多忙な時期を抜けたので、もう少ししたら投稿ペースを元に戻せそうですの!
【■■■■■■の記憶】
「――い、アスナ、おいっ!」
「ッ……」
肩を勢い良く叩かれ、急激に意識が引き戻された。
まるで深海の底に沈んでいたかのように、音は無く、温度は無く、痛みもなく、あらゆる感覚が遮断されていた灰色の世界に、急激に色が戻る。
それは、夢から覚めた瞬間に似る。
突然の事に目を瞬かせながら顔を上げれば、此方を覗き込む
「あ、リーダー……?」
「ったく、大丈夫か、お前?」
「だっ、大丈夫、時々ある事だし!」
周囲を見渡し、それから慌てて何度も頷きを返した。
場所はエリドゥ内部の作戦会議室、中央のモニターには今日の都市部巡廻ルートが投影されており、つい先程までブリーフィングを行っているのだと分かった。とは云っても部屋の中に居るのはネルとアスナの両名のみ。純粋に今日のルートと最近の情報を擦り合わせる為に時間を取っていたのだ。
薄暗い部屋の中で、大型モニタの光だけが煌めき、二人の輪郭を彩っていた。端末で映像を停止させたネルは、ふんと小さく鼻を鳴らしながら腕を組み直す。
「だとしても最近、ちょっと気ぃ抜きすぎだぞ? 今回の巡廻ルート、ちゃんと頭に入ってんのか?」
「……うん、ごめん」
「確りしろ、此処が抜かれた後がねぇんだ」
同じ時間、同じ任務、同じ量を熟している筈なのにネルは疲れを見せない。実際にそうなのか、それとも純粋に見せていないだけなのか、それは分からない。だが彼女の持つ強固な意思は本物で、それを証明するかのようにネルはアスナの醜態に苦言を呈する。
「先生を守り切る為にも、鼠一匹侵入は許されねぇ」
「――……うん、そうだよね」
彼女の言葉は正しい。
そう思ったアスナは両掌で自身の頬を軽く叩き、「確りしないと」と呟いた。痛みと微かな衝撃は、寝惚けていた頭に喝を入れてくれる。しかし、それでも意識の底に泥の如くへばりついた何かは消えてくれない。
それを見ていたネルは口元を歪め、暫し沈黙を守った後、デスクを指先で二度、三度叩いて告げた。
「……おいアスナ、お前、今日の防衛任務、抜けろ」
「えっ?」
「多少休めば、その間抜け面もマシになるだろよ」
余程、自分の顔色が悪く見えたのか。まるで取り付く島もない様な口調で、彼女は立ち上がるとアスナの横を抜けて出口へと足を進めた。
「あっ、り、リーダーッ!」
椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、咄嗟に振り返って反駁しようとして、しかしネルは此方を振り返り、いつも通り勝気な笑みを浮かべて告げた。
「お前一人分の穴なんざ、アタシひとりでどうとでもなる、今日は早く寝とけって――な?」
■
「―――……」
エリドゥ中央タワー内部の廊下、ネルに促されるまま任務を外れ、割り当てられた自室で休憩する為に廊下へと出た彼女は、覚束ない足取りで歩き出す。
白い壁、宛ら病院染みた純白の内装は、無機質な蛍光灯が上から照らしているはずなのに、光は温かみを欠き、ただ床の艶やかさだけを浮かび上がらせていた。
自身の乾いた靴音が廊下に響き、目の前に広がる空間がやけに広く感じられる。それは自身の虚しさによるものか、それとも――。
「……なんでだろう」
妙に、足が重く感じた。
普段なら何て事の無い動作、何も考えずに歩けていたはずなのに、今は一歩ごとに身体が沈んでいく様な感覚さえある。
軽く弾むように駆けていた自分は、既に遥か遠い記憶の向こう側。
――楽しくない。
胸の奥底から湧き上がった感情は単純にして、余りにも明確であった。
心の奥に煌めていた色とりどりの感情が、すべて塗りつぶされてしまったように見えなくなる。壁に肩を擦りつけながら、彼女は一歩、また一歩と僅かずつ進む。
「皆と最後に遊びに行ったのって、いつだっけ……?」
ふと、アスナは脳裏に嘗ての記憶を思い浮かべようとした。既に要塞都市エリドゥに自分達が詰めるようになってから、随分と時間が経っている様に思う。
問いかけるように呟き、しかし思い出は思うように浮かんでこない。
