には、腹の底から湧き上がる複雑な感情が混じっていた。

 この世界は歪だ、ずっと前から思っていた事ではあるが、此処最近は更に強く感じてしまう。

 常日頃努力し、誰かの為にと奮闘し、身を削る、そんな善人ばかりが先に消えていく。

 だと云うのに悪人は減らず、誰かを平気で傷付ける者が残り、怠惰な自分もまた取り残されて。

 

 何故こうも世界は不平等で、残酷なのか――。

 

「……私がな~んにも頑張らなくてもさ、これまでの世界は上手く回っていたのに、突然何もかも変わっちゃって、ホント、意味わかんない」

 

 背から放たれる自販機の光に包まれながら、フブキはポツポツと星の見える夜空を仰ぐ。

 

 ――最近、ドーナッツも食べていないな。

 

 小さく囁くような声で云った、昔良く通っていたお気に入りの店。甘味らしい甘味を口にした記憶が此処最近存在しない。勤務中でも良く耳にしていたラジオさえ、今ではヴァルキューレの無線に切り替わった。

 尤も、ドーナッツを買いに店へ向かった所で自身が愛していた店舗は既に閉鎖されている。今のD.U.では仕方のない事ではあるけれど、何とも云えない虚無感と物悲しさがあった。

 

「ねぇ、先生」

 

 彼女は自販機に身を預けたまま、その場にズルズルと座り込む。自身の膝を抱えて、溢れ出そうになる感情を噛み殺す。奥歯を噛み締め、耐える、堪える。顔を膝に埋めて指先に伝わる缶の冷たさに現実を感じながら、彼女は空想した。

 

 もし、もしも。

 もっと私が、頑張っていたら。

 もっと私が、向上心を持っていたら。

 もっと私が、真面目だったら。

 もっと私が、強く在れたのなら。

 そうしたら、未来は――。

 この世界は。

 

「何かが変わったり、したのかな……?」

 

 閉じた瞼の裏、暗がりの中で彼女は呟く。

 最初から強くなる為に努力をして、キリノみたいに向上心を持っていて、ちゃんとした、真っ当な正義感とか、正義の心なんてものを持ち合わせたりしていたのなら。

 あんな風に怠惰で、不真面目で、弱い自分ではない――勤勉で、真面目で、毎日を積み重ねる事が出来る強い自分で在ったのなら。

 

「――そんな風に、生きていたら」

 

 ポロリと零れ落ちた本音が、涙と共に膝を濡らす。それは弱さだ、彼女にとって弱さの象徴だった。

 こんなイフに意味など無い、横たわった現実は決して変わらず、時間は不可逆であるが故に。

 けれど、どうしても考えてしまう。

 こんな風にひとり、暗がりで取り残された自分を自覚した途端、腹の奥底からふつふつと湧き上がって来るような罪悪感と後悔が、彼女の全身の血管を流れ全てを支配しようとしてくるのだ。

 自分が最初から真面目であったのなら、誰かの為に必死になれる、善良で、真っ当な正義感を持っていて、キリノと腹の底から競い合える様な良き友人であったのなら。

 

 世界を変えられるだなんて、そんな大それた事は考えていない。

 彼女は――合歓垣フブキは、ただ。

 

 善人として(どうか)皆と一緒に消えたかったのだ(私を置いて行かないで)

 

 ■

 

 もし、本当にそんな世界(可能性)があったとすれば――。

 それはとても残酷で。

 この世界に生きる(全部を失った場所に生きる)私にとっては。

 直視する事も出来ない程に、眩い世界(場所)なのだろう。

 

 ■

 

【第六サンクトゥム D.U.雲掛け通り】

 

 攻略作戦の序盤は、随分スムーズに済んだように思える。

 公安局と警備局の合同作戦、見えない部分で生活安全局も加わってはいるが、流石荒事に慣れた部署である、迫り来る自律兵器の群れを相手に一歩も引かず、第六サンクトゥム攻略部隊は当初目標としていた地点へと足を踏み入れた。

 

 D.U.雲掛け通り、比較的背の低い建物に囲まれたその場所で、カンナは徐に足を止め、周囲を見渡しながら声を掛ける。

 

「――良し、此処までで良い」

 

 カンナが軽く手を挙げながらそう告げれば、背後に続いていた公安局の面々が素早く足を止めた。その隊列に混じって駆けていたフブキとキリノもまた、号令に合わせて停止する。

 度重なる戦闘によって全員が大なり小なり消耗していたが、キリノにはまだ体力的に余裕があった。額に滲んだ汗を拭いながら、キリノは次の指示を待つように背筋を正す。反し、フブキは既に息が荒く、膝に手を突きながら大きく咳き込んだ。

 

 普段、自分から足を使って犯人を追い込んだり、街のパトロールをしたり、兎に角動き回るキリノと、何かと理由を付けて見つからない様にサボタージュを行って悠々自適にやり過ごしていたフブキの体力差が、実戦を経て浮き彫りになっていた。今にも倒れそうな青白い顔で、フブキは顔を上げ顎先を伝う汗を拭う。

 

「此処から先は、私が直接サンクトゥムに乗り込んで爆発物を設置する、設置作業が完了するまで、この場を死守するように」

「了解!」

「や、やっと終わる……!」

 

 カンナが持ち込んでいたボストンバッグを下ろし、中にある爆発物を確認しながら全員に指示を出せば、フブキは思わず安堵の滲んだ声を漏らした。彼女からすれば戦闘に次ぐ戦闘、ここまで付いていけたのが奇跡と思える程にハードな行軍であった。

 幸い、此処から先はカンナ局長が何とかしてくれるようなので、自分は物陰に隠れて適当に援護射撃でも加えていれば良い。そんな風に考えていたフブキの肩に、ぽんと誰かの掌が置かれた。

 視線を動かし、その掌の主を辿ってみれば――見上げた先に、カンナの顔があった。

 

「悪いが、お前達も爆破処理に同行してくれ」

「えっ……?」

 

 カンナの視線は、フブキとキリノに向けられていた。

 一瞬、何を云われたのか分からないといった様子で目を瞬かせるフブキと、指示を呑み込み、「分かりました!」と即座に快諾するキリノ。そこには自身に任せられた仕事に対する、強い責任感と気概が感じられる。フブキは隣り合うキリノを信じられない様な心地で見つめ、それから再びカンナに視線を向けた。

 

「ほ、本気で……?」

「あぁ、流石に設置中は無防備になる上、単独で設置作業は危険が伴う、何人かの護衛は傍に置いておきたい、お前達なら適任だ」

「―――」

 

 冷汗が流れた、何でそんなに自分を重要な戦力として数えようとするのか、本気で分からなかった。

 早速防衛線を構築する公安局と警備局の生徒達を尻目に、大きなボストンバッグを担いだカンナが、「良し、急ぎ出立するぞ」とサンクトゥム目掛けて碌な休息も挟まず駆け出す。「はいっ」、と元気よく返答したキリノも後に続き、フブキは暫し呆然とした後、重い愛銃を担ぎ直し、半泣きで地面を蹴飛ばした。

 もう殆ど自棄だった。

 

「カンナ局長、他の攻略部隊は大丈夫でしょうか……?」

「一応、少し前にコントロールから作戦進行に大きな遅れは生じていないと報告があった、今はその言葉を信じるしかない、後はこの第六サンクトゥムを確実に破壊する――兎に角、今は目の前の任務に集中しろ」

「りょ、了解!」

 

 駆けながら言葉を交わす両名、普段はデスクワークが殆どだと云うのに、キリノ以上に平然と走り続けるカンナ局長の体力は何処か来ているのだろうか。泥の様な疲労感に包まれたフブキは碌に働かなくなった思考で考える。

 きっと、元々の身体の作りからして違うのだろう。最早別の生き物か何かだ。普段は特に何とも思っていなかった愛銃が、今だけはずっしりと重く感じられた。

 

 こんな事ならば自分も、キリノと同じ第三号ヴァルキューレ制式拳銃を持ち込めば良かったと思い直すも、全ては後の祭り。第十四号ヴァルキューレ制式ライフルを両腕で抱きかかえながら、フブキは覚束ない足取りで必死に二人の後を追い続けた。

 

「――フブキ?」

「……ふあっ?」

 

 急に名前を呼ばれ、間抜けな声が漏れた。

 荒い息をそのままに顔を上げれば、足を緩めたキリノとカンナの存在に気付く。もうサンクトゥムのクレーターが目と鼻の先だ、百メートルも進めばクレーター内部に入り込めるだろう。捲り上がった地面に聳え立つ巨大な塔――此方へと伸びる長く濃い影の中、前方を見つめる両者に追いついたフブキは、息も絶え絶えになりながら問いかける。

 

「え、いや、何突然、どうしたのさ……?」

「あっ、その、前方に人影があって――」

「はぁ?」

 

 一体こんな時に何を云っているのか。

 フブキは本気でそう思った。

 キリノが指差す方向、捲り上がったクレーターの縁に顔を向け、目を細める。よくよく目をこらせば確かに、どうやら誰かがサンクトゥムの傍に立っていた。

 こんな状況で一体何を考えているのか、恐らく怖いもの見たさに後先考えない間抜けな生徒か、本当に偶然迷い込んでしまった市民か、自律兵器に追われて此処まで逃げ込んでしまったのか――兎角事情は分からないが、こんな時に随分と間の悪い。

 

 人影の方も、駆けて来た一向に気付いたのか――クレーターの縁から飛び降り、盛り上がった砂利と残骸の上を滑り落ちて来る。

 カンナはそれとなく愛銃の安全装置に指先を掛け、視線を尖らせる。キリノは掌で目元に影を作り、近付いて来る何者かを必死に凝視していた。

 

「その、気のせいかもしれませんが、何だかあの人、フブキに似ている様な気がして――」

「いやいや、そんな訳ないでしょ」

 

 どうやら、先程自身の名を呼んだのは、向こうの人影が自身に似ている様に思えたからだとか。そんな筈がある訳ないだろうと、フブキは鼻で笑って否定を口にする。

 コツコツと、靴音が響いていた。

 前方から歩み寄る何者か、巨大なサンクトゥムの影に覆われた中で、その人物の顔立ちは伺えない。フブキの双眸が、歩み寄る人物を胡乱な色と共に捉えた。

 