その時得た確かな歓喜は、永遠には続かない――当然の事だ。楽しいと感じた瞬間の熱は、大切に大切に抱き締める程、その輪郭は崩れてあやふやになる。
時間を経れば減る程、まるで氷が音もなく溶けるようにして、いつの間にか消えている。此処に来て行った事と云えば、戦いに次ぐ戦い、最奥に眠る先生を守る為に、死力を尽くして戦い続けた。
過去も、今も――それ以外の記憶など、存在しない。
「カリンと映画を見に行ったり、アカネとクレープを食べに行ったり、リーダーに誘われてゲームセンター行ったの、いつだっけ……?」
思い出そうとして、アスナは自身の額に掌を当てた。記憶の断片は確かにある筈だ、けれどその思い出の鮮やかさを保つことができない。気付けば記憶は色褪せ、形を失って、ただ「あった筈」という不明瞭な影だけが残る。
足取りが、更に重さを増す。
「――ご主人様と最後に話したのは、いつだっけ?」
その瞬間、アスナの足がぴたりと止まった。
ご主人様、先生、彼が自身の名を呼びかけた時の温度、言葉の響き、込められた感情。
それすらも霧散して、記憶の中からするりと零れ落ちていく。
嘗ての記憶、鮮やかな想い出、胸がときめく様な日々、毎日が笑顔で溢れていた時間――それがもう、遠く、遥か遠くの事の様で。
現在進行形で、大切なものを一つずつ置き去りにしながら進んでいるような、そんな恐怖が足裏から少しずつ、少しずつ全身を蝕んでいく。
「……楽しくない」
ぽつりと、感情が溢れ出し、口をついた。
楽しくないよ、と。
繰り返される言葉。
それを口にした瞬間、自分の中の虚しさや切なさと云った感情が、明確に輪郭を持ち始めた。
かつて笑いながら過ごした自分の姿を思い出そうとしても、ぼやけて手が届かない。楽しいはずだった時間が、自身を構築していたあらゆる要素が、崩れていく。
立ち止まった両足から何か、目に見えない鎖や蔦の様なものが伸び、地面へと食い込んでいく様な。
「何で、こうなっちゃったんだろう」
視界の色が、どんどん抜け落ちていく。蛍光灯の光が滲んで床に淡い影を落とし、彼女の視線もまた足元に注がれた。
視界の端が揺らぎ、世界そのものが遠ざかる感覚。足を前に出すのも、声を出す事さえ、すべてが億劫で、もう何もかもどうでも良いと投げやりな感情さえ湧いて来る。
けれど、それは駄目だ。
「でも、ご主人様を、守らないと……」
そうだ、一ノ瀬アスナに残されたその「役目」だけは、確実に遂行しなければならない。
その『為さねばならぬ事』が、彼女を辛うじて現実に繋ぎとめていた。
好きな事ではない、楽しい事でもない。
それでも――やらなければならない事だから。
「皆と一緒に、戦って」
呟き、肩からぶら下げた愛銃、サプライズパーティーに手を伸ばす。
装着したスリング越しに伝わる重量、為すべき事に縋ろうととした瞬間、胸の奥に冷たい暗がりが広がった。
色褪せた世界が、急激に温度を、質感を、現実感を奪い去っていく。
揺れる視界、徐々に失われて行く光。アスナの唇が震え、額を撫でつけていた指先がぴくりと跳ねた。
「戦って……」
口にして、その言葉の空虚さに驚く。
「―――……?」
数秒、彼女は呆然とした表情で自身の足元を見下ろしていた。
思考が真っ白だった。何を考えているのかも分からなかった。ただ視界に映る自身の愛銃、見慣れた筈のそれを凝視しながら、彼女は表現できない虚脱感に襲われた。
するりと、自分の身体が何かが抜け落ちる様な。自分の一部が、塗り潰されたかのような怖気。
「戦う、って……」
そうだ、自分は戦わなければならない。
守らなければならない。
それは理解している、分かっている筈なのだ。
だと云うのに、彼女は呆然と自身の愛銃を無機質な瞳で眺める。
武器を構える感覚も、敵を睨む意思も、嘗て行っていたあらゆる動作が。
今は――。
「どう、やるんだっけ――?」
■
【第二サンクトゥム ミレニアム郊外 閉鎖地域】
「オラオラァ――ッ!」
乾いた銃声と金属の拉げる断末魔が、崩れた閉鎖地域の街並みに木霊した。
かつて様々な研究施設やモノレール、真新しい居住施設が並んでいたその場所は、今や建物から外壁が剥がれ落ち、罅割れた窓硝子が窓枠だけを残して虚ろに並んでいる。倒壊したコンクリートが歩道を塞ぎ、旧型のひしゃげた車両が錆びついた塊となって道端に転がっていた。
時折吹きすさぶ風に乗って舞い上がる砂埃、生い茂った雑草や苔が道を覆い、何とも寂しい感情を呼び起こす。
そんな街の中心でネルが両手のSMGを振り回し、迫り来る自律兵器を悉く撃ち砕いた。着弾の瞬間に火花が散り、外装甲が拉げ、内部のケーブルが液体を撒き散らしながら暴れ狂う。油の焦げる様な臭いが鼻を突き、弾痕を刻まれた自律兵器は踊るように地面をのたうち回った。
「これで、仕舞だッ!」
目に見える敵、最後の一体を蹴飛ばし、銃撃を加える。甲高い銃声と、空薬莢が地面を弾む音。無数の穴を穿たれ、光を失ったカメラを確認し、鉄屑と化した残骸を足裏で転がすネル。白煙を立ち昇らせる銃口、ジャラリと音を鳴らした鎖が外装甲を打ち、静寂が訪れた。崩れた街が一瞬だけ息を潜め、ネルは足裏の自律兵器、鉄屑となった残骸を見下ろしながら油断なく周囲を見渡す。
「っし、この辺りのは全部片付いたか、アカネ?」
「えぇ、周辺に確認されていた敵反応は全て掃討出来た様です」
愛銃を片手に、端末画面を握り締めたアカネは頷きを返す。画面に表示されていた赤い点、敵性反応はすべて消えている。たった今彼女が撃破した一体が、最後の個体だった様だ。
「取り敢えずは、これで区切りか……それにしても、凄い数だ」
「えぇ、それ程までに私達をサンクトゥムに近付けたくないのでしょう」
「それだけ敵にすれば重要な拠点って訳だな、上等じゃねぇか」
カリンが積み上がった残骸を見下ろし、所感を零す。積み上がった無数の甲鉄は、宛ら道を阻む墓標のようにも見えた。今の襲撃だけでも、それなりの規模だった。ドローンやAMASによるバックアップが無ければ、恐らく今以上の軍勢が襲い掛かって来た事だろう。C&Cの突破力はカリンも良く理解しているが、だとしても限界は存在する。少しでも早くサンクトゥムに到着し、爆破準備を進める必要があった。
「……それにしても」
ふと、アカネは指先で眼鏡を押し上げ、静かに隣を伺う。
其処にはぼうっと空を見上げ、心ここにあらずと云った様子のアスナが佇んでいた。
「アスナ先輩、大丈夫ですか?」
「え……?」
アカネは声をかけられたアスナは小さく瞬きをして、振り返った。戦闘を終えたばかりだというのに、まるで夢の途中から呼び戻されたかの如き反応だった。C&Cの全員が自身を注視している事に気付き、彼女は慌てて掌を振り告げる。
「あ、うん、大丈夫だよ? 平気だから……うん」
力なく振られる指先。答える声は頼りなく、瞳はC&Cを通してどこか遠くを見ていた様に思う。カリン、アカネ、ネルの三名は顔を見合わせ、どこか不安気な様子で呟いた。
「返事自体はするんだけれど、どうにも上の空だ、こういう事は偶にあったけれど――戦闘の時までには大抵復活していたのに、今日は妙に長引いている」
「えぇ、こういった不調でもいざ戦闘が始まると、途端に満面の笑みで飛び込んでいくのがアスナ先輩でした、今回はそんな感じでもありませんし、少々不安ですね……」
カリンとアカネの表情に影が差し、その瞳が未だ上の空のアスナを捉える。だがネルはそんな不安を鼻で笑った。
「その内勝手に復活して突っ込んでいくだろうよ、そいつはそういう奴だ、気にしても仕方がねぇ」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「誰だってムラが出る時はあンだろが、心配すんな」
ネルはそう云って軽く肩を揺すって見せる。二人はネルとアスナを交互に見つめるが、付き合いの長いリーダーがそう云うのであればと不安を呑み下した。緊張が途切れる間もなく、アカネの端末から電子音が鳴る。画面を見下ろせば、未だ射程範囲外とは云え次の敵群の反応を捉えた報告が通知されていた。
「――どうやら、サンクトゥム方向より次の部隊が接近している様です、皆さん残弾の確認を」