「大体、私はあんなに背は高くないし、髪型も違うじゃん? 他人の空似って奴でしょ」

「――……ふ、フブキ」

「いや、だから、絶対違うって――……」

 

 尚も自身の名を口ずさむキリノに、フブキは思わず悪態を吐こうとして、言葉を呑む。見上げたキリノはまるで信じられない様なものを目にしたと云わんばかりに、硬直していたのだ。そんな様子に思わず面食らい、フブキは横合いへと視線を飛ばす。其処には同様に、目を見開き驚愕を露にするカンナの姿。

 一体何だと云うのか、そんなに自分に似ている市民でもいたのか。世の中には三人、自分と全く同じ外見をした人物が存在するというが――そんな都市伝説染みた思考を過らせながら、フブキは改めて歩み寄る人影に目を向ける。

 

「――第十四号、ヴァルキューレ制式ライフル?」

 

 その視線が、彼女の肩に提げた銃火器に向けられた。

 ピンク色のスリングに、特徴的なカスタマイズ、加えて星形のキーホルダー。

 フブキの思考が一瞬止まり、言葉が詰まった。それは、合歓垣フブキが自身の愛銃に施したカスタマイズと装飾、そのものだったからだ。

 

「……はぁ」

 

 歩み寄る影が口を開いた。

 被っていた帽子のつばを指先で摘まみ、そのまま深く被り直す。その頬や首元には、幾つかの古傷が刻まれていた。

 

「てっきり局長辺りが来ると思っていたけれど……まさか、その顔を見る事になるなんて、ほんとサイアク」

 

 ――出来の悪い、くすんだ鏡を見ている気分。

 

 吐き捨てた声は、余りにも低く、重く、粘ついていた。

 風に靡く紺色の制服、身に着けたヴァルキューレの腕章と胸元のバッジが光沢を放っている。伸びた髪を結ぶ事なく、そのまま背後に流した彼女は首元のネクタイを緩め、口元を大きく歪ませる。

 

「何より酷いのは、そんな間抜け面を晒している自分を、私が羨んでいるって事だよね、救えないっていうか、馬鹿馬鹿しいっていうか、今更そんな事思ったって、どうにもならないっていうのに、その辺りはどんな経験を積んでも変わらないのかも」

「……ちょっと」

「でもさ、仕方なくない? 常日頃頑張らない、頑張れない、効率的に、楽に行こうって、そんな事ばかり考えている様な、緩み切った顔なんだもん――それが積み重なって、どれだけ最悪な目に遭うかも知らない癖に」

「ちょーっと、待ってよ、お願いだから!」

 

 咄嗟に、フブキは掌を突きつけ叫んだ。先程まで駆けていた疲労から流れる汗、それとは別種の、いまだかつて味わった事の無い類の冷汗が背中を伝っていた。

 バクバクと心臓が打ち鳴らされている。下から伺う様にその人物を見上げれば、紅緋色に煌めく瞳が此方を見下ろしていた。

 

「良く、分からないんだけれど……もしかして、さぁ」

 

 恐る恐る、痺れそうになる舌先を動かしてフブキは言葉を紡ぐ。突き出した指先を順に折り畳み、中途半端に握り締めたまま、目前に立つ彼女に対し問いかける。

 

「……ほ、本当に、私なワケ?」

 

 戦々恐々、投げかけた問い掛け。

 返答は、無かった。

 変わりに隣から、安全装置を弾く硬質的な音だけが響いた。

 

「構えろ、二人共」

 

 カンナは静かにグリップを握り込み、愛銃の銃口を目前の人影――推定、偽物の合歓垣フブキへと突きつけた。予感があった、それはカンナの持つ本能、直感と云い換えても良い。それが静かに、けれど確実に警鐘を鳴らしていたのだ。

 じっとりと指先に滲み出る怖気、目前の彼女は銃口を突きつけられて尚、悠然とした態度を崩さず、寧ろカンナの顔を一瞥すると柔らかな笑みさえ浮かべて見せた。

 

「……久しぶり、カンナ元局長」

「――元?」

 

 ぴくりと、カンナの眉が跳ねる。その事に気付いた、フブキに酷似した何者かは口元を黒いグローブで覆い、謝罪の言葉を述べる。

 

「あぁ、ごめんごめん……こっちだと、まだ現役だったっけ」

 

 こっちだと。

 それは、実に奇妙な表現だと思った。

 まるで、異なる呼び名があるような。或いは、それを実際に目にしてきたような。

 

「―――」

 

 ふと、カンナの脳裏に過る予測があった。

 公安局として長年責務を果たし続けて来た彼女の第六感、僅かな言動や仕草、証拠から点と点を繋ぎ合わせ線にする。これまで幾つもの事件を解決に導いて来た、経験と天性のセンスが組み合わさった推測。

 あり得ない事だと思った、しかしそれを云えば、空からあんな巨大な塔(サンクトゥム)が降って来る事自体があり得ない事だろう。今のキヴォトスに於いて、『あり得ない』と断言出来る事がどれだけ存在するのか。

 

 カンナの視線が険しさを帯びる、合歓垣フブキに酷似した存在。しかし、瓜二つというには僅かに背が高く、顔立ちも何処か此方のフブキと比較し甘さが抜けきっている様に思う。所々に見える身体の古傷など、正に歴戦のソレ。

 二色の髪は二つに結ぶ事無く、そのまま後ろに流しており、佇まいから風格まで最早別人の領域。上に着込んだヴァルキューレ警察学校の制服、腕章、バッジ、加えて肩に提げた装備は正式ライフル。

 ヴァルキューレに潜入工作でもするのであれば理解出来るが、現状そんな素振りもなければ意味もない。何より、『合歓垣フブキ』に成り代わって潜入するにしても――局長でもない一般生徒の学籍から得られる事など高々知れていた。 

 

「お前は――」

「うん、多分カンナ局長の考えている通りかな」

 

 カンナが自ら導き出した結論を口にするよりも早く、目の前のフブキは言葉を被せ告げた。彼女は開いた上着の裾を引っ張り、胸元に掲げられたバッジと巻き付けた腕章を突き出す。嘗て身に着けていた白の制服は消え、今や彼女を示す色はグレー。

 その色は、ヴァルキューレに於いて所属を示す。

 

「ヴァルキューレ警察学校所属、公安局副局長、合歓垣フブキ――云っちゃえば、未来の自分って奴」

「こ、公安局ぅ!?」

 

 堪え切れず、悲鳴染みた声が漏れた。

 全身を震わせ、蹈鞴を踏んだフブキは唖然とした表情のまま目前の自分自身を凝視する。その腕章、バッジ、確かに偽物には見えなかった。顔も自分と酷似していて、些細な小物に至るまで自身の私物が使用されている。嘘だと一蹴するには、纏う気配が余りにもリアリティに溢れていた。

 しかし、しかしである。

 よもやこの自分が、未来の合歓垣フブキが、その様な場所に身を置いているなど想像も出来なかった。わなわなと震えたまま、フブキは自分自身を指差し問いかける。

 

「う、嘘でしょ、私が……こ、公安?」

「ふ、フブキが、未来のフブキが、警備局さえ飛び越えて、公安局の、それも副局長に――?」

「い、いやいや、いやいやいやッ!」

 

 茫然自失といった様子でキリノの口から漏れ出る声、それに対し全力で首を横に振った。衝撃で棒立ちのキリノの腕を掴み、強く揺さぶりながら、フブキは目前の彼女を指差し懸命に訴える。

 未来の自分等と云う、最早意味不明な存在もそうであるが、それ以上に自分の事が信じられない。

 だって彼女は、自分は――合歓垣フブキ(怠惰な存在)なのだ。

 

「おかしいって、やっぱり私じゃないでしょあんなの!? キャラじゃないからっ絶対、公安局に入るとか、あり得ない!」

「………」

「絶対違う、同姓同名の別人! だって私がそんなっ、目に見えて大変な部署に移動する訳ない――ッ」

「ははッ」

 

 不意に、笑い声が漏れた。

 それは他ならぬ、合歓垣フブキ(目の前の自分)が漏らした声だった。

 口の端を歪め、被った帽子を揺らしながら腹を抱えて笑う彼女は、目に涙さえ浮かべこの世界の合歓垣フブキを指差す。そこには隠しきれない、嘲笑の色が透けて見えた。

 

「あはっ、あははははッ! ほんと、そのままなんだねぇ!?」

「っ、ぇ!?」

「実際に目で見て、話して、すっごく実感出来たよ! 今の云い方とか、思考回路とか、やっぱり昔の私そのもの!」

「な、何、突然……?」

 

 まるで心底愉快だと云わんばかりに、或いは自身の内側から湧き上がる感情を覆い隠す様に。不自然な程に唐突に、場違いな笑みを浮かべた彼女は、目尻に滲んだ涙を指先で払いながら言葉を続ける。その唐突な変わり身に、或いは不気味さに、フブキは口元を引き攣らせた。

 

「ねぇ、ちょっとした疑問なんだけれどさぁ、聞いても良い?」

「ぎ、疑問?」

「そう、楽をする事、怠惰で居る事、それを望んでいたのは確かに私自身……でもさ、そう在る事を誰よりも望んでいた私が、【変わらなくちゃいけない出来事】が起きたって、そう考える事は出来ない訳?」

「か、変わらなくちゃいけない出来事って、何それ、どういう……」

「いや、想像出来ないか、出来ないだろうね、そんな事、考えたくもないもん――私には分かるよ、すっごく」

 

 だって、昔の私もそうだったもん。

 

 呟き、此方を見下す瞳は余りにも冷ややかで、無機質で。それを直視していたフブキ(この世界の自分)は、心底凍えてしまいそうな寒さに、ぶるりと肩を震わせた。その怯えた目を見て、気圧された己を前にして、異なる世界の合歓垣フブキは掌で顔全体を覆ってしまう。

 

「あー……やっぱり駄目だ、コレ」

「えっ?」

「私さぁ」

 

 ――これでも、結構頑張ったんだよ?