「はッ、雑魚が何体群がって来ようが関係ねぇ、全部ぶち壊して進んでやるよ」
「あぁ、弾薬はかなりの量を持ち込んで来た、まだ余裕がある」
アカネが持ち込んだ大型ケースの中より予備弾倉を取り出し、ネルへと放り投げる。彼女はそれを虚空で掴みながら、スカジャンの内ポケットに差し込んだ。カリンもまた愛銃のホークアイに新たな弾倉を嵌め込み、長い銃身を持ち上げる。
各々のが次の襲撃に備え、体勢を整える――その刹那。
「――……あっ」
アスナが唐突に声を上げ、ふらりと駆け出した。
「えっ、あ、ちょ、アスナ先輩!?」
「なッ、おい、馬鹿っ! どこ行くんだよ!?」
止める暇もなく、アスナはその健脚で以てぐんぐんと速度を増していく。その背中が遠ざかっていくのを見送りながら、残された三名は咄嗟に視線を通わせた。
「この状況で単独行動は、流石に危険です――後を追いましょう!」
アカネが一息にケースを持ち上げ、叫びながらアスナの後を追い始める。ネルとカリンも慌てて追走し、瓦礫を踏み砕く乾いた音が街中に響いた。
元々アスナの戦闘スタイルは、その天性の勘の鋭さを生かした強襲である。故に彼女の脚力はC&C内部でも一、二を争う程。全員が全力で追走するも、足場の悪い廃墟の公道を軽やかな足取りで飛び跳ね、跨ぎ、追いつけない。
廃棄された車両を踏み越え、大きく跳躍する彼女の背中が、アカネの網膜に焼き付いた。
遠くに、打ち立てられたサンクトゥムの巨大な影が見える。
「あちらはサンクトゥムの方向ですが、本来のルートとは大きく外れています……! アスナ先輩は、一体何を――」
「作戦無視はいつもの事だけれど、今回は私達だけの計画じゃないのに、万が一失敗すれば取り返しがつかない……!」
「チッ! 今更どうこう云っても止まらねぇだろう!? このまま後を追うぞッ!」
アスナの背は、迷いなく進んでいた。
朽ちて落下した電子看板、半壊した歩道橋、寂れ色褪せ、半壊した高層ビル群。すべてが静まり返り、見捨てられたこの世界で、ただ彼女だけがこの荒れ果てた中で何かに導かれているように足を進めていた。
「おい、アスナッ! 勝手に動くなとは云わねぇが、行先くらい伝えやがれッ!?」
アスナに負けず劣らずの脚力を持つネル、小柄な体躯を活かし全力で追い駆ける彼女は、カリンやアカネよりもアスナに肉薄し声を張り上げる。背後から飛ばされるネルの怒声、しかし彼女はそれに反応すら見せず、閉鎖地域の奥、倒壊したビル群の中心で急に足を止めた。
砂塵が舞い上がり、アスナの靴裏が地面を削る。
立ち止まったアスナは愛銃を抱えたまま、緩慢な動作で周囲を見回す。周囲には崩れた建物の残骸が積み重なり、雑草と苔に覆われ、とても何かある様には思えなかった。遠目に見える寂れたビル群の影が足元を覆い、赤黒い空も合わさって視界は悪い。
「――うん、やっぱり、此処だ」
だが、彼女は確信を持って呟いた。
この場所に、自分は足を運ばなければならなかった。
「ったく、おいアスナ――ッ」
「ごめんリーダー、此処に呼ばれた気がしたの」
「……は?」
未だ怒り収まらぬと、足を止めたアスナに大股で歩み寄るネル。しかし呟かれた言葉に彼女は呆気に取られる。彼女の声は真剣だった、少なくとも冗談で済ませられないほどの確信を持って足を運んだのだろう。
長い付き合いだ、嘘は無い、それは分かる。
「アスナ先輩……っ!」
「リーダー、無事か?」
ネルの後に駆けていた後続の二人が追いつき、荒い息をそのままに二人の傍へと歩み寄る。ネルが振り返り、二人に手を挙げると同時、アスナはある一点に視線を固定した。
「――居た」
積み上がった瓦礫片、半ば崩れ落ち内部の露出したビル群。その片隅に、誰かの気配があった。
アスナが呟き視線を向けた瞬間、空気が張り詰める。
「ッ……!」
振り返った視線の先、アスナの視線を追ってネルが瞳を向ければ、崩れたビルの影に、ひとつの人影が座り込んでいるのが分かった。
寂れ、崩落した外壁の隙間から差し込む赤い光に照らされ、その輪郭はゆらめき、まるで幻のようにも見えた。
しかし、確実存在する。ネルは即座に腰を落とし、両腕に握り締めた愛銃の引き金に指を掛けた。
「あたしの前方向に影、構えろッ!」
「ッ――!」
ネルの叫びに、アカネとカリンが即座に反応する。地面に大型のケースを打ち付け、遮蔽側にして愛銃を構えるアカネ。瓦礫片の小山を踏み締め、膝を立てながら狙撃姿勢を取るカリン。しかし、銃口を突きつけられた影は微動だにせず、動きらしい動きはない。
ただ積み上がった瓦礫の小山に腰掛け、沈黙し続けている。
暫く出方を伺っていたC&Cであったが、スコープ越しに映る影の輪郭に、カリンは呟いた。
「……見た感じ、自律兵器ではないみたいだけれど」
「なら、あれは人か?」
「少なくとも、人型ではある」
「迷い込んだ生徒か市民、でしょうか……?」
「こんな閉鎖地域にか? あり得ねぇよ」
銃口を突き出しながら、全員の目が人影に吸い寄せられる。寂れ打ち捨てられた廃墟にただ一人取り残されたような影。呆然と佇むアスナを脇に退け、愛銃を構えたまま慎重に一歩、また一歩と距離を詰めるネル。
その間も、影は動かない。何かあれば即座にカリンが狙撃で無力化するだろうという信頼もあった。故に足取りは淀みなく、互いの顔が伺える距離まで詰める。
「っ、こいつは――」
そして、瓦礫の上に座り込んだ何者かの顔が見える位置まで足を進めたネルは、意図せず声が震えた。
「……おい、これは、何の冗談だ」
冗談、というこの場に相応しくない表現が耳に届いた。
彼女らしくない対応。カリンとアカネは顔を見合わせ、各々警戒の姿勢をそのままにネルの傍まで足を進める。そしてネルと同じ場所に立った時、二人もまた彼女と同じように驚きを露にした。
「……アスナ、先輩?」
瓦礫の小山に座り込んだ存在、そこに居たのは、アスナと寸分違わぬ姿の何者か。
草臥れ、煤けたメイド服に、所々破れたタイツと解けた髪。地面一杯に広がった彼女の長髪はまるで蜘蛛の巣の如く四方に散り、俯いた瞳は瞼に覆われている。
ヘッドドレスは何処かに消え、代わりに焦げ跡の残る蒼いリボンが辛うじて胸元を彩っていた。
不思議なのは、衣服は襤褸雑巾の如く酷い有様だというのに、皮膚には汚れこそあっても、負傷の類は一切見られない点である。
「―――」
「………」
アスナと、アスナに酷似した何者か。
彼女を前にして、一同は押し黙る。
まるで、言葉を発した瞬間に何かが壊れてしまうと直感しているかのように。
廃墟の沈黙は異様に重く、誰も音を立てることが出来ない。埃と鉄錆の匂いに混じって、何か甘ったるい幻のような匂いが鼻を掠めた気がした。
「リーダー、その、これは……」
「――下がっていろ、あたしが起こす」
カリンが困惑と共に沈黙を破れば、ネルは背後の面々を掌で制し、自ら一歩を踏み出した。
散乱した足元の瓦礫片が割れる音、踏み出した靴裏が踏み締める音。即断即決、彼女らしい迷いのない言葉だった。
しかしネルの放った一言に、慌ててアカネが口を挟んだ。
「起こすって、流石に危険では……?」
「アスナの様子と云い、此処まで一直線で走って来た事と云い、流石に放っておくって選択肢はねぇだろう」
何が起こっているのか、そもそも目の目の存在は何なのか。それはネルにも分からないし、答えられるような情報は皆無である。
しかし目の前の存在を、アスナは第六感で感じ取ったのかもしれないとネルは思った。元々自分達では理解出来ない行動を取る奴だった、今回も同じ類だとネルは直感している。
ネルは座り込んだアスナに酷似した人物に近付き、その肩を掴んで揺らす。肌は柔く、温かみもあった。少なくとも、人工的なソレではない。
「おい、起きろ」
「―――……?」
揺れる身体、俯いていた顔、ネルが少しばかり強めに肩を揺らせば、薄らと瞼が開いた。
此方を見上げた瞳は虚ろで、まるで長い夢の底から引き上げられてきたばかりの様だった。煌めく深い青、空に似たそれは自分の知る友人と同色。
「あれ、私――……」
潤いを失った唇が言葉を紡ぐ。零れ落ちたのは渇き、掠れた声だった。