 

 顔を覆ったまま、空を仰ぐ様に身を仰け反らせた彼女は呟いた。両手を黒いグローブで覆った彼女は、指先の隙間からこの世界のフブキを見つめ、淡々と、まるで語りかける様に舌を回す。そこには、並々ならぬ感情が込められている様に感じられた。

 

「元々そんなに努力するのなんて得意じゃないし、知っているでしょ? ヴァルキューレに入ったのも、のんびり公務員生活を送れたら良いなぁって、そんな理由だったじゃん? ねぇ、入学する前に考えていた事、まだ憶えている?」

「そ、それは、そう……だったけれど」

「だって云うのにさ、突然シャーレが無くなって、途端D.U.は滅茶苦茶、っていうかD.U.どころか自治区同士で争い始めるし、治安もクソも無い生活、そんな中でも『負けるもんか』って文字通り歯を食い縛って、ヴァルキューレとしての責務を果たすのは結構大変だったんだ」

「シャーレが、無くなった――?」

 

 さり気ない発言だった。然もすれば聞き逃してしまいそうになる程に、何て事のない様な語り口で。口元をグローブで覆ったまま、細めた瞳で此方を見つめる彼女に対し、カンナは訝し気な表情を浮かべたまま大きく一歩を踏み込み問うた。

 

「シャーレが無くなったとは、それは一体どういう事だ? 未来でシャーレは解体されたとでも云うつもりか?」

「どうもこうも、私の目の前で吹き飛んだんだよ、爆発で」

「……は?」

「少なくとも、私の知っている世界(未来)では、ね」

 

 シャーレも、先生も、両方。

 黒い指先を二本立て、彼女は口を一文字に結んだまま告げる。

 思い返せば本当に一瞬の出来事で、フブキは額を指先で擦りながら努めて無表情で当時の記憶を掘り返した。

 

「思い出したくないって云うか、正直私もその時の記憶はあやふやだったんだけれど、キリノと先生と、三人でオフィスに居る時にさ、本当に突然爆発が起きて……気付いた時には下層から上層まで、一気に吹き抜けになっていたんだよね、血まみれになるし、痛いし、怠いし、自分に圧し掛かった瓦礫を退かして這い出すので精一杯だった」

 

 呟き、彼女は黒いグローブに包まれた自身の指先を赤空に翳し、目元に影を作る。以前の彼女ならば着用していなかった手袋、その指先を緩く握り締めながら吐息を零す。

 

「最初は呆然としていたんだけれど、少し経って先生が居ない事に気付いて、名前を呼びながら瓦礫の下に埋まった先生を掘り出そうとして……両手の爪殆ど剥がれちゃってさぁ、大変だったよ――それから必死に襲って来るオートマタからキリノと二人で先生を連れて逃げ出したんだっけ? 無我夢中で詳しい事は憶えていないや、まぁそれでも結局途中で意識を失ったみたいでさ、次気付いたらベッドの上だったんだけれど」

「そ、そんな……」

 

 キリノが、顔面蒼白になりながら呟きを漏らす。自分とフブキが異なる世界で、その様な経験を。自分がその立場に置かれたら、どれ程取り乱し、適切な行動がとれるだろうか。そんな思いと共に直ぐ横へ視線を向ければ、同じように目を伏せ、血の気の失せた表情で立ち竦むフブキの姿があった。

 彼女は両手の指先を震わせながら、緩く拳を握っていた。

 

「だからさぁ、突然大切な人が二人もいなくなっちゃって、一人残されちゃった私は、私なりに頑張らないとって、相応に腹を据えて、覚悟を決めて頑張った訳だよ――ねぇ、分かるでしょ?」

「ぅ……」

 

 背を丸め、此方を覗き込む様にして投げかけられる声。それに対し、じっとりとした汗が掌に滲む。

 問い詰めるような、まるで尋問をされている様な心地だった。

 自分ではない自分、犯していない筈の罪――罪悪感。

 しかし、自身と似た顔から放たれる言葉には妙な実感と重さが伴っていて、まるで自分自身がその道を歩んで来たのではないかと実感しそうになる、そんな質感があった。

 確かにそうかもしれない、自分ならばそうするだろう。感情を全て理解出来るとは云えない、だが確かな経験と実体験から語れるそれが、彼女の境遇と自身のそれを重ね合わせる。

 

「さて、此処で問題です」

 

 パンと、不意に彼女が掌を叩いた。音に反応したフブキが顔を上げ、未来の自分だという彼女の瞳と視線がかち合う。

 佇まいは余りにも泰然自若、敵意も憎悪も感じられない。

 口元には笑みさえ湛えていた。

 だと云うのに――。

 

「そんな経験を積んで来た私が、この世界ではない場所から来た合歓垣フブキが、常日頃頑張らない、頑張れない、効率的に、楽に行こうって、そんな事ばかり考えている様な、緩み切った顔を晒して、積み重なった怠惰がどれだけ最悪な未来を招くかも知らない――平和ボケした過去の自分を見たら、どんな感情を抱くでしょう?」

 

 そこから覗く瞳だけは真剣で。

 淡白で、冷淡で、機械的な。

 あらゆる感情を遮断し、それでも溢れ出す、奥に蠢く激情の波が垣間見えた気がした。

 