囁くような声、それだけで廃墟の静けさが揺らぎ、全員が驚きを重ねる。
声は、掠れてはいたが、確かに一ノ瀬アスナのものだったから。
「リーダー?」
「………」
顔を上げた彼女は、間近で見れば見る程、アスナと瓜二つに見えた。
頬に付着した煤汚れ、衣服は所々裂け、解れ、焦げ目さえ残る。だが此方を見上げるその瞳は、紛れもなく友人を映すもので。
自身をリーダーと呼ぶ、その声に思わずネルの顔が歪む。
「お前、本当に――アスナなのか?」
咄嗟に出た問い掛け。彼女はネルの口から零れた疑問に答える事無く、自身の身体を見下ろし、周囲の風景を眺め、それからネルの背後に立つ人影に目を向ける。
朽ち果てたビルの影に覆われた複数の影。見慣れたその顔ぶれが、彼女の瞳にどう映っているのかは分からなかった。
「私、何、していたんだっけ……?」
「―――」
「あ、カリン、アカネ……」
崩れ落ちたビルから二人に視線を向け、名前を呼びかける。しかし表情は変化する事無く、その口調はどこか夢心地である様に思えた。
ネル、カリン、アカネと順に辿る視線は、最後の一人に向けられる。
「それに――」
座り込み、見上げた彼女の視線が、
ネルの直ぐ傍で、此方をただじっと見つめる瞳。
硝子玉のように透明で、無垢なそれはどんな感情を秘めているのか。
自身と同じ顔、恰好、有無は衣服の損傷と多少の汚ればかり。
二人は暫しの間視線を交わし、それからふと座り込んでいた
「あ、そっか――もしかして、皆遊んでくれるの?」
「……は?」
ぱっと、能面の如き表情が変化し、喜色ばみ緩む口元。
放たれたその無邪気さは、この廃墟に囲まれた空気に全く似合わず、不気味なほど鮮やかであった。
C&Cの面々が見せた困惑に気付く事も無く、彼女は座り込んだまま皆を見上げ言葉を続ける。
「嬉しいなぁ、皆で遊びに行くなんて、いつ以来だろう? ミレニアムがまだあった頃は――……」
そう、ミレニアムがまだ存在した頃は。
そこまで口にして、アスナの言葉が唐突に止まる。視線が宙を泳ぎ、唇が次に紡ぐ言葉を探す。しかし、それは何処にも見当たらない。
「あれ」
困惑し、何かを思い出そうとする素振り。
だが掴もうとした記憶は、まるで手のひらから砂が零れるように落ちていく。彼女の中から、記憶の輪郭はすっかり消え失せていた。
「……ミレニアムって、何だっけ?」
小さな呟きに、全員が息を呑む。
ミレニアムの名前すら、彼女の中では形を留めなていない。座り込んだもう一人のアスナはぼうっとした表情のまま、しかし目の光だけが寂しげに揺れていた。
哀れみとも悲しみともつかぬ感情が胸を締めつけ、誰も言葉を返せない。いたたまれなくなったアカネが銃口を下げたまま、直ぐ前に立つアスナに問い掛けた。
「アスナ先輩、彼女は――」
「……上手く、伝えられないんだけれど」
自分に酷似した何者かを見下ろすアスナは、胸元を擦りながら、何かを堪える様に口を開き、声を絞り出す。
「『私』だけれど、【私】じゃない、何か、そんな感じ……」
彼女らしくない、明るさの消え失せた力ない声。言葉にすればするほど、心臓を掴まれるような痛みが胸を締め付けていく。
目の前の存在は、確かに自分であり、けれど決して重なることのない別の自分自身。アスナはそれを直感で理解していた。
しかし、それを説明するには余りにも複雑で、不可思議で、あやふやで、曖昧な感覚だった。
「――要領を得ませんね」
アカネの冷静な声が、その場の沈黙を破る。アカネの視線がそっと座り込んだアスナに酷似した人物から逸れ、横合いへと流れる。直視すれば、胸を抉られる様な、妙な感覚に襲われたからだ。
「おい、テメェ、アスナの顔を真似ているのかどうかも知らねぇが、戦う意思はあるのか?」
「……戦う?」
「そうだ、今お前の横に転がっているソイツを、アタシ等に向ける気はあるのかって聞いてんだよ」
ご丁寧に、同じの銃火器まで用意しやがって。
そう云って吐き捨てたネルの視線の先、座り込んだ
僅かに剥げた塗装、砂埃こそ付着しているが見間違う筈もない。
ネルが投げかけた問い掛けに、返ってくるのはどこか虚ろで、夢心地の声。惚けているのか、本気なのか、それを探る様な視線で彼女を見下ろすネルは、ぶら提げた愛銃に繋がった鎖を揺らし彼女を睨みつける。
「やり合うつもりなら、アスナの顔をしていようが、容赦はしねぇ」
「………」
ネルの言葉に目を瞬かせる彼女。座り込んだまま横合いに放置されていた銃へと目をやり、そっと手を伸ばす。伸びた指先がフレームの表面を撫でつけた。
その動作にアスナ以外のC&Cが思わず身構えるが、銃を構える素振りも、引き金に指を掛ける動きさえ無い、返って来た言葉は予想の斜め上。
「……これ、どうやって使うの?」
零れ落ちた言葉に、ネル、カリン、アカネの三名は思わず顔を見合わせ唸った。目の前の光景が、余りにも痛ましいものだったからだ。所在なさげに愛銃のグリップを指先で叩いたカリンが、何かを訴える様な視線でネルを見る。
「その、リーダー、流石にこの状態で敵対するのは、無理だと思う」
「……アスナ先輩が、特に酷い調子の状態、そのままですね」
「あぁ」
アカネもカリン同様、目前の存在を危険視できず、率直に云えば絆され掛けている。それを自覚しているが、しかしだからと云って相手の正体が分からないまま、一方的に排除出来る程非情にはなり切れない。
ネルも同様に、声を返しながら乱雑に髪を掻く。
「――クソ、何なんだコレは、意味が分からねぇ」
吐き出した悪態は、彼女の胸中をそのまま表現していた。仲間と全く同じ顔の存在が突然現れる等、想像も出来ないだろう。
ましてやそれが敵の策略ならば兎も角、そもそも戦う意思すら見せないとなると、それすら怪しく思える。
これならまだ、敵愾心に満ちた
ならばこれは、偶発的な出来事なのか――全ては憶測の域を出ない。
「私が観察した限り、明らかに演技の類ではありません、オートマタの変装にしても少々、その、真に迫り過ぎてる気がします」
「あぁ、私もアカネに同意する、味方ではないかもしれないが、少なくとも敵意は感じられない、エージェントとしては失格かもしれない、でも彼女を撃つのは、その――」
「………」
アカネとカリンの所感、座り込んだもう一人のアスナに向けられる言葉に、ネルは暫し考え込む素振りを見せる。当の本人であるアスナはぼうっと座り込んだ自分自身を見下ろしたまま、何ら反応を見せない。何かを考えているのか、或いは考えていないのか――即断即決のネルらしからぬ長考、それを経て彼女は結論を下す。
「おい、アスナ」
ぶっきらぼうにネルが名を呼ぶと、座り込んだアスナ、立ち竦むアスナ、両名が殆ど同時にネルを見た。
四つの瞳に射貫かれたネルは目を瞬かせ、それから舌打ちを零す。
「って、そうか、どっちもアスナか、面倒くせぇ……ッ!」
自身を同一人物だと認識しているのならば、その反応も当然の事。ネルは今までずっと同行していた、少なくとも本物であると確信しているアスナを指差し、告げる。
「此処まであたし等と同行していたお前の方だ、今見つけたこっちのアスナを見張っておけ、このままサンクトゥムまで突っ込む」
「まさか、ネル先輩、彼女も作戦に同行させるつもりですか?」
「――置いて行く訳にもいかねぇだろう」
アカネの驚愕と共に放たれた言葉に対し、ネルは唇を尖らせ告げた。色々と考えは巡らせたが、どれもこれも最善とは云い難い。ならばリスクは承知の上で、作戦進行を優先させるべきだと判断した。
「本当ならコイツを連れて帰って他所と情報を共有したい所だが、今は作戦行動中だ、一度撤退して再突入なんざしてみろ、絶対にサンクトゥム爆破のタイミングに間に合わねぇ、あたし等の遅れでサンクトゥムが再生したらどうする?」
「……だから、彼女を連れて作戦を続行すると?」
「今ン所、それしかねぇだろう、幸い敵対の意思はねぇみてぇだしな」
肩を竦めるネルは、そう云ってぶら提げた愛銃を揺らす、その瞳は鋭さを失わず、油断なくもう一人のアスナを捉えていた。
仮に彼女が戦闘の意思を見せたとしても、此方は四人。アスナ本人の戦闘能力と同一と仮定しても負ける要素はない。少なくともネルが一対一の場合でも、全く負ける気はしなかった。