「あぁ、なに、もしかして分からない?」

「っ、ぅ――……」

 

 浮かべた笑みは刻一刻と深くなる。

 まるで悪魔の如く、歪んだ口元は最早怖気すら覚える程。表面は柔らかく、優し気でさえあると云うのに。

 秘めた感情は、余りにも深く、昏く、粘着質であった。

 

「そんなに難しく考える必要は無いし、結構単純だよ? 正解はね……」

 

 一歩、彼女が何気ない動作で踏み出す。反対にフブキはその気配に気圧され、一歩退いた。

 その一歩の後退を見た瞬間、彼女の纏う気配が一変し、おどろおどろしい声が響いた。

 

「――ぶっ殺してやる」

 

 一瞬で切り替わる、表情。

 笑みは掻き消え、代わりに能面の如く貼り付けられる無表情。

 まるで温度を感じさせない、平坦で冷酷な殺害宣告。真っ直ぐ過ぎる感情、余りにもストレートな物云いだと思った。

 それに対し何らかの感情を抱くよりも早く、異なる世界の合歓垣フブキは足元のアスファルトを踏み砕き、肉薄。

 腰に装着していた愛用の警棒を素早く抜き放ち、この世界のフブキ、その顔面目掛けて全力で振り下ろした。

 

「えっ」

 

 フブキは、その攻撃に反応する事さえ出来ない。ただ愕然とした表情で、振り下ろされる警棒を見ている事しか出来なかった。

 

「フブキ――ッ!?」

 

 隣り合ったキリノが反射的にフブキの名を呼び、身を沈め手を伸ばした――しかし、一拍遅かった。キリノの腕がフブキを突き飛ばすより早く、警棒は彼女の目と鼻の先に迫り。

 

「つぅ――ッ!」

 

 目前で、火花が散った。

 見れば振り下ろされた警棒は虚空へと跳ね上がっており、横合いから誰かの靴先が視界に映った。見れば全力で警棒を迎撃したのだろう、蹴撃を放った姿勢のまま冷汗を滲ませるカンナの姿があった。

 

「きょ、局長ぉ――あ痛ッ!?」

「か、カンナ局長ッ!」

 

 一拍遅れて突き飛ばされ、地面に縺れ倒れ込むキリノとフブキ。二人は感謝と敬意を込めて彼女の名を叫ぶ。振り下ろされた警棒が跳ね上げられ、僅かな驚愕と共にカンナを一瞥した異なる世界のフブキは、目を見開いたまま即座に反転、その場で再び警棒を振り抜いた。

 

 風切り音と共に放たれる打撃、合歓垣フブキが繰り出すには余りにも機敏で、実戦的、無駄のない動きだった。カンナは飛来する横薙ぎの警棒を視線で追い、回避は困難、腕で受けるには重すぎる一撃と判断。

 即座に愛銃の安全装置をロック、愛銃を上下逆さまに持ち替え、まるで盾の様に自身へと振り抜かれる警棒目掛けて突き出した。

 瞬間、二人の身体に衝撃が走り、硬質的な音が響く。

 警棒は突き出したカンナの愛銃、グリップのバックストラップに引っ掛かり、受け止められていた。

 

「ぅぐッ……!」

 

 カンナの口から、呻き声が漏れる。防御の為咄嗟に構えた拳銃、それと擦り合いながらカタカタと音を鳴らす警棒。今尚押し込まんと力を籠める目前のフブキは、顔を顰めながら何とか拮抗を演じるカンナを凝視する。互いの視線が至近距離で交差し、瞳の奥底に覗く色までがハッキリと分かった。

 その奥に燻っている、鈍色の炎までもが、明確に。

 だがカンナは怯むことなく、犬歯を剥き出しにして警告する。

 

「合歓垣フブキ、この攻撃は我々ヴァルキューレ――いや、キヴォトス全体に対する敵対行動と判断するぞッ!?」

「当然でしょ、本気で殴り殺すつもりで踏み込んだんだからさぁ……ッ!」

 

 警告に対しても、彼女は何ら躊躇する気配を見せなかった。ただ掴んだ警棒をより一層強く握り締め、カンナに向けて悪辣な笑みを浮かべる。

 口元から滲む感情は、憎悪と自虐、そして羨望。噛み締めた奥歯が軋みを上げ、剥き出しの白い犬歯が影の中で浮かび上がった。

 

「カンナ局長だって、知っている筈だよね!?」

「何をだ!?」

「日頃の行い、日々の積み重ね、その大切さだよ――ッ!」

 

 一歩、大きく踏み込んだフブキが勢いに任せ叫んだ。代わりに一歩退いたカンナは、視界に広がる紅緋色の瞳に飲み込まれそうになる。狂気的な目だと思った、自分では理解出来ない程の強大過ぎる感情を抱いた者の目だ。所属柄様々な犯罪者を見て来たが、彼女の瞳は一歩間違えばそちら側に傾倒してしまう様な危うさを秘めている。

 いや、或いはもう既に。

 