そう断言するリーダーに、カリンとアカネは言葉を呑む。彼女がそう判断したのならば、それに従うだけだった。
「ねぇ、立てる?」
「……うん」
廃墟の隙間から、冷たい風が吹き抜けた。粉塵が舞い上がり、瓦礫の上でかすかな音を立て、二人の肌を叩く。
埃に霞む赤空の下、伸ばされる掌。それを緩慢な動作で掴み、立ち上がる。
互いの姿を確かめるように、二人のアスナが向かい合った。
一方は、仲間と共にこの場所まで駆け抜けてきたこの世界のアスナ。
もう一方は、何処から来たのかも分からず、記憶の糸を手繰り寄せることすら出来ない、
二人の視線が交わり、瓜二つの容貌が並ぶ。
「……貴女は」
問いかけようとした唇が、言葉を切った。
口を開いたのは此方の世界のアスナ、彼女はらしくもなく言葉に詰まり、逡巡する様に口元をまごつかせる。
それは、自分自身の胸に湧き上がった感情に困惑する様な。
握り締めた掌、そこから伝わる彼女の温度は暖かく――けれど同時に、精神的な冷たさを孕んでいた。
「――どうして、泣きそうな顔をしてるの?」
目の前に佇む、
彼女は投げかけられた問い掛けに目を見開くと、驚いた様に此方を見た。
知らず知らずの内に伸びた指先が、頬を撫でる。指先に触れたのは、柔らかな皮膚の感触。涙の冷たさは、何処にも存在しない。
「泣きそう?」
「うん、何か、そう見えて」
「……そう、なのかな」
困惑の声、壊れかけたガラス細工のように危ういそれ。
二人の間に言葉数は少ない、しかしそれでも分かる事がある。元々理屈を跳び越し、直感で物事を判断するのが一ノ瀬アスナだ。
互いの目を覗き込めば、分かってしまう。そこにあるのは、埋められない喪失感と、虚ろな感情。
第六感、超人的な感覚が互いを繋ぎ合わせる。垣間見える何か、消え去った記憶、途切れた日常、失われた大切な感情、そして――続けられなかった未来。
「分からない、何も、分からない、けれど――……」
記憶の断片に縋りつきながら、擦り切れ、解れ、薄汚れたメイド服を身に纏ったアスナは自身の肩を撫でつける。其処に描かれていた『
「皆の顔を見ていると、嬉しくて――でも、それと同じ位、悲しいの」
C&Cの皆、その顔を見ていると胸が躍る、嬉しくなる、満面の笑みを浮かべながら飛びつきたくなる。
けれど同じ位、何故か胸が締め付けられて、苦しくて、悲しくなる。
彼女の告白は、痛ましいほど正直だった。
嘘ではない事は分かっていた。他ならぬ、この世界のアスナにだけは、その感情が余すことなく伝わり、理解出来てしまうから。
彼女の身に何が起こったのかは分からない、何故こうなったのかは分からない。
この世界のアスナに分かる事は、目の前のボロボロの自分は、他ならぬ
そして、彼女の
「一体、何が起こっているのでしょう……?」
「さぁな、だが今のキヴォトスじゃ何が起こっても不思議じゃねぇ、こんな真っ赤な空になって、どデカイ塔まで降って来やがったんだ」
アカネの疑問に、ネルはぶっきらぼうに答えた。それこそ、その答えを知っている人物など存在するのか怪しい程。真実を知りたければ、この現象を起こした黒幕にでも直接問いかけるしかない。
「――行くぞ、そろそろ次の自律兵器と遭遇する頃合いだ」
足元に張り付いた影が、赤い空の光を受けて歪んでいた。廃墟の奥から吹き込む風が、どこか湿った鉄の臭いを運んでくる。
ネルはその中を、自ら率先して進み出す。彼女の後に、鎖の擦れ合う金属音が木霊した。
アカネとカリンが二人のアスナに視線を向け、彼女達は手を握り締めたままネルの後に続き一歩を踏み出す。足取りは、決して軽やかなものではなかった。目に見えない何かに引きずられるような、逃れられぬ運命をなぞるように、一歩ごとに重く刻まれていく足跡。
そんな二人の後に、アカネとカリンが続く。その瞳には微かな不安が除いていたが、選択は変えられない。
「………」
ぼうっと、手を引かれるがままに歩く
敵対を選ばなかった道、銃火を交えなかった守護者。
その道が何処に続いているのかは――まだ、誰も知らない。