「自分の苦労が、努力が、誰かの為になるのなら、ほんの些細な平穏を守る一助になれるのなら――そんな風に想って毎日を積み重ねる事の難しさと、貴さ……! 決して不正を許さず、正しく在ろうとする、常に清廉潔白である事の苦しささえも、局長なら理解出来るでしょ!?」

「ッ……!」

 

 爛々と煌めく瞳、そこに燻る炎は一秒毎に巨大に膨れ上がっていく。その感情の出所は何だ、カンナには分からない。分からないが、それが合歓垣フブキという存在をこれ程までに鍛え上げ、変貌させてしまった根源である事は理解した。

 拳銃を押し込まんと押し出される警棒に、カンナは身体全体を使って抵抗しようと足掻く。足裏がアスファルトを擦り、意志に反して膝が震えた。また一歩、二歩と押し込まれる。アスファルトの上に巻かれた砂利が、滑る度に音を立てた。

 

「どうか、その努力と苦労に見合うだけの未来がありますようにって、幸福がありますようにって、そう願う事は、祈る事は、そんなにおかしい事かなぁ!?」

「おかしい事などでは、決してないッ! それは真っ当な主義主張であり、願いだッ!」

「なら、なんで私の世界はあんな風になったのさッ!?」

 

 一際強く、声は鼓膜を叩いた。グン、と押し込まれた力がカンナの膝を更に曲げ、まるで巨大な岩石をひとりで抑え込んでいる様な錯覚を覚えた。最早互いの鼻先が触れ合いそうな距離で、合歓垣フブキ(異なる世界の彼女)は懸命に訴える。

 

「――先生(あの人)が、一番頑張っていたじゃんッ!?」

「っ……!」

 

 笑っているのか、泣いているのか。

 最早、分からない程に混ぜ返った表情。口元は弧を描き、犬歯を剥き出しにして笑っているのに、その目元から流れ落ちる涙は悲哀の感情を伝えている。ポロポロと絶え間なく落ちる雫が顎先を伝い、彼女の手元を濡らしていく。

 

「皆の為にって、子どもが平穏に暮らせるようにってッ! 毎日遅くまで仕事をして、隈まで拵えて、生徒の為ならどんな場所にだって駆け付けて……ッ! 朝でも、昼でも、夜でも、どんなに辛くても弱音だって吐かずに、私達より何倍も、何十倍も体が弱い癖にッ! 血だらけになって皆を庇って、守って、導いて――ッ!」

「それは――……ッ」

「だって云うのに、あの人は居なくなったッ! 私が、私が弱かったせいでッ! 善人だったのにッ! 精一杯、他人の為に頑張っていたのにっ!」

 

 強い感情、衝動、湧き上がるそれは反駁の余地を与えず、カンナの肉体と精神を押し込んでいく。地面に這い蹲ったまま、ただ彼女を見上げるフブキとキリノは掛ける言葉が見つからず、中途半端に口を開いたまま、吐息を零した。

 

 彼女は、合歓垣フブキだった。

 怠惰で、不器用で、ただ平穏な毎日を望んでいただけの。

 ただの普通の生徒だった。

 

「その上、あんなに努力していたキリノまで居なくなって! 結局一番怠惰で、一番消えるべきだったこの私(合歓垣フブキ)が取り残されたっ!」

「フブキ、お前は自分を――ッ!?」

 

 カンナが歯を噛み締め、苦悶の声を漏らした。くしゃりと歪んだ表情から溢れ出る感情、痛切な願い。破顔し、大きな弧を描いた口元、頬を伝う涙と共に、彼女はあらん限りの声を世界に響かせた。

 

「どう考えたって、おかしいでしょ、こんな世界(結末)――ッ!?」

 

 善人()が消えて。

 悪人(怠惰)が残る。

 そんな世界は、絶対に間違っている。

 

「私は、私自身が許せない(憎い)ッ!」

「ぐぅッ!?」

「局長――ッ!?」

 

 両腕で警棒を握り締めたフブキが、全力で腕を薙いだ。一気に圧力が増大し、堪え切れず、カンナは後方へと吹き飛ばされ、そのままガードレールへと背中から衝突する。

 苦悶の声が漏れ、けたたましい音と共にべっこりと凹んだガードレール。弾け飛んだ留め具が周囲に散乱し、凹んだガードレールに凭れ掛かりながら、カンナは何度も咳き込んだ。

 靴音が響き、座り込んだフブキとキリノに影が伸びる。

 

「弱い自分が、何も出来ない自分が、たった一人残された自分が……ッ!」

「ふ、フブキ……! 立って、立って下さいッ!」

「き、キリノ……」

「私はただ、消える事が出来るのなら、それだけで良かった――でも今は違う、合歓垣フブキ、貴女の顔を見た瞬間から、この感情が抑えられないッ!」

 

 己の怠惰が、弱さが、先生(あの人)を、友人(キリノ)を殺した。

 それこそが、この私(合歓垣フブキ)罪悪(悪因)

 

 善因には善果を。

 悪因には悪果を。

 善人に報い(幸福)を。

 悪人に報い(災いを)を。

 

 ――そして罪には、相応しき罰を。

 

「私は、この間違った結末(過去の自分)を否定する……!」

「フブキッ!」

「うぁ――」

 

 コツン、と。

 一際強く鳴り響く靴音、歩み寄った異なる世界のフブキは、涙を流したまま、しかし悍ましい形相でこの世界の自分自身を見下ろす。伸びた影がフブキとキリノを覆い隠し、その身体を暗がりに落とす。

 キリノは座り込み、呆然と異なる世界の自分を見上げるフブキを必死に抱き起こそうとした。しかし、当の本人は微塵も動く事が出来ず、まるで地面に縫い付けられてしまったかのように這い蹲り、震えていた。

 

 銃を取って戦うべきだ、でなければ即座に立ち上がり逃げるべきだ。

 頭では分かっているのに、本能はそう判断しているのに、感情がそれを許さない。腹の底から湧き上がる巨大な鎖が自分自身を絡め取り、全身を締め付けている様な心地だった。自分を睥睨する彼女の真っ直ぐな視線から、逃れる事が出来なかったのだ。

 痛い、怠い、苦しい、辛い、寒い、虚しい、寂しい――耐えがたい苦痛が、虚脱感が、孤独感が、絶望が、その瞳の奥底から伝わって来る。自身の感じるこれは、目の前の自分自身(彼女)が感じた何分の一だろうか、何十分の一だろうか、或いは何百分の一だろうか。

 

 少なくとも、この世界の自分よりもずっと、ずっと苦しみ藻掻き、のたうつ様な痛みに耐えていたのが目の前の彼女だった。

 

「合歓垣フブキ、貴女は――」

 

 ゆっくりと、無造作に突き出される銃口。自分の愛銃、第十四号ヴァルキューレ制式ライフル。

 しかし自身の持つソレと比較し、所々塗装が剥げ、小さな傷が散見される。しかし整備だけは十全に済ませているようで、正に彼女の辿って来た道を証明するかのように、使い込まれた跡があった。

 ほんの一メートルも無い距離、引き金を絞れば絶対に当たる。額に突き出された銃口は微塵も揺らがず、ブレない。

 赤空に照らされた世界の中で、爛々と煌めく紅緋色の瞳は、ただ冷酷な意思と絶対的な覚悟を持って合歓垣フブキ(この世界の自分自身)を見つめていた。

 

「此処で、消えるべきなんだ」

 


 

【合歓垣フブキの世界】

 

 エデン条約、パヴァーヌまでは何とか切り抜けるも、カイザーコーポレーションの動きを察知出来なかった場合のバッドエンドルート。シャーレ爆破と連邦生徒会(サンクトゥムタワー)制圧の同時進行作戦にて、先生の命運が尽きた未来。

 

 シャーレ爆破を辛うじてA.R.O.N.Aバリアでやり過ごすが、先生は衝撃で昏倒、シャーレ崩落に巻き込まれる。防壁によって辛うじて命を繋ぎ、瓦礫の隙間に埋まっている所を、その時間帯偶然オフィスに居合わせたキリノとフブキの尽力で救出、そのまま両名は火事場の馬鹿力でシャーレを包囲していたカイザーPMを死に物狂いで突破し包囲網脱出に成功する。

 しかし、最初のシャーレ爆破の余波、及び度重なる戦闘により逃走間もなくキリノとフブキ両名が限界に達し、D.U.の路地裏で人知れず失神、昏倒。

 

 入れ替わる形で先生が目覚め、薄暗く狭い路地に身を寄せ、自身の隣で意識を失っているキリノとフブキに気付く。血だらけの両名に驚き、狼狽するが、A.R.O.N.Aの助言により凡その状況を把握した先生は傷だらけの身体に鞭打ち二人を担ぎ上げ、碌な協力者の存在も無く単身D.U.脱出を図る事となる。

 

 尚、本編とは異なりRABBIT小隊への連絡は付かず、戦力は文字通りのゼロ。

 アロナなら出来ても、A.R.O.N.Aでは出来ない事も存在する。

 人間の身で瀕死の生徒二人を担ぎ、D.U.脱出という到底不可能な所業に挑む事になるが、先生は自分の両腕に抱えた生徒を何としても守るべく、死力を尽くして生存の道を模索。結果先生は自身の持ち得る手札と命運を全て使い切り、キリノとフブキをD.U.から脱出させる事に成功する。

 

 しかし度重なるカイザーPMCからの追撃、大人のカード行使により、全身に複数の致命傷、及び代償による崩壊現象を抱え、殆ど死に体の状態でキリノとフブキを守り続け、D.U.外郭に隣接する廃墟区画で遂に力尽きる。

 そこに駆け付けたアリウス・スクワッドに保護され、先生の状態から自分達では最早手の施しようがないと判断、個人的な伝手であるアズサから補習授業部、救護騎士団に話が通り、先生、キリノ、フブキの三名はトリニティ自治区にて保護される流れとなる。

 先生はプレナパテスと同じ状況で目覚めず、キリノもまた眠り続け、フブキひとりだけが奇跡的に回復を果たした未来が、もう一人の合歓垣フブキの世界となる。

 

 結果的にD.U.でのカイザーの目論見は各自治区による合同報復作戦によって儚くも瓦解するが、先生の不在と連邦生徒会の権威失墜は、この後キヴォトス全域に暗い影を落とす事となった。 

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